2014年5月8日木曜日

シュタイナー教育、低学年の音楽でカギとなる「五度の雰囲気」

 

「五度の雰囲気」についてのシュタイナーの言葉

シュタイナー学校の1~3年生の音楽で一番のカギになるがこの「五度の雰囲気」です。このことをシュタイナーは『人間の音体験』(1923.3.7)の中で言っています。
9歳までの子どもは長調や短調の雰囲気を正しく捉えることはできません。この頃の子どもは、五度の雰囲気の中にいるのです
しかし、これだけでは何を言っているのか、ほとんどまったくわかりません。
ですので、シュツットガルトの教員養成ゼミナールで教えていた、故ピーター=ミヒャエル・リーム先生の教えをまとめ、関係者の理解の助けになればと思います。
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「五度」の現象、「五度体験」

音楽で五度と言ったら、インターヴァル(音程)を指します。たとえばラとその上のミ、あるいは下のレの関係です。
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五度の振動数
五度のインターヴァルは、ラを432Hzとしますと、ミは648Hzに、下のレは288Hzになります。
振動数の比で言えば、低:高=2:3になります。
五度の体験=呼吸(着地せずに漂う)
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たとえば上の楽譜のように、「レーラー、レーラー、レーラー」という五度の音形をゆったりとしたテンポで繰り返します。するとしだいに呼吸がその音に同調してきます。自然に低い音で息を吐き、高い音で息を吸うようになるのです。
これが五度体験の核です。そして、高音(吸気)で少し眠り、低音(呼気)で少し目覚める体験をします。これを普通の長調音階と較べると、その差がさらに際立ちます。つまり、長調音階では、基音(ド)でしっかりと着地する体験をするのに対し、五度では漂う感覚しかありません。
五度、2:3、呼吸、肺の不思議な関係
五度と呼吸は密接に結びついていますが、人間の肺の形態とも興味深い対応を示します。左肺は二葉、右肺は三葉に分かれているのです。
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肺の模式図
シュタイナーが言う「五度体験」とは
私たちの「五度体験」は「呼吸」と関連しました。ところが、シュタイナーの観察によれば、「五度体験」では、自我の呼吸、つまり自我の出入りの体験がそこにあるのだそうです。『人間の音体験』の第1講でシュタイナーが五度体験について述べていることを挙げると次のようになります。
  • ルネッサンス以前では、人間の体験は五度体験が中心であった。
  • 五度体験の中で人間は自分が他者の中に移るのを感じた。
  • 天使が私の中で歌う、という感覚を持った。
  • 主観が入り込む余地はなかった。
  • 器楽伴奏を必要とし、無伴奏では歌えなかった。器楽音楽や無伴奏歌唱が可能になるのは三度体験の後である。
ルネッサンス以前の人間の意識
これを示す芸術作品を紹介しましょう。

