2014年7月26日土曜日

秘されたる人体生理、第一講

秘されたる人体生理、第一講

1911年3月20日

心構え「畏敬の念を持って自らを認識する」

▲ 01
この連続講演は、プラハの友人たちが発起人となって開催してくださいました。そのテーマは人間に深く関係し、人間本性についてより詳しく考察し、肉体の活動そのものを見ていくことです。このテーマは人間そのものですから、ある意味では非常に身近ですが、同時に、非常に近寄り難くもある、と言っても差し支えないと思います。あらゆる時代を通して、神秘主義的・オカルト的な高みからは、こう表現して差し支えないと思いますが、《汝自身を認識せよ》という要求が課せられてきました。このような要求があることだけを見ましても、現実に即した真なる自己認識は原理的に困難なことがわかります。つまり、個々人における自己認識が困難であるというだけでなく、一般としての人間本性を認識すること自体も困難なのです。…この《汝自身を認識せよ》という永遠の要求からもわかりますように…人間にとって、自己認識の道は本質的に遠く、長い道のりなのです。それゆえ、今日からの連続講演は、必要とされる予備知識も多く、あまり身近ではないかもしれません。私自身、長時間熟考いたしましたし、その成果が出ていなければ、このテーマを取り上げようとは思いませんでした。さて、このテーマで真実に向かおうとするなら、通常の学問ではしばしば無視されている事柄が不可欠になります。しかし、それ以上に必要なのは、人間の本性に対する…よく聞いてください、個々人の本性に対してではありませんし、ましてや私たちの一人ひとりに対してではありません…人間本性一般に対する畏敬の念なのです。そして、人間本性の真の意味に対する畏敬の念こそが、今日からの考察の基礎条件になっているとお考えください。
▲ 02
さて、人間本性に対し真の畏敬の念を持つには、どうしたらよいのでしょうか。まず対象は、自分たちでも別な人々でもどちらでもかまいませんし、その人の生活態度などもまったく問題にしません。むしろ、より高い見方に上る必要があるのです。つまり「人間とは、自分自身のために長い進化を経てそこにいるのではなく、霊性を開示すべく存在している。そしてその霊性は神的・霊的世界全体を包括しているので、人間とは宇宙神性、宇宙霊性の開示である」、と見るのです。森羅万象が神的・霊的諸力の表現であると認識するなら、神的・霊的なものそれ自身に畏敬の念を感じるだけでなく、その開示に対しても畏敬の念を感じることができるのです。より完全な自己認識を求めるのは人間の常ですが、この点に関しては以下の点をはっきり自覚しておいた方がよいでしょう。つまり自己認識とは、単なる好奇心や知的欲求からくるものではなく、人間における宇宙霊の開示を、常により完全に認識しようとする姿勢であり、そして、その姿勢を自らの義務と感じる必要があるのです。「認識が可能であるにもかかわらず無知にとどまるなら、それは人間の神的定めに対する冒とくである」とはそのような意味なのです。と言いますのも、私たちの内には、さらなる知へと向かう力が宇宙霊によって与えられていますから、認識を怠るならば…これは本来許されないことですが…宇宙霊からの力を表現していないことになります。つまりは宇宙霊の開示であることを自ら拒絶し、宇宙霊の開示からはどんどん遠ざかり、宇宙霊の戯画、歪画になっていきます。認識を求めることは、宇宙霊のより忠実な像となることであり、私たちの義務なのです。《宇宙霊の像となる》という言葉が一つの意味を持つとき、つまりこの言葉を「私たちは認識しなくてはならない、認識することは私たちの義務である」という意味と結びつけるときにはじめて、私たちは、人間本性に対する畏敬の念という要求を正しく感じ取れるのです。人間の生命活動や本性をオカルト的に観ようとするなら、人間本性に対する畏敬の念で自分を満たし尽くす必要があります。なぜなら、それによってのみ、霊的な目、霊的な耳、そしてあらゆる霊的観照能力、つまり人間本性の霊的基盤にまで達するための諸力が目覚めうるからです。人間本性に対する最高度の畏敬の念を持たない者、霊性の写し絵である人間本性に対する畏敬の念で自らの魂の最奥までを満たし尽くすことのできない者には、たとえ何らかの霊的秘密を見る目が開いたとしても、人間だけが持つ奥深い本性そのものを見る目は開かれません。周囲に存在する何らかのものを霊的に見ることができる見者は多いかもしれません。しかし、こうした畏敬の念を持ちませんと、人間本性の深い部分に入り込みそれを見る能力は得られませんし、人間本性についての正しいことは何もわからず、何も語ることができないでしょう。
▲ 03
人間の生命活動についての学問は《生理学》と呼ばれます。この学問を外的学問の言う生理学と同じだと思わないでください。これは霊眼に映る生理学で、人間の外的形姿、諸器官のフォルムや生命プロセスを、常にそれらの基礎にある霊的・超感覚的なものとの関係で見ていきます。これは《オカルト生理学》と呼ぶことができると思いますが、こう呼ぶからと言って、事実とかけ離れた話をしようなどという意図はありません。また、これまでこの分野にあまり親しんでこなかった人にとっては耳慣れない用語も出てきますので、そのときには随時、説明を加えたいと思います。この連続講演は、他の連続講演にもまして一つの全体をなしていまして、とりあえずは多くのことを脈絡を欠いたままにお話ししなくてはなりません。ですから、個々の講演、特に最初の数講演での内容を、全体との関連抜きで判断してしまうと問題が生じかねないことを強調しておきます。つまり、最後の講演を聴き終えたときに初めて、皆さんは内容に対して判断を下すことができます。と申しますのも、ここでは外的な生理学とはまったく異なったやり方をとるからです。はじめに語られることが最後に実証されるのです。言わば、終わりに向かって直線的に進むのではなく、円周をたどり、最後に出発点に戻ることになります。

