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2015年3月15日日曜日

自然認識と水彩:アブラナ

■アブラナとの出会い

アブラナに対する一番の印象は、「黄色」でしょう。花が黄色いのは言うまでもありませんが、つぼみの時ですら、非常に黄色に近い緑色で、とても明るい印象を受けます。

アブラナが一面に咲いていますと、個々の形には意識はいかず、ただその光る色合いに圧倒されます。
ゲーテも『色彩論』の中で、光と近い関係にある黄色は、今ある場所から広がっていく傾向がある、と述べています。つまり、形としてまとまりにくいのです。

山村暮鳥の詩「風景」には、そうした体験が描かれているように思います。

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな

■一本のアブラナ
個々の植物には意識が向きにくいですが、しっかりと見ますと、茎は重さに対抗する方向にしっかりと伸び、わずかに花の近くが光の方向を向いていることが分かります。

つまり、目立たぬながらもしっかりとした軸を持ち、そこから周囲の世界にひたすら広がっていく動きがアブラナの特徴と言えるでしょう。

■アブラナと光
アブラナは日当りの良い立地を好み、日照が不足すると花の生育が悪くなります。

また、古くは油の素として栽培され、その油は行灯の光として使われました。
やはり、本物の輝きには及びませんが、「光の植物」という体験は描けるかと思います。
■リンク

2014年8月11日月曜日

ウマでは○○の発達が全体を支配している

■ウマの走り方

身近によく見る犬の走り方を振り返ってみましょう。犬は後脚で踏み切って、空中姿勢では身体が前後に伸びた状態になっています。
フリーの画像をお借りしました
さて、フランスの画家テオドール・ジェリコー(1791年9月26日-1824年1月26日)の「エプソムの競馬」という作品でウマの走る様子を描いていますし、これは犬の走り方と同じです。これを見て「何か変だ」と思われた人は鋭いです。
ジェリコー『エプソムの競馬』Wikiより

実際、ウマはこのような走り方はしません。空中に跳びあがる直前後の様子を見ますと、その違いが明確になります。
Eadweard Muybridgeの古典的写真集より

犬では、後脚で踏み切って跳ぶのに対し、ウマでは前脚(3つめの画像の左前脚)で踏み切っています。その結果、空中姿勢が犬では前後に伸び、ウマでは前後の脚をたたんだ状態になっています。逆に、脚が前後に開いているのは、着地している状態です。

▲ウマのさまざまな脚さばき

ウマの脚はとても器用で、さまざまな歩き方から走り方ができます。この点については、ウマとの接点が少ない日本人にはあまり馴染みがありませんが、

  • Walk:観光客を乗せた馬の歩み
  • Trot
  • Canter
  • Pace & Stepping Pace
  • Gallop:競馬の全速力

といったものがあります。
trot、canter、paceはなかなか見る機会がありません。ここではyoutubeで紹介しておきます。


こうしたものを見ますと、ウマの脚に非常に活き活きとした力が宿っていることを感じ取れるでしょう。

■脚と足

Ellenbergerより 

ウシやシカなどが偶蹄目で、蹄が中指と人差し指の二本あるのに対し、ウマは奇蹄目に属し、蹄は中指の一本しかありません。しかし、ご承知のように非常に速く走ることができます。ウマの骨格で、たとえば後ろ脚で、どこまでが脚でどこからが足かを確認すると、非常に興味深いでしょう。膝がかなり高い位置にあり、足首から中指の先までは、細い柱のようです。「ウマには足はない」、あるいは、「足が脚化している」というのが、現象の忠実な表現ではないでしょうか。
ここで一旦、走り方に話を戻します。
ウサギなどでは顕著ですが、犬やネコなどほとんどの動物で、前脚と後脚の若干の役割分担が見られます。餌を押さえたりする際には、前脚を使うのです。そして、走る際の踏切は後脚です。ところが、ウマではgallopする際には、前脚で踏み切って空中姿勢に移りました。ですから、「ウマでは前脚が後脚的、つまり本来の脚的になっている」と言うことができるでしょう。
このように見ますと、「ウマとは運動器官である後脚が支配的である動物」と言えるでしょう。このようにウマと《運動》は密接にかかわりますが、運動原則が動物全体を貫いたネコ科の動物とは様子が違います。あくまでも脚であり、胴体部はむしろ動きを失っています。背骨の一部は癒着すらしていて、それだからこそ、全速力でgallopするウマの背中に人が乗れるのです。

■運動器官の発達に関連する形態の変化

首から尻までの背骨の諸部分、つまり頸椎、胸椎、腰椎で最も運動的なのはどこでしょうか。あるいは、頭部で最も運動的な部分はどこになるでしょうか。これは、自分自身の身体を見ればすぐに分かります。動きやすさという点から見れば、頸椎>腰椎>胸椎ですし、頭部では下顎が最もよく動くことは明らかです。この点をウマの骨格で確認してみましょう。頸椎の発達は明らかですし、胸椎は癒着しています。下顎の骨も巨大です。脳の入る部分を想像していただくと、その巨大さが際立つはずです。
Ellenbergerより

■循環系、呼吸系、消化系

私たちの身体は少し走りますとすぐに反応します。最初に気づくのは心拍で、さらには呼吸も変化します。時間が経てばもちろん空腹も感じますが、走っている最中にはあまり感じません。また、感覚器官で運動にとって特に重要なのは視覚で、味覚、嗅覚、触覚などはあまり重要ではありません。
以下のデータ(『馬の科学』競争馬総合研究所=編、講談社ブルーバックス)を見れば、ウマにおいて心臓循環系、呼吸器系、視覚がいかに発達しているかは明らかでしょうし、消化器系の発達度も予想通りと言えるでしょう。
運動のために重要な感覚は、視覚です。

▲心臓の大きさ

種類 体重 心臓の重量 心臓/体重×0.1
ヒト 60(kg) 250(g) 0.42
サラブレッド 485 4688 0.97

▲心博

安静時 最高値 倍率
ウマ 30-35 220-240 6-8
ヒト 60-70 180-200 3

しかも、最高心博数に達するまでに20秒しかかかりません。

▲血液量

動物種 血液量(ml/kg)
サラブレッド 103.1-109.6
ヒト 63.8-97.0

▲脾臓

血液を脾臓に貯えていて、運動時にはそこから血球が放出されます。
動物種 脾臓 赤血球数
サラブレッド 2023 945(623-1300)
ヒト 100-115 450-500

▲消化器

動物種 小腸 大腸 体長との比
ウマ 22.0 7.0 9-13
ウシ 36.0 11.0 20-22
ヒツジ 21.0 7.0 2-29

ウマには胆嚢はありません。また、盲腸は長さが1m,容積が30リットルあります。胃が比較的小さいので、少しずつゆっくりと草を食べます。しかし、いつも食べていろといった状態が続きます。しかも、若いやわらかい草を好んで食べ、丈の高い草を根もとまでは食べません。ウマでは、他の動物に比較して、便秘が比較的多いそうです。

▲眼球の大きさ

奥行き 縦径 横径 重量
ウマ 44mm 48mm 48mm 100g
ウシ 35 41 42 65
ヒト 24 24 24 74
































2014年8月9日土曜日

ライオンはリズム系が発達した動物

■動き

ライオンに限らず、ネコ科の動物の動きは非常にエレガントです。助走もせずに高いところに音もなく飛び乗りますし、待ち伏せた獲物を襲う時などは、静止からの一気の瞬発力を見せます。
《動きに適した身体》あるいは《動きに満たされた身体》の様子は、骨があまり目立たず、全体を覆うしなやかな筋肉が目につく外見からもわかります。馬では体重の20%が骨であるのに対し、ライオンでは13%程度です。動くのは本来の運動器官である比較的短い前後の脚ばかりではなく、胴部も非常にしなやかに動きます。脚に到っては先端まで動きに満ちています。つまり、爪を出し入れできるのです。これができる動物は多くはありません。動きという点では、尾も非常にしなやかで、表情豊かです。単に虫を追うために動かしているウシの尾とは好対照です。
Wikipediaより

そうした中でも、チーターの走る姿は動物の中でも最もエレガントな動きの一つでしょう。
トラの骨格(Starckより)

