2014年7月27日日曜日

秘されたる人体生理、第二講

1911年3月21日

■ 生体を霊的なものの開示と見る

▲ 01
ここでは無常なるものの認識が目標で、そのために生体を外的に見てわかることを正確に捉えようとしています。しかしこれ自体かなり困難で、しかも考察を進めるとこうした困難と繰り返し出会います。それでも、まさにこの道筋を通って人間本性の永続的な側面、不滅で永遠なる側面へと導かれますし、それも間もなくわかります。しかし、私たちの考察の目標はあくまでも永遠なるものの認識ですから、昨日の導入の際に述べたことをきちんと守る必要があります。つまり、私たちがまず観察するのは外的肉体器官ですが、畏敬の念を持ちつつ、それを霊界の開示と見なすのです。
▲ 02
霊学的な概念や感じ方にはすでに馴染まれていると思いますので、「非常に複雑な人間生体とは、宇宙に渦巻く霊的諸力の意味深き開示である」と言っても不自然には感じないでしょう。言わば、外的なものから内的なものへと上昇していくのです。

■ 血流におけるもう一つの二重性

▲ 03
昨日の話、つまり外的な観察からでも人間には二重性が見られる、という点は学者ならずも素人ですら認めざるを得ないでしょう。すでに昨日、人間本性が持つ二重性を大ざっぱに特徴付けましたし…これはさらに深める必要がありますが…頭蓋骨や椎骨に保護された部分を正確に見てまいりました。そこでは、脳や脊髄の外的な構造やフォルムを見るだけでも、予感的な展望が得られることがわかりました。つまり、昼の目覚めた営みと、とりあえずは何か怪しげに見える夢の営みの関係がそこに暗示されているのです。つまり、脳や脊髄の外的フォルムは人間の特徴的な部分を反映した開示と見ることができました。昼の目覚めた活動では物事を明確な輪郭と共に観察しますし、夢は混乱した像の活動です。そして前者には脳が対応し、後者には(脳内の)脊髄が対応しました。昨日は触れられませんでしたので、今日は大ざっぱにでも人間には他にも二重性がある点を見ていこうと思います。これから紹介する二番目の構成部分を表面的に観察するだけでも、脳と脊髄で観察されたこととは正反対の像が得られることがわかります。脳や脊髄は骨組織に覆われ保護されています。人体の他の部分では骨は生体組織の内側に形成されています。これもやはり非常に表面的な観察です。最も重要ないくつかの器官系を個別に見て、それらを昨日の知見と外的に比較するだけで、私たちは人間本性が持つ別な側面に深く入り込んでいきます。
▲ 04
ここではまず栄養器官系を考察しますが、さらには生体の中心器官、つまり心臓との関係も見ていきます。…一般的な意味での…栄養器官の役割は、一瞥してわかるように、周囲の地上界から素材を取り込み、生体内で活用するための準備です。この消化器官は口から始まり、管状に胃へとつながっています。表面的に見ても、食物がこの管を通って胃に運ばれ、不要な部分は排泄され、それ以外が消化器官を介して生体内に取り込まれます。…ここでは単純に模式的に説明しますが…消化器官内に達した栄養物を消化吸収するために、狭義の消化器官にリンパ系がつながっています。リンパ系とは身体全体に張り巡らされた管の集まりですが、このリンパ系は胃よりも先の消化器官にも連絡していて、消化器官で加工されたものを受け取り、さらに血液に渡します。こうして血管系という人間本性の第三の部分に到着します。これは身体全体を巡る大小の管で、その働きの中心に心臓があります。心臓からは動脈が出ていて、いわゆる赤い血が身体全体を巡ります。血液はそれぞれの組織でそれぞれの過程を経て、いわゆる青い血に変容し、静脈を経て心臓に戻ります。変容して使い物にならなくなった血液は心臓から肺に送られ、そこで外界から入ってきた酸素に触れてリフレッシュされ、別な血管を通って心臓に戻り、再び新たに身体全体へと循環していきます。
▲ 05
外的観察が直接にオカルト的考察に結びつくように、この複雑なシステムの中から、まず生体全体の中心システムだけに着目しようと思います。つまり血液…心臓系です。まず、使い古された血液が肺でリフレッシュされ、いわゆる青い血から赤い血に変化し、心臓に戻り、さらに身体各部に送り出される点を取り上げます。(黒板に描かれる。)} すべてが非常に模式的な図だと思ってください。ちょっと思い出していただきたいのですが、心臓は隔壁で四つの小部屋に分かれ、下部にはやや大きい心室が、上部にはそれより小さ目の心房がそれぞれ二つずつあります。今日は心臓の弁については取り上げず、最も重要な器官の活動を模式的に捉えたいと思います。血液は左心房を経て左心室に流れ込み、大動脈から身体全体に流れ出します。この血液は分散し各器官にいき、そこで使われ、いわゆる青い血に変わり、右心房に戻り、さらに右心室から肺に送られリフレッシュされ、再び各器官へ循環します。

