2014年8月13日水曜日

世界でたった一本しかない花のお話

1992年森 章吾作
似た題名のヒット曲がありましたが、名前の盗作ではありません。

あるところに、一匹のねずみがおりました。 ねずみは毎朝、野原を歩いて、そこのお花の一つ一つにあいさつをしてまわっていました。 恥ずかしがり屋のスミレには、おどかさないように優しい声であいさつをしましたし、勢いよく空に伸びているチューリップには背伸びをして、大きな声で精一杯、あいさつをしました。 ねずみはナズナやホトケノザ、ハハコグサのような小さな目立たない花も大好きで、決してあいさつを忘れることはありませんでした。

季節がめぐって、神様が天に昇って、大地も宇宙も、全部取り囲んでくれる日がやってきました。 この日が特別な祝祭であることは、どの獣も、どの虫も、どの花もよく知っていました。 ですから、鳥は朝からとりわけ美しい歌を歌いますし、花はそれぞれに一番美しい姿を見せるのでした。

その大切な祝祭の朝早くのことでした。 お日さまの最初の光が、この国を守る大きな2本のけやきの樹の間から、丘の頂に届いたときでした。 小さなねずみがそれまでに見たこともない花が咲いたのです。 それは世界でたった一つしかない花でした。 その花びらは水晶のように透明で、生まれたばかりのひよこの羽毛のように軽く、それに祝祭の大切な日の光が当ると、それはそれは美しく輝くのでした。 そして、葉の一枚一枚には朝露のしずくが真珠のように輝いていました。 ねずみは世界でたった一本しかない花が、一目で好きになりました。 そして、もちろん毎朝一番に、この世界でたった一本しかない花に格別なあいさつを送りました。 そして、こんなにも美しい花を見られたことを、日々、神様に感謝しました。

けれども、お日さまが一番力強く輝く日が過ぎてからは、世界でたった一本しかない花には、花が咲きませんでした。 それでも、しばらくすると、その実からはねずみをゆったりとした夢に誘うような香りが漂ってきました。 柔らかな毛のはえたやさしい葉は、お日さまの光を受けて本当にうれしそうに広がっていました。 ねずみはそんな葉っぱの間から空を見上げるのがとても好きでした。

季節は少しずつ、でも確実に変わっていきます。 あんなに元気そうだった葉も、がさがさと、しだいに力無くしわがれていくのでした。 世界でたった一本しかない花が枯れていくのです。 これが枯れてしまったら、もう二度と見ることができないかもしれません。 風が吹くたびに、葉が一枚一枚飛ばされて、最後には干からびた茎がまるで棒きれのように立っているだけでした。 他の花は、もう種をたくさん飛ばしています。 でも、世界でたった一本しかない花は、まだ種を一つも飛ばしていません。 やはり、これが世界で最後の一本だったのでしょうか。 ねずみはそれが心配で心配でしかたがありませんでした。

ところが、少し冷たい風が吹き始めた日のことでした。 風の音に消されてだれも気がつかないほどの、ほんの微かな音がしました。 それは、世界でたった一本しかない花を心から心配しているねずみにしか聞えませんでした。 世界でたった一本しかない花の実がはじけたのです。 そして、種ができたのです。 世界でたった一本しかない花の、世界でたった一個しかない種です。 ねずみは本当に安心しました。 でも、その種が地面の落ちようとしたその時です。 風が吹いて、種を飛ばしたのです。 丘のふもとには小さな川が流れていましたから、種がそこに落ちたら大変なことになります。 神様が天に昇る大切な祝祭の日に咲く、世界でたった一本しかない花の種が海に流されてしまうからです。 ねずみはびっくりして、世界でたった一個しかない種を追いかけました。 ねずみは見失わないように必死でした。 そして、息が切れ、心臓が口から飛び出しそうになるくらい一生懸命に走りました。 転んで傷だらけになっても走りつづけました。 本当に大切なものを守らなくてはいけないからです。