■狩り

満腹時のライオンは、まったくの怠け者で非常にだらしなく見えます。ところが狩りが始まると様相が一変し、真剣かつ精悍な様子を見せます。
また、ライオンはネコ科の中で、唯一、グループで狩りをします。仲間と連携しつつ慎重に獲物に近づくときなどは、最高度の緊張感がみなぎっています。獲物をしっかりと見据え、気づかれないように細心の注意を払って獲物に近づきます。ライオンは素晴らしい連携を見せ、たとえば待ち伏せをするグループと獲物を仲間の方に追い立てるグループといったように分業が進んでいます。獲物に襲いかかるときには、まず爪で相手を引き倒します。ちなみに、ハイエナやオオカミのようなイヌ科の動物では、最初から噛みつきます。

インパラを狩るライオン(YouTube)


チーターの狩りでは、それほど緊張感はありません。自らの姿を獲物の前に姿をさらし、ゆっくりと周りを走りはじめます。もちろん、獲物は騒然としますが、チーターはそれを意に介さず、ゆっくり走りながら、獲物を見定めます。そして、群れから一匹を選ぶと、一気にトップスピードで追い、十数秒で決着をつけます。

■食事

食べ方はがつがつしていて、エモーションがむき出しです。食事中は仲間に対しても、うなり声をあげ、威嚇し、一切れの肉を奪いあいます。体重が120kgから240kgのライオンで、一回に30kgから45kgの肉を食べることすらあるといいます。体重の1/4のステーキです。そして、満腹すると完全な怠け者モードに入り、そうした状態が3~4日続きます。平均すると、メスで一日5kg、オスで7kgくらいの肉を食べると言います。

■エモーション

「猛獣でも、不要な殺生はしない」と言われていますが、嵐のときや満月の時には、ライオンは必要以上に獲物を殺すことがわかっています。外的状況で、エモーションが刺激されてしまうのです。
また雄ライオンは、自らの集団(プライドと呼ばれます)を確保するためなど、凄まじい声での吠えます。静かな夜などは、16km遠方まで声が届きます。箱根駅伝の1区で言えば、大手町から川崎くらいの距離です。まあ、この地区が静かになることはありませんが。
ネコ科の動物は基本的に単独行動をとります。実際、エモーションが強いもの同士が集団になるのは難しいでしょう。そのネコ科にあって、唯一の例外がライオンの雌です。これは仮説でしかありませんが、雌ライオンも吠え声をあげ、エモーションを発散することで、集団生活を営んでいるのかもしれません。

■静止と運動、エモーションに関係する臓器

静止と運動を日々繰り返している臓器と言えば、心臓です。「心臓は絶えず動いている」と言うのは、事実ではありません。常に、静止と運動を繰り返しています。たとえば、一番激しく動く右心室の壁の筋肉であっても、基本的には静止していて、必要なときにだけ、一気に動いています。この動き方の特徴は、まさにライオンの行動に現れる特徴と同じです。心臓がエモーションと関係することは、私たちも日常的に体験しています。緊張すると心臓がドキドキするのです。あるいは、怒りから心拍が変化するのを感じ取ることもあります。
運動やエモーションに関係するもう一つの臓器が肺です。待ち伏せは「息を潜めて」ですし、攻撃は「一気呵成」といった表現をします。そこには、呼吸に関係する言葉が含まれます。また、肺もリズミカルに運動と静止を繰り返していることは周知でしょう。
全体重に対する肺の比率は、ウマで0.70%、ウシで0.72%、ライオンでは2.12%です。また、心臓の比率は、雌ライオンで0.57%、雄ライオンで0.45%ですが、ウマは0.75%程度、ハイエナでは1%弱にまで達します。
つまり、胸部における呼吸のリズム、脈拍のリズム、そして呼吸と脈拍のバランスがライオンという動物の本性に大きく関係しているのです。

■頭部の特徴

ライオンの頭部の特徴は、鼻筋が非常に高く、幅が広い点である。鼻とは、頭部における呼吸器官で、そこが発達しているというのは、肺が発達していることと完全に相関関係にあります。
Wikipediaより

2014年8月8日金曜日

鳥(ワシ)は感覚系の動物

■鳥について共通に言えること

頭部、胴部、四肢の比率を考えてみましょう。
一番目立つのは胴部ですが、その中でも上部に当たる胸郭部と、それに繋がる人間の腕に当たる部分、つまり翼が一番目立ちます。

その中心ブロックから(静止状態では)上に頭部、下に脚部があります。カラス、スズメといった脚や頸の比較的短い種類から、サギ、ツルなどの脚や頸の長い種類まで居ます。大雑把に見れば、「頸の長い鳥は脚も長い」という傾向がありそうです。もちろん例外もあり、白鳥などの水鳥は頸が長くても脚は短い傾向があります。
Starck『比較解剖学』より

■鳥の感覚

鳥の感覚器官を比較してみますと、他の感覚に比べ視力が圧倒的に優れています。味覚や嗅覚はあまり発達していません。フクロウでは聴覚も非常に優れています。
猛禽類の眼を観察してみましょう。
Starck、比較解剖学より

まず大きさはかなり大きく、頭蓋骨の中で占める割合は脳より大きいようです。
眼の性能を考えると、非常に高性能で,解像度は6倍の双眼鏡に匹敵するそうです。しかも、私たちが双眼鏡をのぞくと、視野が非常に狭くなってしまいますが、鳥の場合は高解像度でしかも広範囲が見えています。
また、動体視力的要素も非常に優れています。映画のフィルムは、少しずつ変化する静止画を1秒間に24コマの速さで取り替えていくと、人間は「バラバラな絵」としてではなく「連続した動き」と見なします。静止画を送る速度を遅くして、たとえば1秒に1コマの割合にしたら、それはもはや「動く絵」ではなく、やや早いスライドショーでしかなくなります。ところが、その点での視力が優れた鳥では、150コマ/秒がスライドショーに見えるのだそうです。

▲二つの黄点

眼の網膜上には、視細胞が特に密集した部分があります。そこに結ばれる像は、人間の視野では中央部分に感じられます。視界としてよく見える部分と、網膜上での視細胞が密な部分が対応しているのです。私たちはその部分を使って、字を読むなどの集中した作業を行っています。鳥では、網膜上に黄点が二つあります。その二つの黄点を使って、前方を注視しつつ、横にある物体もしっかりと見ているはずです。

▲眼の解剖学的特徴


  • 動眼筋は未発達で、代わりに頸がよく動く
  • 形は全体に偏平である
  • 神経結合(シナプス)がすでに網膜上にあり、そのため網膜が厚くなっている
この三つの現象が何を語るかを考えてみましょう。まず、動眼筋の問題を取り上げます。
友人が居て、その人の斜め前方から話しかけたとしましょう。その時の相手の反応として3つの可能性を挙げます。

  1. 身体全体で自分の方を向いてくれる
  2. 顔を自分に向けてくれる
  3. 姿勢は変わらず、視線だけ自分に向けてくれる

この3つの反応で、相手の自分に対する結びつきの違いが感じ取れるでしょう。つまり、3では自分自身の位置を保っており、相手の気持ちは完全には自分に向いていません。それに対し、2や1では相手の気持ちが私に向いていて、ずっと一体感があります。
これをヒントに考えますと、鳥では3の態度を取ることができず、最低限2の状態で、対象と直接に結びついていきます。
これを鍵にしますと、扁平な眼球というのも理解できます。奥行きが深くなればなるほど、対象と自分を切り離しつつ、いわば認識的に知覚する方向になります。しかし、鳥の場合には、見ている世界とより直接的に結びついている、と言えるでしょう。そして、眼の奥にあるべき視神経が眼球内までせり出してもいるわけです。
こうしたことから、「鳥は視覚世界と密接に結びつている」と言えるでしょう。

また、鳥類の発生では、まず眼が発達してくることも特徴的です。

■羽

羽を持つことは鳥の大きな特徴です。これは非常に軽く、羽毛3500本で2g程度しかないのだそうです。羽の主軸は空洞になっていて、中には空気が入っていますが、羽から枝分かれした細い部分も空洞になっているそうです。こうした空気の力もあって、羽にはすぐれた保温性があります。
また、羽はかなり死んだ器官です。羽が成長してくる際には、当然生きています。しかし、一旦成長してしまいますと、傷がついても再生能力はなく、一枚の羽全部が生え替わる必要があります。だからこそ、羽の一部を切って飛翔能力を弱め、ペットとして飼うことも可能で、次の羽の生え替わり期までは、飛んでいなくなってしまうことはないのです。

