2015年5月13日水曜日

成長点では黄金比の角度で新芽ができる

原理

成長点では絶えず新芽が形成されます。その方向は、上から見ると一つ前の芽から約222.5度旋回した方向です。

シミュレーション

Javascriptで試してみました。

黄金比による植物成長パターン

黄金比による植物成長パターン

2015年5月7日木曜日

Frits Julius『現象学的化学の基礎』第1巻のまとめ

森 章吾まとめ
個人的なまとめが元なので理解しずらい部分があると思います。
そのような箇所がありましたら、Facebook上などでご連絡ください。
改善に努めたいと思います。

シュタイナー学校の化学授業の原型は、オイゲン・コリスコが現場でシュタイナーの助言を受けながら作りました。彼は医師でもあったので、7年生での最初の化学の授業内容が、先端のアントロポゾフィー医学と直接に結びつくことを知っていました。その両者の底流にある視点が上の図です。当然ながら、アントロポゾフィーの薬学、農業なども同じ土台の上に成り立っています。したがって、シュタイナー学校で理科を教えるにあたっては、さまざまな現象を「四大で考える」習慣を身につけておくことが望ましいでしょう。通常の物質科学的思考法、つまり現象のメカニズムや生物学での「生存競争に有利である」といった思考法以外の考え方があることを体感していなければならないはずです。
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理科系で学ぶ膨大な知識は決して無駄ではありません。しかし、そこで学んだ現象事実と、その事実に対する解釈とを厳密に区別する必要があります。「遺伝の発現にDNAは不可欠である」というのは事実ですが、「遺伝の本質はDNAである」というのは一つの解釈です。
四大で考えることで、世界のつながりが見えはじめることを、この本は体験させてくれます。また、それを生徒に体験させるのが、ヴァルドルフ教員の役目の一つであるはずです。(森)

目次

1 導入=考え方の基本

教育の方向性、男女別な問題点、自然とかかわる生きた思考を育てる

01 : 教育の課題としては、生徒に自然現象および自然界のつながりを見せ、それによってそこに精神的な共感を目覚めさせ意欲を育てる。ここで化学(科学)に対し、女の子には停滞&反感、男の子には硬直した思考に陥る、という危険がある。その理由は、授業の中で生きた自然とかかわる思考が展開されないからである。意識の深い層では、本来、自然と人間は結びついている。したがって教師は、そうした層を体験していなくてはいけない。それによって、教材で生徒の思考を活性化できるだけでなく、生徒の本性に対しより深い領域から働きかけることができる。

新たな学問が必要

02 : 人間本性の深い問いに答える学問を発展させなくてはならない。そして、まさにそれがスリリングであるからこそ、教師の情熱も育つだろう。

思考だけでなく感情、意志も育てる

03 : そうした深み至るためには、通常の思考のトレーニングだけでは不十分である。頭による思考は、一種のフィルターになってしまい、事柄の特定の面しか見えなくなる。思考だけでなく、感情や意志も認識プロセスを拡げるために役立てられるよう修練する必要がある。ここで、『いかにしてより高次の世界の認識を獲得するか』に記載された修行方法が役立つ。通常の科学では「客観性の重視」から、感情は問題にしないが、新しい科学ではそうではない。

人間を尺度とした世界観

04 : シュタイナーはそれに対し、自然(世界)は人間を尺度にしなければ理解できないし、またそれを正確に育てなくてはならない、と述べている。
05 : こうした道筋をシュタイナー自身は歩み、非常に深い世界を記述するに留まらず、さまざまな分野で新たな認識や研究方法についてのアドヴァイスも与えている。
06 : その結果、認識方法の中心に人間があるだけでなく、認識結果の中心も人間であることが分かった。
07 : これを化学に応用するには、現象や法則を人間の生命活動との関連で理解する必要がある。(ただしこれは、通常の生理学的な観方ではない)。
08 : この洞察は化学者にとってだけでなく、教師にも重要である。人間との密接な関連を教師が認識すると、次のような成果が現れる。
· 生徒の関心を引き出すことができる。
· 莫大な教材に見通しと構造を与えることができる。
09 : こうした考え方は人を勇気づけると同時に、この膨大な領域をまとめ上げるために必要な人々の協力関係も培われる。

ゲーテは先駆者

10 : 今までの自然科学にその芽があるかを吟味すると、ゲーテの自然科学がそれに当たることがわかる。ゲーテは化学的なことはあまり言っていないが、『色彩論』や『植物学』から学問の方法を学ぶことができる。
11 : ゲーテの研究方法は人間の本性に依っている。世界観に人間像が写されているのである。人間が宇宙になり、宇宙は人間になる。
12 : しかし、そうしたことを見通せるのも、シュタイナーのゲーテ研究があったからである。
13 : ゲーテの方法は、混乱した領域の現象を整理し、学問として明瞭に示すことであった。その領域の最も単純で礎石に当たる現象を、ゲーテは根源現象と呼んだ。ゲーテは根源現象より先へは進まなかった。つまり、理論化はせず、現象を整理するにとどめた。
14 : ゲーテの場合、方法が系統的であること、外界と向かう自らの姿勢の二つが重要であった。この内的姿勢を育てるに当たってシュタイナーが提示した修行はお手本になるし、ゲーテ自然科学はそのよき準備でもある。
15 : 本書では見えるものだけをゲーテ的考えに沿って取り上げている。これはさらなる発展のためのよき基礎になる。
16 : 逆も言える。アントロポゾフィーを通して事柄の背景を知ると、単純に思われたことであってもその全容がわかってくる。また、真のゲーテアニズムには謙虚さと忍耐が必要であるし、それによってアントロポゾフィーの知見と普段は見逃されている日常的な現象を結びつけることができる。
17 : つまり、アントロポゾフィーとゲーテ自然科学は相互に支えあっている。
18 : 通常の考え方は(一面的なので)しかるべき時期に総括すればよい。いずれは原子論も理解し、化学計算もできるようにすべく教材を扱わなくてはならない。ただし、本書の考え方を教師が十分に理解しないで教材を扱うのは望ましくない。

2 化学の授業方法についての基本的指針

初歩的な現象、可能性を秘めた認識方法

01 : 授業を実りあるものにするための2つの基本事項を述べる。まず、化学者、生物学者、医者、等々の専門家であっても、ここで取り上げている中学生レベルの内容を軽く見てはいけない。なぜなら、この方向で精神活動を高めなくてはならないからである。そしてこれは、人間の健全な発達と関係するので、あらゆる人の中の”子ども”に働きかける。
02 : 化学の授業もそれだけで孤立しているのではない。芸術、実習等とも関連している。したがって、可能な限り他のものと関連をつける。またそうすることによって、化学が包括的世界観の一部になりうる。そうした対応を欠くと、子供の調和的発達を阻害する。
03 : 単独の研究者であっても、自分の研究を自然全体、文化全般と関係づける必要がある。(たとえば、ゲーテの『色彩論』がお手本である)。また、芸術(オイリュトミー、絵画、彫刻など)での練習も大切である。これを正しい方法で行うと、意志、感情を育て、世界との新たなつながりを可能にしてくれる。これを怠ると人間や自然が持つ特定の側面にアプローチできない。

教授法的助言

04 : 注意点の二つ目は、教育的に重要な視点である。睡眠と覚醒の交代のように、内容を意識に取り込むだけでなく、無意識にまで降ろすことも重要である。授業では教材を眠りに沈み込ませる準備をし、翌日はそれを導き、引き上げる。学習内容が人間内の隠れた叡智によって吟味されるのである。エポック授業では、こうしたことが行えるだけでなく、人間を健康にもたらすように働きかけることができる。教えた教材を生徒の中で一晩眠らせ、翌日に引き上げる授業のやり方が実験においても効果を発揮することがわかるだろう。
05 : 大人はこのことに目的意識を持って取り組むことができる。自分の中の隠れた叡智を信頼する必要がある。つまり、身体形成と身体機能の中に働いている叡智である。これは物質の本質とも関連し、眠りのヴェールの背後には、物質界についての素晴らしい叡智が存在する。理論的説明に傾きがちになることを克服し、プロセスの中にしっかりと生きる必要がある。そうした体験は、後に一瞬にして一つのイメージに変容する。こうしたやり方で、物質の深みを照らす光を灯すと、日常的な現象でもそのつながりがわかる。実験でも芸術的な要素を発見するはずである。

原子論の特徴

01 : 通常の自然科学的な考え方(原子論)の特徴は、それが自然や他教科と分離している点にある。眠りとの豊かな関係もない。ひょっとしたら”不眠”と関係するかもしれない。
02 : 原子論には肯定的な面もあることは確かである。環境破壊を経験し、個々人の判断力が育ったとも言える。しかし、人間や世界についての深い洞察を困難にしてしまったことに気づいていない。また、原子論的な考えが自然に由来する、というのも間違っている。原子は19 : 世紀末に放射能を介して認知されたが、それ以前はモデルであった。原子論こそが出発点であると考える風潮は時代病であり、自然のより重要な側面がこれによって隠されてしまっている。
03 : ここでの方法は、自然とのつながりを失った人類が、自然との新たな結びつきを作る時代のものである。現実のより深い層との結びつきは、現代の社会的必然であり、不可欠でもある。これまでの思考法は滅亡の方向に向かっている。本書では原子論的説明は全くしない。生徒たちは現代の若者としてそれを知っている必要はある。しかし、それを信じさせる必要はない。

化学の授業で重要なこと

01 : 化学授業の重要項目をまとめる。
1. 教材は子どもの発達段階に合わせる。
· これは子どもの成長に寄与する。
· 世界全体、そして個々の環境と健全な関係を結ぶことができる。
· 思考の教材を与え、正しい構造と現実の内容を伴って考えられるようにする。
· この科目で自己認識を育てることも可能である。
2. 特定の系統に沿って世界観にまとめ上げていく。このやり方は、自然に対しても、文化に対しても有効である。
3. ある程度の量の教材を概念的に知り、記憶する。

ヴァルドルフ・カリキュラムは信頼に値する

02 : ヴァルドルフのカリキュラムは子どもの成長に対応しているので、信頼に値する。しかし、現実にはさまざまな妥協がある。テーマ、スタイル、扱い方が年齢に即したものであるのが理想である。これは交響曲に例えることができる。関連事項を列挙すると次のようになる。
· 各部が全体のつながりで成り立つ。
· 各エポック毎にやり方はさまざまでありうる。
· 本書は学年毎に記述してあり、タイミングが重要であり、該当学年以外では行わない方がよい。
· 教材の量は問題ではない。
· リズムや時間の構造がポイントである。
· 教材を生き生きと扱うように。
03 : 子どもの特徴的な成長と歩調を合わせると、全体が教案の順で可能になることがわかるはずである。それによって、能率的かつ基本に根差して教材を分散することができる。

3 7年生の化学

*1. 火

ヴァルドルフ化学授業の原型

01 : オイゲン・コリスコの「化学の最初の授業」を元にしている。
02 : ただ、多少改変したので、より実践的になっているかもしれない。

最初に取り上げるのは「火」

03 : シュタイナーの指示にしたがって、燃焼から始める。
【森章吾のコメント】背景には「地水風火」の《四大元素》の考えがあるし、この《四大元素》はシュタイナー医学や薬学、さらには農業などの背景に一貫しているバックボーンである。したがって、シュタイナー教育を行うのだとしたら、《物質主義》から《四大主義》に意識が転換されなくてはならない。

さまざまなもの(天然物)を燃やす実験

04 : 生徒に燃える物、特に自然産物を持ってこさせる。
05 : 植物の種類、部位などにより、燃え方がそれぞれ違う。

観察の際の重点事項

06 : 1時間目のクライマックスは詰め物用の木屑(Holzwolle)で、これは美しく生き生きと燃える。
実験の際に注目すべき点は以下の通りである。
· 炎の色と形
· 炎から煙への移行
· 飛び散る火花
· 木の炭化(黒化)
· 灼熱部での炭の変化
· 形のない灰に移行するところは特に重要

観察のまとめ方(学習方法)

07 : 観察の後で、何を観たのかをまとめるのは非常に大切。観たままを明確にするのであって、教師や一部の生徒がその現象を説明してしまうのは避ける。
08 : 観たことについては翌日に説明する。第一日目は、まずはよく観ることに重きを置く。
09 : 翌日に初めて現象の深みに入る。実験を行ったその日に深みに入ろうとしてしまうと、子どもと現象の間に壁ができ、印象を眠りの中に持ち込むことができない。翌日に問いかけることで、子どもの内面の深みから湧き上がってくる問いと、外からの発問とが結びつく。子どもの内面にあって半ば無意識に教室に持ちこんだ事柄に、秩序の枠をもたらすことができる。
10 : すべての実験について今述べた授業法を適用する。

最初の燃焼実験について自然界の関連の中で説明

11 : 二日目に現象のすばらしさに気づく。つまり、光と熱の高みに昇り、反対に炭と灰は下に残る。(すばらしい現象!)
12 : すると、「なぜ木が燃えるとこのようになるのか?」という問いが生じる。こうして生徒は木の由来に気づく。つまり、木とは、根が大地から捉えた水分とミネラルと、葉が捉えた太陽の光が植物の中で一体になり、植物とは言わばそれが密になったものであるから。

物質科学的説明よりも自然界全体とのつながりを重視

13 : 「燃焼では二酸化炭素や水が生じることを教えるのも重要ではないか?」という問いもあるだろう。しかし、この年齢ではそうした物質的側面は重要ではない。自然が提供する像をきちんと知覚することが重要である。ガス(二酸化炭素)は見えないので子どもは気づかない。つまり、現象として捉えられない。先端の学者にとっても、自然が提供するものそれ自体は常に重要である。ある現象が目立つか目立たないか、ということ自体も何かを語っている。また、二酸化炭素を「灰」とする立場はとらない。灰は《地》であり《風》ではない。熱も逃げていくが、《地》ではない。酸素についてはロウソク、二酸化炭素については石灰のところで扱う。
14 : 化学を学び始めた最初から、物質界の(状態ではなく)プロセスを見るのがよい。世界全体の背後にはプロセスがあるからである。「重さ」ばかりを考える現代自然科学に偏らないようにする。

炎的なもの灰的なもの

15 : 自然の中で”炎”を秩序づけると
上・・・輝く太陽
下・・・宇宙からの炎が地に落ちてきた大地
16 : 他の現象においても”炎”的な質を持つものを探すことができる。
17 : たとえば、植物で花は炎的、根は灰的である。
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18 : 人間では
四肢代謝系・・・温
頭部・・・冷&固
炎は物質的な意味だけでなく、魂的な意味もある。また、人間では植物と上下が逆になっている。

