2014年7月29日火曜日

アントロポゾフィー医学を学ぶにあたっての当面のロードマップ

■全体の大筋

アントロポゾフィーの人間構成要素の理解
人間構成要素の身体へのかかわりの理解
七つの生命プロセスの理解
人間構成要素の意識的な働きと無意識的な働き
人間構成要素を軸にした、《健康》《疾病》《治療》の考え方

■人間本性についての基本

『神智学』第1章「人間の本質」あるいは『神秘学概論』第2章「人間の本質」をお読みください。両方とも高橋巖氏の訳が販売されています。当blogでも『神秘学概論』第2章の抄訳を掲載しておりますので、それを参照できます。

▲肉体について

▲エーテル体について


▲アストラル体について


▲自我について

■人体や生命プロセスについえの基本的な考え方

『秘されたる人体生理』当blogでは第1~4講を(少しだけですが)図解を加えて公開しています。
第5~8講は書籍秘されたる人体生理』を参照してください。

■人体における四構成要素のより具体的なかかわり

私たちの中の目に見えない人間』(石川公子、小林國力訳、涼風書林刊)を参照してください。前半部分のまとめを当blogで紹介しています。

■アントロポゾフィー医学についての基本的な考え方をまとめた本

アントロポゾフィー医学の本質』(浅田豊、中谷美恵子訳、水声社刊)を参照できます。
必要があって進めていた拙訳


は、浅田氏らの翻訳が出版される半年前に完成しておりました。その全訳を当blogで公開しておりますので、ご参照ください。こちらの解説は、いずれまた掲載いたします。

2014年7月28日月曜日

秘されたる人体生理、第四講

1911年3月23日

■ 脾臓は重要器官であるが摘出可能

▲ 01
昨日は人体内の惑星系とも言える器官を一つ取り上げ、その意味をお話しいたしましたが、今日は話をさらに先に進めていきます。その後で、他の器官系の役割に移ろうと思います。
▲ 02
昨日の脾臓の話にはある種の矛盾がある、と言う人がいらっしゃいました。私は、脾臓には人間全体にとって重要な役割があるとお話ししましたが、そこに矛盾がある、というご指摘です。つまり、脾臓を人体から切除し、摘出しても人間が生きられることと、脾臓が重要な器官であるということが矛盾する、と言うのです。
▲ 03
こうした反論は、現代的視点から見れば完全に正当ですし、霊学的世界観に非常に真摯に近づこうとしている人にとっては、これは一つの難所でしょう。公開講演の初日にお話ししたように、一般論から言えば、現代人にとっては…特に学問的方法を修め学問的良心を持った人にとっては…地上存在についてオカルト的に語られた内容を理解するためには、困難を克服する必要があります。原則としてそうした反論は、この連続講演が進む中で自ずと解消していきます。それでも私は、今日とりあえず、脾臓が摘出可能である事実と昨日の話がまったく矛盾しないことを示しておこうと思います。人間身体と言われているもの、外的感覚で捉えられるもの、身体において物質として見えるものとは、人間のすべてではありません。この肉体の根底には、生命体あるいはエーテル体、そしてアストラル体や自我といった、より高次の諸有機体が…これらについてこれから見ていこうと思います…存在しています。そして、エーテル体、アストラル体、自我から引き起こされる過程や形成によって、相応な形で目に見えるように現れたものが肉体的器官なのです。皆さんが本当に霊学的真実にまで上っていきたいと思われるなら、そう考えなくてはなりません。ですから、たとえば霊学的な意味で脾臓と言う場合には、外的・肉体的な脾臓に関することだけを言うのではなく、エーテル体やアストラル体で行われていることも意味し、その現れが外的・肉体的なものに相当します。ある器官とは、それに対応する霊的なものの表現なわけですが、その霊的なものが直接に表現されていればいるほど、その器官の肉体的な姿、つまり肉体的に見えるものはさほど重要ではなくなるのです。振り子の動きの中に重力が物質的に表現されています。それと同じように、肉体器官とは超感覚的な力作用、フォルム作用の物質的な現れなのです。ただ両者の違いは、振り子の運動は重力に従い、脾臓はそこに働くエーテル体・アストラル体の作用に従う点にあります。振り子を取り去りますと、重力の作用で生じるリズムを表現する物体はなくなります。無生物的自然の現象ではこうなりますが、生体では違います。その根拠はまた後で詳しくお話ししたいと思いますが、肉体器官を切除してしまっても、必ずしも高次の有機体の働きが消えてしまうわけではないのです。
▲ 04
脾臓に注目するに当たって、まず肉体的な脾臓が目に付きますが、それと同時に、その元となり、その結果が肉体的脾臓であるような一連の作用系を考えなくてはなりません。脾臓を摘出しても、一旦生体に組み込まれたこの作用系は失われず、作用を続けます。霊的作用を維持するにあたって、罹病した器官はかえって邪魔になり、それを除去してしまった方がよいことすらあります。たとえば、脾臓の重篤{じゅうとく}な病気の場合がそれにあたります。切除可能な器官が何らかの深刻な病気になった場合、罹病{りびょう}した器官を放置することで霊的作用が絶えず妨げられるよりは、その器官を切除してしまう方が霊的作用にとっては好ましいことすらあるのです。ですから先ほど述べたような反論は、霊学的認識がまだそれほど深くない場合には出てくる可能性があります。これは非常に当然な反論ですし、辛抱強く時間をかけて事柄に深く入り込みさえすれば、自然に解消するものでもあります。今日の物質主義的学問に由来する知識と共に霊学的研究に入りますと、次々に矛盾が生じまったく先へ進めなくなる、という事態を皆さんは必ず体験されるでしょう。ここで性急な判断をしてしまいますと、霊学はまったく頭がどうにかしていて、到底学問的とは言えない、という結果にしかなりません。しかし、忍耐と時間をかけて事柄をしっかりと受け入れますと、霊学的内容と通常の学問的研究との間には、欠片{かけら}ほどの矛盾もないことがわかるはずです。このような困難が生じる原因は、霊学的認識、アントロポゾフィー的認識の幅が非常に広く、示すことのできるのが常にその部分でしかないからです。そして、こうした部分だけを聞きかじりますと、今述べたような矛盾を感じやすいのです。

▲ 05
しかし、だからと言って恐れをなして引き下がってはいけません。それをしなければ、この時代のあらゆる知恵、あらゆる人間形成にアントロポゾフィー的世界観を取り入れる、という不可避な課題がなされないからです。

■ 脾臓のより重要な働き

▲ 06
私は昨日、人間が不規則に食事を摂ったとしても、脾臓の働きによってそれが人間のリズムにもたらされることをお伝えしようとしました。私が最初にこれを取り上げたのは、脾臓が持つさまざまな働きの中でそれが最もわかりやすいからです。しかし、最もわかりやすいからと言って、それが最も重要であったり、最も主要な働きであったりするわけではありません。もし人が自分の正しい摂食リズムを知り、それに沿って摂食したなら、脾臓はこの意味での活動をする必要がなくなるはずだからです。…これだけでも、昨日お話しした脾臓の機能が枝葉的であることがわかります。ずっと重要な事実とは、栄養摂取にあたって、栄養物に立ち向かわなくてはいけない点です。つまり、栄養物は外界の素材で、外界における結合の仕方をそのまま持っていますので、それを摂取する際に、私たちはそれと立ち向かわなくてはならないのです。こうした栄養物は素材としては死んでいる、あるいはせいぜい植物に由来する生命を持っているに過ぎない、と観てしまいますと、外界の素材が栄養物として生体に取り込まれて、広い意味での消化作用によって変容される、と考えるはずです。実際多くの人が、摂取された栄養物とは方向性のない中立な素材で、私たちはそれをどうにでもでき、摂取すればすぐにでも変容しうる受け身なものと考えています。しかし、そうではありません。煉瓦は、建物を設計通りにどのようにでも組み上げうる素材ですが、栄養物はそれとは違うのです。煉瓦が建築家の設計に沿ってどのようにでも積み上げうるのは、最低限建築の領域では、それ自体が何のつながりもなく、命を持たない塊だからです。しかし、人間にとっての栄養物はそうではありません。周囲にある素材はすべてある種の内的な力、内的法則性を担っています。内的法則性や内的活動性を持つ、というのは素材の本質です。外界からの栄養物摂取とは、栄養物に、言わば私たち自身の活性を与えることを意味しますが、それは自然には起きません。栄養物はそれ独自の法則、独自のリズム、独自の内的運動性を保ち続けようとするのです。人間生体がそうした栄養物を自分の目的に適ったものにしようとするなら、素材の持つ固有の活性を消し去り、それを次の段階に持ち上げなくてはなりません。どうにでもなる材料を加工するのではなく、素材の持つ固有の法則性と立ち向かわなくてはならないのです。素材がそれぞれ固有の法則を持つことは、たとえば強い毒を摂取したときに感じ取ることができます。毒固有の法則性が体内でも活動し続け、その人を支配してしまうことは、すぐにわかるでしょう。このように毒は固有の法則性を秘めていて、その法則性が生体を攻撃するわけですが、それと同じことが私たちが摂取するあらゆる栄養物について言えるのです。栄養物とはどうにでもなる物ではなく、その固有の本性や性質を主張し、固有のリズムを持つ物なのです。そして人間は、このリズムに対抗しなくてはなりません。生体内では、どうにでも加工できる構成材料を扱うのではなく、まず初めに構成材料独自の性質を克服しなくてはなりません。
▲ 07
栄養物は人間の中でまずいくつかの器官と出会いますが、そうした器官の中に、栄養物の固有の生命に…この《生命》という言葉は広い意味でお考えください…対抗する道具があります。不規則な食事で体内リズムが乱れることだけが問題なのではありません。栄養物自体が固有のリズムを持ちますから、その人間のリズムとぶつかり合うリズムを変えなくてはならないのです。そのために働く諸器官の中で最も外側にあるものが脾臓なのです。このリズム変換、反抗、変容には他の器官も働いています。つまり、脾臓、肝臓、胆汁が互いに協力して一つの器官系となり、栄養摂取に際して栄養物が持つ固有の本性を押し返す役目を担っています。食物が胃に届く以前の働き、胃の活動、胆汁分泌による作用、肝臓や脾臓の活動、これらすべてが、摂取された栄養物が持つ固有の本性に対抗する作用なのです。栄養物はこれらの諸器官の作用を受け、人間生体内のリズムに適応します。変容させられてはじめて、自我の担い手であり自我の道具であるあの器官系、つまり血液系に取り込まれることができるのです。栄養物は血液に取り込まれ、血液に自我の道具となる能力を与えますが、それを可能にするには、血液に取り込まれる前に、栄養物の固有の外的性質がすべてそぎ落とされなくてはなりませんし、完全に人間独自の本性に即したものになって血液に到達しなくてはなりません。ですから、次のように言えます。脾臓、肝臓、胆汁、さらに遡って胃までの諸器官とは、外界から食物を受け取り、それが持つ外界の法則を、人間の内的有機体、人間の内的リズムに適応させる器官なのです。

■ 外界とのかかわり

▲ 08
さて、人間本性は全体として働きますから、すべての部分を内界に向けているのではありません。内側の人間本性は絶えず外界と調和し、生き生きとした相互作用を行っていなくてはなりません。しかし栄養物を介した関係では、肝臓、胆汁、脾臓といった器官系が外界に対抗しますから、外界との相互作用は断絶しています。これらの働きで、外界の法則性はすべて排除されています。もし人間がこれらの器官系しか持たなかったら、外界と完全に隔絶し、完全に自己完結した存在になってしまいます。したがって、他の要素も必要なのです。一方で、外界を内界にふさわしく変容するための器官系が必要ですが、他方で、自我の道具が外界と直接に向かい合える必要もあります。つまり、生体が外界から隔離された存在となってしまわないように、生体自身が直接に外界と関係する器官が必要なのです。血液が、一方では外界固有の法則性をすべてそぎ落とした上でかかわり、他方では、外界をそのまま直接に取り込むかたちでかかわります。それは、血液が肺を流れ、外気と触れ合うことで実現されます。こうして血液は外気の酸素によって活性化されますが、このときは酸素が持つものを何も弱めずに受け入れています。実際、空気中の酸素を、人間は自我の道具に直接に、酸素の本性や性質そのままに取り込みます。こうして非常に奇妙な事実と向かい合います。人間が持つ最も高貴な道具、自我の道具である血液とは、前述の諸器官系によって丁寧に濾し取られた栄養物を受け取る存在でもあるのです。こうして血液は、人間の内的有機体、内的リズムの完全なる表現となる能力を持ちます。ところが、それ自身が持つ内的法則性や活性をそのままに、何の衝突もなく取り込まれることが許されている外界の物質があり、それが血液と直接に接触することによって、人間生体は自己完結したものにならず、外界との結びつきを持つことができるのです。

■ 内界と外界の出会い

▲ 09
こうした観点からも、人間の血液有機体のすばらしさがわかります。血液系とは、真の意味で、人間自我のリアルな表現手段であり、事実、一方では外界に向かい、もう一方では自分自身の内側に向かっているのです。人間が神経系という、言わば回り道を介して外界の印象を受け取っていることはすでに見てきましたが、その関連で言えば、肺では、空気中の酸素と血液が直接に触れ合っています。ですから私たちの中には、一方で脾臓・肝臓・胆汁系、もう一方で肺系という対極的な働きをする二つの系があって、これらが血液で接している、と言えるのです。血液が、一方で外気と接し、もう一方で固有の本性を取り除かれた栄養物と接することで、生体内の血液で外界と内界が直接に接します。こう言っても差し支えないと思いますが、電気のプラスとマイナスのように、人間の中で世界のこの二つの働きがぶつかり合います。このように世界の二つの作用系がせめぎ合いっています。そして、そのせめぎ合いの作用を受け止めるにふさわしく作られた器官があります。その器官がどこにあるのかはすぐに想像できるでしょう。血液が心臓に流れ込みますと、変容した栄養液は心臓にまで作用します。また、心臓に血液が流れ込みますと、外界から直接に血液内に入り込んだ酸素が心臓に作用します。ですから、心臓とは二つの系が出会う器官であり、また人間とはこの二つの系の中に組み込まれ、その二つの面とかかわっているのです。一方には内的器官のすべてがぶら下がり、もう一方では外界のリズムや活性と直接につながる器官が心臓である、と言えるでしょう。

■ 内界と外界の調和


▲ 10
この二つの系がぶつかり合い、そこですぐに調和が生まれることなどあり得るでしょうか。酸素や空気を取り込むことで私たちに作用する大きな世界システムと、栄養物を変容させ身体内部の小さな世界システムがありますが、この二つのシステムが血液の中で心臓を通り抜けるだけで、調和的なバランスをとることなど考えられるでしょうか。もしそうだとしたら、この両システムが内的バランスを作り出す中で、人間は、言わばその両方から引っ張られることになります。この連続講演が先へいけば、人間本性と世界の関係はこうではないことがおわかりになるはずです。実際はむしろ外の世界は完全に受け身で、力は送り出すものの、その扱いは完全に人間の内的活動に委ねられますし、またその内的活動が人間を挟む二つのシステムの中でバランスを取るのです。人間に自らの内的活動の余地が残されていること、内的なバランスを作り出す役割が器官レベルで人間に委ねられていること、この二点が本質的に重要であることは、やがておわかりになるでしょう。ですから、この二つの世界システムに調和を与え、バランスをとるためのものを、まさに生体内に探さなくてはなりません。外界の法則性は人間に直接入り込んできますし、人間内部の独自な法則性は摂食に伴って入り込んでくる外界の法則を変容させますが、この二つだけでは調和はもたらされない、とはじめから言えたはずです。この調和は人間の特別な器官系によってもたらされます。人間自身が、この調和を作り出さなくてはいけないはずです。その過程は意識的なものではなく、無意識的です。一方には脾臓・肝臓・胆汁系が、もう一方には肺系があり、それらが心臓を流れる血液で向かい合っていますが、そこにさらに、これも血液と密接な関係にある腎臓系が組み込まれることによって、この二つの系にバランスがもたらされるのです。
▲ 11
血液が空気と直接に触れることによる外界からの作用と、栄養物に働きかけその固有の性質をそぎ落とすための諸器官に由来する作用、この両極の作用を、言わば調和させるのが腎臓系なのです。もし前述の二つの系が不調和のまま作用すると余分なものが生じえますが、腎臓系はその余分なものを排除しうるのです。

■ 内臓と太陽系

▲ 12
以上で内的有機体のすべてが出そろいました。消化器系とそれに続く肝臓、胆汁、脾臓といった内臓器官があり、これらが血液に対置しています。そしてまた、これらの内臓器官は血液系の素材を準備します。他方、血液には別な器官も対置していて、それが内臓器官系に由来するものと外界に由来するものとのバランスをとり、隔離の側に偏り過ぎてしまわないようにしています。…この正当性はまた後に見ていきますが…血液系とその中心である心臓を生体の中心と考えますと、この血液系を基準に整理することができます。すると、一方には肝臓、胆汁、脾臓系を、もう一方には…心臓とはまた別なつながり方をしていますが…肺系を並べることができます。その中間に腎臓系が来ます。肺系と腎臓系には非常に興味深い関係がありますが、それはまた後で見ていきましょう。今は細部には入り込まずに、全体の関連を見ていきます。これらいくつかの系を非常に単純に模式化して並べますと、それだけで、人間の内臓にはある特定の関連があること、そしてその関連では、心臓とそれに付随する血液系が最も重要であることがわかります。