▲羽は空気の知覚器官でもある

鳥の羽を持ってみますとよくわかりますが、羽が受ける抵抗で、空気の動きをよく感じ取ることができます。
風の強い日には、カラスは風と遊びます。特に必要もないと思われるアクロバット飛行を行うのです。これは風を感じとっていなくてはできません。そして、その際には翼の先の羽で風を触るような仕草をします。

▲ツルはなぜ一本脚で眠るか

スズメなど多くの鳥がバランスを取って電線にとまっています。ただし、このバランスという意味が人間の場合と大きく違っています。人間にとってのバランスとは《対重さ》でのバランスです。しかし、電線上の鳥にとって重要なのは《対空気》に対するバランスです。そして、そのバランスを見事にとっています。
ツルはなぜ一本脚で眠るか、という素朴な疑問が昔からあります。体温のロスを減らす効果がある、などさまざまな説があります。これに対して私にも仮説があります。《対重さ》でバランスをとるなら、二本脚の方が有利であることは間違いありません。しかし、《対空気》でのバランスでは、一本脚でも二本脚でも大差はありません。つまり、鳥は一本脚で眠ることで、「私は空気の中でバランスを取っている」と宣言しているかのように思えるのです。実際、風が吹く中で鳥が立っているためには、対空気のバランスが重要なのは明らかです。

■鳥は空気に満たされている

羽の軸が空洞になっている点はすでに触れましたが、鳥では胴体内、さらには翼の骨の中に気嚢という器官があり、空気が入っています。
野鳥事典のサイトよりお借りしました

ヒマラヤ山脈を越えることができるアネハヅルという鳥もいるくらいで、鳥の呼吸器は大変にうまくできていますし、そのために気嚢は重要な役割を果たしています。
人間の肺では、その微細部分である肺胞に到るまで《フイゴ》と《ガス交換》の二つの役割を果たしています。ところが、鳥ではこの二つの役割を分けているのです。つまり、《フイゴ》の役割は気嚢が果たし、《ガス交換》はそれ自体は動かない肺が行っています。そして、血液と空気が常に流れるなかでガス交換をしているために、上空の空気の薄いところでも効率よくガス交換できるのです。

■地水風火の火との関係も密である

鳥の体温は全般に高く、ノスリでは40.5度にまで達します。そうした体温維持と関連して,一日に体重の1/6の餌を摂るものもいます。体重60kgの人が10kgの食事をしている勘定です。
また、鳥では、呼吸のプロセスで熱が生じることが知られています。このように、風や火との関係は強いものの、水や地との結びつきは強くありません。身体に矢が刺さっても、さしたる出血もせず、生活を続けるカモなどがニュースで紹介されたこともあります。

鳥が水浴びをすることはよく知られていますが、鳥は濡れません。水と一体になることはないのです。

■その他の特徴


  • 背骨が相互に癒着している
  • 咀嚢や砂嚢を持つ

■人間の頭部との比較

人間の骨格で、骨が癒着していく傾向が最も強いのは、頭部です。新生児では大泉門が開いていますが、約二年をかけて閉じていきます。しかし、その閉じる傾向はその後も続き、骨同士が縫合面でつながり、さらには縫合面すら見えなくなります。その骨格融合傾向が鳥では胴部にも見られます。
人間では、食べた物をまず口腔内で咀嚼し、細かくします。しかし、鳥では、「鵜呑みにする」という表現があるくらいで、ほぼ丸呑みです。しかし、まったく咀嚼しないわけではなく、胴部の咀嚢や砂嚢で食べた物を細かくします。特に砂嚢では、砂まで飲み込んで、食物とすりあわせることで、食物を粉砕しています。つまり、人間では頭部で行われている咀嚼という働きが、鳥では胴部で行われていることになります。
人間でも、骨の中に空気の入った空洞があります。それが最も顕著なのが頭部の副鼻腔です。また、前に書いた通り、鳥では胴部に気嚢という空洞がありました。つまり、肺以外の空気部分を見ると、人間では頭部がそれに当たり、鳥では胴部がそれに当たります。

このように見ますと、鳥とは身体全体が頭部であり、鳥の頭は視覚と聴覚の出先機関として、空間に張り出している、と考えることができます。


鳥の姿はカメラマンの憧れでもあります。こんな写真を撮る人もいました。
ツバメの飛翔


この論考の基本は、Ernst=Michael Kranich先生のレクチャー並びに書籍です。そこに、いくつかの現象を加えてました。

2014年8月7日木曜日

自然認識と水彩:シクラメンにとっての水

日本で最も多い鉢植えはシクラメンだそうです。シクラメンは、水をやりすぎると枯れてしまうこともよく知られています。ですので、シクラメン用の鉢にはちょっとした工夫がされています。

■シクラメン用の鉢

二重底になっていて、下に入れられた水をリボンで吸い上げ、根のある土の中に水を供給しています。


■シクラメンの原産地

さて、シクラメンの原産地は地中海地方で、特にパレスチナからトルコにかけて野生で育っているそうです。


■シクラメンと水の流れ

原産地の一つであるパレスチナは雨量が少なく乾燥しています。しかし、地下水が豊富で、さまざまな花に彩られた美しい草原が広がっています。雨量の多い日本では考えられませんが、これらの地方では、水が地下から上へと流れています。





そして、それをシクラメン用の二重底鉢で実現しています。この鉢だと、水は確かに下から上へと流れます。このようにして、シクラメンにとって自然な水の流れを実現してやれば、シクラメンは美しく咲くのです。

自然認識と水彩:○○を集めるツバキ

■ツバキの様子

ツバキはよく知られた植物ですが、その様子をおよそ思い起こしてみましょう。

【樹】

樹はあまり大きくはなく、希に5mくらいの大木を見かけることがあります。種類が多少違うのかもしれませんが、森林の中のやや暗い所だけでなく、日当りのよい明るい場所でやや大きく成長していることもあります。常緑で樹全体は、空間に広がり出て行くという感じではなく、こんもりとした印象です。
樹の肌は灰色で、わずかにザラザラしてはいますが、でこぼこではなく、しわも割れ目もありません。

【葉】

葉は、肉厚で硬く、瑞々しさは感じません。また、大きさは名刺サイズくらいでたの樹に比べて小さい方と言えるでしょう。色は表(光軸側)が濃い緑で、その色味の濁りから赤を多く含んでいることがわかります。裏(背軸側)は明るい緑色をしています。
DSC_1819
ゲーテの言うアナストモーゼ(再結合)が葉脈に観察されますし、再結合の位置が縁からかなり内に入った部分であることも目に付きます。
サザンカの葉:アナストモーゼ

【花】

本来の花の色は赤のようで、多数のおしべが花糸の部分で融合し、筒状になっています。先端は分かれていて、山吹色に近い花粉が多数見られます。

花期は1月から3月ごろで、比較的大きな花です。同じくらいの大きさのバラと比べると、花の存在があまり目立ちません。その理由は、バラの花が空間の高い位置で咲き、いわば葉の領域を超えて咲くのに対し、ツバキは葉の領域内で咲き、場合によっては花が葉の陰に隠れていることもあります。言い換えると、バラは光の領域に上って咲くのに対し、ツバキの花は自分の領域に引きこもっているのです。

【果実と種子】

DSC_1816a
7月上旬の果実
10月下旬くらいから、ツバキの実が成熟してきます。緑色の果実の中に、焦げ茶色の種子が入っていますが、この種子の中身がツバキ油の原料になります。
DSC_1821
樹で成熟した状態で収穫しますと、特に乾燥させなくても、火を付けることができ、わずかな黒煙を上げて、ロウソクの炎のように非常によく燃えます。この燃焼実験は子どもたちにも見せています。
こうした様々な特徴を《拡張・収縮》の視点で思い浮かべますと、ツバキが外に向けて広がるのではなく、内に入り込み、ため込む傾向を感じ取るはずです。たとえば、本来、拡散の傾向が強いはずのおしべで、それらが互いに融合しているのは典型的です。