▲ 06
このイメージには、オカルト的観察法の重要な基礎が含まれています。心臓から出た大動脈はかなりすぐに分岐し、一方は脳へいき、身体上部の諸器官に栄養や酸素を届け、使い古された血液として右心房に戻ってきます。そして重要なのは、脳においても血液が多くの経過を経て、身体の他の部分を経たものと同様に変化を受けている点です。つまり、大循環から副次的小循環がすぐに分岐し、小循環は脳に向かい、大循環は他の器官に栄養や酸素を送っています。この事実は非常に重要なので、しっかり肝に銘じておく必要があります。なぜなら、これは正しい考えの基盤になりますし、オカルト的高みに上る土台となるからです。このように血液循環には上部に向かう小循環、さらには他の諸器官に向かう大循環がありそこに栄養や酸素を供給しています。ここで次の問いが重要になります。つまり、「小循環には脳が挟み込まれているが、大循環にもこの脳に相当する何かが挟み込まれてはいないだろうか」という問いです。…すると、外的表面的な観察によってもそれがわかります。つまり、大循環には、脾臓、肝臓、さらには肝臓によって作られた胆汁を含む器官が挟み込まれているのです。これらの器官はすべて、大血液循環に挟み込まれています。


▲ 07
外的学問では、これらの器官の役割をこう言います。胆汁が肝臓で作られ、胆道を通り消化管に流れ出し、食物の消化を助け、さらに消化された食物はリンパ系に取り込まれ、血液中に吸収される、と。しかし脾臓について、外的学問では正確なことをあまり言っていません。これらの器官では、まず生体のために栄養物を変容させる働きに目がいきますが、しかし、これらはすべて大血液循環に挟み込まれてもいます。これらは大循環に無駄に挟み込まれているのではありません。生体の構成素材は絶えず更新されていますから、血液はその素材の更新のために必要な栄養物を取り込まなくてはいけません。そしてこの三つの器官は、必要とされる栄養物の加工にかかわっています。ここで外的な観察から、これらの三器官が生体の全体的活動とどのように関連しているかを考えてみましょう。そのためにまず、上方の血液循環には脳が挟み込まれ、同様に下方の血液循環にはこれらの三器官が挟み込まれているという外的な事実に目を向けます。そして…まずは本当に外的観察だけで、それを深めるのは後にしますが…これらの三器官が、上部循環における脳や身体上部の諸器官と似た課題を担っている可能性はないかを吟味してみましょう。これはどのような課題でありえるでしょうか。

