2015年2月1日日曜日

『一般人間学』レーバー要約、第10講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 導入 : 話の流れ、復習と予習(1)

▲問題点(1)

人間についての魂的、霊的、体的な視点を相互に結びつけていく。こうした全体的な展望から、身体の外的側面を語ることができる。

■ 頭部、胸部、四肢の構造と形態(2~4)

▲球形がすべての形態モチーフの中心になる(2)

人間についての体的考察も三分節から始める。それらのフォルム原則の基本は球形で、それが各器官で異なった現れ方をしている。

▲頭部と太陽との関連(2)

頭部は、体的には球形に見える。頭部形態は物質的には閉じた形であり、太陽に対応する。

▲胸部と月の関連(2~3)

人間の構成体の中央部分である胸部は、球の一部である。一部分は見えていても、《多くの部分》が隠れ、これは月に対応する。胸部では背中側は体的であり、前方に向かって魂的なものに移行する。

▲四肢(4)

四肢は胸部に《差し込まれて》いる。つまり、球の内側にある半径として、中心と表面をつないでいる。




▲《頭部にも四肢がある》―比較(5)

顎部分は―いわば退化した―四肢として頭蓋骨に差しこまれている。腕や脚といった四肢では筋肉や血管が骨を取り巻いていて、そちらが本質的であるのに対し、頭部では骨が主体である。生体のこの様子には《宇宙の意志》が表現されている。一方《宇宙の叡智》は、頭部の骨格として表現されている。外的なフォルムとは、いかなるときも内的なものの表現である。

■ フォルム諸原則の相互関係: メタモルフォーゼと裏返り(6~8)

▲難しい章(6)

各タイプの骨格が相互に変容していることを理解するのは、人間学の中でも最も難しい。教師が日常的な事柄からかけ離れた内容についても概念を持っていることが望ましい。

▲背骨と頭蓋骨 : メタモルフォーゼ(7)

ゲーテは脊椎骨説というメタモルフォーゼの考えを、人間形姿にも応用した。ゲーテはヒツジの頭蓋骨を観て、頭部の骨はすべて変形した脊椎骨であると考えた。




▲四肢骨と脊椎骨、さらには頭蓋骨: 裏返り(8)

四肢の骨を、脊椎骨や頭蓋骨のメタモルフォーゼ、あるいは逆に器状の頭蓋骨が四肢の管状骨のメタモルフォーゼと捉えるのはさらに難しい。これを理解するためには、手袋の裏表が逆になるような裏返りを考えなくてはならない。

■ 《球》と身体の系(8~12)

▲中心と周囲(8~10)

骨格のメタモルフォーゼを考えるに当たっては、それぞれの部位で中心と周辺の関係が、それぞれに異なっている点を考慮する必要がある。中心は、頭部では内部に集約され、胸部では《遙か彼方》にあり、四肢系では周囲全体に球面状の部分が中心に当たる。 別な表現:頭部からは外に放射する動きが始まっている。それに対し四肢では、外から向かってくる流れがまとまり、密になり、四肢として目に見えるようになっている。四肢では身体的な部分は暗示に過ぎず、そこには同時に魂的なもの、霊的なものも働いている。

▲三つの《球》(11)

人間の身体は宇宙から作り出されているので、三つの球が相互に入り込んだものとして考えるとわかりやすい。 +宇宙全体を包括する最も大きな球を考え、その周辺部分から放射する線がやってきて、その最後の部分だけが身体として目に見えるようになっている。四肢系。 +二番目の球では大部分は見えず一部分だけが見えている。胸部系。 +最も小さな球があり、そこだけはすべてが見えている。頭部系。

▲頭部系と四肢系が胸部において合一する(12)

頭部には閉じようとする力があり、四肢系では自分を開こうとする力があるが、中央部の系ではその両者が交錯している。こうした力の対立は、肋骨の形態に見て取れる。肋骨の後方は背骨に向かって閉じ、また前方でも上部は内部空間を作る力が強く、胸郭が閉じている。それに対し、下方に向かっては広がる力が主になり、肋骨も一番下では左右が閉じていない。

■ 人間の身体と《宇宙の動き》(13~17)

▲エジプトとギリシャの彫刻芸術(13)

エジプト人やギリシャ人は、ここで三つの球として表現した人間とマクロコスモスとの関連に対して意識を持っていた。そのことは彼らの彫刻に現れている。エジプトではやや抽象的に表現され、ギリシャでは美しい調和として表現されている。