【ツバキのしぐさ】

この外に広がらないツバキが内でしていることを考えますと、それは《熱の凝縮》であるように思われます。1月に開花して、10月下旬に結実することを考えますと、ツバキは夏至を含む9ヶ月の太陽の力を実に集めています。4月に開花し、6月には出荷されるサクランボなどと比べてみてください。非常に長い日数をかけてツバキの実が成熟することがわかると思います。

■熱を集めるツバキ

植物画では、カーマインの下塗りが基本ですが、ツバキを描くときには、熱の要素、そして生命の温かさを、やや濃い目のカーマインで表現します。
DSC_1789
そこに光と風の要素を加えますが、花を描く部分は描き残しておきます。
DSC_1791
ツバキの葉はシンプルな形をしていますから、黄色と青を繰り返し重ねて概形をつくり、最後に先端を少し尖らせるだけで、それらしい表現になります。花はカーマインをらせん状に乗せていきます。最後におしべの黄色をリング状に描き入れます。
DSC_1793

自然認識と水彩:キノコの「魔女の輪」

■魔女の輪

キノコには「魔女の輪(Hexenring)」と呼ばれる現象があります。ちなみに、英語圏では、「天使の輪」だそうです。これは、半径数メートルのキノコの輪が突然現れる現象です。文字通り「一晩で」現れることもあります。大きさはそのキノコの年齢によりますが、これまでに発見された最も大きな輪は半径150メートルに達するのだそうです。

これはキノコがいかに物質と深く結びついているかを示しているでしょう。言い換えると、目に見える部分は小さくても、隠れた部分で素材と、これは多くの場合植物の遺体ですが、深くつながっているのです。

このトピックは私のお気に入りの一つで、キノコについて語るときには必ず話します。これによって、目に見えない部分の広がりを紹介できるからです。この話をしてから水彩でキノコを描きますと、見えない部分をより大切にして描くことができます。




2014年8月2日土曜日

ウシは消化・代謝系がドミナント

■外に向かった活動


  • 木や柵に身体をこすりつける
  • 仲間をなめる
  • 牡牛同士は極希に闘うこともある
  • 全般にゆったりしている

つまり、外界への働きかけ、相互コミュニケーションなどは乏しい。

■身体外観の特徴を馬と比較



ウシでは

  • 胴部:大きく、そこに多くが集中している
  • 頭部:せいぜい水平程度までしか上げられない
  • 脚 :比較的短く、幹のようで、重たい身体を《支え》ている。また、先が二つに分かれた蹄も《支える》機能を果たしている。大きく曲がった関節には《荷重》を受けている様子が現われている。

■動き

すばやくエレガントな動きは難しい。

■内臓の特徴

内部(内臓)での活動、特に消化活動は活発である。大きな胴体には、主に消化器が詰まっている。

▲食道&胃
食道に相当する、こぶ胃(150l)、網胃、葉胃、の3つの胃と、本来の胃である しわ胃の4つの胃がある。前の2つは「ルーメン」と言われ、また、容量は全体で約200lである。
葉胃(3)には、細かいひだがあり、大量の水分を再吸収する。しわ胃(4)では再び別な消化液が1日に100l 分泌される。
新生時
こぶ胃 < 1/2・しわ胃
3ヶ月
こぶ胃 > 2・しわ胃
▲腸
腸の長さは50m以上あり、発達している。大腸は平べったい螺旋状で、1.5~2回ねじれている。羊ややぎの3、4回に比べると、少なく、糞はどろどろで、《解消的、溶解的》傾向(固め形作る形態形成の逆)が現れている。

■頭部と唾液腺


図からもわかるように、唾液腺の方が脳より大きく、1日に100l以上を分泌する。
1日あたりの唾液の量
110l、干し草では180l
40l
6~16l
1~2l
牛では、解剖学的に見ても、胃を中心とする消化器官がメインになっている。いわば、消化器官が牛の本性を理解していくための鍵になるので、それを中心に他の部分も見ていく。

■胃と感情

胃と感情はどのように結びついているだろうか。胃が空だと、そこからは空腹感が湧きあがってくるし、十分に満たされれば、満腹感を覚える。牛の内面の営みを考えると、ほとんどそれだけと言ってもよいくらいである。

■その他の特徴

多くの動物では口の中だけが湿っているが、牛は口の外側まで湿っている。
草を食べるときも、歯や唇で草をちぎるのではない。舌を草に巻き付け、それで引っ張り込んでいる。この時に、味わってもいる。

■ウシの一日

早朝から2.5時間から3時間かけて草を食べる。
30分から1時間の休憩の後、多くの場合横たわって反芻を始める。胃に入れた草を少しずつ口に戻して、リズミカルに49、50、51回くらい噛み、再び飲み込む。この時には、多くの唾液が分泌される。したがって、口腔は第5の胃とも言える。

1日8~10時間、量としては、小型種で50kg、大型種で80kgの草を食べ、反芻にもほぼ同じくらいの時間をかけている。それと同時に、当然腸も活動している。
物質の変容に専心している。

■感覚

視覚、聴覚よりも、味覚、嗅覚の方が重要である。

■対極的なプロセス

分解・解消プロセスと形態形成プロセスは対極的である。その視点で見ると、消化は解消的である。また、歯の形成は典型的な形態形成である。
ウシの場合、消化活動、つまり分解・解消プロセスがメインなので、形態形成はやや弱い。したがって、歯の形成は十分でなくなるはずである。実際、上下とも犬歯はなく、上顎には周囲の世界に対する《境界》である門歯がない。
また、前頭骨が優勢で、後頭部までこれが覆っている。側頭骨や後頭骨は表に現れていない。
頭部は顎と口腔と鼻から成り立っている。頭部で消化にかかわる部分である。

■角について

通常、ウシでは側頭骨や後頭骨に移行する部分に角が生えている。皮膚が硬化して爪のようになり、それが周りをカプセルのように覆い、その内部では、骨もスポンジ状になり、そこに非常に多くの血液が流れ込んでいる。ここでは、内部と外部が非常に強く遮断されている。(ウシの角とシカの角は正反対)また、角がなくなると、群れの中での順位争いが通常のようにはできなくなる。

■代謝

消化液1lをつくるのに、血液は300l必要である。また、栄養の吸収にも血液の循環が必要である。牛乳をつくるにあたっても、1lのために300~500lの血液が必要である。育種によって乳量は非常に増え、1日に20l以上もの種もある。搾乳時には100lの水を飲む。

■牛の重さ

消化・代謝の動物であるウシは、当然体重も重くなる。

一般的な種類         メス600~700kg オス1000~1200kg
メーヌ・アンジュ(最大種)  メス900kg     オス1760kg
妊娠期間は9ヶ月で出産は主に夜。

■ウシの集団心理と代謝

牛は群れの動物であり、単独で飼育すると、食べる量も牛乳の量も減る。コミュニケーションの活発な動物ではないが、《仲間》の存在は大きな意味を持つ。これは、感情が無意識のうちに胃や腸に影響し、また胃や腸は感情と密接に結びついていることからも当然であろう。
鳴き声、「モー」。身体の深くから、つまり代謝系から出てきているような感じではないだろうか。
牛は、力強くぼんやりした動物である。仮に耳元で銃声がしたら、どう反応するだろうか。ウサギ、猫など他の動物と比較するとイメージしやすいかもしれない。

■ウシは消化・代謝系がドミナント



2014年7月29日火曜日

アントロポゾフィー医学を学ぶにあたっての当面のロードマップ

■全体の大筋

アントロポゾフィーの人間構成要素の理解
人間構成要素の身体へのかかわりの理解
七つの生命プロセスの理解
人間構成要素の意識的な働きと無意識的な働き
人間構成要素を軸にした、《健康》《疾病》《治療》の考え方

■人間本性についての基本

『神智学』第1章「人間の本質」あるいは『神秘学概論』第2章「人間の本質」をお読みください。両方とも高橋巖氏の訳が販売されています。当blogでも『神秘学概論』第2章の抄訳を掲載しておりますので、それを参照できます。