▲ 13
オカルティズムの世界では、脾臓作用を土星的作用とし、肝臓作用を木星的、胆汁作用を火星的作用としていることはすでに申し上げました…この名称の正当性はさらに詳しくわかるはずです…。それと同じ根拠から、オカルト的認識では心臓とそれに付随する血液系を人体における《太陽》としていますし、それは惑星系での太陽の役割に対応します。また、オカルティストは肺系を《水星》、腎臓系を《金星》とします。…こうした呼称の正当性についてはここでは検討しませんが…人体の諸系をこのように呼ぶことで、それが内的宇宙であることが暗示されますし、血液系と関連する二つの器官系もこの視点から見ることができます。諸関連をこうした意味で考察したときに初めて、人間の内的宇宙と呼べるものの全容が現れてきます。水星や金星と太陽との関係が肺や腎臓と心臓との関係と同じように考えられますが、オカルティストはその根拠をきちんと把握しています。それを実際に示すことが、今後の講演における私の課題でしょう。

■ 血液にかかわってくるもの

▲ 14
そのリズムを心臓が表現し、また自我の道具である血液系には、何かがあることがわかります。そして、その何かの形態、内的本性、構成要素は人間の内的宇宙によって方向付けられ、またその何かが、今あるように生き、また生きられるためには、そのような(マクロコスモス的な)全体としての系に組み込まれていなくてはなりません。この人間の血液系とは…もう何度も申し上げていますが…私たちの自我の肉体的道具なのです。現在の私たちが持つような自我は、肉体、エーテル体、アストラル体という基盤の上に構築されて初めて成り立つことがわかっています。世界をふらふらと自由に飛び回る自我などというものは、私たちのこの世界では考えられません。人間の自我にはその基盤として肉体、エーテル体、アストラル体が不可欠です。霊的な意味において、この自我は今述べた人間の構成要素を前提としていますが、それと同じように肉体的な意味においても、つまり自我の肉体的器官である血液系も、アストラル的肉体器官、エーテル的肉体器官を前提にしています。血液系は他の器官系を基盤にして初めて発達しうるのです。植物は、無生物的自然環境を基盤にしても難なく育ちますが、人間の血液器官の基盤としては、単なる外的自然では役に立たず、まずその外的自然を変容しなければならない、と言わざるを得ません。人間の肉体がエーテル体やアストラル体を前提にするのと同じように、体内に入ってくる栄養素材は、人間自我の道具になるためにまず変容を受けなくてはなりません。
▲ 15
この自我の肉体的器官である血液は肺を介して外界に規定されている、という言い方もできます。しかし、もっと厳密に言えば、肺も一つの肉体的器官に過ぎませんから、外的リズムが血液に働きかけるときには、この器官が働きかけているのではなく、この器官を介して取り込まれた空気の持つ外的リズムが血液に働きかけているのです。ここで私たちは、次の二つを区別しなくてはなりません。一つは人間に向かって外から空気というかたちでやってきて、吸い込まれ、外界のリズムを直接に血液に浸透させうるものです。もう一つは、自我にとっての生きた器官である血液に直接に入り込むのではなく…どのように入り込むかはすでにお話ししました…魂という回り道を通って入り込むもの、つまり、感覚器がそれを受け取り、血液という黒板に書き込まれる外界の印象です。ですから人間では、まず呼吸を介して取り込まれた空気によって外界と物質的に直接に触れ合い、その影響を血液にまで及ぼし、その他に、周囲の世界に接する感覚器官を介して魂内に知覚過程が生じ、外界と非物質的に触れ合う、と言えるでしょう。このように呼吸プロセスよりもさらに一歩高次なプロセスがあり、これは霊化された呼吸プロセスとも言えるでしょう。呼吸プロセスによって外界を物質的に取り込む一方で、感覚知覚プロセスという霊化された呼吸プロセスによって…ここで《感覚知覚》という語は、人間が外的印象に関連して作り上げたものすべてを指します…私たちは何かを内に取り込みます。ここで、この二つのプロセスはどのような共同作用をするのだろうか、という疑問が生じます。と申しますのも、人間生体内ではすべてがかかわり合いながら働いているからです。

■ 感覚知覚からの作用と栄養物からの作用

▲ 16
この問いをより正確に見てみましょう。…正確に問うか否かは本質にかかわります…。そうすることで、とりあえず今日のところは仮説的ですが、答えをイメージできるからです。一方には、血液を介して作用するもの、内臓器官でのプロセスを経て血液になったものがあり、もう一方には、外的感覚知覚プロセスによって血液になっていくものがあります。そしてこの両者の間でどのような共同作用、相互作用が行われるかをはっきりさせなくてはいけません。この両者の間では相互作用が生じるに違いないのです。血液とは、いろいろな意味で徹底的に濾過され、非常に多くのことがかかわり、自我の道具となりうるすばらしく有機化された素材であるとは言え、それでも物質的な素材であり、それ自身は肉体に属します。それゆえ、人間の血液中で作用する肉体的プロセスと、感覚知覚と呼ばれる魂内の事柄は、とりあえずは非常にかけ離れている、と言わざるを得ないでしょう。これは普通に考えたら、否定し得ない現実です。血液素材、神経素材、肝臓素材、脾臓素材等々はリアルであるとするのに、知覚、概念、理念、感情、意志インパルス等々はリアルではないとする奇妙な考え方をとるなら別ですが。この両者のかかわり方については、各世界観同士で論争が見られます。つまり、思考が単に何らかの作用、神経物質といったものの作用である、という世界観と、そうでないという世界観の論争です。この問題では世界観同士の論争が起きうるのです。しかしどのように論争するにしても、外界の知覚、それを元に作られるもの、思考、感情など、魂的営みは現実である、という事実は当然見過ごすことはできません。注意してください。私は「隔離された現実」とは言っていません。そうではなく「現実そのもの」と言っています。なぜなら、世界においては何物も隔離されてはいないからです。「現実そのもの」という表現はそんなに明確ではありませんが、実際に観察できるものとお考えください。それには胃、肝臓、脾臓、胆汁などと同じように、思考、感情なども含まれるのです。

▲ 17
この二つの現実を並べますと、他にも気付くことがあります。つまり、一方には、非常に綿密に濾過された物質である血液があり、もう一方には、一見物質的なものとは無関係と思われるもの、つまり思考、感情などの魂的内容があります。この二種類の現実に直面することで、実際に、ある種の困難が生じてきます。さまざまな世界観は、この現実に直面しますと、ありとあらゆる解答を無駄に積み上げるのです。魂的なものである思考や感情が、肉体的なものに直接働きかけ、あたかも思考が物質素材に直接働きかける、と考える世界観もあります。その対極にあるのが、物質主義的な世界観です。つまり、思考や感情などが肉体的・物質的な過程から作り出される、と考える立場です。この二つの世界観の間の論争が巷で繰り広げられ、長い間、重要な意味を持っていました。…ちなみにオカルティストは、そのような空疎な言葉による論争には荷担しません。しかし、それでも一歩も進めなくなり、近代になって《心理身体並行論》という奇妙な名前の別な見解が出現しました。…精神が身体プロセスに影響を及ぼすのか、それとも身体的プロセスが精神に働きかけるのか、このどちらの考え方が正しいかをまったく判定できなくなってしまったので、単純に、この二つのプロセスが並行している、と言っているのです。考えたり感じたりしているとき、肉体ではある特定の過程が並行して起きている、と言うのです。…「私は赤色を見る」という知覚の場合、それに対応して何らかの物質的過程が神経系で生じている、と言う見解です。赤を知覚し、またその知覚に喜びや痛みが伴うとき、そこにも物質的な過程が対応しています。そして、「対応する」という以上のことは言いません。この理論では事実上困難から逃げてしまい、棚上げしています。こうした土壌からは無益な論争が湧き上がり、何も説明していない心理身体並行論なるものが生まれてきました。それは、まったく見当違いの領域に迷い込み、それを元に答え出そうとしたからです。魂内の活動を見るなら、それは非物質的な過程ですし、非常に繊細に組織されたものである血液であろうと、それに類するものは物質的な過程です。…物質的活動と魂的活動…この二つを並べて、両者がどのように作用し合うかをいくら懸命に考えても、そこからは何も生まれません。こう考えても勝手な解答をでっち上げるか、あるいは解決できないとわかるだけです。より高次の認識を身につけますと、この問題に何らかの判断を下すことができます。外界を物質的に観ているだけでもなく、思考を物質的外界と結びつけるだけでもありません。物質的なものを超え、超物質的世界へと導いてくれる認識形式を私たちは見つけなくてはなりません。諸々の感情など、一切の魂的営みを行いつつ、私たちは物質界に生きていますから、物質界が魂的営みの場ではありますが、その魂的営みの根源は超物質界です。ですから私たちは、魂的営みからその超物質界へと向かっていかなくてはなりませんし、また、物質的なものからも超物質界に上っていかなくてはなりません。つまり、私たちは二つの側から超物質界に上っていかなくてはならないのです。

■ 魂と物質をつなぐエーテル体(記憶を例に)

▲ 18
物質の側から超物質界に上るためには、私が前に述べた修練、外的感覚的なものの背後を見えるようにする修練、感覚印象が織り込まれているヴェールを通してその背後を見るための魂の修練が必要です。人間の外的器官を観察するとヴェールとしての感覚印象が得られますし、その点では、体内で最も繊細に組織された血液であっても同様で、そこからは物質的・感覚的なものが得られます。超感覚的世界に至るには、魂の修練が必要です。まず、魂的印象を受け取っている立ち位置よりも一段深い地点、つまり物質的地平の下に降りなくてはなりません。物質的・感覚的世界の下で、生体の超感覚的要素であるエーテル体に出会います。このエーテル体は…これについては、まさにこのオカルト生理学的立場からより詳しく取り上げますが…超感覚的有機体です。そして、とりあえずこれは、目に見える人間生体の原型であり、この超感覚的基礎素材から生体が形成されてくると考えておきましょう。当然ながら、血液もこのエーテル体の写しです。物質的・感覚的有機体の背後へ一段深く降りた地点で、私たちは人間のエーテル体という超感覚的部分と出会いました。ここで、この超感覚的なエーテル体には、もう一つ別な側から、つまり魂の側、外界の印象を元に作り上げる知覚、思考、感情の側から近づくことができるかを検討してみましょう。
▲ 19
そうしますと、魂的営みからは、さらに直接的にエーテル有機体にいきつけることがわかります。さて…これで今日の考察を締めくくりたいと思いますが…魂内の活動では、まず外界から印象を受け取り、つまり、外界が感覚器官に働きかけ、その外的印象は魂内で加工されます。いいえ、加工などという生やさしいものではなく、知覚印象を消化し自分の中に吸収しています。記憶、想起といった簡単な現象を考えてみましょう。何年か前に外界の知覚から作った印象やイメージを,今度は魂の奥底から引っ張り上げます。樹とか匂いとかの単純な例で考えましょう。するとそれが想起です。ここでは、外界の印象を元に、魂の中に何か持続的なものが溜め込まれた、と言わざるを得ません。魂の修練を経て、魂そのものまでをも見ますと、次のことがわかります。つまり、溜め込まれた印象を想起像として呼び戻せるまでに魂的営みを高める瞬間、この魂的体験の中で、私たちは自我だけで活動しているのではありません。自我と共に外界に向かい合って、印象を受け取り、それをアストラル体の中で加工する場合、私たちはそのすべてを自我だけで行っています。しかしそれだけでしたら、すべてをその場で忘れてしまうはずです。結論を導き出すとき、私たちはアストラル体の中で活動しています。しかし、印象をしっかりとしたものにし、少し後に…たとえそれが数分後であっても…それを再び呼び戻せるようにする場合、自我が得てアストラル体が加工した印象は、エーテル体に刻印されているのです。このように記憶表象とは自我によってエーテル体に刻みつけられたものですし、その内容は、外界に触発されて生じる魂的活動から得ています。このように私たちには、魂の側からエーテル体に記憶表象を刻み込む能力があります。そしてまた体の側からは、それが生体に最も近い超感覚的存在であることがわかっています。するとここで、この刻印の様子はどのようなものであるか、という問いが生まれます。アストラル体で加工されたものがエーテル体に取り込まれる成り行きは、実際にはどうなっているのでしょうか。アストラル体はどのようにしてそれをエーテル体に導き入れるのでしょうか。

■ エーテルの流れと二つの脳内器官

▲ 20
この導き入れ方は非常に注目に値します。まず自我の肉体的表現である血液が身体全体をどのように流れるかを非常に単純化して観てみましょう。…ここでは私たちは完全にエーテル体の中に居ると考えましょう…。するといろいろな様子が見られます。自我が外界に呼応して活動する様子、自我が受け取った印象を表象へと凝縮していく様子などが見られ、それに伴って血液が実際に活動する様子も見られます。しかし血液ではそれ以上のことが見られます。血液循環全体が上に向かって…下にはわずかですが…随所でエーテル体を活性化し、いたるところでエーテル体が決まった道筋で流れ始めるのが見られます。その流れは、あたかも血液に結びついているように見え、心臓から頭部に向かい、さらに頭部で集まるように見えます。その流れはおよそ…外的な喩えをさせていただけるなら…電流のように、向かい合う二極の一方に集まり、プラス・マイナスの電気が打ち消し合うように振る舞います。

▲ 21
外界の印象によってエーテル的諸力が呼び起こされ、それによってエーテル体に記憶表象が刻み込まれます。そしてこの成り行きを、修練を積んだ魂によってオカルト的に観察しますと、エーテル的諸力がもの凄い緊張にあって、ある一点で激しく一体になろうとしているのが見えます。これは記憶力にならんとするエーテル的諸力と見なせます。脳に向かって上り、そこで一つにまとまるエーテル的流れの最後の部分を事実に即して描くとしたら、このようになります。ここには一点に集められた凄い緊張が見られ、これはあたかも「エーテル体の中に入るぞ」と言っているかのようです。ここで、この頭部のエーテル的流れとぶつかる別な流れがリンパ系から発するのが見えます。記憶が形成されようとしているときには、ちょうどプラスとマイナスの電極がもの凄い電圧で互いを打ち消し合おうとするのと同じように、脳の中に二つのエーテル的流れがもの凄い力で集約されるのです。この二つのエーテル的流れは実際に合流し、それによって表象が記憶表象になり、エーテル体の一部になります。

▲ 22
こうした超感覚的現実、生体内のこうした超感覚的流れは人間の生体にも現れています。つまり、こうした流れによって知覚可能な肉体器官が作り出されているのです。間脳には、記憶表象にならんとするものが目に見える形で表現されています。脳内の別な器官がそれに対置していますが、それは下部の諸器官から来るエーテル体の流れの現れです。エーテル体内における二つの流れが肉体的・感覚的なものとなってこの二つの脳内器官として現れていますし、これらはまた同時に、エーテル体内でそうした流れが生じていることを示す最終的な徴{しるし}でもあります。これらの流れがしっかりと集約され、生体内の素材を取り込み、密に固まってこれらの器官になったのです。そして実際に、一方の器官からもう一方に向かって明るい光の流れが放射するのが見えます。この記憶表象を作り出さんとする肉体器官は松果体であり、それを受け取る側は脳下垂体です。

▲ 23
ここは身体の中で非常に特別な部位です。ここでは魂的なものと体的なものが協働し、それが肉体器官としても表現されているのです。

▲ 24
以上の原理的なことの紹介で今日の講義を終わりたいと思います。この先の明日以降、さらに詳細に述べ、正確な証明も付け加えたいと思います。次のような考えを、正確に持ち続けることが大切です。まず、超感覚的なものの研究が可能であること、さらにはその超感覚的なものが肉体的に表現される場合どのようなものができうるか、そして、それが実際に存在するか、を問うことができる点です。ここでは、実際その通りであることを見てきました。ここで取り上げているのは、超感覚的なものへの入り口となる感覚的なものです。ですからこれらの諸器官について述べていることを、物質科学が非常に怪しげなものと見なすのもご理解いただけると思います。さらには、外的学問ではこれらの諸器官について、まったく不十分で曖昧な情報しか提供できない点もまた、ご承知いただけると思います。

2014年7月27日日曜日

秘されたる人体生理、第三講

1911年3月22日

■ メディテーションについての補足

▲ 01
この最初の三日間では、生命や人間本性について考える上での問題点を、一般的な観点から位置付けます。ですから、今日までいくつかの重要な概念を取り上げましたが、詳しい話を後回しにしていますので、若干、宙に浮いたものに感じられているかもしれません。まず全体を仮説的にでも展望し、その後で仮説に根拠を与えていく方がよいので、まず人間をオカルト的にどう観るかを大づかみにし、その後で仮説に深い根拠があることを示そうと思います。
▲ 02
昨日の講義の最後で、そうした根拠をすでに一つご紹介しました。特定の魂的修練、つまり思考や感受を強く集中させることによって、通常とは異なった生命状態を作り出しうることをお話ししました。通常の生命状態における特徴の一つは、意識が目覚めている際には神経と血液が密接に結びついている点でした。これを定型的に表現するなら、「神経を介する事柄は、血液という黒板に書き込まれる」と言えます。魂的修練によって、神経を極度に緊張させ、その活動が血液にまで達しないようにし、この活動を神経自体にはね返させるようにします。血液は自我の道具ですから、知覚や思考の集中を行っている人間は、あたかも神経が血液から分離し、通常状態の自分の構成要素から切り離され、あたかもそこから遊離し、それと対置しているように感じ、この構成要素に対し、「これは私だ」とは言えず、「これはお前だ」と言いうるようになります。あたかも地上界で他人に接するかのように自分自身と向かい合います。霊視中の人間の生命状態に少しでも入り込みますと、こう言えるはずです。「この人は、より高次の構成要素が、魂的営みからはみ出しているように感じている」と。それは、通常の意識で外界と向かい合っているときの感情とはまったく違います。通常の生活では、外界の物体や生物、つまり動物や植物などを他者と感じ、自己存在はその外側にあって、それらと並び立っているように感じます。目の前に花があるときには、ご承知のように、「花はそこにあり、私はここに居る」と言えます。しかし、先ほど述べたやり方で主観的自我から身を離し、神経系を血液系から切り離すことで霊的世界に上りますと、状況が一変します。そうなりますと、「目の前に他者があり、私たちはここに居る」とは感じません。そうではなく、他者が私たちに入り込んで来て、それらと一体になったように感じるのです。ですから、このように言うことが許されるのでしょう。私たちは霊界と常に結びついてはいますが、通常の生活ではそれと直接に出会うことはなく、神経系を介し、感覚印象という回り道をして出会っています。しかし、霊視能力を身につけると観察力が向上し、霊界の様子を直接に見知るようになるのです。
▲ 03
この通常の意識では見えない霊界は、血液という黒板に、つまりは個としての自我に書き込まれてはいます。ですから、こう言って差し支えないでしょう。私たちを取り巻く外的感覚世界のルーツはすべて霊界にあり、この霊界は、通常は感覚印象に織り込まれ、ヴェールを通してしか見ることができない、と。通常の意識ではこの霊界は見えません。個的自我という地平にそれを覆うヴェールが広がっているのです。その自我から解放される瞬間、通常の感覚印象も消えてなくなります。こうして私たちは霊界に上り、そこで生きますが、これは感覚印象の背後にある霊界そのもので、これと一体になる際には、神経系を通常の血液系から引き離しています。

