2019年5月26日日曜日

『魂の暦』第06週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第06週、朗読に不向きな翻訳



復活祭後;第06週

1912年5月12日~18日
Es ist erstanden aus der Eigenheit
   それは固有性から復活し終えた
Mein Selbst und findet sich
   私の自分が、そしてその自分は自らを見出す
Als Weltenoffenbarung
   世界の開示として
In Zeit- und Raumeskräften;
   時間と空間の諸力の中で;
Die Welt, sie zeigt mir überall
   世界、それは私にいたる所で示す
Als göttlich Urbild
   神的な原像として
Des eignen Abbilds Wahrheit.
   固有の似像の真理を。

前半の中心は「私の自分」です。その「自分」が「固有性」から復活し、また自身を世界の開示であると知るわけです。
ここで使われている Eigenheit や Selbst は地上的な狭い自分を現す際に使われることが多い単語です。そして、この週ではそのSelbst=自分がその固有性をいわば克服するのです。そしてその地上的な意味でのSelbst=自分を、「時間と空間の諸力の中で」つまり地上的環境の中で、世界の開示として再発見するのです。
ゲーテがファウストのほぼ最後で述べた「移ろいゆくものはすべて喩えに過ぎない」という一言に表現されているように、感覚界のすべては霊的なものの喩えです。その意味で、地上的なSelbst=自分を「世界の開示」として再発見するのです。
私にはこの「世界の開示」という表現も重要と思われます。本来の世界開示の行為者は高次存在、あるいは神です。その世界開示のプロセスの似像に自分が相当することがわかる、という可能性が読み取れるからです。そのことは、この開示が単に「時間と空間の中で」行われるのではなく、「時間と空間の諸力の中で」行われる点にも現れています。
別な言葉で言うと、
「人間は神の似像」と言うだけでなく、
さらに「諸力を操り創造する人間は創造する神の似像」
なのです。

後半の3行はDie Welt=世界についての描写です。この文は完全な文にはなっていません。「世界」と言った後でそれを関係代名詞で受けて、その世界について説明しているだけです。つまり、従文節はあるのに主文節がありません。その世界が私に「神的な原像として、固有の似像の真理を」示すというのです。
まず私に与えられているのは「似像」です。そして、その元となる真理が私に示されます。真理とは「一なるもの」であるにしろ、その表現は多様でありえます。たとえば「愛」という理念が個別なケースでは違った姿で現れうることを思い出してみてください。つまり、具体化したものはすべてその人に固有の「似像」にすぎません。しかし、その似像の真の姿、つまり原像を世界が示してくれるのです。しかも、その原像は神によるものです。

2019年5月19日日曜日

『魂の暦』第05週、朗読に不向きな翻訳


復活祭後;第05週

1912年5月5日~5月11日
Im Lichte, das aus Geistestiefen
     光の中で、その光とは霊の深みからのもので
Im Raume fruchtbar webend
     空間の中で実り豊かに織りなしつつ
     (前版の「揺れ動きは誤訳)
Der Götter Schaffen offebart:
     神々による創造を開示する:
In ihm erscheint der Seele Wesen
     その光の中で魂の本質が現れ
Geweitet zu dem Weltensein
     世界存在へと広がった
Und auferstanden
     そして復活した
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
     狭き自分性という内的力から

第4週では感受が主役で、そこに光が一体化すると表現されていました。この第5週はそうした光が中心になって詩が展開します。そこでの中心テーマは「光の中に魂の本質が現れる」点で、そこにさまざまな状況が加わります。
前半3行では、この光の様子が次のように表現されます。
  1. 霊の深みに由来する
  2. 空間を実り豊かに織りなす
  3. 神々の創造を開示する

1.からは、この光が霊的な光であることが示唆されます。
そして、2.では実り豊かな作用をおよぼしますので、物理的な意味での光でもあるでしょう。光が植物の成長を促す力を持っていることを思い起こさせます。
3.では、この光によって神々の創造が開示されるとあります。これには二重の意味を感じます。まず、光によって森羅万象が目に見えるようになりますから、「光によって被造物が開示する」というイメージです。しかし、それだけではなくさらに深い意味も考えられます。つまり「霊的な光によって神々の創造行為そのもの」が開示するのです。
被造物だけでなく、創造が開示される。

後半ではこの霊の深みから発した光に、魂の本質が現れます。「開示」に比べ「現れる」は軽い表現で、さらっとそこに出てくる感じです。その魂の本質については次の2つのことが語られます。
  1. 世界存在へと広がること
  2. 復活したこと

1.では、魂の本質がこの春の光に満ちた季節に、地上世界の隅々に広がっていくというイメージはすぐにつくれるかもしれません。しかし、それだけの意味ではなく、地上世界の他に霊的世界をも含んでいるように思われます。その根拠は次行と関係します。
2.の「復活」は auferstanden と表現されています。これは非常に強い表現で、主にキリストの復活で用いられます。つまり、キリストの復活に準えるかたちで魂の本質が狭き自分性から復活するというのです。そしてキリストの復活では、キリストが地上だけでなく、霊界にも光をもたらしています。それゆえ前行で魂の本質が広がり向かう世界存在とは、地上世界を意味するのではなく、霊的世界も含むはずです。
ここで「狭き」と先の「広がる」が対比されていて、光の中で息づく魂の様子が感じられます。

5行目をはたりえこ氏が「宇宙的な存在へと聖化され」としている部分は、geweitet=広がったを geweiht(weihen=聖化する、の過去分詞形)と勘違いしたための単純な誤訳と思われます。

「weben」を「beben」と勘違いした誤訳を木村美雪さんにご指摘いただきました。

2019年5月12日日曜日

『魂の暦』第48週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第48週、朗読に不向きな翻訳
1913年3月2日~3月8日

Im Lichte, das aus Weltenhöhen
  光の中で、 その光は世界高みから
Der Seele machtvoll fliessen will,
  魂に威力十分に流れ込まんとする、
Erscheine, lösend Seelenrätsel,
  魂的謎を解きつつ、現れよ
Des Weltendenkens Sicherheit,
  世界思考という確実さが、
Versammelnd seiner Strahlen Macht,
  世界思考の放射の威力を集めつつ、
Im Menschenherzen Leibe weckend.
  人的心の中に愛を目覚めさせつつ。

骨組みに当たる主たる文に挿入的内容が組み込まれています。それについてのシュタイナーの意図まではつかめません。
骨組みは「光の中に、確実さが、現われよ」です。
その「光」は「世界の高みから、魂に威力十分に流れ込まんとする(光)」によって修飾されますし、「現れよ」には「魂的謎を解きつつ」が付帯し、「確実さ」を「世界思想という」が修飾します。
終わりの2行もそれぞれ修飾句で、時間的、空間的、論理的な関連性を示すことなく、単に状況が併記される印象があります。冒頭の「光の中で」はこの詩全体につながるので、「世界思考の放射の威力を集めつつ」も「人的心の中に愛を目覚めさせつつ」もこの光の中で行われると捉えられます。

意味のつながりを重視して語順を入れ替えると、次のようになります。

世界の高みから魂に威力十分に流れ込まんとする光の中に、
魂的謎を解きつつ、
世界思考という確実さが現れよ、
世界思考の放射の威力を集めつつ、
人的心の中に愛を目覚めさせつつ。