▲肉体について

▲エーテル体について


▲アストラル体について


▲自我について

■人体や生命プロセスについえの基本的な考え方

『秘されたる人体生理』当blogでは第1~4講を(少しだけですが)図解を加えて公開しています。
第5~8講は書籍秘されたる人体生理』を参照してください。

■人体における四構成要素のより具体的なかかわり

私たちの中の目に見えない人間』(石川公子、小林國力訳、涼風書林刊)を参照してください。前半部分のまとめを当blogで紹介しています。

■アントロポゾフィー医学についての基本的な考え方をまとめた本

アントロポゾフィー医学の本質』(浅田豊、中谷美恵子訳、水声社刊)を参照できます。
必要があって進めていた拙訳


は、浅田氏らの翻訳が出版される半年前に完成しておりました。その全訳を当blogで公開しておりますので、ご参照ください。こちらの解説は、いずれまた掲載いたします。

2014年7月28日月曜日

秘されたる人体生理、第四講

1911年3月23日

■ 脾臓は重要器官であるが摘出可能

▲ 01
昨日は人体内の惑星系とも言える器官を一つ取り上げ、その意味をお話しいたしましたが、今日は話をさらに先に進めていきます。その後で、他の器官系の役割に移ろうと思います。
▲ 02
昨日の脾臓の話にはある種の矛盾がある、と言う人がいらっしゃいました。私は、脾臓には人間全体にとって重要な役割があるとお話ししましたが、そこに矛盾がある、というご指摘です。つまり、脾臓を人体から切除し、摘出しても人間が生きられることと、脾臓が重要な器官であるということが矛盾する、と言うのです。
▲ 03
こうした反論は、現代的視点から見れば完全に正当ですし、霊学的世界観に非常に真摯に近づこうとしている人にとっては、これは一つの難所でしょう。公開講演の初日にお話ししたように、一般論から言えば、現代人にとっては…特に学問的方法を修め学問的良心を持った人にとっては…地上存在についてオカルト的に語られた内容を理解するためには、困難を克服する必要があります。原則としてそうした反論は、この連続講演が進む中で自ずと解消していきます。それでも私は、今日とりあえず、脾臓が摘出可能である事実と昨日の話がまったく矛盾しないことを示しておこうと思います。人間身体と言われているもの、外的感覚で捉えられるもの、身体において物質として見えるものとは、人間のすべてではありません。この肉体の根底には、生命体あるいはエーテル体、そしてアストラル体や自我といった、より高次の諸有機体が…これらについてこれから見ていこうと思います…存在しています。そして、エーテル体、アストラル体、自我から引き起こされる過程や形成によって、相応な形で目に見えるように現れたものが肉体的器官なのです。皆さんが本当に霊学的真実にまで上っていきたいと思われるなら、そう考えなくてはなりません。ですから、たとえば霊学的な意味で脾臓と言う場合には、外的・肉体的な脾臓に関することだけを言うのではなく、エーテル体やアストラル体で行われていることも意味し、その現れが外的・肉体的なものに相当します。ある器官とは、それに対応する霊的なものの表現なわけですが、その霊的なものが直接に表現されていればいるほど、その器官の肉体的な姿、つまり肉体的に見えるものはさほど重要ではなくなるのです。振り子の動きの中に重力が物質的に表現されています。それと同じように、肉体器官とは超感覚的な力作用、フォルム作用の物質的な現れなのです。ただ両者の違いは、振り子の運動は重力に従い、脾臓はそこに働くエーテル体・アストラル体の作用に従う点にあります。振り子を取り去りますと、重力の作用で生じるリズムを表現する物体はなくなります。無生物的自然の現象ではこうなりますが、生体では違います。その根拠はまた後で詳しくお話ししたいと思いますが、肉体器官を切除してしまっても、必ずしも高次の有機体の働きが消えてしまうわけではないのです。
▲ 04
脾臓に注目するに当たって、まず肉体的な脾臓が目に付きますが、それと同時に、その元となり、その結果が肉体的脾臓であるような一連の作用系を考えなくてはなりません。脾臓を摘出しても、一旦生体に組み込まれたこの作用系は失われず、作用を続けます。霊的作用を維持するにあたって、罹病した器官はかえって邪魔になり、それを除去してしまった方がよいことすらあります。たとえば、脾臓の重篤{じゅうとく}な病気の場合がそれにあたります。切除可能な器官が何らかの深刻な病気になった場合、罹病{りびょう}した器官を放置することで霊的作用が絶えず妨げられるよりは、その器官を切除してしまう方が霊的作用にとっては好ましいことすらあるのです。ですから先ほど述べたような反論は、霊学的認識がまだそれほど深くない場合には出てくる可能性があります。これは非常に当然な反論ですし、辛抱強く時間をかけて事柄に深く入り込みさえすれば、自然に解消するものでもあります。今日の物質主義的学問に由来する知識と共に霊学的研究に入りますと、次々に矛盾が生じまったく先へ進めなくなる、という事態を皆さんは必ず体験されるでしょう。ここで性急な判断をしてしまいますと、霊学はまったく頭がどうにかしていて、到底学問的とは言えない、という結果にしかなりません。しかし、忍耐と時間をかけて事柄をしっかりと受け入れますと、霊学的内容と通常の学問的研究との間には、欠片{かけら}ほどの矛盾もないことがわかるはずです。このような困難が生じる原因は、霊学的認識、アントロポゾフィー的認識の幅が非常に広く、示すことのできるのが常にその部分でしかないからです。そして、こうした部分だけを聞きかじりますと、今述べたような矛盾を感じやすいのです。

▲ 05
しかし、だからと言って恐れをなして引き下がってはいけません。それをしなければ、この時代のあらゆる知恵、あらゆる人間形成にアントロポゾフィー的世界観を取り入れる、という不可避な課題がなされないからです。

■ 脾臓のより重要な働き

▲ 06
私は昨日、人間が不規則に食事を摂ったとしても、脾臓の働きによってそれが人間のリズムにもたらされることをお伝えしようとしました。私が最初にこれを取り上げたのは、脾臓が持つさまざまな働きの中でそれが最もわかりやすいからです。しかし、最もわかりやすいからと言って、それが最も重要であったり、最も主要な働きであったりするわけではありません。もし人が自分の正しい摂食リズムを知り、それに沿って摂食したなら、脾臓はこの意味での活動をする必要がなくなるはずだからです。…これだけでも、昨日お話しした脾臓の機能が枝葉的であることがわかります。ずっと重要な事実とは、栄養摂取にあたって、栄養物に立ち向かわなくてはいけない点です。つまり、栄養物は外界の素材で、外界における結合の仕方をそのまま持っていますので、それを摂取する際に、私たちはそれと立ち向かわなくてはならないのです。こうした栄養物は素材としては死んでいる、あるいはせいぜい植物に由来する生命を持っているに過ぎない、と観てしまいますと、外界の素材が栄養物として生体に取り込まれて、広い意味での消化作用によって変容される、と考えるはずです。実際多くの人が、摂取された栄養物とは方向性のない中立な素材で、私たちはそれをどうにでもでき、摂取すればすぐにでも変容しうる受け身なものと考えています。しかし、そうではありません。煉瓦は、建物を設計通りにどのようにでも組み上げうる素材ですが、栄養物はそれとは違うのです。煉瓦が建築家の設計に沿ってどのようにでも積み上げうるのは、最低限建築の領域では、それ自体が何のつながりもなく、命を持たない塊だからです。しかし、人間にとっての栄養物はそうではありません。周囲にある素材はすべてある種の内的な力、内的法則性を担っています。内的法則性や内的活動性を持つ、というのは素材の本質です。外界からの栄養物摂取とは、栄養物に、言わば私たち自身の活性を与えることを意味しますが、それは自然には起きません。栄養物はそれ独自の法則、独自のリズム、独自の内的運動性を保ち続けようとするのです。人間生体がそうした栄養物を自分の目的に適ったものにしようとするなら、素材の持つ固有の活性を消し去り、それを次の段階に持ち上げなくてはなりません。どうにでもなる材料を加工するのではなく、素材の持つ固有の法則性と立ち向かわなくてはならないのです。素材がそれぞれ固有の法則を持つことは、たとえば強い毒を摂取したときに感じ取ることができます。毒固有の法則性が体内でも活動し続け、その人を支配してしまうことは、すぐにわかるでしょう。このように毒は固有の法則性を秘めていて、その法則性が生体を攻撃するわけですが、それと同じことが私たちが摂取するあらゆる栄養物について言えるのです。栄養物とはどうにでもなる物ではなく、その固有の本性や性質を主張し、固有のリズムを持つ物なのです。そして人間は、このリズムに対抗しなくてはなりません。生体内では、どうにでも加工できる構成材料を扱うのではなく、まず初めに構成材料独自の性質を克服しなくてはなりません。
▲ 07
栄養物は人間の中でまずいくつかの器官と出会いますが、そうした器官の中に、栄養物の固有の生命に…この《生命》という言葉は広い意味でお考えください…対抗する道具があります。不規則な食事で体内リズムが乱れることだけが問題なのではありません。栄養物自体が固有のリズムを持ちますから、その人間のリズムとぶつかり合うリズムを変えなくてはならないのです。そのために働く諸器官の中で最も外側にあるものが脾臓なのです。このリズム変換、反抗、変容には他の器官も働いています。つまり、脾臓、肝臓、胆汁が互いに協力して一つの器官系となり、栄養摂取に際して栄養物が持つ固有の本性を押し返す役目を担っています。食物が胃に届く以前の働き、胃の活動、胆汁分泌による作用、肝臓や脾臓の活動、これらすべてが、摂取された栄養物が持つ固有の本性に対抗する作用なのです。栄養物はこれらの諸器官の作用を受け、人間生体内のリズムに適応します。変容させられてはじめて、自我の担い手であり自我の道具であるあの器官系、つまり血液系に取り込まれることができるのです。栄養物は血液に取り込まれ、血液に自我の道具となる能力を与えますが、それを可能にするには、血液に取り込まれる前に、栄養物の固有の外的性質がすべてそぎ落とされなくてはなりませんし、完全に人間独自の本性に即したものになって血液に到達しなくてはなりません。ですから、次のように言えます。脾臓、肝臓、胆汁、さらに遡って胃までの諸器官とは、外界から食物を受け取り、それが持つ外界の法則を、人間の内的有機体、人間の内的リズムに適応させる器官なのです。