燃焼と気体の関係

19 : 燃焼において気体が重要であることを示す実験を行う。
20 : 【実験】 ロウソクの炎にガラス容器をかぶせる。(最近のガラス瓶の耐熱性能はすばらしく、ジャム瓶でも割れない)
かぶせる器の大きさを変えると消えるまでの時間が変わる。ロウソクが消えたあとの容器をひっくり返し、その中にロウソクの炎を入れるとすぐに消える。空気が大きく変化したことを教え、この空気の中では生物が生きられないことを伝える。シュタイナーのプレゼンテーションを参考にすることができる。(教授法第8講)
21 : 【実験】ロウソクを水面に浮かせてこの実験を行い、気体が減少することを示す。
二酸化炭素は水に溶け、水蒸気も水と一体化する。生徒には空気が減ることを見せるだけで十分。
22 : ロウソクはコルクなどに乗せて浮かす。
23 : この現象を定量的に正確に行いたい場合には、リンの燃焼で確認する。空気の1/5が減る。
24 : 火は空気を必要とするだけでなく、それを消費することを生徒に伝える。「酸素」ではなく「燃えガス」でもよい。「窒素」(窒息するガス)は適切な呼び名と言える。

燃焼にまつわるトピック

25 : 燃焼関連のトピックを話す。火事、消火技術、砂、布、水、泡、オーブン、バスバーナー、ガソリン気化器、ランプなど。

火に対する人間意識の変化を取り上げる

26 : 火に対する関係が時代と共に変化してきたことに触れる。かつては「火=天からの贈り物」で神殿や貢儀と関連していた。現代でもその名残がクリスマスのロウソクや香に見られる。
27 : アドヴェント中のオランダの習慣(ニコラウスの祭り)は特筆に値する。聖なる歌を歌いながらストーヴの周りに集まり、後には靴を煙突の下に置く。家の床で火をたき、煙を天井から排気した時代を思い出させる。火=暖、炊事など生活の中心であり、神事の中心であった。「サンタクロースが煙突から来て靴の中にプレゼント」という伝説もそれと関連している。(もし子どもに話すならこの部分、もう少し詳しく訳す)。
28 : 魔女も箒に乗って天窓から入ってくる。
29 : 天窓→煙逃がし→煙突と変化してきた。その後、移動可能なストーヴが現れる。つまり、ストーヴの歴史は上から下に向かう。その中で火が閉じ込められ、コントロールされるようになった。火を神や自然からの隔離することに伴って自我意識も発達していった。
30 : セントラルヒーティング=現代の特徴的な火の扱い方。
31 : つまり、火の扱い方は、自我が世界とどのように向かい合っているかと関係している。
32 : こうした内容をどこまで授業で取り上げるかは教師の裁量による。しかし、背景を知っているのはよいだろう。
33 : 蒸気機関やエンジンでも火が重要であることにも触れる。

イオウ、炭素、リン

01 : こうした一般的な観察をしてから、イオウ、炭素、リンの燃焼を扱う。
02 : 他にも酸素と結びついて燃える物質(マグネシウム、亜鉛、鉄など)もあるが、ここでの意図では扱わない。これらはサビもする。これらについては10 年生でのサビと燃焼で扱う。

イオウ

03 : 【実験】イオウの加熱と燃焼:イオウ・黄色い粉末・青い炎(青い泡のよう)・刺激臭・しばらくすると息苦しく、咳が出る。この実験は容器内かドラフタ内で行う。

炭素

04 : 【実験】炭素の燃焼:炭素燃えている炭素を暗がりで動かすと、わずかの間、空中に炎の線が見える。これは目の錯覚ではあるが、(著者ユリウスは)炭素の本質を語る現象だと思っている。同じ現象は燃え上がるたき火でも見える。
05 : 炭を積み上げて燃やす。(内から灼熱はするが、外は黒いまま)。これも特徴的現象。

リン

06 : 【実験】リンの燃焼:リンを水の中から取りだして濾紙で乾かすと煙が出るのが見られ、さらに暗くすると光っているのが見える。紙か木の上で線を描くとよりわかりやすい。跡が光るのである。試薬瓶に髑髏マークがついてはいるが、それについては語らない方がよい。丁寧な観察の妨げになるからである。
07 : イオウでは光が少なく、熱が多であった。リンでは、光が多く、熱が少であった。
ただ、毒性があるので扱いには注意が必要。常に水中に保管し、子どもが触れないように注意する。リンで線を描くときには、濡れ雑巾で持つとよい。ペンチで持つと滑るし、割れて飛び散ればすぐに発火する。また、決して素手で持ってはいけない。
08 : 【実験】赤リンにガスか熱した針金で点火する。黄白色の明るい炎、濃い白い煙。

イオウ、炭素、リンの他の現象と本質

09 : この3つの元素の自然界や人間におけるそれぞれ特有な役割を見る。
10 : イオウの産地は火山地帯である。これらの場所は地殻とは言っても不安定である。イオウも一見すると黄色い石だが、熱すると石との違いが際立つ。容易に融解し、動き始め、そして、蒸発する。容易に引火し、熱を発する。イオウがかつて、「太陽の担い手」と呼ばれたのも理解できる。本来は「上
に属するものが地中に押し込められたことで地中のカオスの原因になっている。
11 : リンは光を放つだけでなく、ゆっくりと消耗していく。絶えず冷たい光に移行していくもの。これは《地》の質ではない。「リンがどこから来たか」と生徒に問うなら、「星から」という回答がありそう。子どもはこれをすぐに理解するが、かえって大人には理解が難しく、考え方の練習が必要。自然が単純な言語で語る言葉を理解しなくてはいけないのである。この関係をより明確に示してくれる実験があるが、それは「11年生のリン」で扱う。「リンは地上における星の働きの担い手」であり、これは霊学的真理でもある。
12 : イオウ:深みのカオスの力
· 炭素:両者の中間、地球表面、実際に植物を炭化できる
· リン:高みの秩序の力

三者の人間との関係

13 : イオウの人間への作用を見ると、これは代謝系(下半身)に働く。イオウ温泉、イオウの多い食事は代謝系を活発にする(11年生のイオウ)。作用は上に向かうし、この点は地球と同じ。ただし、カオスに陥る危険がある。イオウとは「うごめく熱」である。
14 : リン作用は脳に見られる。イオウの働きは激しく打つようにバラバラにする働きであるが、リンは周辺から内側(中心)に向かう。「光の放つ硬化」とも言える。
15 : 炭素は栄養、呼吸と密接に結びついている。しかし、この話は7年生には難しいので、8、9年生で扱う。

オプション的テーマの一つ「マッチ」

16 : 7年生(あるいは8年生)で扱いうる内容火力における炭素の意味(あらゆるところに現れる)マッチではこの3つが共に使われている。マッチ(着火)の歴史を簡単にまとめると
17 : 火を起こす:木をこすり合わせる、火打ち石
18 : 人は、リンの存在を知るとすぐにマッチに応用した。マッチの作り方は、軸木を溶けたイオウに浸し、さらに黄リン、膠、砂を表面につける。するとざらざら面にこすり合わせるだけで着火する。しかし、危険かつ有毒だったので禁止となる。
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さらに安全マッチが発明される。これは、硫化アンチモンにKClといった酸化剤(酸素を放出させ燃焼を促進する)を加えて軸木に付け、赤リン、ガラス粉、イオウ化合物からなるザラザラ面にこすり合わせる。
19 : さらに木部に特定の塩を含ませた。(頭の部分が燃え落ちにくいように)。
20 : マッチはよく知られているし、これを教材に技術について語るとよい。また、マッチ箱の構造は目的にかない、しかも単純で技術を考える上でよい教材である。生徒にとって既知の事柄について、何が使われているか、などを話すとよい。
21 : マッチの次にくる発明は、と考えると、それはライターである。これは驚くべき事に、改良された火打ち石と言える。(ただし、21世紀のライターはほぼ圧電素子を使っている。Zippoを入手する?)
22 : 点火についての神話的側面は「11年生のリン」で話す。

*2.塩

カルシウム

01 : 塩はカルシウムから始める。

自然界のカルシウム循環

02 : 自然界のカルシウム:貝、卵の殻、骨、石、鍾乳石(水から再び石に)などがある。
次にカルシウムの循環を取り上げる。カルシウムを含む水の表面に薄い膜ができあがる現象は重要で、鍾乳石はこれが滴下してできあがる。二酸化炭素について話をしてあれば、石灰岩が炭酸水に溶解し、さらに再び二酸化炭素を奪うと沈殿することも話せる。
03 : カルシウムのこの変容原理が元になり、ありとあらゆるフォルムが作り出される。
04 : より大きな循環もある。小川の底では石灰が平面で沈殿するし、滝では、枝分かれ、ごつごつした覆い状のかたちなど、さまざまな形ができる。
05 : さらに大きな循環を話すことができる。海では動植物が石灰で殻を作る。そして、貝殻などの一部は再び溶解するが、大部分は堆積する。石灰岩でできた山々はそれが地殻活動で隆起してできた。
06 : 絶え間ない溶解と沈殿を行っている。子どもに「絶え間ない循環運動」というイメージを与える。
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07 : 骨格:体内で溶解と沈殿が起きている。高齢になるとこれが沈殿に偏る。また、管状骨ではカルシウムが絶えず更新されている。大腿骨の成長を見ると、子どもの骨は大人の骨の空洞部分くらいの大きさでしかない。これだけ成長できるのも、溶解と沈殿があるおかげである。

カルシウムの実験

この本で取り上げられているカルシウム関連の実験をまとめておく。
· 石灰岩の加熱、生石灰の生成(長時間実験なのでやり方と結果だけ?)
· 生石灰に水
· 石灰岩を希塩酸中に⇒二酸化炭素の発生(マッチの火を消す)
· 石灰がアルカリ、二酸化炭素が酸であることを示す(リトマス、赤キャベツ)
· アルカリ、酸の味・空気中の消石灰の塊が少し硬くなる(水酸化カルシウム→炭酸カルシウム)
· 消石灰水(透明)に二酸化炭素を反応させる⇒白濁
· 過剰な二酸化炭素でさらに透明化(炭酸水素ナトリウム)⇒鍾乳洞の原理(オプション)
08 : 石灰岩を熱する。煉瓦の炉に大理石を入れ、コークスで加熱。後に酸素を送り込む。

09 : 焼くとぼんやりした感じになり、ぼろぼろになる。冷ましてから、水を注ぐ。生きているかのように膨らみ、やがてバラバラになる。この際に発熱する。
10 : 焼く際に二酸化炭素が出ていることは確認しにくい。そこで別な方法で石灰岩から二酸化炭素が出ることを確認する。石灰岩+塩酸→泡が出る:この泡でマッチの火を消すことができる。つまり、火を消す種類のガスが出ている。
11 : 貝殻を使うと非常に細かい泡がらせん状の動きをするのが見られる。(らせんになることは要確認)
12 : 石灰窯(いしばいがま)について話すのもよい。炭酸カルシウムを加熱して酸化カルシウム(生石灰)を作る。(Wikiに説明あり。)
13-15 : リトマス試薬(赤キャベツの汁で代用可)で性質を調べる。
石灰液:赤→青     二酸化炭素:青→赤
試験紙より溶液の試薬の方が効果を見やすい。
16 -17 : 味:二酸化炭素は少し酸っぱい。
消石灰液は石けんと似た苦い味。
18 : 石灰岩を焼くことで石灰石は上下二つに分かれる。
· 上:二酸化炭素、これは、軽く、赤にし、酸である。
· 下:消石灰、これは、重く、青にし、苦い。
このように、多くの点で対極的。
19 : 美しく結晶し、2つの素材に分解しうるものを「塩」と呼ぶ。たとえば焼いた石灰では、硬い部分(アルカリ)が下に残り、ガス(酸)が逃げていく。(酸アルカリについては10年生で扱う)
20 : 水を含んだ粥状の消石灰を放置すると、やがて少し硬くなる。これが壁塗り技術の原理である。
21 : 消石灰+水→白濁液 ⇒ 濾過 ⇒ 透明な液:
これはリトマスを青、表面に流氷状の膜 ができる (自己閉鎖作用)。
22 : 流氷現象の確認実験:二酸化炭素を入れる→白濁
このように、消石灰は二酸化炭素を求め、生石灰(焼石灰)は水を求める。つまり、カルシウムは渇望的物
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質と言える。
23 : 二酸化炭素を吹き入れるのは呼気でも可能であるが、その実験はもう少し高学年がよい。
24 : 生徒たちがついてこられそうだったら、過剰な二酸化炭素で再び透明化するのを見せる。加熱するとガスが逃げ、再び濁る。この現象が鍾乳石の形成と関係している。(YouTubeには「透明にならない」というデモンストレーション実験の動画がある)。
25 : 消石灰の「消化作用」に触れてもよい。堆肥に混ぜるのである。石灰質土壌はアルカリで腐葉土が少ないが、堆肥に混ぜると発酵が進む。
26 : 石灰の建築利用を話す。焼いた石灰岩:二酸化炭素で硬化する⇒好きな形にできる人工の岩である。すべてのコンクリートはこの原理である。
27 :
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石灰と四大の関係

食塩

結晶性の観察

01 : 黒い紙の上に食塩を置いて観察すると、「純粋性」の印象を受ける。

溶解実験と飽和食塩水を用いた実験

02 : 自然界では食塩は水に溶けている。
【実験】食塩を水に溶かす:このように単純なことでも子どもを興奮させられる。
· 初めは簡単に溶ける。
· しだいに溶けにくくなる。
· やがて底に残る。
市販の食塩だと少し濁るので濾過する(現代の食塩は?)。この透明な水溶液で実験する。
· 少しこぼすか暗色の台にこすりつける⇒白く輝く結晶。
· 時計皿に入れて放置⇒やや大きな結晶。
· 濃HClの水溶液に飽和食塩水を滴下し、暗所でそこに光を当てて観察する
⇒ 「素晴らしききらめき」が見える。目に見えないくらいの微細な結晶ができている。この現象は《結晶》の本質を語っている。
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03 : 溶液の一部を蒸発皿に入れ、加熱して食塩を得る。ここから製塩について話をする。

製塩について触れる

04 :
· 寒冷地:塩水を凍らせる。氷は真水なので残りは濃い食塩水になる。
· 温帯地方:海水を風の吹く壁に少しずつ流し、濃縮する。
· 熱帯地方:海水を平らな容器に入れ、太陽熱で蒸発させて濃縮
05 : ドイツの製塩について説明してもよい(具体的なやり方は不明)。現代よりロマンのあるやり方であった。最後に現代の製塩を説明。

