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2014年10月1日水曜日

純粋思考

《感覚に依拠しない思考》という言い方もします。

シュタイナーは《私》という語の特殊性を指摘しています。つまり、「自分を指す呼称として《私》という語を外から聞くことはなく、常に内側から響き出る」と言うのです。この点は、非常に重要です。ただ、ここでは少し厳密に考える必要があります。通常《私》と言う場合、そこには私の身体も含まれています。しかし、その身体部分ではなく、真に《私》と言える部分を考えます。たとえば、寝ている間に顔や姿が整形手術などで変えられてしまったとしましょう。すると、朝、鏡を見て思わず
これは私じゃない!
と言うでしょう。変わってしまった身体に違和感を感じる、変わっていない部分が本当の《私》で、この《私》にとって、私という語は内側からしか響きません。そして、何の証明も必要とせずに、その正しさを確証しています。私が私であることは、私にとっては証明不要なのです。さて、純粋思考による思考内容も、この《私》という語と同じ現れ方をします。つまり、物質的なものには一切かかわらず、思考内容が内側からの体験として生じてくるのです。

さて、通常の思考、つまり感覚界の事柄について考える場合には、思考の対象は感覚知覚から与えられています。たとえば、聞こえた音に対し「何だろう」と考えるわけです。ところが、純粋思考においては、思考世界に存在する法則に従って、内容を自分自身で作り出さなくてはなりません。そうでなければ、その思考内容を内側からの体験とは感じられないはずです。そして、内容を自分自身で作り出すという作業には、非常に強い意志の力を必要とします。シュタイナー教育における《意志》とは行為を意味し、単にやりたいと思うだけでは意志とは呼びません。この純粋思考における意志は、穴を掘る作業とは違い、決して物質的に何かに働きかけるわけではありませんが、それでも精神的・霊的な意味において作業し、創造しています。しかも、その創造のプロセスを自らが完全に体験し、その方向を把握していますので、《自由》な行為なのです。「選択の自由」という意味での自由はありません。霊的世界、つまり理念的世界の法則に完全に則っていなければ、こうした自由な思考はできません。



そうした状態を、次のように喩えることができます。シュタイナーの言う《自由》のイメージとして、私はしばしばサーフィンを挙げます。ボードに乗り、パドリング(手かき)をすれば、自由に、どこにでも行かれます。さて、沖に出て、大きな波がやってきます。この波の成り行きを正確に認識し、その波に乗った状態は、波に束縛されていて、不自由でしょうか。確かに、波の外に出ることはできませんが、サーファーはそこで起きていることを明確に意識して、そこに自分を合わせることで、大きな喜びを感じているはずです。そして、これこそが自由のあり方です。ピチャピチャと水をかいて、自分勝手にどこにでも行かれることが自由なのではありません。

2014年8月28日木曜日

文化期について(後アトランティス)

■第四文化期までは、人類は地上化・物質化

人類の進化では、昔は人間が霊界に近かったものが、各文化期を経る毎に物質界に近づいていったと言えます。



そして、第四文化期(ギリシャ・ローマ文化期)において、最も強く物質的・地上的世界と結びつきます。その際に、人間が霊界から完全に離れてしまう危機がやってきます。それを救う宇宙的な出来事がゴルゴタでした。それを期に、人類が進むべき方向が、「物質により深く入り込む」方向ではなく「霊界に再び帰依していく」方向に変ります。しかしそれは、人類の過去の状態に戻ることではありません。地上の物質をも含めて、《霊化》の方向に上っていくのです。こうした《物質の霊化》の例としては、シュタイナーが教えるバイオダイナミック農法における調合剤やアントロポゾフィー医学における薬剤などが挙げられるでしょう。

■後アトランティスの各文化期


  • 第一文化期:古インド文化期(B.C.7000年頃~)
  • 第二文化期:原ペルシャ文化期(B.C.5000年頃~)
  • 第三文化期:エジプト・カルデア文化期(B.C.2800年頃~)
  • 第四文化期:ギリシャ・ローマ文化期(B.C.747年~)
  • 第五文化期:ゲルマン文化期(1413年~)
  • 第六文化期:ロシア文化期

■芸術作品に現われたいくつかの文化期の特徴


エジプト期の人類の意識

Gottfried Richter著 Ideen zur Kunstgeschichte(芸術史における理念)を参考に

■エジプトの芸術

まず、メンカウラー王の彫像を詳しく見てみよう。

深彫りのレリーフのようで、板状の背景から三者が並んで前方に歩み出ている。背景から最も前方に出ているのは、メンカウラー王の左足であるが、その左足も背景の板とつながっている。右側の人物は両手に、王は左手に短い棒状の物を握っていて、非常な緊張感が漂っている。また、王は右手で女神と手をつないでいる。

背景と最も繋がりを感じさせるのは、三人すべて頭部の上にある部分である。左の女神イシスでは角と太陽円盤、メンカウラーでは冠、右側の人物では頭部から伸びた飾りのようなものである。

この彫像には、板状の背景から前方に歩み出る際の非常な緊張感が見られる。

この背景を仮定的に霊的世界と考えてみよう。すると、メンカウラー王はイシスに付き添われ、この物質界に緊張を持って歩み出ていると見ることができる。

■ケフレ王の座像

ケフレ王の座像も興味深い。

座ってはいるものの、身体全体に緊張感がみなぎっている。右手には短い棒状の物を握り、左手は膝の上にぴったりと置かれている。背筋はしっかりと伸び、堂々とした体躯もリラックスはしていない。頭部は前方に向けられ、身体に比べて解放された印象を受ける。
ところが、このケフレ王の座像を横から見ると、まったく違った事情が見えてくる。

正面からは見えない形であるにせよ、タカが両翼でケフレ王の頭部を抑えているのである。タカはホルス神と考えられる。つまり、王という存在の背後には、霊的存在であるホルス神がいて、常に王にささやきかけている。
エジプト期の人類は、まだまだ霊界とのつながりが強く、懸命に地上界に出てこようとしている、と言えるだろう。

■エジプト文化期との関係

シュタイナーの観察によれば、エジプト文化期(第三後アトランティス文化期)は紀元前3000年くらいから、紀元前800年くらいまでである。ここで紹介した像は、その後期のものである。しかし、エジプト芸術には「過去の踏襲」という特徴があり、かなりの年月を経ても、芸術表現はあまり変化していない。その意味で、上の彫像はエジプト文化期の基本的雰囲気を示していると考えても、問題はないだろう。