二重性

▲ 04
ここで取り上げるのは、人間についての考察です。そこでまず目に付くのは、人間の外的なフォルムです。皆さんご承知のように、人間については素人的表面的観察から学問的研究まで、非常に多くの知見が明らかになっています。ですから人間について、外的観察や経験によってすでに得られている知見に加えて、素人的であっても自己観察や他者観察から得られる知見も取り入れなくてはなりません。さらには人間を、驚くべき方法、驚くべき装置で研究した学問的成果も加えなくてはなりません。
▲ 05
素人的視点や一般書の内容から判断しても、人間形姿には二重性が見られる、という言葉に驚くことはないでしょう。人間本性の深みを認識するためには、人間の外的形姿だけを取り出しても、そこには基本的に二重性が見られることを忘れてはいけません。
▲ 06
人間では、一方に生体内に完全に閉じ込められ、できうる限り外界から守られている諸器官がはっきりと区別されます。つまり、脳や脊髄などです。人間においては、脳・脊髄などは骨格に囲まれ安全に保護されています。これら二つの領域のものは次の模式図で表すことができます。aは重なり合った椎骨(脊椎)で、これに沿って脊髄が走っていますし、bは頭蓋骨で、この重なった椎骨と頭蓋骨からなる閉じた管の中に脳や脊髄などの器官が封じ込まれています。 この領域に属するものは、基本的にすべてが閉ざされた一つの全体をなしていて、そこから大小の繊維状ないしは帯状のものが出ていて、それが頸部、体幹、四肢といった他の部分に…これは生理学的にさまざまな仕方で整理することができますが…連絡しています。このことは人間を観察したら否が応にも気付きます。骨格に覆われた内部とこれらの器官がつながるために、まず保護の覆いを通り抜けなくてはなりません。ですから、人間を単に表面的に観察するだけでも、そこには二重性が見られ、一方は今述べた骨格による固いしっかりとした保護の覆いの中にあり、もう一方はその外にある、と言うことができます。