■ 感覚知覚と栄養系の内臓が持つ対称関係

▲ 08
まず上部の器官を観察してみましょう。これらは外界の諸印象を受け止め、その受け取った素材を加工します。それゆえ人体の上部、頭部で起こっている事柄とは、外界の加工、感覚器官を通して外から得られた印象の加工である、と言えます。ですから本質的には、人間上部で起きることの原因とは、外界からの印象であると言えるでしょう。外的印象が人間生体の上部に作用しますと、その作用は血液を変容し、あるいは最低限、何らかのかたちで血液の変容に関与し、その結果、血液は変容して心臓に戻って来ます。そして、変容しているという意味では、他の部分を流れてきた血液と同じです。ここで感覚器官を介して生体上部に働きかけるものと、脾臓、肝臓、胆汁という体内器官の働きかけには何らかの対応がある、とは考えられないでしょうか。生体上部は、外界に開きその作用を受け取ります。そして、上部に流れる血液が外界の印象を受け取るのと同様に、下方に流れる血液が下部諸器官から何かを受け取るのです。繰り返しになりますが、外界が感覚を介して生体上部に働きかけます。これらの印象が一つの中心に集約されると考えますと、肝臓、胆汁、脾臓からの作用もそれと似ていることがわかります。つまり外的印象を集約することと、外界からの素材を変容させることが対応するのです。さらに詳しく見ますと、この考えがさほど奇想天外でもないと思われるでしょう。
▲ 09
外界から入り込んださまざまな感覚印象が、言わば諸器官に集約され、体内で血液中に取り込まれると考えますと、生体上部で血液が受け取るものと、肝臓、胆汁、脾臓等の作用によって受け取るものとを対比できます。外界は諸感覚を取り巻いていますが、その外界が言わば一つの器官に集約され、体内に取り込まれます。このように一方では、感覚を介して外界が生体上部に入り込み血液に働きかけますし、もう一方では、マクロコスモスで生起する出来事を集約した諸器官を介して、何らかのかたちで世界が内側から作用し、血液に働きかけているのです。これを模式的に描いてみましょう。外界が四方八方から感覚に働きかけ、外界の印象がちょうど黒板に書き込まれるように血液に書き込まれると考えますと、これがその一方である人間の上部機構になります。}ここで、世界全体がただ一つの器官に集約されると考えてください。さらに世界の抽出物を作り、内部に取り込み、世界全体がもう一つの側から血液に作用するとしますと、生体の内外を表現した非常に特別な模式図ができます。ですから、脳はある意味で胸・腹部内の内臓器官と対応し、生体内に外界を取り込んでいる、と言えます。

▲ 10
この内側の諸器官は下位の器官と言え、主に栄養プロセスの延長にありますが、神秘的で、こうした一連の諸器官には外界全体が集約されているかのようです。この肝臓、胆汁、脾臓をさらに詳しく観察しますと、血液の流れにまずはじめにかかわるのは脾臓だとわかります。脾臓は非常に変わった器官で、血液を多く含む色の濃い組織があり、その中に白っぽい小顆粒が多数あります。脾臓と血液の関係を観察しますと、脾臓はあたかも血液を濾し取る篩{ふるい}で、それ自身は、マクロコスモスが皺だらけに縮んだ一部であるかのような様相を見せています。血液は、次の段階で肝臓と関連し、さらに肝臓は胆汁を分泌し、胆汁は特別な器官に貯蔵され、食物と一体となり、変容した栄養物と共に血液に入ります。

■ 内臓と惑星の対応

▲ 11
血液は体内でこの三器官の作用を受けますが、それは脾臓、肝臓、胆汁という順以外にはありえません。ただし、胆汁と血液の関係は非常に複雑です。胆汁は栄養物の中に分泌され、それを変容するので、これは特別な器官と見なされます。代々のオカルティストたちは確たる根拠を持ってこれらの諸器官に特定の名前を与えてきました。ここで皆さんにお願いなのですが、とりあえずはこの諸器官の名前が大宇宙と関係する、とだけお考えになって、それ以上のことはお考えにならないでいただきたいのです。なぜこうした名前になったかは、また後で見ていこうと思います。血液にかかわる最初の器官は脾臓ですから…外的に比較するだけで言えますが…太陽系外から近づいて来て最初に出会う惑星が関係するはずです。それゆえ、かつてのオカルティストたちは脾臓をサトゥルヌス、あるいは人間内の土星と呼んだのです。同様に、肝臓は内的な木星、胆汁は内的な火星とされました。これらの名前が選ばれているのは、とりあえずは以下の仮定によるとだけお考えください。つまり、これらの諸器官には知覚で捉えうる外界が集約されていて、言わばそれが内的宇宙となっていますが、それはちょうど外界が諸惑星として現れているのと同じだと仮定するのです。このように、外的な宇宙は感覚で捉えられ、外から血液に働きかけるのと同様に、内的宇宙も血液に作用を及ぼす、と言えるでしょう。