ロマネスク文化に現れた意識

■未開民族としてのヨーロッパ

原則としては、ゴルゴタの時が人類の最下降点であるが、それは人類の中でも最も進んだ状態で、人類の他の大多数は、その後も物質への下降を続け、物質とのきちんとした出会いに向かう。ギリシャ、ローマ、パレスチナ人に比べ未開人であったヨーロッパ人もその例外ではなく、その歩みが芸術の中に表れている。

■ロマネスク

12世紀末に始まるゴシック期に先駆け、ヨーロッパではロマネスク文化が広がった。ここには、まだ地上化しきっていない人類がさらに地上に向かう方向が読み取れる。
フランスのシャルトル大聖堂はゴシック建築として有名であるが、その西のファサードは1194年の大火でも焼失を免れ、それを残した形で再建されている。

■シャルトルの彫像

西の入り口の両側には、聖人が柱状のモチーフの中に彫り込まれている。

ここでは、その一点にだけ注目する。

足下である。小さな山の上に立っているのか、つま先がかなり下を向いている。この形を体験と共に観ると、これがまだ地上にきちんと立っていないことがわかる。重さの中にきちんと定位していないのである。

■聖母子の比較

次のステンドグラスは、シャルトルで焼失を免れた聖母子の、世界で最も美しいステンドグラスの一つである。

これについても、ゴシック様式との比較で一点だけ触れておく。
それは、母と子の位置関係である。ロマネスクでは、子は母の領域を越えることなく、母の輪郭の内側に留まっている。

しかし、ゴシックでは(ここでは彫像なので比較としては最適ではない)子どもが母の輪郭線の外に出ている点である。
つまり、母的存在に完全に守られているのを快しとするか、母的存在からはみ出しているのを快しとするかの、人間意識の差であるとも言える。
つまり、完全に地上存在に成りきれず、霊的世界(母親)に包まれている状態にあるロマネスク人と、霊的世界から踏み出し、重さとせめぎ合うのがゴシック人と言うことができる。

■二つの「栄光のキリスト」

バルセロナの北、ピレネーのカタロニア地方には、カタロニア・ロマネスクと呼ばれる様式が残っている。
その一つが下の「栄光のキリスト」である。

全体に素朴な絵であるが、ここではその目に注目する。

いわゆる三白眼で、黒目は上を向いている。ここでは多くの作品は紹介できないが、カタロニア・ロマネスクではこの三白眼は珍しくはない。



それに対し、先進地イタリアのサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」では趣がかなり違う。

まず、その目である。

黒目がしっかり座り、地上的存在になっていることを感じる。
さらに特筆すべきは、キリストが座っているクッションである。

クッションが跳ね上がっているのである。つまり、このキリストには《重さ》がある。言い換えると、完全な地上存在になっているのである。
繰り返しになるが、このような絵が描かれたのは、それを見る人びとの意識が、それを求めたからである。つまり、絵や芸術作品の変化は、その時代を生きる人間の意識の変化を示している。そして、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会では、重さのあるキリストを身近に感じたのである。

■言い訳

カタロニアとサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」の時代を比べると、実は、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の方が古い。しかし、私はこれを「地域の発展度」の違いと勝手に解釈している。

ルネサンス・・・自らの内に中心を感じる

■ブレネレッキによる透視遠近法の発明

ヨーロッパにおいて、自我の目覚めはルネッサンスにおいてやって来ます。その中でも特筆すべき出来事は「透視遠近法」の発明です。透視遠近法によって、人類は外的物質空間を描き始めます。それ以前の絵画では、「対象に対する内的な近さ」によって描き分けられていました。つまり、重要な人物は遠方に居ようと、大きく描かれるのです。その意味では「内的意識空間」が絵画に反映されていました。ところが、透視遠近法により、物質空間が絵画に取り込まれたのです。



透視遠近法においては、

  • 自分から遠ざかる平行線が、画面上の消失点交わり、
  • その消失点は、画面に向かった私の視線の延長線上にある、

という現象が起こります。言い換えますと、透視遠近法では、空間内の無限遠点を意識するのと同時に、私の立ち位置も意識せざるを得ないのです。
このように、ルネッサンス期には、人間が物質的外界と出会うことで人間も自分自身の地上存在を意識し始めるようになります。その代表的な作品が、ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』とデューラーの諸作品、特に『自画像』です。

▲ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』

細部まで「見えるままに」描ききろうとする努力は明らかです。

凸面鏡の中には、描いている自分も描き込まれています。
諸説はありますが、絵のほぼ中央に自らの名前を署名しています。個としての自分をしっかりと意識していたことが伺われます。

▲デューラーの『自画像』

デューラーも名人芸的描写力で物質界を描きました。そしてまた、自画像という画題が、自己意識の強い現れであることも確かです。

■それ以前の兆候

13世紀のジョットでは、絵画の中に情景の意味が深く盛り込まれています。それが当時の意識と合致していたのです。


スティグマを受けるフランチェスコ

14世紀に活躍したシモーネ・マルティーニの『受胎告知』では、背景は完全に金屏風になっています。その意味では、ガブリエルによる受胎告知を物質界からは離れて描いたように見えます。



しかし、全体をよく観ますと、この画家が床の大理石を丁寧に描いていることがわかります。



画家としての情熱を注いでいる、と言ってもよいかもしれません。このように、「物質に対する目覚め」は着実にやって来ていて、それがルネッサンスで花開いたのです。

■ブレネレッキによるフィレンツェのドゥオモ



フィレンツェの大聖堂を完成させたのも、最初に紹介したブレネレッキです。その空間体験は、それ以前のゴシック様式とはまったく違います。

ゴシックの天井

ゴシックでは、《内部》は強く感じますが、《中心》はありません。ところが、ドームではその構造からも明らかですが、《中心》を強く感じるのです。そして、ルネサンスの人びとは、それをよしとしたのです。