▲ 07
さて、非常に表面的にでも、まずこの骨の内側にあるものを見てみましょう。ここでも次の二つは簡単に区別がつきます。一つは、頭蓋骨の中に収まった脳という大きな塊、もう一つは、脳から伸びる一種の繊維状の突起物として、その下に柄のように、あるいはロープのようにぶら下がり、脳と有機的につながり、脊椎管の中に収まっている脊髄です。物事の本質という深みを目指すオカルト的学問では、この二つの組織を区別するにあたって、通常の学問では注目されない事実に注意を向けなくてはなりません。つまり、オカルト的立場からの人間観察では、すべてが人間にのみあてはまる点です。個々の器官の深い基盤にまで踏み込んだ瞬間に…この連続講演の先へ進めばおわかりになりますが…動物と人間に相応の器官があるにしても、深い意味においてはその役割はまったく違いうることがわかります。通常の外的学問的に考える人は、「今あなたが言ったことは、哺乳類についてもあてはまる」と言うでしょう。しかし、一歩踏み込んで見るなら、動物における諸器官の意味を人間におけるそれと同列に語ることはできません。ここでオカルト的学問が行うべきは、まず動物をそのものとして観察し、その後で、それが人間の脳や脊髄で観察されることと一致するかを吟味することです。人間に近い動物は脳や脊髄を持ちますが、だからと言ってこれらの器官の役割が人間のそれと同じであることの証明にはなりません。例えて言うなら、一つのナイフで仔牛を切り分けたり髭を剃ったりできる、というのと同じです。どちらもナイフですから、ナイフという点だけを問題にすると、どちらも同じだろうと考えるのです。人間にも動物にも脳や脊髄という同じ器官が見られますから、それゆえに役割も同じだと考える人は、これと同じことをしているのです。しかしこれは正しくありません。外的学問ではこうしたことがあたり前のように通用していますが、これである種の誤謬に陥っています。これを修正することができるのは、これらの外的学問が、諸存在の特質について超感覚的探求が語る深い言葉に少しずつでも耳を貸すようになったときです。
▲ 08
百年以上前の学者たちによる脊髄や脳についての真摯なる観察結果は、現代の私たちが観察しても、その正当性を確認できます。観察結果から、脳は脊髄が変形したものらしい、とかなり正確に指摘しています。このことは、ゲーテ、オーケンなどの自然科学者が、頭蓋骨と椎骨が形態的に似ていると述べていたことを思い起こしてくだされば、納得しやすいでしょう。諸器官の形態的類似性に目を向けたのはゲーテでした。彼は研究の非常に初期に、椎骨を変形して頭部を構成する骨を導き出せることを見て取りました。つまり、骨の一部を平らにしたり、逆に強調したりすることで、椎骨を頭蓋骨に変形するのです。たとえば、椎骨を四方に膨らませ極端に扁平化させると徐々に頭蓋骨の形を導き出せるのです。つまり、ある意味で頭蓋骨は変形した椎骨とすることができます。脳を収納する頭蓋骨は変形した椎骨と見なすことができますが、それと同じように、脊髄の塊の一部を強調し、分化、複雑化させますと、相応の変形を経て脊髄から脳ができあがります。植物ははじめに緑の葉を出し、その葉を変形し分化させて色鮮やかな花びらを作り出しますから、花びらは分化した葉だと言えますが、それと同じように、フォルムの変形や分化、さらには段階を高めることによって、脊髄から脳を形成できるのです。私たちの脳とは、分化した脊髄と見なすことができます。

