2019年11月2日土曜日

『魂の暦』第31週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第31週、朗読に不向きな翻訳
1912年11月3日~11月9日

Das Licht aus Geistestiefen,
  霊の深みからの光が
Nach außen strebt es sonnenhaft.
  外に向かって太陽のごとくに力を出そうとする
Es wird zur Lebenswillenskraft
  それ(光)は生命の意志の力となる
Und leuchtet in der Sinne Dumpfheit,
  そして感覚というボンヤリとしたもののなかで照らす、
Um Kräfte zu entbinden,
  それは諸力を解き放すためであり、
Die Schaffensmächte aus Seelentrieben
  その諸力とは、魂の伸び枝からの創造の威力を
Im Menschenwerke reifen lassen.
  人間の業績の中で成熟へともたらす。

冬が近づき外の世界が暗くなるにつれて、内面の光はますます強くなり、外にすら向かい始めます。また、内側では「思考」「感情」に続き「意志」にまで、つまりより深くにまで内面の光が作用します。ルドルフ・シュタイナーは後に『一般人間学』の中で、「感覚」や「感受」は認識の領域に属するのではなく、意志の領域に属すると言っています。したがって、「感覚というボンヤリとしたもの」への作用も意志領域への働きかけとみなすことができます。
しかし、この詩の中でのその後の展開はやや複雑ですので、骨組みだけを取り出しましょう。
●骨組み
  諸力を解放するために感覚を照らし出します。
  その諸力が創造の威力を成熟へともたらします。
●「創造の威力」の説明
  魂の伸び枝から生じていて、人間の業績の中で成熟する
このように見ますと、2文からなるこの詩の主語は文法的にも、内容的にも非常に明確な Das Licht(光)であるのに対し、その光が作用を及ぼす意志領域では表現も錯綜したものになっています。

2019年10月26日土曜日

『魂の暦』第30週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第30週、朗読に不向きな翻訳

復活祭後;第30週
1912年10月27日~11月2日

Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
  魂の太陽の光の中で 私にそれ(2行目)が芽吹く
Des Denkens reife Früchte,
  思考の熟した成果が、
In Selbstbewußtseins Sicherheit
  自己意識の確実さの中で
Verwandelt alles Fühlen sich,
  すべてが感情へと変容していく、
Empfinden kann ich freudevoll
  喜びに満ちて私は感受することができる
Des Herbstes Geistes Wachen:
  秋の霊の目覚めを:
Der Winter wird in mir
  冬は私の中で
Den Seelensommer wecken.
  魂の夏を目覚めさせるだろう。

4つの文からなるこの週の骨組みは、
  私に成果が芽吹く
  すべてが感情に変容する
  霊の目覚めを感受できる
  冬が魂の夏を目覚めさせる
となります。そこに修飾語がからんできます。

さて、前の週で思考が現れ、そこでの熟した成果が魂の太陽の中で伸びていくとあります。春における植物の芽生えと対称をなす内面での発芽と成長です。
3、4行目は、すべてが感情へと変容するとあり、しかもそれがクリアな自己意識の中で行われます。
思考、感情と並んだ後で、「感受」つまり、何かを感じ取る領域について述べています。ただ、「思考」「感情」が名詞で表現されたのに対し、「感受」は動詞です。名詞による表現は、事実描写的な印象を与えるのに対し、動詞での表現は「私」がそのことの主体であることがより明確になります。
そして最後に未来形の wird で表現される冬への展望が述べられています。
およそこのような内容であるものの、詳しく見ていくと解釈に戸惑う部分もあります。それは1行目のmir(私に)です。in mir という表現であれば「私の中で」という意味で内容的にも矛盾なく理解できます。ところが「in」はなく、単に「mir」(私に)なのです。動詞がsprießen(伸びる)なので、「私に向かって伸びてくる」という解釈の可能性も捨てきれません。したがってここではとりあえず、「私の中で」と「私に向かって」の両者のニュアンスがあると考えていただくしかありません。

2019年10月20日日曜日

『魂の暦』第29週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第29週、朗読に不向きな翻訳

1912年10月20日~10月26日

Sich selbst des Denkens Leuchten
  思考の照射がそれ自体で
Im Innern kraftvoll zu entfachen,
  内において力強く点火すること、
Erlebtes sinnvoll deutend
  体験したものを(下行から)有意義に意味付けつつ
Aus Weltengeistes Kräftequell,
  世界霊の諸力の源から、
Ist mir nun Sommererbe,
  (冒頭2行は)今や私には夏の遺産
Ist Herbstesruhe und auch Winterhoffnung.
  秋の平安、そして冬の希望でもある

第29週でいよいよ「思考」が登場します。思考の照射がいわば自然点火するのです。内面において、しかも力強く。
ここで、他の訳者は思考に「輝き」という訳語を加えています。それに対し私が「照射」としたのは、leuchtenという語のニュアンスが、「それ自身が光ること」よりも「他者が照らし出されること」に重きがあるからです。ですからたとえば、太陽はleuchten しますが、星はしません。

次には、「体験したことを、宇宙霊の諸力の源から有意義に意味付ける」と表現されています。夏の一つ一つの出来事は、すべて宇宙霊による創造活動の結果です。そして、私たちはそれを経験してきています。とりあえずは、感覚知覚でしかありませんが、その背景には宇宙霊の活動があります。そうした霊的な意味づけを体験した事柄について行なう季節に入って行きます。過去としての夏、平安の中で思考する秋、そして次への準備に入る冬というかたちで。

2019年10月13日日曜日

『魂の暦』第28週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第28週、朗読に不向きな翻訳

1912年10月13日~10月19日

Ich kann im Innern neu belebt
  内面が新たに活性化され私にはできる
Erfühlen eignen Wesens Weiten
  自らの本性の広がりを感じることが
Und krafterfüllt Gedankenstrahlen
  そして力に満たされた(下行からの)考えの放射を
Aus Seelensonnenmacht
  魂の太陽の力からの
Den Lebensrätseln lösend spenden,
  命の謎を解きつつ捧げることが、
Erfüllung manchem Wunsche leihen,
  多くの望みに成就を与えることが、
Dem Hoffnung schon die Schwingen lähmte.
  その望みにおいて希望は既に翼を麻痺させていた。

内に力を感じ始め、ここでは三つのことができると描写されています。
自らの本性の広がりを感じる
考えの放射を捧げること
望みを成就させること
1. では外の世界ではなく内なる世界の広がりを自覚することがわかります。
2. の「考えの放射」は少しわかりにくい概念です。私が「考え」と訳した原語はGedankenで、以前にも書きましたが、「考える」という動詞 denken の過去分詞形から作られた名詞です。これを高橋氏は「思想」、はた氏と鳥山氏は「思考」と訳しています。
しかし、ルドルフ・シュタイナーが言うGedankenはもっと大きな意味で、「宇宙の設計思想」+「宇宙構築力」と考えても大げさではありません。人間はこれを思考(denken)によって捉えるにしろ、それは影的になり「宇宙構築力」は失われ、「宇宙の設計思想」だけになっています。
しかし、第28週での考えの放射の威力は宇宙的「考え」と人間的「考え」の中間くらいかもしれません。なぜならそれが「魂の太陽の力」から来ているからです。この「魂の太陽」という表現がその微妙さの現れです。人間の考え(Gedanken)が単に影ではなく力を持ち始めるとしたら、それは人間が創造的になったときだけです。
そして、3. では希望を失いかけていた願いを成就させていくことができると述べられています。