デゥオモの内部

2014年7月18日金曜日

耳は音から空気を分離する

■シュタイナーが言う耳の働き

『人間の音体験』1923年3月7日の講演(第4段落)で、シュタイナーは耳について次のように言っています。

こうした事柄を感じつつ理解するには、次の点をはっきりさせておかなくてはなりません。通常、音楽体験は耳と関係している、と仮定されていますが、その仮定は的外れです。音楽体験は人間全体にかかわるのです。そして耳は、通常仮定されている機能とはまったく違う役割を果たします。「耳で音やメロディを聴く」という言い方は、大間違いです。…完璧に間違いです。音(楽音)、メロディ、あるいは何らかのハーモニーとは、本来、人間全体で体験されています。そして、こうした体験が耳によって、非常に特異な仕方で意識に上ります。通常、音の媒体は空気と考えられています。空気を吹き込む管楽器ではなく、他の何らかの楽器でも、音は空気というエレメント(元素)に生きています。しかし、私たちが音として体験するものは、本来、空気とはまったく関係しません。事情はこうです。耳という器官は、音体験の前に、まず音から空気的なものを分離します。その結果、音を共鳴、あるいは反響として受け取ることで、音を音として体験しているのです。耳とは、空気の中に生きている音を、私たち人間の内にはね返す器官なのです。そのやり方は、音を空気エレメントから分離し、私たちが音を聞くことで、音をエーテルエレメントの中で生かすのです。つまり耳とは、空気の中での音の鳴りを克服し、音の純粋にエーテル的なものを、内に向かってはね返すためにあるのです。耳とは、音知覚のための反響装置なのです。

つまり、耳は音から空気を分離する器官であるというのです。これを模式図で示します。

■音と振動に関する経験則


ある音に対し、1オクターヴ上、2オクターヴ上、3オクターヴ上、という言い方をする。
ある音が110ヘルツだとすると、これはそれぞれ、220ヘルツ、440ヘルツ、880ヘルツとなる。


  • 人間の体験レベル=音では、+1、+1、+1オクターヴ、と足し算的、
  • 物質レベル=振動数では、×2、×2、×2振動数、とかけ算的(指数的)。


■空気の振動から音への道筋

空気の振動→鼓膜→三つの耳小骨→蝸牛管の円窓→蝸牛管のリンパ→蝸牛管の基底膜→コルチ器の繊毛→神経

この道筋で、基底膜までは明らかに振動が関係しています。しかし、コルチ器と振動の関係は微妙です。

■基底膜での音高知覚のしくみ

振動は蝸牛管の中の基底膜を伝わっていきます。そして、その伝わり方は音高によって違います。
硬い物体は高周波(高い音)も低周波(低い音)も伝えますが、柔らかい物体では高周波は通りにくくなります。緩く張った弦では音が低いのと同じ原理です。
ここで、基底膜の様子を見ると、基底膜は入り口付近(外側)では硬く、中心に近づくにつれ柔らかくなっています。ここに高周波と低周波が入ってきます。まずは双方とも基底膜の振動として伝わっていきます。ところが、基底膜は先に進むにつれ柔らかくなりますから、高周波はしだいに伝わりにくくなり、すぐに消えてしまいます。それに対し低周波は、蝸牛管のかなり奥まで伝わってから、消えることになります。そして、振動が消える地点のコルチ器の繊毛を刺激し、蝸牛管の入り口付近では高い音、中心付近では低い音を感じ取っています。

■音高の知覚位置は、足し算的


基底膜のどの位置で、どれくらいの高さの音が感じ取られているか、言い換えると、どの位置で特定の振動が消えるかを調べた結果があります。
この図で、8000、4000、2000、1000、500といった位置を見ますと、ほぼ等間隔であることがわかります。つまり、オクターヴ毎に等間隔なのです。これは物質レベル=振動数が人間体験レベル=音に変換されていることを示しています。

■振動が消えるところで音が知覚される

さらにこの基底膜での振動の様子をシュミレーションした研究があります。するとある特定の振動数の音波が基底膜を伝わっていきますが、ある位置で急激に消えてしまいます。そして、その消える位置が、その周波数の音が知覚される場所と考えられます。
Keidelより

つまり、「物理的音波が消えるところで知覚としての音が発生する」と言えるのです。
これはまさにシュタイナーの言う、「耳とは、音から空気を分離する器官である」という言葉に対応します。
ここでの基本的考察は、E=M, クラーニッヒ先生のDer innere Mensch und sein Leib の聴覚についての記述を要約したものです。

2014年7月8日火曜日

ドクダミの観察

■観察から認識へ

『ゲーテ・シュタイナー形態学の極意』で書いた方法を繰り返します。

  • 形そのものをできるだけ正確に思考の中でイメージする。その際に、「これは~に似ている」といった連想はしない。つまり感覚知覚における類似性に惑わされない。
  • そのイメージを作り出している自らの思考活動を観察する。


この方法で、ドクダミを見てみましょう。多くの場合、これがドクダミだとわかってしまうと、観察は終わりです。しかし、本来はそこからが始まりです。ドクダミはどのようなしぐさを示しているでしょうか。それを探るために、目に見える事柄を、言葉にしてみましょう。言葉にするというのは、体験の意識化ですから、スケッチと同様、二通りの意味合いがあります。

  • 見ながらのスケッチ(言語化):対象をより正確に観察できる
  • 想起からのスケッチ(言語化):想起の力を強め、自らの思考を観察しやすくなる


このことをゲーテはBeschreibungと呼んでいました。Schreiben(書く)を強めた言い方で、日本語では「記述」と訳すこともあります。シュタイナーはしばしば、Charakterisierung(性格付け)という言い方をしていました。

■実り多きグループでの言語化

ここで、方法論的なヒントを一つ挙げておきます。対象を十分に観察した後、現物がない状態で、その対象について数人で語り合うのです。誰かの言葉に沿って、全員が同じイメージを作り上げていきます。すると、そこには特別な雰囲気が生じます。そして、数人が同時に、「あ!そうだ」と、対象の本質を合点することさえあります。

■ドクダミの形


ドクダミの葉柄は比較的長いのですが、茎と葉柄のなす角が小さく、葉は茎からあまり遠くには離れていません。茎の周りに集まった形で葉が付くのです。

輪郭をなす線

葉の縁にはぎざぎざな線はなく、輪郭が非常に明確です。その葉身の輪郭線を遡りますと、葉柄を経て茎にまで連続しています。つまり、茎から出発した二本の線が、葉柄の向軸側の両端を直線的に伸び、葉身の縁に連続的に移行していきます。その線の動きは、茎から分かれからはかなり直線的に先へ伸び葉身に達します。するとそこから滑らかなカーヴを描きながら左右に広がり、一旦後方に戻ります。そこにいわば《ため》をつくり、その後でしだいに葉の幅を狭めながら前方に進んでいきます。そして、先端近くなりますと、今度は一気に速度を増し、鋭い先端をつくります。