発達が進んだ器官、発達初期の器官

▲ 09
さて、この視点からこの二つの器官を見てみましょう。自然に考えて、どちらが発達初期の器官であるはずでしょうか。この点はどうしても考えておく必要があります。やはりそれは、後から導き出されたフォルムではなく、オリジナルのフォルムの方でしょう。つまり、脊髄は発達の第一段階で、脳は第二段階にあります。脳は脊髄の段階を経て、それが変容したものであり、より以前から存在する器官であるはずです。言い換えますと、脳と脊髄の二重性を考えるにあたって、脳の発達は二段階になっていて、まず第一段階で原器が脊髄になり、第二段階でそれが変形して脳になったのです。それゆえ、脳を形成した諸力はより以前からある、と言うことができるのです。現在の脊髄は、言わば二回目の出発から形成されています。そしてそれは次の脳段階に進むことはなく、その発達段階にとどまっています。これを教科書的に正確に表現しますと、「脊髄神経系においては脊髄第一段階秩序が見られ、脳では脊髄第二段階秩序が見られる。後者はかつての脊髄が脳へと変形したものである」、となります。
▲ 10
ここまでまず、骨格に保護されたこれらの器官を適切に捉えるにあたってどうしても必要な事柄を非常に正確に見てまいりました。ここで私たちをオカルト領域へと導く別な事柄も考えてみましょう。こう問うことができるでしょう。ある器官原器で再構築が行われるとき、その第一段階から第二段階への変化は前進的か後退的か、と。言い換えますと、より高次な完成された段階に導くプロセスなのか、それとも退化的で死に向かうプロセスなのか、です。そこでたとえば、脊髄を観察してみましょう。現状の脊髄は脳には至っていませんから、比較的発達が遅れた、生まれて間もない器官と見なせるでしょう。しかし、この脊髄の見方は二通りあります。この器官も脳になる諸力を内包している、と見ることもできますし、もしそうならこれは前進的発達です。もう一つは、この器官には第二段階へと至る原器はなく、荒廃へと、つまり第一段階を暗示はするものの、第二段階には進み得ないと見ることもできます。現在の脳の基盤となったのはかつて脊髄で、それが実際に脳となったのですから、当時の脊髄には明らかに前進的諸力がありました。この点について現在の脊髄をオカルト的観察法で観察しますと、そこには前進的に発達する原器は存在せず、この段階で発達が終わるように定められていることがわかります。…少々グロテスクな表現ですが、現状の細い紐状の脊髄が膨らんで現在の脳のようになることはない、と思ってよいのです。このように言えるオカルト的根拠は後で見ていきます。人間と動物の脊髄を純粋にフォルムだけで比較してみましても、今述べたことの外的な指針が得られます。たとえば蛇を見ますと、頭部の後方には、中に脊髄が通った環状の背骨が無数につながっています。背骨が変化もなく無限に続くかのように見えるのと同様に、脊髄もただ続いているように見えます。人間の脊髄では、脳と連絡した部分から下に向かって次第に消えていきます。実際に、下にいくにしたがって細くなり、上方で見られた明確な形が次第に不明瞭になっていきます。こうした外的観察だけでも、蛇では後ろに向かってどこまでも続いていくのに対し、人間では終点があり、ある意味で急速に退行している点に気付きます。これがまず外的な比較観察法です。これがオカルト的観察ではどう見えるかは、また後に検討しましょう。
▲ 11
これらをまとめますと、頭蓋骨には、前進的形成によって脳にまで、つまり発達の第二段階にまで到達した脊髄が封じ込まれている、と言っても差し支えないでしょう。そして、そうした脳をもう一度形成しようとする試みとも言えるものが脊髄の中にありますが、この試みは現段階ですでに成就しないことがわかっています。