これは、ルネッサンスの前のゴシック、そこからさらに少しさかのぼったロマネスクの「栄光のキリスト」です。この目を見ると、地上に降りきっていない、漂う雰囲気を感じ取れるでしょう。ロマネスク・栄光のキリスト
ロマネスクでは他にも「漂う」感覚が見られます。シャルトル大聖堂西正面の彫刻群です。ちなみに、シャルトルの大聖堂は1194年の焼失後に再建されたゴシック建築です。しかし、これらの彫刻群は焼失を免れ、ロマネスクの風情を残しています。
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ここで特に注目していただきたいのは、その足下です。足がしっかり着地しておらず、全体に浮遊感を漂わせていることがお分かりいただけると思います。
「私」という感覚が自分の中にしっかり入り込んではおらず、出たり入ったりを繰り返していた状態だったと思われます。これが「五度体験」です。幼児が何かに見とれているとき、その状態はまさに「心ここにあらず」で、自分が外に出て行き、対象と一体になっていることがうかがわれます。「自分が他者の中に移る」のです。そしてまた、先生や親のお話に聞き入るとき、子どもの心はそのお話に満たされています。「天使が私の中で歌う」体験に比することができるでしょう。
幼児の場合、私としての体験はもちろんありません。そのことを端的に現す現象があります。幼稚児にとって、お母さんが自分の友だちを全員知っているのは当然のことなのです。自分の体験と母親の体験を分離することはできません。このように主観と客観が一体ですと、そこに自分の主観が入る余地はありません。
 無伴奏で歌を歌うと、多くの人はある困難に気づきます。音高(ピッチ)を正確に保てないのです。勝手にどんどん転調していきます。調性をキープするためには、「自分をしっかり」保たなくてはなりません。それは幼児には不可能ですし、ルネッサンス以前の人びとにも困難であったことでしょう。
これは子どもの成長にも観察されます。小学校1、2年生では、みんなと一緒なら、歌も歌えるし、詩も朗読できますが、「一人で歌って(朗読して)ごらんなさい」と要求しても、それはできません。シュタイナー教育では、このような成長の法則を無視したことは行いません。しかし、9歳を越えたなら、「独唱」が教育的な価値を持ち始めます。
「五度体験=自他の出入り」に関連する音楽的要素
五度から作られるスケール
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ラを中心に、上下に五度レとミをとり、さらにそこから五度のソとシをとります。
次に、低いソを上に、高いシを下に一オクターヴずらします。すると、レミソラシレミのスケールができます。五度の雰囲気の音楽では、このスケールが好まれて使われます。
拍子
五度の振動数比は2:3でした。その2と3を拍子に関連づけ、2拍子系と3拍子系を検討してみましょう。これらには異なる雰囲気があります。
3拍子系…ワルツなど踊りの動きも円運動で、循環しつつ高揚していく雰囲気がある。人は地上的に自分に戻る。
2拍子系…典型的には行進曲で、地上との強い結びつき。ポルカの踊りは直線的。天上的なものと結びつく。
それゆえ、古来3拍子系はtempusperfectus(完全なるテンポ)と呼ばれ、天上的世界を表す音楽に用いられましたし、拍子記号も円形が用いられました。音楽ではありませんが、フォルムにおいても円は天上的、直線は地上的なもののシンボルです。
唱法
古来、唱法には2つの種類があります。つまり、ジルベ的唱法(音節唱法)とメリスマ的唱法です。
ジルベ的唱法とは、一つの音符に一つの語音が対応する歌い方です。歌のほとんどの部分はこの唱法で歌われます。メリスマ唱法の代表的な例は、有名なクリスマス・キャロル「荒野の果てに」の後半部分、つまり
グローォォォォオーォォォォオーォォォォオーリア
の部分です。メリスマ唱法では母音を伸ばし、幾つもの音符に渡って歌うのです。この唱法の差をきちんと体験しますと、ジルベ的唱法では自分の中にきちんと居る感じを持ちますし、メリスマ唱法では意識が外に出て行くのを感じ取ります。
五度の雰囲気
このように五度の雰囲気の神髄は「天上的雰囲気と地上的雰囲気の行き来」にあります。そして、それを実現するための手段は
  • スケール
  • 2拍子&3拍子
  • ジルベ唱法とメリスマ唱法
  • 歌詞
が考えられます。
天上的 3拍子 メリスマ唱法 天上的内容
地上的 2拍子 ジルベ唱法 地上的内容

