2015年2月1日日曜日

『一般人間学』レーバー要約、第08講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 忘却と想起(1~5)

▲方法論的なコメント(1)

シュタイナーは第7講で触れた記憶の問題を再び取り上げる。そこでは生きた現象を相互に関連させる、という方法論的な原則が述べられた。今度はそれが、未知のものを既知のものに結びつける、という原則として理念にまで形成される。ここでは想起と忘却(未知)を覚醒と睡眠(既知)に結びつける。

▲不眠、自我意識、記憶(2)

まず、「睡眠と覚醒の方が忘却と想起よりも正体がわからない」という反論を丁寧な観察で退ける。「忘却が想起に対して正常な関係にない場合に何が起きるか」を、睡眠妨害の影響を例に明らかにする。睡眠が妨げられると自我意識の《力が弱く》なり、外界からの刺激から身を守ることができず、知覚過敏になる。

▲一生《ぼんやり》を防ぐ。積極的魂形成による助け(3~4)

忘却と想起を随意的にコントロールできないと、自我意識の弱体化に対応する現象が起きる。一生《ぼんやり》した人間ではそれが起きている。彼らは一方で外界からの印象にきちんと結びつくことができず、一過的につながるだけであるし、もう一方で記憶の中から何となく浮かび上がってくるイメージの中で漂っている。本来なら、そうしたイメージはきちんと秩序づけられ、よりよく理解するために使われなくてはならないものである。 これは特に子ども時代の課題であるが、人間は忘却と想起を随意的に扱えるように学ばなくてはならない。教師は、この過程に覚醒と睡眠があることを知っていなくてはならない。想起とは、無意識の領域にあるイメージを意志が掴み取り、それを意識の元に引き上げることだ。自我やアストラル体が睡眠中は肉体とエーテル体を再生させるべく力を蓄えるように、忘却と想起という記憶過程によって眠った状態の意志力に働きかけるのである。 教育によって眠った状態の意志力に直接に働きかけることはできない。人間を全人的に、身体的習慣、魂的習慣、精神的習慣へと教育する必要がある。こうした習慣を身につけていると、後には個々人が自ら意志をより洗練していく可能性の土台になる。

▲教育的な例:生き生きとした関心と記憶(5)

述べたことを、例を挙げて明確にしている。授業全体を上手に組み立てて、子どもたちの中に、たとえば動物に対する生き生きとした関心を育てれば、意志の中に、その場その場で必要な動物のイメージを忘却領域から引き上げる能力が育つ。教師が子どもの習慣にかかわる部分に働きかけると、子どもの記憶能力を秩序だったものにできる。集中的な関心が記憶を強めるのである。

■ 方法論的考察:一体であるものの細分化(6~9)

外界の現象は個々にばらばらであるが、それでも相互に作用し合っている。人間の魂的な部分を捉えるためには、それを思考、感情、意志に分ける必要がある。しかし実際の営みでは、これらの三つは相互に関連し合って一つのまとまりになっている。こうした原則が人間のあらゆる構成要素について働いている。 人間の頭は主に頭部であるが、頭部的なものは身体全体にある。こうしたことは胸部、四肢についても言える。つまり、身体のどの部分も、他の身体要素を持っているのである。 現実を捉えようとするなら、分節化された部分のどれも一つのまとまりと考えられなくてはならない。分節化しなければ世界はぼんやりとしたものにとどまる。闇夜のカラス状態である。しかし反対に、分離だけで互いに関係づけないと、現実が無数の個別体に散らばってしまいる。 頭部人間、胸部人間、四肢人間として語られたことは、魂的活動についても成り立つ。思考的認識というのは主として認識なのであって、そこには同時に感情や意志も入り込んでいる。感情や意志にもこれと相当することが言える。異なった活動を相互に関連させ、一体なものとして観ることができないと、以下の(感覚に関する)論述が、前回の講演内容と非常に矛盾しているように思えてしまうであろう。しかし、現実とは矛盾によって成り立っているのである。

■ 感覚存在としての人間(10~22)

▲感覚生理学が抱える全般的な困難・展望(10)

「一体であるものを分節化し、さらに逆に分離したものを再び一体のものとして捉える」という方法論的原則は、人間の感覚知覚を理解しようとする場合には非常に重要である。通常の感覚生理学、並びに感覚心理学は、多くの問題を抱えている。たとえば触覚と熱感覚を一緒くたにしてしまっている。つまり、十分に明確に分けていないのである。感覚について観察するにあたっては、自我感覚が鍵になる。