■ 知覚と内臓三器官の対称性

▲ 04
ここまでの考察では、外界の刺激が神経を介して血液に伝わる活動をたどりました。また昨日は、人間の純粋に肉体的な内臓器官だけを見ても、そこにコンパクトに押し込まれた外界を見ることができること、つまり、人体内には外界が押し込まれていて、それが肝臓、胆汁、脾臓であることをお話しいたしました。こんな風に言えるでしょう。血液は、生体上部つまり脳に流れ込み、そこで外界に触れます。…それが起きるのは、外界からの感覚印象が脳に働きかけているからです…。それと同じように、血液が腹部を流れるときには肝臓、胆汁、脾臓とも関係しますし、私たちはこれらの臓器についても見てきました。 これらの諸器官においては、血液は外界と接触することはありません。外界とつながった感覚器官とは異なり、四方をすべて囲まれ、体内に閉じ込められ、その営みは完全に体内だけで展開されます。これらの諸器官も血液に作用しますが、その作用の仕方はそれぞれ異なります。肝臓、胆汁、脾臓は目や耳とは違って外界の印象を受け取るわけではありませんから、外界からのきっかけで血液に何らかの作用を及ぼすことはありません。これらの臓器は、言わば内に押し込められた状態で作用し、これは「内面化された外界が人間の血液に作用する」と表現できます。模式的にこの斜線ABを血液の黒板としますと、上からのこの矢印は外界からやって来てそこに書き込まれ、下からの矢印は内側からそこに書き込まれます。あまり格式ばらずに表現するなら、「頭部やそこを流れる血液を観察すると、そこには感覚器官を介してやってきた外界が描き込まれるが、そこで脳が血液を変化させる働きは、内臓器官が血液を変化させるのと同じである」と言えます。この肝臓、胆汁、脾臓という三器官は、別な側から血液に働きかけますから、こう描こうと思いますが、そうすると血液がこれらを順に流れているようになります。内臓器官からの作用や放射を血液が受け取り、内臓の内的営みが自我の道具、つまりは自我に表現され、それは外界の事物が脳の営みに表現されていることに対応しています。

▲ 05
ここで、内臓からの作用が血液に及ぶには、それを介するある何かが存在することは、私たちにとっては明らかなはずです。神経と血液の相互作用があってはじめて、血液に作用が及び、そこに何かが書き込まれうる、という話を思い出されるでしょう。内臓器官の側から何らかの作用が血液に及ぶとするなら、人間の内的宇宙とも言えるものが血液に働きかけるとするなら、血液とこれらの器官の間には神経系に類するものが挟み込まれているはずです。内的宇宙が血液に作用するために、まず神経系に働きかけることができているはずです。


■ 脊髄神経系と自律神経系の対称性

▲ 06
人間の下方と上方を単純に比較してみますと、内臓器官と…その代表が肝臓、胆汁、脾臓です…血液循環との間に、上部での神経系に相当するものが挟み込まれていなくてはならないことがわかります。ここで外的観察を調べますと、この三器官には現実に自律神経系と呼ばれるものがつながっていることがわかります。これは体腔に張り巡らされ、脊髄神経系と相同な働きをします。つまり、脊髄神経系は外の大世界と血液循環をつなぎ、自律神経系は人間の内界と血液循環をつないでいます。この自律神経系はまず背骨に沿って伸び、そこから広がってさまざまな器官につながり、それ自身、腹腔内に網状に広がり、よく知られた太陽神経叢になっています。そして、この自律神経系は、他の神経系とは違っていなくてはなりません。…これは証明にはならないかもしれませんが…自律神経系が私たちの仮定を満たすとしたら、その形は脊髄神経系とどう違っているだろうか、と問うのも面白いでしょう。皆さんお分かりのように、脊髄神経系が周囲の空間に開いたものであるとするなら、自律神経系は内部に押し込まれた器官と近い関係であるはずです。この前提に合わせるなら、両者の関係は、中心から周辺へと向かう放射状の線a(自律神経系)と、周囲からさらに外に向かう線b(脊髄神経系)で表されます。つまり、自律神経系と脳脊髄神経系は、ある意味で対極であるはずです。そして実際、対極なのです。そこには、証明とも言える事実も多くあります。もしこの前提条件が正しいなら、それは何らかのかたちで外的観察によって裏付けられなくてはなりませんが、実際、それは裏付けられるのです。神経には神経節と神経線維の二つの部分があり、神経線維は神経節から放射状に伸び、それによって神経同士が接続します。さて自律神経系では、神経節が発達し神経線維は比較的貧弱で目立たないのに対し、脳脊髄神経系では、ちょうど裏返しの関係で、神経線維が主体で神経節は二次的です。このように、私たちが仮定した前提条件が、観察によって実際に裏付けられます。これまで、自律神経系が持つはずの役割を述べてきました。もし本当にその通りの役割を持つなら、脳脊髄神経系が外界の印象を血液という黒板に書き込むのと同じように、自律神経系が、生体内に栄養や熱が入り込むことによって生じる生体の内的営みを受け止め、さらにそれを血液に書き込まなくてはなりません。自身の身体内部から来る諸印象は…自律神経系という回り道をし…自我の道具である血液を介して、個としての自我に取り入れられるのです。しかしここで、物質的なものすべてがそうであるように、私たちの内臓も霊から形成されていますから、諸内臓に押し込まれた霊的なものが、自律神経系という回り道を通って私たちの〔目覚めた〕自我にやってきます。

▲ 07
ここでもまた、考察の出発点に置いた人間の二重性が明確に現れています。まず外の世界、そして次に内の世界の作用を見ます。どちらの場合も、それぞれの世界が私たちに働きかけますが、それぞれ別な神経系が仲介しています。血液系は外界と内界の中間にあり、ちょうど黒板のように、あるときは外側から、あるときは内側から書き込まれるのです。

■ 内的沈潜の修行

▲ 08
神経には外界の作用を血液に伝えるという働きがありました。ところが、昨日の話では、神経を感覚界に引き出すことによって、神経を、言わばそうした通常の働きから解放できることを紹介しましたし、今日も確認のために繰り返しお話ししました。ここで、内側に向けてもこれと似たことが可能か、という問いが生じます。詳しい話はまた後でいたしますが、実際にそうした修行は可能で、昨日、今日とお話しした効果を内側でも得られるのです。しかしそれでも、いくらかの違いはあります。思考集中、感情集中といったオカルト的修練によって、脳・脊髄神経系を血液から切り離すことができます。それとは別に、内的営み、内界に入り込んでいくような類似の集中によって…これはいわゆる《神秘的営み》と呼ばれる類の集中ですが…自我を保ったまま内側深くに、つまりその道具である血液を無視することなく、入り込むことができるのです。私たちに知られた神秘的沈潜、霊的沈潜では…詳しくは後でお話しいたしますが…人間は自分自身の持つ神的本性部分、自分自身の霊性に潜り込んでいきます。と申しますのも、人間はそうした霊性を内に持っていますし、またこの神秘的沈潜では自我から抜け出すこともないからです。反対に、霊的沈潜では自我の深みに入り込み、自我知覚が強化され、活性化、高揚化されます。…現代の神秘家が言うことを除きますが…かつての神秘家の言葉を少しでも自らに作用させますと、このことが確信されます。こうした昔の神秘家たちは、宗教的な立場に立つか否かにかかわらず、自分自身の自我に入り込もうとし、外的印象から自らを解放するために外界からのものをすべて無視し、完全に自分自身の中に沈み込んでいく努力をしました。このように自分の内に戻り、自分自身の自我に沈潜するするわけですが、このときはまず、自我の力やエネルギーのすべてを生体内に押し込め、縮めるかのように見えます。そしてこれは人間生体全体に波及し、この内への沈潜、言葉の本来の意味で《神秘の道》と呼べるものとは…前に述べたもう一つの道とは反対に…自我の道具である血液を神経から遠ざけるのではなく、自律神経系により深く入り込ませることだ、と言えるかもしれません。昨日のやり方では血液と神経のつながりを解消したのに対し、神秘的沈潜ではその反対に、血液と自律神経系のつながりを強化します。これは生理学的に見た対極像です。神秘的沈潜では血液が自律神経系により深く入り込み、もう一つの魂的修練では、血液が神経から切り離されます。神秘的沈潜によって、血液を自律神経系に押し込むようなことが起きるのです。
▲ 09
さて、話が少し横道にそれますが、自我から離れるのではなく、むしろ逆に自我の内側により深く入り込む修行、つまり神秘的沈潜を行おうとする際に、望ましくない、あるいは悪い性質をすべてそこに持ち込んでしまった、と仮定しましょう。自分の内側に入り込んでいくにしても、そうした望ましくない性質を自分の内側に押しつけていることにはじめは気付きません。言葉を換えれば、血の中に存在するある激情的なものが、すべて自律神経系に押し込まれるのです。これも別な話ですが、ある神秘家が神秘的沈潜に入る前に、自分のよくない性質を一つひとつ消し、利己性を克服し、無私で利他的な感情を生み出し、あらゆる存在に対し慈悲を湧き上がらせるように試み、そうした無私なる慈悲の心を実際に育て、自己中心的な性質を消していこうとしたと仮定しましょう。つまり、自分の内側に深く入り込む前に、十分に怠りなく準備したと仮定しましょう。血液という道具を介して、自我を内側の世界に持ち込みますと、通常はまったく自覚していないこの自律神経系を自我意識の中に引き込み、あることがわかり始めます。つまり、「脳脊髄神経系が外界を伝えるのと同じように、お前は内界を伝える力を持っている」とわかるのです。こうして、脳脊髄神経系によって外界を認識するのと同じように、自分の自律神経系を知覚し始め、内的世界と向き合います。外界から刺激を受けても、意識に上るのは視神経を介して入り込んでくる外界そのもので、神経ではありません。それと同じように、神秘的沈潜の場合も、内的神経が意識に上ることはありません。自分の内にある道具に気付き始め、自分の内側を見る道具に気付くのです。そこではまったく違ったものが現れます。内界の霊視力を持った者の前に内界が現れます。眼差しを外界に向けますと私たちは外界と結びつきますが、その際に意識に上るのが神経ではないのと同じように、ここでも自律神経系が意識に上るのではなく、内界が私たちに向かって来るのです。ここで意識に上ってくる内界とは、本来、自分の肉体の一部であるのはおわかりのはずです。

▲ 10
特に関連するというわけではありませんが、ちょっと申し上げておきたいことがあります。やや物質主義的な考えの人ですと、自分の生体を内側から見ることができる、ということをやや恐ろしく感じ、こう言うかもしれません。もし私が自律神経系を介して霊視能力を持ち、肝臓、胆汁、脾臓を見られるようになったら、そのときはそれも正しいと思う、と。…これは必ずしも深い関係があるわけではありませんが、それでもお話ししておく方がよいでしょう。しかし、事実はそうではないのです。このような反論では、通常の場合、肝臓、胆汁、脾臓などを他の物体と同様に外側から見ている、という点を考慮していません。皆さんが解剖学や通常の生理学で肝臓、胆汁、脾臓などについて知るにしても、人間を切り開き、これらの器官を、他の物体を見る場合と同じに、当然ながら外的感覚や脳脊髄神経系によって見ています。内側を霊視するために自律神経系を使う場合には、人間はまったく違った状態にあります。そこで見られるものとは、外的に見るものとはまったく異なりますし、昨日私がお話しした、霊能者たちが時代を通じてこれらの器官に付けてきた名前にふさわしいものなのです。

■ 臓器と惑星、外的リズムの自己化

▲ 11
脳脊髄神経系を通して外的に見られるこれらの器官はマーヤであり、これらの器官の内的本質的な意味を見るのではなく、外見という幻想しか見えないことが次第にわかってきます。内を見る目で自らの内界を霊視的に静かに聞き取ることができますと、実際、まったく違って見えてきます。そうしますと、あらゆる時代の霊能者たちが、これらの器官と惑星を関連付けてきた理由が次第に明らかになります。昨日すでに触れましたように、脾臓の働きは土星、肝臓は木星、胆汁は火星の働きと関連付けられています。自分自身の内界に見えるものは、外的に見たものと根本的に違うからです。内臓器官の中で、外界がまとまり、塊になり、境界を作っていることが実際にわかるのです。こうした認識方法で通常の見方を越えますと、脾臓が非常に深い意味を持った器官であることがわかりますが、この例で、ある一つの事柄が特にはっきりするでしょう。脾臓を内的に観察しますと、肉などと言った外的素材からできているようには見えません。…完全ではありませんが、こう言っても差し支えないと思います…脾臓は、多種多様で複雑な営みが行われているこの狭い内界において、事実上、輝く星のように見えます。昨日の話で、外的に見た脾臓は、白い小体を内包する血液に満たされた組織である、と述べました。外的な生理学的観察を出発点にしますと、脾臓によってそこを通る血液が濾過されている、と言えます。しかし、内的観察によりますと、脾臓にはさまざまな内的諸力が働き、それによって安定したリズム運動をしていることがわかります。このような器官を見るだけでも、宇宙には非常に多くがリズムが関係していることが確信できます。宇宙の外的リズムを脈拍のリズムの内に再発見しますと、世界全体のあらゆる営みにとってリズムが重要であることを予感するかもしれません。外的にも、脾臓を含めたいろいろな器官でそのリズムをかなり正確にたどることができます。霊視的眼差しを内側に向けて諸器官を観察しますと、脾臓の状態が変化しますと、それは光り方の変動になって現れます。そして、この変動には脾臓の生命活動が持つ特定のリズムが現れています。このリズムは、他で見られるリズムとは明らかに違います。この点が、脾臓がまさに研究対象として興味深い理由です。脾臓のリズムは他と非常に違って、ずっと不規則なのです。それはなぜでしょう。その理由は、脾臓が何らかの仕方で消化器官と密接に関係しているからです。人間の生命が正しくきちんと成り立つには、血液のリズムが非常に規則正しく保たれていなくてはなりませんが、その点を考慮しますと、事情はただちに明らかになります。血液は非常に規則正しいリズムを保たなくてはなりません。しかし、他にはあまり規則正しくないリズムがあります。これは本来なら、自己教育で規則正しくしていくことが望ましいのですが、なかなかそうはいきません。特に子どもではなおさらです。それは栄養摂取、つまり飲食のリズムです。とは言っても、ある程度しっかりした人ならかなりリズムを保って生活するでしょう。朝食、昼食、夕食を決まった時間に摂り、結果としてリズムを保ちます。しかし、こうしたリズムは現実にはどうなっているでしょうか。…悲しむべきことですが…さまざまな側面で規則正しさが失われています。多くの両親の対応が悪く、子どもがわがままに何かを食べたいと言いますと、リズムなどまったく考慮せずすぐにそれを与えてしまうのです。また、摂食のリズムという点では、大人の状況も非常によいというわけではありません。現代の生活ではいつでも規則正しく飲食できるわけではありませんから、これを教育的ないしは道徳的な意味では受け取らないでください。飲食が不規則なことは周知の事実ですし、ここではそれを憂いているのではなく、単に話題として取り上げているだけです。不規則なものが生体に入りますと、そのリズムは次第に変えられる必要があり、最終的には生体の規則正しいリズムにまでもたらされます。ですから、最低でも不規則な食事のリズムを解消すべく、生体内でそれを変えなくてはなりません。ある人が仕事の都合から、朝八時に朝食、一時か二時頃に昼食と決められていて、この規則正しいリズムが習慣になっていると仮定しましょう。さて、彼が友達のところへ行き、そこでご丁寧に、食事と食事の間におやつをもてなされたと仮定しましょう。これによって彼の規則正しい食習慣はかなり妨害され、生体のリズムは何らかの作用を受けます。このとき生体内には、不規則なリズムを弱め、規則的なリズムを適切に強める何かがなくてはなりません。でたらめな不規則性は解消されなくてはなりませんから、栄養物が血液系に移行する間に何らかの器官が挟まれていなくてはなりません。不規則な摂食リズムを、身体が必要とする血液系の規則的なリズムに調整しなくてはなりません。そして、それを行う器官が脾臓なのです。今、一連のリズム的過程について特徴をお話ししました。そして、脾臓が一種の変換装置であり、消化管内の不規則性を血液循環の規則性に切り替えていることがおわかりになったと思います。…学生時代などのように…不規則な栄養摂取の作用が血液中まで引き継がれるとしたら、それは実際、致命的です。さまざまな意味でバランスがとられ、血液にとって有益なものだけが血液に導き入れられます。血流に組み込まれた脾臓はこうした役割を果たし、今述べたような状態を作り上げるべく、そのリズム化作用を人間生体全体に放射しているのです。
▲ 12
今は霊眼で見たことを述べましたが、それは脾臓のある種のリズムとして外的な観察にも現れています。外的生理学の研究だけで脾臓が持つこの役割を見つけ出すのは非常に困難ですが、外的観察からでも、たっぷり食事を摂った後の一定時間、脾臓が肥大し、さらなる肥大の条件がなければ、適当な時間の後に再び収縮することが見て取れます。この器官が何かしら拡張・収縮することによって、不規則な摂食リズムが血液のリズムに変換されるのです。しばしば生体とは諸器官の集まりであると言われますが、実際はそうではなく、すべての器官が隠れた働きを生体全体に送っています。そのことがわかりますと、「脾臓のリズム活動は外的な食物摂取に左右されはするが、脾臓のこのリズム運動は生体全体に放射していき、生体全体のバランスを保つ働きをしている」と考えられるようにもなるでしょう。ただこれは脾臓が持つ働きの一つに過ぎません。すべての働きを一度に説明できませんので、まずこれを取り上げたのです。