2019年10月6日日曜日

『魂の暦』第27週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第27週、朗読に不向きな翻訳


復活祭後;第27週
1912年10月6日~10月12日

In meines Wesens Tiefen dringen:
  私の本性の深みに入り込む:(主語未記載)
Erregt ein ahnungsvolles Sehnen,
  予感に満ちたある憧れを活性化する、(上とは別の主語で未記載)
Daß ich mich selbstbetrachtend finde,
  (2行目のための主語)私が自己観察しつつ自分を見出す
Als Sommersonnengabe, die als Keim
  夏の太陽の贈り物として、それは芽として
In Herbstesstimmung wärmend lebt
  秋の雰囲気の中で温めつつ生きている
Als meiner Seele Kräftetrieb.
  (また)私の魂における諸力の伸び芽として。

文法的には謎です。1行目は命令形ではありませんし、コロン(:)で終わっています。そして動詞 dringenに対する複数形であるはずの主語がありません。
万全の自信を持って言えるわけではありませんが、その未記載の主語を私は前の週の言葉から探します。すると複数形の名詞は「私の霊的な伸びる芽」だけです。それが私の本性の奥底に入り込むことによって、憧れが掻き立てられると解釈しておきます。

2行目はerregtという他動詞で始まるものの、ここでも主語がありませんし、それは単数でなくてはなりませんので、一行目とは別な主語です。はた氏と鳥山氏は「憧れ」Sehnenを主語と見て、4行目以下の内容が私の内に生じてくると解釈されています。
私の解釈では、2行目は仮の主語として用いられるesが省略され、Daßで始まる4行目以降の内容が実質上の主語になると解釈しています。
「憧れ」Sehnenとは、求める対象が曖昧な言葉です。場合によっては、自分が何に憧れているのかも知らずに欠乏感だけを感じることすらあります。それに対し、4行目以降の内容はかなり具体的です。ですので、その内容を憧れと考えますと「憧れが具体的な内容を持つ」という矛盾に陥ります。その点、私の解釈ですと、文法的には確証はありませんが、秋の雰囲気における具体的な状況が何を求めるかもわからない憧れを刺激していることになります。

この時期に自己観察をすると、自身が夏の太陽からの贈り物であり、それがさまざまな可能性を担っていることを感じとるのです。まだ何になるかはわからずとも。そうした「不特定感」は「〇〇として」という意味の als を3回も使用することで表現されているのかもしれません。

「伸び芽」と訳したTriebは、第26週では霊的なものでしが。それが第27週ではより人間に近づき魂的なものになっています。人間は夏の力をますます内面化していきます。

「憧れ」という感情について補足しておきます。日本語ですと「実現はほぼ不可能だけれども、それを知りつつ望んでいる状態」と言えるでしょう。ですので、特定のスターに憧れることも可能です。ドイツ語も似たニュアンスですが、意味が多少違い自分が望んでいる対象が定まらない感じです。自分以外の何か、現状以外の何かを希求しているものの、それが何であるかもわからない状態です。『霊的実相から観た宇宙進化』の第4講でルドルフ・シュタイナーは1811年に自殺しているハインリッヒ・フォン・クライストについて「このように満たされぬ憧れを持った精神も現代の霊学と精力的に取り組んだなら魂の充足が得られていたでしょう」と述べています。クライストは100年後に生じてくるものに、それが何であるかも知らずに「憧れて」いたのです。

2019年6月16日日曜日

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『魂の暦』第10週、朗読に不向きな翻訳

1912年6月9日~6月15日


Zu sommerlichen Höhen
  夏の高みへ向かって
Erhebt der Sonne leuchtend Wesen sich;
  太陽という輝き出る存在が自らをもたげる
Es nimmt mein menschlich Fühlen
  その輝く存在は私の人間的感情を
In seine Raumesweiten mit,
  その輝く存在の空間の彼方に持ち出す
Erahnend regt im Innern sich
  ぼんやり予感しつつ、内側では活発化する
Empfindung, dumpf mir kündend,
  感受が、私にぼんやりこう告げつつ、
Erkennen wirst du einst:
  やがてお前は認識する:
Dich fühlte jetzt ein Gotteswesen.
  今、ひとつの神存在がお前を感じ取ったことを

  夏至に向かうこの時期における人間の感情、感受、予感、認識といった諸活動の関係が示されています。 まず、感情ははるか彼方にまで持ち出されてしまいます。旅行への憧れが強くなるのも、世界が明るくなっていくことと無関係ではないでしょう。とにかく「遠くへ」憧れるのです。 ところが、人間の内面ではその対極とも言うべきことが起きています。感受、つまり何らかの印象を受け取る働きが活発になります。しかし感受は、思考はおろか感情ほどにも目覚めてはおらず、非常にぼんやりとした意識状態でしかありません。 ここで使われている erahnen は ahnen=予感するの類義語ですけれど、ahnenよりさらにぼんやりとしたニュアンスです。 しかしそのぼんやりとした意識において私に次のように告げられます。「やがてお前は認識する」と。 そして、その認識する内容が変わっています。「今、ひとつの神存在がお前を感じ取った」というのです。 やがて認識する、というのが未来形、感じ取ったが過去形で明確に表現されています。


2019年6月12日水曜日

『魂の暦』第09週、朗読に不向きな翻訳

1912年6月2日~6月8日



Vergessend meine Willenseigenheit,
  私の意志の固有性を忘れつつ
Erfüllet Weltenwärme sommerkünded
  世界の熱が夏を告げつつ私を満たす
Mir Geist und Seelenwesen;
  霊と魂存在で;
Im Licht mich zu verlieren
  光の中で私を失うように
Gebietet mir das Geistesschauen,
  霊的観照は私に強く要求し、
Und kraftvoll kündet Ahnung mir:
  そして予感は力強く私に伝える;
Verliere dich,um dich zu finden.
  「汝自身を見出すために、汝を失え」

第一行の「 meine Willenseigenheit=私の意志の固有性」から謎めいた表現です。意志には個的な部分と個を超えた部分があり、その個的な部分は忘れると私は解釈したいです。そして、世界の熱が私に、物質的な部分ではなく、霊と魂存在を満たすというのです。
さて、熱についてシュタイナーが語っている講演『霊的実相から見た宇宙進化』があります。感覚界の背景には霊的な実相があり、熱や光の実相が何であるかを述べています。たとえば熱の霊的な実相は、土星紀におけるトローネのケルビームへの供犠であると述べています。第3位階のトローネが自らのすべてをケルビームに捧げることから意志の熱が生まれ、さらには感覚知覚できる熱が生じたと言います。
また、その体験へ到る道筋では、自分をなげうち、すべてを捨てる勇気が必要だと述べています。そしていわば無になり、いわば自分が細い棒のようになったと感じるまでになります。するとその後で、自分が温かさに包まれ、それを勇気の海のように感じるといいます。この第9週の「失うことで得る」というモチーフは、どこかそうした熱体験、トローネ体験に通じるものがないでしょうか。
また、「光の中で自分自身を失うように」という部分で、熱から光への橋渡しが暗示されます。元素(エレメント)領域とエーテル領域を連続で考えると、地水風火より上にあるエーテル領域では、熱エーテル、光エーテル、化学エーテル、生命エーテルといった領域があります。つまり、光エーテルは熱エーテルの一つ上の領域です。人間はそこに昇って自らを失うことが暗示されています。
熱、光、予感の3段階で、自分を捨てる覚悟が求められます。

2019年6月9日日曜日

『魂の暦』第08週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第08週、朗読に不向きな翻訳


1912年5月26日~6月1日

Es wächst der Sinne Macht
  感覚の威力が増大する
Im Bunde mit der Götter Schaffen,
  神々の創造とのつながりにおいて
Sie drückt des Denkens Kraft
  感覚の威力は思考の力を押し込め
Zur Traumes Dumpfheit mir herab.
  私において、夢のおぼろさに落とし込む
Wenn göttlich Wesen
  神的存在が
Sich meiner Seele einen will,
  私の魂と一体とならんとするなら、
Muß menschlich Denken
  人間的思考は
Im Traumessein sich still bescheiden.
  夢的状態(夢存在)の中で静かに自らを慎まなくてはならない。

