元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約
■ 未来の教育と意志についての認識(1~3)
未来の教育においては、意志の教育と感情の教育に特に重点を置く。そのためには意志についての洞察が必要である。意志について認識すれば、感情の一部も認識できる。つまり、感情とはせき止められた、弱めたれた意志である。-意志は地上生においては決して成就することはない。あらゆる意志の遂行においても必ず死語にも続いていく《残り》が存在する。人生全体を通じて、また幼児期においても、この残りを考慮しなくてはならない。
■ 体、魂、霊という人間本性の全体(4~8)
▲全体展望(4)
全体としてみると、人間は体、魂、霊からなっている。体は遺伝によって生じる。魂は以前の地上生に由来している。また現在の人間では意志はその萌芽だけが存在していて、未来になって初めて発展する。
▲霊的本性(5~7)
現在のところ萌芽として存在しているものの一つを霊我(マナス)と呼べる。昔の人々は、人間において死後にも残る部分をマーネンと呼んだ。ここで複数形を用いているのは正しい。なぜなら、地上では人間は個として単数的に存在しているが(マナス、個人的天使)、死後は複数的である大天使に受け止められるからである。また、生命霊、霊人は人間の中の最高次なものであるが、これは遠い将来に発達する。
この3つの霊的な部分が死後から次の誕生までの間、霊的存在の庇護の元に発達する。人間は地上において発達するだけではなく、死後も発達する。しかし、霊的存在からの臍の緒がついた状態である。
▲魂的本性(8)
今日の段階ですでに意識魂、悟性魂(情緒魂)、感受魂という人間の本来の魂的部分が体の中で生きている。
▲体的本性(8)
そこに体的な構成部分、つまり感受体(アストラル体)、エーテル体、肉体を加えると人間全体になる。
■ 体的諸本性と意志(9~12)
▲肉体と本能(9)
動物の肉体はさまざまな意味で人間とは違った作りになっている。つまり、周囲の世界と叡智に満ちてつながっている。その動物が生きて行くに必要で、その動物に特有な行動様式が動物の身体のフォルムに根付いている。建築物をどのように作り上げたら良いかをがビーバーが身体組織で知っていることが例に挙げられている(人間が同じようなことをするためには、長期に渡る勉強が必要である)。身体のフォルムから来て行動を導く要素を本能と呼ぶことができるし、これは意志の最も低い次元である。動物のフォルムには自然そのものが本能のあり様を記している。
▲エーテル体と欲望(10)
目に見えない形でエーテル体が肉体に浸透し、それを形成しているように、肉体に現れている本能もまた掌握している。それによって本能は、内面化され、ひとまとまりになり、欲望になる。本能はあたかも外側から迫ってくるように見えるのに対し、欲望はより内側からやってくるように見える。
▲感受体と衝動(11)
感受体が欲望を捕らえるとこれはさらに内面化され衝動となり、同時に意識に上ってくる。衝動というのは動物において見られる意志の最高の形である。これは継続的で《特徴的な》魂の性質ではなく、生じては消えていくものである。
■ 魂的本性と意志-動機(12)
人間にも動物と共通な体的なものがあるし、それに伴って同種の意志も持っているが、それが三つの魂領域を内に担う自我においては変容され、動機が生じる。身体では3つの体がはっきりと区別されたが、3つの魂を明確に分けることはできない。それは現在の人間ではそれらが互いに入り込み合っているからである。(ヘルバルトは表象の側を強調し、ヴントは意志の側を強調している)。したがって、「ある人間の動機を知れば、その人間を知ることになる」と言える。しかし、それよりも《奥》に微かに響いているものがあり、それを考慮に入れなくてはならない。
■ 私たちの内なる第二の人間としての霊的本性、ならびに意志(13~18)
▲霊我と願望(13)
動機において微かに響いているものとは、願望である。しかし願望と言っても衝動から発じる願望ではなく、動機から生じた行為を後で振り返ったときの意識に現れるものを意味する。「あれはもっと上手くやれるはず、あるいは違った風にやれたはずだ」と言うときの願望である。行為に対して後悔するのは多くの場合単なるエゴイズムから来ている。つまり、よりよい人間であるために、もっとよくできたはずだ、と考えるのである。願望がエゴイズムではなくなるのは、「次のときにはこれと同じ行為をよりよくやろう」というように向かうときである。このような意味での願望とはすでに霊我に属しているし、この段階から、死後も継続する要素となる。
