2014年7月28日月曜日

秘されたる人体生理、第四講

1911年3月23日

■ 脾臓は重要器官であるが摘出可能

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昨日は人体内の惑星系とも言える器官を一つ取り上げ、その意味をお話しいたしましたが、今日は話をさらに先に進めていきます。その後で、他の器官系の役割に移ろうと思います。
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昨日の脾臓の話にはある種の矛盾がある、と言う人がいらっしゃいました。私は、脾臓には人間全体にとって重要な役割があるとお話ししましたが、そこに矛盾がある、というご指摘です。つまり、脾臓を人体から切除し、摘出しても人間が生きられることと、脾臓が重要な器官であるということが矛盾する、と言うのです。
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こうした反論は、現代的視点から見れば完全に正当ですし、霊学的世界観に非常に真摯に近づこうとしている人にとっては、これは一つの難所でしょう。公開講演の初日にお話ししたように、一般論から言えば、現代人にとっては…特に学問的方法を修め学問的良心を持った人にとっては…地上存在についてオカルト的に語られた内容を理解するためには、困難を克服する必要があります。原則としてそうした反論は、この連続講演が進む中で自ずと解消していきます。それでも私は、今日とりあえず、脾臓が摘出可能である事実と昨日の話がまったく矛盾しないことを示しておこうと思います。人間身体と言われているもの、外的感覚で捉えられるもの、身体において物質として見えるものとは、人間のすべてではありません。この肉体の根底には、生命体あるいはエーテル体、そしてアストラル体や自我といった、より高次の諸有機体が…これらについてこれから見ていこうと思います…存在しています。そして、エーテル体、アストラル体、自我から引き起こされる過程や形成によって、相応な形で目に見えるように現れたものが肉体的器官なのです。皆さんが本当に霊学的真実にまで上っていきたいと思われるなら、そう考えなくてはなりません。ですから、たとえば霊学的な意味で脾臓と言う場合には、外的・肉体的な脾臓に関することだけを言うのではなく、エーテル体やアストラル体で行われていることも意味し、その現れが外的・肉体的なものに相当します。ある器官とは、それに対応する霊的なものの表現なわけですが、その霊的なものが直接に表現されていればいるほど、その器官の肉体的な姿、つまり肉体的に見えるものはさほど重要ではなくなるのです。振り子の動きの中に重力が物質的に表現されています。それと同じように、肉体器官とは超感覚的な力作用、フォルム作用の物質的な現れなのです。ただ両者の違いは、振り子の運動は重力に従い、脾臓はそこに働くエーテル体・アストラル体の作用に従う点にあります。振り子を取り去りますと、重力の作用で生じるリズムを表現する物体はなくなります。無生物的自然の現象ではこうなりますが、生体では違います。その根拠はまた後で詳しくお話ししたいと思いますが、肉体器官を切除してしまっても、必ずしも高次の有機体の働きが消えてしまうわけではないのです。
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脾臓に注目するに当たって、まず肉体的な脾臓が目に付きますが、それと同時に、その元となり、その結果が肉体的脾臓であるような一連の作用系を考えなくてはなりません。脾臓を摘出しても、一旦生体に組み込まれたこの作用系は失われず、作用を続けます。霊的作用を維持するにあたって、罹病した器官はかえって邪魔になり、それを除去してしまった方がよいことすらあります。たとえば、脾臓の重篤{じゅうとく}な病気の場合がそれにあたります。切除可能な器官が何らかの深刻な病気になった場合、罹病{りびょう}した器官を放置することで霊的作用が絶えず妨げられるよりは、その器官を切除してしまう方が霊的作用にとっては好ましいことすらあるのです。ですから先ほど述べたような反論は、霊学的認識がまだそれほど深くない場合には出てくる可能性があります。これは非常に当然な反論ですし、辛抱強く時間をかけて事柄に深く入り込みさえすれば、自然に解消するものでもあります。今日の物質主義的学問に由来する知識と共に霊学的研究に入りますと、次々に矛盾が生じまったく先へ進めなくなる、という事態を皆さんは必ず体験されるでしょう。ここで性急な判断をしてしまいますと、霊学はまったく頭がどうにかしていて、到底学問的とは言えない、という結果にしかなりません。しかし、忍耐と時間をかけて事柄をしっかりと受け入れますと、霊学的内容と通常の学問的研究との間には、欠片{かけら}ほどの矛盾もないことがわかるはずです。このような困難が生じる原因は、霊学的認識、アントロポゾフィー的認識の幅が非常に広く、示すことのできるのが常にその部分でしかないからです。そして、こうした部分だけを聞きかじりますと、今述べたような矛盾を感じやすいのです。