葉脈の様子

葉脈には主軸と分岐がありますが、そのあり方は植物の種類によって本当に個性的です。たとえば、葉の輪郭だけを取り出しますと、ドクダミの葉はサツマイモのそれと似ています。実際、そのように表現する人もいますが、こうした表面的な比較は認識にとっては無用です。実際、葉脈も含めて観察しますと、その違いは歴然としています。

ドクダミではまず大きな分岐が葉の元の方から出ていて、それが先端に向かってしだいに中央で合流していきます。大きな分岐に限って見れば、分岐が順々に出てくるというのではなく、元に近いところで多く分岐を出しています。主軸の前進的な動きが妨げられるとこうした形になるでしょう。葉脈は、一旦は広がるものの、前方に向かう傾向が強く、その流れの中で空間に広がるのではなく、近隣の葉脈と再結合(アナストモーゼ)しています。それに対しサツマイモでは、葉脈が周囲に広がる傾向が強いことがわかるでしょう。

花の付き方(花序)

これにもさまざまなタイプがありますが、ポイントとなるのは、葉と茎と芽の関係です。

  • 茎の先端に花が付き、花が付くと成長は終わる。(タンポポ、チューリップ)
  • 茎と葉の又の部分に芽として花がつく。(オドリコソウ、枝豆)

それでは、ドクダミの花序はどうでしょうか。

位置関係から見ると、葉、茎、花軸の順に並んでいます。ですから、私たちが茎と呼んでいる部分は、茎には間違いないのですが、枝の方です。そして本来の主軸にあたる部分は花軸になって、そこで行き止まりになります。
ここで、一本の茎がすいすいと伸びる様子と、ドクダミの成長の様子を比べながら想像してみてください。ドクダミでは、その都度その都度の中心軸は行き止まり、成長が止まります。そして、その代わりに枝に当たる部分が主軸を追い越して成長していきます。しかし、その枝も葉が出て花をつけると行き止まりです。この成長の様子は、止まった状態(花)から一度大きく後ろに戻ってから再び前進するという動きになります。

茎の節

また、茎の節ははっきりしていて、そこには動きの〈ため〉があります。しかし、次の葉まで茎は比較的まっすぐに伸びていきます。茎の色もそれに対応しています。節に近い部分は比較的赤みが濃いのですが、直線的に伸びている部分は比較的白い色をしています。

ドクダミとの出会い、花の形態

ドクダミは関東地方では5月の中旬ごろに白い花をつけ始め、その独特な香りとともに自らの存在をアピールし始めます。また、生えているのは林の中や瓶際といった薄暗い場所で、日光の照り付ける野原や駐車場には生えていません。
葉の色は暗い緑色で、非常に地味で、薄暗いドクダミ地帯を見ると、私たちの視線は焦点が定まらず、その無定型な暗がりに引き込まれます。ところが、そこに花が咲くと、その花が私たちの意識の中に鋭く入り込んで来ます。同じ花が日向の草むらに咲いていたら、私たちの目はそれほどまでには惹きつけられないでしょう。一旦、半暗がりに引き込まれるがゆえに、より強い印象を受けるのです。
花びらのように見える白い部分は本来は萼で、その先に濁った黄緑色をした花の部分が前方に突き出しています。念のために付け加えておきますが、萼というのは何枚かの葉が茎の一ヶ所に集中し、しかも大きさや形も収縮したものです。この白い部分は四枚ですが、よく見ると大きさは少し違っています。四枚には実は順番があり、葉に近い側が大きく、花に近づくにつれ小さくなります。

■ドクダミのしぐさ

ここで体験する動きを拡張・収縮、あるいは前進・後退という表現でまとめると、まず、後方へ向かっての《ため》の動きがあり、その《ため》の後、一気に加速しながら前方へ流れています。これが、ドクダミを特徴づける動きです。
上に述べたドクダミとの出会い体験も、この特徴と合致します。主軸が毎回止められ、少し戻った地点の枝が先に伸びる様子にも《ため》を感じ取ることができます。
そして花でも、四枚の萼で一旦前進傾向が止まり、多くの花が集まった総苞で先に進みます。これはさらに詳しく見ることができます。
花の白い部分は、花びらではなく蕚です。花の基本的秩序は、下から、萼、花びら、蜜腺、おしべ、めしべの順です。そして、通常は花びらが空間的に一番広がります。それが、ドクダミでは一段戻った萼の方が広がっています。つまり、後退的な《ため》が現れているといえるでしょう。それから先の花びらからめしべまでの形成は、急ぎ足です。

茎では、ドクダミのしぐさは明確ではありませんが、それでも若干見て取ることができます。節の部分には《ため》があり、そこから一気に直線的に次の節につながっていきます。


■類縁の植物

さて、次の葉をドクダミの葉と比べてみてください。

まず、葉柄は短いのですが、葉身は長めで、ドクダミに見られた《ため》の部分は非常に少なく、形全体に先端に向けて流れる傾向が強いことがわかります。《ため》と《前方への流れ》という視点で見ると、ドクダミとの違いは明確でしょう。この葉は、ドクダミ科のハンゲショウのものです。ドクダミの萼に当たる部分は、白くなった3枚の葉です。これが葉の半分、あるいは表だけ白いので、「半化粧」と言われるという説もあります。(半夏生は夏至から11日目の暦日)
ドクダミの萼と比較しますと、軸の周りへの収縮度が小さく、葉として周囲の広がっていることがわかるでしょう。


花の集まった部分(総苞)はどうでしょうか。ドクダミでは、せいぜい2cmくらいの長さにたくさんの花がついていました。それがハンゲショウでは大きく前方に流れています。ここでも《ため》はなく、《前方に流れ》ています。

山地 隆之さんから、画像を頂きました。

■ドクダミの薬効(以下の考察はまだまだ仮説)

さて、ドクダミには解毒作用という薬効がありました。これをニキビの例で考えてみましょう。ニキビに葉をちょっと貼っておくだけで、かなりの人で非常に効果があると言われています。通常の学問では、こうした場合、当然のように成分分析をします。つまり、ドクダミの葉に含まれる××成分に解毒作用がある、と考えます。
しかしここではまず、毒素を排泄する様子をイメージしてみましょう。
まず、ドクダミの葉が毒素を吸引しているのではない、と考えた方がよいでしょう。むしろ、ドクダミが周囲の生体組織に働きかけ、その結果、組織がその毒素を追い出す方向に働くと考えた方が自然です。乾燥剤が湿気を吸うのとはわけがちがい、活動するのはあくまでも生きた組織です。ここでドクダミの働きかけで周囲の組織がドクダミ的な動きを獲得すると仮定してみましょう。するとまず、一旦すべてを内にため込むように働くでしょう。そして次の動きで、外に向かっての勢いよく押し出します。こう考えると、まず周囲の毒素を一ヶ所に集め、その後で、毒素が体外に押し出すのかもしれません。