▲頭部と四肢:人間に向かう傾向と宇宙に向かう傾向(14)

頭部はそれぞれの人間の方に向かう傾向を持っている。それに対し四肢は、その中で人間が動き、事をなす、宇宙に向かっている。私たちはこのように宇宙と向かい合うとき《四肢的人間》である。

▲鉄道の乗客(15)

肩の上に静止している頭部は、宇宙の動きを静止にもたらすのが課題である。それは列車に乗客が静かに乗っているのと同じように、魂が頭部で静止している。頭部は―本当の意味で静止しているとは言えないが―四肢によって運ばれている。そして胸部は、動きと静止を仲介している。

▲ダンスと音楽 : 宇宙の動きの模倣(16~17)

惑星、星、地球自身の動きを四肢によって真似ることで、私たちはダンスをしている。この動きは胸を経て頭部に向かう途上で堰き止められる。肩の上で静止している頭部は静止的であり、動きが魂にまで入り込むのを防いでいる。その結果、魂で起きることと四肢のダンスとは関連する。不規則な動きでは魂は《文句を言い》、規則正しい動きでは《つぶやき》始め、調和的な宇宙の動きでは《歌い》始める。

■ 動きから静止へ、感覚知覚の根源と諸芸術の根源(18~19)

▲感覚知覚と芸術の根源(18~19)

音の知覚を例に、知覚全般の根源を説明している。頭部、つまり感覚器官は外的な動きを共に行うことはなく、動きを胸部に跳ね返し、それによって感覚知覚が生じる。四肢は、外からは見えない非常に繊細な動きによって外界の動きを真似している。そして、それが静止させられることで、内面において対応する音や色などを知覚している。 外に向かって彫刻や建築芸術であるものが、内から外への反射によって音楽的な芸術になる。―色彩とは静止に達した動きである。

■ 人間の霊的本性の喪失。《霊の否定》の結果としての自然科学的物質主義(20~22


▲時代の中でおろそかにされたこと(20)

裏返してみなければ、手袋について半分しかわからないのと同じように、外側に現れた部分のみを見ていては、人間について半分しか理解できない。

▲《全体的》人間の喪失―宇宙とのつながりの喪失(21)

人間の四肢部分では霊的、魂的、体的人間という人間全体が(大きな球として)現れている。また、胸部人間では魂と体が(中くらいの球として)現れ、頭部人間は単に身体(最小の球)として現れている。一八六九年のコンスタンチノーブル公教会会議において、人間が持つ最大の球、すなわち霊について知ることが禁止された。それによって人間と宇宙との関係に翳りが生じ始めた。一人ひとりの人間では、ますますエゴイズムに沈み込み、宗教自身もエゴイスティックになっていった。

▲それぞれの身体系での発達の相違。物質主義的進化論(22)

自然科学における物質主義の主因は、前述のカトリック公教会会議における《霊性の否定》、つまり人間の四肢本性の隠蔽にある。そこから進化に対して誤った結論が導き出された。 人間の身体で最も古い部分である頭部について言えば、それは動物界に由来している。胸部は後になって頭部に付加されたので、頭部ほどには動物的ではない。四肢はさらに後になって付け加えられたのであるから、その意味で最も非動物的で、最も人間的な器官系である。―四肢の真の本性が意識から消されてしまったために、人間を考えるに当たってますます頭部を中心に考えるようになり、そこから物質的進化論という大きな誤りが生じた。つまり、頭部が動物から生じたというだけでなく、人間全体が動物に由来すると考えられるようになった。

■ 授業の《神聖化》(23)

この講義のテーマは人間の体的考察であるが、実は「物質主義の原因は何か」という問いが主要テーマであることがわかる。教師が文化的事実に対して、根拠のある見識を持つことは重要である。なぜなら、それがあってはじめて、教師は《人間形姿》への正しい敬意を持つことができるからである。子どもの中に、これから少しは進化すべき小さな《家畜》を見るのではなく、宇宙全体につながりをもつ中心点としての人間を見るのである。 こうした感情は授業を神聖なものにするし、子どもとの地下のつながりを作りあげる。ちなみに、電信は一本の電線で可能であるが、それは大地の地下のつながりがあるからである。 教育とは一つの芸術、偉大な命の芸術でなくてはならない。それに対して必要な感情が、広大な宇宙について、さらにはその宇宙と人間との関係について考察することで実るのである。

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