塩の生理作用

06 : 塩の栄養的な意味人体内の基盤になっている。
· カルシウム⇒骨
· 食塩⇒血液中で厳密に決まった濃度になっている。(生理食塩水=0.9%)
07 : 草食動物は食塩を激しく求める。塩を含む泉を激しく奪い合ったりもする。
08 : 塩が高濃度になると生き物は少なくなる。
死海や塩砂漠⇒保存食品、つまり食塩=反腐敗
09 : この反生命性が意識を目覚めさせる働きに関連する。正しい場、正しいやり方で生命活動を抑えると意識が明瞭になる。(後にルネッサンスについて触れるときには、メディチ家やフッガー家の繁栄がそれぞれ胡椒や塩の取引であったことに触れられるだろう。By Mori)
10 : 古来、塩が儀式や秘儀的に使われた理由がわかる。
1. 幾何学的結晶性
2. 透明
3. 純白健康で調和的であり、
これらは、理想的な地上状態 ⇒ 地上を住み家としていると感じる。

塩=酸+アルカリ(食塩=塩酸+水酸化ナトリウム)を示す実験

11 : 食塩が塩酸と水酸化ナトリウムからなることを説明する。ただ、食塩を加熱しても分解はしないので、これを提示するのは難しい。
【実験】 濃H2SO4に食塩を加える⇒泡が出て刺激臭、湿ったリトマス紙を赤に、この気体を水溶するとHClになる。
12 : 水酸化ナトリウムが食塩からできることを示す。これは、
· 輝きのない白色の粒・すぐに湿りヌルヌルする
· 水によく溶け、その際に発熱
· 熱湯に入れると激しく沸騰
· 生石灰ほどではないが、激しい
· 生体由来のタンパク質を溶かす⇒少なくとも、これで煮ると柔らかくなる。
13 : 【実験】シャーレを3つ用意し、希NaOH、希HCl、水道水を入れ、これに触れる。
NaOH:ヌルヌルし石けん的HCl:引っかかり感水道水:指を洗う
14 : リトマス液にNaOHを加え、さらにHClを加えると、透明→青→透明→赤、の美しい色彩変化を見られる。
15 :
アルカリ
苦く、不味い 刺激的に酸い
リトマス
物質状態 固化する物質 逃げていく物質

人間との関係

16 : 胃:酸⇒身体が受け入れられない物を遮断
腸:アルカリ⇒ここから血液中に栄養を取り込む
17 : 筋肉を動かすと酸が発生⇒外に向かうもの
静かに考えると脳にアルカリが生じる(要確認)⇒内に向かうもの
18 : こうした物質が体内でどのように現れるかは、物質の本質を解く鍵になる。
アルカリ 収縮的 内向き 受動
放射的 外向き 能動、攻撃的

【注】内向き外向きについては、コリスコの授業中にシュタイナーが言っている。

水酸化ナトリウムと塩酸から食塩を合成

19 : HaOH粒にHClガスを触れさせれば簡単に反応は起きるが、目立たない。この反応を激しく行わせる。
【実験】濃HClにNaOH粒を入れる。表面に触れるや否やパチパチと鋭い音と共に輝く食塩が雪のように出てくる。粒を水中に落とすとさらに激しく反応する。これを試験管で行うと、激しく沸騰し、試験管が台の上で跳ねる。

*3. 水

授業の背景、Tria Principia 「三原理」

01 -08 : Alchemy(錬金術)のTria Principiaは包括的世界観の基礎である。
これについては下巻で詳しく取り上げる。
Sulfer(イオウ)、Mercurius(水銀)、Sal(塩)の3つで《三原理》である。
· Sal:固化のプロセス
· Mercurius:水の働き
· Sulfer:光と熱のプロセス
人間においては : Sal:頭部 : Mercurius:血液と呼吸の相互作用 : Sulfer:血液である。
授業では、火、塩、水の順に取り上げる。

授業方法についてのコメント:《水》を化合物としては扱わない

09 : 水では、《結びつける》働きに着目、SulfurとSalの両極の間で絶えず行き来している。
ところで、水を根源的で一体的なものとして扱い、ここでは水素+酸素としては扱わない。水がHとOからなることは後に知らせる。できるだけ水をそれ自体として扱い、化合物という扱いはしないのである。2つの素材から、真に一体となったものが生ずるところが化学の不思議なところである。

Tria Principia での「結びつける水」のイメージへ

10 : まず、水の本性的な面を特徴づける。水には、一見すると、一種の内部矛盾がある。つまり、
· 川の流れを見ると、水は常に途上にあり、地球全体で一体である。
· 一方、無数の小さな粒にもなる。(落下する水滴は途中で砕ける)。
しかし、両者で同じことも見られる。つまり、まとまった動的全体をなす点である。分離していても各部が相互に関連している。形は「大いなる全体」=宇宙と同じである。
11 : シュタイナーのクリスマス・イマジネーション「地球は水銀の球になぞらえられる」。ここでは表面に周囲の世界が写し出される。地球も水銀粒も宇宙の写しである。
12 : 特に素晴らしい現象がある。露の粒をルーペで見ると、そこに世界全体が写る。
13 : 空気中の水蒸気が、通常は(星の降り注ぐ)夜に結露し、寒いと氷になり、葉の縁などに結晶化し互いに離れる。太陽が昇り暖かくなると、これらは光に輝き、空気がそれを優しく吸い上げていく。
14 : 丁寧に観察すると、この現象にTria Principiaが認識できる。つまり、露はSalとSulfurの両極を行き来している。
15 : Tria Principiaを子どもに教えることが授業の目的ではない。しかし、授業の目標設定のためには必要である。
16 : Sulfur⇔Salは地球規模でも見られる。極地での結晶化と熱帯での水蒸気化である。
17 : 温帯地方ではそれが夏&冬という時間的なものの中で現れる。
18 : 水は液体であるが、そこから一旦水蒸気として離れ、また水に戻る。その際に、完全に戻らないと霧、雲などとなり空中に漂う。それが下に降りてくると、露や雫である。粒子がさらに大きくなると、雨となり、
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さらには雹になる。ちなみに雪は、水蒸気から液体状態を経ず、直接に雪になる。
19 : 雪や氷もやがては水に戻る。
20 : 冷却の際には、過冷却という不思議な現象もある。
21 : 氷河の様子を見ると、氷は固体《地》であっても、「流れて」いるのがわかる。ちなみに、氷は圧力で液化する。スケートが滑るのはそのためである。
22 : 水には固化への抵抗が見られる。それを現す現象が、氷が水に浮く点である。これは物質としてはかなり例外的である。もし氷が水に沈むとしたら、湖や海の底に沈んだ氷は再び浮かび上がることはなく、底は死の世界になる。
23 : 水には水平と垂直の循環がある。
24 : 対流:熱によって密度が変化する。
25 : 【実験】水を入れた大型ビーカーなどに対流が見えるように何かの物体を入れ、バーナーで横から加熱する。


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セントラルヒーティングはこの対流の原理を用いている(実際には、多少改良されている)。図
26 : 拡張収縮を「軽くなる」「重くなる」と結びつけると現象がわかりやすくなる。

自然解釈についての注意点=因果関係ではなく

27 : 日常的現象を通じて総合的な世界観や諸現象の構造的つながりを示す。したがって、説明の際には言葉に注意する必要がある。「氷が水に浮くのは、凍る際に膨張するからである」と「から」と言ってしまっては、ある意味で間違いである。こう言ってしまうことで、事柄の関連の可能性を限定してしまう。この現象は、「それ以外にはありえない」くらい全体と結びついている。氷が浮くことと、膨張には当然関係はあるが、それを原因&結果の因果関係で結びつけてしまうのは望ましくない。さらに、《原因》という概念は使用を避けた方がよい。関係を自然界の秩序として、関係そのものとして示す。自然界の秩序をより高次な意味で《原因》と見なす。つまり「現象とは自然界の秩序が表情として表れている」と捉えるのである。
28 : 海洋での水循環について話す前にセントラルヒーティングを取り上げるとしたら、それは間違っている。技術とは自然の模倣であって、逆ではないからである。海でも水の沈降や蒸発は見られる。ただし、セントラルヒーティングよりは見通しにくいだけである。
29 : 海流によって熱が移動し、熱の均一化が起きる。それゆえ、イングランドやスコットランド(緯度は樺太並)でも椰子の木が生育する。(netで確認できる)。

人間内での媒介するものとしての水

30 : 血液循環によって水&熱の循環が起きている。つまり、自然界と同様、水によって熱、ガス、物質が輸送されている。ただし、体内のそれは自然界のものより厳密にコントロールされている。
31 : 人間内のこうした現象も自然現象と一致することを示すが、単なる寒暖ではない。人間では内からのImpuls(動因)で熱が動く。もちろん、熱の均一化は起きるが、人間では自己熱に特定の形を与えることが重要である。この熱の流れは十分に統制が取れているし、外からの影響と闘っている。(直立した人間を考えると、上にある頭部が冷で下にある代謝四肢系が温である。これは自然界の熱分布と反対であるし、この上下という視点を取り入れれば、動物の熱とは明らかに違う。By Mori)
32 -35 : 他にも話すことはたくさんある。
熱だけでなく、気体や山からの浸食物も運ぶ。
船の航行や物の輸送も水と関係している。
こうしたことも、実験で示すことができる。一例として、気象現象を実験的に示す。フラスコの水を熱し、その出口に冷水を入れた試験管をかざすと、そこに結露して雫が落ちる(図)。

現象の配置の仕方で本質がより明確になる
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36 : 現象を、たとえば対極的に、並べると、それらをより深く見ることができ、実りが大きい。たとえば、「水で塩を溶かす」と「水で火を消す」という現象を対極として並べる。水を中心に、一方でSal、もう一方でSurfurとかかわっている。

「結びつけるもの」を示す実験

37 : 水には結びつける力があるが、これは化学反応でも関係する。
【実験】クエン酸粉末と重曹粉末を試験管に入れても、何の反応も生じない。そこに水を加えると、激しく反応する。
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*4.金属

01 -02 : 教える時期、Kolisko:7年生、Julius:8年生
11,12年生で詳しく取り上げる。(下巻)Wilhelm PelikanのSieben Metalleは重要文献。

教材としては七金属を取り上げる

03 : 七金属(鉛、金、銀、鉄、水銀、錫、銅)を中心に取り上げる。惑星との関連(それぞれ、土日月火水木金と対応)を確証するのは難しい。しかし、現象から関連を知ることはできる。

7,8年生では用途、精製法、加工法から特徴を探る方向で授業

04 : 金属の用途、精製法、加工法からそれらの特徴がわかる。
05 : 「最も古くから加工されてきた金属は?」と発問する。これは「金」である。熱を加えずともハンマーで加工できる。したがって、石器時代にも金の加工品はあった。
06 : 石器時代の石斧の作り方の説明は子どもたちのお気に入り。火打ち石(黒曜石?)の角を別な石で叩いて割る。叩いた側の裏側に貝殻状に割れた刃ができる。より精巧にするには注意深く丁寧に細かく割る作業をしていく。
07 : 青銅時代:銅+錫を木炭で加熱⇒硬い青銅ができる。
08 : 鉄を精製するためには《火》を手中に収めている必要がある。
09 : 金属精製の事実関係を伝えるだけでなく、人類の金属に対する姿勢も伝える。例えば古代ペルーでは金は商業とは無関係に宗教的に使われていた。また、インカでは金円盤=太陽、銀円盤=月であった。
10 : 金に対するこうした姿勢の名残もある。たとえば、結婚指輪や戴冠式である。
11 : それに対し,ブロンズ(青銅)は初めから道具(例外は装飾的なピン)であった。もちろん例外的なものは現在も存在し、ブロンズ像や教会の鐘は実用一点張りではない。
12 : 鉄の使用は、地上的な力を自分のものにしたことを意味する。宗教的な用途はない。
13 : 鉄、銅、鉛などの金属の文明内における用途には、特定のモチーフが見られる。そして、このモチーフに惑星的な質が関連する。金属のキャラクターとも言うべきものがある。たとえば、銅(金星)と鉄(火星)は対極的である。
14 : 以下、話を用途とモチーフに限定する。
15 : 鉄:「力」であり、磁石も直接に「力」を現す。
16 : 銅:「美」、しなやかさ、加熱で虹色が現れる。ハンマーで変形。熱&電気の伝導。銅打ちは芸術的。蛇口(銅と銅を圧着することで最も密閉性がある)、やかん、暖房配管。
17 : 鉄と銅の対極性は色との結びつきでもわかる。(何を意味するかの具体的記述はなし)。また電磁石は鉄と銅の組み合わせで、それによって力と関係する。
18 : 鉛は重さ&慣性と関係し、輝きもすぐに失われる、閉じて覆う仕草であり、外からの働きかけを弱める。(放射線防護エプロン)。活版印刷の活字は柔らかさ溶けやすさが利点になっている。
19 : 銀は「光」と関係する。鏡(銀鏡)作りは容易に実験できる。ここでは像が主役で鏡は脇役になる。また、写真はハロゲン化銀を使っていた。
20 : 銀は熱と電気をよく伝える。しかし、銀を「光的」と言ってしまっては誤りである。むしろ、光をまったく受け入れず、表面で反射している。
21 : 水銀の質は動きである(温度計や気圧計)。また、アマルガムとして他の金属を運ぶ。
22 : 錫は放射状フォルムを持つ。外側は鉛に似て鈍い色であるが、内側に構造を持つ。硬化の力はブロンズに現れる。また歯科でも使われる。鉄を覆うと缶詰に使われるブリキになる。
23 -24 : 金は一番重い(密度が高い)ので、最も地上的と言える。しかし、金箔は軽く、光と戯れる。つまり、光と重さの架け橋となる。価値交換の媒体であり、それゆえ欲望的に誤用される危険もある。しかし、他者のための道具ともなりうる。また、「メッキ」とは見せかけの高貴さの比喩でもある。
名人が打つと芸術的に造形できる。そこには素材にも技術にも高い質が見られる。
25 -27 : 薬や毒としての生理作用を見ていくと、同様なモチーフにたどり着くことがわかる。
Pelikanの「SiebenMetalle」を参照のこと。他にも重要な金属はある。
太陽を中心に対極的に見ることができる。
                  太陽(金)
       金星(銅)                火星(鉄)
   水星(水銀)                      木星(錫)
月(銀)                                土星(鉛)