2014年6月15日日曜日

霊界お手ごろランドから霊界へ

■単に隠れているもの、本質的に感覚知覚できないもの

金子みすずの詩に「星とたんぽぽ」があります。昼間の星に対しても、タンポポの根に対しても
  見えぬけれどもあるんだよ
  見えぬものでもあるんだよ
と語ります。
ただ、ここで「見えない」と言われているのは昼の星やタンポポの根であり、その対象が本質的に「見えない」からではなく、覆われているから見えないわけです。タンポポの根は土に覆われ、昼の星は光る空に覆われ見えないのです。ところが、物質界を離れますと本質的に「見えない」ものがあります。たとえば、私たちの魂の働き、つまり感情や思考は見えません。そして、アントロポゾフィーとかかわるなら避けては通れない霊的な世界(精神的な世界)も目では絶対に見えません。しかし確実に「見えぬけれどもある」のです。この「ある」を単に信じているのか、とりあえずそう考えているのか、実際に体験しているのか、では人生が大きく変わります。人は、霊界が存在することを体験しなくてはいけません。

■霊界を見るには

霊界と言ってもそこは大変に広く、誰にでも比較的簡単に見える部分と大変な修行を積まなければ見えない部分とがあります。簡単に見える部分であってもそれを一度しっかりと見てしまうと「霊界」を否定することはできなくなります。シュタイナーは霊界を否定する物質主義者を称して「ただの馬鹿」といったニュアンスのことを言っています。言い換えれば、ちゃんと考えれば霊界の存在は確認できるのです。そして、霊界の中で比較的簡単に見える「霊界お手ごろランド」が幾何学なのです。シュタイナー自身、子どもの頃に感覚界と霊界をつなぐ幾何学に大きな慰めを見出していた、と回想しています。

■幾何学の定理

たとえば、円周角の定理というのがあります。
  円周上の一定の孤に立つ円周角はすべて等しい
という定理です。図の角a1、a2、a3等々が皆等しいというのです。
160-0
ここでしばらく、この定理の証明にお付き合いください。

■最も単純な場合

何らかの問題を考えていく上で「最も簡単な場合から考える」、という方法があります。特別にわかり易い場合から考えっていって、次第に難しい場合に移行していくのです。この方法をシュタイナーはピタゴラスの定理の教え方で示しています。直角三角形の中でも、事柄を考えやすい直角二等辺三角形(三角定規形)から教えていくのです。
この円周角の問題では、円周角をなす直線の一方が、ちょうど円の半径になる場合が一番単純です。ですので、まずこの場合を考えてみましょう。
円周角
この図の中で幾何学的な法則を二つ用いることになります。一つは二等辺三角形の法則です。円の半径の長さはすべて等しいですから、
三角形AOPは二等辺三角形になり、その二つの底角は等しい
(本来、この法則も証明される必要がありまが、ここでは省略です。)
ここで使うもう一つの法則は、三角形の内角の和が一直線(180度)になるというものです。
中心角AOB+二等辺三角形の頂角AOP =180度
二等辺三角形の二つの底角(●)+二等辺三角形の頂角AOP = 180度
ですから、
中心角AOB = 二等辺三角形の二つの底角の和
となります。
二等辺三角形の底角は等しいですから、
中心角AOBの1/2 = 二等辺三角形の底角 = 円周角
という関係が成り立ちます。つまりこの円周角は中心角の半分なのです。
図を見て、
●と●は等しく、●●はそれらの2倍(マルは本来、水色)
という方が、理解は簡単でしょう。「△AOPで……」といった表現を追うだけで、けっこう集中力を使いますが、幾何学の本質的な部分は、実は、そんなに難しくないのです。
さて、次の段階は「どの円周角も中心角の半分」であることを示しますが、ここでは省略します。

■証明の核心

ここからが、重要です。ここでの証明の際に、私はフリーハンドの図を用いました。しかし人は、このような図であっても定理の証明を理解できます。つまり、目に見える図は、ある完全なる円について考えるきっかけでしかないのです。そして、その完全なる円はこの地上に目に見える形では存在しません。
この事実をしっかり体験しますと、人は自分が霊界の住人であることを自覚するはずです。どう考えても、感覚知覚できない事柄(概念)を思考の中で知覚しているのですから。そして、その概念同士は思考世界(霊界)である特定の関係を保ちながら結びついているのです。たとえば、《二等辺三角形》と《等しい底角》という概念同士は一体です。
さて、思考が知覚であるなどと述べると「あれ?」と思われる人もいるでしょう。思考とは「自分で何か考え出す」ことと捉えられることが多いからです。しかし、それは事実ではありません。たとえば、数学の世界では「発見」はあっても「発明」はありません。ある定理を新たに見出すのであり、新たに作り出すのではないのです。
不完全な図を頼りに、霊界に存する完全な円を思考によって知覚し、そこにある事柄のつながりを見出しているのです。
この私たちが思考において、事情の概念同士の関係を知覚している、という点は、他の事柄でもまったく同じです。

■「コップは見えますか」

こんな質問を受けても、人は困惑するだけかもしれません。「コップなんて当たり前」と思っているからです。しかし、さらに質問を続けます。
「コップの大きさはどれくらいですか」
「コップの形はどうですか」
すると、コップが目に見える存在ではなくなることに気づくでしょう。もちろん、何らかの個別のコップは目に見えます。しかし、何をコップといい、何を言わないか、を吟味していくと、コップの概念が次第に明確になっていきます。
「コップとはガラスでできた器」とするなら、「それでは金魚鉢は?」と反論できます。ガラスでできた器であるにもかかわらず、コップとは思わないからです。こうしたことを考えていくと、コップという存在は、以下のような一種の概念コンプレックス(概念複合体)であると言えるでしょうし、これこそがコップのリアルな存在と思えるようになるはずです。そして、この概念コンプレックスから、水を飲むときのコップや、ビールを飲むときのコップなどを、状況に応じて発展させることができるのです。