■ 外界とのかかわり

▲ 08
さて、人間本性は全体として働きますから、すべての部分を内界に向けているのではありません。内側の人間本性は絶えず外界と調和し、生き生きとした相互作用を行っていなくてはなりません。しかし栄養物を介した関係では、肝臓、胆汁、脾臓といった器官系が外界に対抗しますから、外界との相互作用は断絶しています。これらの働きで、外界の法則性はすべて排除されています。もし人間がこれらの器官系しか持たなかったら、外界と完全に隔絶し、完全に自己完結した存在になってしまいます。したがって、他の要素も必要なのです。一方で、外界を内界にふさわしく変容するための器官系が必要ですが、他方で、自我の道具が外界と直接に向かい合える必要もあります。つまり、生体が外界から隔離された存在となってしまわないように、生体自身が直接に外界と関係する器官が必要なのです。血液が、一方では外界固有の法則性をすべてそぎ落とした上でかかわり、他方では、外界をそのまま直接に取り込むかたちでかかわります。それは、血液が肺を流れ、外気と触れ合うことで実現されます。こうして血液は外気の酸素によって活性化されますが、このときは酸素が持つものを何も弱めずに受け入れています。実際、空気中の酸素を、人間は自我の道具に直接に、酸素の本性や性質そのままに取り込みます。こうして非常に奇妙な事実と向かい合います。人間が持つ最も高貴な道具、自我の道具である血液とは、前述の諸器官系によって丁寧に濾し取られた栄養物を受け取る存在でもあるのです。こうして血液は、人間の内的有機体、内的リズムの完全なる表現となる能力を持ちます。ところが、それ自身が持つ内的法則性や活性をそのままに、何の衝突もなく取り込まれることが許されている外界の物質があり、それが血液と直接に接触することによって、人間生体は自己完結したものにならず、外界との結びつきを持つことができるのです。

■ 内界と外界の出会い

▲ 09
こうした観点からも、人間の血液有機体のすばらしさがわかります。血液系とは、真の意味で、人間自我のリアルな表現手段であり、事実、一方では外界に向かい、もう一方では自分自身の内側に向かっているのです。人間が神経系という、言わば回り道を介して外界の印象を受け取っていることはすでに見てきましたが、その関連で言えば、肺では、空気中の酸素と血液が直接に触れ合っています。ですから私たちの中には、一方で脾臓・肝臓・胆汁系、もう一方で肺系という対極的な働きをする二つの系があって、これらが血液で接している、と言えるのです。血液が、一方で外気と接し、もう一方で固有の本性を取り除かれた栄養物と接することで、生体内の血液で外界と内界が直接に接します。こう言っても差し支えないと思いますが、電気のプラスとマイナスのように、人間の中で世界のこの二つの働きがぶつかり合います。このように世界の二つの作用系がせめぎ合いっています。そして、そのせめぎ合いの作用を受け止めるにふさわしく作られた器官があります。その器官がどこにあるのかはすぐに想像できるでしょう。血液が心臓に流れ込みますと、変容した栄養液は心臓にまで作用します。また、心臓に血液が流れ込みますと、外界から直接に血液内に入り込んだ酸素が心臓に作用します。ですから、心臓とは二つの系が出会う器官であり、また人間とはこの二つの系の中に組み込まれ、その二つの面とかかわっているのです。一方には内的器官のすべてがぶら下がり、もう一方では外界のリズムや活性と直接につながる器官が心臓である、と言えるでしょう。

■ 内界と外界の調和


▲ 10
この二つの系がぶつかり合い、そこですぐに調和が生まれることなどあり得るでしょうか。酸素や空気を取り込むことで私たちに作用する大きな世界システムと、栄養物を変容させ身体内部の小さな世界システムがありますが、この二つのシステムが血液の中で心臓を通り抜けるだけで、調和的なバランスをとることなど考えられるでしょうか。もしそうだとしたら、この両システムが内的バランスを作り出す中で、人間は、言わばその両方から引っ張られることになります。この連続講演が先へいけば、人間本性と世界の関係はこうではないことがおわかりになるはずです。実際はむしろ外の世界は完全に受け身で、力は送り出すものの、その扱いは完全に人間の内的活動に委ねられますし、またその内的活動が人間を挟む二つのシステムの中でバランスを取るのです。人間に自らの内的活動の余地が残されていること、内的なバランスを作り出す役割が器官レベルで人間に委ねられていること、この二点が本質的に重要であることは、やがておわかりになるでしょう。ですから、この二つの世界システムに調和を与え、バランスをとるためのものを、まさに生体内に探さなくてはなりません。外界の法則性は人間に直接入り込んできますし、人間内部の独自な法則性は摂食に伴って入り込んでくる外界の法則を変容させますが、この二つだけでは調和はもたらされない、とはじめから言えたはずです。この調和は人間の特別な器官系によってもたらされます。人間自身が、この調和を作り出さなくてはいけないはずです。その過程は意識的なものではなく、無意識的です。一方には脾臓・肝臓・胆汁系が、もう一方には肺系があり、それらが心臓を流れる血液で向かい合っていますが、そこにさらに、これも血液と密接な関係にある腎臓系が組み込まれることによって、この二つの系にバランスがもたらされるのです。
▲ 11
血液が空気と直接に触れることによる外界からの作用と、栄養物に働きかけその固有の性質をそぎ落とすための諸器官に由来する作用、この両極の作用を、言わば調和させるのが腎臓系なのです。もし前述の二つの系が不調和のまま作用すると余分なものが生じえますが、腎臓系はその余分なものを排除しうるのです。

■ 内臓と太陽系

▲ 12
以上で内的有機体のすべてが出そろいました。消化器系とそれに続く肝臓、胆汁、脾臓といった内臓器官があり、これらが血液に対置しています。そしてまた、これらの内臓器官は血液系の素材を準備します。他方、血液には別な器官も対置していて、それが内臓器官系に由来するものと外界に由来するものとのバランスをとり、隔離の側に偏り過ぎてしまわないようにしています。…この正当性はまた後に見ていきますが…血液系とその中心である心臓を生体の中心と考えますと、この血液系を基準に整理することができます。すると、一方には肝臓、胆汁、脾臓系を、もう一方には…心臓とはまた別なつながり方をしていますが…肺系を並べることができます。その中間に腎臓系が来ます。肺系と腎臓系には非常に興味深い関係がありますが、それはまた後で見ていきましょう。今は細部には入り込まずに、全体の関連を見ていきます。これらいくつかの系を非常に単純に模式化して並べますと、それだけで、人間の内臓にはある特定の関連があること、そしてその関連では、心臓とそれに付随する血液系が最も重要であることがわかります。