▲ 12
ここで、血液に内的宇宙のように作用する諸器官と、昨日、特別な性質を持つとお話しした脳との間に、決定的な違いがあることに気づきます。つまり、人間は下部器官での出来事をまったく自覚しないのです。外界の印象が人間の意識に達するのとは対照的に、内的宇宙…言い換えると内的惑星ですが…の影響には、まったく気付かないのです。ですから、この内側の宇宙はある意味で無意識の世界と見なすことができ、それは意識的な世界である脳の営みと対極にあります。

■ 器官と人間の構成要素

▲ 13
この意識・無意識である点がどこから来ているのかをより詳しく説明するには、補助的に他の事柄を考えに入れる必要があります。ご存知のように、外的学問によれば、意識のための器官は神経系やそれに付随する器官です。さて、ここでオカルト的考察の基盤としてある事柄を考慮しなくてはなりません。それは今日模式的にお話ししたことと関係しますが、血液系に対する神経系のある種の関係です。それを考えますと、神経系はあらゆるところで血液系と何らかのかたちで関係し、血液が至るところで神経系に迫っていることがわかります。ここで私たちは、外的学問が当然と考えていることを考えに入れなくてはなりません。外的学問にとっては、意識活動や意識的な魂の活動すべてが神経系で制御されている、というのはあたり前です。…初めにおおよそのことをお話ししておいて、後にその根拠を述べようと思いますが…しかしこれではオカルティストの知見までは意識されていません。つまり、神経系とは意識のための基盤に過ぎないのです。と言いますのも、人間の生体には神経系が組み込まれ、これが血液系と接触するか、ないしは最低限何らかの関係を持っています。そしてこれには人間の構成要素としてアストラル体と自我が対応しているのです。外的な観察からもわかりますが…またこれについては多くの講演の中で触れてきました…ある意味で、神経系にはアストラル体が開示していますし、血液には自我が開示しています。自然界の生命を持たない領域を見ますと、そこには岩石や鉱物など、物質体しか持たないものがあります。そこから生体領域に上りますと、そこには生命現象の原因が内在するはずですから、エーテル体あるいは生命体が浸透していると考えなくてはなりません。外的学問はこのエーテル体を単なる思弁的なものと考えていますが、霊学ではそうは考えません。この点は後にまた詳しく見ていきます。霊学で言うエーテル体とは、霊眼によって実際に見えるもの、つまりリアルなものであり、外的な物質体の根底にあるものです。植物を観察するなら、そこにはエーテル体が存在すると考えなくてはなりません。植物から、知覚能力を持つ存在、つまり動物に上っていきますと、そこには植物とは違う知覚や内的体験といった要素があります。動物は単に生命活動を行うだけではなく、植物は行うことができない知覚ができますから、そのための何かが組み込まれていなくてはなりません。生命活動だけでは内面化もできませんし、知覚も点火せず、内的体験も持ち得ません。それらを可能にする、動物が持つその何かとは、アストラル体であるはずです。そして、神経系は植物には存在しませんから、神経系はアストラル体の外的表現、アストラル体の道具であるはずです。アストラル体は神経系の霊的な原像なのです。アストラル体と神経系の関係は、原像とその現れ、原像と似像の関係です。
▲ 14
さて、ここで観察の目を人間に向けてみましょう。…昨日お話しいたしましたように、オカルティズムの中では、さまざまなことを支離滅裂にしてしまう外的学問の見方はよくないと考えていますから…人間の諸器官を観察しようとするなら、常に次のことを念頭に置いていなくてはなりません。つまり、人間の器官系を観察するにあたっては、たとえ動物にそれと類似の器官があっても、それと比較してはいけないのです。人間では、魂の中心とされる自我の外的道具は、血液と見なされました。血液が人間自我の道具であるなら、神経系はアストラル体の道具です。