▲ 13
外的生理学が今述べたような事柄を、とりあえずは《提示された理念》として受け止め、それを裏付けようとするなら、非常に興味深いでしょう。つまり…すべての人間が同じように霊視能力を持てるわけではありませんから…はじめは「オカルティストもまったくのでたらめを言っているわけでもなさそうだから、信じるとか信じないとかではなく、提示された理念として受け止め、そのどれが外的生理学で証明できるかを確認してみよう」という態度で接するのです。…そうなれば、霊視的観察を証明する生理学的研究成果も現れる可能性があります。

■ 自己化とは隔離、土星的なもの

▲ 14
そうした証明の一つとして、ここでは脾臓の拡張収縮をお話しいたしました。脾臓は食後に拡張しますから、そこには摂食に影響されることが現れています。このように脾臓とは、一方で人間の気まぐれに左右される器官ですし、また一方でその気まぐれから来る不規則性を取り除き、弱める器官でもあります。つまり脾臓は、人間の肉体を、言わばそれにふさわしく形成できるように、不規則なリズムを血液の規則的なリズムに変換するのです。人間はその本性に沿って形成されなくてはなりませんし、血液はその本性のまさに中心的道具ですから、血液がまさに血液本来のリズムで作用できなくてはならないはずです。人間は血液循環を内に持っていますから、外界の不規則な事柄や不規則な摂食の作用に対し、自らを閉ざし隔離しているはずです。
▲ 15
これは隔離であり、人間本性を外界から独立させることです。そうした個体化、存在の独立化は土星の作用によるもので、これをオカルティズムでは《土星的》と呼びます。ある包括的な有機体全体から一つの存在が抜け出て、隔離し、個体化し、その内側で独自の規則性を展開できるようにすることが土星的なるものの本質であり、根源的理念なのです。現代天文学では太陽系には土星軌道の外側に天王星と海王星も数えますが、オカルティズムではそれは考えに入れません。オカルト的立場では、他の宇宙から太陽系が抜け出て、分離し、隔離し、個体化し、そこに固有の法則性を与える力は、土星的諸力の中にあるのです。
▲ 16
これらの諸力はすべて、太陽系の最も外側の惑星に存在しています。宇宙をイメージしますと、太陽系は、土星軌道の内側にあり、この軌道内で自ら独自の法則に従い、また周囲の宇宙やその形成力から自らを引き離し、周囲から独立しています。こうした根拠から古来オカルティストたちは、太陽系がそれ自身で閉じ、外宇宙を支配するリズムとは異なる独自のリズムを持つことを可能にする諸力を、土星的な力としているのです。

▲ 17
生体内にもそれと似たものがあり、それが脾臓なのです。ただし、生体では外界すべてを完全に排除することはなく、栄養物に含まれる外界的なものだけを排除します。外からやってきて太陽系の土星軌道内に入ったものは土星的作用を受けますが、外から生体内に入ってきたものも、同様に脾臓の作用を受けています。つまり、外界的リズムを変化させ、人間の法則やリズムに変えています。脾臓が、血液循環を外界のあらゆる作用から隔離し、自己統御システムを作り、独自のリズムを可能にしているのです。
▲ 18
これで、オカルティズムが諸器官に惑星の名前を選ぶ根拠に一歩近づきました。オカルト学派の中では元来、これらの惑星の名前を目に見える惑星体に対して使ってはいません。たとえば《土星》という名前は、すでに述べましたが、ある大きな全体性の中から自らを引き離し、独自のリズムを持った一つの系に閉じさせていくものすべてに対して使われてきました。一つの系がそれ自身で閉じ、独自のリズムを作ると、宇宙進化全体から見ますとある種の問題が生じますし、オカルティストたちはそれを少しばかり気にかけていました。小宇宙にしろ大宇宙にしろ、あらゆる作用が相互に関連し合い、積み上げられていることはすぐにおわかりでしょう。太陽系であれ血液系であれ、何らかの系が周囲の全体世界から分かれ、独自の法則に従いますと、そのような系は外部の包括的な法則を破り、傷つけ、外界の諸法則から自立し、とりあえずは外界の法則やリズムと矛盾するような独自の法則や独自のリズムを内に作り上げていきます。本来なら今日の講演内容から明らかでなくてはなりませんが、これがどれくらい人間の肉体にあてはまるかもわかります。つまり、このような土星的脾臓が作り上げる固有のリズムを持ちうることは、とりあえずは人間にとって祝福すべきであることなのはおわかりでしょう。そうであっても、惑星にしろ人間にしろ、ある存在が自己自身の内に閉じこもりますと、周囲とかみ合わなくなる可能性があることもおわかりになるでしょう。周囲にあるものと内側のものとの間に矛盾が生じるのです。一旦矛盾ができあがってしまいますと、内側のリズムが外のリズムに完全に適応するまでは解消されません。人間の肉体でのこうした事情はまた後で見ていこうと思います。今の話の通りだとしたら、人間はこの不規則性に適応しなくてはならないかのように見えますから。しかし、人間の肉体は、実際はそうではないことがわかるはずです。内的なリズムが作られた後には、再び外界全体と同じになる方向に向かうはずです。つまり次の段階に上るのです。次のように言い換えられるでしょう。あるものの内側にある存在が生じ、そこで自立的に活動するとき、その活動の方向は、自らを再び外界に適応させ、その外界があたかも自分自身であるような状態を目指すものでなくてはならないのです。さらに別な言葉で言うなら、何かが土星的作用で自立しますと、それはまさにその土星的作用によって自分自身をも破壊する定めにあるのです。神話ではこのことを、サトゥルヌス…あるいはクロノス…が自らの子どもたちを引き裂く、というイメージで表現しています。

■ オカルト生理学と神話

▲ 19
このように、神話では自分の子どもを引き裂くクロノスというシンボル、ないしはイメージで表現されていますから、神話とオカルト的理念には深いつながりがあることがおわかりになると思います。多くの例によってこうした事柄を自分自身に働きかけさせますと、この種の話のつながりに対するある繊細な感情が作り出されます。そしていずれは、外的な説明が好む「そら、また想像力豊かな夢想家たちが、昔の神話や伝承は深い叡智をイメージとして表現している、などと言っている」などという言い方はしなくなるでしょう。完全に外的なやり方、これは文献でしばしば見かけますが、こうした考え方にどっぷり浸かっていますと、神話と叡智が対応する例を二つ、三つ、いやたとえ十聞いても、神話や伝承には外的学問よりも多くの深い叡智がある、という考え方は拒絶するでしょう。しかし、深いつながりに入り込んでいくなら、外的学問の観察方法よりも神話や伝承の方が世界の真実により深く根ざしている、ということの正当性を認めるはずです。そうしたイメージは素晴らしき神話や伝承のかたちで全世界に広まっていますから、それらを繰り返し自分に作用させてみるのです。すると愛情と共にイメージに入り込むと同時に、諸民族の思考や感情の中に、諸民族の像的イメージの中に、かたちこそ違え、深い叡智が見いだされるはずです。そうしますと、一部のオカルティストたちがなぜ、「神話や伝承を手がかりにし、人間本性を扱うオカルト生理学の領域に入ったときに、はじめて神話や伝承をも理解する」と言えるのかも理解できるようになります。…神話や伝承には、外的学問以上に、人間本性についての現実的叡智、現実的生理学があるのです。たとえばカインとアベル、さらにはその子孫たちの名前に隠されている生理学的根拠を明らかにできましたら…ちなみに、これらの古い名前は、名前に内的意味を込めていた時代に由来しますが…賢人たちの叡智に、計り知れない尊敬と畏敬の念を抱くはずです。賢人たちは、人々が霊的世界をまだ見ることができなかった時代に、イメージを介して人々の魂と霊界がつながるように、歴史の発展にふさわしいかたちでさまざまなことを考え出してきたのです。「今日私たちは、ここまですばらしい発展を遂げた!」という言葉は、現代においては大きな意味を持ち過ぎました。この言葉の裏には、「人間の根源的叡智を表現した古いイメージから抜け出すことができた」という自惚れが隠れていました。しかし、ここでそうした自惚れを根本から払拭できるのです。
▲ 20
歴史的エポックの連鎖である人類発展の足取りを、密なる愛情を持ってたどりませんと、人間は完全に道を外れてしまいます。霊能者は内的な目で内部器官の本性を観察し、それを生理学的に基礎付けています。それはイメージで表現され、またそこから人間の由来が神話や伝承に記されていることも知るのです。人間の諸器官に宇宙が押し込まれるという驚くべきプロセスが、神話や伝承に表現されていることが霊能者にはわかります。私たちの中で脾臓、肝臓、胆汁として働いているものがあります。そうした器官に至るまでに、途方もなく長い時間をかけて集約化され、結晶化されてきた様子が彼にはわかるのです。これについては、明日、さらにお話ししようと思います。オカルト的学問を通してのみ予感できる深い知見、本当の意味での深い叡智があってはじめて、これらすべてをイメージとして表現できるのです。ご覧のように、ちょうどミクロコスモスがマクロコスモスから生まれるように、生体内で働いているものは宇宙から生まれていますし、さらにこれらのもの凄い叡智が、すべて神話や伝承に表現されています。ですから、神話や伝承に現れる名前の意味を生理学的に認識につなげることができたときにはじめて、そのオカルティストたちは正しいと言えるのです。
▲ 21
この連続講演の第一講では畏敬の念を取り上げましたが、今日の話はそうした畏敬の念に役立つでしょう。こうした考え方を育てていきますと、人間の諸器官が持つ霊的内実を深く研究することによって、事実がわかってくるのです。示せることは非常にわずかであっても、人間生体が驚嘆に値する作りであることは伝えていこうと思います。わずかながらでも人間の内的本性に光を当てることがこの連続講演の試みです。

秘されたる人体生理、第二講

1911年3月21日

■ 生体を霊的なものの開示と見る

▲ 01
ここでは無常なるものの認識が目標で、そのために生体を外的に見てわかることを正確に捉えようとしています。しかしこれ自体かなり困難で、しかも考察を進めるとこうした困難と繰り返し出会います。それでも、まさにこの道筋を通って人間本性の永続的な側面、不滅で永遠なる側面へと導かれますし、それも間もなくわかります。しかし、私たちの考察の目標はあくまでも永遠なるものの認識ですから、昨日の導入の際に述べたことをきちんと守る必要があります。つまり、私たちがまず観察するのは外的肉体器官ですが、畏敬の念を持ちつつ、それを霊界の開示と見なすのです。
▲ 02
霊学的な概念や感じ方にはすでに馴染まれていると思いますので、「非常に複雑な人間生体とは、宇宙に渦巻く霊的諸力の意味深き開示である」と言っても不自然には感じないでしょう。言わば、外的なものから内的なものへと上昇していくのです。

■ 血流におけるもう一つの二重性

▲ 03
昨日の話、つまり外的な観察からでも人間には二重性が見られる、という点は学者ならずも素人ですら認めざるを得ないでしょう。すでに昨日、人間本性が持つ二重性を大ざっぱに特徴付けましたし…これはさらに深める必要がありますが…頭蓋骨や椎骨に保護された部分を正確に見てまいりました。そこでは、脳や脊髄の外的な構造やフォルムを見るだけでも、予感的な展望が得られることがわかりました。つまり、昼の目覚めた営みと、とりあえずは何か怪しげに見える夢の営みの関係がそこに暗示されているのです。つまり、脳や脊髄の外的フォルムは人間の特徴的な部分を反映した開示と見ることができました。昼の目覚めた活動では物事を明確な輪郭と共に観察しますし、夢は混乱した像の活動です。そして前者には脳が対応し、後者には(脳内の)脊髄が対応しました。昨日は触れられませんでしたので、今日は大ざっぱにでも人間には他にも二重性がある点を見ていこうと思います。これから紹介する二番目の構成部分を表面的に観察するだけでも、脳と脊髄で観察されたこととは正反対の像が得られることがわかります。脳や脊髄は骨組織に覆われ保護されています。人体の他の部分では骨は生体組織の内側に形成されています。これもやはり非常に表面的な観察です。最も重要ないくつかの器官系を個別に見て、それらを昨日の知見と外的に比較するだけで、私たちは人間本性が持つ別な側面に深く入り込んでいきます。
▲ 04
ここではまず栄養器官系を考察しますが、さらには生体の中心器官、つまり心臓との関係も見ていきます。…一般的な意味での…栄養器官の役割は、一瞥してわかるように、周囲の地上界から素材を取り込み、生体内で活用するための準備です。この消化器官は口から始まり、管状に胃へとつながっています。表面的に見ても、食物がこの管を通って胃に運ばれ、不要な部分は排泄され、それ以外が消化器官を介して生体内に取り込まれます。…ここでは単純に模式的に説明しますが…消化器官内に達した栄養物を消化吸収するために、狭義の消化器官にリンパ系がつながっています。リンパ系とは身体全体に張り巡らされた管の集まりですが、このリンパ系は胃よりも先の消化器官にも連絡していて、消化器官で加工されたものを受け取り、さらに血液に渡します。こうして血管系という人間本性の第三の部分に到着します。これは身体全体を巡る大小の管で、その働きの中心に心臓があります。心臓からは動脈が出ていて、いわゆる赤い血が身体全体を巡ります。血液はそれぞれの組織でそれぞれの過程を経て、いわゆる青い血に変容し、静脈を経て心臓に戻ります。変容して使い物にならなくなった血液は心臓から肺に送られ、そこで外界から入ってきた酸素に触れてリフレッシュされ、別な血管を通って心臓に戻り、再び新たに身体全体へと循環していきます。
▲ 05
外的観察が直接にオカルト的考察に結びつくように、この複雑なシステムの中から、まず生体全体の中心システムだけに着目しようと思います。つまり血液…心臓系です。まず、使い古された血液が肺でリフレッシュされ、いわゆる青い血から赤い血に変化し、心臓に戻り、さらに身体各部に送り出される点を取り上げます。(黒板に描かれる。)} すべてが非常に模式的な図だと思ってください。ちょっと思い出していただきたいのですが、心臓は隔壁で四つの小部屋に分かれ、下部にはやや大きい心室が、上部にはそれより小さ目の心房がそれぞれ二つずつあります。今日は心臓の弁については取り上げず、最も重要な器官の活動を模式的に捉えたいと思います。血液は左心房を経て左心室に流れ込み、大動脈から身体全体に流れ出します。この血液は分散し各器官にいき、そこで使われ、いわゆる青い血に変わり、右心房に戻り、さらに右心室から肺に送られリフレッシュされ、再び各器官へ循環します。

▲ 06
このイメージには、オカルト的観察法の重要な基礎が含まれています。心臓から出た大動脈はかなりすぐに分岐し、一方は脳へいき、身体上部の諸器官に栄養や酸素を届け、使い古された血液として右心房に戻ってきます。そして重要なのは、脳においても血液が多くの経過を経て、身体の他の部分を経たものと同様に変化を受けている点です。つまり、大循環から副次的小循環がすぐに分岐し、小循環は脳に向かい、大循環は他の器官に栄養や酸素を送っています。この事実は非常に重要なので、しっかり肝に銘じておく必要があります。なぜなら、これは正しい考えの基盤になりますし、オカルト的高みに上る土台となるからです。このように血液循環には上部に向かう小循環、さらには他の諸器官に向かう大循環がありそこに栄養や酸素を供給しています。ここで次の問いが重要になります。つまり、「小循環には脳が挟み込まれているが、大循環にもこの脳に相当する何かが挟み込まれてはいないだろうか」という問いです。…すると、外的表面的な観察によってもそれがわかります。つまり、大循環には、脾臓、肝臓、さらには肝臓によって作られた胆汁を含む器官が挟み込まれているのです。これらの器官はすべて、大血液循環に挟み込まれています。


▲ 07
外的学問では、これらの器官の役割をこう言います。胆汁が肝臓で作られ、胆道を通り消化管に流れ出し、食物の消化を助け、さらに消化された食物はリンパ系に取り込まれ、血液中に吸収される、と。しかし脾臓について、外的学問では正確なことをあまり言っていません。これらの器官では、まず生体のために栄養物を変容させる働きに目がいきますが、しかし、これらはすべて大血液循環に挟み込まれてもいます。これらは大循環に無駄に挟み込まれているのではありません。生体の構成素材は絶えず更新されていますから、血液はその素材の更新のために必要な栄養物を取り込まなくてはいけません。そしてこの三つの器官は、必要とされる栄養物の加工にかかわっています。ここで外的な観察から、これらの三器官が生体の全体的活動とどのように関連しているかを考えてみましょう。そのためにまず、上方の血液循環には脳が挟み込まれ、同様に下方の血液循環にはこれらの三器官が挟み込まれているという外的な事実に目を向けます。そして…まずは本当に外的観察だけで、それを深めるのは後にしますが…これらの三器官が、上部循環における脳や身体上部の諸器官と似た課題を担っている可能性はないかを吟味してみましょう。これはどのような課題でありえるでしょうか。