▲ 13
オカルティズムの世界では、脾臓作用を土星的作用とし、肝臓作用を木星的、胆汁作用を火星的作用としていることはすでに申し上げました…この名称の正当性はさらに詳しくわかるはずです…。それと同じ根拠から、オカルト的認識では心臓とそれに付随する血液系を人体における《太陽》としていますし、それは惑星系での太陽の役割に対応します。また、オカルティストは肺系を《水星》、腎臓系を《金星》とします。…こうした呼称の正当性についてはここでは検討しませんが…人体の諸系をこのように呼ぶことで、それが内的宇宙であることが暗示されますし、血液系と関連する二つの器官系もこの視点から見ることができます。諸関連をこうした意味で考察したときに初めて、人間の内的宇宙と呼べるものの全容が現れてきます。水星や金星と太陽との関係が肺や腎臓と心臓との関係と同じように考えられますが、オカルティストはその根拠をきちんと把握しています。それを実際に示すことが、今後の講演における私の課題でしょう。

■ 血液にかかわってくるもの

▲ 14
そのリズムを心臓が表現し、また自我の道具である血液系には、何かがあることがわかります。そして、その何かの形態、内的本性、構成要素は人間の内的宇宙によって方向付けられ、またその何かが、今あるように生き、また生きられるためには、そのような(マクロコスモス的な)全体としての系に組み込まれていなくてはなりません。この人間の血液系とは…もう何度も申し上げていますが…私たちの自我の肉体的道具なのです。現在の私たちが持つような自我は、肉体、エーテル体、アストラル体という基盤の上に構築されて初めて成り立つことがわかっています。世界をふらふらと自由に飛び回る自我などというものは、私たちのこの世界では考えられません。人間の自我にはその基盤として肉体、エーテル体、アストラル体が不可欠です。霊的な意味において、この自我は今述べた人間の構成要素を前提としていますが、それと同じように肉体的な意味においても、つまり自我の肉体的器官である血液系も、アストラル的肉体器官、エーテル的肉体器官を前提にしています。血液系は他の器官系を基盤にして初めて発達しうるのです。植物は、無生物的自然環境を基盤にしても難なく育ちますが、人間の血液器官の基盤としては、単なる外的自然では役に立たず、まずその外的自然を変容しなければならない、と言わざるを得ません。人間の肉体がエーテル体やアストラル体を前提にするのと同じように、体内に入ってくる栄養素材は、人間自我の道具になるためにまず変容を受けなくてはなりません。
▲ 15
この自我の肉体的器官である血液は肺を介して外界に規定されている、という言い方もできます。しかし、もっと厳密に言えば、肺も一つの肉体的器官に過ぎませんから、外的リズムが血液に働きかけるときには、この器官が働きかけているのではなく、この器官を介して取り込まれた空気の持つ外的リズムが血液に働きかけているのです。ここで私たちは、次の二つを区別しなくてはなりません。一つは人間に向かって外から空気というかたちでやってきて、吸い込まれ、外界のリズムを直接に血液に浸透させうるものです。もう一つは、自我にとっての生きた器官である血液に直接に入り込むのではなく…どのように入り込むかはすでにお話ししました…魂という回り道を通って入り込むもの、つまり、感覚器がそれを受け取り、血液という黒板に書き込まれる外界の印象です。ですから人間では、まず呼吸を介して取り込まれた空気によって外界と物質的に直接に触れ合い、その影響を血液にまで及ぼし、その他に、周囲の世界に接する感覚器官を介して魂内に知覚過程が生じ、外界と非物質的に触れ合う、と言えるでしょう。このように呼吸プロセスよりもさらに一歩高次なプロセスがあり、これは霊化された呼吸プロセスとも言えるでしょう。呼吸プロセスによって外界を物質的に取り込む一方で、感覚知覚プロセスという霊化された呼吸プロセスによって…ここで《感覚知覚》という語は、人間が外的印象に関連して作り上げたものすべてを指します…私たちは何かを内に取り込みます。ここで、この二つのプロセスはどのような共同作用をするのだろうか、という疑問が生じます。と申しますのも、人間生体内ではすべてがかかわり合いながら働いているからです。

■ 感覚知覚からの作用と栄養物からの作用

▲ 16
この問いをより正確に見てみましょう。…正確に問うか否かは本質にかかわります…。そうすることで、とりあえず今日のところは仮説的ですが、答えをイメージできるからです。一方には、血液を介して作用するもの、内臓器官でのプロセスを経て血液になったものがあり、もう一方には、外的感覚知覚プロセスによって血液になっていくものがあります。そしてこの両者の間でどのような共同作用、相互作用が行われるかをはっきりさせなくてはいけません。この両者の間では相互作用が生じるに違いないのです。血液とは、いろいろな意味で徹底的に濾過され、非常に多くのことがかかわり、自我の道具となりうるすばらしく有機化された素材であるとは言え、それでも物質的な素材であり、それ自身は肉体に属します。それゆえ、人間の血液中で作用する肉体的プロセスと、感覚知覚と呼ばれる魂内の事柄は、とりあえずは非常にかけ離れている、と言わざるを得ないでしょう。これは普通に考えたら、否定し得ない現実です。血液素材、神経素材、肝臓素材、脾臓素材等々はリアルであるとするのに、知覚、概念、理念、感情、意志インパルス等々はリアルではないとする奇妙な考え方をとるなら別ですが。この両者のかかわり方については、各世界観同士で論争が見られます。つまり、思考が単に何らかの作用、神経物質といったものの作用である、という世界観と、そうでないという世界観の論争です。この問題では世界観同士の論争が起きうるのです。しかしどのように論争するにしても、外界の知覚、それを元に作られるもの、思考、感情など、魂的営みは現実である、という事実は当然見過ごすことはできません。注意してください。私は「隔離された現実」とは言っていません。そうではなく「現実そのもの」と言っています。なぜなら、世界においては何物も隔離されてはいないからです。「現実そのもの」という表現はそんなに明確ではありませんが、実際に観察できるものとお考えください。それには胃、肝臓、脾臓、胆汁などと同じように、思考、感情なども含まれるのです。

▲ 17
この二つの現実を並べますと、他にも気付くことがあります。つまり、一方には、非常に綿密に濾過された物質である血液があり、もう一方には、一見物質的なものとは無関係と思われるもの、つまり思考、感情などの魂的内容があります。この二種類の現実に直面することで、実際に、ある種の困難が生じてきます。さまざまな世界観は、この現実に直面しますと、ありとあらゆる解答を無駄に積み上げるのです。魂的なものである思考や感情が、肉体的なものに直接働きかけ、あたかも思考が物質素材に直接働きかける、と考える世界観もあります。その対極にあるのが、物質主義的な世界観です。つまり、思考や感情などが肉体的・物質的な過程から作り出される、と考える立場です。この二つの世界観の間の論争が巷で繰り広げられ、長い間、重要な意味を持っていました。…ちなみにオカルティストは、そのような空疎な言葉による論争には荷担しません。しかし、それでも一歩も進めなくなり、近代になって《心理身体並行論》という奇妙な名前の別な見解が出現しました。…精神が身体プロセスに影響を及ぼすのか、それとも身体的プロセスが精神に働きかけるのか、このどちらの考え方が正しいかをまったく判定できなくなってしまったので、単純に、この二つのプロセスが並行している、と言っているのです。考えたり感じたりしているとき、肉体ではある特定の過程が並行して起きている、と言うのです。…「私は赤色を見る」という知覚の場合、それに対応して何らかの物質的過程が神経系で生じている、と言う見解です。赤を知覚し、またその知覚に喜びや痛みが伴うとき、そこにも物質的な過程が対応しています。そして、「対応する」という以上のことは言いません。この理論では事実上困難から逃げてしまい、棚上げしています。こうした土壌からは無益な論争が湧き上がり、何も説明していない心理身体並行論なるものが生まれてきました。それは、まったく見当違いの領域に迷い込み、それを元に答え出そうとしたからです。魂内の活動を見るなら、それは非物質的な過程ですし、非常に繊細に組織されたものである血液であろうと、それに類するものは物質的な過程です。…物質的活動と魂的活動…この二つを並べて、両者がどのように作用し合うかをいくら懸命に考えても、そこからは何も生まれません。こう考えても勝手な解答をでっち上げるか、あるいは解決できないとわかるだけです。より高次の認識を身につけますと、この問題に何らかの判断を下すことができます。外界を物質的に観ているだけでもなく、思考を物質的外界と結びつけるだけでもありません。物質的なものを超え、超物質的世界へと導いてくれる認識形式を私たちは見つけなくてはなりません。諸々の感情など、一切の魂的営みを行いつつ、私たちは物質界に生きていますから、物質界が魂的営みの場ではありますが、その魂的営みの根源は超物質界です。ですから私たちは、魂的営みからその超物質界へと向かっていかなくてはなりませんし、また、物質的なものからも超物質界に上っていかなくてはなりません。つまり、私たちは二つの側から超物質界に上っていかなくてはならないのです。

