『魂の暦』第06週、朗読に不向きな翻訳
復活祭後;第06週
1912年5月12日~18日
Es ist erstanden aus der Eigenheit
それは固有性から復活し終えた
Mein Selbst und findet sich
私の自分が、そしてその自分は自らを見出す
Als Weltenoffenbarung
世界の開示として
In Zeit- und Raumeskräften;
時間と空間の諸力の中で;
Die Welt, sie zeigt mir überall
世界、それは私にいたる所で示す
Als göttlich Urbild
神的な原像として
Des eignen Abbilds Wahrheit.
固有の似像の真理を。
前半の中心は「私の自分」です。その「自分」が「固有性」から復活し、また自身を世界の開示であると知るわけです。
ここで使われている Eigenheit や Selbst は地上的な狭い自分を現す際に使われることが多い単語です。そして、この週ではそのSelbst=自分がその固有性をいわば克服するのです。そしてその地上的な意味でのSelbst=自分を、「時間と空間の諸力の中で」つまり地上的環境の中で、世界の開示として再発見するのです。
ゲーテがファウストのほぼ最後で述べた「移ろいゆくものはすべて喩えに過ぎない」という一言に表現されているように、感覚界のすべては霊的なものの喩えです。その意味で、地上的なSelbst=自分を「世界の開示」として再発見するのです。
私にはこの「世界の開示」という表現も重要と思われます。本来の世界開示の行為者は高次存在、あるいは神です。その世界開示のプロセスの似像に自分が相当することがわかる、という可能性が読み取れるからです。そのことは、この開示が単に「時間と空間の中で」行われるのではなく、「時間と空間の諸力の中で」行われる点にも現れています。
別な言葉で言うと、
「人間は神の似像」と言うだけでなく、
さらに「諸力を操り創造する人間は創造する神の似像」
なのです。
後半の3行はDie Welt=世界についての描写です。この文は完全な文にはなっていません。「世界」と言った後でそれを関係代名詞で受けて、その世界について説明しているだけです。つまり、従文節はあるのに主文節がありません。その世界が私に「神的な原像として、固有の似像の真理を」示すというのです。
まず私に与えられているのは「似像」です。そして、その元となる真理が私に示されます。真理とは「一なるもの」であるにしろ、その表現は多様でありえます。たとえば「愛」という理念が個別なケースでは違った姿で現れうることを思い出してみてください。つまり、具体化したものはすべてその人に固有の「似像」にすぎません。しかし、その似像の真の姿、つまり原像を世界が示してくれるのです。しかも、その原像は神によるものです。
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