復活祭からの第8週目の日曜日はキリスト教ではペンテコステ=聖霊降臨祭(Wiki)です。
そこでは「精霊が炎のかたちとなって」使徒たち降りてきます。その精霊降臨祭の日曜日から始まる週の『魂のこよみ』で主に登場概念は、感覚と思考そして私の魂に結びつこうとする神的存在です。神的存在の方から私の魂に結びつこうとするモチーフはまさに聖霊降臨的です。
感覚の方は、神々の創造と結びつきつつ、その威力=Machtを増します。そして、この感覚の威力は思考を夢のぼんやりした状態に落とします。これは一見ネガティヴにも思えますけれど、思考がそうした状態になることには高次の意味があることが最後に述べられます。つまり、現状の人間では神的存在と出会う際には、明晰な思考を保つことはできず、夢状態で出会わざるを得ないのです。つまり高次な霊的体験は、そうした夢的意識状態、言い換えると形象意識でのみ可能なのです。
=======================
ここで、「存在」と訳している2つの語について説明します。
一つは今週の5行目にも出てきている「Wesen」で、これは「本質」と訳されることもあります。もう一つは「Sein」で、これも「存在」と訳されますし、私もそう訳しています。この週では「Traumessein」つまり Traum+sein というシュタイナーの造語による熟語で登場します。
WesenとSeinの違いはおよそ次のように考えてください。
 Wesen = 主として理念的な意味での存在
 Sein = 主として感覚的な意味での存在。
    あるいは、「それが存在する」というニュアンスです。
    今週の文脈では「夢的状態にある」という語感です。
どちらにも「主として」と付記したのは、曖昧な部分もあるからです。

2019年6月2日日曜日

『魂の暦』第07週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第07週、朗読に不向きな翻訳

復活祭後;第07週(早めに準備、旅行中)

1912年5月19日~25日
Mein Selbst,es drohet zu entfliehen,
   私の自分、それが霧消へと迫られる、
Vom Weltenlichte mächtig angezogen;
   世界の光によって圧倒的に魅了されつつ;
Nun trete du mein Ahnen
   そこで現れよ、私の予感よ
In deine Rechte kräftig ein,
   お前の正当性において力強く、
Ersetze mir des Denkens Macht,
   私において思考の威力に置き換われ、
Das in der Sinne Schein
   その思考は感覚の仮象の中で
Sich selbst verlieren will.
   自分自身を失おうとしている。

前の週では、復活した「自分=Selbst」と真理を開示する「世界=Welt」が提示されました。今週はその両者で生じたせめぎあいが冒頭の2行で表現されています。そして、そこでは「自分」は「世界の光」に圧倒されます。
そうした状況で、「予感」に呼びかけ、その登場を促すという予想もしない展開になります。その予感に期待するのは、思考の威力=Machtに置き換わることです。
その思考は、本来なら仮象である感覚知覚の背後で働く実相に迫る役割を担うはずであるのに、溢れ来る感覚知覚にいわば圧倒され、自分自身を失おうとしているからです。
第04週では、感受が思考に明晰さへ向けて温かさを贈りました。そうした温かさは思考に力を与えるもののまだ潜在的であり、明晰さには至っていないのでしょう。
人生の中には、最高次の思考によっ

6行目の Schein を私は「仮象」と訳しましたが、「輝き」の意味もあり、いわば掛詞になっています。
前出(第02週)の説明の繰り返し:
ここで「威力」と訳したMachtは、「力=Kraft」とはニュアンスが違います。威圧感を感じる存在と出会ったときなどに、その相手に「Macht」を感じると言います。また、Kraft は物理学で使われますが、Machtは使われません。

2019年5月26日日曜日

『魂の暦』第06週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第06週、朗読に不向きな翻訳



復活祭後;第06週

1912年5月12日~18日
Es ist erstanden aus der Eigenheit
   それは固有性から復活し終えた
Mein Selbst und findet sich
   私の自分が、そしてその自分は自らを見出す
Als Weltenoffenbarung
   世界の開示として
In Zeit- und Raumeskräften;
   時間と空間の諸力の中で;
Die Welt, sie zeigt mir überall
   世界、それは私にいたる所で示す
Als göttlich Urbild
   神的な原像として
Des eignen Abbilds Wahrheit.
   固有の似像の真理を。

前半の中心は「私の自分」です。その「自分」が「固有性」から復活し、また自身を世界の開示であると知るわけです。
ここで使われている Eigenheit や Selbst は地上的な狭い自分を現す際に使われることが多い単語です。そして、この週ではそのSelbst=自分がその固有性をいわば克服するのです。そしてその地上的な意味でのSelbst=自分を、「時間と空間の諸力の中で」つまり地上的環境の中で、世界の開示として再発見するのです。
ゲーテがファウストのほぼ最後で述べた「移ろいゆくものはすべて喩えに過ぎない」という一言に表現されているように、感覚界のすべては霊的なものの喩えです。その意味で、地上的なSelbst=自分を「世界の開示」として再発見するのです。
私にはこの「世界の開示」という表現も重要と思われます。本来の世界開示の行為者は高次存在、あるいは神です。その世界開示のプロセスの似像に自分が相当することがわかる、という可能性が読み取れるからです。そのことは、この開示が単に「時間と空間の中で」行われるのではなく、「時間と空間の諸力の中で」行われる点にも現れています。
別な言葉で言うと、
「人間は神の似像」と言うだけでなく、
さらに「諸力を操り創造する人間は創造する神の似像」
なのです。

後半の3行はDie Welt=世界についての描写です。この文は完全な文にはなっていません。「世界」と言った後でそれを関係代名詞で受けて、その世界について説明しているだけです。つまり、従文節はあるのに主文節がありません。その世界が私に「神的な原像として、固有の似像の真理を」示すというのです。
まず私に与えられているのは「似像」です。そして、その元となる真理が私に示されます。真理とは「一なるもの」であるにしろ、その表現は多様でありえます。たとえば「愛」という理念が個別なケースでは違った姿で現れうることを思い出してみてください。つまり、具体化したものはすべてその人に固有の「似像」にすぎません。しかし、その似像の真の姿、つまり原像を世界が示してくれるのです。しかも、その原像は神によるものです。

2019年5月19日日曜日

『魂の暦』第05週、朗読に不向きな翻訳


復活祭後;第05週

1912年5月5日~5月11日
Im Lichte, das aus Geistestiefen
     光の中で、その光とは霊の深みからのもので
Im Raume fruchtbar webend
     空間の中で実り豊かに織りなしつつ
     (前版の「揺れ動きは誤訳)
Der Götter Schaffen offebart:
     神々による創造を開示する:
In ihm erscheint der Seele Wesen
     その光の中で魂の本質が現れ
Geweitet zu dem Weltensein
     世界存在へと広がった
Und auferstanden
     そして復活した
Aus enger Selbstheit Innenmacht.
     狭き自分性という内的力から

第4週では感受が主役で、そこに光が一体化すると表現されていました。この第5週はそうした光が中心になって詩が展開します。そこでの中心テーマは「光の中に魂の本質が現れる」点で、そこにさまざまな状況が加わります。
前半3行では、この光の様子が次のように表現されます。
  1. 霊の深みに由来する
  2. 空間を実り豊かに織りなす
  3. 神々の創造を開示する