*8年生での授業

コメント

01 : 8年生のテーマと9年生のテーマがほぼ同じなので、一見すると混乱を招く。しかし、よく見ると、教材や重要な視点がきちんと分けられている。
02 : 8年生:炭水化物、脂肪、タンパク質を栄養素として扱う
9年生:有機化学の諸要素
9年生で時間をさけない部分を8年生でうまく扱うことができる。また、出発点がよいと9年生の基礎になる。教材や概念的化学式を早く扱いすぎない!!
単純なものから意味のあるものを伝える。芸術的に行うと、生徒が生き生きとする。

01 : 糖から始める。まず、《水》との関係を調べる。
1. 水を沸騰させ、
2. 砂糖を底に少しだけ残るくらい加える。
3. それによって、水面が上昇することに注目→数倍になる。
4. これを冷却する→粘り気のあるシロップ状になる→やがて結晶化が始まり、全体が固まる。
ここで重要な問いかけ「この現象がどのように応用されているか?」
特に女子が料理とのつながりで知っている。つまり、すでに知っていることを思考的に捉えるのである。場合によっては、ここからさらなる応用に話を進めることができる。
02 : 糖の溶解と硬化は、糖衣、糖細工、シロップ、ジャムなどに応用されている。
03 : 《火》との関係
砂糖を試験管に入れ、注意深く加熱する。うまくやると液化しても無色である。
そこから、黄色、きれいな茶色、さらに香が生じる。プリンなどに使うカラメルである。
04 : 激しく加熱:褐色から黒になり、煙(可燃性)が出る。
05 : この実験はさらに激しく行うことができる。
空き缶にかなりの量の砂糖を入れ、そこに緩やかに蓋をする。→膨張し、蓋を吹上、泡が出て、引火し、後には輝きのある炭が残る。
06 : 砂糖をガスバーナーの炎に吹き込む。→一粒一粒が燃え上がる。
スプーンに砂糖を取って、それを炎の中で加熱しても面白い。
07 : 葉における糖形成に触れることはできる。本来は9年生の内容であるが、「二酸化炭素の吸収および酸素の発生」について取り上げてもよい。
ただし、すぐに学識的な方向に向かないこと。そうではなく、素材のバイオグラフィーを作る感じで、「外的影響でどのような反応を示すか」、とか「四大元素とはどのような関係にあるか」などを取り上げる方がよいし、そうすれば抽象化は不要である。「自然界のプロセスに対する生き生きした目」を育てる。
ここでは《風》《水》《光》との関係をまとめる。自然界における上下、つまり宇宙的なものと地上的なもののについては必ず触れる。
《風》《熱》《光》 上にあるもの
   【糖】     糖はその中間
   《水》    下にあるもの
08 : 水によく溶ける=水領域から生まれてきた。
糖は自然界では常に液体で存在し、固体化するのが難しい。
植物内では濃度の薄い糖として存在し、人間や動物内では血中に一定の割合で含まれる。
09 : 加熱で気体が発生する。つまり、《風》と類縁。
10 : 炎中で燃える。太陽の《熱》と《光》から生じている。
11 : 糖の中では、《水》と《火》という対極的なものが一体になっている。
また、血液中にそのまま入ることができる。なぜなら、血液も《水》と《火》が一体になったものだから。
植物では糖はセルロースなどに硬化し、人間では糖は動きや熱の元となる。
12 : 糖の種類をどう教えるか。Juliusの見解では、8年生では糖全般について語り、9年生では糖の種類も考慮する。
13 : 具体的には、ショ糖とブドウ糖(果糖)の違いが問題になるときに教える。
還元性のある糖とない糖が、フェーリング反応で分けられる。

デンプン

01 : ジャガイモなどのデンプンを指でこねてみる。→乾いた感じ。
02 : 少量のデンプンを水の中に入れる。→しばらく浮いていて、やがて沈む。しかし溶けない。
03 : 炎の中に入れる。→融けずに、炭化する。炎は糖よりずっと弱いが、長持ちする。
04 : 日常との関係。料理の焦げ。ソーダ(アルカリ)を入れて沸かすと焦げが取れやすい。
05 : 植物中のデンプンを考える。糖は水溶液となって移動する。光合成段階で余分な糖はデンプンに変化する。このデンプン粒は顕微鏡で観察可能である。
夜などの暗期にはデンプンが糖に変化する。また、生命活動が止まるところでは、逆に糖からデンプンが形成される。これは密化であり、固化である。
植物ではこぶ状になったところや種子にデンプンが多い。
樹では夏に樹皮にデンプンが蓄積される。
種子では春になると糖に変わり、動き始める。
06 : 植物内での糖:溶液になって植物全体に流れていく。
植物内でのデンプン:無数の粒になってその場にとどまる。このデンプン粒を顕微鏡で観察すると、一つにまとまっているし、層状になり、中心を持つことがわかる。
つまり、全体性の中で活動する植物や、連続的な流れから「押し出された」素材であることがわかる。
植物は外界にオリエンテーションしているのに対し、デンプン粒は中心にオリエンテーションしている。
07 : デンプン&熱湯
デンプンを冷水で溶いて沸騰水に加える。粒が消え、半透明でべったりしたものができる。沸騰で泡ができるが、その泡の動きがゆっくりになる。冷やすとさらに固まる。=デンプン糊。これが料理に応用できる。(子どもの好きな話)
パンを焼くときにもこれと似たプロセスがある。
08 : デンプン&水
加熱で不完全に一体化する。つまり、両者の境界がぼやける。
デンプン粒が水を含み、膨らみ、構造を失い、そして全体と一体化する。
09 : デンプンの糖化とその応用
適切な温度と湿度で種子を発芽させた後に水溶、加熱、乾燥するとデンプンと糖の両方を含むものが得られる。麦芽。
10 : このプロセスはジャガイモではわかりにくい。
凍ったジャガイモの不味い甘さについて述べられているが、日本ではこれを経験することが少ないので、割愛。
11 : パンかデンプンを唾液で糖化する。「食べたデンプンはすべて糖になってから血中に入る」くらいのことは話す。細かいことは9年生。
12 : 糖・デンプンの存在証明実験。生徒は大好き。
9年生に持ち越す場合もある。
13 : フェーリング溶液を使うが、出来上がったものを生徒に見せるのではなく、作る過程も見せる。
(a)硫酸銅+水酸化ナトリウム→青い沈殿
(b)同じことを十分な糖の存在下で行う。青が濃くなるが沈殿はなし。
(c)これを加熱してもショ糖の場合は変化しない。
ところがブドウ糖を用いると、青から赤茶系の沈殿に変わる。
これを効果的に見せるには、大きな三角フラスコがよい。
(d)通常のフェーリング反応。フェーリングA,Bの両液を用意しておく。
両液を混合し、糖は入れずに加熱する。⇒ 色は変化しない。
被検査液にこの青い液を少量加えて加熱すると、赤くなる。
14 : デンプンはヨードで検出。ヨウ素の結晶を濃アルコールかKIで溶かす。
茶褐色の液体がデンプンと触れると濃紺に変わる。これは加熱すると消え、冷えると再度現れる。
15 : この二つを使うと、食品についてさまざまなデモンストレーションができる。
ニンジンの汁:フェーリング+、切り口にヨウ素-
ジャガイモの切り口、ヨウ素+
16 : 砂糖はフェーリング-であることを示す。
砂糖を酸で加熱し、それを中和してからだとフェーリング+。
こうして砂糖からブドウ糖や果糖が生じうることが示せる。
それゆえ、酸味のある料理に砂糖を加える場合、冷やしてから加えるのがよい。
17 : 植物内の糖
【糖】生命の基礎として薄い溶液で存在
(1)そのまま蜜として外へ(匂い、昆虫)
(2)外に向かって硬化。デンプンやセルロースに変化
生徒にときどき全体的展望を示すことが重要。

パン

01 : パン焼きは特に重要。
02 : 古い農家のレシピでのパン生地の作り方。
小麦に水を加え、さらに酵母、食塩、蜂蜜を加え、よく混ぜ、さらによく練る。
焼いた鉄板の上に伸ばし、オーブンで焼く。
03 : レシピは簡単であるけれども、奥にはいろいろある。主食である。
人間は自然界の中心的存在であり、パンはその主食である。上述のレシピには自然界全体が含まれる。これを一つの実験ともみなせるし、栄養物が身体に取り込まれるときの準備ともみなせる。小麦粉は《地》の要素であり、そこに《水》、《風》、《火》のプロセスが加わる。プロメテウスによる人間の創造の話を読むと、そこにも同じ要素が順に現れる。また、三原理の立場から見れば、塩、水、蜂蜜(熱)がある。
植物そのものを見ると、イネ科は最小の物質で直立する。この構造体は一つの芸術作品であろう。植物を直立させ、最も重い穂をできるだけ高くもたげる。重さに対し、常に勝利を祝っている。
04 : この事柄はジャガイモと比べると事情がよくわかる。イネ科は重さを克服し、ジャガイモは重さに従っている。
05 : 「直立=重さの克服」は人間特有の事柄である。そしてこれは意識の光を手に入れる土台になる。穀物はこの姿勢の元になっている。《地》の克服という意味では、キリストの復活はそのシンボルである。それに対し、ジャガイモは穀物の対極に位置し、重さに従い、闇の中で育つ。
06 : しかし、ジャガイモを復権させる実験もある。
ジャガイモを擦りおろし、水を加え、静かに沈殿させる。⇒ここから馬鈴薯デンプンの結晶ができる。
07 : ここで、食物ではないが、セルロースについて触れるのが良いように思う。
糖はデンプン、あるいはセルロースに変化しうる。このセルロースは穂では形成されず、常に植物全体で形成されている。そして、セルロースの形になるのでははく、植物の形になる。つまり、植物の構成素材である。人間にはまったく消化できないが、草食動物は消化できる。
08 : 大量に食べてはいるが、栄養にはなっていない素材である。

タンパク質

01 : 卵を割り、黄身と白身に分ける。粘り気やどろどろした感じを伝える。
02 : 卵白を水中に入れる。→水中に広がり、かなり溶ける。
湯に入れる→凝固
酸に入れる→凝固、さらに塩基によって溶解(加熱が必要)。
03 : 実験を系統的に完結させる(熱との関係)。つまり、直火にかける。
燃えず、黒く炭化する。かさぶた状になり、髪、羊毛、爪を焼いたときと同じ匂いがする。
これらは基本的に、硬化したタンパク質(変性したタンパク質)である。
04 : タンパク質自身には形はなく、これまでの実験で分かるように、微妙なバランスの上に成り立つ物質素材である。
本来の意味で、命の担い手である。
爪などのように、固まると死んだ形(変形しない形)をとる。
05 : 牛乳を酸で凝固させる。Sauer Milch(酸っぱい牛乳)の作り方を説明できる。(日本だと、乳酸を入れてヨーグルト?)
06 : アルコールによって凝固することを示す。アルコールが保存料でありうることを示す。

脂肪と油

01 : 脂肪を水に浮かす。沈めても浮いてくる。また、水の上を転がるだけ。
油を水の上にピペットで吹き付ける。黄金色の小球が揺らぎ、やがて水面で落ち着く。
水中で吹き出すと、油の放線が見られるが、これも水面で安定する。
油に水を入れると、沈んでいく粒が見られる。
試験管に水と少量の油を入れ、よく攪拌する。すると、ミルクのように白濁するが、やがて元に戻る。
同じことを、石けん液を加えて行う。油滴がずっと細かくなり、元に戻るのに時間がかかるようになる。
02 : 濃い石けん液、あるいは洗剤液を用いて同じ実験を行う。
これによって油は油滴にならず、水中に粒になって止まる。
油汚れは水では洗い落としにくい。この実験で石けんの役割が明確になる。
03 : 脂肪の融解と凝固
04 : 鉄製のるつぼに脂肪を入れて加熱する。すぐに火がつくことはないが、十分に加熱するとススを伴う明るい炎が出る。
灯油を沸点まで加熱すると劇的な変化が見られる。
容器から油をこぼしても、容器の壁面に油がついている限り、燃え続ける。
燃えている油に水を吹き付けると、火勢が増す。水を一杯(コップ?)かけると火勢はさらに強まり、数メートルの炎が上がる。同じ現象が天ぷらなどで起こりうることを警告できる。
05 : るつぼに水と油を入れて加熱すると、反応はよりマイルドである。その炎でシャーレにバターを入れた中でジャガイモを焼いたり、試験管を加熱したりできる。じりじり言いながら焦げていくのを観察できる。この音は、バターやマーガリンにかなりの量の水が含まれていることを示している。
06 : 油が《火》の要素と関係が深いことがわかり、《水》とはかかわりが少ない。
油を食べ過ぎると、消化が悪く、胃が重くなるが、バターではそうはならない。
07 : 体内に入った脂肪は発熱用として重要である。それゆえ、寒冷時や重労働の際には脂肪分が必要。
また、身体の隙間を埋める物質であり、動く上では潤滑油の働きをしている。
08 : 水鳥などの動物では防水にも使われる。また、鯨、アザラシでは脂肪が保温層になっている。
09 : 植物では、脂肪は種子に含まれることが多い。これは熱プロセスに関係している。

牛乳

01 : このエポックは牛乳で締めくくるとつながりが良い。
動物も人間も赤ちゃんのときは乳だけで成長する。つまり、必要な栄養はすべてその中に含まれている。
02 : 牛乳に糖が含まれることは、フェーリング溶液で証明できる。この糖はもちろん栄養分である。しかし、ヨーグルトができるにあたっては、この糖が重要な役割を果たしている。酸っぱくなると、甘みは消える。(フェーリングでも反応が少なくなるはず。)
【注】ヨーグルトの乳酸菌とは、乳中の糖分をつかって発酵をし、その際にできる乳酸が酸としてタンパク質を凝固させる。それゆえ、生ヨーグルトでは砂糖が別な袋に入っている。初めから入っていると、時間と共に甘くなくなってしまう。
03 : ミルクを放置すると、脂肪層(クリーム)が分離する。それを遠心分離器で加速することもできる。(調整乳では難しいかもしれない)
04 : Milk、あるいはクリームからバターを作る。
激しく振るか攪拌することでバターの粒ができる。
クリームの主成分は脂肪であるが、ミルク内の他の成分も含む。
それに対し、バターの主成分は脂肪と水である。一見すると水は薄める作用しかないように思うが、実はバターにとって重要な成分である。
バターには消化を助ける成分が含まれ、マーガリン会社が研究をしている。(とっくに成果がでているはず?)
ミルクとバターを比較すると、ミルクでは水の中に油が混ざり、バターでは油の中に水が混ざっている。
05 : タンパク質はさまざまな方法で見つけることができる。
ミルクを加熱すると表面に膜ができるが、それはタンパク質の一部である。
酸を加えるとすべてのタンパク質を凝固させることができる。
自然に酸っぱくなった場合にも同様な凝固が起きている(Sauer Milch)。
やや密な沈殿部分とやや透明な液体の乳清部分とに分離する。
分離に関しては、温度が低いと明確には現れないが、加熱するとよりはっきりとする。
ミルクのzusammenlaufenという現象。(日本では有名ではない現象でしょう)。
06 : Sauer Milchをさらに布で漉して濃くするとQuark(日本では見かけない乳製品)になる。
さらに濃くするには絞る。
07 : チーズの製法。
仔牛の胃液で凝固させ、ほとんどの水分を取り除いていく。
08 : これらのプロセスでは発酵を使っている。発酵とは、方向性を持った、ごく初期だけの《腐敗》である。
09 : この授業の後に、動物性食品と植物性食品のリストを作ることができる。
10 : Steinerは化学が産業の基礎であることを、授業内容として非常に大切にした。それゆえ、食品工業について扱うこともできる。あるいは、石けんの製造について教えてもよい。