■ 魂と物質をつなぐエーテル体(記憶を例に)

▲ 18
物質の側から超物質界に上るためには、私が前に述べた修練、外的感覚的なものの背後を見えるようにする修練、感覚印象が織り込まれているヴェールを通してその背後を見るための魂の修練が必要です。人間の外的器官を観察するとヴェールとしての感覚印象が得られますし、その点では、体内で最も繊細に組織された血液であっても同様で、そこからは物質的・感覚的なものが得られます。超感覚的世界に至るには、魂の修練が必要です。まず、魂的印象を受け取っている立ち位置よりも一段深い地点、つまり物質的地平の下に降りなくてはなりません。物質的・感覚的世界の下で、生体の超感覚的要素であるエーテル体に出会います。このエーテル体は…これについては、まさにこのオカルト生理学的立場からより詳しく取り上げますが…超感覚的有機体です。そして、とりあえずこれは、目に見える人間生体の原型であり、この超感覚的基礎素材から生体が形成されてくると考えておきましょう。当然ながら、血液もこのエーテル体の写しです。物質的・感覚的有機体の背後へ一段深く降りた地点で、私たちは人間のエーテル体という超感覚的部分と出会いました。ここで、この超感覚的なエーテル体には、もう一つ別な側から、つまり魂の側、外界の印象を元に作り上げる知覚、思考、感情の側から近づくことができるかを検討してみましょう。
▲ 19
そうしますと、魂的営みからは、さらに直接的にエーテル有機体にいきつけることがわかります。さて…これで今日の考察を締めくくりたいと思いますが…魂内の活動では、まず外界から印象を受け取り、つまり、外界が感覚器官に働きかけ、その外的印象は魂内で加工されます。いいえ、加工などという生やさしいものではなく、知覚印象を消化し自分の中に吸収しています。記憶、想起といった簡単な現象を考えてみましょう。何年か前に外界の知覚から作った印象やイメージを,今度は魂の奥底から引っ張り上げます。樹とか匂いとかの単純な例で考えましょう。するとそれが想起です。ここでは、外界の印象を元に、魂の中に何か持続的なものが溜め込まれた、と言わざるを得ません。魂の修練を経て、魂そのものまでをも見ますと、次のことがわかります。つまり、溜め込まれた印象を想起像として呼び戻せるまでに魂的営みを高める瞬間、この魂的体験の中で、私たちは自我だけで活動しているのではありません。自我と共に外界に向かい合って、印象を受け取り、それをアストラル体の中で加工する場合、私たちはそのすべてを自我だけで行っています。しかしそれだけでしたら、すべてをその場で忘れてしまうはずです。結論を導き出すとき、私たちはアストラル体の中で活動しています。しかし、印象をしっかりとしたものにし、少し後に…たとえそれが数分後であっても…それを再び呼び戻せるようにする場合、自我が得てアストラル体が加工した印象は、エーテル体に刻印されているのです。このように記憶表象とは自我によってエーテル体に刻みつけられたものですし、その内容は、外界に触発されて生じる魂的活動から得ています。このように私たちには、魂の側からエーテル体に記憶表象を刻み込む能力があります。そしてまた体の側からは、それが生体に最も近い超感覚的存在であることがわかっています。するとここで、この刻印の様子はどのようなものであるか、という問いが生まれます。アストラル体で加工されたものがエーテル体に取り込まれる成り行きは、実際にはどうなっているのでしょうか。アストラル体はどのようにしてそれをエーテル体に導き入れるのでしょうか。

■ エーテルの流れと二つの脳内器官

▲ 20
この導き入れ方は非常に注目に値します。まず自我の肉体的表現である血液が身体全体をどのように流れるかを非常に単純化して観てみましょう。…ここでは私たちは完全にエーテル体の中に居ると考えましょう…。するといろいろな様子が見られます。自我が外界に呼応して活動する様子、自我が受け取った印象を表象へと凝縮していく様子などが見られ、それに伴って血液が実際に活動する様子も見られます。しかし血液ではそれ以上のことが見られます。血液循環全体が上に向かって…下にはわずかですが…随所でエーテル体を活性化し、いたるところでエーテル体が決まった道筋で流れ始めるのが見られます。その流れは、あたかも血液に結びついているように見え、心臓から頭部に向かい、さらに頭部で集まるように見えます。その流れはおよそ…外的な喩えをさせていただけるなら…電流のように、向かい合う二極の一方に集まり、プラス・マイナスの電気が打ち消し合うように振る舞います。

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外界の印象によってエーテル的諸力が呼び起こされ、それによってエーテル体に記憶表象が刻み込まれます。そしてこの成り行きを、修練を積んだ魂によってオカルト的に観察しますと、エーテル的諸力がもの凄い緊張にあって、ある一点で激しく一体になろうとしているのが見えます。これは記憶力にならんとするエーテル的諸力と見なせます。脳に向かって上り、そこで一つにまとまるエーテル的流れの最後の部分を事実に即して描くとしたら、このようになります。ここには一点に集められた凄い緊張が見られ、これはあたかも「エーテル体の中に入るぞ」と言っているかのようです。ここで、この頭部のエーテル的流れとぶつかる別な流れがリンパ系から発するのが見えます。記憶が形成されようとしているときには、ちょうどプラスとマイナスの電極がもの凄い電圧で互いを打ち消し合おうとするのと同じように、脳の中に二つのエーテル的流れがもの凄い力で集約されるのです。この二つのエーテル的流れは実際に合流し、それによって表象が記憶表象になり、エーテル体の一部になります。

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こうした超感覚的現実、生体内のこうした超感覚的流れは人間の生体にも現れています。つまり、こうした流れによって知覚可能な肉体器官が作り出されているのです。間脳には、記憶表象にならんとするものが目に見える形で表現されています。脳内の別な器官がそれに対置していますが、それは下部の諸器官から来るエーテル体の流れの現れです。エーテル体内における二つの流れが肉体的・感覚的なものとなってこの二つの脳内器官として現れていますし、これらはまた同時に、エーテル体内でそうした流れが生じていることを示す最終的な徴{しるし}でもあります。これらの流れがしっかりと集約され、生体内の素材を取り込み、密に固まってこれらの器官になったのです。そして実際に、一方の器官からもう一方に向かって明るい光の流れが放射するのが見えます。この記憶表象を作り出さんとする肉体器官は松果体であり、それを受け取る側は脳下垂体です。

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ここは身体の中で非常に特別な部位です。ここでは魂的なものと体的なものが協働し、それが肉体器官としても表現されているのです。

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以上の原理的なことの紹介で今日の講義を終わりたいと思います。この先の明日以降、さらに詳細に述べ、正確な証明も付け加えたいと思います。次のような考えを、正確に持ち続けることが大切です。まず、超感覚的なものの研究が可能であること、さらにはその超感覚的なものが肉体的に表現される場合どのようなものができうるか、そして、それが実際に存在するか、を問うことができる点です。ここでは、実際その通りであることを見てきました。ここで取り上げているのは、超感覚的なものへの入り口となる感覚的なものです。ですからこれらの諸器官について述べていることを、物質科学が非常に怪しげなものと見なすのもご理解いただけると思います。さらには、外的学問ではこれらの諸器官について、まったく不十分で曖昧な情報しか提供できない点もまた、ご承知いただけると思います。