1.からは、この光が霊的な光であることが示唆されます。
そして、2.では実り豊かな作用をおよぼしますので、物理的な意味での光でもあるでしょう。光が植物の成長を促す力を持っていることを思い起こさせます。
3.では、この光によって神々の創造が開示されるとあります。これには二重の意味を感じます。まず、光によって森羅万象が目に見えるようになりますから、「光によって被造物が開示する」というイメージです。しかし、それだけではなくさらに深い意味も考えられます。つまり「霊的な光によって神々の創造行為そのもの」が開示するのです。
被造物だけでなく、創造が開示される。

後半ではこの霊の深みから発した光に、魂の本質が現れます。「開示」に比べ「現れる」は軽い表現で、さらっとそこに出てくる感じです。その魂の本質については次の2つのことが語られます。
  1. 世界存在へと広がること
  2. 復活したこと

1.では、魂の本質がこの春の光に満ちた季節に、地上世界の隅々に広がっていくというイメージはすぐにつくれるかもしれません。しかし、それだけの意味ではなく、地上世界の他に霊的世界をも含んでいるように思われます。その根拠は次行と関係します。
2.の「復活」は auferstanden と表現されています。これは非常に強い表現で、主にキリストの復活で用いられます。つまり、キリストの復活に準えるかたちで魂の本質が狭き自分性から復活するというのです。そしてキリストの復活では、キリストが地上だけでなく、霊界にも光をもたらしています。それゆえ前行で魂の本質が広がり向かう世界存在とは、地上世界を意味するのではなく、霊的世界も含むはずです。
ここで「狭き」と先の「広がる」が対比されていて、光の中で息づく魂の様子が感じられます。

5行目をはたりえこ氏が「宇宙的な存在へと聖化され」としている部分は、geweitet=広がったを geweiht(weihen=聖化する、の過去分詞形)と勘違いしたための単純な誤訳と思われます。

「weben」を「beben」と勘違いした誤訳を木村美雪さんにご指摘いただきました。

2019年5月12日日曜日

『魂の暦』第48週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第48週、朗読に不向きな翻訳
1913年3月2日~3月8日

Im Lichte, das aus Weltenhöhen
  光の中で、 その光は世界高みから
Der Seele machtvoll fliessen will,
  魂に威力十分に流れ込まんとする、
Erscheine, lösend Seelenrätsel,
  魂的謎を解きつつ、現れよ
Des Weltendenkens Sicherheit,
  世界思考という確実さが、
Versammelnd seiner Strahlen Macht,
  世界思考の放射の威力を集めつつ、
Im Menschenherzen Leibe weckend.
  人的心の中に愛を目覚めさせつつ。

骨組みに当たる主たる文に挿入的内容が組み込まれています。それについてのシュタイナーの意図まではつかめません。
骨組みは「光の中に、確実さが、現われよ」です。
その「光」は「世界の高みから、魂に威力十分に流れ込まんとする(光)」によって修飾されますし、「現れよ」には「魂的謎を解きつつ」が付帯し、「確実さ」を「世界思想という」が修飾します。
終わりの2行もそれぞれ修飾句で、時間的、空間的、論理的な関連性を示すことなく、単に状況が併記される印象があります。冒頭の「光の中で」はこの詩全体につながるので、「世界思考の放射の威力を集めつつ」も「人的心の中に愛を目覚めさせつつ」もこの光の中で行われると捉えられます。

意味のつながりを重視して語順を入れ替えると、次のようになります。

世界の高みから魂に威力十分に流れ込まんとする光の中に、
魂的謎を解きつつ、
世界思考という確実さが現れよ、
世界思考の放射の威力を集めつつ、
人的心の中に愛を目覚めさせつつ。

『魂の暦』第47週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第47週、朗読に不向きな翻訳

1913年2月23日~3月1日

Es will erstehen aus dem Weltenschosse,
  世界母膝から発生しようとしている、
Den Sinnenschein erquickend, Werdelust.
  感覚仮象をリフレッシュさせつつ、生成快が。
Sie finde meines Denkens Kraft
  生成快は私の思考の力を見出す
Gerüstet durch die Gotteskräfte,
  神諸力によって内支えされているのを、
Die kräftig mir im Innern leben.
  そしてその神諸力は私において内側で力強く生きている。

最初の2行の主役は「生成快」です。これは私の「快」ではなく、何かが出来上がっていくこと自体の快感と言えるでしょう。そして、この季節からは生成快がますます活発になっていきます。それがまさに世界=外界から生まれ出ようとしていて、さらには種々の感覚界の物体=仮象をリフレッシュさせていきます。
さらにはその生成快に思考の力が出会うように促します。そしてその私の思考の力は、私の中に力強く生きている神諸力によって内支えされているのです。また、そうした支えがあるのは、冬の内的な体験があってこそです。

意味に着目して語順を変えてみましょう。

 生成快が、感覚仮象をリフレッシュさせつつ、
 世界母膝から発生しようとしている。
 生成快は
 私の内側で力強く生きている神諸力によって
 私の思考の力が内支えされているのを見出す。

『魂の暦』第46週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第46週、朗読に不向きな翻訳
1913年2月16日~2月22日

Die Welt, sie drohet zu betäuben
  世界、それは(2行目)を麻痺させようと脅かす
Der Seele eingebor'ne Kraft;
  魂に生まれた力を;
Nun trete du, Erinnerung,
  ここで現れ出よ、記憶よ、
Aus Geistestiefen leuchtend auf
  霊深から照らしつつ
Und stärke mir das Schauen,
  そして私を観ることにおいて強めよ、
Das nur durch Willenskräfte
  その観ることとは意志諸力によってのみ
Sich selbst erhalten kann.
  自身を保つことができる。

この第46週では内と外とで一種の緊張関係が生じます。外界である世界が魂に生まれた力を麻痺させようと脅かすというのです。外界では春先の花が咲き始め、人間は外界にばかり気が向くようになる可能性があります。それが度を過ぎますと、内からの力が圧倒されてしまいます。
そこで記憶を召喚します。霊深から上がってきて内的に明るさをもたらすことを願います。そして「観ること」を強めることを期待します。これは内的支えがないと、どうしても外界に引っ張られ、「目を奪われる」状態になりがちなのです。そうではなく、外界を観つつも、そこでの生成に参与する力を持たなくてはなりません。そしてそれは意志の力によってのみ行うことができるのです。

『魂の暦』第45週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第45週、朗読に不向きな翻訳
1913年2月9日~2月15日

Es festigt sich Gedankenmacht
  思考結果威力は確かなものとなる
Im Bunde mit der Geistgeburt,
  霊誕生との結合において、
Sie hellt der Sinne dumpfe Reize
  思考結果威力は感覚のぼんやりとした刺激を明るくする
Zur vollen Klarheit auf.
  まったき明晰さへと。
Wenn Seelenfülle
  もし魂的湧出が
Sich mit dem Weltenwerden einen will,
  世界生成と一体にならんとするなら、
Muß Sinnesoffenbarung
  感覚開示は
Des Denkens Licht empfangen.
  思考の光を受け取らなくてはならない

またもや「思考結果威力」などというとんでもない日本語で始まります。何回も述べますが、この「思考結果」というのは人間の思考の結果だけではありません。精神界そのものが考え出した結果、つまり森羅万象の諸法則であり、ここではその森羅万象を実現する威力の方にフォーカスされています。この思考結果に存する威力は宇宙思考においては非常に明確ではあるものの、人間ではその存在を自覚すらしていない人がほとんどです。それでも、霊誕生とのつながりでそれが確実なものになります。