神経系は、生体内で何らかのかたちで血液に関係しますから、それと同じように、表象、感受、知覚などの魂の内的体験は何らかのかたちで自我と関係します。神経系は、人体内で非常に多様に細分化しています。内側の神経束には、聴神経や顔面神経などがつながっています。つまり神経系は生体全体に広がり、非常に多様に細分化し、非常に多様なありようをしています。生体全体を流れる血液に目を移しますと、血液は生体内で一体なるものと言えます…ここでは赤い血液から青い血液への変化は考えないことにします。このように、一体なるものである血液と、細分化したものである神経系とが相対しますが、その関係は、自我と、表象、感受、意志衝動、感情などの分化した魂の営みとが相対する関係と同じです。…まず比較でお話しいたしますが…より細かく比較しますと、原像である自我とアストラル体との関係が、似像であり道具である血液と神経系との関係に非常によく対応していることが、さらに明確になるはずです。さて、血液はどこにあっても血液であるにしろ、生体を流れていく間には変化します。この血液の変化は、さまざまな魂活動に伴う自我の変化と並行していると見なすことができます。私たちの自我もまた一体的なるものです。誕生から死までの営みを考えるなら、五歳のときも六歳のときも、私はここに居て、昨日も今日も、私は同じ私である、と言えるでしょう。しかし、私の中に息づく自我を見ますと、その内実は、量の多寡{たか}はあるにしろ、自我と接触するアストラル体が関係する、表象、感受、感情などの総和です。一年前、私たちの自我は別なものに満たされていましたし、昨日の内容と今日の内容は違います。つまり自我は、魂の内容すべてと接点を持ち、すべてを貫いています。血液が身体全体を流れわたり、さまざまに分化した神経系と触れ合うのと同じように、自我が、表象、感情、意志衝動などの魂の細分化した営みと触れ合っているのです。血液は自我の似像、神経系はアストラル体の似像と見なせますし、これらの超感覚的構成要素は、肉体と結びついたエーテル体よりも高次であるとも見なせます。そして、それが正当であることは、前述の単なる比較観察からもわかります。
▲ 15
ここで思い出していただきたいのですが、血液は今簡単に述べたようなやり方で体内を流れ、一方では外界に自らを差し出し、ちょうど黒板のように外界の印象をそこに受け止め、もう一方では内的世界にも自らを差し出します。そうです、それは自我も同じです。まず、私たちは自我を外に向け、外界から印象を受け取ります。自我の中で千差万別な内容が生じ、自我は外界から来る印象に満たされます。自我が、言わば自分自身にとどまる瞬間も存在します。そのとき自我は、痛み、苦悩、楽しみ、喜び、内的感情などなどに浸りきり、さらには記憶というかたちで、眼前にある外的印象とは別種のものを掘り起こします。このように、自我と血液とは並行しています。つまり、ちょうど黒板のように、自らを、まずは外界に向けて身をさらし、さらに内側の世界にも身をさらしています。このように自我を模式的に示すと、それは血液の模式図と同じになります。まず、外界のリアルな出来事は血液での過程に結びつきました。それと同じように、外的印象から作られる表象、つまり魂的要素は自我と結びつけられました。つまり、魂内の事柄や身体的な営みを、それぞれ自我や血液に結びつけることができるのです。

■ メディテーションでは神経と血液が離れる

▲ 16
この視点から、血液と神経の共同作用や相補的・対立的作用を考えてみましょう。たとえば目を外界に向けますと、色彩、光の印象など外界からの印象が視神経に働きかけます。目を外界に向けているときだけ、外界の印象が視神経、つまりアストラル体の道具に働きかけると言えるでしょう。そして、神経と血液が関連し始めた瞬間に、見る過程にあることが並行します。見る過程に並行して、魂の営みとしての多様な表象が自我と関連し始めるのです。外から神経を介して入り込んでくるものが、神経付近を流れる血液とどのように関係するかを考え、神経と血液の関係を模式的に表現したいと思います。

