2014年8月28日木曜日

ロマネスク文化に現れた意識

■未開民族としてのヨーロッパ

原則としては、ゴルゴタの時が人類の最下降点であるが、それは人類の中でも最も進んだ状態で、人類の他の大多数は、その後も物質への下降を続け、物質とのきちんとした出会いに向かう。ギリシャ、ローマ、パレスチナ人に比べ未開人であったヨーロッパ人もその例外ではなく、その歩みが芸術の中に表れている。

■ロマネスク

12世紀末に始まるゴシック期に先駆け、ヨーロッパではロマネスク文化が広がった。ここには、まだ地上化しきっていない人類がさらに地上に向かう方向が読み取れる。
フランスのシャルトル大聖堂はゴシック建築として有名であるが、その西のファサードは1194年の大火でも焼失を免れ、それを残した形で再建されている。

■シャルトルの彫像

西の入り口の両側には、聖人が柱状のモチーフの中に彫り込まれている。

ここでは、その一点にだけ注目する。

足下である。小さな山の上に立っているのか、つま先がかなり下を向いている。この形を体験と共に観ると、これがまだ地上にきちんと立っていないことがわかる。重さの中にきちんと定位していないのである。

■聖母子の比較

次のステンドグラスは、シャルトルで焼失を免れた聖母子の、世界で最も美しいステンドグラスの一つである。

これについても、ゴシック様式との比較で一点だけ触れておく。
それは、母と子の位置関係である。ロマネスクでは、子は母の領域を越えることなく、母の輪郭の内側に留まっている。

しかし、ゴシックでは(ここでは彫像なので比較としては最適ではない)子どもが母の輪郭線の外に出ている点である。
つまり、母的存在に完全に守られているのを快しとするか、母的存在からはみ出しているのを快しとするかの、人間意識の差であるとも言える。
つまり、完全に地上存在に成りきれず、霊的世界(母親)に包まれている状態にあるロマネスク人と、霊的世界から踏み出し、重さとせめぎ合うのがゴシック人と言うことができる。

■二つの「栄光のキリスト」

バルセロナの北、ピレネーのカタロニア地方には、カタロニア・ロマネスクと呼ばれる様式が残っている。
その一つが下の「栄光のキリスト」である。

全体に素朴な絵であるが、ここではその目に注目する。

いわゆる三白眼で、黒目は上を向いている。ここでは多くの作品は紹介できないが、カタロニア・ロマネスクではこの三白眼は珍しくはない。



それに対し、先進地イタリアのサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」では趣がかなり違う。

まず、その目である。

黒目がしっかり座り、地上的存在になっていることを感じる。
さらに特筆すべきは、キリストが座っているクッションである。

クッションが跳ね上がっているのである。つまり、このキリストには《重さ》がある。言い換えると、完全な地上存在になっているのである。
繰り返しになるが、このような絵が描かれたのは、それを見る人びとの意識が、それを求めたからである。つまり、絵や芸術作品の変化は、その時代を生きる人間の意識の変化を示している。そして、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会では、重さのあるキリストを身近に感じたのである。

■言い訳

カタロニアとサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」の時代を比べると、実は、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の方が古い。しかし、私はこれを「地域の発展度」の違いと勝手に解釈している。

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