3、4行目ではその思考結果威力がぼんやりとした感覚刺激を完全な明晰さにもたらします。そもそも感覚刺激の側からは諸法則といった霊的なものはまったく伝わってきません。その意味で「ぼんやり」していますし、けっしてそれ自体で明晰になることはありません。明晰さを得るには思考の側からの働きかけが不可欠です。霊の側から生じた思考結果威力には前にも述べたように森羅万象の法則性も含まれますから、外界から受け取った感覚刺激を適切に意味付けることができるのです。

4行目から8行目ではまた別な側面が語られます。世界創造には人間の参与が不可欠ですし、そのためには人間の魂的活動が必要になります。しかし、この活動も闇雲なものであっては無意味です。世界創造、世界生成と一体となり、それに資するように働かなくてはなりません。ちょうどゲーテが実際の植物を観ながら、形成法則に従ったかたちで内的に植物を形成したように、感覚に開示するもののなかから法則的なものを思考の力によって取り出さなくてはなりません。

『魂の暦』第44週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第44週、朗読に不向きな翻訳
1913年2月2日~2月8日

Ergreifend neue Sinnesreize
  新たな感覚刺激を掴み取りつつ
Erfüllet Seelenklarheit,
  魂的明晰さが(最終行の創造意志に)満たされよ、
Eingedenk vollzogner Geistgeburt,
  成し遂げられた霊誕生を思い、
Verwirrend sprossend Weltenwerden
  もつれながら世界生成が伸びつつ
Mit meines Denkens Schöpferwillen.
  私の思考の創造意志によって(満たされよ@2行目)。

第31週ではぼんやりとしたものになり、37週には闇となった「感覚」が42週で開示へと向かい、44週では「感覚刺激」として人間に作用し、人間はそれを掴み取ります。第2行目から5行目の文の骨格は、「魂的明晰さが私の思考の創造意志に満たされよ」です。そしてこの部分にはルドルフ・シュタイナーの認識と危機感が現れています。現代人は自然界における創造を「自然が行っている他人事」と感じ、せいぜいそれを研究対象として認識しようとするくらいです。しかしルドルフ・シュタイナーはそうした自然創造に人間が参与しているし、そこに人間が力を注ぐ必要があると認識していました。現代人はすでに内的に自然と分離してしまっています。その点についての認識を改め、世界創造に寄与していく気概が求められています。

『魂の暦』第43週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第43週、朗読に不向きな翻訳


1913年1月26日~2月1日


In wintrelichen Tiefen

  冬的な深みの中で

Erwarmt des Geisetes wahres Sein;

  霊の真の存在が温まる

Es gibt dem Weltenscheine

  その真の存在は世界仮象に与える

Durch Herzenskräfte Daseinsmächte;

  心力を介して実在威力を;

Der Weltenkälte trotzt erstarkend

  世界冷にもかかわらず、(次行を)強めつつ

Das Seelenfeuer im Menscheninnern.

  魂火を人間内面で。


第43週の内容は比較的理解しやすいと思います。

それでも特に注目したいのは第2行目のSeinと3行目のWeltenscheinの対比です。Seinとは存在そのものであり、それに対するScheinとは見かけだけで真の存在ではないものを意味します。つまり、霊の側はリアルな存在であり、物質界(世界)の。は仮象です。その仮象に実在威力を与えてくれるのですが、それを仲介するのが心力です。この状況をイメージしますと、宇宙における人間の役割の大きさが伝わってきます。そして、冷たい世界の中で、魂の火は強まっていきます。そう、人間は何らかの霊的真実を認識したとき、その実現に向けて燃えるものです。


『魂の暦』第42週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第42週、朗読に不向きな翻訳

1913年1月19日~1月25日

Es ist in diesem Winterdunkel
  この暗冬の中で
Die Offenbarung eigner Kraft
  自身の力の開示とは
Der Seele starker Trieb,
  魂の強き伸び芽(衝動)である、
In Finsternisse sie zu lenken
  (その衝動の内容は)暗闇の中に開示の力を導くこと
Und ahnend vorzufühlen,
  そして予感しつつ事前に感じること
Durch Herzenswärme Sinnesoffenbarung.
  心熱を介して感覚開示を

前半3行の骨格は「開示は伸び芽である」です。それを修飾して「自身の力の開示は、魂の強き伸び芽である」になります。1行目は仮の主語のEsから始まり、「この暗冬の中で」に続きます。
3行目以降は伸び芽(衝動)の内容が2つ描かれます。
一つは暗闇の中で開示をコントロールすること、もう一つは心熱を介して感覚開示を予感しつつ事前に感じることです。この時点では「感覚開示」はまだ現れていません。まだ芽生えにすぎません。双葉を見てそれがどのような花に展開するのかを想像するように、魂根底で火として受け取った世界語(第40週)がどのように展開しうるかを感じ取りますし、そのためには自らの心の熱が必要になるのです。

『魂の暦』第41週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第41週、朗読に不向きな翻訳

1913年1月12日~1月18日

Der Seele Schaffensmacht,
  魂の創造威力
Sie strebet aus dem Herzensgrunde,
  それは心根底から努力する
Im Menschenleben Götterkräfte
  人間生の中で神々諸力を
Zu rechtem Wirken zu entflammen,
  正しい働きへと点火することを
Sich selber zu gestalten
  自分自身を形成するように
In Menschenliebe und im Menschenwerke.
  人間愛の中、そして人間作品の中で

前週は魂根底が宇宙語の火力で満たされました。それに続いて今週は「魂の創造威力」が主題となります。それが心根底から2つのことに力を注ぎます。
人間生において、つまり日々の活動の中で神々諸力を正しい働きへと点火すること、
魂の創造威力そのものを、人間愛と人間作品の中に盛り込んで形成すること
の2つです。
説明を要さないくらいシンプルではないでしょうか。


『魂の暦』第40週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第40週、朗読に不向きな翻訳
1913年1月5日~1月11日

Und bin ich in den Geistestiefen,
  そして私は深霊にいる、
Erfüllt in meinen Seelengründen
  私の魂根底において満たす
Aus Herzens Liebewelten
  心の愛界からの
Der Eigenheiten leerer Wahn
  自己固有性という空虚なる妄想が
Sich mit des Weltenwortes Feuerkraft.
  自身を世界語の火力で。

1行目は、
 今、私は霊の深いところにいる
ですし、2行目以降の骨組みは
 妄想が、(宇宙語の)火力に、満たされる
となります。そしてそこに幾つかの装飾が付きます。
「妄想」は「空虚」で、「自己固有性」と言えるものです。
また「満たされる」の状況として、「心の愛界からの魂の根底」において満たされます。つまり、3行目の「心の愛界からの」は魂根底の出所と解釈しています。誰の魂もその根底は愛の世界を起源としているというのは、美しいイメージではないでしょうか。

さて、この週で私は霊界の深みに達し、まず自己固有性など空疎であると知り、そこに宇宙語の火力を受けます。自己の固有性が空疎であると言っても、人間が無個性だと言うのではありません。むしろ、各人がどのような霊性と親和し、どのような霊性を受け止めるかということによって個性が生じると言えるでしょう。私を満たす霊性が私を築いていくのです。これはある意味では聖母マリアの存在と似ているでしょう。マリアはイエスを身ごもるにふさわしい女性であったという意味で、確かに受胎以前も高貴な人物であったかもしれません。しかし、マリアがマリアであることの本質は、マリアがイエスを身ごもった点にあります。高貴な存在を受け入れることでマリアはマリアになったのです。それと同様に、誰しもが自分と結びつくべき高貴な霊的なものを受け入れるなら、その意味で「その人」になるのです。そして、ここで受け入れるのは「世界語の火力」です。宇宙進化の土星紀がトローネの熱から始まったように、私たちはここで「火力」に満たされるのです。

『魂の暦』第39週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第39週、朗読に不向きな翻訳
1912年12月29日~1月4日