▲生命霊、意図と私たちの内なる第二の人間(14)
願望がはっきりとした形をとり、行為をより上手く実行するにはどうしたらよいか、という表象を形作ると、生命霊の働きによって意図が生じる。ここでは人間の中の意識されない部分が働いている。つまり第二の人間であり、-それは表象的にではなく意志的に-どのようにしたら未来における行為でよりよくできるか、という明確な像を作り上げる。
▲ドッペルゲンガー。アントロポゾフィーと分析心理学(15~16)
第二の人間については分析心理学でも言っている。第二の無意識に存在する人間の方が目覚めた人間よりも遙かに洗練されている点が、教科書的な例を引いて述べられている。言わばあらゆる人間の奥に居るもう一人の人間の中にはよりよい人間が居て、そこから今述べた意図が生じてくる。
▲霊人と決断(17)
死によって魂が身体から解放されるまでは、意図は萌芽である。意図は死後、霊人に属する決断になる。-つまり、願望、意図、決断は霊的人間の意志の形である。
▲死後における意志の発達(18)
願望、意図、決断や人間の奥なる本性からくるものは、死後の営みにおいて初めて発達する。誕生から死までの人間もこの意志の力を体験はしているものの、それは単に表象的であり、言い換えると像的である。-授業では、この意識されない魂の領域に秩序を与え整えるように働きかけなくてはならない。授業は、人間本性の深い部分で行われていることと共同しなくてはいけない。
■ 意志の教育(19~27)
▲反文化的なマルクス主義(19~23)
授業とは内なる人間を把握し、そこから形作られなくてはならない。マルクス的社会主義では通常の人間関係を元に授業を展開するという過ちを犯してしまっている。その意味でロシアのルネチャスク学校改革は文化の死を意味している。穏健社会主義からの要求もまた素人考えである。なぜなら、ボルシェビズムが(正当な)社会主義の中に悪魔的なものを持ち込んでいる点を認識していないからである。
教育が人間本性に対する深い洞察にしたがうときに初めて社会的前進も可能であること知る必要がある。大人同士の間で成り立っている関係を決して授業に持ち込んではいけない。なぜなら、それは子どもの本性にそぐわないからである。校長の廃止、子ども自身による自己教育、つまり反権威的教育といった多くのものは、確かに善き意志から来ているけれども、文化や未来にとって必要なものを全く見過ごしている。
▲繰り返しの行為による意志の育成(23~27)
授業や教育は魂の深い層、特に意志の本性に働きかけなくてはいけない。これを子どもに正しい仕方で行うにはどうしたらよいのか?
知的なものはすべて年老いた意志でしかない。それゆえ悟性に働きかける教示や警告は子どもに作用しない。要約すると、感情とは成就する前の意志であり、意志の中には人間全体の営み、つまり体的、魂的、霊的な営みがある。つまり、子どもであっても意識されない願望、意図、決断を勘定に入れる必要がある。意志への道は感情を経由している。正しいことへの感情を子どもの中に目覚めさせる何かに子どもの注意を向けさせ、これを子どもに繰り返しやらせることによって、行為が習慣になる。意識化されない習慣は感情を豊かにし、完全に意識化された繰り返しは意志衝動や決断力を強める。知的な営みでは一回だけそれを紹介して理解するものと考えている。感情や意志には繰り返し、つまり習慣にまでなった行為が作用する。
教育実践において、この原則は当たり前のこととして成り立つ。たとえば、毎日「父なる神よ」を祈る。今日の人間は一回だけのことに強制されている。それでも、意志の育成は意識的な繰り返しの上に成り立つ。子どもの頃に、今日も明日も同じことをする、という指示を受けることによって人間は強くなる。これは権威から行う。なぜなら、子どもは学校では一人が命令しなくてはならない、ということを理解するからである。
意志育成には芸術が特によく作用する。なぜなら、芸術とは繰り返しの上に成り立っているからであり、繰り返し喜びをもたらし、何回も楽しむことができるからである。それゆえ、あらゆる授業が芸術的な要素で満たされていることが望ましい。
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