■認識のために必要な分析作業
このblogでも紹介している、ゲーテアヌムのステンドグラスの解説などには、方法論的に一つの特徴があります。つまり、次の2つのステップを踏むのです。
- 細部に分け、その細部をしっかりと意識化しながら、検討していく
- 細分化された部分を全体に統合していく
これは、シュタイナーの『ゲーテ的世界観の認識論要綱』(出版準備中)の第12章、「悟性と理性」で述べられている方法に従ったものです。つまり、はじめに悟性によって現象を分析します。ただ、これによってはじめにあった《調和》が失われますから、心情的にこれを嫌う人は少なくありません。「芸術を分析するなんて」とか「命は、分析してしまったら失われる」という感じ方です。こうした感じ方があることは、シュタイナーも認めていて、それが当然であるとも言っています。この段階では、実際に、本質から離れてしまっています。
■分解したものを統合する能力=理性
悟性による分析が嫌われる理由は、悟性によって分けられた諸要素を再び統合するための能力や方法が未熟で、再統合できないからです。なぜなら、この統合によって、私たちは本来の認識を深めることができますので、これを一度でも体験したら、認識活動の第一段階である「悟性による分析」も必要なものとして受け入れられるようになるからです。ただ、この再統合の能力、シュタイナーはそれを理性と呼びますが、これは現在の教育の中ではまったくと言っていいほど育てられていませんから、この理性によって認識を深める可能性も限られています。
■シュタイナー学校での足し算
シュタイナー教育の授業法のノウハウの一つに、足し算を分割で学ぶやりかたがあります。5+3=を問うのではなく、12を分割する方法、つまり12=3+9等々を探してきます。これには「答えは一つじゃない」など、いくつものメリットがありますが、認識論的にも、この悟性による分割と理性による統合という関連を体験する第一歩にもなっています。
まず、全体である12が与えられます。この同じまとまりを、
- 全体をひと塊として数える
- 全体を2つ(あるいは数個)のグループに分けて数える
上の二つのやり方で得られた結果は、元々同じまとまりを別な仕方で数えただけであるから、《等しい》とすることができる。
■(シュタイナー的意味での)理性を育てる方法
先に述べたように、分解された諸要素を統合する理性は、通常の教育の中で意識的に育てられることはありません。教師に統合的理性の能力が欠けていたら、生徒が教室でそれを身に着けるのは困難でしょう。状況はシュタイナー学校でも変わりません。ドイツでも日本でも、この能力を育てた先生は、残念ながら少数です。
■植物はよいお手本(自然は嘘をつかない)
練習問題としては、元々、統一的であるものを対象に選びます。たとえば、一種類の植物を観察すると、最も分かりやすいかもしれません。なぜなら、自然は叡智に満ち、嘘をつかず、私たちの期待を裏切らないからです。サクラ、タンポポ、モミジ、ドクダミ、ムラサキツユクサ、など、対象は何でもかまいません。
▲各部の様子を詳細に観察
植物を選んだら、その葉の形や色合い、花の形や色合い、さらには、花びら、おしべ、めしべの形状、植物全体の様子、等々を可能な限り、詳しく観察します。文化人類学的背景から創作されたファンタジーである『ゲド戦記』では、ゲドの魔法使い修行の一環として「薬草を、その生育場所、種から花までの姿などすべてを知る」というくだりが出てきます。一枚の葉であっても、縁のギザギザの形状、葉脈の様子、色つやなど、観るべき事柄はたくさんあります。
▲形態や色彩を内的に再構成
各部の様子をしっかり観察したら、これを内面で再構成してみます。モミジの葉を自分のイメージの中で再構成するのです。すると、はじめは《形》が気になりますが、しだいに《形》ではなく《動き》が感じ取れるようになります。
▲内的な《動き》に共通性がある
ここまでできたら、同じ植物の別な部分について、同じ認識作業を行います。たとえば、モミジの花を詳細に観て、その花を内的に再構成し、再構成に伴う内的な《動き》を見つけます。すると、葉で見つかった《動き》と、花で見つかった《動き》に、ある種の共通点が見つかります。さらに観察を深めていきますと、「モミジは○○の動きから形づくられている」という地点にまで到達します。これは「モミジの理念的な姿」と言えますし、分析的悟性によって分けられた各部が、再度、統一的に把握されるのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