An Geistesoffenbarung hingegeben
  霊開示に身を委ねつつ
Gewinne ich des Weltenwesens Licht.
  私は世界存在の光を勝ち取る
Gedankenkraft, sie wächst
  思考結果の力、それは育ち
Sich klärend mir mich selbst zu geben,
  自らを私に明らかにしつつ、自らを私に与える
Und weckend löst sich mir
  そして目覚めさせつつ私に対し
Aus Denkermacht das Selbstgefühl.
  自己感情が思考者威力から離れる

骨組みを見ると、最初の2行では「私が光を勝ち取る」で、その光とは「世界存在の光」であり、受け取る当たって私は「霊開示に身を委ねている」ことになります。この「身を委ねる」という表現からは、このときの私の意識が明確ではなかったことが感じ取れます。そして最後の行では「自己感情が思考者威力から離れる」となっています。ここで「思考者威力」などという変な語を使っていますけれど、これはDenker(思考者) とMacht(威力、存在することで影響を及ぼす力) を組み合わせたシュタイナー造語の直訳です。既存の翻訳でこのDenker=思考者のニュアンスを訳しているものはありません。ここではそれについて考えられる可能性を述べておきます。

自然界の森羅万象は宇宙的である「考え(思考結果)」に沿って創造されますし、それに必要な創造の諸力はすでにその「考え」が内包しています。繰り返しになりますが、私たちの思考はそうした宇宙的考えの写しに過ぎず、そこには森羅万象の法則性はあるものの創造の力は失われています。
さて、この宇宙的考えも考えられた産物ですから、それを考える思考者が存在しますし、それは霊界の高次の領域に属しています。人間がそうした高次の思考者と一体になるためには完全なる帰依が必要で「私」的要素はすべて滅却しなくてはなりません。ところが、そこでの体験を元に地上界で何かを実現していこうとするなら、そうした高次の存在とは離れ、自分に戻る必要があるのです。その意味でこの第39週の詩は霊界の高次の存在と一体にあった後の経過が表現されているはずです。
第3行目では「思考結果の力」について述べられます。森羅万象を創造しうる宇宙的考えが育つのです。そして宇宙的考えの力を私に明らかにしてくれ、さらにそれ自身を人間である私に与えてくれます。人間はいわばこの力の痕跡を持っていて、それを芸術的創造に向け、『自由の哲学』で述べられる道徳的ファンタジーとして具体的に何かを創造していくのです。

『魂の暦』第38週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第38週、朗読に不向きな翻訳

聖夜の雰囲気
1912年12月22日~12月28日
Weihe-Nacht-Stimmung

Ich fühle wie entzaubert
  魔法を解かれたかのように私は感じる
Das Geisteskind im Seelenschoß;
  魂の膝の中に霊児を;
Es hat in Herzenshelligkeit
  心の明るみの中で
Gezeugt das heil'ge Weltenwort
  聖なる世界語は作り出した
Der Hoffnung Himmelsfrucht,
  希望という天界果実を、
Die jubelnd wächst in Weltenfernen
  それは歓喜しつつ世界遠方で育つ
Aus meines Wesens Gottesgrund.
  私の存在という神根底から

まず「私は霊児を感じる」が文の骨格です。その霊児を私の魂の膝の中に感じるのです。既存の翻訳では「膝の中」というあまり詩的ではない語を避けて「胎内」としている場合が多いのですが、クリスマスです。クリスマスに「胎内」はありえません。
次の3、4、5行目のドイツ語では不思議なことが起こります。3行目はEs(それ)で始まります。ここまでを普通に読んできますとこの Es は中性名詞の代名詞で、2行目の霊児を代行していると捉えます。すると、3、4行目は「それ(霊児)は心の明るみの中で聖なる世界語を作り出した」という意味として解釈します。方向としては「霊児が世界語を作る」という関係です。ところが5行目に入りますと「天界果実(Himmelsfrucht)」が現れ、これが文法的にどこにも繋がらなくなってしまいます。ちなみに、「der Hoffnung」は2格で天界果実を修飾しますから、いわばおまけです。
この部分を文法的にきちんと繋げるためには、3行目のEsを仮の主語と解釈し、「世界語が天界果実を作り出した」と捉えなくてはなりません。3、4行目では霊児が世界語を作る関係と思われたものが5行目で逆転して世界語が天界果実を作る関係になります。
6、7行目は天界果実の成長の方向性を示します。それは世界遠方で育ちますし、その根源は私の存在であり、その私の存在が結びついた神根底なのです。

『魂の暦』第37週、朗読に不向きな翻訳

復活祭後;第37週

1912年12月15日~12月21日

Zu tragen Geisteslicht in Weltenwinternacht
  世界冬夜に霊光を運ぶために
Erstrebet selig meines Herzens Trieb,
  私の心の伸び芽が至福において努力する
Daß leuchtend Seelenkeime
  魂芽が照らしつつ
In Weltengründen wurzeln,
  世界根底に根付き、
Und Gotteswort im Sinnesdunkel
  感覚闇の中で神語を
Verklärend alles Sein durchtönt.
  解明しつつすべての存在に通し響く

先週第36週には行為のゴールにあった霊光を冬の夜の状態にある世界に運ぶことが今週の目標になります。その霊光を運ぶのは私の心の伸び芽であり、それが3行目以降の内容を目指します。

まず魂芽が光を担い、それが一方で世界根底、つまりすべての霊的根源に根付いています。無限遠にある無限の力かつ無限の叡智から力を受け取るのです。

そして芽が伸びる先、つまり感覚界の方ではすべての存在に神語を響かせます。それまでは「光」が中心であったものが、ここでは「響き」に変容します。「響き」には光よりも深くに作用し、相手を揺すぶる強さがあります。神語は当然世界根底の方からやって来て、それを感覚界に響かせますし、その仲介をするのは魂芽です。つまり、響きはこの魂芽を伝わってくるはずです。
ここではdurchtönt という語が使われます。durch は「通す、貫く」 で tönt(不定形 tönen)は「鳴らす、響かす」です。「通す」には3通りの意味が考えられます。
 1. 存在を貫くイメージ、
 2. 芽を貫き通るイメージ、
 3. その両者
私は3を推しますが、多くの場合は1と解釈されることが多いので、あえて「通し響く」と2の可能性を残した訳にしました。

『魂の暦』第36週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第36週、朗読に不向きな翻訳
冬:1912年12月8日~12月14日

In meines Wesens Tiefen spricht
  私の本質の深みで 語る
Zur Offenbarung drängend
  開示へと迫りつつ
Geheimnisvoll das Weltenwort:
  秘密に満ちて 世界語が:  
Erfülle deiner Arbeit Ziele
  お前の仕事のゴールを
Mit meinem Geisteslichte,
  私の霊光で満たせ、
Zu opfern dich durch mich.
  私を通してお前を犠牲として捧げるために

前半の骨組みは「世界語が語る」です。この世界語とは、森羅万象のそれぞれの設計図とも言うべき法則性とそれを実現する実効的力を内包しています。そして、通常は語りません。必要とされる内容に従って実効するのみです。しかし、ただ一つの場においてそれは語り出します。人間の本質の深みにおいてです。
そして後半の3行は、その世界語が語る内容です。そして人間の意志のあり方を教えてくれます。「今やりたいこと」が問題なのではありません。やろうとしていることの結果が霊的な光で満たされているかが重要なのです。そして光によって植物が育つように、その働きを受けることによって、受けた側に成長の力が湧き上がってくるのです。
しかしそうした意志行為で行われるのは、上っ面だけの自己実現ではありません。それとは正反対とも言える自己犠牲の成就を目指します。この自己犠牲こそが最高の自己実現である可能性はあります。名オーケストラの一員として楽器を奏でている状態がその喩えかもしれません。音楽全体の流れの中に居て、日常的な個を表現する必要などありません。表面的には目立たなくても、演奏家として最高のものを実現できる瞬間です。