『魂の暦』第47週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第47週、朗読に不向きな翻訳

1913年2月23日~3月1日

Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
  世界母膝から発生しようとしている、
Den Sinnenschein erquickend, Werdelust.
  感覚仮象をリフレッシュさせつつ、生成快が。
Sie finde meines Denkens Kraft
  生成快は私の思考の力を見出す
Gerüstet durch die Gotteskräfte,
  神諸力によって内支えされているのを、
Die kräftig mir im Innern leben.
  そしてその神諸力は私において内側で力強く生きている。

最初の2行の主役は「生成快」です。これは私の「快」ではなく、何かが出来上がっていくこと自体の快感と言えるでしょう。そして、この季節からは生成快がますます活発になっていきます。それがまさに世界=外界から生まれ出ようとしていて、さらには種々の感覚界の物体=仮象をリフレッシュさせていきます。
さらにはその生成快に思考の力が出会うように促します。そしてその私の思考の力は、私の中に力強く生きている神諸力によって内支えされているのです。また、そうした支えがあるのは、冬の内的な体験があってこそです。

意味に着目して語順を変えてみましょう。

 生成快が、感覚仮象をリフレッシュさせつつ、
 世界母膝から発生しようとしている。
 生成快は
 私の内側で力強く生きている神諸力によって
 私の思考の力が内支えされているのを見出す。

『魂の暦』第46週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第46週、朗読に不向きな翻訳
1913年2月16日~2月22日

Die Welt, sie drohet zu betäuben
  世界、それは(2行目)を麻痺させようと脅かす
Der Seele eingebor'ne Kraft;
  魂に生まれた力を;
Nun trete du, Erinnerung,
  ここで現れ出よ、記憶よ、
Aus Geistestiefen leuchtend auf
  霊深から照らしつつ
Und stärke mir das Schauen,
  そして私を観ることにおいて強めよ、
Das nur durch Willenskräfte
  その観ることとは意志諸力によってのみ
Sich selbst erhalten kann.
  自身を保つことができる。

この第46週では内と外とで一種の緊張関係が生じます。外界である世界が魂に生まれた力を麻痺させようと脅かすというのです。外界では春先の花が咲き始め、人間は外界にばかり気が向くようになる可能性があります。それが度を過ぎますと、内からの力が圧倒されてしまいます。
そこで記憶を召喚します。霊深から上がってきて内的に明るさをもたらすことを願います。そして「観ること」を強めることを期待します。これは内的支えがないと、どうしても外界に引っ張られ、「目を奪われる」状態になりがちなのです。そうではなく、外界を観つつも、そこでの生成に参与する力を持たなくてはなりません。そしてそれは意志の力によってのみ行うことができるのです。

『魂の暦』第45週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第45週、朗読に不向きな翻訳
1913年2月9日~2月15日

Es festigt sich Gedankenmacht
  思考結果威力は確かなものとなる
Im Bunde mit der Geistgeburt,
  霊誕生との結合において、
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
  思考結果威力は感覚のぼんやりとした刺激を明るくする
Zur vollen Klarheit auf.
  まったき明晰さへと。
Wenn Seelenfülle
  もし魂的湧出が
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
  世界生成と一体にならんとするなら、
Muß Sinnesoffenbarung
  感覚開示は
Des Denkens Licht empfangen.
  思考の光を受け取らなくてはならない

またもや「思考結果威力」などというとんでもない日本語で始まります。何回も述べますが、この「思考結果」というのは人間の思考の結果だけではありません。精神界そのものが考え出した結果、つまり森羅万象の諸法則であり、ここではその森羅万象を実現する威力の方にフォーカスされています。この思考結果に存する威力は宇宙思考においては非常に明確ではあるものの、人間ではその存在を自覚すらしていない人がほとんどです。それでも、霊誕生とのつながりでそれが確実なものになります。

3、4行目ではその思考結果威力がぼんやりとした感覚刺激を完全な明晰さにもたらします。そもそも感覚刺激の側からは諸法則といった霊的なものはまったく伝わってきません。その意味で「ぼんやり」していますし、けっしてそれ自体で明晰になることはありません。明晰さを得るには思考の側からの働きかけが不可欠です。霊の側から生じた思考結果威力には前にも述べたように森羅万象の法則性も含まれますから、外界から受け取った感覚刺激を適切に意味付けることができるのです。

4行目から8行目ではまた別な側面が語られます。世界創造には人間の参与が不可欠ですし、そのためには人間の魂的活動が必要になります。しかし、この活動も闇雲なものであっては無意味です。世界創造、世界生成と一体となり、それに資するように働かなくてはなりません。ちょうどゲーテが実際の植物を観ながら、形成法則に従ったかたちで内的に植物を形成したように、感覚に開示するもののなかから法則的なものを思考の力によって取り出さなくてはなりません。

『魂の暦』第44週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第44週、朗読に不向きな翻訳
1913年2月2日~2月8日

Ergreifend neue Sinnesreize
  新たな感覚刺激を掴み取りつつ
Erfüllet Seelenklarheit,
  魂的明晰さが(最終行の創造意志に)満たされよ、
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
  成し遂げられた霊誕生を思い、
Verwirrend sprossend Weltenwerden
  もつれながら世界生成が伸びつつ
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
  私の思考の創造意志によって(満たされよ@2行目)。

第31週ではぼんやりとしたものになり、37週には闇となった「感覚」が42週で開示へと向かい、44週では「感覚刺激」として人間に作用し、人間はそれを掴み取ります。第2行目から5行目の文の骨格は、「魂的明晰さが私の思考の創造意志に満たされよ」です。そしてこの部分にはルドルフ・シュタイナーの認識と危機感が現れています。現代人は自然界における創造を「自然が行っている他人事」と感じ、せいぜいそれを研究対象として認識しようとするくらいです。しかしルドルフ・シュタイナーはそうした自然創造に人間が参与しているし、そこに人間が力を注ぐ必要があると認識していました。現代人はすでに内的に自然と分離してしまっています。その点についての認識を改め、世界創造に寄与していく気概が求められています。

『魂の暦』第43週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第43週、朗読に不向きな翻訳


1913年1月26日~2月1日


In wintrelichen Tiefen

  冬的な深みの中で

Erwarmt des Geisetes wahres Sein;

  霊の真の存在が温まる

Es gibt dem Weltenscheine

  その真の存在は世界仮象に与える

Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;

  心力を介して実在威力を;

Der Weltenkälte trotzt erstarkend

  世界冷にもかかわらず、(次行を)強めつつ

Das Seelenfeuer im Menscheninnern.

  魂火を人間内面で。


第43週の内容は比較的理解しやすいと思います。

それでも特に注目したいのは第2行目のSeinと3行目のWeltenscheinの対比です。Seinとは存在そのものであり、それに対するScheinとは見かけだけで真の存在ではないものを意味します。つまり、霊の側はリアルな存在であり、物質界(世界)の。は仮象です。その仮象に実在威力を与えてくれるのですが、それを仲介するのが心力です。この状況をイメージしますと、宇宙における人間の役割の大きさが伝わってきます。そして、冷たい世界の中で、魂の火は強まっていきます。そう、人間は何らかの霊的真実を認識したとき、その実現に向けて燃えるものです。


『魂の暦』第42週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第42週、朗読に不向きな翻訳

1913年1月19日~1月25日

Es ist in diesem Winterdunkel
  この暗冬の中で
Die Offenbarung eigner Kraft
  自身の力の開示とは
Der Seele starker Trieb,
  魂の強き伸び芽(衝動)である、
In Finsternisse sie zu lenken
  (その衝動の内容は)暗闇の中に開示の力を導くこと
Und ahnend vorzufühlen,
  そして予感しつつ事前に感じること
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.
  心熱を介して感覚開示を

