■ 前置きと進め方(1~2)
第1講から第5講までは人間を魂的観点から考察した。つまり、共感・反感の視点だ。このような順にしたのは、人間にとっては魂的領域が一番わかりやすいからだ。しかし、人間学全体を考えるには、さらに霊的観点や体的観点が加わる。体的な事柄は魂的なものの開示であるだけでなく霊的なものの開示でもある。だから、霊的な観点を抜きにしては理解できない。そこで、ここでは次に霊的観点を取り上げる。人間を考察する上で適切な視点は、思考的認識、感情、意志という魂的な分節で考えることだ。■ 三つの意識状態: 意識的要素と無意識的要素(3~6)
▲思考的認識―これを霊的に考察すると(3)
思考的に認識するとき、イメージで語るなら、私たちは光の中、明るさの中に生きている。概念的な言い方をすれば、完全に意識化された活動の中にいる。何らかの判断を下す際に、道筋のどこかが見通せない、つまり無意識な部分があると、それは正当な判断にはならない。▲意志―これを霊的に考察すると(4~5)
意志の場合には話が違う。最も単純な意志の遂行である「歩く」ということだけを取ってみても、筋肉の中、あるいは私たちの身体有機体の中で起きていることは全くわからない。「歩く」ということの表象の中では私たちは完全に目覚めている。意志には絶えず何らかの無意識なものが混ざり込んでいる。それは私たちの生体を観る場合だけでなく、意志を外界に作用させるときにも言えることだ。 例を挙げれば、この無意識の部分がわかりやすくなるであろう。二本の柱の上に一本の梁を渡す際には、見てそれに対して考えた事柄については完全に意識しているが、柱が梁をどうして支えられるのかはわからない。力の関係は闇の中なのである。ここでの成り行きを洞察できないし、それは身体内での意志の成り行きを見通すことができないのと同じだ。 (訳者注…シュタイナーは、「動き」は意識で捉えることができるが「力」は捉えることができない、と語っている。つまり、「力」は意志的だというのだ。これについては、私も完全に納得できているわけではないが、考える方向としてのヒントを付記しておく。)▲感情―これを霊的に考察すると(6)
感情は、明るい認識と闇の意志の間にあり、意識と無意識の両方が入り込みあっている。■ 三つの意識状態: 目覚め、眠り、夢(7~9)
▲認識(7)―意志(8)―感情(9)
これまでその特徴を述べてきた事実関係は、以下のような意識状態の違いとして認識される。 +思考的認識においてのみ、私たちは目覚めた意識状態にある。 +私たちが意志的存在であるとき、昼間起きているときでも、私たちは眠っている。意志的人間に思考的人間が寄り添っている。 +感情は思考と意志の中間に位置している。感情については、夢と同程度にしかわからない。 つまり、目覚めている状態であっても、相互に作用し合う三つの意識状態がある。これは通常の意味での目覚め、眠り、夢とは違う。昼目覚めているときでも、魂的存在としては、意志する存在は眠り、感情する存在は夢見、思考する存在は目覚めているという意味であるだ。■ 教育的課題(10~11)
子どもの意識の目覚め度合いは個々に違う。感情的要素の強い子は夢見がちだ。強い感情によって明るい認識を目覚めさせることができる。なぜなら眠りとは、すべて目覚める傾向を持っているからである。 抱卵状態にいる子どもは強い意志の素地を持っている。学力テスト(知能検査)の結果が「非常に遅れている」という結果であっても、こうした子どもに対して性急に判断すると間違いを犯すことになる。ここでの教育のゴールは意志を目覚めさせることだ。子どもが胆汁質である場合、成長してからとりわけ行動力に満ちた人間になり得る。教育は意志に働きかけるものであって、認識に働きかけるものではない。それは、たとえば言葉一語一語を話しながら、一歩一歩、歩かせることによって可能である。それによって意志を少しずつ思考へと目覚めさせていくことができる。ここでも「どのような眠りであっても目覚める傾向がある」ということが成り立つ。■ 意識状態ならびに身体との自我の関係(12~19)
▲基本諸力(12~14)
この三つの意識状態において、自我はどのように関係しているであろうか。答えを見つけるには、世界がさまざまな活動の総和であることを考える必要がある。つまり、さまざまな基本的営みの領域である。私たちの周りで働き、生命力とかかわる基本的な諸力としては、たとえば、熱や火の力がある。こうした力の働きが、たとえばSolfatara(南イタリアの火山地帯の名所)では目に見えて現れている。▲思考的認識における自我と肉体の関係 : 世界を像に変える(15~17)
世界の諸力を私たちの自我は耐えることができない。現在の段階では、自我はその中に完全に入り込むことから守られていなくてはならない。それゆえ、完全に目覚めてはいるものの、現実の世界の中にではなく、像の世界にいるのである。思考的認識には世界の像だけがある(この点については、魂的視点からすでに述べてある)。 霊的観点からすれば、誕生から死までの間は身体がコスモスの像をつくりあげなくてはいけないことになる。 実際のことの成り行きを見極めることができないので、心理学者は身体と魂の関係を説明できずにいる。目覚めたときに自我は身体の物資的過程の中に入っていくのではない。そうではなく、身体が世界の成り行きから作り上げた像の世界に入っていくのである。それによって、自我に思考的認識が伝えられる。▲感情における自我と肉体の関係:魂的に火傷をする―意識が夢段階に弱められる(1