音色としては、重さを感じさせないキンダーハープの音色がまず第一に考えられます。

五度の雰囲気の作例

「食前の祈り」JuliusKnierim作曲
まず、クニーリムによる五度の雰囲気の曲をご紹介します。「食前の祈りの歌」です。
Erde, die uns dies gebracht,
Sonne, die es reif gemacht.
Liebe Sonne, liebe Erde,
euer nie vergessen werde.
大地がこれらをくださいました
太陽がこれらを実らせました
愛する太陽、愛する大地、
私たちは決して忘れはいたしません
(クリスチャン、モルゲンシュテルン)
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このメロディでは中心のa’を基点にして、d’-a’、a’-e"というように、上下に五度圏をとり、それらを同等に扱っています。言い換えると、a’を境目にして、上下に二つの世界(五度圏)が接していて、音楽の中でその二つの世界を行き来するのです。しかも、この曲は上下でほぼ完全に対称な形になっています。そして、この音楽には、独特の浮遊感があります。二つの世界を行き来していて、地上に降りてこないのです。
さて、この曲では、拍子にも工夫がなされています。「愛する太陽、愛する大地」と呼びかけるところで、2拍子系から3拍子系に転換し、その際のインターヴァルは五度です。ですから、拍子の点でもインターヴァルの点でもこの箇所では二つの世界を行き来するのです。
この曲の特徴をまとめると、
  • 五度から作られるペンタトニックの構成音を用いている。
  • a’-e’’,a’-d’の二つの五度圏を行き来している。(しかも、対称に)
  • 歌の中で、純粋な五度が際立つようになっている。
  • 2拍子系(地上的)と3拍子系(天上的)を組み合わせている。
  • 歌詞にも、「大地」(地上的)と太陽」(宇宙的)という二つの内容が取り入れられている。
朝の歌(ピーター=ミヒャエル・リーム作曲)sample http://1drv.ms/1mFuMbe
Ich sah, ich sah,
wie die Sonne kam,
die Erde ganz in die Arme nahm;
In Menschenaugen,
in Blütenschalen
sah ich die Sonne
wiederstrahlen。
私は見る、私は見る、
お日様がやって来て
大地すべてを抱くのを
人間の目に、
花の器に、
私は見る、お日様の光が
照り返しているのを。
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この詩では「人間の目に、花の器に」のところで地上的な〈物〉に出会います。それ以前の太陽や大地は具体的に目に入りきるものではありません。このように歌詞が地上的になる部分で作曲者のリームは3拍子系から2拍子系に転換しています。

鳥の揺りかご(ピーター=ミヒャエル・リーム作曲)
シンプルだけど絵が見えるようで、個人的にはとても好きな曲です。
Leise gehet,
leise wehet
durch die Zweige
hin der Wind
auf und nieder,
hin und wieder
schaukelt er das Vogelkind.
静かに過ぎる
静かにそよぐ
小枝を抜けて
風が行く
高く、低く
行っては帰り
風はヒナをやさしく揺する
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最初の2小節で情景を描き出します。風が枝の間を渡っていくようすが8音で表現されてはいないでしょうか。リーム先生は「詩と音楽が一体であること」をとても大切にされました。それは、シューベルト、シューマン、ブラームスといったドイツ歌曲の伝統を受け継ぐものでもありました。この2小節は3拍子系でゆったりと浮かんでいる感じを表現しています。
次の2小節では拍子が6拍子、つまり3+3の2拍子系に変わり、動きが現れ、実際に風が渡っていきます。
終止の部分は「ミソー」です。これを仮に「ラソー」あるいは「レソー」に変えますと響きがより地上的になります。なぜなら、ソで終わるがゆえにト長調的であるにとどまらず、直前音がドミナント和音(レ♯ファラ)の構成音になり、ト長調の機能和声的終止になるからです。逆に「ソシー」あるいは「ソラー」で終わりますと、より注に浮いた感じになります。これは、調性感が薄くなるからです。
このように見ますと、同じレミソラシ・ペンタトニックを用いて、いろいろな雰囲気の音楽が作れることがわかります。法則として以下のようにまとめることができます。
就学前の子どもに対して ラ、またはシによる終止
1、2年生 機能和声的でなくソで終止
3年生の前 機能和声的にソで終止