概念コンプレックス

■理念こそ、シュタイナーの出発点

シュタイナーの考え方は、常にこの概念複合体コンプレックス、言い換えると存在の理念的本質が出発点です。それゆえ、音楽では「音の本質」が、絵画では「色彩の本質」が出発点となりますし、教育では「成長する子どもの本質」を見極める必要が、どうしてもあるのです。
表面ばかりを真似して、この本質について何も洞察していなければ、それはアントロポゾフィーとは全くの無関係です。

■霊界の諸性質

ここで、霊界の諸性質をまとめておきます。

  • 永遠なる世界である
  • 真と善からなる(美は含まれない)
  • 空間的に物質界と分かれているわけではない
  • とりあえずは思考によって、高次な領域には瞑想によって認識できる
  • 霊界の下層部分の認識は難しくはない
  • 霊界の下層部分には四大霊がある

2014年6月14日土曜日

さまざまな仲介をする《形象意識》

■形象意識

魂界での基本的な諸力は《共感》《反感》です。同様に、霊界での重要な視点は《意識状態》である、とシュタイナーは言っています。
私たちの通常の意識状態は《対象物意識》(覚醒意識)です。目覚めた状態で対象物を明確に知覚する意識です。これよりも鈍い意識に《形象意識》(夢意識)や《熟睡意識》などがあります。修行によって得られる高次の意識を除くと、以下の4つがあります。

  • 対象物意識(覚醒意識):思考:人間
  • 形象意識(夢的意識):感情:動物
  • 熟睡的意識:意志(代謝):植物
  • 熟睡よりさらに深い無意識:鉱物

これらはもちろん《目覚め度》の違いとして区別されますが、その他にも、周囲との(物質的)かかわりの深さも違っています。単純に言ってしまえば、「意識が目覚めているほど、周囲から物質的影響は受けない」という法則が成り立ちます。この点を理解していないと、たとえば『一般人間学』の第6講は読解不能です。ここでは、これらについて、例を挙げてまとめておきます。

対象物意識とは、私たちが普通の外界を知覚する場合に相当し、対象を明確に捉えますが、その対象から物質的影響を受けることはありません。いわば、「絵に描いた餅は明確に意識できても腹の足しにはならない」状態です。それに対し、熟睡的意識とは、たとえば私たちの消化活動で行なわれていることに相当します。消化管に入った食物のうち、今、餅が消化されているのか、海苔が消化されているのか、など意識されることはありません。このように、身体で起きている物質的活動は全く意識できませんが、物質的影響は非常に強く受け、実際、食べたもののエネルギーで活動ができます。「餅と海苔の消化の違いは意識できない」と表現できます。

■形象意識の例

その中間にあるのが《形象意識》で、これは夢の状態に相当します。

冷たいミルクを飲んで寝たときの夢
冷たいミルクを飲んで寝たときのことでした。そこで見た夢は、図のような感じで、落ちこぼれそうな物を一生懸命に抑えている夢です。これは、私の大腸から直腸にかけて起きている出来事を確実に反映していました。つまり、物質的にリアルな出来事が《形象》(像)として象徴的に表現されているのです。そして、身体的に同じ状態になったとしても、同じ夢を見るとは限りません。別な《形象》(像)である可能性もあります。それでも、その像は身体でのリアルな出来事を反映したものになるはずです。この状態をシュタイナーは《形象意識》と名付けました。

この夢の例では、身体の状態が《形象》に反映されていますが、重要なのは、この逆もあり得る、という点です。つまり、人がどのような形象を作り上げるかによって、身体形成に影響が生まれるのです。もちろん現代人では、こうした影響はすぐに意識出来るほどには強くはありませんが、子どもでは影響が顕著に見られる場合もあります。また、『神秘学概論』の中では、人類がまだ現在ほど固まっていなかった時代には、その人間が持つ形象がそのまま身体的な姿として現れた、とシュタイナーは言っています。あるいは、高次存在が人間に形象を与え、人間はそれに沿って身体を形成することもありました。

■現代人の勝手な形象は身体にも作用している

現代人ではこうした影響は少ないとは言え、皆無ではありません。年月の間に、内面の様子が姿形となって現れる場合があるのです。『一般人間学』第9講では、「舞踏会の婦人の区別がつかない」とか「工場から出てきた労働者が区別がつかない」といった例が出てきます。
現代人は、自由の名の下にどのような形象でも、自由に作り出しています。しかし、その代償は払っています。つまり、乱れた形象が身体に作用し、身体活動に乱れを生じさせているのです。もし人間が、霊的・宇宙的秩序にしたがった形象だけを紡ぎ出すとしたら、人間の身体活動に乱れを生じさせる要因はなくなりますし、それどころか、身体を益々強くしていく働きが生まれます。
「あなたは眠らないのですか」という問いに対しシュタイナーは「眠りません。一日に一時間ほど、何も考えない時間をとります」と答えたそうです(噂)。

■オーラも高次の形象意識で見ている

『神智学』にはオーラについての記述があります。

第二のオーラも非常に多様な色調を示す。誇りや野心といった強く発達した自我感情は、茶色かオレンジ色のかたちになって現れる。好奇心は赤黄の斑紋として現れる。明るい黄色は明晰な思考や知性を示し、生命や世界に対する理解は緑で示される。飲み込みの早い子どもは、オーラのこの部分に多くの緑を持っている。すぐれた記憶力は、このオーラで《緑黄》として現れる。バラ色は好意的で愛に満ちた叡智を示し、青は敬虔さの印である。敬虔さが宗教的な熱意に近づくと、青が紫に移行していく。高度な理解力を持ちあわせた理想主義や誠実な生き方は藍色に見える。

これは人間の魂の状態を、そのままの状態で知覚するのではなく、色という《形象》で見ています。ただ、その《形象》が夢の場合ではゆらぎが大きいのに対し、オーラでは形象から相手の状態が正確に分かる点が違っています。

■神秘修行は、《現実》と《形象》の関係を密にする練習

『いかにしてより高次世界の認識を獲得するか』には、たとえば「これから成長しゆくものと、これから衰えていくものとを観察し、そこに現れる感情の違いに注目する」という修行が紹介されています。これも、方向としては、「実際に起きている現象と、そこから自ずと生じる感情(像)とを結びつける」修行と言えるのです。
これを進めますと、凡人が見る身体状態の形象ではなく、高次の出来事の形象をも見るようになるのです。