そんな思いが天に通じたのか、ふっと風がやんで、種が地面に柔らかく落ちてきました。 それでねずみは、種が小川に落ちてしまう、ほんのちょっと前に種に追いつくことができました。 それは、小さな種で、ねずみの小さな指先でも、落とさないようにするのが大変でした。 ねずみはその種を大切に大切に持ちかえって、丘の頂の、朝日が一番に届くところに小さな穴を掘り、種をそっと置き、土をかぶせてあげました。 それから毎朝、その種を植えた所にあいさつの言葉を送ってあげました。

そとはずっと寒くなり、ねずみが秋に咲く最後の花にあいさつをしてから、もうずいぶんと時が経ちました。 ねずみは野原じゅうをまわることもなくなりました。 ねずみは歳をとって、脚もだんだん弱くなり、坂を登るとすぐに息が切れてしまうのです。 ですから、丘の頂の世界でたった一本しかない花の種が埋まっているかたわらで、一日中、お日さまの光を浴びていることが多くなりました。

そして、冬のある日、ねずみに天からお迎えがやってきました。 そのとき、最後に大きく息をして、神様に感謝の言葉を言いました。 「私は、世界でたった一本しかない花を見ることができて、本当に幸せでした。 祝祭の日に咲いた花を私は決して忘れません」。 そう言うと、ねずみは種のかたわらで、深い深い眠りに入っていきました。

優しい風が砂を運んできて、ねずみにかけてあげました。 小さな小さなねずみでしたから、赤ん坊の手のひらくらいのちっぽけな地面があれば十分でした。 そして、次の日の朝には、そこにはもう霜が降りていました。

月日がめぐり、春の花の季節がやってきました。 けれども、丘にはねずみのあいさつの声はありませんでした。 でも、お日さまは世界でたった一本しかない花に向かってこう言いました。 「さあ、お前の時がやってきた」。

すると、世界でたった一本しかない花は芽を出し、お日さまの光を受けて、すくすくと伸びていきました。 もちろん、丘の頂の朝日が一番に届くあの場所です。 花はとっても立派に育って、また神様が天に昇っていく祝祭の日が近づいてきました。 鳥たちは、その日に歌う美しい歌の相談をしています。 まわりの花は、その日をどんな色で飾るのかをお話しています。 それを聞いて、世界でたった一本しかない花はだんだん悲しくなってきました。 自分には祝祭の準備ができていなかったのです。 つぼみすらもできていないのです。 神様を祝福することができない自分が悲しくなってしまいました。

すると、その時です。 下の方からとても暖かい力を感じたのです。 暖かい力が赤ん坊の手のひらくらいの地面から上がって来るのです。 世界でたった一本しかない花は、その暖かさが何であるか、すぐにわかりました。 それは、はるか彼方の、天にたった一つしかない星からの力でした。 宇宙でたった一つしかない星の力が、夜の間に、赤ん坊の手のひらくらいの地面に集まって、そこから暖かい力となって上ってくるのです。 この力を感じて、世界でたった一本しかない花は、自分の中につぼみができてくるのがわかりました。 祝祭の日のための大切な大切なつぼみです。 なんと素晴らしいことでしょう。 これで、神様の祝祭の日を飾ることができるのです。 つぼみは日に日にふくらんで、明日の祝祭の日を喜びいっぱいで待っています。 大切な日を前にして、世界でたった一本しかない花は、あの暖かい力が立ち上がってきた赤ん坊の手のひらほどの地面を見ました。 そこからは、あいかわらず暖かい力が流れてきます。 世界でたった一本しかない花は「ありがとう」と一言、その赤ん坊の手のひらほどの地面にお礼を言いました。

そう、咲く前につぼみが頭を下げて、地面にお礼を言っている姿を見つけたら、その花は、この世界でたった一本しかない花のお話を知っている花なんですよ。


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