■ 感覚知覚と栄養系の内臓が持つ対称関係

▲ 08
まず上部の器官を観察してみましょう。これらは外界の諸印象を受け止め、その受け取った素材を加工します。それゆえ人体の上部、頭部で起こっている事柄とは、外界の加工、感覚器官を通して外から得られた印象の加工である、と言えます。ですから本質的には、人間上部で起きることの原因とは、外界からの印象であると言えるでしょう。外的印象が人間生体の上部に作用しますと、その作用は血液を変容し、あるいは最低限、何らかのかたちで血液の変容に関与し、その結果、血液は変容して心臓に戻って来ます。そして、変容しているという意味では、他の部分を流れてきた血液と同じです。ここで感覚器官を介して生体上部に働きかけるものと、脾臓、肝臓、胆汁という体内器官の働きかけには何らかの対応がある、とは考えられないでしょうか。生体上部は、外界に開きその作用を受け取ります。そして、上部に流れる血液が外界の印象を受け取るのと同様に、下方に流れる血液が下部諸器官から何かを受け取るのです。繰り返しになりますが、外界が感覚を介して生体上部に働きかけます。これらの印象が一つの中心に集約されると考えますと、肝臓、胆汁、脾臓からの作用もそれと似ていることがわかります。つまり外的印象を集約することと、外界からの素材を変容させることが対応するのです。さらに詳しく見ますと、この考えがさほど奇想天外でもないと思われるでしょう。
▲ 09
外界から入り込んださまざまな感覚印象が、言わば諸器官に集約され、体内で血液中に取り込まれると考えますと、生体上部で血液が受け取るものと、肝臓、胆汁、脾臓等の作用によって受け取るものとを対比できます。外界は諸感覚を取り巻いていますが、その外界が言わば一つの器官に集約され、体内に取り込まれます。このように一方では、感覚を介して外界が生体上部に入り込み血液に働きかけますし、もう一方では、マクロコスモスで生起する出来事を集約した諸器官を介して、何らかのかたちで世界が内側から作用し、血液に働きかけているのです。これを模式的に描いてみましょう。外界が四方八方から感覚に働きかけ、外界の印象がちょうど黒板に書き込まれるように血液に書き込まれると考えますと、これがその一方である人間の上部機構になります。}ここで、世界全体がただ一つの器官に集約されると考えてください。さらに世界の抽出物を作り、内部に取り込み、世界全体がもう一つの側から血液に作用するとしますと、生体の内外を表現した非常に特別な模式図ができます。ですから、脳はある意味で胸・腹部内の内臓器官と対応し、生体内に外界を取り込んでいる、と言えます。

▲ 10
この内側の諸器官は下位の器官と言え、主に栄養プロセスの延長にありますが、神秘的で、こうした一連の諸器官には外界全体が集約されているかのようです。この肝臓、胆汁、脾臓をさらに詳しく観察しますと、血液の流れにまずはじめにかかわるのは脾臓だとわかります。脾臓は非常に変わった器官で、血液を多く含む色の濃い組織があり、その中に白っぽい小顆粒が多数あります。脾臓と血液の関係を観察しますと、脾臓はあたかも血液を濾し取る篩{ふるい}で、それ自身は、マクロコスモスが皺だらけに縮んだ一部であるかのような様相を見せています。血液は、次の段階で肝臓と関連し、さらに肝臓は胆汁を分泌し、胆汁は特別な器官に貯蔵され、食物と一体となり、変容した栄養物と共に血液に入ります。

■ 内臓と惑星の対応

▲ 11
血液は体内でこの三器官の作用を受けますが、それは脾臓、肝臓、胆汁という順以外にはありえません。ただし、胆汁と血液の関係は非常に複雑です。胆汁は栄養物の中に分泌され、それを変容するので、これは特別な器官と見なされます。代々のオカルティストたちは確たる根拠を持ってこれらの諸器官に特定の名前を与えてきました。ここで皆さんにお願いなのですが、とりあえずはこの諸器官の名前が大宇宙と関係する、とだけお考えになって、それ以上のことはお考えにならないでいただきたいのです。なぜこうした名前になったかは、また後で見ていこうと思います。血液にかかわる最初の器官は脾臓ですから…外的に比較するだけで言えますが…太陽系外から近づいて来て最初に出会う惑星が関係するはずです。それゆえ、かつてのオカルティストたちは脾臓をサトゥルヌス、あるいは人間内の土星と呼んだのです。同様に、肝臓は内的な木星、胆汁は内的な火星とされました。これらの名前が選ばれているのは、とりあえずは以下の仮定によるとだけお考えください。つまり、これらの諸器官には知覚で捉えうる外界が集約されていて、言わばそれが内的宇宙となっていますが、それはちょうど外界が諸惑星として現れているのと同じだと仮定するのです。このように、外的な宇宙は感覚で捉えられ、外から血液に働きかけるのと同様に、内的宇宙も血液に作用を及ぼす、と言えるでしょう。

▲ 12
ここで、血液に内的宇宙のように作用する諸器官と、昨日、特別な性質を持つとお話しした脳との間に、決定的な違いがあることに気づきます。つまり、人間は下部器官での出来事をまったく自覚しないのです。外界の印象が人間の意識に達するのとは対照的に、内的宇宙…言い換えると内的惑星ですが…の影響には、まったく気付かないのです。ですから、この内側の宇宙はある意味で無意識の世界と見なすことができ、それは意識的な世界である脳の営みと対極にあります。

■ 器官と人間の構成要素

▲ 13
この意識・無意識である点がどこから来ているのかをより詳しく説明するには、補助的に他の事柄を考えに入れる必要があります。ご存知のように、外的学問によれば、意識のための器官は神経系やそれに付随する器官です。さて、ここでオカルト的考察の基盤としてある事柄を考慮しなくてはなりません。それは今日模式的にお話ししたことと関係しますが、血液系に対する神経系のある種の関係です。それを考えますと、神経系はあらゆるところで血液系と何らかのかたちで関係し、血液が至るところで神経系に迫っていることがわかります。ここで私たちは、外的学問が当然と考えていることを考えに入れなくてはなりません。外的学問にとっては、意識活動や意識的な魂の活動すべてが神経系で制御されている、というのはあたり前です。…初めにおおよそのことをお話ししておいて、後にその根拠を述べようと思いますが…しかしこれではオカルティストの知見までは意識されていません。つまり、神経系とは意識のための基盤に過ぎないのです。と言いますのも、人間の生体には神経系が組み込まれ、これが血液系と接触するか、ないしは最低限何らかの関係を持っています。そしてこれには人間の構成要素としてアストラル体と自我が対応しているのです。外的な観察からもわかりますが…またこれについては多くの講演の中で触れてきました…ある意味で、神経系にはアストラル体が開示していますし、血液には自我が開示しています。自然界の生命を持たない領域を見ますと、そこには岩石や鉱物など、物質体しか持たないものがあります。そこから生体領域に上りますと、そこには生命現象の原因が内在するはずですから、エーテル体あるいは生命体が浸透していると考えなくてはなりません。外的学問はこのエーテル体を単なる思弁的なものと考えていますが、霊学ではそうは考えません。この点は後にまた詳しく見ていきます。霊学で言うエーテル体とは、霊眼によって実際に見えるもの、つまりリアルなものであり、外的な物質体の根底にあるものです。植物を観察するなら、そこにはエーテル体が存在すると考えなくてはなりません。植物から、知覚能力を持つ存在、つまり動物に上っていきますと、そこには植物とは違う知覚や内的体験といった要素があります。動物は単に生命活動を行うだけではなく、植物は行うことができない知覚ができますから、そのための何かが組み込まれていなくてはなりません。生命活動だけでは内面化もできませんし、知覚も点火せず、内的体験も持ち得ません。それらを可能にする、動物が持つその何かとは、アストラル体であるはずです。そして、神経系は植物には存在しませんから、神経系はアストラル体の外的表現、アストラル体の道具であるはずです。アストラル体は神経系の霊的な原像なのです。アストラル体と神経系の関係は、原像とその現れ、原像と似像の関係です。
▲ 14
さて、ここで観察の目を人間に向けてみましょう。…昨日お話しいたしましたように、オカルティズムの中では、さまざまなことを支離滅裂にしてしまう外的学問の見方はよくないと考えていますから…人間の諸器官を観察しようとするなら、常に次のことを念頭に置いていなくてはなりません。つまり、人間の器官系を観察するにあたっては、たとえ動物にそれと類似の器官があっても、それと比較してはいけないのです。人間では、魂の中心とされる自我の外的道具は、血液と見なされました。血液が人間自我の道具であるなら、神経系はアストラル体の道具です。神経系は、生体内で何らかのかたちで血液に関係しますから、それと同じように、表象、感受、知覚などの魂の内的体験は何らかのかたちで自我と関係します。神経系は、人体内で非常に多様に細分化しています。内側の神経束には、聴神経や顔面神経などがつながっています。つまり神経系は生体全体に広がり、非常に多様に細分化し、非常に多様なありようをしています。生体全体を流れる血液に目を移しますと、血液は生体内で一体なるものと言えます…ここでは赤い血液から青い血液への変化は考えないことにします。このように、一体なるものである血液と、細分化したものである神経系とが相対しますが、その関係は、自我と、表象、感受、意志衝動、感情などの分化した魂の営みとが相対する関係と同じです。…まず比較でお話しいたしますが…より細かく比較しますと、原像である自我とアストラル体との関係が、似像であり道具である血液と神経系との関係に非常によく対応していることが、さらに明確になるはずです。さて、血液はどこにあっても血液であるにしろ、生体を流れていく間には変化します。この血液の変化は、さまざまな魂活動に伴う自我の変化と並行していると見なすことができます。私たちの自我もまた一体的なるものです。誕生から死までの営みを考えるなら、五歳のときも六歳のときも、私はここに居て、昨日も今日も、私は同じ私である、と言えるでしょう。しかし、私の中に息づく自我を見ますと、その内実は、量の多寡{たか}はあるにしろ、自我と接触するアストラル体が関係する、表象、感受、感情などの総和です。一年前、私たちの自我は別なものに満たされていましたし、昨日の内容と今日の内容は違います。つまり自我は、魂の内容すべてと接点を持ち、すべてを貫いています。血液が身体全体を流れわたり、さまざまに分化した神経系と触れ合うのと同じように、自我が、表象、感情、意志衝動などの魂の細分化した営みと触れ合っているのです。血液は自我の似像、神経系はアストラル体の似像と見なせますし、これらの超感覚的構成要素は、肉体と結びついたエーテル体よりも高次であるとも見なせます。そして、それが正当であることは、前述の単なる比較観察からもわかります。
▲ 15
ここで思い出していただきたいのですが、血液は今簡単に述べたようなやり方で体内を流れ、一方では外界に自らを差し出し、ちょうど黒板のように外界の印象をそこに受け止め、もう一方では内的世界にも自らを差し出します。そうです、それは自我も同じです。まず、私たちは自我を外に向け、外界から印象を受け取ります。自我の中で千差万別な内容が生じ、自我は外界から来る印象に満たされます。自我が、言わば自分自身にとどまる瞬間も存在します。そのとき自我は、痛み、苦悩、楽しみ、喜び、内的感情などなどに浸りきり、さらには記憶というかたちで、眼前にある外的印象とは別種のものを掘り起こします。このように、自我と血液とは並行しています。つまり、ちょうど黒板のように、自らを、まずは外界に向けて身をさらし、さらに内側の世界にも身をさらしています。このように自我を模式的に示すと、それは血液の模式図と同じになります。まず、外界のリアルな出来事は血液での過程に結びつきました。それと同じように、外的印象から作られる表象、つまり魂的要素は自我と結びつけられました。つまり、魂内の事柄や身体的な営みを、それぞれ自我や血液に結びつけることができるのです。

■ メディテーションでは神経と血液が離れる

▲ 16
この視点から、血液と神経の共同作用や相補的・対立的作用を考えてみましょう。たとえば目を外界に向けますと、色彩、光の印象など外界からの印象が視神経に働きかけます。目を外界に向けているときだけ、外界の印象が視神経、つまりアストラル体の道具に働きかけると言えるでしょう。そして、神経と血液が関連し始めた瞬間に、見る過程にあることが並行します。見る過程に並行して、魂の営みとしての多様な表象が自我と関連し始めるのです。外から神経を介して入り込んでくるものが、神経付近を流れる血液とどのように関係するかを考え、神経と血液の関係を模式的に表現したいと思います。

▲ 17
生体観察から出発して人間本性をオカルト的に捉えるためには、この関連は非常に重要です。したがって、「日常生活では、外界からの作用は、神経を介し、あたかも黒板に書き込まれるように、自我の道具に書き込まれる」と言えます。さてここで、血液と神経を人工的に切り離すと仮定しましょう。人工的に神経の働きを血液から引き離し、相互作用を止めるのです。二つの部分を離して描くと、模式図はこうなります。これなると神経と血液の相互作用は止まります。可能性としては、神経に何の印象もやってこないという状況もあります。また、たとえば神経を切断すれば、こうした状況を作り出せます。何らかの方法で神経を切断し、印象からの作用が神経にまったく届かないようにしますと、神経を介した経験が失われても不思議ではありません。ここで、神経と血液の関係が断たれているにしても、何らかの印象はやってくる、と仮定してみましょう。たとえば神経へ電流刺激を与えると、外的にこれを実験できます。ここでは、こうした神経への外的介入は取り上げません。別な方法で、神経が血流に作用できない状態を作り出すこともできます。特定の表象、特定の理念や知覚や感情によって、人間生体をこうした状態にすることができます…また実際に行われてもいます…。そのための表象は以前に体験し身に付けたものですが、この実験を成功させるには、高度にモラル的、知的な表象が望ましいでしょう。たとえば深い意味を持つ図像を表象します。これを高度に内的に集中して練習しますと、言わばそれで全神経を完全に使い切ってしまい、それによって神経を血流から引き離すことができます。目覚めた意識の元で、通常の外的印象がそのままのかたちで私たちに作用する際には、当然ながら神経と血流がつながっています。しかし、鋭い内的集中によって外的印象から身を離してしまいますと、意識内でのみ生ずるもので魂が満たされます。意識の内容で神経を完全に使い果たし、それによって神経活動を血液活動から引き離します。そうした内的集中によって…それが十分に強いと…神経と血液の間のつながりが分断され、何らかのかたちで神経が、血液から、血液をその道具とする何かから、つまり通常状態の自我体験から、離れるのです。実際にそうなります…実験的にも完全に示すことができます…。高次の世界への導きとなる霊的修行によって、つまり鋭い一点集中によって、神経系全体をしばらくの間、通常状態の血液系や、それが果たす自我にとっての役割から切り離すことができます。するとある決まった結果が生じます。つまり、それまで神経系はその作用を血液という黒板に書き込んでいましたが、今度は受け取った作用を自分自身にはね返し、自分自身の中に受け止め、それを血液に伝えなくなります。純粋に内的な集中によって、言わば血液系を神経系から分離し…像的に言えば…通常は自我に流れ込んでいたものを、神経系へ逆流させるのです。

▲ 18
内的な魂の活動によって実際にこのように働きかけますと、まったく別種の内的体験が生じ、さらには自らが立つ意識の地平が根底から変化する、という非常に特別なことが生じます。通常の状態で神経と血液が相互に作用していますと、外界の印象は自我に結びつきます。通常、人間は自我の中に生きています。しかし、内的集中、魂の内的活動によって神経系を血液系から切り離し、神経系の作用が血液系に及ばないようにしますと、その通常の自我の中では生きなくなります。そのときの人間が自分自身として捉えるものは、以前と同じ意味での《自分》とは呼べません。そのとき人間は、構成要素の一つを完全に意識的に自分から引き離したかのように、自分が自分の血液系から離れたかのように見えます。通常では見えない何か、つまり超感覚的な何かが神経に働きかけますが、それは血液という黒板には写し取られませんし、通常の自我には何の印象ももたらしません。人間は、血液系全体から切り離され、そこから持ち上げられ、言わば生体から遊離したように感じます。このときには、アストラル体の作用領域から自我を意識的に切り離しているのです。それ以前は、神経活動が血液系に写し取られていましたが、この状態ではその活動がはね返されて神経自体に戻されています。このとき人間は別なものの中に生きています。そこでは別な自我の中に居るように感じます。以前は予感に過ぎなかった何か別な〔マクロコスモス的な〕自我の中に生きていると感じます。ある超感覚的世界が立ち上がり、入り込んでくるのを感じます。

▲ 19
外的印象を取り込む神経系と血液との関係をより正確に模式図にしますと、次のようになります。}次の図で、外的印象を取り込む神経系と血液との関係をより正確に示します。
▲ 20
もし外的印象、外的体験が流れ込んでいますと、それは血液系に痕跡を残します。神経系を血液系から引き離しますと、すべてが神経系内ではね返され、それ以前は想像もできなかった一つの世界が言わば神経系の端にまで流れ込んできます。そしてそれは、反動のように感じられます。通常の意識状態では世界が、受け取られ、血液系にまで入り込み、あたかも黒板のようにそこに書き込まれます。それに対しこの状態では、人は印象と共に神経の終末点まで、神経自身に抵抗があるところまでしかいきません。この神経の終点で言わば反転し、自らから離れて超感覚的世界に生きるのです。目で受け止められた色彩印象は視神経に入り込み、血液という黒板に刻印され、「私は赤を見る」と表現されるものを私たちは感じ取ります。しかし、印象と共に私たちが血液にまではいかず、神経の終末点で止まり、そこで反転すると仮定しますと、私たちは基本的に視神経までを生きていることになります。体的表現である血液の前で反転し、私たち自身の外側で生きます。通常なら、《赤》という印象を私たちの内に作り出す光の放射そのものの中に、入り込むことになります。通常ほどには内側に深くは入り込まず、神経の終点で止まることによって、私たちは現実に自分自身から出ていくのです。魂の営みの中には、肉体的人間にとっては外的なものと感じられ、長くは一体化できないものがあります。ところが、そうした魂の営みが活性化するのです。通常の意識は血液にまで達します。しかし、魂を発達させ、神経の終末点で引き返しますと、血液をいわゆる高次の人間から切り離し、私たちが自分自身から離れることで到達しうる地点に達することができます。

