2014年8月24日日曜日

意志は萌芽的

■意志は萌芽的

『一般人間学』第02講の「意志は萌芽的」という内容を考えてみましょう。 まず「萌芽」とはどのようなものでしょうか? 地面にあって、まだ小さく、そこから次々に葉が展開し、花が咲き、実がなる一つの植物ができあがっていきます。 そのように考えますと、「実体ではあるものの、まだその完全な姿は現れていないもの」と捉えることができます。 実際、シュタイナーは「死後にその全貌を現わすもの」と述べています。

■物質界では、多様な可能性の中から、一つしか実現できない

私たちが人生を生きていきますと、重大な事柄ほど、「一つを選択しなくてはならない」という状況を体験します。 例としてメジャーリーグで活躍するイチロー選手を考えてみましょう。彼は、野球選手という職業を選択し、その仕事に正面から取り組んでいます。そして、そのことに多くの人々が感動してもいます。

さて、このイチロー選手の人格が、もし野球のない時代に受肉したとしたら、どのような生き方をするでしょうか。 仮に、信長、秀吉、家康の時代に生きたとしたら、どのような人生を歩んだと想像するでしょうか。 手にしていたのがバットでないことは確かです。 しかし、何を手にしているにしろ、ある種の求道的姿勢は持っていたのではないでしょうか?

私たちが人生でなすべきこととは、本来、特定の職業と結びついてはいないはずです。 地上的状況にあって、何かを選択し、実際に行動し、そこで最善を尽くします。 それでも、「人生でなすべきこと」の中で、この職業を選んだがためにできなかったこともあるはずです。

真の意味で医者を志した者なら、地上に苦しむすべての病人に救いの手を差し伸べたいと思うはずです。 そして、最善を尽くします。それでも、「すべての人」を救うのは地上存在としては困難です。多くのことがやり残されています。

このように、「本来行われるべきこと」と「実際に行われたこと」の間には大きな差があります。 しかし、そのちっぽけな「実際に行われたこと」はその段階には止まらず、死後に成長発展し、やがてその本来の姿を現わす、とシュタイナーは言っています。

この《萌芽》に相当する哲学用語(概念)が存在しませんので、シュタイナーは植物界からこれを借用したとも考えられます。

■非実在、実在、超実在

シュタイナーの言う《意志》は、単に「やりたい」と思うことではなく、行為を伴ったものを指します。ですので、意志=行為は実在です。たとえ、それが穴掘りだけであっても実在であることは間違いありません。しかし、行為は「本来やるべきこと」と比べれば、その超実在の部分でしかありえませんから、両者を比べれば「ちっぽけな存在」かもしれません。そして、これが死後、本来の大きな存在、超実在へと展開していきます。 ですので、意志が萌芽的ということを非実在、実在、超実在の視点で見ますと、

地上生での実在=萌芽 →→→ 死後、超実在=できあがってくる植物体全体

さて、この視点で「表象とは像的である」を比較してみましょう。

誕生前の実在 →→→ 誕生後は像(非実在)に弱められる



このように見ると、表象と意志の対称性が明確になります。

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