『魂の暦』第35週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第35週、朗読に不向きな翻訳


1912年12月1日~12月7日

Kann ich das Sein erkennen,
  私は存在を認識できるか、
Daß es sich wiederfindet
  存在が再び立ち直るのを
Im Seelenschaffensdrange?
  魂的創造衝動の中で?
Ich fühle, daß mir Macht verlieh'n,
  私は感じる、私に力が授けられたことを
Das eigne Selbst dem Weltenselbst
  固有の自己を世界自己に
Als Glied bescheiden einzuleben.
  分枝として慎ましく入り込んで生きる力を。

第35週は比較的すっきりとした構造で、文の骨組みもわかりやすいでしょう。前半3行は「存在を認識できるか?」という疑問文です。その後により細かい状況が描写されます。つまり、「再び」と「魂的創造衝動の中」という条件が付きます。
ただし、「存在」と訳した定冠詞付きの das Sein、いわば存在そのものが何を指すのかはかなり曖昧です。こうしたところでも創造的想像力を育てることができます。そして、それを認識する場が「魂的創造衝動」だと言います。これは場所というよりは行為に関係するニュアンスですし、私の中に創造的行為への熱を作り出している瞬間にだけ現れます。

そして後半は「認識」から「感じる」に雰囲気が変わります。「自身の自己を世界自己に分枝として合流させる」というのは、まさに創造の際の原体験です。ゲーテは原植物という理念が実際に力を持ち、それが個別の植物を創造するプロセスを共体験していました。彼の創造衝動が自然の創造行為と合流していたからです。それを可能にする力を授けられているのを人間はまず、感じるのです。

『魂の暦』第34週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第34週、朗読に不向きな翻訳

1912年11月24日~11月30日

Geheimnisvoll das Alt-Bewahrte
  古く守り置かれたものを神秘な仕方で
Mit neu erstandnem Eigensein
  新たに復活した個的存在とともに
Im Innern sich belebend fühlen:
  内において活性化するのを感じろ:
Es soll erweckend Weltenkräfte
  それは目覚めさる作用をしつつ世界諸力を
In meines Lebens Außenwerk ergießen
  私の生活という外的作品の中に注ぎ込むはずであり
Und werdend mich ins Dasein prägen.
  なりつつ私を存在へと刻み込むはずである

前半3行の骨組みは、主語のない命令形の文で
 「古く守り置かれたものを感じろ」
です。
さらにそこに、「神秘な仕方で」、「新たに復活した個的存在とともに」、「守り置かれたものが活性化するのを」が感じろに加わります。
後半3行は、
 「世界諸力を注ぎ込む」と「世界諸力を刻み込む」の2つが骨組みです。
注ぎ込む方は「私の生活という外的作品に」注ぎ込み、刻み込む方は「存在へと」刻み込みます。

この詩の前半は「内」、後半は「内から外」が舞台です。第32週は「内」の内容で、第33週が「外」の内容でした。ですから、この復活という語が現れる第34週(今週)は、それらが総合された内容です。
そこでまず、「内」の内容を見ると、春から夏にかけて外界から受け取ったものを指すと思われる「古く守り置かれたもの」を「復活した個的存在」と共に活性化されます。
毎回のことですけれど、ルドルフ・シュタイナーの詩ではすべてが理念的表現で、具体的な内容は登場しません。「古く守り置かれたもの」と言われても、具体的な内容は各自が、毎年違ったかたちで創造的に想像しなくてはなりません。この「理念的なものから個別的、具体的なものを創造的に想像する能力」が人類には不可欠ですし、これが萎えていることが物質主義全盛の原因とも言えます。その意味で、この『魂のこよみ』もルドルフ・シュタイナーによる人類救済のツールと言えます。
こうして内面が活性化されますと、今度は「外」の世界諸力が「私の生活という外的作品」に刻み込まれます。ここで「生活」と訳したLebenは、人生、生命、営み、生活といった意味があります。ここでは「外」が意識されるので「生活」という訳語を選択しました。また、「作品」はWerkの訳語ですが、第31週には「人間の業績」と訳したMenschenwerkという単語が登場していて、Werkが人間から外界へと、つまりより外向きに移り変わっていることがわかります。

前の第33週で世界の虚無性を見てとった後、この週では「復活」が語られます。33とは、イエスがゴルゴタに掲げられたときの年齢です。その最後の3年間は、そこにキリストが受肉していました。とりあえず私が気づいたのはそうした「33」という数字との関連で、その先までは見えていません。

『魂の暦』第33週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第33週、朗読に不向きな翻訳
1912年11月17日~11月23日

So fühl ich erst die Welt,
  そうして初めて私は世界を感じる、
Die außer meiner Seele Miterleben
  それは私の魂の共体験の外側で
An sich nur frostig leeres Leben
  それ自体では単に凍りつく空虚な営み
Und ohne Macht sich offenbarend
  そして威力を伴わず、自らを開示しつつ
In Seelen sich von neuem schaffend
  魂内で自らを新たなものから創造しつつ
In sich den Tod nur finden könnte.
  それ自体の内には死のみを見出しうるという。

文としての骨組みは、「私は世界を感じる」だけです。そして2行目からはその「世界」を修飾する副文が最後まで続きます。
この文がかなり修飾的でどこへ行きたいのかわかりにくいです。
その骨組みは第2行の冒頭の関係代名詞 Die と第6行がつながったもので、次のようになります。
  世界は、それ自体の内には死を見出しうるのみという。

そして第2行目から第5行目まで「世界」を修飾する字句が並びます。内容は魂の外と中という2つの状況での状態です。私の魂の外が2,3,4行目で、魂内が5行目です。
外側では、
「それ自体では単に凍りつく空虚な営み」であり、「力なく自らを開示」する状態です。

ところが魂内では状況が異なります。「新たなものから創造しつつ」とされ、いわば一筋の光明が見えます。世界だけでは死のみを見出しうるものが、魂内では命を持つのです。
実際ルドルフ・シュタイナーは、人間の魂と世界は分離しているのではなく、人間魂による世界への参与、人間魂による世界への力づけがなくては宇宙的意味での進化はありえないと述べています。そうした人間魂から世界への力づけを最も強く感じ取るのがこの週なのかもしれません。

『魂の暦』第26週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第26週、朗読に不向きな翻訳

復活祭後;第26週

ミカエル祭のしらべ
ミカエル祭 9月29日
1912年9月29日~10月5日

Natur, dein mütterliches Sein,
  自然よ、その母性的存在よ
Ich trage es in meinem Willenswesen;
  私はそれを私の意志本性に担う
Und meines Willens Feuermacht,
  そして私の意志の炎の威力、
Sie stählet meines Geiste Triebe,
  それは私の霊的な伸び芽を鍛え
Daß sie gebären Selbstgefühl
  その芽が自己感情を生み出す
Zu tragen mich in mir.
  私の中で私を支えるために

春から夏にかけて人間は外界の自然の中に眠り込んでいます。ところが秋分を過ぎ、このミカエルの季節になると第25週では予感であった内面に向かうベクトルがはっきりと方向を確定します。
第1行には、それまで人間が意志や感情を向けてきた事柄すべてを「自然よ」という言葉に集約し、第2行ではいわばそれをすべて自分の内に取り込みます。ただし、思考、感情、意志の意志の側に担うことになります。これは人間に対し力強く働きかける反面、そこに意識は及びません。それでも意志の領域から働きかけて、霊の芽、つまり霊においてこれから伸びようとするものを強めます。おそらく、太陽が優勢であった季節に人間がどれだけ深く外的自然界とかかわったかで、そうした働きかけの強度が変わると思われます。「霊の芽」は伸びる力は秘めるものの、それだけでは伸びる方向は確定しません。行き先はわからずとも、まずは感情の領域に自己感情を生み出します。ある意味でこの芽は当て所のない旅に出るのですが、芯だけはしっかりと与えられるのです。