▲ 21
ここでの考察では次のことがわかりました。血液系は一種の黒板になぞらえることができ、一方では外からの印象に、もう一方では内側からの印象に自らを差し出していて、この段階ではまだ高次の人間は閉め出されている点、さらにはこの状態から発展し、自分自身から離れ、通常の自我の影響から離れることで、高次の人間と呼ばれるものに到達できる点です。この血液の内的本性をすべて研究するためには、一般的見解をあちこち見るのではなく、人間のリアルな部分、つまり超感覚的な不可視な部分を観察するのが最もよい方法ですし、私たち自身、そうした超感覚的なものへ上ることができるのです。超感覚的人間そのものが血液にまで入り込んでいる様子を観察しますと、一歩進んで次のように考えることができます。人間は外界において生きることができ、外界全体に自らを注ぎ出すことができ、外界の中に解消することができ、そして、言わば自身の内的本性を、言わば外から見る立場をとることができる、と。高次の世界とは、そこに人間が自ら上ることもできますし、それを正確に知ることもできます。それでは、この高次の世界は血液という黒板にどのように書き込まれるのでしょうか。簡単にまとめますと、この問いに答えることで、血流に組み込まれた諸器官の働きも知ることができるのです。このすばらしき器官系と、より高次の世界との関係をじかに観察いたしますと、非常に多様な営みを行うこの血液が人間の中心であることがわかるのです。なぜなら、私たちの課題は、人間を超感覚的なものの開示と捉え、外的人間とは霊的世界にルーツを持つ人間の写し絵と見なせるようになることだからです。それによって、人間生体を、霊性の忠実な写し絵として認識できるのです。

2014年7月26日土曜日

4年生の動物学エポックの指針

(後半に5年生での動物学についても少し触れています。)

■ 4年生という年齢の特徴

4年生以降、対象と向かい合う姿勢が生まれます。そして、世界を新しく体験しなおすことに喜びを感じます。こうした子どもたちの喜びをうまく活かすには、「美」にアピールするとよい。言葉での表現の仕方、イラストやそのスタイルに工夫をし、授業のすべてが、刺激的で、興味深く、冒険的で、感受性に働き、同情を呼びように構成することを理想とする必要があります。 1~3年生では意志 4~5年生では感情 6~8年生では思考 に働きかける、と考えればよいでしょう。 外の世界のさまざまな叡智を美的な組み上げて教材にし、それによって子どもの行為が駆り立てられるとよいでしょう。

■ 人間学そして動物学

前提として、4年生以前に、お話の中などで動物、植物、四季などを簡単に知っている必要があります。 3年生以前には、子どもたちはたくさんのお話を聞いていますが、それらは本来の自然学の授業内容と本質的なところでつながっていなくてはいけません。たとえば、低学年で聞いた「狼」の話が中・高学年で学ぶことと矛盾してしまったら問題です。

■ エポックの順の問題

シュタイナーは取り上げるエポックの順について、いろいろ言っています。それでも、基本的には、人間学→動物学→植物学の順にします。そして、自然認識の鍵になる存在である人間から始めます。鉱物、植物、動物のどれをとっても、高次の意味で人間とのつながりを洞察したときに、その本質を理解できるからです。
たとえばミミズは土を食べ、体内を土が通過する際にそこに含まれるバクテリアを消化吸収し、残りの土は排泄します。つまり、ミミズはほとんど人間の腸と同じ活動をしています。

■ 人間の形姿

人間の外見を見れば、その三層構造は明らかですし、これが中心的な視点になります。そして、数年間をかけて、さまざまな授業でこの視点に肉付けをしていきます。
4年生向けのポイントも、人間の頭部、胴部、四肢を球のメタモルフォーゼとして捉えます。 頭部は太陽的で完全な球 胴部は月のように部分的な球 四肢は星的に放射状 この視点を多角的に捉え、分かり易いかたちで、しかも芸術的に取り組むのが望ましいでしょう。そのためには、実際の人間観察、フォルメン線描、粘土、水彩、線描、さらには適切な作品の朗唱といったことが関係するでしょう。 その際には、身体の三層性に関係した機能も扱います。 頭、胴、四肢で人間は何をするのでしょうか。こうした事柄と、生活体感や芸術感覚を含めて取り組みます。シュタイナーが『教育芸術』の講演で簡単に触れた物を生き生きとした形で授業の中に取り入れることができます。
「人間は頭で何をするか?」と問いますと、子どもはすぐに、「見る」「聴く」「鼻では嗅ぐ」「味わう」「考える」といった具合に答えます。 教師は補足しつつ、まとめます。つまり、 頭部や頭部器官で、人間は外界を知覚し、外界の像を作り、それについて考えます。つまり、人間は外界を自分自身のものにし、内側にすべて持ちます。そして人間は、巨大な外界にあって、唯一人の自分になります。頭は外界に出て行きはしませんが、外界すべてを持って、完全な存在としてそこにあります。 「世界のすべてを持ち、しかも世界から独立した存在を彫刻家が創るとしたら、どんな形が生まれるだろう。それは、世界を丸ごと持っている。どんな形になるだろう。皆もやってみるかい」。 外界から独立し、外界すべてを包括するイメージとして、球ほど適切なものはないでしょう。こうして頭部のフォルムと機能とが対応していることを生徒たちは認識します。
胴部も同様に取り組みます。 胴は、上と後ろでやや閉じ、下と前でやや開いています。(より正確な表現としては、頭部側と背側でやや閉じて、四肢側と腹側でやや開いています。)つまり胴部は一方では球に近く、もう一方では開いた受け皿の形です。それによって球の一部という形態になります。この領域の機能は、呼吸や拍動といったリズムに関連する事柄です。そして、呼吸において顕著ですが、そこでは絶えず内外の相互作用が生じています。吸気、呼気です。 外の世界から何かを取り込み、それを自分自身の一部にし、それを変容させてまた外の世界に返します。つまり、外の大きな世界のほんの一部を自分のものにし、それを自分のものとして終わらせてしまうのではなく、受け取ったものを変容させて返します。胴部にはこうした機能があり、イメージとして具体化しますと、開いた球になります。
四肢は放射状です。「人間の手足は、外の世界から働きかけられ、外に働きかけるから、外とつながるように広がっている」といったイメージで語りますと、子どもはそれをすぐに感じ取ります。 外からの働きかけと、内からの働きかけでは、どちらが先かは検討が必要でしょう。しかし、闇で手を伸ばす場合と明るいところで手を伸ばす場合では、体験はまったく違います。この違いを活き活きと感じ取りますと、外からの流れが重要なことがわかるでしょう。
粘土を使って球形から頭部をつくります。そのときに、粘土を形作る手は、常にその中心に向かっている点に子どもの注意を向けます。 逆に、四肢を伸ばしていくときには、「外のどこか」に向けて粘土を引っ張っていくことにも注意を促します。そうしますと、球では静止、放射状では周囲に向けての動きが感じ取れるはずです。
頭部の球と放射状の四肢は対極ですし、それらがお互いを補っています。そして、これを出発点に子どもは人間生理の三分節、つまり神経活動、呼吸拍動活動、代謝活動の視点を学びます。この視点は、後に動物を学ぶことでより豊かになります。経験的には、きちんとした人間学的導入には、最低3日、場合によっては一週間をかけます。最初の動物はその後に取り上げます。

■ 動物の形姿

動物学エポックについて、シュタイナーは《頭部動物》として一般的なイカ、《胴体動物》として一連の馴染み深い動物、ネズミ、シカ、ヒツジ、ウマを取り上げるよう助言しています。人間学を上述のように行いますと、こうした動物は非常に繋がりよく導入できます。
イカは動物界における最高度の頭部形成を見せています。 そして、これとの関連で貝も扱うことができるでしょう。貝はイカやタコと同じ軟体動物です。ただ、ほとんど完全に固い殻(人間で言えば頭蓋骨)の中に入り込んでしまっているのです。 このように、頭部領域だけでも対極性が見られます。イカについては、『教育芸術』第7講、イカは頭の動物のページを参照のこと。
《胴体動物》についても活き活きと描写します。もちろん、イカを描写するときとは違った口調が必要でしょう。シュタイナーが挙げている動物は一般的で、子ども自身がすでに知っているので、教えやすいでしょう。絵や粘土での練習、作文といったものも活用してください。
イカやネズミ、ヒツジ、シカ等の特別な点を学び、 最後にまた人間に戻ります。 イカは身体全体が頭部的な動物であり、ネズミ等が胴体的動物であることを学びました。 そして、人間は《手》があることで人間である、というイメージを子どもに与えます。 これは、特に4年生にとっての重要なモチーフです。《頭》がいいから人間なのではありません。行為を通して、未来に向かって作用できる唯一の生物であるからこそ人間はこの地球で特別な役割を果たすのです。《手》を使って、地球を傷つけることもできますし、自然をいたわり、育てることもできるのです。6年生を過ぎたら、《頭》の重要性も感じ取る必要がありますが、4年生では意志の領域である《手》がまず重要です。
どの動物も非常に起用で、生きるに必要なものを生まれつきほとんど持っています。 ところが人間は、走るのも、跳ぶのも、聴くのも、よじ登るのも、嗅ぐのも動物より劣っています。 しかし、一つだけ人間には可能性が残されていて、それはまた人間だけで可能です。 生きること束縛されず、特に腕を、善きもの美しきものに向けて使うことができるのです。他の人や痛めつけられた地球を救うことができます。美しさに向けて絵を描くことも音楽を奏でることもできます。尊敬に値するものへの敬意を行動として示すことができます。手足によって人間は自由な存在になることができます。
これがこのエポックの終着点です。子どもは、9歳から10歳という人生の過渡期に自身の全生涯をこのエポックの中で展望し、決定的な力を受け取ります。

■ 動物エポックの持つ他の意味

動物学エポックは4年生で中心的な意味を持ちます。また、新しい考察方法も学びます。この考察方法は大人にとっても必ずしも慣れ親しんだものではありませんので、父母会でこのエポックについて、基礎から話しますし、これは決して手を抜かない方がよいでしょう。

■ 5年生での動物学

すべての自然学授業において方法論的に中心になるのは、「人間から出発する」という点です。人間の理解が自然の理解につながるのです。しかしこれは、擬人主義ではありません。そうではなく、自然学の授業における方法論に心理学的、認識論的に明晰な基盤を与えるものです。
4年生で人間の形態学側面から、つまり形を見れば明らかな三層構造を置き、これが動物学の基礎になりました。5年生では人間の機能的な面における三層性を見ることができます。
  • 感覚・神経組織
  • リズム的組織
  • 代謝・四肢組織
をエポックの最初に置くことができます。 人間の魂の営みである思考、感情、意志を取り上げ、それを内的に見て明確にするとよいでしょう。 人間を見ることで、この三層性に対応するワシ、ライオン、ウシの3動物の理解につながります。 ワシとは鋭い視力までも含めて空気と親類で、高みにおける生活に完全に適応しています。 ライオンは特に血液循環と呼吸の比率に裏打ちされた形成になっています。 そして、ウシでは代謝系が主たる器官になっています。
エポックの流れの中でこれらの動物が取り上げた動物のクライマックスになるようにするとよいでしょう。つまり、ワシが鳥全体のクライマックスになります。 取り上げる動物を絞る必要がありますが、そのための基準としてさらなる三層性が有効でしょう。フクロウは鳥の中でも特に目覚めた意識を持つ動物であり、歌鳥は巣づくりや歌に現れるように内面が際だっています。もう一つは水鳥や家禽で、代謝的要素が強く表れています。
ライオンを含む動物群でも三層性は意味があります。クマはライオンに比べ四肢や消化器官がよく発達しています。また、トラ、ヒョウ、チータ、ヤマネコといったネコ科、さらにはオオカミ、キツネ、特に狩の方法や群れでのコミュニケーションとかに見られる賢さ(頭部)です。
ウシの関係では動物の幅が広く、上述のようなはっきりしたタイプがはっきりしません。家畜種ばかりです。 それでも、バイソン、ヨーロッパ・バイソン、チベット・ヤクは牡牛的な要素が根源的な形で現れた例でしょう。 動物の様子を語っていくと、このグループ内での秩序が見えてくるでしょう。 重さの力や素材と密接に関わる動物群、森の環境に対し特別な繊細さを持っている動物群、見渡しとか目覚めた意識に対し特異な関係を持つ動物群です。 第一のグループに属するものとしては、重さに対し特別な関係を持つ山羊、アルプス・カモシカ、自身の代謝系に深く入り込んでいるカバ、ブタがあります。周囲に対し繊細なつながりを見せるのはシカやカモシカです。そして、第三のグループでは頚部の形成が主となったキリンを挙げられます。
こうしてたくさんの動物形態を見渡した後に、再び人間に目を向け、機能的な生理学から人間の魂的活動を理解する方に向かいます。そして、エポックの最後には、三層性からより高次のものが発展している。人間はワシ的ライオン的ウシ的なものを調和させている。古い時代にはある種のイマジネーションがあって、それを絵で表現しています。それがワシ、ライオン、ウシ、天使(人間)という『四動物』です。 これらは、四つの福音書のシンボルでもあります。つまり、ワシ=ヨハネ、ライオン=マルコ、ウシ=ルカ、人間=マタイです。

■ 種の保存について

『演習とカリキュラム』第9講(高橋巖訳、P192、5行)でシュタイナーは「ために働くという表現は避けてください」と述べています。ですから、「動物の形態が用途と強く結びついている」という表現の方が適切です。「有用性」という語には価値判断の要素が入り込むのに対し、用途と強く結びついている、というのは事実を客観的に表現しているからです。たとえば、ウマの蹄は大地を強く蹴ることと結びついている、と表現できるはずです。
また、個体保存、種保存の概念も容易にダーウィニズム的解釈につながるので、避けた方がよいと思います。 その生物が生き、またその種が生き延びているのですから、何らかの形で個体保存、種保存はできているのです。ですから、動物のある性質をそこに結びつけるのは容易ですが、それは実のあることは何も言っていないのです。 一例を挙げます。 タラはタラコとしてたくさんの卵を産みますが、種が安定的に保存されるためには、その中から2個体が生き延びれはよいのです。ですから、こうした動物を「多産多死タイプ」と言っています。逆に、ゾウなどは一生の間に産む子どもの数は少ないですが、上手に育て、統計的には1対の雄雌から2頭のゾウが残ります。昆虫でもアフリカの風土病である眠り病を媒介することで有名なツェツェバエは少産です(データを見失いました)。 つまり、多産多死でも少産少死でも種は生き残るのですから、「タラはたくさん卵を産むから種が保存される」という論法は成り立ちません。むしろ、多産多死の動物は環境との関係が密であり、少産少死の動物は周囲の世界から自立していると見て、そこからその動物のキャラクターを読み取る方がゲーテ自然科学的です。
現代においては、子どもはいずれどこかでこのダーウィン的思考法と出会うでしょう。理想としては、適者生存理論の薄っぺらさを感じとれるくらいに、動物エポックの中で、動物の本質と深く出会っていることが望ましいでしょう。