脳・脊髄の役割と思考・反射・夢

▲ 12
ここで次に、脳や脊髄が果たすとされる役割に移りたいと思いますが、このことは素人でもよく知っています。いわゆる高次の魂的活動が脳によってコントロールされ、そのための道具が脳であることは、すでによく知られています。また、意識されにくい魂的活動、つまり、途中に考えが入り込む余地などなく、外界の刺激から直接に行為が喚起されるあの魂的活動が、脊髄などの神経の支配を受けていることも知られています。たとえば、虫に手を刺されますととっさに手を引っ込めますが、この場合、刺されたことと手を引っ込めることの間にしっかり考えてなどいません。この魂的活動の道具は、外的学問が正しく認識しているように、脊髄です。外界からの印象と最終的な行為の間に十分な熟考を伴う魂的活動は、これとは異なり、脳がそのための器官です。わかりやすい例として、芸術家を考えてみてください。自然を観察し、感覚を活性化し、無数の印象を集め、長い時間をかけてこの印象を魂の中で加工します。外界の印象から始まって、長い魂的活動を経て、最後に、それはしばしば数年後ですが、実際に手を動かし形にするのです。この場合、外界の印象と最終産物の間にたくさんの魂的活動があります。これは学者の場合も同じですし、赤を見て雄牛のごとくに突進するのでなく、自分が行わんとする行為について深く考えるなら、誰にでもあてはまります。反射運動を除く熟考を伴う行為の場合には、いかなるときも脳がその道具であると言えます。
▲ 13
このことをさらに詳しく掘り下げますと、脳を道具として使う魂的活動にはどのようなものがあるだろうか、という問いが生まれます。これには二通りあります。もう一つは後に述べますが、まずは昼間の覚醒時の活動です。このとき私たちは何をしているでしょうか。感覚を通して外界の印象を収集し、脳でそれについて理性的に考え、それらを加工しています。感覚を介して外界の印象が私たちの中に入り込み、脳内の特定のプロセスを活性化します。もし脳内の活動を覗き見ることができたら、外界の印象が注ぎ込まれることで脳が活性化し、熟慮の中で取り込まれた印象が次第に変容していく様子が見られるはずです。しかし、こうした印象の一部には、熟慮からの影響をほとんど受けないものが見られるはずです。そうした印象は、肉体的道具として脊髄を用いて行為に移されます。
▲ 14
さてここで、現状の人間が生涯交互に繰り返す二つの状態、つまり昼の覚醒状態と無意識の睡眠状態に目を向けなくてはなりません。これまでの講演でよくご存知だと思いますが、昼の間、人間の四つの構成体は一体ですが、睡眠中はアストラル体と自我が肉体・エーテル体から離れて出ています。しかしもう一つ、昼の覚醒状態と夜の無意識な睡眠状態の中間状態、両者が混ざり合った状態もご存知なはずです。つまり、夢の営みです。ここでとりあえずは、誰もが知っている夢の営み以上のことは取り上げません。ところが注目すべきことに、夢の営みは脊髄と結びついた魂の活動と似ているのです。表象は熟慮から生じますし、無意識にハエを追うときの手の動きは自分では止められない一種の直接的防御運動ですが、夢に現れる像は自分では内容を選べず、ある種の必然性があり、表象よりはハエを追う動きに似ています。ただ夢ではハエを追うときとは異なり、実際に身体を動かすところまでには至りませんが、自分では内容を選べない不可避的なものとしてはそれと同じで、直接的に像が魂に現れます。覚醒時に手に止まったハエを追い払うのに熟慮が入り込まないのと同じように、泡沫{うたかた}の夢の像にも熟慮が入り込むことはありません。ですから、覚醒時の人間を、内部で起きている現象は無視し外側からだけ観察しますと、しぐさや表情など、外界からの印象をきっかけに熟慮が挟まれない反射運動が見られる、と言えるでしょう。そしてまた、これらの行動には恣意を差し挟む余地がなく不可避的である、と。それに対し、夢状態の人間では内部で一連の像が活動していますが、これは行動にまでは移行せず、像の状態に止まっています。覚醒時には熟慮が挟まれない行為があり、夢ではそれと同じように、錯綜した夢表象という像の世界が人間の中に現れます。
▲ 15
さて話を脳に戻しましょう。脳が夢的意識の道具であるとするなら、これはどう考えなくてはならないでしょうか。無意識反射運動には脊髄が関係しましたが、脳内に脊髄と似た振る舞いをする何かが存在すると考えざるを得ないでしょう。私たちは脳を道具に覚醒した意識を持ち、その意識の元でよく考え、表象を作り上げます。ですから、夢表象の基盤として、隠れた脊髄とも言うべきものが脳内に押し込まれているはずです。そしてその働きで行為には至らず像に止めているはずなのです。たとえ熟慮抜きでも、脊髄では行為にまで至りますが、脳におけるこの場合は像で止まります。言わば途中で止まっているのです。脳の中には、脊髄的特徴を持ったものが、無意識な魂的活動の隠れた基盤として押し込められているのです。やや風変わりなかたちではありますが、夢の世界はある隠されたものを暗示しているとは言えないでしょうか。つまり、以前に脳の原器として存在したあの古い脊髄を暗示している可能性はないでしょうか。脳は昼間の覚醒時に使われる道具として形づくられてきましたし、頭蓋骨から取り出したときの姿はよく知られています。しかし、覚醒時の意識がなくなったときに活動を始める何かがその中に閉じ込められているはずです。オカルト的に観察をしますと、夢の営みの道具である隠された脊髄が脳の中にあることが、実際にわかります。