2015年5月1日金曜日

地球から金星を見た視線が残ったとすると

金星の軌道

地球から金星を見た視線が残ったとすると






地球を中心として見た金星の軌道

金星の軌道

地球を中心として見た金星の軌道






2015年3月15日日曜日

川村記念美術館のレンブラント

■レンブラントを買うなんて

千葉県佐倉市にある川村記念美術館には「マーク・ロスコの部屋」という特筆すべき展示がありますが、他にも素晴らしい作品が展示されています。その一つが、このレンブラントです。まず、購入されたレンブラントの作品が日本に存在する、という事実が驚きです。19世紀の印象派の絵は売買されることもありますが、17世紀のレンブラントの作品が動くことはまずありません。上野の国立西洋美術館ですら所蔵しているのは、彼のエッチングだけなはずです。

■「つば広の帽子の男」(1635)レンブラント29歳の作品


この作品では、人物の優しくも力強い視線が非常に印象的です。この視線にこの人物の、聡明さ、誠実さ、温和さが現れているように見えます。そして、こうした印象は、画面の中で絵画的にレンブラントが創り出したものです。つまり、作品にふさわしい印象を作り出すために、色彩、明暗、構図、モチーフ等々に秩序を与えていきます。そうした点を少し詳しく見ていきましょう。

▲二つの光…レンブラントの手法(おそらく彼の創案)

レンブラントは多くの作品で二つの光の位置関係によって、絵画の中にドラマを作り出しています。この事実は、画集をめくっていただければ、どなたにも納得していただけるはずですが、典型的なのはミュンヘンに展示されているキリストの磔刑と復活に関連する5点の連作です。

  1. 処刑前のキリスト
  2. 死の直後のキリスト
  3. 埋葬されるキリスト
  4. 復活するキリスト(画面四時方向にぼんやりと描かれている)
  5. 昇天するキリス

処刑前では肉体そのものが輝いていますが、埋葬では復活を予感させる光が描かれ、復活では光の主体は身体ではなく、天使の側にあります。つまり、二つの光の関連性でドラマを演出しているのです。

▲「つば広の帽子の男」における二つの光

この絵の明るい部分は、人物の右頬から右肩の襟にかけて、並びに人物の背後にある壁の部分です。この明るい部分に着目しますと、背後から前方やや上への動きが感じられるはずです。そして、その動きがこの人物の視線の方向とおよそ一致することが分かるはずです。

▲つばの形

帽子のつばは画面右側では波打っていて、しかも幅狭く描かれ、画面左では膨らんだ形として伸びやかに広がっています。この形そのものに、私たちはどのような動きを感じるでしょうか。右側は萎んでいくようであり、左側は膨らんでいくようです。ですから、この形に私たちの感情を乗せて動きますと、画面右から左に向かっての動きを感じ取れるはずです。

▲襟のひだ

幾何学的に100%ある位置を指し示すわけではありませんが、主なひだの方向を、直線としてではなく動きの方向で延長すると、そのほとんどが、人物の右目領域に集まります。

つまりこの作品では、人物の右目を中心に、画面後方右側から画面手前への動きが作り出され、それが人物の視線の持つ印象へと変るのです。

自然認識と水彩:アブラナ

■アブラナとの出会い

アブラナに対する一番の印象は、「黄色」でしょう。花が黄色いのは言うまでもありませんが、つぼみの時ですら、非常に黄色に近い緑色で、とても明るい印象を受けます。

アブラナが一面に咲いていますと、個々の形には意識はいかず、ただその光る色合いに圧倒されます。
ゲーテも『色彩論』の中で、光と近い関係にある黄色は、今ある場所から広がっていく傾向がある、と述べています。つまり、形としてまとまりにくいのです。

山村暮鳥の詩「風景」には、そうした体験が描かれているように思います。

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな

■一本のアブラナ
個々の植物には意識が向きにくいですが、しっかりと見ますと、茎は重さに対抗する方向にしっかりと伸び、わずかに花の近くが光の方向を向いていることが分かります。

つまり、目立たぬながらもしっかりとした軸を持ち、そこから周囲の世界にひたすら広がっていく動きがアブラナの特徴と言えるでしょう。

■アブラナと光
アブラナは日当りの良い立地を好み、日照が不足すると花の生育が悪くなります。

また、古くは油の素として栽培され、その油は行灯の光として使われました。
やはり、本物の輝きには及びませんが、「光の植物」という体験は描けるかと思います。
■リンク

2015年3月9日月曜日

フォルメン(組紐模様)自由自在


ギャラリー

原理が分かれば、どのようにでもデザインできます。

交わる三つの円からの作図


はがき用デザイン


その他、いろいろ










 グラス・リッツェンによる作品

友人が作ってくれました。



関心を持つ人が多ければ、方法をお教えします。(簡単すぎるので、公開を渋ってます)。



2015年2月1日日曜日

『一般人間学』レーバー要約、第01講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 基礎づけ:霊界とのつながりは新たな教育の前提条件(1~2)

▲《主知的・感情的とモラル的・霊的》-物質主義と霊学(1)

開校に当たっての祝祭的な言葉の後シュタイナーがまず語ったのは、これから成されようとしていることが、どれほど偉大な関連の中にあるのか、ということだった。そこでの課題は、単に《主知的・感情的》なものではなく、最高度の意味で《モラル的・霊的》なものである。つまり、共に活動している人間が単に物質界に生き、働いていると理解するのではなく、霊的諸力からの委託を受けた人々であると理解することを意味している。イマギナチオーン的、インスピラチオーン的、イントゥイチオーン的に個々人の背後に居るとされる霊的諸力とのつながりをつくる。(このあとシュタイナーは教師のためのマントラを与えた。シュタイナーの意向により、記載はされず、口伝されてきた。)

▲《世界秩序の祝祭的行為》(2)

学校設立とは《世界秩序の祝祭的行為》と見なされなくてはならない。これもまた善き霊がエミール・モルト氏に学校設立という考えを抱くようにすることで、霊的世界で準備された。ルドルフ・シュタイナーの謝辞はこの導きの時代霊に対して向けられていた。

■ 第五文化期の教育課題:物質主義とエゴイズムの克服(3~9)

▲時代の状況と時代からの要求(3~6)

序曲の後、教育的課題について検討される。そうした課題とは時代毎に異なっている。そして、現在の課題もしだいに意識の前に明らかになっている。意識魂の時代、第五文化期での課題は、それ以前の文化期の課題とは違うのである。未だに、過去のものが支配的ではあるにせよ。新たに必要とされる事柄に対して物質主義は目を曇らせる。その結果として、シュタイナー学校に通おうとする生徒であっても、間違った教育をすでに受けてしまっているのである。こうした場合、初めからバランスを取ること、改善することが問題になる。この目標に向かって、未来の教師は全員この新たな教育的課題と意識を持って取り組まなくてはならない。

▲現代の底流であるエゴイズム(7~8)

現代文化は精神生活に至るまでエゴイズムを基礎に築き上げられている。そのエゴイズムの一つとして、死後も自我を保ち続けようとする人間的衝動がある。宗教において人間の不死性ばかり偏って見ていて、誕生前のことを無視するとき、まさにこれは人間のエゴイズムにアピールしていることになる。生活のあらゆる部分でこうしたアピールと闘っていかなくてはならない。なぜなら、それは人類を後退させるものだからである。それができるのは、人間の誕生前に目を向けるときである。人間は誕生前に長い間、成長発達している。その結果、霊的な世界で〈死に〉別な存在形式を持たなくてはならない、という衝動を持つ地点にまで至る。つまり、さらにエーテル体と肉体を纏おうとする衝動である。このように、地上的人生とは、人間がそこから由来する霊的な営みの継続なのである。したがってこの地上での教育とは、誕生前に霊的存在が行っていたことの継続なのである。このように洞察することで、教育者に正しい雰囲気が生まれる。

▲誕生前教育?(9)

誕生前教育という問題は抽象的で何も掴むことができない。具体的に考えると、誕生前の人間はより高次の存在たちの庇護の元にあった。妊娠中の母親がモラル的にそして知的に《正しく》生活していると、そのこと自体が胎児に働きかける。教育は誕生後に始まる。つまり、産声と共に地上的世界の秩序の中に入ってきたときに、始まるのである。

■ 霊・魂と身体の結びつきとしての誕生(10~12)

▲霊・魂と身体との結合(10~12)

霊界から物質界に移るにあたって二組の三体が統合しなくてはならない。つまり:霊人、生命霊、霊我の側と意識魂、悟性・感情魂、知覚魂(感受魂)の側である。

誕生前の人間とはこのように形成された霊魂である。そして、生活の場である高次の領域から地上的存在へと向かって来る。そして、この霊魂は、地上でさらなる三体つまりアストラル体、エーテル体、肉体からなる身体と出会う。これらの霊・魂・体ははじめ母体内にあり、やがて物質界に生まれ鉱物、植物、動物の三界と結びつく。はじめはきちんと結びついていない霊魂と身体を調和させることが教育の課題になる。

■ 二つの教育的課題:呼吸を教えることと睡眠を教えること(13~18)

▲呼吸、および人間と外界の関係(13)

その課題をより具体的に言えば、外界との正しい関係を作り出すことであり、その中で最も重要なのが呼吸である。母体内での呼吸はまだ準備段階で、それは誕生と共に始まり、ただちに三層構造的人間全体とかかわる。

▲呼吸と代謝作用(14)

血液循環と呼吸は外界から取り込まれた物質を身体全体に運ぶ。つまり、呼吸は代謝系とも関係している。

▲呼吸と神経感覚系の営み(15)

一方で呼吸は神経感覚系とも密接に関連している。つまり、吸気では脳水が圧迫され、呼気では下に下がる。そのため、呼吸は人間と外界を仲介している。それでも、呼吸と神経感覚系の調和を作ることはその先の課題である。

▲呼吸の営みと発達(16)

子どもはまだ、神経感覚系の営みを維持していくような形で呼吸することはできない。別な言い方をすれば、呼吸と神経感覚系がきちんと調和したときに初めて、霊魂は子どもの地上的営みの中に入り込んでくることができるのである。したがって、教育の課題とは子どもが正しく呼吸できるように教えることなのである。

▲睡眠と覚醒の交代(17)

具体的課題の二つ目は睡眠と覚醒の交代と関係している。外的に見れば子どもはほぼすべての時間眠っている。しかし睡眠と覚醒の内側にあるものはまだきちんとできていません。つまり、地上界で体験した事柄を霊的世界に持ち込むことができない。大人の場合は地上での体験を霊界に持ち込むとそこでそれが変容され、さらにその結果が再び地上に持ち込まれる。私たちは子どものために霊界から何かを持ってきてやることはできない。地上界での体験を霊界に持ち込んでいかれるように助けてやることしかできない。そうしたときに初めて、霊界から力が流れ込んでくるのである。

▲呼吸と眠りについてのまとめ(18)

正しい呼吸を教えること、睡眠と覚醒の正しい交代を教えることが最も重要な課題である。教育者、授業者として行うことすべてについて、それが霊魂と身体の結びつきを促すものか抑えるものかを意識していなくてはならない。

■ 教師の自己教育(19)

▲教師の自己教育(19)

教師は、行ったことを通して子どもに働きかけるだけではなく、それよりはむしろ、彼がどんな人間であるかによって働きかける。つまり、人間性が問題なのであって、教育的手法に長けているか否かがそれ以上に重要なのではない。どのような人間もそうであるが、教師のあり方を決める主要因は、どのような考え方を育て、身につけているか、なのである。呼吸とか、睡眠覚醒の交代といった宇宙的な関連を考えている人はそうでない人とは違ってくる。なぜなら、そうした考えを持っていると、容易に陥りやすい単なる個人的霊性を抑えることができるからである。

こうした個人的霊性が解消したときにはじめて、生徒と教師の正しい関係が作り出される。経験的には、悪ふざけをしたり教師を笑いものにしたりなど、〈正しい関係〉と矛盾することがたくさんあるが、そんなものは気にかける必要はない。教師は、こうした抵抗にめげずに、生徒との望むべき関係を作り出さなくてはならない。そしてこれは、教師が自分自身の側から行うことによって成し遂げられる。自分自身をどのような種類の考えで満たしているか、と授業中に子どもの身体と魂で起こるべきことの関係を認識すると、霊魂と身体の正しい結びつきをもたらすように働きかけるようになる。
この第一講は大切な基本モチーフが現れる一種の序曲となっている。本来の意味での教育的人間学は次の講演から始まり、発展していく。

『一般人間学』レーバー要約、第02講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 新たな心理学の必要性(1)

▲新たな心理学の必要性(1)

最初の大きな課題は、未来の教育の礎となる現実的な心理学を新たに基礎づけることである。なぜなら、意識魂の時代に入った現在において人間の魂を真に捉えられていないからである。伝統的な心理学の概念には内容がない。たとえば、表象や意志についての正しい概念を持っていない。その理由の一つは、人間を宇宙的な関連の元で見ていないからである。この関連を認識して初めて《人間本性そのものの理念》が得られる。

■ 表象と意志(2~6)

▲表象の特徴は像的であること…誕生前の鏡像(2~4)

表象の最も中心になる特徴は、それが像的であることである。たとえば私たちは、鼻や胃といった存在要素を持ち、それを自分のものと感じている。表象的把握では、対象と一体となるのではなく、まさに対象と距離を置くことでそれを捉えている。その意味でデカルトの「我思うゆえに我あり」つまり、認識が存在の証明になる、という発言は誤りである。

思考的活動もさまざまな像の動きである。表象によって空間内の物体の像が写し出される。それと同様に、表象には誕生前の体験が写し出される。誕生前から絶え間なく流れ込んでくる体験が人間の身体性にはじき返される。それゆえ、表象は誕生前に人間が存在したことの証明である。

▲意志の萌芽的性格ー死後を指し示すもの(5)

意志とは認識の終着点である。なぜなら、それ自身は何の内容も持っていないからである。(意志に内容を意識することはあっても、その内容は表象から来ている)。それは私にとっては萌芽として存在していて、死後に私たちの中で霊的・魂的現実になる。

▲表象と意志のまとめ(6)

表象と意志の対極性がまとめられている。像(表象)とは現実以下のものであり、萌芽とは現実以上のものである。そこには後に現実となるものの素地が含まれているのだから。ショーペンハウアーは意志の霊的性質を予感はしていた。

■ 魂の営みの対極性:意識されない反感と共感(7~15)

▲反感と共感ー魂界の鏡(7~9)

像的な表象と萌芽的な意志の間に、物質界の現在を生きる人間がいる。誕生前のものを跳ね返すことで像を作り出し、意志は完全に展開させず、萌芽にとどめている。こうしたことはどのようにて起きているのか?