前半3行の骨格は「開示は伸び芽である」です。それを修飾して「自身の力の開示は、魂の強き伸び芽である」になります。1行目は仮の主語のEsから始まり、「この暗冬の中で」に続きます。
3行目以降は伸び芽(衝動)の内容が2つ描かれます。
一つは暗闇の中で開示をコントロールすること、もう一つは心熱を介して感覚開示を予感しつつ事前に感じることです。この時点では「感覚開示」はまだ現れていません。まだ芽生えにすぎません。双葉を見てそれがどのような花に展開するのかを想像するように、魂根底で火として受け取った世界語(第40週)がどのように展開しうるかを感じ取りますし、そのためには自らの心の熱が必要になるのです。

『魂の暦』第41週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第41週、朗読に不向きな翻訳

1913年1月12日~1月18日

Der Seele Schaffensmacht,
  魂の創造威力
Sie strebet aus dem Herzensgrunde,
  それは心根底から努力する
Im Menschenleben Götterkräfte
  人間生の中で神々諸力を
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
  正しい働きへと点火することを
Sich selber zu gestalten
  自分自身を形成するように
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
  人間愛の中、そして人間作品の中で

前週は魂根底が宇宙語の火力で満たされました。それに続いて今週は「魂の創造威力」が主題となります。それが心根底から2つのことに力を注ぎます。
人間生において、つまり日々の活動の中で神々諸力を正しい働きへと点火すること、
魂の創造威力そのものを、人間愛と人間作品の中に盛り込んで形成すること
の2つです。
説明を要さないくらいシンプルではないでしょうか。


『魂の暦』第40週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第40週、朗読に不向きな翻訳
1913年1月5日~1月11日

Und bin ich in den Geistestiefen,
  そして私は深霊にいる、
Erfüllt in meinen Seelengründen
  私の魂根底において満たす
Aus Herzens Liebewelten
  心の愛界からの
Der Eigenheiten leerer Wahn
  自己固有性という空虚なる妄想が
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
  自身を世界語の火力で。

1行目は、
 今、私は霊の深いところにいる
ですし、2行目以降の骨組みは
 妄想が、(宇宙語の)火力に、満たされる
となります。そしてそこに幾つかの装飾が付きます。
「妄想」は「空虚」で、「自己固有性」と言えるものです。
また「満たされる」の状況として、「心の愛界からの魂の根底」において満たされます。つまり、3行目の「心の愛界からの」は魂根底の出所と解釈しています。誰の魂もその根底は愛の世界を起源としているというのは、美しいイメージではないでしょうか。

さて、この週で私は霊界の深みに達し、まず自己固有性など空疎であると知り、そこに宇宙語の火力を受けます。自己の固有性が空疎であると言っても、人間が無個性だと言うのではありません。むしろ、各人がどのような霊性と親和し、どのような霊性を受け止めるかということによって個性が生じると言えるでしょう。私を満たす霊性が私を築いていくのです。これはある意味では聖母マリアの存在と似ているでしょう。マリアはイエスを身ごもるにふさわしい女性であったという意味で、確かに受胎以前も高貴な人物であったかもしれません。しかし、マリアがマリアであることの本質は、マリアがイエスを身ごもった点にあります。高貴な存在を受け入れることでマリアはマリアになったのです。それと同様に、誰しもが自分と結びつくべき高貴な霊的なものを受け入れるなら、その意味で「その人」になるのです。そして、ここで受け入れるのは「世界語の火力」です。宇宙進化の土星紀がトローネの熱から始まったように、私たちはここで「火力」に満たされるのです。

『魂の暦』第39週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第39週、朗読に不向きな翻訳
1912年12月29日~1月4日

An Geistesoffenbarung hingegeben
  霊開示に身を委ねつつ
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
  私は世界存在の光を勝ち取る
Gedankenkraft, sie wächst
  思考結果の力、それは育ち
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
  自らを私に明らかにしつつ、自らを私に与える
Und weckend löst sich mir
  そして目覚めさせつつ私に対し
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
  自己感情が思考者威力から離れる

骨組みを見ると、最初の2行では「私が光を勝ち取る」で、その光とは「世界存在の光」であり、受け取る当たって私は「霊開示に身を委ねている」ことになります。この「身を委ねる」という表現からは、このときの私の意識が明確ではなかったことが感じ取れます。そして最後の行では「自己感情が思考者威力から離れる」となっています。ここで「思考者威力」などという変な語を使っていますけれど、これはDenker(思考者) とMacht(威力、存在することで影響を及ぼす力) を組み合わせたシュタイナー造語の直訳です。既存の翻訳でこのDenker=思考者のニュアンスを訳しているものはありません。ここではそれについて考えられる可能性を述べておきます。

自然界の森羅万象は宇宙的である「考え(思考結果)」に沿って創造されますし、それに必要な創造の諸力はすでにその「考え」が内包しています。繰り返しになりますが、私たちの思考はそうした宇宙的考えの写しに過ぎず、そこには森羅万象の法則性はあるものの創造の力は失われています。
さて、この宇宙的考えも考えられた産物ですから、それを考える思考者が存在しますし、それは霊界の高次の領域に属しています。人間がそうした高次の思考者と一体になるためには完全なる帰依が必要で「私」的要素はすべて滅却しなくてはなりません。ところが、そこでの体験を元に地上界で何かを実現していこうとするなら、そうした高次の存在とは離れ、自分に戻る必要があるのです。その意味でこの第39週の詩は霊界の高次の存在と一体にあった後の経過が表現されているはずです。
第3行目では「思考結果の力」について述べられます。森羅万象を創造しうる宇宙的考えが育つのです。そして宇宙的考えの力を私に明らかにしてくれ、さらにそれ自身を人間である私に与えてくれます。人間はいわばこの力の痕跡を持っていて、それを芸術的創造に向け、『自由の哲学』で述べられる道徳的ファンタジーとして具体的に何かを創造していくのです。

『魂の暦』第38週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第38週、朗読に不向きな翻訳

聖夜の雰囲気
1912年12月22日~12月28日
Weihe-Nacht-Stimmung

Ich fühle wie entzaubert
  魔法を解かれたかのように私は感じる
Das Geisteskind im Seelenschoß;
  魂の膝の中に霊児を;
Es hat in Herzenshelligkeit
  心の明るみの中で
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
  聖なる世界語は作り出した
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
  希望という天界果実を、
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
  それは歓喜しつつ世界遠方で育つ
Aus meines Wesens Gottesgrund.
  私の存在という神根底から

まず「私は霊児を感じる」が文の骨格です。その霊児を私の魂の膝の中に感じるのです。既存の翻訳では「膝の中」というあまり詩的ではない語を避けて「胎内」としている場合が多いのですが、クリスマスです。クリスマスに「胎内」はありえません。
次の3、4、5行目のドイツ語では不思議なことが起こります。3行目はEs(それ)で始まります。ここまでを普通に読んできますとこの Es は中性名詞の代名詞で、2行目の霊児を代行していると捉えます。すると、3、4行目は「それ(霊児)は心の明るみの中で聖なる世界語を作り出した」という意味として解釈します。方向としては「霊児が世界語を作る」という関係です。ところが5行目に入りますと「天界果実(Himmelsfrucht)」が現れ、これが文法的にどこにも繋がらなくなってしまいます。ちなみに、「der Hoffnung」は2格で天界果実を修飾しますから、いわばおまけです。
この部分を文法的にきちんと繋げるためには、3行目のEsを仮の主語と解釈し、「世界語が天界果実を作り出した」と捉えなくてはなりません。3、4行目では霊児が世界語を作る関係と思われたものが5行目で逆転して世界語が天界果実を作る関係になります。
6、7行目は天界果実の成長の方向性を示します。それは世界遠方で育ちますし、その根源は私の存在であり、その私の存在が結びついた神根底なのです。