『魂の暦』第25週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第25週、朗読に不向きな翻訳

1912年9月22日~9月28日

Ich darf nun mir gehören
  私は私のものであることを許される
Und leuchtend breiten Innenlicht
  そして照らし出しつつ内なる光が広がる
In Raummes- und in Zeitenfinsternis.
  空間の闇、そして時間の闇の中に。
Zum Schlafe drängt natürlich Wesen,
  自然の存在は眠りへと迫られる
Der Seele Tiefen sollen wachen
  魂の奥底は目覚めるはずであり
Und wachend tragen Sonnengluten
  目覚めつつ太陽の灼熱を持ち込む
In kalte Winterfluten.
  静かに寄せる冷たい冬の中で

9月29日はミカエル祭です。その直前にまず宣言されるのは、自分が自分に属することが許される点です。これまでは、基本的に私は外の世界に引き出され、多くを体験するものの、ぼんやりとした意識でしかありませんでした。しかし、その自分が自分に戻り、さらには内面から照らし出しさえします。先週の第24週には「魂的闇」という語が登場しました。そして今回は空間の闇、時間の闇という私の外側です。内側はすでに輝きはじめています。
それでも闇に向かっていく外界では、存在が眠りへと向かわされ、それとは対照的に魂の奥底から目覚めていくのだといいます。そして、夏に体験した太陽の灼熱を魂に持ち込むのに対し、外の世界では冬が忍び寄っています。この詩には、対極的な流れが混在していはいでしょうか。眠りと目覚め、魂内と外界、灼熱と冷たさです。そうした対極が錯綜し、前半は日が長く、後半は夜が長くなる秋分前後の週です。

『魂の暦』第24週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第24週、朗読に不向きな翻訳

1912年9月15日~9月21日

Sich selbst erschaffend stets,
  絶えず自分自身を創造しつつ
Wird Seelensein sich selbst gewahr;
  魂存在は徐々に自分自身に気づいていく
Der Weltengeist, er strebet fort
  世界霊、それは引き続き力を注ぐ
In Selbsterkenntnis neu belebt
  自己認識において新たに命を与え
Und schafft aus Seelenfinsternis
  魂的闇から創造する
Des Selbstsinns Willensfrucht.
  自己感覚という意志の実りを

第20週ではじめて感情において感じ取った自分の存在(Sein)が、この24週に到って「魂存在」として、その存在が知覚されます。これまでは内側の存在はぼんやりとしたものでしかありませんでしたから、ここでまた一つの転換点を迎えていると言えるでしょう。しかしこの魂存在はまだ微弱で、そこに世界霊が力を与えてくれます。さらには「自己認識に新たな力」とありますから、この自己認識は昨年までの自己認識ではなく、春、夏を新たに経験してきた私の自己認識でなくてはなりません。
魂もまだ闇状態です。そこから新たなもの、つまり「自己感覚」が創造されます。しかもこれが意志の実りであるというです。しかし、夏の間に外の世界で行為(意志)を通して何かを得ていないと、そこには実りは生じません。ぼんやりとした意識において行われたことが、外からの霊的な助けによって、人間にとって重要な意志(行為)の実りが得られます。
これは、人間が生涯の行為、つまり意志の集大成が萌芽となって、死後にはそれがさらに展開していくという事実(『一般人間学』第2講)と相似です。春から夏にかけての意志活動の集大成が、秋以降に結実していくはずなのです。

『魂の暦』第23週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第23週、朗読に不向きな翻訳

1912年9月8日~9月14日

Es dämpfet herbstlich sich
  それは秋的にぼんやりする
Der Sinne Reizesstreben;
  感覚の刺激を求める傾向が;
In Lichtesoffenbarung mischen
  光の開示の中には混ざる
Der Nebel dumpfe Schleier sich.
  ぼんやりとしたヴェールである霧が。
Ich selber schau in Raumesweiten
  私自身は空間の彼方に観る
Des Herbstes Weltenschlaf.
  秋の世界の眠りを。
Der Sommer hat an mich
  夏は私に
Sich selber hingegeben.
  自身を与え尽くした。

 第23週で夏が終わります。まず、感覚が刺激を求める傾向がぼんやりとしてきます。そして、人間の意識はしだいに内面に向きます。そして、光の開示においても霧が混ざってきます。実際、ドイツの秋、とくに早朝は霧に包まれる日が多いのです。クリアな視界は失われてきています。
そして、空間の彼方を観ても、自然界の旺盛な成長力はもはや存在せず、しだいに眠りについていく世界しか観られません。
最後にその状況を確認します。「夏は私に自身を与え尽くした」と。この週を境に、魂のこよみは内省的な内容になっていくでしょう。

『魂の暦』第22週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第22週、朗読に不向きな翻訳

1912年9月1日~9月7日

Das Licht aus Weltenweiten,
  世界の彼方からの光が
Im Innern lebt es kräftig fort:
  内側において力強く生き続ける:
Es wird zum Seelenlichte
  それは魂の光となるだろう
Und leuchtet in die Geistestiefen,
  そして霊の深みまで照らし出す
Um Früchte zu entbinden,
  果実を繋がりから解くために
Die Menschenselbst aus Weltenselbst
  世界自己からの人間自己を
Im Zeitenlaufe reifen lassen.
  時の流れのなかで成熟させる

 第20週の方向が定まらない状態から、第21週では「見知らぬ威力」が私に働きかけ、方向性を示してくれました。そして第22週になると、事柄がさらに具体的になっていきます。外からやってくるものは「見知らぬもの」ではなく、「世界の彼方からの光」であるし、それは内側において生き続けるといいます。
さらにそれだけでなく、魂の光となり、霊の深みまで照らし出すというのです。そして、その光は果実を開放するためであるし、その果実とは、人間自己であり、それが時間の流れの中で世界自己から成熟してくるのです。
この週では「光」が鍵でしょう。世界の彼方からの光、内側の光、魂の光、霊の深みを照らす光というように、しだいに奥へと入り込んでいきます。

『魂の暦』第21週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第21週、朗読に不向きな翻訳


1912年8月25日~8月31日

Ich fühle fruchtend fremde Macht
  私は(感情において)感じる、実りをもたらせてくれる見知らぬ威力が
Sich stärkend mir mich selbst verleihn,
  力を増しつつ私に私自身を与えてくれるのを
Den Keim empfind ich reifend
  萌芽が成熟するのを私は感じ取り
Und Ahnung lichtvoll weben
  そして予感が光に満ちて織りなす
Im Innern an der Selbstheit Macht.
  内面において、自己性という威力の傍らで

 第20週が先を暗示するだけで、方向性は明確でなく、いわば不安定な状態にあったものが、この第21週では「見知らぬ威力」が私に働きかけてきます。しかもこれは実りをもたらすものであり、ますます強力になりながら私に私自身を与えてくれるといいます。
この「見知らぬ威力」とはいったい何なのでしょうか。
後半は「萌芽」と「予感」という未来に向かいつつもまだ未知なるものを秘めたものが中心になります。「萌芽」は「見知らぬ威力」のおかげか、成熟に向かっているのを感じ取っています。
「予感」の方も未来に向けて希望に満ちています。「自己性という威力」が内面に存在しながらも、その傍らで光に満ちたものを織りなすのですから。