2014年6月12日木曜日

2014年6月11日水曜日

分析的悟性と統合的理性

■認識のために必要な分析作業


このblogでも紹介している、ゲーテアヌムのステンドグラスの解説などには、方法論的に一つの特徴があります。つまり、次の2つのステップを踏むのです。

  1. 細部に分け、その細部をしっかりと意識化しながら、検討していく
  2. 細分化された部分を全体に統合していく

これは、シュタイナーの『ゲーテ的世界観の認識論要綱』(出版準備中)の第12章、「悟性と理性」で述べられている方法に従ったものです。つまり、はじめに悟性によって現象を分析します。ただ、これによってはじめにあった《調和》が失われますから、心情的にこれを嫌う人は少なくありません。「芸術を分析するなんて」とか「命は、分析してしまったら失われる」という感じ方です。こうした感じ方があることは、シュタイナーも認めていて、それが当然であるとも言っています。この段階では、実際に、本質から離れてしまっています。

■分解したものを統合する能力=理性


悟性による分析が嫌われる理由は、悟性によって分けられた諸要素を再び統合するための能力や方法が未熟で、再統合できないからです。なぜなら、この統合によって、私たちは本来の認識を深めることができますので、これを一度でも体験したら、認識活動の第一段階である「悟性による分析」も必要なものとして受け入れられるようになるからです。ただ、この再統合の能力、シュタイナーはそれを理性と呼びますが、これは現在の教育の中ではまったくと言っていいほど育てられていませんから、この理性によって認識を深める可能性も限られています。


悟性と理性_001

■シュタイナー学校での足し算


シュタイナー教育の授業法のノウハウの一つに、足し算を分割で学ぶやりかたがあります。5+3=を問うのではなく、12を分割する方法、つまり12=3+9等々を探してきます。これには「答えは一つじゃない」など、いくつものメリットがありますが、認識論的にも、この悟性による分割と理性による統合という関連を体験する第一歩にもなっています。
まず、全体である12が与えられます。この同じまとまりを、

  1. 全体をひと塊として数える
  2. 全体を2つ(あるいは数個)のグループに分けて数える

悟性と理性_003

上の二つのやり方で得られた結果は、元々同じまとまりを別な仕方で数えただけであるから、《等しい》とすることができる。

■(シュタイナー的意味での)理性を育てる方法

先に述べたように、分解された諸要素を統合する理性は、通常の教育の中で意識的に育てられることはありません。教師に統合的理性の能力が欠けていたら、生徒が教室でそれを身に着けるのは困難でしょう。状況はシュタイナー学校でも変わりません。ドイツでも日本でも、この能力を育てた先生は、残念ながら少数です。

■植物はよいお手本(自然は嘘をつかない)

練習問題としては、元々、統一的であるものを対象に選びます。たとえば、一種類の植物を観察すると、最も分かりやすいかもしれません。なぜなら、自然は叡智に満ち、嘘をつかず、私たちの期待を裏切らないからです。サクラ、タンポポ、モミジ、ドクダミ、ムラサキツユクサ、など、対象は何でもかまいません。

▲各部の様子を詳細に観察

植物を選んだら、その葉の形や色合い、花の形や色合い、さらには、花びら、おしべ、めしべの形状、植物全体の様子、等々を可能な限り、詳しく観察します。文化人類学的背景から創作されたファンタジーである『ゲド戦記』では、ゲドの魔法使い修行の一環として「薬草を、その生育場所、種から花までの姿などすべてを知る」というくだりが出てきます。一枚の葉であっても、縁のギザギザの形状、葉脈の様子、色つやなど、観るべき事柄はたくさんあります。

▲形態や色彩を内的に再構成

各部の様子をしっかり観察したら、これを内面で再構成してみます。モミジの葉を自分のイメージの中で再構成するのです。すると、はじめは《形》が気になりますが、しだいに《形》ではなく《動き》が感じ取れるようになります。

▲内的な《動き》に共通性がある

ここまでできたら、同じ植物の別な部分について、同じ認識作業を行います。たとえば、モミジの花を詳細に観て、その花を内的に再構成し、再構成に伴う内的な《動き》を見つけます。すると、葉で見つかった《動き》と、花で見つかった《動き》に、ある種の共通点が見つかります。さらに観察を深めていきますと、「モミジは○○の動きから形づくられている」という地点にまで到達します。これは「モミジの理念的な姿」と言えますし、分析的悟性によって分けられた各部が、再度、統一的に把握されるのです。

2014年6月10日火曜日

自我の由来と「私」という呼称

■パスポートによる身分証明

2014年4月、ブラジル国籍の女性が、元同級生になりすまし、その人物の名義でパスポートを正式に取得する、という事件がありました。偽造ではなく、虚偽の申請によって正式にパスポートが発行されたのです。社会的な意味で「私は私である」という身分証明は、免許証、保険証、パスポートなどで行なわれますが、これが真の本人確認ではありえない、という事実がこの事件で明らかになっています。言い換えると、パスポートの根拠となっているのは、誕生から現在までの物質的存在の一貫性と、外見の連続性と言えるでしょう。

■「私」という呼称

さて、「私は私である」体験は、外見などとは無関係な、内的な体験です。そして「私」という言葉には、非常に深い意味があります。『神智学』『神秘学概論』などを読みますと、シュタイナーは自我を性格付ける際に、この「私」という語の特別な点を取り上げています。この語は日常でも頻繁に使われ、当たり前の言葉ですが、その持つ真の意味は、徹底的に考え抜く必要があります。
シュタイナーは「私」という語が、内側からのみ響く唯一の言葉であることに私たちの注意を向けています。テーブルの上に花瓶があるとき、誰が「花瓶」という語を発しても、それは一つの花瓶を指します。しかし、「私」という語は、誰が発したかによって、指し示す対象が違います。私が言う「私」と相手が言う「私」は別人です。つまり、私を指す呼称として、「私」という語を外から聞くことはない、のです。
この「私」には重要な性質がいくつもありますが、ここではその一つを取り上げましょう。
事柄の多くは相対的に成り立っています。たとえば、「右」という語は「左」を前提にしています。あるいは、「親」という語は「子」を前提にします。こうした様々な語の中で、相対的に成り立つ、言い換えると他者との関係で成り立つのではなく、絶対的に成り立つ、つまりその一語だけで存立しうる語はあるでしょうか。お察しの通り、とりあえず一語はあるはずだと思います。このように、「私」という語が指し示す存在、つまり人間の自我は、他者との関係がなくとも、絶対的存在として、人間が持つ基盤です。そしてこれは、生成消滅とも無関係で、永遠なる存在、霊的存在です。この由来の違いを図示すると、次のようになります。
人間の自我
さて、私たちは、通常、自分の肉体も「私」と感じていて、「(私は)お腹が減った」というような言い方をします。日本語では主語を省略することが多いですが。しかし、より正確に言うなら、奇妙な表現ですが、「私の肉体はお腹が減ったと感じている」となるでしょう。つまり、本来、物質的由来ではない「私」が空腹になるはずはないのです。しかし、「私はお腹が減った」と表現するのは、「私」が次第に物質と同化しているからだ、とは言えないでしょうか。