▲ 16
模式的に示すとこのようになるでしょう(図の斜線部分)。脳は覚醒時の表象活動のためにありますが、その脳の中に、外側からは見ることのできない隠された古い脊髄が何らかのかたちで隠し込まれているのです。とりあえずは仮説的なお話ですが、この隠された脊髄は、人が眠り、夢を見ているときに活動し、またそれは脊髄のように活動します。つまり本人が恣意的に変えることができないかたちで活動しています。しかし、脳の中に封じ込められていますから、行為にまでは至らずに、単なる像、像的行為に止まります。こんな言い方ができるのは、夢において私たちは像として行為しているからです。夢の営みはこのように特異で風変わりで混乱していますが、それは、覚醒時の営みの道具である脳の奥に、ある器官が隠されていることを暗示してはいないでしょうか。そしておそらくは、その隠れた器官は脳の原器で、そこから脳が発達してきたことを暗示してはいないでしょうか。新しい形成物、つまり現在の脳が沈黙するとき、かつての脳の様子が現れます。つまり、この古い脊髄がヴェールを脱ぎ去り自らの能力を示すのです。しかしこの古い脊髄は閉じ込められていますから、行為にまでは至らず単なる像に止まります。
▲ 17
私たちの営みを観察するだけで、このように脳は二段階に分かれます。夢を見ることができる、という事実から、脳が目覚めた昼の営みの道具にまで発達する以前には、現在の脊髄の段階にあり、そこから一通りの発展を経てきたことがわかります。しかし、目覚めた昼の営みが沈黙しますと、古い器官が表に現れてくるのです。

脳と脊髄のオーラ

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ここまでのお話だけでも典型とも言うべき事柄がわかりましたし、それは形態を外的に観察するだけでも証明できました。つまり、目覚めた昼の営みと夢の関係は、完成した脳と脊髄との関係と同じなのです。ここで一歩進めて見者の観察に入りますと、形態観察にさらに知見を加えることができます。人間本性の本質的な観察にとってオカルト的観照や霊眼はどのように役立ちうるのか、また頭蓋骨や脊椎内に閉じ込められた器官を観照するにはどのようなオカルト的研究がその基礎にあるのか、の二点については、また後で見ていきたいと思います。
▲ 19
目に見える身体は人間本性全体の一部に過ぎない、ということは以前にお話しいたしました。霊眼が開いたその瞬間に、人は次のような体験をします。つまり、肉体が超感覚的有機体の中に、大ざっぱに言ってしまえば人間のオーラと呼ばれるものの中に組み込まれ、閉じ込められているのを見るのです。ここではまずそれを一つの事実としてご紹介し、その正当性についてはまた後に触れようと思います。肉体を覆うこのオーラは、現れては消えるさまざまな色彩の構成体として見者の目に映ります。しかし、このオーラを描けると思ってはいけません。オーラの色は絶えず運動し、常に生成消滅していますから、これを普通の色彩では再現できません。雷も描いてしまったら固まった形になり、正確ではありませんが、オーラを描こうとした絵もすべてそれと同じで、どれも近似的に正しいだけです。雷を正確に描くことはできませんが、オーラを正確に描くことはそれ以上に不可能です。なぜなら、オーラの色彩は非常に不安定で絶えず生成消滅しているからです。
▲ 20
さて、オーラ的色彩は不思議な仕方で人間全体をさまざまに覆っています。そして、頭蓋骨と背骨を後ろから観察したときに見られるオーラ的像は興味深いものです。頭蓋骨と背骨、つまり脳や脊髄が埋まっている部分を後ろから見たときのオーラは、脊髄下部でははっきりとした基本色がイメージできます。それは緑なのです。頭の上部、つまり脳の領域の色もはっきりわかりますが、この種の色彩は他の身体部分ではまったく見られません。それは一種の青紫です。帽子かヘルメットのようにこの色が頭蓋骨上を後ろから前へと覆っています。
▲ 21

青紫の下側には、通常、あるニュアンスの色が見られますが、それをイメージしていただくには、咲いたばかりの桃の花を思い浮かべていただければよいでしょう。この色と背骨の下方の緑がかった色合いの中間部、つまり背骨の中間部分には別な色が現れますが、この色彩は感覚界では見られず、形容し難く、特定できない色合いです。緑色の上に続く色は、緑、青、黄でもなく、この三つが混ざったような色です。このように、脳と脊椎末端の中間部の色は、物質的感覚的世界では現れません。その色を言い表すのは難しいのですが、それでも上方の言わば膨らんだ脊髄の部分は青紫で、背骨の一番下にははっきりと緑系の色彩が見られることだけは確かです。

▲ 22
今日は、まず人間形姿を純粋に外的に観察し、そこに霊能的研究によってのみ知りうる諸事実を結びつけました。明日は、人間身体の別な部分を、二重性というすでにご紹介した視点で観察し、人間構成体全体の様子がどのようになっているかを見ていきたいと思います。

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