▲自我感覚(11~13)

体験したことの総和を自我とするのか、目の前の他人を一つの自我とするのかは、魂的霊的活動として観れば全く別である。前者では完全に私の内面だけで事が完結している。それに対し後者では、他者と私との間で相互作用が起きている。他者の自我を知覚すること、つまり《自我る》ことの基盤は自我感覚にあるし、これは見ることが視覚に拠っているのと同じだ。自我感覚の器官は繊細な素材として全身に広がっている。他者と向かい合ってその自我を知覚することは、認識に類似した出来事であるし、自分自身の自我体験は意志的な出来事である。 それでは、他者の自我を知覚する基盤は何であろうか?一般には次のように言われている。他者が示す外的な現象を自分自身と比較することによって、つまりアナロジーによって目の前に自我を持った人間がいると結論する、というのだ。しかし、自我感覚を働かせている際に生じる関係とはそうしたものではない。それは自分と他者との相互作用であり、他者に入り込んでいくことと自分を他者から守ることの絶えざる交代、つまり共感と反感の関係なのである。『自由の哲学』の第一の補足では、この関係について述べられている。 これは共感と反感の急激な交代であるが、言い換えると他者の中に眠り込んでいくことと、そこから目覚めることの交代でもある。眠りの中で他者がその様子を明かし、それが目覚めにおいて認識、つまり神経系に伝えられる。他者の自我を知覚するというのは、実際、認識過程でありながら、意志活動の一つのメタモルフォーゼと言えるのである。

▲思考感覚、言語感覚(14)

思考感覚とは、他者の思考を知覚する感覚である。これは言語感覚とは明らかに別である。なぜなら、考えを伝える媒体は音声に限らず空間的な仕草― たとえばオイリュトミー ―もあるからである。

▲聴覚から生命感覚まで(15)

さらに他の感覚も挙げ、それらの特徴も簡単に述べている。聴覚、熱感覚、視覚、味覚、嗅覚、平衡感覚、運動感覚、生命感覚である。平衡感覚によって私たちは(前後左右の)空間内で転ばずに動くことができる。また運動感覚によって自分が動いているか静止しているかを区別する。生命感覚では身体の状態、身体のバランスが取れているかを知覚する。

▲十二感覚の表(16)




▲意志感覚―感情感覚―認識感覚(17~22)

さらに、感覚全体を別な形で分けている。 +触覚、生命感覚、運動感覚、平衡感覚には主に意志活動が入り込んでいる。それゆえ、これらは最も見過ごされている。 +嗅覚、味覚、視覚、熱感覚は主に感情感覚である。これらが感情と類縁であることは、嗅覚と味覚で最もわかりやすいであるが、視覚においても体験することができる。この点については、ゲーテの色彩論に多くの例がある。色彩が感情と関連する点がほとんど忘れられている理由は次のとおりである。つまり、色を見るとき、私たちは常に同時に線や形も知覚している。つまり、視覚の活動に、それよりさらに無意識的である運動感覚の活動が入り込んでいるのである。形は身体全体を通して取り込まれ、つまり宇宙の幾何学が認識されることによって初めて知覚される。そしてそのフォルムが色彩と結びつく。運動感覚という回り道において人間全体が視覚行為にも入り込んでいるのである。色のついた形を認識するという例からもわかるが、人間は一体なる存在であるがゆえに、視覚と運動感覚という二つの全く異なる活動を再び一つにまとめることができるのである。こうした統合化によって判断が生まれる。諸感覚によって世界は十二の部分に分かれて分析された形で人間に迫ってくる。そして人間はこれらを結びつける。「なぜなら、個別なるものは個別なままにとどまろうとはしないから」である。~ 十二感覚があるおかげで、個別化されたものを結びつけるという意味で、私たちには多くの可能性が与えられている。また、十二感覚によって、私たちは事物と営みを共にすることができる。教育にとっては、諸感覚をバランスよく育て、意識的にそれらを関連づけていくことが特に重要である。 +自我感覚、思考感覚、聴覚、言語感覚は認識的感覚で、そこに眠った意志が出入りしている。

■ 霊的視点、魂的視点のまとめ。身体の形態学に向けての展望(23)

この講演の最後でシュタイナーは再び、霊的視点では覚醒、睡眠、夢という意識状態が、魂的視点では共感と反感が決定的な意味を持っている点を述べている。このように繰り返されていることからも、人間を見る視点としてこれらがいかに重要であるかがわかる。さらに、球形、月形、線形の三つの形状を取り上げ、身体的な考察を予告している。

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