魂界には反感と共感の働きがあり、そこから人間には意識されない反感と共感の力が働いている。私たちは地上界に降りてくるが、それによって霊的なものすべてに対して反感を発達させる。その反感によって誕生前のリアルを表象像にまで変容させる。意志活動は死後まで突き抜けていくが、これと私たちとを結びつけるのが共感である。この二つの力は意識されないし、またこの両者の交互作用が感情の原因である。

▲反感(10)

反感の中で人間は命や誕生前の世界すべてを跳ね返す。この成り行きには認識の特徴がある。認識は誕生前には密度の高い現実として存在している。そしてそれが反感と出会うと像にまで弱められる。今日肉体的な人間として私たちが表象をする際の力は誕生前からの余韻である。

▲反感の段階(11~12)

反感が強められると記憶像、記憶が生じる。つまり、人間は表象に対して一種の吐き気を催し、それを押し返し、それによってそこに現れさせる。像的表象、記憶への跳ね返し、像的なものの保持、というプロセスが行き着くところが概念である。

▲共感(13~15)

表象では反感が必要であるのに対し、死後の萌芽である意志では共感が必要である。その共感が高まるとファンタジーが生じる。これが人間全体に浸透して感覚にまで至ると日常的な意味でのイマジネーション、つまり知覚像的イマジネーションが生じる。抽象によって表象するのではない。たとえばチョークを見て《白》の知覚が生じるのは、意志の力、つまりファンタジーからイマジネーションへと至る共感的力をつかっているのである。一方、概念は記憶に由来する。

共感、反感との関連で上述の区別をしたときにはじめて、人間の魂を捉えることができる。死後の魂界ではこの両者があからさまに現れる。

■ 魂と身体形成とのつながり(16~20)

▲神経系(16)

人間の魂的様子は身体にも現れる。誕生前の魂的なものは反感、記憶、概念を経て人間身体にまで至り、そこで神経組織を形成する。また、知覚神経と運動神経の区別は「無意味」である。

▲血液(17)

意志、共感、ファンタジー、イマジネーションは萌芽的なものに留まる。生じるそばから消滅していく。人間の身体においても、物質的にできあがってもただちに霊的状態に移行しようとするものがある。これは利己的な愛によってどうにか物質性を保つが、最後には破壊される。これは血液である。

▲「血はまったく特別な液体だ」(18)

血液には霊的なものへと舞い上がろうとする傾向がある。死に至るまで血液を体内に留めておくためには、絶え間ざる消滅と新生が必要である。その役割は吸気と呼気が担っている。

▲神経と血液の対極性(19)

つまり、私たちの内には両極のプロセスがある。血流に沿ってのプロセスは私たちの存在を霊化しようとし、(運動神経と言われているものは本来は血液の流れである)神経に沿っては、物質化しようとする。神経経路に沿って物質が分泌、排泄される。

▲神経を理解することの教育的な意味(20)

この基本原理を考慮すると、子どもを身体的にも魂的にも健康に教育することができる、つまり衛生的な授業ができる。(このテーマは後の講演でさらに検討される)。誤った教育がはびこっているのは、人間本性を認識できていないからである。例を挙げれば、感覚神経と運動神経の区別する認識は間違っている。特定の神経が傷つくと歩けなくなるといのは、《運動》神経が麻痺するからではなく、自分自身の脚を知覚できなくなっているからである。

■ 人間と宇宙の関連…身体におけるその三重の現れ(21~28)

▲共感と反感の身体における現れ(21~22)

人間本性は宇宙的なものとの関連を考えて初めて理解されうる。表象では宇宙的なものが誕生前から、意志では死後から働きかけている。私たちの中で無意識に広がっているものは、宇宙における高次の認識では非常に意識化されている。

共感と反感は体においては三重に表れている。つまり、神経活動が中断され飛躍があるところに三つの炉がある。頭部神経、脊髄、自律神経系の神経叢である。感覚神経から運動神経に受け渡されるのではなく、ある神経から別な神経に直線的に伝わっていく際に跳躍がある。それによって私たちは魂的に動かされるのである。

▲頭部と四肢の対極性(23~25)

経験は私たちと宇宙を結びつけていて、行為は宇宙においても終わることなく継続する。逆に私たち自身は宇宙の共感と反感が展開した結果である。

私たちの身体は頭部、胸部、四肢というように分節化している。それでもこの3つの系は厳密な境界で分断されてはおらず、むしろ徐々に移行している。頭部は主たる頭部であり、他にも《二次的頭部》がある。胸部、腹部系についても同様なことが言える。たとえば、脳にいても栄養系があり、それが大脳に入り込んでいる。脳外皮(浅灰白層)は退化した栄養器官である。私たちの脳が動物より優秀なのは、栄養供給が動物の脳より優れているからである。認識そのものは脳によるのではなく、脳では単に認識が身体的に現れるのである。

四肢を含む下半身と頭部が対極をなしている。頭部系は宇宙からはき出されたものであり、頭部は宇宙からの反感によって形成されている。人間が内に持つものに対し宇宙が吐き気を催し、吐きだしたものが頭部である。頭部は宇宙の写しであり、自由にかかわる器官である。それに対し生殖器官を含む四肢は宇宙に組み込まれている。宇宙は四肢に対して共感を持っている。宇宙の反感と私たちの反感が共に働くことで感覚知覚が生じる。四肢系のあらゆる内的な営みは、宇宙が愛と共に私たちの四肢を揺らすことに拠っている。

▲教育に対する帰結(26~28)

意志と表象が対極として向かい合っているということは、教育にも関係する。表象形成の方だけに偏って働きかけると、人間全体を誕生前のものに向かわせることになり、意志がすでに役割を終えたものだけにかかわることになる。抽象的な概念ではなく、子どもに像を与えることでこうした偏りを和らげることができる。それはファンタジー、イマジネーション、共感から出てくる。抽象化は炭酸形成を促し、身体を固くする。像は酸素を保持させ、生成へとつながる。なぜなら、それによって子どもは絶えず未来に、死後に向けられるからである。…私たちは像によって教育することで誕生前の活動を受け継ぐし、その像は身体を活動させることで萌芽となりえるのである。つまり、像によって私たちは全人に働きかけている。

こうした考えを自らの感情に受け入れることで、教育において不可欠な神聖さがえられる。

一方に認識、反感、記憶、概念、もう一方に意志、共感、ファンタジー、イマジネーションがあり、この両方の概念系列を知ることは教育実践に非常に有効である。

『一般人間学』レーバー要約、第03講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 教師の意識と人類の至上の理念との関係(1)

▲教師の意識と人類の至上の理念との関係(1)

教師は、外には宇宙法則を、自らの魂内にはー特に低学年の教師はー人類の至上の理念との関連を、包括的に観ることができなくてはいけない。低学年の先生が高学年の先生よりも低く観られる、というのは学校にとって癌のようなものである。将来に至っては、すべての教師がその霊的素地において同じ価値と尊厳を持たなくてはいけない。すべての教師は、直接に生徒に教えるというのではないにしろ、背景に偉大な智を持っていなくてはならず、授業はそこから湧き上がってくるのである。

■ 人間を理解する上での二つの根本的障害:二元論とエネルギー保存の法則(2~6)

▲心理学が不完全である理由(2~3)

心理学的認識においては、869年のカトリック公会議の影響がいまだに残っている。このドグマによって、それ以前にあった人間の三分節(霊、魂、体)から二分節(魂、体)にしてしまった。これを前提にしてしまうと、人間の本性を理解することができなくなる。

▲エネルギー保存則から帰結される阻害(4~5)

人間を理解する上でもう一つ障害になるのが、エネルギー保存則である。つまり、宇宙全体のエネルギー量は一定である、という考え方である。(ユリウス、ロベルト、マイヤーはこの法則を1842年に定式化したが、エネルギー総量が同じである、と述べたのではなく、エネルギーはメタモルフォーゼすると述べていた)。心の人間存在であることの根本には、人間を通して絶えず新しい力が、それどころか新しい素材が作られる、というのである。

▲教師の課題:自然と文化の伝達(6)

生徒を、自然界を理解できるようにしてやることと、精神活動の考え方へと導いてやることが教師の課題である。この両者は、人間が社会的な営みに入って行かれるための条件である。

■ 世界への二通りの道筋と純粋思考の持つ意味(7~14)

▲自然に対する二重の関係―表象の側(7~8)

外的な自然は一方では私たちの表象および思考の側に向かって開かれている。(誕生前の鏡像である像的特徴)。もう一方で自然は私たちの意志の側に向かっても開かれている。(死後の営みに対する萌芽的性格)。こうした二重性から、人間の二層性という誤りが導かれた。―表象によって自然を捉える場合は常に、自然の死んでいく側面だけしか捉えられない。

▲知覚過程における自我ー意志の側(9)

私たちは十二感覚によって外界と結びつくが、これはまずは意志的なもので萌芽的である。プラトンは。人間が観るときには(超感覚的な、つまりエーテル的な)触手が物の方に伸びていくと言っている。頭部における眼の位置からして、動物と人間では世界との関係が異なっていることがわかる。動物とは異なるこうした点において、つまり眼の二本の超感覚的な触手の左右を超感覚的に触れさせることができるために自我、つまり自分自身を知覚できるのである。

感覚知覚にとっては、私たちが意志的に物に対して行う活動が決定的に重要である。高次の感覚に至るまですべての感覚器官は意志的である代謝と結びついている。

▲「なっていくこと」と「できあがっていること」(10~12)

最初に挙げられた自然との二重の関係がもう一度特徴づけられ、要約される。人間は悟性によって死んだ物を捉え、それを自然法則として定式化する。感覚器官にまで達して働いている意志によって人間は死を克服しうるもの、世界の未来となりうるものへと持ち上げる。このように述べてからシュタイナーは自然との生き生きとした関係を、光と色との関係を例にしながら、根本から述べ、誕生前と死後を新しい形で結びつけている。自然界では絶えず死に向かう方向と生成へと向かう方向が結びついている。

▲認識における、感覚に依拠しない純粋な思考(13~14)

もし人間が、ここに挙げた二つの力しか自らの内に呼び起こすことができなかったとしたら、人間は決して自由ではありえないだろう。悟性の側だけに結びついているとしたら、死んだものとした結びつかず、自分自身においても死んだ部分としか結びつかず、死んだもの、死していくものを自由にしようとするだけだろう。また意志の側だけであれば、人間はぼんやりとしてしまい単なる自然存在でしかなくなるだろう。ーこの対極的なもののなかに第三のもの、人間が誕生から死までの間担っているもの、つまり感覚に依拠しない純粋思考、そこで絶えず意志が働いている思考が加わる。この思考によって人間は自律的な存在となる。

■ 自然に対する人間の意味(15~21)

▲進化に対する人間の意味(15~17)

近代の学問では、自然現象の中での生成の流れと新生成の流れを分けて考えておくことができない。この分離ができるようになるためには、次の問いが現実に即したかたちで答えられなくてはならない。つまり、「もし人間が地球にいなかったら、自然はどのようになっていただろうか」という問いである。自然科学的な見地からは、その学問が前提としていることからの当然の帰結として、「耕作や科学技術によって変形を受ける前の自然が、人間だけがいない状態で鉱物界、植物界、動物界として成り立っていた、と考える。

霊学の観点からは逆の答が導かれる。進化において人間が存在しなかったとするなら、地球の自然界はまったく違った形で存在していただろう。

・・・とりわけ高等動物は、人間がさらに進化するために言わば沈殿物のように排泄されることで生じた。

・・・人間がいなかったとしたら、下等動物だけでなく、植物界、鉱物界もとうの昔に硬化し、生成発展の余地はなかっただろう。

▲地球の形成力にとっての人間死体の意味ー若さを保たせる働き(17~21)

火葬であれ土葬であれ、人間の死体は絶えず地球に還っていくし、それによってリアルなプロセスが働く。死体によって進化を支える力が補われる。それはちょうど酵母がなければパンが膨らまないのと同じようにである。死体の力が働いているので、今日もなお鉱物は結晶化できるし、植物や下等動物が成長できるのである。人間の死体は地球進化の酵素なのである。死によって人間は自然プロセスの一部になる。

人間死体に地球進化を支える力があるのは、地上生の間、人間の肉体に絶えず霊的・魂的な諸力が入り込むことよって肉体が変容し、死に際しては誕生のときとは違ったものになっているからである。人間は外界から得た素材や誕生時に受け取った諸力を新しいものにし、それらを死に際して変容させたかたちで地上的プロセスに受け渡す。それによって人間は超感覚的なものを絶えず感覚的・物質的なものに伝えている。人間は誕生から死までこの霊的・魂的な「滴」をが受け取り、死ぬと大地に渡す。この滴によって超感覚的な力が地球を絶えず実りあるものにしている。これがなかったとしたら、地球はとうの昔に死んでいただろう。

■ 人間に対する自然の力の働きかけと自然への人間の働きかけ(22~29)

▲死の力による骨と神経の形成(22~23)

自然界の二つの流れ、つまり死と新生は人間の中にどのように続いているだろうか?自然界に強く働いている死の力は人間においては骨格系と神経系にあたるものを与えてくれている。死をもたらす力を変容させずに人間に作用させたら、私たちは骸骨になってしまうだろう。それを弱めることで神経系ができあがる。神経とは絶えず骨になろうとする傾向を持っている。それを妨げているのは神経が血液や筋肉などに属する要素と結びついて変化しているからである。一方に神経・骨格系があり、もう一方に筋肉・血液系があり、その両者を正しく結びつけることは非常に重要である。(クル病では骨がしっかりと死ぬことが妨げられている)。眼では、まさにこの両極の力が正しく共働することで、意志的活動と表象的活動を相互に結びつける可能性が与えられている。