▲ 17
生体観察から出発して人間本性をオカルト的に捉えるためには、この関連は非常に重要です。したがって、「日常生活では、外界からの作用は、神経を介し、あたかも黒板に書き込まれるように、自我の道具に書き込まれる」と言えます。さてここで、血液と神経を人工的に切り離すと仮定しましょう。人工的に神経の働きを血液から引き離し、相互作用を止めるのです。二つの部分を離して描くと、模式図はこうなります。これなると神経と血液の相互作用は止まります。可能性としては、神経に何の印象もやってこないという状況もあります。また、たとえば神経を切断すれば、こうした状況を作り出せます。何らかの方法で神経を切断し、印象からの作用が神経にまったく届かないようにしますと、神経を介した経験が失われても不思議ではありません。ここで、神経と血液の関係が断たれているにしても、何らかの印象はやってくる、と仮定してみましょう。たとえば神経へ電流刺激を与えると、外的にこれを実験できます。ここでは、こうした神経への外的介入は取り上げません。別な方法で、神経が血流に作用できない状態を作り出すこともできます。特定の表象、特定の理念や知覚や感情によって、人間生体をこうした状態にすることができます…また実際に行われてもいます…。そのための表象は以前に体験し身に付けたものですが、この実験を成功させるには、高度にモラル的、知的な表象が望ましいでしょう。たとえば深い意味を持つ図像を表象します。これを高度に内的に集中して練習しますと、言わばそれで全神経を完全に使い切ってしまい、それによって神経を血流から引き離すことができます。目覚めた意識の元で、通常の外的印象がそのままのかたちで私たちに作用する際には、当然ながら神経と血流がつながっています。しかし、鋭い内的集中によって外的印象から身を離してしまいますと、意識内でのみ生ずるもので魂が満たされます。意識の内容で神経を完全に使い果たし、それによって神経活動を血液活動から引き離します。そうした内的集中によって…それが十分に強いと…神経と血液の間のつながりが分断され、何らかのかたちで神経が、血液から、血液をその道具とする何かから、つまり通常状態の自我体験から、離れるのです。実際にそうなります…実験的にも完全に示すことができます…。高次の世界への導きとなる霊的修行によって、つまり鋭い一点集中によって、神経系全体をしばらくの間、通常状態の血液系や、それが果たす自我にとっての役割から切り離すことができます。するとある決まった結果が生じます。つまり、それまで神経系はその作用を血液という黒板に書き込んでいましたが、今度は受け取った作用を自分自身にはね返し、自分自身の中に受け止め、それを血液に伝えなくなります。純粋に内的な集中によって、言わば血液系を神経系から分離し…像的に言えば…通常は自我に流れ込んでいたものを、神経系へ逆流させるのです。

▲ 18
内的な魂の活動によって実際にこのように働きかけますと、まったく別種の内的体験が生じ、さらには自らが立つ意識の地平が根底から変化する、という非常に特別なことが生じます。通常の状態で神経と血液が相互に作用していますと、外界の印象は自我に結びつきます。通常、人間は自我の中に生きています。しかし、内的集中、魂の内的活動によって神経系を血液系から切り離し、神経系の作用が血液系に及ばないようにしますと、その通常の自我の中では生きなくなります。そのときの人間が自分自身として捉えるものは、以前と同じ意味での《自分》とは呼べません。そのとき人間は、構成要素の一つを完全に意識的に自分から引き離したかのように、自分が自分の血液系から離れたかのように見えます。通常では見えない何か、つまり超感覚的な何かが神経に働きかけますが、それは血液という黒板には写し取られませんし、通常の自我には何の印象ももたらしません。人間は、血液系全体から切り離され、そこから持ち上げられ、言わば生体から遊離したように感じます。このときには、アストラル体の作用領域から自我を意識的に切り離しているのです。それ以前は、神経活動が血液系に写し取られていましたが、この状態ではその活動がはね返されて神経自体に戻されています。このとき人間は別なものの中に生きています。そこでは別な自我の中に居るように感じます。以前は予感に過ぎなかった何か別な〔マクロコスモス的な〕自我の中に生きていると感じます。ある超感覚的世界が立ち上がり、入り込んでくるのを感じます。