『魂の暦』第37週、朗読に不向きな翻訳

復活祭後;第37週

1912年12月15日~12月21日

Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
  世界冬夜に霊光を運ぶために
Erstrebet selig meines Herzens Trieb,
  私の心の伸び芽が至福において努力する
Daß leuchtend Seelenkeime
  魂芽が照らしつつ
In Weltengründen wurzeln,
  世界根底に根付き、
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
  感覚闇の中で神語を
Verklärend alles Sein durchtönt.
  解明しつつすべての存在に通し響く

先週第36週には行為のゴールにあった霊光を冬の夜の状態にある世界に運ぶことが今週の目標になります。その霊光を運ぶのは私の心の伸び芽であり、それが3行目以降の内容を目指します。

まず魂芽が光を担い、それが一方で世界根底、つまりすべての霊的根源に根付いています。無限遠にある無限の力かつ無限の叡智から力を受け取るのです。

そして芽が伸びる先、つまり感覚界の方ではすべての存在に神語を響かせます。それまでは「光」が中心であったものが、ここでは「響き」に変容します。「響き」には光よりも深くに作用し、相手を揺すぶる強さがあります。神語は当然世界根底の方からやって来て、それを感覚界に響かせますし、その仲介をするのは魂芽です。つまり、響きはこの魂芽を伝わってくるはずです。
ここではdurchtönt という語が使われます。durch は「通す、貫く」 で tönt(不定形 tönen)は「鳴らす、響かす」です。「通す」には3通りの意味が考えられます。
 1. 存在を貫くイメージ、
 2. 芽を貫き通るイメージ、
 3. その両者
私は3を推しますが、多くの場合は1と解釈されることが多いので、あえて「通し響く」と2の可能性を残した訳にしました。

『魂の暦』第36週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第36週、朗読に不向きな翻訳
冬:1912年12月8日~12月14日

In meines Wesens Tiefen spricht
  私の本質の深みで 語る
Zur Offenbarung drängend
  開示へと迫りつつ
Geheimnisvoll das Weltenwort:
  秘密に満ちて 世界語が:  
Erfülle deiner Arbeit Ziele
  お前の仕事のゴールを
Mit meinem Geisteslichte,
  私の霊光で満たせ、
Zu opfern dich durch mich.
  私を通してお前を犠牲として捧げるために

前半の骨組みは「世界語が語る」です。この世界語とは、森羅万象のそれぞれの設計図とも言うべき法則性とそれを実現する実効的力を内包しています。そして、通常は語りません。必要とされる内容に従って実効するのみです。しかし、ただ一つの場においてそれは語り出します。人間の本質の深みにおいてです。
そして後半の3行は、その世界語が語る内容です。そして人間の意志のあり方を教えてくれます。「今やりたいこと」が問題なのではありません。やろうとしていることの結果が霊的な光で満たされているかが重要なのです。そして光によって植物が育つように、その働きを受けることによって、受けた側に成長の力が湧き上がってくるのです。
しかしそうした意志行為で行われるのは、上っ面だけの自己実現ではありません。それとは正反対とも言える自己犠牲の成就を目指します。この自己犠牲こそが最高の自己実現である可能性はあります。名オーケストラの一員として楽器を奏でている状態がその喩えかもしれません。音楽全体の流れの中に居て、日常的な個を表現する必要などありません。表面的には目立たなくても、演奏家として最高のものを実現できる瞬間です。

『魂の暦』第35週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第35週、朗読に不向きな翻訳


1912年12月1日~12月7日

Kann ich das Sein erkennen,
  私は存在を認識できるか、
Daß es sich wiederfindet
  存在が再び立ち直るのを
Im Seelenschaffensdrange?
  魂的創造衝動の中で?
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n,
  私は感じる、私に力が授けられたことを
Das eigne Selbst dem Weltenselbst
  固有の自己を世界自己に
Als Glied bescheiden einzuleben.
  分枝として慎ましく入り込んで生きる力を。

第35週は比較的すっきりとした構造で、文の骨組みもわかりやすいでしょう。前半3行は「存在を認識できるか?」という疑問文です。その後により細かい状況が描写されます。つまり、「再び」と「魂的創造衝動の中」という条件が付きます。
ただし、「存在」と訳した定冠詞付きの das Sein、いわば存在そのものが何を指すのかはかなり曖昧です。こうしたところでも創造的想像力を育てることができます。そして、それを認識する場が「魂的創造衝動」だと言います。これは場所というよりは行為に関係するニュアンスですし、私の中に創造的行為への熱を作り出している瞬間にだけ現れます。

そして後半は「認識」から「感じる」に雰囲気が変わります。「自身の自己を世界自己に分枝として合流させる」というのは、まさに創造の際の原体験です。ゲーテは原植物という理念が実際に力を持ち、それが個別の植物を創造するプロセスを共体験していました。彼の創造衝動が自然の創造行為と合流していたからです。それを可能にする力を授けられているのを人間はまず、感じるのです。

『魂の暦』第34週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第34週、朗読に不向きな翻訳

1912年11月24日~11月30日

Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
  古く守り置かれたものを神秘な仕方で
Mit neu erstandnem Eigensein
  新たに復活した個的存在とともに
Im Innern sich belebend fühlen:
  内において活性化するのを感じろ:
Es soll erweckend Weltenkräfte
  それは目覚めさる作用をしつつ世界諸力を
In meines Lebens Außenwerk ergießen
  私の生活という外的作品の中に注ぎ込むはずであり
Und werdend mich ins Dasein prägen.
  なりつつ私を存在へと刻み込むはずである

前半3行の骨組みは、主語のない命令形の文で
 「古く守り置かれたものを感じろ」
です。
さらにそこに、「神秘な仕方で」、「新たに復活した個的存在とともに」、「守り置かれたものが活性化するのを」が感じろに加わります。
後半3行は、
 「世界諸力を注ぎ込む」と「世界諸力を刻み込む」の2つが骨組みです。
注ぎ込む方は「私の生活という外的作品に」注ぎ込み、刻み込む方は「存在へと」刻み込みます。

この詩の前半は「内」、後半は「内から外」が舞台です。第32週は「内」の内容で、第33週が「外」の内容でした。ですから、この復活という語が現れる第34週(今週)は、それらが総合された内容です。
そこでまず、「内」の内容を見ると、春から夏にかけて外界から受け取ったものを指すと思われる「古く守り置かれたもの」を「復活した個的存在」と共に活性化されます。
毎回のことですけれど、ルドルフ・シュタイナーの詩ではすべてが理念的表現で、具体的な内容は登場しません。「古く守り置かれたもの」と言われても、具体的な内容は各自が、毎年違ったかたちで創造的に想像しなくてはなりません。この「理念的なものから個別的、具体的なものを創造的に想像する能力」が人類には不可欠ですし、これが萎えていることが物質主義全盛の原因とも言えます。その意味で、この『魂のこよみ』もルドルフ・シュタイナーによる人類救済のツールと言えます。
こうして内面が活性化されますと、今度は「外」の世界諸力が「私の生活という外的作品」に刻み込まれます。ここで「生活」と訳したLebenは、人生、生命、営み、生活といった意味があります。ここでは「外」が意識されるので「生活」という訳語を選択しました。また、「作品」はWerkの訳語ですが、第31週には「人間の業績」と訳したMenschenwerkという単語が登場していて、Werkが人間から外界へと、つまりより外向きに移り変わっていることがわかります。