8) 感情において自我は肉体にまで入っては行く。しかし、もし自我が目覚めたままであったら、魂的に火傷してしまうであろう。それゆえ、意識は夢状態にまでぼんやりさせられて、感情に伴って身体で生じることに耐えられるのである。▲意志における自我と肉体の関係: 耐え難い痛み―意識が睡眠段階まで麻痺させら
れる(19) 意志において身体に生じていることを―たとえば、歩行の際にどのような力が用いられているか―私たちがそれに耐えることができるのは、意識状態が眠りの段階にまで落ちているからである。そうして、大変な痛みに耐えているのである。■ 高次の意識状態 : イマギナチオーン、インスピラチオーン、イントゥイチオーン(20~25)
▲像の中での営み(20)
普通に昼間起きているときに、自我は三通りの営みをしている。完全な目覚め、夢見た目覚め、眠った目覚めである。身体の中で自我が目覚めているのは思考的認識においてのみであるが、そのときには実体の中に生きるのではなく、単に像の中に生きているだけである。そこで人間は意識を高める特別な修行をすることができる。▲インスピラチオーンにおける営み(21~22)
自我が身体内に入り込むと、感情を左右する諸過程に目覚める。そのとき私たちは、無意識なるインスピラチオーン的イメージの中で、夢見ている。こうしたものが、特に芸術家の場合、目覚めた意識の方に上ってきて、それが像(イメージ)になるのである。 エソテリックな修行の中でインスピラチオーンと言われているものは、誰でもが感情の営みにおいて無意識のうちに持っているインスピラチオーン的な諸力が、明るい意識の元にもたらされたものなのである。無意識なインスピラチオーンでは―思考の像についても同じであるが―もしそれを意識的に体験したならば自我が火傷してしまう、あるいは窒息してしまうような世界過程が写し出されている。悪夢とは、こうした窒息感の初期状態を表現している。つまり、こうした悪夢では、周りの空気が身体に入り込んでくる過程が表象の営みに影響しているのである。呼吸を完全に意識して体験したなら、とても苦しいものになるであろう。したがって、それは夢見的意識である感情に弱められているのである。
▲イントゥイチオーンにおける営み(23~25)
意志の遂行に伴って生じる身体過程を完全に目覚めて知覚したとすると、それは非常な痛みになる。それで、意識は眠り状態まで弱められる。そのようにして体験されるのが、無意識なイントゥイチオーンなのである。こうしたイントゥイチオーンは絶えず生じているが、それが境界を越えて意識化されるのは幸運な場合だけである。そこで人間は、ぼんやりと混沌とした状態、あるいは無意識に秩序だった形で、霊的世界を共体験する。 人間の営みの中で一見偶然に見えるようなものの中に、深い法則を見出しうることがある。その一つの例が、『ファウスト』第二部の詩句が生まれた状況である。これらは晩年のゲーテが、部屋をあちこち歩き回りながら口述筆記させることで得られたものである。つまり、意志による行動によって無意識なイントゥイチオーンが意識上に上ってきたのである。■ まとめ並びに人間の身体形態についての展望(26~27)
これまでに述べられたことを次のような図式でまとめることができる。 +目覚め―像的な認識 +夢―インスピラチオーン的感情 +眠り―イントゥイチオーン的意志 これでは、イントゥイチオーンがインスピラチオーンより容易に日常的な像的認識に上ってくる理由が理解できない。したがって、よりわかりやすくすべく、この図式を書き換えなくてはならない。像的認識は身体に沈み込むことでインスピラチオーンに達し、イントゥイチオーンからまた像的認識に上ってくる。感情から意志に向かってのこうした道筋は通常見逃されている。人間が動き始めたり、行為を始めたりすると、人間は表面的にまずその意志を見るのであって、そこでの感情には注意を向けない。だから、イントゥイチオーンはインスピラチオーンよりも容易に像的認識に上ってくるのである。こうしたことから、人間の身体的形姿の特徴が理解できる。もし脚が頭部に直接ついていて、頭が歩く状態だとするなら、考察が意志とが一体化してぼんやりしたものになってしまいる。つまり、眠りながらしか世界を歩けないのである。頭部が胴部の上に静かに乗っていることによって、思考的認識の器官でありうるのである。もし頭部がそれ自身で動かなくてはならなかったら、その動きに必要な意志があるために、眠った意識状態でなければならない。本来の意味での意志は身体が遂行している。頭部は身体という馬車に乗って前進するのである。そうであるからこそ人間は目覚めて行為できる。つまり、無意識に留まる意志に目覚めた意識を沿わせることができるのである。
0 件のコメント:
コメントを投稿