■表象のシンプルな理解
シュタイナー関連の本などで《表象》という語が現れたら、とりあえずは、外界の様子にしたがって自分の内側につくる《イメージ》と考えて問題はありません。もちろん、シュタイナーがこの問題について、認識論的に厳密に議論している箇所では、より厳密な意味づけが必要になります。たとえば、『一般人間学』第二講がそれに当たり、表象がどのように成立しているかをより厳密に観察しなくてはなりません。しかし、そうした箇所は多くはありません。
■ドイツ語では日常語
ドイツ語の動詞 vorstellen は直訳すれば《前に置く》という感じで、外界の物体を自分のイメージの中に《置く》という雰囲気です。また、 Ich stelle mir vor, … という表現は「思うんだけど…」「こんな風に考えるんだけど、…」といったニュアンスで日常的に使われます。
ですので、Vorstellen も簡単に《考え》くらいに翻訳したいところです。
ただし、ドイツ哲学界の伝統なのかもしれませんが、意志と表象は対概念で、この対極の関連では、《思考》(denken)より《表象》が好まれて使われます。実際、ショーペンハウエルが『意志と表象としての世界』という著作を書いています。私の当て推量ですが、宿命の論敵ヘーゲルが好んで《思考》という語を使ったので、あえて《表象》にしたという可能性もなくはありません。
『一般人間学』第02講では、《表象》での《思考》でもさしたる差はありません。
■ドイツ語のdenkenとvorstellenのちょっと大切な違い
ドイツ語で《考える》は denkenです。これは《表象》よりも哲学的に深い意味で使われることが多く、やや重い語です。シュタイナーの文脈では、《思考》と《表象》とは次のようなニュアンスの違いがある場合もあります。- 思考という行為に重点を置いたニュアンスを持つことがある。
- 物質界と関係しない事柄について考える場合はdenken(思考)を用いる。数学に例をとれば、3次元までは《表象》できるがが、5次元、6次元になると、「思考はできても表象はできない」ということになる。(たとえば、5次元空間でも2点間の距離を決めることができる。)
■像的=写し、という理解だけでは不十分
『一般人間学』第02講、第2段落には、表象とは像的なのですとあります。 しかし、後で出てくる《意志》との関係を理解するには、像的の意味を十分に深く理解する必要があります。
像という語を例で理解すれば、目の前の富士山と富士山の写真、という関係になるでしょうし、この理解は間違いではありません。写真や映画は像であり、私たちが内面で作るイメージも何らかの外界の事物を写した像です。
ただし、シュタイナーが言う《像的》には、それ以上の意味が含まれています。
■「実在v.s.非実在」の軸で像的を捉える
しかし、《像》という語をそのように理解しますと、シュタイナーのその後の話とかみ合わなくなってきます。 つまり、シュタイナーは次のように続けますし、さらにはデカルトの言葉を誤りと断じていきます。表象に実在性を見ようとしたり、表象を確たる存在とみなすなら、これは大変な妄想です。
近代世界観の頂点に置かれた「我思うゆえに我あり」という思想は最も大きな誤りでした。
つまり、シュタイナーは《像》という概念の別な側面、《非実在性》を強調しているのです。
対象物は実在で、表象は非実在(像)
現代的な例で言えば、激しい銃撃戦が展開されようと、それが3Dの映画館なら、何の身の危険も感じないのです。 しかし、リアルな銃声が一発でも聞こえたら、人々は皆伏せるでしょう。
■《像的》は二つの意味の掛詞として理解できる
ですので、この第02講でシュタイナーが言っている《像》という語は、掛詞的に二つの意味を持たせて理解するのが望ましいはずです。 一つは「実在に対する非実在」という意味であり、もう一つは「現実を写し取った物」という意味です。■《像=非実在》と理解すると《意志=萌芽》との対応関係が理解できる
《表象は像的》という内容をこのように理解しませんと、後に出てくる《意志は萌芽的》という意味との対応が不明確になります。■表象とは誕生前の体験を写した像である
シュタイナーは表象が像であるなら、像の元になった存在があるはずだし、それとは誕生後には出会っていない、と論理を展開します。 これと同様な議論は、プラトンが『パイドーン』の有名な《想起説》として展開していますので、簡略化して紹介します。- 山の絵(写真)を見る
- その山を以前に見たことがあれば、たとえば《富士山だ》と分かる(思い出す)。
- 見たことがなければ、思い出せない。(たとえば、グルジアの最高峰Shkharaの写真)
それと同様な議論を別な次元で展開します。
- 円を見る
- それが円だとわかる
- よくよく吟味する。「私は生まれてから、本当の円を見たことがあるか?」
- 実は、見たことがない。(ちょっと斜めから見れば楕円だし、「月なら円に見える」と主張しても、「それなら球は見たことがあるか」と反論される。そもそも、私たちは立体を網膜上で見ることができるのか?)
- それでは、なんで「円だ」とわかるのか?
- どこかで見ているはず。しかし、生まれてからは見ていない。
- したがって、「私たちは生まれる前に真の円を見ていて、誕生後はそれに近い物を見ては円を思い出している」(想起説)。
このように、論理的に考えれば、「私たちが何かを表象できる、ということは、私たちが誕生前に存在していた」ということの証明になります。
誕生前:私たちは肉体は持たず、《円》《三角形》さらには《自由》《善》《愛》といった諸概念、諸理念と一体になることができたし、すべての概念と一体になってから誕生している。《一体となる》のですから、私たちはそこでの動きに完全に取り込まれる。舞踏を見ているのではなく、舞踏に巻き込まれている。その意味で、誕生前の体験は《実在》である。
誕生後:誕生前に体験した概念を内包した対象と出会うと、その誕生前の体験を想起する。しかし、その時には舞踏を見ているだけであり、その動きから直接的な影響を受けることはない。(像的)
ちなみに、霊的諸事実と一体になることをイントゥイチオーン(直観)と言います。
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