小川がせせらぐ(ピーター=ミヒャエル・リーム作曲)
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Es plaudert der Bach
vom Felsenge mach,
vom steinernen Tisch,
von Vogel und Fisch,
von Sonne und Stern,
von Blüte und Kern.
Wer still ist und lauscht,
der hört, was da rauscht.
小川が鳴る
岩の間から
石のテーブルから
鳥や魚について
お日様や星について
花や実について
心静かにそれに耳を傾ければ
密かな言葉が聞こえてきます

この曲の聴きどころはとりあえず2箇所あります。3小節目に「岩」が出てくるところで「音楽と詩が一体」の法則が見られます。水が段差をもって落ちる様が下降7度で表現され、その下降が繰り返されます。次に9小節目から冒頭の繰り返しが始まります。そして、同じように進行するのかと思いきや、13小節目で雰囲気が全く変わります。「Still」つまり「静か」という言葉が出てくるところで上昇9度の跳躍が現れ、さらにはリズムも2拍子系に変わり、意識が目覚めます。内的には目覚め、外的には思わず息を呑むような静けさが支配する雰囲気が表現されています。
歌の中で高い音が現れると大きな声、ともすると叫び声になることがしばしばあります。しかし、高い音であるからこそピアニシモで歌われることで大きな感動を呼ぶ場合が少なくありません。一流歌手はそのことをよく知っています。このリーム先生の曲に低学年で出会った子どもは、それを無意識に身につけてしまうのかもしれません。
わらべ歌の特性
ペンタトニックを用いて日本人がメロディをつくると
キンダーハープなどを手にとり、レミソラシ・ペンタトニックを用いて自由にいろいろとメロディを作っていきます面白い現象が現れます。多くの日本人の作るメロディがどこかわらべ歌風なのです。それくらい、わらべ歌の雰囲気が日本人の心に染み付いているとも言えるでしょう。
さて、こうして現れるわらべ歌風のメロディをよくみますと、そこには大きな特徴が二つあります。その一つは4拍子の曲が多い点です。日本語のリズムの基本が4拍子ですから、自然にそこに行き着くのでしょう。(三三七拍子と言っているものも、休符を考えたら4拍子系ですし、パソコン、デジカメなどの省略語もそのほとんどが4拍子です)。
わらべ歌風のメロディの終止形の意味
わらべ歌風メロディのもう一つの特徴は、(レミソラシ・ペンタトニックを用いた場合)「・・・レミー」という形で終わっている点です。そして、この現象は注目に値します。
ミで終わっているということは、それが基音であることを暗示しています。これはホ短調です。また、その前の音がレですが、これはBm(シレ♯ファ)のコードの構成音です。こうしたことを考えますと、「・・・レミー」という終止系はホ短調のドミナント⇒トニカ(Bm⇒Em)という機能和声的カデンツになっていることがわかります。
つまり、多くのわらべ歌の音楽的背景は二六抜き短調+機能和声である、と言えるでしょう。またこうした音楽の人間に対する作用を考えますと、それは「自己の中に入り込む働き(基音のある調性音楽であること)、しかも肉体的な部分にまで入り込む働き(短調であること)と言えるでしょう。
これは別にわらべ歌が他の音楽に対して優れているとか劣っているとかを意味するものではありません。私にとっては、会話や文章の中で主語を省略し「私」という語を入れない日本文化の中にあって、自我を自分に結びつける働きをどこかで必要としたことの現れのように思えます。
わらべ歌と五度の雰囲気は全く別の質
その意味では日本人にはわらべ歌的なものが必要であると考えることができます。しかし、それは五度の雰囲気の音楽とは全く異なった質を持っています。ですから、五度の雰囲気の音楽とわらべ歌を同一に用いることはできません。それをしてしまったら、腹痛に風邪薬を処方するようなものです。教師にとって必要なのは、その両者の特質を理解し、それを状況に応じて使い分けることなはずです。
新たな文化をつくる
このように見てきますと、五度の雰囲気の曲は自分たちで新たに作っていかなくてはならないことがわかります。これは誰にでもできることではありませんが、新たな文化をつくるという意味でも非常にやりがいがあるのではないでしょうか。

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