前の第33週で世界の虚無性を見てとった後、この週では「復活」が語られます。33とは、イエスがゴルゴタに掲げられたときの年齢です。その最後の3年間は、そこにキリストが受肉していました。とりあえず私が気づいたのはそうした「33」という数字との関連で、その先までは見えていません。

『魂の暦』第33週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第33週、朗読に不向きな翻訳
1912年11月17日~11月23日

So fühl ich erst die Welt,
  そうして初めて私は世界を感じる、
Die außer meiner Seele Miterleben
  それは私の魂の共体験の外側で
An sich nur frostig leeres Leben
  それ自体では単に凍りつく空虚な営み
Und ohne Macht sich offenbarend
  そして威力を伴わず、自らを開示しつつ
In Seelen sich von neuem schaffend
  魂内で自らを新たなものから創造しつつ
In sich den Tod nur finden könnte.
  それ自体の内には死のみを見出しうるという。

文としての骨組みは、「私は世界を感じる」だけです。そして2行目からはその「世界」を修飾する副文が最後まで続きます。
この文がかなり修飾的でどこへ行きたいのかわかりにくいです。
その骨組みは第2行の冒頭の関係代名詞 Die と第6行がつながったもので、次のようになります。
  世界は、それ自体の内には死を見出しうるのみという。

そして第2行目から第5行目まで「世界」を修飾する字句が並びます。内容は魂の外と中という2つの状況での状態です。私の魂の外が2,3,4行目で、魂内が5行目です。
外側では、
「それ自体では単に凍りつく空虚な営み」であり、「力なく自らを開示」する状態です。

ところが魂内では状況が異なります。「新たなものから創造しつつ」とされ、いわば一筋の光明が見えます。世界だけでは死のみを見出しうるものが、魂内では命を持つのです。
実際ルドルフ・シュタイナーは、人間の魂と世界は分離しているのではなく、人間魂による世界への参与、人間魂による世界への力づけがなくては宇宙的意味での進化はありえないと述べています。そうした人間魂から世界への力づけを最も強く感じ取るのがこの週なのかもしれません。

『魂の暦』第26週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第26週、朗読に不向きな翻訳

復活祭後;第26週

ミカエル祭のしらべ
ミカエル祭 9月29日
1912年9月29日~10月5日

Natur, dein mütterliches Sein,
  自然よ、その母性的存在よ
Ich trage es in meinem Willenswesen;
  私はそれを私の意志本性に担う
Und meines Willens Feuermacht,
  そして私の意志の炎の威力、
Sie stählet meines Geiste Triebe,
  それは私の霊的な伸び芽を鍛え
Daß sie gebären Selbstgefühl
  その芽が自己感情を生み出す
Zu tragen mich in mir.
  私の中で私を支えるために

春から夏にかけて人間は外界の自然の中に眠り込んでいます。ところが秋分を過ぎ、このミカエルの季節になると第25週では予感であった内面に向かうベクトルがはっきりと方向を確定します。
第1行には、それまで人間が意志や感情を向けてきた事柄すべてを「自然よ」という言葉に集約し、第2行ではいわばそれをすべて自分の内に取り込みます。ただし、思考、感情、意志の意志の側に担うことになります。これは人間に対し力強く働きかける反面、そこに意識は及びません。それでも意志の領域から働きかけて、霊の芽、つまり霊においてこれから伸びようとするものを強めます。おそらく、太陽が優勢であった季節に人間がどれだけ深く外的自然界とかかわったかで、そうした働きかけの強度が変わると思われます。「霊の芽」は伸びる力は秘めるものの、それだけでは伸びる方向は確定しません。行き先はわからずとも、まずは感情の領域に自己感情を生み出します。ある意味でこの芽は当て所のない旅に出るのですが、芯だけはしっかりと与えられるのです。

『魂の暦』第25週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第25週、朗読に不向きな翻訳

1912年9月22日~9月28日

Ich darf nun mir gehören
  私は私のものであることを許される
Und leuchtend breiten Innenlicht
  そして照らし出しつつ内なる光が広がる
In Raummes- und in Zeitenfinsternis.
  空間の闇、そして時間の闇の中に。
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,
  自然の存在は眠りへと迫られる
Der Seele Tiefen sollen wachen
  魂の奥底は目覚めるはずであり
Und wachend tragen Sonnengluten
  目覚めつつ太陽の灼熱を持ち込む
In kalte Winterfluten.
  静かに寄せる冷たい冬の中で

9月29日はミカエル祭です。その直前にまず宣言されるのは、自分が自分に属することが許される点です。これまでは、基本的に私は外の世界に引き出され、多くを体験するものの、ぼんやりとした意識でしかありませんでした。しかし、その自分が自分に戻り、さらには内面から照らし出しさえします。先週の第24週には「魂的闇」という語が登場しました。そして今回は空間の闇、時間の闇という私の外側です。内側はすでに輝きはじめています。
それでも闇に向かっていく外界では、存在が眠りへと向かわされ、それとは対照的に魂の奥底から目覚めていくのだといいます。そして、夏に体験した太陽の灼熱を魂に持ち込むのに対し、外の世界では冬が忍び寄っています。この詩には、対極的な流れが混在していはいでしょうか。眠りと目覚め、魂内と外界、灼熱と冷たさです。そうした対極が錯綜し、前半は日が長く、後半は夜が長くなる秋分前後の週です。

『魂の暦』第24週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第24週、朗読に不向きな翻訳

1912年9月15日~9月21日

Sich selbst erschaffend stets,
  絶えず自分自身を創造しつつ
Wird Seelensein sich selbst gewahr;
  魂存在は徐々に自分自身に気づいていく
Der Weltengeist, er strebet fort
  世界霊、それは引き続き力を注ぐ
In Selbsterkenntnis neu belebt
  自己認識において新たに命を与え
Und schafft aus Seelenfinsternis
  魂的闇から創造する
Des Selbstsinns Willensfrucht.
  自己感覚という意志の実りを

第20週ではじめて感情において感じ取った自分の存在(Sein)が、この24週に到って「魂存在」として、その存在が知覚されます。これまでは内側の存在はぼんやりとしたものでしかありませんでしたから、ここでまた一つの転換点を迎えていると言えるでしょう。しかしこの魂存在はまだ微弱で、そこに世界霊が力を与えてくれます。さらには「自己認識に新たな力」とありますから、この自己認識は昨年までの自己認識ではなく、春、夏を新たに経験してきた私の自己認識でなくてはなりません。
魂もまだ闇状態です。そこから新たなもの、つまり「自己感覚」が創造されます。しかもこれが意志の実りであるというです。しかし、夏の間に外の世界で行為(意志)を通して何かを得ていないと、そこには実りは生じません。ぼんやりとした意識において行われたことが、外からの霊的な助けによって、人間にとって重要な意志(行為)の実りが得られます。
これは、人間が生涯の行為、つまり意志の集大成が萌芽となって、死後にはそれがさらに展開していくという事実(『一般人間学』第2講)と相似です。春から夏にかけての意志活動の集大成が、秋以降に結実していくはずなのです。

『魂の暦』第23週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第23週、朗読に不向きな翻訳

1912年9月8日~9月14日

Es dämpfet herbstlich sich
  それは秋的にぼんやりする
Der Sinne Reizesstreben;
  感覚の刺激を求める傾向が;
In Lichtesoffenbarung mischen
  光の開示の中には混ざる
Der Nebel dumpfe Schleier sich.
  ぼんやりとしたヴェールである霧が。
Ich selber schau in Raumesweiten
  私自身は空間の彼方に観る
Des Herbstes Weltenschlaf.
  秋の世界の眠りを。
Der Sommer hat an mich
  夏は私に
Sich selber hingegeben.
  自身を与え尽くした。