▲ 19
外的印象を取り込む神経系と血液との関係をより正確に模式図にしますと、次のようになります。}次の図で、外的印象を取り込む神経系と血液との関係をより正確に示します。
▲ 20
もし外的印象、外的体験が流れ込んでいますと、それは血液系に痕跡を残します。神経系を血液系から引き離しますと、すべてが神経系内ではね返され、それ以前は想像もできなかった一つの世界が言わば神経系の端にまで流れ込んできます。そしてそれは、反動のように感じられます。通常の意識状態では世界が、受け取られ、血液系にまで入り込み、あたかも黒板のようにそこに書き込まれます。それに対しこの状態では、人は印象と共に神経の終末点まで、神経自身に抵抗があるところまでしかいきません。この神経の終点で言わば反転し、自らから離れて超感覚的世界に生きるのです。目で受け止められた色彩印象は視神経に入り込み、血液という黒板に刻印され、「私は赤を見る」と表現されるものを私たちは感じ取ります。しかし、印象と共に私たちが血液にまではいかず、神経の終末点で止まり、そこで反転すると仮定しますと、私たちは基本的に視神経までを生きていることになります。体的表現である血液の前で反転し、私たち自身の外側で生きます。通常なら、《赤》という印象を私たちの内に作り出す光の放射そのものの中に、入り込むことになります。通常ほどには内側に深くは入り込まず、神経の終点で止まることによって、私たちは現実に自分自身から出ていくのです。魂の営みの中には、肉体的人間にとっては外的なものと感じられ、長くは一体化できないものがあります。ところが、そうした魂の営みが活性化するのです。通常の意識は血液にまで達します。しかし、魂を発達させ、神経の終末点で引き返しますと、血液をいわゆる高次の人間から切り離し、私たちが自分自身から離れることで到達しうる地点に達することができます。

▲ 21
ここでの考察では次のことがわかりました。血液系は一種の黒板になぞらえることができ、一方では外からの印象に、もう一方では内側からの印象に自らを差し出していて、この段階ではまだ高次の人間は閉め出されている点、さらにはこの状態から発展し、自分自身から離れ、通常の自我の影響から離れることで、高次の人間と呼ばれるものに到達できる点です。この血液の内的本性をすべて研究するためには、一般的見解をあちこち見るのではなく、人間のリアルな部分、つまり超感覚的な不可視な部分を観察するのが最もよい方法ですし、私たち自身、そうした超感覚的なものへ上ることができるのです。超感覚的人間そのものが血液にまで入り込んでいる様子を観察しますと、一歩進んで次のように考えることができます。人間は外界において生きることができ、外界全体に自らを注ぎ出すことができ、外界の中に解消することができ、そして、言わば自身の内的本性を、言わば外から見る立場をとることができる、と。高次の世界とは、そこに人間が自ら上ることもできますし、それを正確に知ることもできます。それでは、この高次の世界は血液という黒板にどのように書き込まれるのでしょうか。簡単にまとめますと、この問いに答えることで、血流に組み込まれた諸器官の働きも知ることができるのです。このすばらしき器官系と、より高次の世界との関係をじかに観察いたしますと、非常に多様な営みを行うこの血液が人間の中心であることがわかるのです。なぜなら、私たちの課題は、人間を超感覚的なものの開示と捉え、外的人間とは霊的世界にルーツを持つ人間の写し絵と見なせるようになることだからです。それによって、人間生体を、霊性の忠実な写し絵として認識できるのです。

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