▲骨格系と幾何学(24~25)

昔の人は神経と同様に骨も考えることを知っていた。実際、あらゆる抽象的学問、たとえば幾何学などは、骨格系の能力に拠っている。人間が、具体的な生活の中では決して現れることのない抽象的な三角形を幾何学駅・数学的ファンタジーから作り出せる、というのは背骨が直立していて、平面上でたとえば三角形を動けることに拠っている。

幾何学的図形として固定された動きを人間は大地と共に行っている。地球の動きとはコペルニクスが述べた動きよりはるかに複雑である。たとえば、プラトン立体の直線の動きをしている。

私たちの骨格系の持っている認識を私たちは直接に意識はされないが、幾何学的な像として反映されている。幾何学をすることで、人間自身が宇宙で行っていることを再構成しているのである。

▲人間を通して生の力が自然界に流れ込んでいく(26~28)

死の力の反対側には血液・筋肉系の力がある。これは絶えず動き、変化し、生成し、萌芽的である。人間が居なければ地球上のすべてのプロセスに広がっていってしまうであろう死を人間だけが防ぐことができる。大きな結晶化から個々の結晶を引き離し、それを保たせている。こうして人間は地球の命を活性化し、さらなる発達の可能性を守っている。

自然科学やアメリカ的思考に基づく哲学では人間は宇宙における単なる観客でしかない、つまり宇宙は人間なしでも存続するのである。シュタイナーは、彼の初期の著作である「真理と学問」の中で人間を舞台として捉え、しかも人間的なことが起こる舞台ではなく、宇宙的な事柄が起こる舞台として捉えていることに触れている。こうした考え方をしなければ決して正しい教育者とはなれない。

人間の中の骨格・神経系と血液・筋肉系の共同作用によって絶えず素材や諸力が新しく作られている。そして、それによって地球も死から逃れている。霊的なものに向かっていく血液の新生と保存(第2講)という考え方とここでの考え方の両者を結びつけたものを基礎に考えが展開していく。無からは何も生まれえないが、一方が滅びもう一方が生じるという形で変容する、という《総合的》な考えによって初めて現実の人間を把握できる。

▲結末(29)


表象の営みにおける力によって宇宙法則を明文化する代わりに、私たちは《公準》を作った方がよいだろう。つまり、異なる領域をお互いに分けておくために概念を用いるのである。(これは、物体の相互不可侵性を例に示された)。定義をしそれにユニヴァーサルな有効性を認めることが重要なのではなく、物において観察され体験されることを記述することが大切なのである。

『一般人間学』レーバー要約、第04講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 未来の教育と意志についての認識(1~3)

未来の教育においては、意志の教育と感情の教育に特に重点を置く。そのためには意志についての洞察が必要である。意志について認識すれば、感情の一部も認識できる。つまり、感情とはせき止められた、弱めたれた意志である。-意志は地上生においては決して成就することはない。あらゆる意志の遂行においても必ず死語にも続いていく《残り》が存在する。人生全体を通じて、また幼児期においても、この残りを考慮しなくてはならない。

■ 体、魂、霊という人間本性の全体(4~8)

▲全体展望(4)

全体としてみると、人間は体、魂、霊からなっている。体は遺伝によって生じる。魂は以前の地上生に由来している。また現在の人間では意志はその萌芽だけが存在していて、未来になって初めて発展する。

▲霊的本性(5~7)

現在のところ萌芽として存在しているものの一つを霊我(マナス)と呼べる。昔の人々は、人間において死後にも残る部分をマーネンと呼んだ。ここで複数形を用いているのは正しい。なぜなら、地上では人間は個として単数的に存在しているが(マナス、個人的天使)、死後は複数的である大天使に受け止められるからである。また、生命霊、霊人は人間の中の最高次なものであるが、これは遠い将来に発達する。 この3つの霊的な部分が死後から次の誕生までの間、霊的存在の庇護の元に発達する。人間は地上において発達するだけではなく、死後も発達する。しかし、霊的存在からの臍の緒がついた状態である。

▲魂的本性(8)

今日の段階ですでに意識魂、悟性魂(情緒魂)、感受魂という人間の本来の魂的部分が体の中で生きている。

▲体的本性(8)

そこに体的な構成部分、つまり感受体(アストラル体)、エーテル体、肉体を加えると人間全体になる。

■ 体的諸本性と意志(9~12)

▲肉体と本能(9)

動物の肉体はさまざまな意味で人間とは違った作りになっている。つまり、周囲の世界と叡智に満ちてつながっている。その動物が生きて行くに必要で、その動物に特有な行動様式が動物の身体のフォルムに根付いている。建築物をどのように作り上げたら良いかをがビーバーが身体組織で知っていることが例に挙げられている(人間が同じようなことをするためには、長期に渡る勉強が必要である)。身体のフォルムから来て行動を導く要素を本能と呼ぶことができるし、これは意志の最も低い次元である。動物のフォルムには自然そのものが本能のあり様を記している。

▲エーテル体と欲望(10)

目に見えない形でエーテル体が肉体に浸透し、それを形成しているように、肉体に現れている本能もまた掌握している。それによって本能は、内面化され、ひとまとまりになり、欲望になる。本能はあたかも外側から迫ってくるように見えるのに対し、欲望はより内側からやってくるように見える。

▲感受体と衝動(11)

感受体が欲望を捕らえるとこれはさらに内面化され衝動となり、同時に意識に上ってくる。衝動というのは動物において見られる意志の最高の形である。これは継続的で《特徴的な》魂の性質ではなく、生じては消えていくものである。

■ 魂的本性と意志-動機(12)

人間にも動物と共通な体的なものがあるし、それに伴って同種の意志も持っているが、それが三つの魂領域を内に担う自我においては変容され、動機が生じる。身体では3つの体がはっきりと区別されたが、3つの魂を明確に分けることはできない。それは現在の人間ではそれらが互いに入り込み合っているからである。(ヘルバルトは表象の側を強調し、ヴントは意志の側を強調している)。したがって、「ある人間の動機を知れば、その人間を知ることになる」と言える。しかし、それよりも《奥》に微かに響いているものがあり、それを考慮に入れなくてはならない。

■ 私たちの内なる第二の人間としての霊的本性、ならびに意志(13~18)

▲霊我と願望(13)

動機において微かに響いているものとは、願望である。しかし願望と言っても衝動から発じる願望ではなく、動機から生じた行為を後で振り返ったときの意識に現れるものを意味する。「あれはもっと上手くやれるはず、あるいは違った風にやれたはずだ」と言うときの願望である。行為に対して後悔するのは多くの場合単なるエゴイズムから来ている。つまり、よりよい人間であるために、もっとよくできたはずだ、と考えるのである。願望がエゴイズムではなくなるのは、「次のときにはこれと同じ行為をよりよくやろう」というように向かうときである。このような意味での願望とはすでに霊我に属しているし、この段階から、死後も継続する要素となる。

▲生命霊、意図と私たちの内なる第二の人間(14)

願望がはっきりとした形をとり、行為をより上手く実行するにはどうしたらよいか、という表象を形作ると、生命霊の働きによって意図が生じる。ここでは人間の中の意識されない部分が働いている。つまり第二の人間であり、-それは表象的にではなく意志的に-どのようにしたら未来における行為でよりよくできるか、という明確な像を作り上げる。

▲ドッペルゲンガー。アントロポゾフィーと分析心理学(15~16)

第二の人間については分析心理学でも言っている。第二の無意識に存在する人間の方が目覚めた人間よりも遙かに洗練されている点が、教科書的な例を引いて述べられている。言わばあらゆる人間の奥に居るもう一人の人間の中にはよりよい人間が居て、そこから今述べた意図が生じてくる。

▲霊人と決断(17)

死によって魂が身体から解放されるまでは、意図は萌芽である。意図は死後、霊人に属する決断になる。-つまり、願望、意図、決断は霊的人間の意志の形である。

▲死後における意志の発達(18)

願望、意図、決断や人間の奥なる本性からくるものは、死後の営みにおいて初めて発達する。誕生から死までの人間もこの意志の力を体験はしているものの、それは単に表象的であり、言い換えると像的である。-授業では、この意識されない魂の領域に秩序を与え整えるように働きかけなくてはならない。授業は、人間本性の深い部分で行われていることと共同しなくてはいけない。

■ 意志の教育(19~27)

▲反文化的なマルクス主義(19~23)

授業とは内なる人間を把握し、そこから形作られなくてはならない。マルクス的社会主義では通常の人間関係を元に授業を展開するという過ちを犯してしまっている。その意味でロシアのルネチャスク学校改革は文化の死を意味している。穏健社会主義からの要求もまた素人考えである。なぜなら、ボルシェビズムが(正当な)社会主義の中に悪魔的なものを持ち込んでいる点を認識していないからである。 教育が人間本性に対する深い洞察にしたがうときに初めて社会的前進も可能であること知る必要がある。大人同士の間で成り立っている関係を決して授業に持ち込んではいけない。なぜなら、それは子どもの本性にそぐわないからである。校長の廃止、子ども自身による自己教育、つまり反権威的教育といった多くのものは、確かに善き意志から来ているけれども、文化や未来にとって必要なものを全く見過ごしている。

▲繰り返しの行為による意志の育成(23~27)

授業や教育は魂の深い層、特に意志の本性に働きかけなくてはいけない。これを子どもに正しい仕方で行うにはどうしたらよいのか? 知的なものはすべて年老いた意志でしかない。それゆえ悟性に働きかける教示や警告は子どもに作用しない。要約すると、感情とは成就する前の意志であり、意志の中には人間全体の営み、つまり体的、魂的、霊的な営みがある。つまり、子どもであっても意識されない願望、意図、決断を勘定に入れる必要がある。意志への道は感情を経由している。正しいことへの感情を子どもの中に目覚めさせる何かに子どもの注意を向けさせ、これを子どもに繰り返しやらせることによって、行為が習慣になる。意識化されない習慣は感情を豊かにし、完全に意識化された繰り返しは意志衝動や決断力を強める。知的な営みでは一回だけそれを紹介して理解するものと考えている。感情や意志には繰り返し、つまり習慣にまでなった行為が作用する。 教育実践において、この原則は当たり前のこととして成り立つ。たとえば、毎日「父なる神よ」を祈る。今日の人間は一回だけのことに強制されている。それでも、意志の育成は意識的な繰り返しの上に成り立つ。子どもの頃に、今日も明日も同じことをする、という指示を受けることによって人間は強くなる。これは権威から行う。なぜなら、子どもは学校では一人が命令しなくてはならない、ということを理解するからである。 意志育成には芸術が特によく作用する。なぜなら、芸術とは繰り返しの上に成り立っているからであり、繰り返し喜びをもたらし、何回も楽しむことができるからである。それゆえ、あらゆる授業が芸術的な要素で満たされていることが望ましい。

『一般人間学』レーバー要約、第05講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 人間の魂の活動における意志と思考の関係(1~6)

これまで意志について見てきたわけだが、これは人間の他の部分の観方も豊かにしてくれるはずである。これまでは人間の認識活動、意志活動を中心に、それらを神経系や血液系と関連させて見てきた。ここで第三の魂的活動である感情を検討してみよう。感情について観ることによって、両極である思考と意志をさらに深く観ていくことになる。 魂の活動を完全にパターン化してすべてを分けて考えてはいけない。それらは互いに移行し合っている。自分自身を振り返ってみればすぐにわかるが、意志の中には表象の要素があるし、表象の中には意志の要素がある。意志の中には底流として対極の力である思考があるし、その逆も言える。

■ 魂的活動の身体における現れ(7~15)

魂的活動が互いに移行し合っていることは、こうした活動が現れる身体にも反映されている。眼には神経がつながっているが、血管も通っている。眼には、血管を通して意志的なものが、神経を通して認識的、表象的な要素が流れ込んでいる。こうした二重性はすべての感覚器官に見られるし、意志に関わる運動器官にも見られる。

▲視覚を例に示される感覚プロセスにおける認識活動と意志活動(7~9)

神経によって仲介される認識活動の特別な点は第2講で述べられていたが、その中に距離を取る働きである反感が生きていることだった。たとえば眼には共感的である血液も流れていて、そのおかげで対象を見て吐き気を催さないであるんでいるのだ。共感と反感のバランスを取ることによって、視覚という、客観的で対象に干渉しない活動が可能なのである。そして、共感と反感の相互作用は無意識下にとどまっている。  色彩を研究することで視覚の成り行きについて深く入り込んでいったゲーテは、この共感と反感の相互作用を認識していた。あらゆる感覚活動においてこうしたことが起こるし、それは表象・神経と意志・血液に由来している。

▲人間の眼と動物の眼(10)

#ref(animal_eyes-ok.png,center,nowrap,60%,{鳥の眼、トカゲの眼}) 人間の眼と動物の目の決定的な違いは、動物の場合には血液活動がずっと強い点にある。一部の動物では眼の中に特別な血液器官が存在するほどだ。つまりそれは、動物では視覚において周囲の世界に対し人間よりもずっと強い共感を持っていることを意味する。人間では感覚活動により多くの反感があり、それが高まると場合によって吐き気といった形で意識される。反感によって周囲の世界から分離できることが、私たちの個人としての意識に働きかけている。

▲意志における共感と反感(11~13)

意志発動にも表象活動と意志活動が流れ込んでいる。何かを意志するとき、その意志の対象に対して共感を展開する。しかし、反感によって行為から身を引き離すことができなかったなら、私たちの意志は完全に本能的なものにとどまる。欲する事柄に対する共感の方も、通常は意識上にあがってこない。もしも熱狂、献身、愛(これらは吐き気の対極の力)を実行するとき、そのときだけは共感を意識する。こうして意志によって私たちが客観的に世界と結びつくためには、意志に思考を注ぎ込まなくてはならない。ちなみにこの世界とは、人類全体であり、宇宙プロセス全体だ。意志的プロセス全体やそこに含まれている反感的なものを意識したとすると、それは耐え難いものであろう。たえず反感の雰囲気を感じてしまうはずである。

▲人間本性の秘儀―子どもの成長(14~15)