 第23週で夏が終わります。まず、感覚が刺激を求める傾向がぼんやりとしてきます。そして、人間の意識はしだいに内面に向きます。そして、光の開示においても霧が混ざってきます。実際、ドイツの秋、とくに早朝は霧に包まれる日が多いのです。クリアな視界は失われてきています。
そして、空間の彼方を観ても、自然界の旺盛な成長力はもはや存在せず、しだいに眠りについていく世界しか観られません。
最後にその状況を確認します。「夏は私に自身を与え尽くした」と。この週を境に、魂のこよみは内省的な内容になっていくでしょう。

『魂の暦』第22週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第22週、朗読に不向きな翻訳

1912年9月1日~9月7日

Das Licht aus Weltenweiten,
  世界の彼方からの光が
Im Innern lebt es kräftig fort:
  内側において力強く生き続ける:
Es wird zum Seelenlichte
  それは魂の光となるだろう
Und leuchtet in die Geistestiefen,
  そして霊の深みまで照らし出す
Um Früchte zu entbinden,
  果実を繋がりから解くために
Die Menschenselbst aus Weltenselbst
  世界自己からの人間自己を
Im Zeitenlaufe reifen lassen.
  時の流れのなかで成熟させる

 第20週の方向が定まらない状態から、第21週では「見知らぬ威力」が私に働きかけ、方向性を示してくれました。そして第22週になると、事柄がさらに具体的になっていきます。外からやってくるものは「見知らぬもの」ではなく、「世界の彼方からの光」であるし、それは内側において生き続けるといいます。
さらにそれだけでなく、魂の光となり、霊の深みまで照らし出すというのです。そして、その光は果実を開放するためであるし、その果実とは、人間自己であり、それが時間の流れの中で世界自己から成熟してくるのです。
この週では「光」が鍵でしょう。世界の彼方からの光、内側の光、魂の光、霊の深みを照らす光というように、しだいに奥へと入り込んでいきます。

『魂の暦』第21週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第21週、朗読に不向きな翻訳


1912年8月25日~8月31日

Ich fühle fruchtend fremde Macht
  私は(感情において)感じる、実りをもたらせてくれる見知らぬ威力が
Sich stärkend mir mich selbst verleihn,
  力を増しつつ私に私自身を与えてくれるのを
Den Keim empfind ich reifend
  萌芽が成熟するのを私は感じ取り
Und Ahnung lichtvoll weben
  そして予感が光に満ちて織りなす
Im Innern an der Selbstheit Macht.
  内面において、自己性という威力の傍らで

 第20週が先を暗示するだけで、方向性は明確でなく、いわば不安定な状態にあったものが、この第21週では「見知らぬ威力」が私に働きかけてきます。しかもこれは実りをもたらすものであり、ますます強力になりながら私に私自身を与えてくれるといいます。
この「見知らぬ威力」とはいったい何なのでしょうか。
後半は「萌芽」と「予感」という未来に向かいつつもまだ未知なるものを秘めたものが中心になります。「萌芽」は「見知らぬ威力」のおかげか、成熟に向かっているのを感じ取っています。
「予感」の方も未来に向けて希望に満ちています。「自己性という威力」が内面に存在しながらも、その傍らで光に満ちたものを織りなすのですから。

『魂の暦』第20週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第20週、朗読に不向きな翻訳

1912年8月18日~8月24日


So fühl’ ich erst mein Sein, 
  そのように私は、私の存在をはじめて感じる 
Das fern vom Welten-Dasein 
  その私の存在は、世界-存在から隔たり 
In sich,sich selbst erlöschen 
  それ自身の内に、自己自身を消し去る。 
Und bauend nur auf eignem Grunde 
  そして固有の基盤の上だけに築き上げつつ 
In sich, sich selbst ertöten müßte. 
  自らの内で、自分自身を抹殺することになるはずだ。 
 
 私の存在(Sein)という語がはじめて登場します。しかし、それはまだ感情的に感じ取られるにすぎません。私の存在は世界-存在で形成されたと思われます。しかし、その起源からは離れ、他者との関係ではなく、それ自身において消えてしまいます。 
さらに、世界基盤の対極に位置する自分固有の基盤だけに自己存在を築き上げようとすると、それを殺すことにすらなってしまうのです。 
第19週には重要なものを受け取り、それが今度は自分の側から発展をはじめます。しかし、その前途は容易ではありません。大切で、しかも適切に育てられるべきものが生じ、全体に内省的雰囲気が生じます。 
これまでは、「私自身」という存在は問題にならず、むしろそれを失いつつ外の世界に広がっていくイメージでした。ところが、この第20週では他からの影響は失われ、いわば孤独な作業の始まりが告げられます。後に助けがあるかはこの時点では不明です。 

『魂の暦』第19週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第19週、朗読に不向きな翻訳

1912年8月11日~8月17日

Geheimnisvoll das Neu-Empfang'ne
    神秘に満ちたやり方で、新たに受け止めたものを
Mit der Erinn’rung zu umschließen,
    記憶によって包み込むこと
Sei meines Strebens weitrer Sinn:
    それが私がさらなる意味として目指すところ:
Es soll erstarkend Eigenkräfte
    それは強めつつ、自身の諸力を
In meinem Innern wecken
    私の内に目覚めさせるはずであり、
Und werdend mich mir selber geben.
    そして成熟しつつ、私を私自身に与えるはずである。

「新たに受け止めたもの」とは何でしょうか。それは、明確な思考で捉えることはできなかったものの、夢状態の中で感じ取った「宇宙語」です。その宇宙語を意味がわからずとも記憶にとどめておくことの重要性を語っています。こうしたモチーフは、ルドルフ・シュタイナーの授業に関する助言、「理解できないことを学ぶことも大切」という言葉を思い起こさせます。
さて、冒頭のGeheimnisvoll は「包み込む」を修飾します。この「神秘に満ちたやり方で、記憶によって包み込む」というのも不思議な表現です。単に記憶するではなく、記憶によって包み込むのです。
また、第15週では「世界の仮象である霊の織物が私の固有存在を覆う」という表現がありました。ですので、ぼんやりとしか捉えきれない感覚という仮象をその宇宙語の周りに織りなしていくというイメージも作れます。つまり、世界で生起する事柄をしっかりと味わいつつ、意味はわからずとも、それらを宇宙語と関連させていく感じです。
そうして豊かな記憶に包み込まれた宇宙語は、やがて私の内に私自身の諸力を目覚めさせ、私に私自身の与えてくれるはずなのです。