秘されたる人体生理、第一講

秘されたる人体生理、第一講

1911年3月20日

心構え「畏敬の念を持って自らを認識する」

▲ 01
この連続講演は、プラハの友人たちが発起人となって開催してくださいました。そのテーマは人間に深く関係し、人間本性についてより詳しく考察し、肉体の活動そのものを見ていくことです。このテーマは人間そのものですから、ある意味では非常に身近ですが、同時に、非常に近寄り難くもある、と言っても差し支えないと思います。あらゆる時代を通して、神秘主義的・オカルト的な高みからは、こう表現して差し支えないと思いますが、《汝自身を認識せよ》という要求が課せられてきました。このような要求があることだけを見ましても、現実に即した真なる自己認識は原理的に困難なことがわかります。つまり、個々人における自己認識が困難であるというだけでなく、一般としての人間本性を認識すること自体も困難なのです。…この《汝自身を認識せよ》という永遠の要求からもわかりますように…人間にとって、自己認識の道は本質的に遠く、長い道のりなのです。それゆえ、今日からの連続講演は、必要とされる予備知識も多く、あまり身近ではないかもしれません。私自身、長時間熟考いたしましたし、その成果が出ていなければ、このテーマを取り上げようとは思いませんでした。さて、このテーマで真実に向かおうとするなら、通常の学問ではしばしば無視されている事柄が不可欠になります。しかし、それ以上に必要なのは、人間の本性に対する…よく聞いてください、個々人の本性に対してではありませんし、ましてや私たちの一人ひとりに対してではありません…人間本性一般に対する畏敬の念なのです。そして、人間本性の真の意味に対する畏敬の念こそが、今日からの考察の基礎条件になっているとお考えください。
▲ 02
さて、人間本性に対し真の畏敬の念を持つには、どうしたらよいのでしょうか。まず対象は、自分たちでも別な人々でもどちらでもかまいませんし、その人の生活態度などもまったく問題にしません。むしろ、より高い見方に上る必要があるのです。つまり「人間とは、自分自身のために長い進化を経てそこにいるのではなく、霊性を開示すべく存在している。そしてその霊性は神的・霊的世界全体を包括しているので、人間とは宇宙神性、宇宙霊性の開示である」、と見るのです。森羅万象が神的・霊的諸力の表現であると認識するなら、神的・霊的なものそれ自身に畏敬の念を感じるだけでなく、その開示に対しても畏敬の念を感じることができるのです。より完全な自己認識を求めるのは人間の常ですが、この点に関しては以下の点をはっきり自覚しておいた方がよいでしょう。つまり自己認識とは、単なる好奇心や知的欲求からくるものではなく、人間における宇宙霊の開示を、常により完全に認識しようとする姿勢であり、そして、その姿勢を自らの義務と感じる必要があるのです。「認識が可能であるにもかかわらず無知にとどまるなら、それは人間の神的定めに対する冒とくである」とはそのような意味なのです。と言いますのも、私たちの内には、さらなる知へと向かう力が宇宙霊によって与えられていますから、認識を怠るならば…これは本来許されないことですが…宇宙霊からの力を表現していないことになります。つまりは宇宙霊の開示であることを自ら拒絶し、宇宙霊の開示からはどんどん遠ざかり、宇宙霊の戯画、歪画になっていきます。認識を求めることは、宇宙霊のより忠実な像となることであり、私たちの義務なのです。《宇宙霊の像となる》という言葉が一つの意味を持つとき、つまりこの言葉を「私たちは認識しなくてはならない、認識することは私たちの義務である」という意味と結びつけるときにはじめて、私たちは、人間本性に対する畏敬の念という要求を正しく感じ取れるのです。人間の生命活動や本性をオカルト的に観ようとするなら、人間本性に対する畏敬の念で自分を満たし尽くす必要があります。なぜなら、それによってのみ、霊的な目、霊的な耳、そしてあらゆる霊的観照能力、つまり人間本性の霊的基盤にまで達するための諸力が目覚めうるからです。人間本性に対する最高度の畏敬の念を持たない者、霊性の写し絵である人間本性に対する畏敬の念で自らの魂の最奥までを満たし尽くすことのできない者には、たとえ何らかの霊的秘密を見る目が開いたとしても、人間だけが持つ奥深い本性そのものを見る目は開かれません。周囲に存在する何らかのものを霊的に見ることができる見者は多いかもしれません。しかし、こうした畏敬の念を持ちませんと、人間本性の深い部分に入り込みそれを見る能力は得られませんし、人間本性についての正しいことは何もわからず、何も語ることができないでしょう。
▲ 03
人間の生命活動についての学問は《生理学》と呼ばれます。この学問を外的学問の言う生理学と同じだと思わないでください。これは霊眼に映る生理学で、人間の外的形姿、諸器官のフォルムや生命プロセスを、常にそれらの基礎にある霊的・超感覚的なものとの関係で見ていきます。これは《オカルト生理学》と呼ぶことができると思いますが、こう呼ぶからと言って、事実とかけ離れた話をしようなどという意図はありません。また、これまでこの分野にあまり親しんでこなかった人にとっては耳慣れない用語も出てきますので、そのときには随時、説明を加えたいと思います。この連続講演は、他の連続講演にもまして一つの全体をなしていまして、とりあえずは多くのことを脈絡を欠いたままにお話ししなくてはなりません。ですから、個々の講演、特に最初の数講演での内容を、全体との関連抜きで判断してしまうと問題が生じかねないことを強調しておきます。つまり、最後の講演を聴き終えたときに初めて、皆さんは内容に対して判断を下すことができます。と申しますのも、ここでは外的な生理学とはまったく異なったやり方をとるからです。はじめに語られることが最後に実証されるのです。言わば、終わりに向かって直線的に進むのではなく、円周をたどり、最後に出発点に戻ることになります。

二重性

▲ 04
ここで取り上げるのは、人間についての考察です。そこでまず目に付くのは、人間の外的なフォルムです。皆さんご承知のように、人間については素人的表面的観察から学問的研究まで、非常に多くの知見が明らかになっています。ですから人間について、外的観察や経験によってすでに得られている知見に加えて、素人的であっても自己観察や他者観察から得られる知見も取り入れなくてはなりません。さらには人間を、驚くべき方法、驚くべき装置で研究した学問的成果も加えなくてはなりません。
▲ 05
素人的視点や一般書の内容から判断しても、人間形姿には二重性が見られる、という言葉に驚くことはないでしょう。人間本性の深みを認識するためには、人間の外的形姿だけを取り出しても、そこには基本的に二重性が見られることを忘れてはいけません。
▲ 06
人間では、一方に生体内に完全に閉じ込められ、できうる限り外界から守られている諸器官がはっきりと区別されます。つまり、脳や脊髄などです。人間においては、脳・脊髄などは骨格に囲まれ安全に保護されています。これら二つの領域のものは次の模式図で表すことができます。aは重なり合った椎骨(脊椎)で、これに沿って脊髄が走っていますし、bは頭蓋骨で、この重なった椎骨と頭蓋骨からなる閉じた管の中に脳や脊髄などの器官が封じ込まれています。 この領域に属するものは、基本的にすべてが閉ざされた一つの全体をなしていて、そこから大小の繊維状ないしは帯状のものが出ていて、それが頸部、体幹、四肢といった他の部分に…これは生理学的にさまざまな仕方で整理することができますが…連絡しています。このことは人間を観察したら否が応にも気付きます。骨格に覆われた内部とこれらの器官がつながるために、まず保護の覆いを通り抜けなくてはなりません。ですから、人間を単に表面的に観察するだけでも、そこには二重性が見られ、一方は今述べた骨格による固いしっかりとした保護の覆いの中にあり、もう一方はその外にある、と言うことができます。

▲ 07
さて、非常に表面的にでも、まずこの骨の内側にあるものを見てみましょう。ここでも次の二つは簡単に区別がつきます。一つは、頭蓋骨の中に収まった脳という大きな塊、もう一つは、脳から伸びる一種の繊維状の突起物として、その下に柄のように、あるいはロープのようにぶら下がり、脳と有機的につながり、脊椎管の中に収まっている脊髄です。物事の本質という深みを目指すオカルト的学問では、この二つの組織を区別するにあたって、通常の学問では注目されない事実に注意を向けなくてはなりません。つまり、オカルト的立場からの人間観察では、すべてが人間にのみあてはまる点です。個々の器官の深い基盤にまで踏み込んだ瞬間に…この連続講演の先へ進めばおわかりになりますが…動物と人間に相応の器官があるにしても、深い意味においてはその役割はまったく違いうることがわかります。通常の外的学問的に考える人は、「今あなたが言ったことは、哺乳類についてもあてはまる」と言うでしょう。しかし、一歩踏み込んで見るなら、動物における諸器官の意味を人間におけるそれと同列に語ることはできません。ここでオカルト的学問が行うべきは、まず動物をそのものとして観察し、その後で、それが人間の脳や脊髄で観察されることと一致するかを吟味することです。人間に近い動物は脳や脊髄を持ちますが、だからと言ってこれらの器官の役割が人間のそれと同じであることの証明にはなりません。例えて言うなら、一つのナイフで仔牛を切り分けたり髭を剃ったりできる、というのと同じです。どちらもナイフですから、ナイフという点だけを問題にすると、どちらも同じだろうと考えるのです。人間にも動物にも脳や脊髄という同じ器官が見られますから、それゆえに役割も同じだと考える人は、これと同じことをしているのです。しかしこれは正しくありません。外的学問ではこうしたことがあたり前のように通用していますが、これである種の誤謬に陥っています。これを修正することができるのは、これらの外的学問が、諸存在の特質について超感覚的探求が語る深い言葉に少しずつでも耳を貸すようになったときです。
▲ 08
百年以上前の学者たちによる脊髄や脳についての真摯なる観察結果は、現代の私たちが観察しても、その正当性を確認できます。観察結果から、脳は脊髄が変形したものらしい、とかなり正確に指摘しています。このことは、ゲーテ、オーケンなどの自然科学者が、頭蓋骨と椎骨が形態的に似ていると述べていたことを思い起こしてくだされば、納得しやすいでしょう。諸器官の形態的類似性に目を向けたのはゲーテでした。彼は研究の非常に初期に、椎骨を変形して頭部を構成する骨を導き出せることを見て取りました。つまり、骨の一部を平らにしたり、逆に強調したりすることで、椎骨を頭蓋骨に変形するのです。たとえば、椎骨を四方に膨らませ極端に扁平化させると徐々に頭蓋骨の形を導き出せるのです。つまり、ある意味で頭蓋骨は変形した椎骨とすることができます。脳を収納する頭蓋骨は変形した椎骨と見なすことができますが、それと同じように、脊髄の塊の一部を強調し、分化、複雑化させますと、相応の変形を経て脊髄から脳ができあがります。植物ははじめに緑の葉を出し、その葉を変形し分化させて色鮮やかな花びらを作り出しますから、花びらは分化した葉だと言えますが、それと同じように、フォルムの変形や分化、さらには段階を高めることによって、脊髄から脳を形成できるのです。私たちの脳とは、分化した脊髄と見なすことができます。

発達が進んだ器官、発達初期の器官

▲ 09
さて、この視点からこの二つの器官を見てみましょう。自然に考えて、どちらが発達初期の器官であるはずでしょうか。この点はどうしても考えておく必要があります。やはりそれは、後から導き出されたフォルムではなく、オリジナルのフォルムの方でしょう。つまり、脊髄は発達の第一段階で、脳は第二段階にあります。脳は脊髄の段階を経て、それが変容したものであり、より以前から存在する器官であるはずです。言い換えますと、脳と脊髄の二重性を考えるにあたって、脳の発達は二段階になっていて、まず第一段階で原器が脊髄になり、第二段階でそれが変形して脳になったのです。それゆえ、脳を形成した諸力はより以前からある、と言うことができるのです。現在の脊髄は、言わば二回目の出発から形成されています。そしてそれは次の脳段階に進むことはなく、その発達段階にとどまっています。これを教科書的に正確に表現しますと、「脊髄神経系においては脊髄第一段階秩序が見られ、脳では脊髄第二段階秩序が見られる。後者はかつての脊髄が脳へと変形したものである」、となります。
▲ 10
ここまでまず、骨格に保護されたこれらの器官を適切に捉えるにあたってどうしても必要な事柄を非常に正確に見てまいりました。ここで私たちをオカルト領域へと導く別な事柄も考えてみましょう。こう問うことができるでしょう。ある器官原器で再構築が行われるとき、その第一段階から第二段階への変化は前進的か後退的か、と。言い換えますと、より高次な完成された段階に導くプロセスなのか、それとも退化的で死に向かうプロセスなのか、です。そこでたとえば、脊髄を観察してみましょう。現状の脊髄は脳には至っていませんから、比較的発達が遅れた、生まれて間もない器官と見なせるでしょう。しかし、この脊髄の見方は二通りあります。この器官も脳になる諸力を内包している、と見ることもできますし、もしそうならこれは前進的発達です。もう一つは、この器官には第二段階へと至る原器はなく、荒廃へと、つまり第一段階を暗示はするものの、第二段階には進み得ないと見ることもできます。現在の脳の基盤となったのはかつて脊髄で、それが実際に脳となったのですから、当時の脊髄には明らかに前進的諸力がありました。この点について現在の脊髄をオカルト的観察法で観察しますと、そこには前進的に発達する原器は存在せず、この段階で発達が終わるように定められていることがわかります。…少々グロテスクな表現ですが、現状の細い紐状の脊髄が膨らんで現在の脳のようになることはない、と思ってよいのです。このように言えるオカルト的根拠は後で見ていきます。人間と動物の脊髄を純粋にフォルムだけで比較してみましても、今述べたことの外的な指針が得られます。たとえば蛇を見ますと、頭部の後方には、中に脊髄が通った環状の背骨が無数につながっています。背骨が変化もなく無限に続くかのように見えるのと同様に、脊髄もただ続いているように見えます。人間の脊髄では、脳と連絡した部分から下に向かって次第に消えていきます。実際に、下にいくにしたがって細くなり、上方で見られた明確な形が次第に不明瞭になっていきます。こうした外的観察だけでも、蛇では後ろに向かってどこまでも続いていくのに対し、人間では終点があり、ある意味で急速に退行している点に気付きます。これがまず外的な比較観察法です。これがオカルト的観察ではどう見えるかは、また後に検討しましょう。
▲ 11
これらをまとめますと、頭蓋骨には、前進的形成によって脳にまで、つまり発達の第二段階にまで到達した脊髄が封じ込まれている、と言っても差し支えないでしょう。そして、そうした脳をもう一度形成しようとする試みとも言えるものが脊髄の中にありますが、この試みは現段階ですでに成就しないことがわかっています。

脳・脊髄の役割と思考・反射・夢

▲ 12
ここで次に、脳や脊髄が果たすとされる役割に移りたいと思いますが、このことは素人でもよく知っています。いわゆる高次の魂的活動が脳によってコントロールされ、そのための道具が脳であることは、すでによく知られています。また、意識されにくい魂的活動、つまり、途中に考えが入り込む余地などなく、外界の刺激から直接に行為が喚起されるあの魂的活動が、脊髄などの神経の支配を受けていることも知られています。たとえば、虫に手を刺されますととっさに手を引っ込めますが、この場合、刺されたことと手を引っ込めることの間にしっかり考えてなどいません。この魂的活動の道具は、外的学問が正しく認識しているように、脊髄です。外界からの印象と最終的な行為の間に十分な熟考を伴う魂的活動は、これとは異なり、脳がそのための器官です。わかりやすい例として、芸術家を考えてみてください。自然を観察し、感覚を活性化し、無数の印象を集め、長い時間をかけてこの印象を魂の中で加工します。外界の印象から始まって、長い魂的活動を経て、最後に、それはしばしば数年後ですが、実際に手を動かし形にするのです。この場合、外界の印象と最終産物の間にたくさんの魂的活動があります。これは学者の場合も同じですし、赤を見て雄牛のごとくに突進するのでなく、自分が行わんとする行為について深く考えるなら、誰にでもあてはまります。反射運動を除く熟考を伴う行為の場合には、いかなるときも脳がその道具であると言えます。
▲ 13
このことをさらに詳しく掘り下げますと、脳を道具として使う魂的活動にはどのようなものがあるだろうか、という問いが生まれます。これには二通りあります。もう一つは後に述べますが、まずは昼間の覚醒時の活動です。このとき私たちは何をしているでしょうか。感覚を通して外界の印象を収集し、脳でそれについて理性的に考え、それらを加工しています。感覚を介して外界の印象が私たちの中に入り込み、脳内の特定のプロセスを活性化します。もし脳内の活動を覗き見ることができたら、外界の印象が注ぎ込まれることで脳が活性化し、熟慮の中で取り込まれた印象が次第に変容していく様子が見られるはずです。しかし、こうした印象の一部には、熟慮からの影響をほとんど受けないものが見られるはずです。そうした印象は、肉体的道具として脊髄を用いて行為に移されます。
▲ 14
さてここで、現状の人間が生涯交互に繰り返す二つの状態、つまり昼の覚醒状態と無意識の睡眠状態に目を向けなくてはなりません。これまでの講演でよくご存知だと思いますが、昼の間、人間の四つの構成体は一体ですが、睡眠中はアストラル体と自我が肉体・エーテル体から離れて出ています。しかしもう一つ、昼の覚醒状態と夜の無意識な睡眠状態の中間状態、両者が混ざり合った状態もご存知なはずです。つまり、夢の営みです。ここでとりあえずは、誰もが知っている夢の営み以上のことは取り上げません。ところが注目すべきことに、夢の営みは脊髄と結びついた魂の活動と似ているのです。表象は熟慮から生じますし、無意識にハエを追うときの手の動きは自分では止められない一種の直接的防御運動ですが、夢に現れる像は自分では内容を選べず、ある種の必然性があり、表象よりはハエを追う動きに似ています。ただ夢ではハエを追うときとは異なり、実際に身体を動かすところまでには至りませんが、自分では内容を選べない不可避的なものとしてはそれと同じで、直接的に像が魂に現れます。覚醒時に手に止まったハエを追い払うのに熟慮が入り込まないのと同じように、泡沫{うたかた}の夢の像にも熟慮が入り込むことはありません。ですから、覚醒時の人間を、内部で起きている現象は無視し外側からだけ観察しますと、しぐさや表情など、外界からの印象をきっかけに熟慮が挟まれない反射運動が見られる、と言えるでしょう。そしてまた、これらの行動には恣意を差し挟む余地がなく不可避的である、と。それに対し、夢状態の人間では内部で一連の像が活動していますが、これは行動にまでは移行せず、像の状態に止まっています。覚醒時には熟慮が挟まれない行為があり、夢ではそれと同じように、錯綜した夢表象という像の世界が人間の中に現れます。
▲ 15
さて話を脳に戻しましょう。脳が夢的意識の道具であるとするなら、これはどう考えなくてはならないでしょうか。無意識反射運動には脊髄が関係しましたが、脳内に脊髄と似た振る舞いをする何かが存在すると考えざるを得ないでしょう。私たちは脳を道具に覚醒した意識を持ち、その意識の元でよく考え、表象を作り上げます。ですから、夢表象の基盤として、隠れた脊髄とも言うべきものが脳内に押し込まれているはずです。そしてその働きで行為には至らず像に止めているはずなのです。たとえ熟慮抜きでも、脊髄では行為にまで至りますが、脳におけるこの場合は像で止まります。言わば途中で止まっているのです。脳の中には、脊髄的特徴を持ったものが、無意識な魂的活動の隠れた基盤として押し込められているのです。やや風変わりなかたちではありますが、夢の世界はある隠されたものを暗示しているとは言えないでしょうか。つまり、以前に脳の原器として存在したあの古い脊髄を暗示している可能性はないでしょうか。脳は昼間の覚醒時に使われる道具として形づくられてきましたし、頭蓋骨から取り出したときの姿はよく知られています。しかし、覚醒時の意識がなくなったときに活動を始める何かがその中に閉じ込められているはずです。オカルト的に観察をしますと、夢の営みの道具である隠された脊髄が脳の中にあることが、実際にわかります。