■「私」への道

私たちは「物質的肉体とは由来の違う私の真の姿」はなかなか自覚しません。それを少しずつ自覚していくのが人生なのかもしれない、と思われるくらい、自覚への歩みはゆっくりです。日常の中で、「私」という語を使える人なら、霊的自我の種火は授かっています。しかし、その真の姿、十全たる姿を見出すには、それを行なおうとする意志と、かなりの自己修練が必要です。そして、それを見つける道がアントロポゾフィーです。この十全たる自我の体験は、音におけるオクターヴ体験と関係します。また、オイリュトミーの「私は話を考える」の最後に「私は、霊、そして私への道の途上にある」という言葉があります。私たちはまだまだ途上です。上から(霊から)の光に、自らが完全に満たされたとき、私に到る道を歩み通すのでしょう。

■「私」が宿る瞬間の絵画表現

ところで、人間の魂が霊的なもの(自我)を受け取る体験を絵で表現するとしたら、どんな風になるか、想像できますか?
また、シュタイナーはそれをどのように表現しているでしょうか。

2014年5月23日金曜日

学童期におけるエーテル体の誕生

■エーテル力を性格付けると

シュタイナー教育では、7歳くらいで歯が生え替わる(交歯)と共に《エーテル体が誕生する》、と言います。そして、それと並行して、エーテル体に働きかける教育が必要になって来ると考えます。
物質主義的自然科学が趨勢を誇る現代にあっては、《エーテル体》という言葉自体が非科学的に捉えられるかと思いますが、現象に忠実に、しかも囚われなく考えれば、「エーテル体が存在しないわけはない」という結論を出す人もいると思います。
さて、このエーテル体の一つの側面を、
特定の秩序にしたがって、事柄を関連づけていく力
と性格付けることができます。ただし、《秩序》は一通りではなく、状況に応じて適切なものが、より高次な力によって選ばれます。

■肉体はエーテル体の働きかけで健全でありうる


生後数年間の子どもでは、こうしたエーテル的な力が主に肉体に働きかけますし、また、健全な肉体を形成するために、きちんと働きかけなくてはなりません。
赤ちゃんの体型や顔立ちが変っていく様子にも、そこに働くエーテル的な力を見て取ることができます。しかし、そうした肉体的な変化は、内蔵でも生じています。たとえば、肺などもフォルムが非常に変化します。(上:誕生時の肺と下:2歳児の肺)


 このように、フォルムが変化しながら成長していく際には、そのフォルム変化を秩序付ける力、つまりエーテル力が必要になります。
このことは、歯でも生じます。幼児では、乳歯の背後で永久歯が形成されていますし、その形成の秩序付けに当たってはエーテル体が作用しています。エナメル質は、完全に完成してから体表に出現するので、現れたときにはすでにエーテル力の作用は終わっています。



■歯は再生しない


骨と歯をくらべると、骨は再生するのに対し、歯は再生しないのが大きな特徴です。これをエーテルレベルで考えますと、骨の形成に当たっては、その形成秩序を司るエーテル力が働いていたわけですが、骨が完成しても、そのエーテル力はある程度は骨に残っています。そして、骨折などの緊急時には、骨を秩序の元で修復する働きをするのです。
それに対し、永久歯形成に関与していたエーテル体は、歯から完全に離れてしまい、それゆえ歯は、再生能力を初めから持ちません。ここに《肉体から離れたエーテル力》が生じます。

■《肉体から離れたエーテル力》の行き先


《肉体から離れたエーテル力》は失われたりはしません。働く場を変えるのです。つまり、魂的領域(心の領域)で、相変わらず《特定の秩序にしたがって、事柄を関連づけていく力》として作用するのです。それゆえシュタイナーは、『霊学の観点からの子どもの教育』でエーテル体によって次のような性質が子どもに表れてくる、と述べています。
  • 心的傾向(Neigungen)
  • 習慣(Gewohnheiten)
  • 良心(Gewissen)
  • 特性(Charakter)
  • 記憶(Gedächtnis)
  • 気質(Temperamente)

■トランプゲームの「神経衰弱」(記憶)


トランプゲームの「神経衰弱」は、本気で戦っても大人は小学生にかないません。小学生が遊んでいると、幼稚園児もやりたがって、それに参加させてもらいます。ただし、幼稚園児はカードをめくることに喜びを感じる程度なので、隣り合ったカードをめくるだけであったりします。しかし、小学生たちはカードの位置を記憶し、自分の番が回ってくるのを待ちながら、虎視眈々と狙っています。
エーテル体の誕生と共に、子どもの中に記憶力が育ってきたことの証です。シュタイナーは「子どもが言葉を逆向きに言い始めたら、記憶力を使う教材を与えなさい」と言っています。なぜ逆向き言葉なのかは、ご自身でお確かめください。

■丸暗記教材

丸暗記は詰め込み教育の元凶のように言われ、敵視されたこともあります。しかし、意味を理解するのではなく、単に暗記することも教育上重要な時期もあるのです。およその手順は、以下の通りです。
  • 暗記する事柄に深いつながりがあることを予感させる(たとえば、九九の暗記の前に、簡単に原理を示す。子どもがそれを完全に理解しなくても、「これには意味があるんだ」という感情が芽生えれば十分である。)
  • 叡智に満ちた事柄、意味のある事柄を覚えさせる(モンスターの名前などではなく)
  • 将来、その覚えたことの意味がつながるようになる

■幼児期の注意


「小学生から記憶力に働きかける教育を行なう」というやり方は、このように人間洞察から生じています。したがって、エーテル体が身体形成の秩序を司りつつ働いている幼児期に、記憶に働きかける教育が好ましいか、好ましくないかも、必然的に答えが出ます。