『魂の暦』第18週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第18週、朗読に不向きな翻訳


1912年8月4日~8月10日
Kann ich die Seele weiten,
  私は魂を広げることができるだろうか?
Daß sie sich selbst verbindet
  それによって魂自身を結びつける
Empfangnem Welten-Keimesworte?
  受け止めた萌芽である世界語とを。
Ich ahne, daß ich Kraft muss finden,
  私は予感する、力を見出さなくてはならないと、
Die Seele würdig zu gestalten,
  魂をふさわしく形成する力を、
Zum Geistes-Kleide sich zu bilden.
  自身を霊の衣へと形作る力を。
受け止めた世界語は芽生えだったことがわかります。つまり、世界語とは人間的な言葉ではなく神的な言葉であり、それ自体にその対象を形成する力を内包しています。その意味で、単なる情報ではなく、「光あれ!」と神が語れば実際に「光」が生じる語なのです。
しかし、この「お前の霊の深みを、私の世界の広がりで満たせ、いずれお前の内に私を見出すために」という世界語は人間に向けられたものであり、その点でそれ以外のものに向けられた場合、たとえば「光あれ」とは状況が異なります。人間に向けられたこの世界語が成就するためには、人間の自由意志による協力が不可欠です。人間の魂が真にこの世界語と結びついたときに、それははじめて効力を発揮し始めます。そうした結びつきに向けて、さらに別な準備が必要なことを私は予感します。魂自身を霊の衣にふさわしく形作る力が必要であることを。ただ、その力がどこから得られるのかは、ここではまだ明らかではありません。
ルドルフ・シュタイナーが述べている霊的修行は、すべて自らの魂に向けられています。魂が霊界と共鳴できる状態になると、そこに霊的な内容が恩寵として降りてくるわけです。そうした自らの魂への働きかけを、ここでは「霊の衣」と表現しています。
第15週で霊によって作られた織物が感覚という仮象であったのに対し、ここでは人間が自らの魂を衣へと織りなすことになります。

『魂の暦』第17週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第17週、朗読に不向きな翻訳

1912年7月28日~8月3日-17

Es spricht das Weltenwort,
  世界語が話す、
Das ich durch Sinnestore
  その世界語を私は感覚の門を通して
In Seelengründe durfte führen:
  魂の根底へと導き入れることが許されていた:
Erfülle deine Geistestiefen
  「お前の霊の深みを満たせ
Mit meinen Weltenweiten,
  私の世界の広がりで、
Zu finden einstens mich in dir.
  いずれお前の内に私を見出すために」。

この第17週は第8週の聖霊降臨祭的な雰囲気を持っています。クリスマスの祝福が信条や宗教にかかわらず万人に対しての恵みであるのに対し、聖霊降臨祭は「準備が整った人」にだけ関係するからです。もちろんその「準備が整った人」をキリスト教徒に限定することはできません。本来の季節のめぐりの中で、「準備が整った人への高次世界からの働きかけ」がキリスト教とは無関係に存在していて、それをキリスト教がより意識しやすいかたちで人々に示したのだ考えることができます。別な例を挙げれば、イエスの誕生日について聖書には何の記述もありません。しかし、それが冬至の3日後とされたのは、古代からのミトラ信仰があったからと言われています。
さて、第17週の詩では、世界語がいわば勝手に話します。そして、動詞や助動詞の時制を見ますと、それが話す以前に、それを私の魂の根底に導き入れることが許されています。しかも「感覚の門」を通してです。つまり、思考体験ではなく感覚知覚を介して世界語を受け入れます。
その世界語の内容は、「お前の霊の深みを、私の世界の広がりで満たせ、いずれお前の内に私を見出すために」です。つまり、外界で生起する森羅万象を自らの霊の深みにまでまず受け止めるわけです。そしてそのように受け止めたものが元となって、人間はやがて自らの内にその霊的な世界語を見出すのです。
今は、世界で生起する事柄を、全身を感覚器官にして受け止める時期だと言えるでしょう。考えるのはその後です。

『魂の暦』第16週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第16週、朗読に不向きな翻訳

1912年7月21日~7月27日


Zu bergen Geistgeschenk im Innern,
  霊の贈り物を内に秘めるべく、
Gebietet strenge mir mein Ahnen,
  私の予感は私に厳しく命令する、
Daß reifend Gottesgaben
  熟しゆく神の賜物が
In Seelengründen fruchtend
  魂の根底で結実しつつ
Der Selbstheit Früchte bringen.
  自己性という果実をもたらす、と。

先週(第15週)の詩では霊の贈り物とは、私の自我でしたし、それは遮断柵の中にありました。そして、その贈り物はすぐに表に出してはならないのです。十分に成熟させるためには季節のめぐりを経なくてはならないのです。夏の明るい季節に、人間の存在はいわば世界の中に広がり出て、そこで朧気な意識において神的存在と結びつきました。そして、力としての自我を受け取りました。その自我がこの後どのように展開し、人間を育てていくか、とても期待に満ちた雰囲気です。
子どもの頃、はじめて花の種を植えたときを思い出してみてください。土を柔らかくし、種を置き、優しく土をかけ、水をやり、つける花を想像しながら眠りにつきます。そして翌朝から毎朝、芽が出ていないかを期待を持って見にいったことはないでしょうか。私はこの週の詩に、そのような雰囲気を感じます。
「自分は育ちうる」という予感、あるいは感情は人間にとっては何歳になっても重要です。学校の最初の授業で子どもたちにルドルフ・シュタイナーは次のような言葉をかけるように勧めています。
  君たちのお父さん、お母さんは手紙も書けるし、計算もできるね。
  でも、君たちはまだできない。これから学んでいくと、それができるようになるよ。
といった内容です。まず人間の中の「伸びようとする力」にアピールしています。
この第16週の詩では、1年生のように内的な成長を促されてはいないでしょうか。

『魂の暦』第15週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第15週、朗読に不向きな翻訳

1912年7月14日~7月20日



Ich fühle wie verzaubert
  私はまるで魔法にかけられたように感じる
Im Weltenschein des Geistes Weben:
  世界の仮象の中で霊の織物を:
Es hat in Sinnesdumpfheit
  霊の織物は感覚の朧さの中で
Gehüllt mein Eigenwesen,
  私の固有存在を覆った、
Zu schenken mir die Kraft:
  私に力を贈るために:
Die, ohnmächtig sich selbst zu geben,
  その力とは、気絶的ではあるにしろ自分自身を与える力であり、
Mein Ich in seinen Schranken ist.
  遮断柵の中にある私の自我である。


2行目の「霊の織物である世界の仮象」とは次のようなイメージでしょう。
まず私たちにとっての感覚界は仮象に過ぎませんし、その感覚界というヴェールの背後には霊的な実相があります。繰り返しになりますが、人間の魂はアーリマンの影響を受けたがために、感覚というヴェールによって実相を捉えることができなくなっているのです。しかし、その実相は高次存在によるものすごい霊的な働きで、それによって感覚界が生まれているのです。それが「霊の織物」です。
それが私に力を贈るために、私の固有存在を覆ったとあります。この「固有存在」には地上的存在のニュアンスを森は感じます。そしてそこに、力を贈ってくれました。さらにその力とは「私の自我」だったのです。ただその自我は霊の世界には耐えられず、そこに巻き込まれれば気絶してしまいます。それゆえ、周囲から遮断する踏切りのような遮断柵(Schranke)の中にあります。完全な囲いではなく、開閉可能な遮断柵である点も、重要なイメージだと思います。

『魂の暦』第14週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第14週、朗読に不向きな翻訳
1912年7月7日~7月13日

An Sinnesoffenbarung hingegeben
  感覚の開示に没入しつつ
Verlor ich Eigenwesens Trieb,
  私は固有の本質の伸びる力を失った
Gedankentraum, er schien
  考えの夢(も失った)、それは
Betäubend mir das Selbst zu rauben,
  鈍らせつつ、私から自分を奪うかのように見えた
Doch weckend nahet schon
  それでも目覚めさつつすでに近づいている
Im Sinnenschein mir Weltendenken.
  感覚の仮象の中で私に世界思考が。

「感覚の開示に没入しつつ」というのは、明るい初夏の様子の体験から理解しやすいと思います。しかし、このころになると草がぐんぐん伸びる感じは失われ、成長がやや鈍ってきます。それと並行するかのように、私の固有の本質も伸びる力(Trieb)を失います。春先の第02週には、「Menschenspross=人間の伸びる芽」という表現がありました。