子どもとともに共感が世界に生まれ出るとき、その共感とは強い愛であり、強い意志だ。しかしそれはそのままで留まっていることはできない。表象によって照らされなくてはならないのだ。それは、本能にモラル的理念を組み入れることによってなされる。誕生時と同じような共感的な本能を持ったままだと、その影響によって動物的に育ってしまう。しかし、そこに反感を注ぎ込むことによって、それに対抗するのだ。それゆえモラル的発達というのは常にいくらか禁欲的だ。つまり動物的なものと闘うのだ。

■ 魂の真ん中に位置する感情活動(16~25)

▲思考と意志の中間―感情(16~17)

感情の活動は思考と意志の間にある。ある境を経て一方からは共感(意志)が、もう一方からは反感(思考)が流れてくる。ある一方が主となって発達するものの、もう一方の極も含まれるという意味で、人間は全体となる。感情は思考とも意志とも同族なのである。感情の中には思考的・意志的要素が共に流れ込んでいる。  ここでも自分のことを少し省みれば、語られたことの正当性がわかる。通常の生活でも、客観的な意志から熱狂や愛による意志に高まると、そこには主観的な感情が深く入り込んでくる。また、感覚知覚においても感情が入り込んでいる。

▲思考内での感情の活動―判断(18~20)

感覚知覚にだけでなく、思考にも感情の営みが入り込む。人間の判断の特徴とはどのようなものかという問いで、哲学的な論争が生じた。ジークヴァルトは、判断においては感情が決定の役割を果たす、と言い、もう一方のブレンターノはそれに反論し、感情とは主観的なものであり、判断とは客観的でなくてはならない、と言っている。しかし現実を見ると、ここでも魂的活動が相互に入り込み合っているのだ。つまり、判断の内容は客観的でなくてはならない。しかし、それによって魂の中で判断が正しいという説得力が生じるためには、感情がそこに共に働く必要がある。  この例からも、正確な概念をえることは、つまり現実から概念を形成するのは難しいことがわかる。

▲最初の対比表(21)

魂にあって、中間に位置する活動である感情は、その本性からして二つの方向に輝き出る。感情とはまだ完結していない認識であり、まだ完結していない意志、つまり押しとどめられた思考、意志だ。それゆえ感情は共感と反感が織り混ざっているのだ。こうしたことは認識や意志の中では隠れているが、感情においては明らかになっている。

▲身体構成における感情の営みの現れ(22)

身体の中で、神経と血液が出会うところでは感情が生じる。感覚器官の中ではこの両者は、感情がほとんど感じ取られないくらいに繊細であり、その感覚器官が他の器官から分離されていればいるほど感じ取られにくくなる。たとえば、視覚においては感情的な意味での共感や反感はほとんど感じ取られない。なぜなら、眼球が眼窩に収まっていて、骨によって隔てられているからだ。しかし、聴覚では感情的なものはそれほどまでには抑えられていない。なぜなら、耳は他の器官とより密につながっているからだ。これはさまざまな意味で、身体全体で行われていることの忠実な像と言えるであろう。

▲聴覚と感情の類似性(23)

聴覚において、単に認識的であるものと感情的であるものとを区別するのが難しいので、それがワーグナーの『マイスタージンガー』で勃発した論争の種になった。聴覚には認識的なものだけがあるとするベックメッサーも、感情的なものが勝っていると誇らしげに主張するヴァルターも、どちらも偏っている。ベックメッサーのモデルとなったのはエドワルド・ハンスリックで、『音楽的に美なるもの』の中でワーグナーの音楽の中にある感情的要素を激しく攻撃した。感情的なものではなく、音と音との客観的なつながりが音楽的なものの神経となっていると言ったのだ。

▲感覚一般論v.s.体験という現実(24~25)

これまで諸感覚についても述べてきたが、それらの相違があまり考慮されていないのは、現代の学問的な考え方があまりに荒んでしまっていることに原因がある。教育改革のためには、特に感覚論を包括した新しい心理学が必要である。しかし、眼、耳、鼻などの活動をまとめてしまうと、「感覚活動一般」という抽象理論以外の何も生じてこない。それよりも必要なのは、具体的に物事を観る能力を伴って、個々の感覚活動を研究することなのである。そうすれば、それらに非常に大きな違いを見出し、感覚生理学一般を研究したがることもないであろう。

■ 結論 : 現実への道(26~27)

魂を観察して洞察を得るには、『真理と学問』や『自由の哲学』で言われているように、人間は初めは現実全体を手にしてはおらず、徐々に世界の中に場を築き、まずそれを克服しなくてはならない、というところから始めなくてはならん。思考と観照(観ること)がお互いに入り込みあって初めて人間にとって真の現実になる。それに対してカント主義では初めから、「私たちの中には世界の単なる鏡像があるだけである」と頑固に規定している。しかし、現実は現象の中には存在せず、少しずつ浮かび上がってくるのだ。現実が完全に現れるのは、死の瞬間だ。  誤った概念を正しいものに置き換えていく努力をしなくてはならない。そうしたときに初めて正しい仕方で授業を行うことができる。

『一般人間学』レーバー要約、第06講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 前置きと進め方(1~2)

第1講から第5講までは人間を魂的観点から考察した。つまり、共感・反感の視点だ。このような順にしたのは、人間にとっては魂的領域が一番わかりやすいからだ。しかし、人間学全体を考えるには、さらに霊的観点や体的観点が加わる。体的な事柄は魂的なものの開示であるだけでなく霊的なものの開示でもある。だから、霊的な観点を抜きにしては理解できない。そこで、ここでは次に霊的観点を取り上げる。人間を考察する上で適切な視点は、思考的認識、感情、意志という魂的な分節で考えることだ。

■ 三つの意識状態: 意識的要素と無意識的要素(3~6)

▲思考的認識―これを霊的に考察すると(3)

思考的に認識するとき、イメージで語るなら、私たちは光の中、明るさの中に生きている。概念的な言い方をすれば、完全に意識化された活動の中にいる。何らかの判断を下す際に、道筋のどこかが見通せない、つまり無意識な部分があると、それは正当な判断にはならない。

▲意志―これを霊的に考察すると(4~5)

意志の場合には話が違う。最も単純な意志の遂行である「歩く」ということだけを取ってみても、筋肉の中、あるいは私たちの身体有機体の中で起きていることは全くわからない。「歩く」ということの表象の中では私たちは完全に目覚めている。意志には絶えず何らかの無意識なものが混ざり込んでいる。それは私たちの生体を観る場合だけでなく、意志を外界に作用させるときにも言えることだ。 例を挙げれば、この無意識の部分がわかりやすくなるであろう。二本の柱の上に一本の梁を渡す際には、見てそれに対して考えた事柄については完全に意識しているが、柱が梁をどうして支えられるのかはわからない。力の関係は闇の中なのである。ここでの成り行きを洞察できないし、それは身体内での意志の成り行きを見通すことができないのと同じだ。 (訳者注…シュタイナーは、「動き」は意識で捉えることができるが「力」は捉えることができない、と語っている。つまり、「力」は意志的だというのだ。これについては、私も完全に納得できているわけではないが、考える方向としてのヒントを付記しておく。)


▲感情―これを霊的に考察すると(6)

感情は、明るい認識と闇の意志の間にあり、意識と無意識の両方が入り込みあっている。

■ 三つの意識状態: 目覚め、眠り、夢(7~9)

▲認識(7)―意志(8)―感情(9)

これまでその特徴を述べてきた事実関係は、以下のような意識状態の違いとして認識される。 +思考的認識においてのみ、私たちは目覚めた意識状態にある。 +私たちが意志的存在であるとき、昼間起きているときでも、私たちは眠っている。意志的人間に思考的人間が寄り添っている。 +感情は思考と意志の中間に位置している。感情については、夢と同程度にしかわからない。 つまり、目覚めている状態であっても、相互に作用し合う三つの意識状態がある。これは通常の意味での目覚め、眠り、夢とは違う。昼目覚めているときでも、魂的存在としては、意志する存在は眠り、感情する存在は夢見、思考する存在は目覚めているという意味であるだ。

■ 教育的課題(10~11)

子どもの意識の目覚め度合いは個々に違う。感情的要素の強い子は夢見がちだ。強い感情によって明るい認識を目覚めさせることができる。なぜなら眠りとは、すべて目覚める傾向を持っているからである。 抱卵状態にいる子どもは強い意志の素地を持っている。学力テスト(知能検査)の結果が「非常に遅れている」という結果であっても、こうした子どもに対して性急に判断すると間違いを犯すことになる。ここでの教育のゴールは意志を目覚めさせることだ。子どもが胆汁質である場合、成長してからとりわけ行動力に満ちた人間になり得る。教育は意志に働きかけるものであって、認識に働きかけるものではない。それは、たとえば言葉一語一語を話しながら、一歩一歩、歩かせることによって可能である。それによって意志を少しずつ思考へと目覚めさせていくことができる。ここでも「どのような眠りであっても目覚める傾向がある」ということが成り立つ。

■ 意識状態ならびに身体との自我の関係(12~19)

▲基本諸力(12~14)

この三つの意識状態において、自我はどのように関係しているであろうか。答えを見つけるには、世界がさまざまな活動の総和であることを考える必要がある。つまり、さまざまな基本的営みの領域である。私たちの周りで働き、生命力とかかわる基本的な諸力としては、たとえば、熱や火の力がある。こうした力の働きが、たとえばSolfatara(南イタリアの火山地帯の名所)では目に見えて現れている。

▲思考的認識における自我と肉体の関係 : 世界を像に変える(15~17)

世界の諸力を私たちの自我は耐えることができない。現在の段階では、自我はその中に完全に入り込むことから守られていなくてはならない。それゆえ、完全に目覚めてはいるものの、現実の世界の中にではなく、像の世界にいるのである。思考的認識には世界の像だけがある(この点については、魂的視点からすでに述べてある)。  霊的観点からすれば、誕生から死までの間は身体がコスモスの像をつくりあげなくてはいけないことになる。  実際のことの成り行きを見極めることができないので、心理学者は身体と魂の関係を説明できずにいる。目覚めたときに自我は身体の物資的過程の中に入っていくのではない。そうではなく、身体が世界の成り行きから作り上げた像の世界に入っていくのである。それによって、自我に思考的認識が伝えられる。

▲感情における自我と肉体の関係:魂的に火傷をする―意識が夢段階に弱められる(1

8) 感情において自我は肉体にまで入っては行く。しかし、もし自我が目覚めたままであったら、魂的に火傷してしまうであろう。それゆえ、意識は夢状態にまでぼんやりさせられて、感情に伴って身体で生じることに耐えられるのである。

▲意志における自我と肉体の関係: 耐え難い痛み―意識が睡眠段階まで麻痺させら

れる(19) 意志において身体に生じていることを―たとえば、歩行の際にどのような力が用いられているか―私たちがそれに耐えることができるのは、意識状態が眠りの段階にまで落ちているからである。そうして、大変な痛みに耐えているのである。

■ 高次の意識状態 : イマギナチオーン、インスピラチオーン、イントゥイチオーン(20~25)

▲像の中での営み(20)

普通に昼間起きているときに、自我は三通りの営みをしている。完全な目覚め、夢見た目覚め、眠った目覚めである。身体の中で自我が目覚めているのは思考的認識においてのみであるが、そのときには実体の中に生きるのではなく、単に像の中に生きているだけである。そこで人間は意識を高める特別な修行をすることができる。


▲インスピラチオーンにおける営み(21~22)
自我が身体内に入り込むと、感情を左右する諸過程に目覚める。そのとき私たちは、無意識なるインスピラチオーン的イメージの中で、夢見ている。こうしたものが、特に芸術家の場合、目覚めた意識の方に上ってきて、それが像(イメージ)になるのである。 エソテリックな修行の中でインスピラチオーンと言われているものは、誰でもが感情の営みにおいて無意識のうちに持っているインスピラチオーン的な諸力が、明るい意識の元にもたらされたものなのである。無意識なインスピラチオーンでは―思考の像についても同じであるが―もしそれを意識的に体験したならば自我が火傷してしまう、あるいは窒息してしまうような世界過程が写し出されている。悪夢とは、こうした窒息感の初期状態を表現している。つまり、こうした悪夢では、周りの空気が身体に入り込んでくる過程が表象の営みに影響しているのである。呼吸を完全に意識して体験したなら、とても苦しいものになるであろう。したがって、それは夢見的意識である感情に弱められているのである。

▲イントゥイチオーンにおける営み(23~25)

意志の遂行に伴って生じる身体過程を完全に目覚めて知覚したとすると、それは非常な痛みになる。それで、意識は眠り状態まで弱められる。そのようにして体験されるのが、無意識なイントゥイチオーンなのである。こうしたイントゥイチオーンは絶えず生じているが、それが境界を越えて意識化されるのは幸運な場合だけである。そこで人間は、ぼんやりと混沌とした状態、あるいは無意識に秩序だった形で、霊的世界を共体験する。 人間の営みの中で一見偶然に見えるようなものの中に、深い法則を見出しうることがある。その一つの例が、『ファウスト』第二部の詩句が生まれた状況である。これらは晩年のゲーテが、部屋をあちこち歩き回りながら口述筆記させることで得られたものである。つまり、意志による行動によって無意識なイントゥイチオーンが意識上に上ってきたのである。

■ まとめ並びに人間の身体形態についての展望(26~27)

これまでに述べられたことを次のような図式でまとめることができる。 +目覚め―像的な認識 +夢―インスピラチオーン的感情 +眠り―イントゥイチオーン的意志 これでは、イントゥイチオーンがインスピラチオーンより容易に日常的な像的認識に上ってくる理由が理解できない。したがって、よりわかりやすくすべく、この図式を書き換えなくてはならない。像的認識は身体に沈み込むことでインスピラチオーンに達し、イントゥイチオーンからまた像的認識に上ってくる。感情から意志に向かってのこうした道筋は通常見逃されている。人間が動き始めたり、行為を始めたりすると、人間は表面的にまずその意志を見るのであって、そこでの感情には注意を向けない。だから、イントゥイチオーンはインスピラチオーンよりも容易に像的認識に上ってくるのである。 


こうしたことから、人間の身体的形姿の特徴が理解できる。もし脚が頭部に直接ついていて、頭が歩く状態だとするなら、考察が意志とが一体化してぼんやりしたものになってしまいる。つまり、眠りながらしか世界を歩けないのである。頭部が胴部の上に静かに乗っていることによって、思考的認識の器官でありうるのである。もし頭部がそれ自身で動かなくてはならなかったら、その動きに必要な意志があるために、眠った意識状態でなければならない。本来の意味での意志は身体が遂行している。頭部は身体という馬車に乗って前進するのである。そうであるからこそ人間は目覚めて行為できる。つまり、無意識に留まる意志に目覚めた意識を沿わせることができるのである。