▲ 16
模式的に示すとこのようになるでしょう(図の斜線部分)。脳は覚醒時の表象活動のためにありますが、その脳の中に、外側からは見ることのできない隠された古い脊髄が何らかのかたちで隠し込まれているのです。とりあえずは仮説的なお話ですが、この隠された脊髄は、人が眠り、夢を見ているときに活動し、またそれは脊髄のように活動します。つまり本人が恣意的に変えることができないかたちで活動しています。しかし、脳の中に封じ込められていますから、行為にまでは至らずに、単なる像、像的行為に止まります。こんな言い方ができるのは、夢において私たちは像として行為しているからです。夢の営みはこのように特異で風変わりで混乱していますが、それは、覚醒時の営みの道具である脳の奥に、ある器官が隠されていることを暗示してはいないでしょうか。そしておそらくは、その隠れた器官は脳の原器で、そこから脳が発達してきたことを暗示してはいないでしょうか。新しい形成物、つまり現在の脳が沈黙するとき、かつての脳の様子が現れます。つまり、この古い脊髄がヴェールを脱ぎ去り自らの能力を示すのです。しかしこの古い脊髄は閉じ込められていますから、行為にまでは至らず単なる像に止まります。
▲ 17
私たちの営みを観察するだけで、このように脳は二段階に分かれます。夢を見ることができる、という事実から、脳が目覚めた昼の営みの道具にまで発達する以前には、現在の脊髄の段階にあり、そこから一通りの発展を経てきたことがわかります。しかし、目覚めた昼の営みが沈黙しますと、古い器官が表に現れてくるのです。

脳と脊髄のオーラ

▲ 18
ここまでのお話だけでも典型とも言うべき事柄がわかりましたし、それは形態を外的に観察するだけでも証明できました。つまり、目覚めた昼の営みと夢の関係は、完成した脳と脊髄との関係と同じなのです。ここで一歩進めて見者の観察に入りますと、形態観察にさらに知見を加えることができます。人間本性の本質的な観察にとってオカルト的観照や霊眼はどのように役立ちうるのか、また頭蓋骨や脊椎内に閉じ込められた器官を観照するにはどのようなオカルト的研究がその基礎にあるのか、の二点については、また後で見ていきたいと思います。
▲ 19
目に見える身体は人間本性全体の一部に過ぎない、ということは以前にお話しいたしました。霊眼が開いたその瞬間に、人は次のような体験をします。つまり、肉体が超感覚的有機体の中に、大ざっぱに言ってしまえば人間のオーラと呼ばれるものの中に組み込まれ、閉じ込められているのを見るのです。ここではまずそれを一つの事実としてご紹介し、その正当性についてはまた後に触れようと思います。肉体を覆うこのオーラは、現れては消えるさまざまな色彩の構成体として見者の目に映ります。しかし、このオーラを描けると思ってはいけません。オーラの色は絶えず運動し、常に生成消滅していますから、これを普通の色彩では再現できません。雷も描いてしまったら固まった形になり、正確ではありませんが、オーラを描こうとした絵もすべてそれと同じで、どれも近似的に正しいだけです。雷を正確に描くことはできませんが、オーラを正確に描くことはそれ以上に不可能です。なぜなら、オーラの色彩は非常に不安定で絶えず生成消滅しているからです。
▲ 20
さて、オーラ的色彩は不思議な仕方で人間全体をさまざまに覆っています。そして、頭蓋骨と背骨を後ろから観察したときに見られるオーラ的像は興味深いものです。頭蓋骨と背骨、つまり脳や脊髄が埋まっている部分を後ろから見たときのオーラは、脊髄下部でははっきりとした基本色がイメージできます。それは緑なのです。頭の上部、つまり脳の領域の色もはっきりわかりますが、この種の色彩は他の身体部分ではまったく見られません。それは一種の青紫です。帽子かヘルメットのようにこの色が頭蓋骨上を後ろから前へと覆っています。
▲ 21

青紫の下側には、通常、あるニュアンスの色が見られますが、それをイメージしていただくには、咲いたばかりの桃の花を思い浮かべていただければよいでしょう。この色と背骨の下方の緑がかった色合いの中間部、つまり背骨の中間部分には別な色が現れますが、この色彩は感覚界では見られず、形容し難く、特定できない色合いです。緑色の上に続く色は、緑、青、黄でもなく、この三つが混ざったような色です。このように、脳と脊椎末端の中間部の色は、物質的感覚的世界では現れません。その色を言い表すのは難しいのですが、それでも上方の言わば膨らんだ脊髄の部分は青紫で、背骨の一番下にははっきりと緑系の色彩が見られることだけは確かです。

▲ 22
今日は、まず人間形姿を純粋に外的に観察し、そこに霊能的研究によってのみ知りうる諸事実を結びつけました。明日は、人間身体の別な部分を、二重性というすでにご紹介した視点で観察し、人間構成体全体の様子がどのようになっているかを見ていきたいと思います。

2014年7月22日火曜日

シダ、トクサ、ヒカゲノカズラの関係性

■進化の一側面

動物学を取り上げるにあたっての指針として、「それぞれの動物が、人間の何らかの部分が強調された存在」として取り上げるよう、シュタイナーはアドヴァイスしています。
たとえば、ワシは頭部、ライオンは胸部リズム系、ウシは代謝系がそれぞれ発達していますし、それが前面に出るように授業を進めます。

これと似た現象は、別な局面でも現れます。

■背骨の特殊化

背骨に関連して、頭、胴部、尾部がそれぞれ発達した動物グループがあります。
多くの骨が癒着して一つのまとまりになろうとする傾向は、カメに見られます。
胴体部分の背骨が発達し、身体のほとんどが胴で、たとえば飲み込んだ卵を割る突起を背骨に持つ動物が居ます。ヘビです。
非常に特徴的な尾を持つ動物グループが居ます。あるものは尾に養分を蓄え、あるものは身体の60%が尾で、あるものは逃走の際に尾を切り離します。トカゲのグループです。
つまり、現生の爬虫類では、頭部動物のカメ、胴部動物のヘビ、尾部動物のトカゲ、そして全体のバランスがよく、脚の発達したワニの四つのグループが知られています。

■高等植物の葉、茎、根をそれぞれ強調した植物

5年生の植物学エポックでは、高等植物を観察して、茎、葉、根、花といった形態を学んだ後に、その観点からキノコ、海草、コケ、シダなどを学びます。そのシダ植物類をここで取り上げます。
シダ植物には大きく分けて3つのグループがあります。

  • シダ類
  • トクサ、スギナ類
  • ヒカゲノカズラ、クラマゴケ類
シダ植物では葉が非常に発達していることは一目瞭然です。高等植物では茎の先端にある成長点が、シダ植物では葉の先にあります。また、地上部では茎もありません。
 

次に、トクサ類も特徴的で、これは茎だけです。スギナでは分岐はありますが、節の部分で分岐し、分岐した後も「細い茎」でしかありません。

クラマゴケでは節から分岐はしているものの、分岐はどこからでもできます。

高等植物で根、茎、葉、の分岐の仕方を見ますと、それぞれに特長があります。
  • 根・・・どこでも分岐する
  • 茎・・・節で分岐する
  • 葉・・・規則正しく小葉に分岐する
また、機会があったら、スギナ、クラマゴケ、ヒカゲノカズラを引き抜いてみると興味深いでしょう。スギナは節から切れてしまいます。ところが、クラマゴケやヒカゲノカズラは太さの割には植物が丈夫です。これは、丈夫な根の様子と似ています。
高等植物では一つの植物でバランスを保って持っている根・茎・葉が、シダ植物では3つのグループに分かれて発達しています。

ヒカゲノカズラの図版は福岡教育大学の福原達人先生に使用許可をいただきました。 トクサ全体の図は奈良教育大の植物図鑑より、トクサ胞子嚢はWikipediaより借用いたしました。

2014年7月19日土曜日

『教育芸術』第7講、イカは頭の動物

■人間は動物界の集約図


4年生の動物学エポックでは、さまざまな動物を《人間の一部が強調されたもの》として取り上げます。もちろん、このテーゼを直接に教えるのではなく、様々な例で子どもたちが自然に納得できるように導きます。
たとえば、人間の頭部、胸部、代謝系がそれぞれ強調された動物は、ワシ、ライオン、ウシになります。また、ミミズは腸と同じ役割を果たしていますし、クモなども人間の特定の器官と関連しています。

■イカは頭だけの動物?

さてこうした関連でシュタイナーは、最初の動物学エポックで、イカは身体全部が頭で、それが海を泳いでいる、と教えるように、『教育芸術、教授法第7講』の中で例として取り上げています。
しかし、通常の動物学では、「イカやタコは軟体動物の頭足類と呼ばれ、頭から直接に脚が生えている変った動物」と学んでいますと、「イカは頭の動物」というシュタイナーの言葉はにわかには信じられませんし、私も違和感を感じながら、確信も持てずに何年もの月日を送りました。
ところがこの問題を、現象学的に真っ向から取り組んで、解決したのが1995年に出版された『Wesensbilder der Tiere(諸動物の本質的な像)』という本でした。これを見たあるシュタイナー学校の先生が思わず、「ようやくイカについてわかった」とつぶやいたそうです。

■イカの形態を囚われなく観ると

イカには脚が10本あり、そのすぐ近くには大きな眼があり、眼の間には脳があります。その脳の後ろには、消化器を中心とする内臓が詰まった胴体があります。ですので、まさに頭から脚が出た「頭足類」で、イカの専門家である奥谷喬司氏も「神様の作品のうちで最も奇抜なデザイン」と言っています。
しかし、まずは、何の先入観もなしにイカの姿をよく見なくてはいけません。
奥谷喬司著『イカはしゃべるし空も飛ぶ』より、許可を得て転載

イカには、脚が10本ありますが、そのうちの2本は長く、残りの8本は短目です。脚には吸盤や鍵状のものがついていて、それで獲物を捕らえたり、交尾の際には相手にしがみついたりします。
獲物を見つけると、隠し持っていた長い腕足を目にも止まらぬ速さで伸ばし、捕まえ、カラストンビと呼ばれるくちばし状の歯でかみちぎります。口は円周上に並んだ8本の脚の真ん中にあります。逆に言えば、脚は口の周りに並んでいます。
また、カラス・トンビはリング状の筋肉の奥に隠れていて、通常は見えません。
カラス・トンビは厚みのある骨ではなく、筋肉に裏打ちされた爪のような感じです。外からは見えませんし、そんなに頑丈でもないことを考慮しますと、鳥のくちばしとはずいぶん趣が違います。
さて、イカの場合、脚は移動のための器官ではありません。獲物を取ったりするので、むしろ腕と呼ばれる場合もあります。

■イカの眼

さて、脚の付け根の外側の方には、眼があります。イカの視力はわかりませんが、大きさは非常に印象的です。魚屋さんの店先に並んでいる、ヤリイカやスルメイカでも、眼は身体に比べて大きいのですが、身体8m、脚長14mのダイオウイカでは、眼が大型のスイカほど、直径が40cmもあるものが知られています。クジラの眼でもここまでは大きくありません。地球上の生物で、一番大きな眼を持っていると言ってもいいかもしれません。

■イカの脳

さらに、この眼と眼の間に頭があります。つまり、ここを解剖すると脳が出てきます。
最近、まな板の上で解剖した全長40cmほどのスルメイカでは、脳の大きさは眼球よりやや小振りで、ちょうど一口分くらいの大きさでした。印象としては、「けっこう大きいな」という感じでした。
この脳には、神経がつながっていますが、これが神経生理学にはなくてはならない実験材料なのです。「イカの巨大神経」と呼ばれ、単独の神経繊維が種類によっては直径2mmほどもあります。ですから、1本の神経繊維に電極を差し込むことも可能で、神経に関する実験も、この巨大繊維を用いられることが多いのです。ちなみに、人間の脊髄などは非常に太いですが、これは何百何千もの神経繊維が束になってできあがったもので、その神経繊維の1本1本は非常に細く、そこに電極を差し込むのは至難の業です。したがって、イカの神経は地球上で一番太い、と言えそうです。

■イカの呼吸器、消化器

イカのワタの部分を引き抜きますと、非常に単純な消化器系、エラなどの呼吸器系、循環器系の器官が見えます。
これがいわゆる胴の部分に収まっているのです。

■イカの運動

ところで、イカは、脚の方向か、ミミの方向か、どちら向きの泳ぐのでしょうか。結論から言うとどちらの方向にも泳ぎますが、状況によって、どちらの方向に進むかは決まっています。
速度をあげて泳ぐときには、脚の方を後ろにして、身体の中に入れた水をジェット噴射して進みます。回遊をするときや、敵から逃れようとするときには必ずこの向きで泳ぎます。しかし、イカの姿からして、ジェット噴射で進むときには、そもそも前がよく見えません。ですから、水槽などではしばしば壁に衝突して死んでしまうそうで、飼う場合には特別な工夫が必要だそうです。
餌を取るときには、反対に脚の方向に進んでいきます。胴体の先についているミミをヒラヒラ動かして、ゆっくりと獲物に近づき、素早く脚を伸ばして捕まえます。体内に取り込んだ水をジェット噴射するノズルを逆に向けて、進む方向を変えるのです。また、オスがメスに近づくときも、基本的にはこの方向です。

■イカのスミ

イカやタコは敵から逃げる際に、他の動物には見られない特殊な行動として、スミを吐きます。ところで、イカスミはグルメのリストには欠かせない逸品です。かなりの味がついています。イカを追ってきた魚にすれば、スミの中に入ると、突然おいしい味に包まれてしまいます。魚は魚で、口のまわりやヒレにも味を感じる細胞がありますから、本当に味に包まれてしまい、イカを食べたような錯覚に陥るかもしれません。言い換えると、イカのゴーストの中に突っ込んでしまうのです。

■イカの色による表情

奥谷喬司著『イカはしゃべるし空も飛ぶ』より、許可を得て転載

イカには体色を変化させる、という特徴があります。その一例は、コブシメのオスの見せる芸当です。オスのコブシメは、繁殖期になりメスと出会いますと、体色を求愛用に変化させます。しかし、繁殖期にオス同士が出会いますと、互いに黒っぽい威嚇の色を示します。さて、ある真ん中に居るオスの右側にメス、左側にオスがいますと、真ん中のオスは体色を器用に変化させます。メスの側は求愛の色になり、オスのいる側は威嚇の色になるのです。

■イカの特徴のまとめ

ここまでの要点をまとめてみましょう。

  • 餌を取るための運動性に満ちた器官が口の周りにある。
  • 大きな眼をしている。
  • 神経系がよく発達している。動物界で最も太い神経を持っている。
  • 移動の推進力は、水のジェット噴射によっている。しかし噴出口の方向を変えることによって、移動の方向も変えられる。餌を取るときには脚の方向、逃げるときにはミミの方向に泳ぐ。
  • 自らのゴーストともいえるスミを吐く。
  • 身体の色の変化させることによって、非常に繊細な表情を表わす。


さて、感覚器官が集まり、神経系が発達し、表情豊かな部分といったら、人間では、頭に当たります。それでは、口の周りにあって、しなやかに動く器官といったら何でしょうか。それは唇ではないでしょうか。私たちは、唇で食べ物をつかむことができますし、さらには鋭い触覚の器官でもあります。イカの《腕》は発達した唇ではないでしょうか。

この点が決定的です。割烹屋さんの水槽や水族館でイカの泳ぐ様子をよく観察してみてください。《脚と言われるもの》を「唇かもしれない」と思って観察すると、やがて「唇以外の何ものでもない」という確信を得るでしょう。

■移動方向に現れるものは

それでは、移動の方向は何と関係しているでしょうか。
食餌、求愛、といった場合に脚方向に進み、《耳》方向に進むのは逃走のときです。イカにとって好ましいものは、口の方から向かっていき、嫌いなものには、脚を後ろに一目散に逃げます。この動きの方向は、如実に好き・嫌い、つまり共感反感を表わしています。これはあからさまな「表情」ですし、コブシメでは身色でも、非常に豊かに表情を表わします。

■スミはゴースト、つまり像

スミを吐く動物はイカ・タコそしてやはり同じ軟体動物のアメフラシしかいません。そして、イカはスミを吐いて、そこに自らのゴーストをつくると述べました。いわば、実像から虚像をつくるのです。人間も、頭部では実像から虚像をつくってはいないでしょうか。ただしそれは、物質的な意味での虚像ではなく、もっとずっと高次の段階での虚像で、外で見た物体のイメージを頭の中につくっているのです。

■イカは頭部

発達した唇、大きな眼や太い神経、豊かな表情、虚像をつくる行為、そのどれをとっても、人間の頭部、しかも顔の部分を強調すると、イカの姿が生まれてきます。
ただし、頭蓋骨の部分は含まれません。ここでは触れませんが、人間の頭部が固い頭蓋骨で覆われているように、身体全体を固い殻で覆っている動物がいます。しかもそれは、イカやタコと同じ仲間に属します。貝の仲間です。そして、イカ・タコと貝類の中間に位置するのが、オオムガイ(ノーチラス)です。


■タコの特徴

さて、それではタコの特徴はどこにあるでしょうか。タコももちろん基本はイカと同じで、人間の頭部と関連させると、理解できます。しかし、イカとタコを比べると、脚の発達度がまったく違っています。数は少ないものの、脚がずっとよく発達しています。刺し身でも、イカは胴体ですし、タコは脚です。つまり、タコではイカより《唇》が極度に発達しているといっていいでしょう。そして、8本の唇で海底をなめるようにして這いまわっています。
そして、絶えず舐め回すような様子、欲望に満ちた雰囲気が、私たちに下劣な印象となって伝わってくるのかもしれません。

タコは潜在的にノーチラスのような殻を欲しがっています。それゆえ、適切なツボがあると、好んでその中に入り込むのです。