■すべては本質への問い直しから
シュタイナー学校の水彩は、なぜぬらし絵から始めるのでしょうか?
それは、シュタイナーがすべてをその《本質》から問い直すからです。つまり、教育を始めるにあたっては、《育ちゆく子どもの本質》、音楽を展開する上では《音体験の本質》、そして絵画では《色彩》の本質から問い直しているからです。
シュタイナーはそれらの概略を『色彩の本質』という講演集で語っていて、《輝きの色》と《像の色》という全く新しい捉え方を示唆しています。私はまだ、この両概念によってシュタイナーが何を指し示したかったのかをきちんと理解できていません。こうしたシュタイナーの方向で、色彩についての探究を続けられている画家の方々のご意見を伺いたいところです。
■色彩の本質初級編
さて、そうした色彩の本質上級編には届かないものの、色彩の本質初級編は誰でも納得できると思います。
つまり、
色彩と物体とは別である
という見方です。
私たちの日常的な色彩体験は、《物体》と結びついています。花の色、服の色、自動車の色などなどです。それゆえ、公立学校での図画は、《物の絵》から始まります。樹を描いて緑に塗り、屋根を描いて赤く塗るのです。しかし、これによって体験する《色》は物に縛られた色でしかありません。上に書いたように、色とは物体ではありませんし、そうした物体でない色彩に対し、私たちは一種の憧れを感じています。
その証拠は、物ではない色を探せば明らかです。
■物ではない色
代表的なのは、虹です。他にもオーロラ、空や海の色、珊瑚礁のエメラルド・グリーン、朝焼け夕焼けの色などが、物ではない色の代表です。私たちは素朴に、この種の色を《物体に縛られた色》より美しく感じます。重さを持つ物質ではなく、光に近いからでしょう。そして、色彩が動きに満ちています。
■物ではない色を徐々に物質へと妥協すると
夕ぐれの空の刻々と変っていく色彩は、物体ではありません。これをやや物質化すると、次のような例がありえます。透明な水に絵の具(インク)を流し入れた時の様子です。色彩はまだ物には縛られず、ゆらめき動いています。多くの方がご承知のように、子どもたちはこうした《色遊び》が大好きです。これも、彼らが色彩の本質を本能的に感じ取っているからではないでしょうか。
本質そのものは実現できませんから、どこかで妥協は必要ですが、本質を知れば無節操な妥協はしないでしょう。その一例が、絵の具の選択です。水彩絵の具には、透明水彩と不透明水彩がありますが、シュタイナー教育では、基本的に透明水彩絵の具を使う理由も、了解していただけるはずです。
■さらに妥協すると
こうした自由に動ける色を平面上で実現する可能性として、《ぬらし絵》があるのです。もちろん、紙が乾いてしまえば色彩は動きを失ってしまいますが、子どもは色彩の動きと共に心の動きを体験しています。
■色彩を物体と結びつけるのではなく、魂の動きと結びつける
「緑」は「葉の色」でしょうか「安らぎの色」でしょうか。どちらも間違いではありません。しかし、より本質に近いのは、色彩を魂の体験として感じ取ることです。小学生の魂はまだ柔軟で、真の感性を育てていく時期にあります。そうした子どもたちに絵を教えるなら、「物との結びつき」はできるだけ排し、「魂の動き」とのつながりを伝えていくことが、最も重要な課題になります。それゆえ、シュタイナー教育の水彩の授業では、4年生になるまでいわゆる《具象画》は描かせません。
ちなみに、クレヨンでは何の問題もなく具象画を描かせます。その理由は、クレヨンとぬらし絵の質の違いを考えていただければ、一目瞭然でしょう。シュタイナー教育を標榜しながら、低学年に具象の水彩画ばかり描かせている教師がいたら、それは偽物か、勉強不足です。
あるいは、黄色を描きながら、「一面の菜の花」といった安っぽい喩えをするなら、教える側としては感性の不足、というのが私の見解です。
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