Es finden Geisteswelten
  霊界にはそれが見出される
Den Menschensprossen wieder,
  人間の伸びる茎が再び、(第02週、3,4行目)

植物において、Spross=ぐんぐん伸びる茎(タケノコ、アスパラガス)とTrieb=伸びる茎(ブドウのツル)では、関連はあるものの、勢いが違います。そうしたニュアンスも含めますと、夏至に向かって人間においても伸びる力が鈍り、やがてなくなっていった様子がイメージできます。

さらにGedankentraum=考えの夢という不思議な概念も失います。これについては、第08週の詩の後半部分に思考と夢状態の関係として表現されています。

Wenn göttlich Wesen
  神的存在が
Sich meiner Seele einen will,
  私の魂と一体とならんとするなら、
Muß menschlich Denken
  人間的思考は
Im Traumessein sich still bescheiden.
  夢的状態の中で自らを静かに慎まなくてはならない。(第08週、5~8行目)

つまり、第08週で始まった「思考の夢状態」がこの週ではすでに終わっています。そしてこの終りに呼応して新たなるものが近づいています。それが「感覚の仮象の中で」の「世界思考」です。この「世界思考」とは感覚界の森羅万象の大本です。活動である「世界思考」によって実体としての「世界の考え」が生まれ、その「世界の考え」には森羅万象の設計図のみならず、それを具現化する力もが含まれています。そうした「世界思考」が私に近づいて来ているのです。

『魂の暦』第13週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第13週、朗読に不向きな翻訳

1912年6月30日~7月6日


Und bin ich in den Sinneshöhen,   そして私は感覚の高みに居る、 So flammt in meinen Seelentiefen   すると私の魂の深みで炎のごとく立ち上がる Aus Geistes Feuerwelten   霊の火の世界から Der Götter Wahrheitswort:   神々の真実の言葉が: In Geistesgründen suche ahnend   「霊の基盤において予感しつつ探せ Dich geistverwandt zu finden.   お前が霊と類縁であることを見出すべく」

夏至を過ぎたこの季節に、「私は感覚の高みに居る」というのは実感しやすいかもしれません。そして、この高みの対極とも言えるものが二つ登場します。一つは「魂の奥底」でもう一つは「霊の基盤」です。「感覚の高み」も含め日本語では「○○の✕✕」と表現していますが、言語ではそれぞれ「Sinnes=感覚höhen=高み」「Seelen=魂tiefen=深み」「Geistes=霊gründen=基盤」という造語による一単語です。しかも「魂の深み」では闇ではなく、炎が上がるイメージです。極端から極端へと行ったり来たりです。
そして、神の言葉の中に重要な語が登場します。「霊の基盤」です。ルドルフ・シュタイナーがこう言うとき、それは世界創造の霊的な出発点を指しています。まさに霊的宇宙、物質的宇宙の中心です。そこからの思考が考えへ結実し、その考えには世界の諸法則だけでなく創造の力も備わっています。それゆえ、「光あれ」という言葉で実際に光が生じるのです。
その基盤において、人間自身が霊と類縁であることを見い出せというのです。
人間にとっての究極の目標は、そうした霊の基盤に意識を持って到達することでしょうし、それは容易ではありません。しかしながら、太陽が最高点を迎えたこの時期には、人間は達する可能性を持っているのです。ただ、通常では意識は鈍ってしまっているのです。



『魂の暦』第12週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第12週、朗読に不向きな翻訳

1912年6月24日~6月29日
Der Welten Schönheitsglanz,
  世界の美的輝き、
Er zwinget mich aus Seelentiefen
  それが私に強いる
Des Eigenlebens Götterkräfte
  自らの営みである魂の奥底から、神々的諸力を
Zum Weltenfluge zu entbinden;
  世界の飛翔へと解き放つことを;
Mich selber zu verlassen,
  自分自身を手放すことを、
Vertrauend nur mich suchend
  ただ信頼しつつ自身を探しつつ
In Weltenlicht und Weltenwärme.
  世界の光と世界の熱の中に。

この週の主役は世界の「美的輝き」です。これが私に2つのことを強いてきます。一つは自分の個的営みを行っている魂の奥底にある神々的諸力を開放することです。そして、そこではWelten-flug=世界-飛翔 という造語を使い、さらにentbinden という変わった動詞を使っています。entbindenを直訳するとbinden=結びつけるの逆の意味で「結びつきを解く」といった意味になります。

美的輝きが私に強いるもう一つの事柄は、自分自身の解放です。詩では終盤の3行の順は倒置的で、普通の文体なら「解き放つ」の行は最後に来ます。「世界の光と世界の熱の中で、信頼しつつ、自身を探しつつ、自己を解放する」のですが、「ただ」が「信頼しつつ」を修飾しているのか、それとも「私」を修飾し、「私だけを探しつつ」なのかは確定していません。森はここでは「ただ信頼しつつ」としました。



正当な進化の途上にある人類は、物質的・感覚的な事柄しか経験しません。熱を感じても、それは熱でしかありません。物質的の背景、つまり実相として存在するものにヴェールがかけられ、体験できなくなっているのです。そして、そのヴェールをかけた存在がアーリマンです。人類の一つの課題は、そうしたヴェールを取り払い、実相を体験することと言えるでしょう。そうした実相についてルドルフ・シュタイナーは『霊的実相から見た宇宙進化』(全集132)という連続講演で語っていますし、その第1講で取り上げられているのが、熱の背後にある実相です。

その実相に迫るためには、まず自らのすべてを削ぎ落としていく勇気が問われます。勇気を持ってすべてを捨てますと、人は自分を一本の固まった棒のように感じると言います。さらに自分が勇気の海に漂っているように感じ、さらに「熱」の背景にある実相を体験すると言います。

その実相とは、ケルビームに捧げるトローネの供犠です。9つの天使の位階にあって3番目の高位あるトローネが自らのすべてを捧げ尽くすときに熱が生じますし、すべての熱の背後にはトローネのケルビームへ供犠という実相があるのです。

後半の3行には、そうした背景を感じとれるのではないでしょうか?

『魂の暦』第11週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第11週、朗読に不向きな翻訳

1912年6月16日~6月23日

Es ist in dieser Sonnenstunde
  この太陽の時間に
An dir, die weise Kunde zu erkennen:
  お前宛に、賢いその知らせを認識しうる:
An Weltenschönheit hingegeben,
  世界の美に没入しつつ
In dir dich fühlend zu durchleben:
  お前の内で、お前を(感情において)感じつつ生き通しうる:
Verlieren kann das Menschen-Ich
  人間-自我は失われる可能性がある
Und finden sich im Welten-Ich.
  そして自らを世界-自我の中で見出す可能性もある。

この太陽の時間に2つのことが取り上げられます。
  1. お前宛に、賢いその知らせが認識されること
  2. 世界の美に没入しつつ、お前を感じつつ、お前のうちで生き通す
つまり、認識されることと感情で感じ取られることが並行しています。ただし、認識的な事柄はAn dir=お前宛に、あるいはお前の傍らでであるのに対し、感情的意志的な事柄である「生き通す」はIn dir=お前の中でとかかわりの密度に差があります。

そして、その認識される賢い知らせが最後の2行です。つまり、「人間-自我は失われる可能性がある」のに対し、「自らを世界-自我の中で見出す可能性もある」という人間-自我と世界-自我の関係が認識されるのです。