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しかし、だからと言って恐れをなして引き下がってはいけません。それをしなければ、この時代のあらゆる知恵、あらゆる人間形成にアントロポゾフィー的世界観を取り入れる、という不可避な課題がなされないからです。

■ 脾臓のより重要な働き

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私は昨日、人間が不規則に食事を摂ったとしても、脾臓の働きによってそれが人間のリズムにもたらされることをお伝えしようとしました。私が最初にこれを取り上げたのは、脾臓が持つさまざまな働きの中でそれが最もわかりやすいからです。しかし、最もわかりやすいからと言って、それが最も重要であったり、最も主要な働きであったりするわけではありません。もし人が自分の正しい摂食リズムを知り、それに沿って摂食したなら、脾臓はこの意味での活動をする必要がなくなるはずだからです。…これだけでも、昨日お話しした脾臓の機能が枝葉的であることがわかります。ずっと重要な事実とは、栄養摂取にあたって、栄養物に立ち向かわなくてはいけない点です。つまり、栄養物は外界の素材で、外界における結合の仕方をそのまま持っていますので、それを摂取する際に、私たちはそれと立ち向かわなくてはならないのです。こうした栄養物は素材としては死んでいる、あるいはせいぜい植物に由来する生命を持っているに過ぎない、と観てしまいますと、外界の素材が栄養物として生体に取り込まれて、広い意味での消化作用によって変容される、と考えるはずです。実際多くの人が、摂取された栄養物とは方向性のない中立な素材で、私たちはそれをどうにでもでき、摂取すればすぐにでも変容しうる受け身なものと考えています。しかし、そうではありません。煉瓦は、建物を設計通りにどのようにでも組み上げうる素材ですが、栄養物はそれとは違うのです。煉瓦が建築家の設計に沿ってどのようにでも積み上げうるのは、最低限建築の領域では、それ自体が何のつながりもなく、命を持たない塊だからです。しかし、人間にとっての栄養物はそうではありません。周囲にある素材はすべてある種の内的な力、内的法則性を担っています。内的法則性や内的活動性を持つ、というのは素材の本質です。外界からの栄養物摂取とは、栄養物に、言わば私たち自身の活性を与えることを意味しますが、それは自然には起きません。栄養物はそれ独自の法則、独自のリズム、独自の内的運動性を保ち続けようとするのです。人間生体がそうした栄養物を自分の目的に適ったものにしようとするなら、素材の持つ固有の活性を消し去り、それを次の段階に持ち上げなくてはなりません。どうにでもなる材料を加工するのではなく、素材の持つ固有の法則性と立ち向かわなくてはならないのです。素材がそれぞれ固有の法則を持つことは、たとえば強い毒を摂取したときに感じ取ることができます。毒固有の法則性が体内でも活動し続け、その人を支配してしまうことは、すぐにわかるでしょう。このように毒は固有の法則性を秘めていて、その法則性が生体を攻撃するわけですが、それと同じことが私たちが摂取するあらゆる栄養物について言えるのです。栄養物とはどうにでもなる物ではなく、その固有の本性や性質を主張し、固有のリズムを持つ物なのです。そして人間は、このリズムに対抗しなくてはなりません。生体内では、どうにでも加工できる構成材料を扱うのではなく、まず初めに構成材料独自の性質を克服しなくてはなりません。
▲ 07
栄養物は人間の中でまずいくつかの器官と出会いますが、そうした器官の中に、栄養物の固有の生命に…この《生命》という言葉は広い意味でお考えください…対抗する道具があります。不規則な食事で体内リズムが乱れることだけが問題なのではありません。栄養物自体が固有のリズムを持ちますから、その人間のリズムとぶつかり合うリズムを変えなくてはならないのです。そのために働く諸器官の中で最も外側にあるものが脾臓なのです。このリズム変換、反抗、変容には他の器官も働いています。つまり、脾臓、肝臓、胆汁が互いに協力して一つの器官系となり、栄養摂取に際して栄養物が持つ固有の本性を押し返す役目を担っています。食物が胃に届く以前の働き、胃の活動、胆汁分泌による作用、肝臓や脾臓の活動、これらすべてが、摂取された栄養物が持つ固有の本性に対抗する作用なのです。栄養物はこれらの諸器官の作用を受け、人間生体内のリズムに適応します。変容させられてはじめて、自我の担い手であり自我の道具であるあの器官系、つまり血液系に取り込まれることができるのです。栄養物は血液に取り込まれ、血液に自我の道具となる能力を与えますが、それを可能にするには、血液に取り込まれる前に、栄養物の固有の外的性質がすべてそぎ落とされなくてはなりませんし、完全に人間独自の本性に即したものになって血液に到達しなくてはなりません。ですから、次のように言えます。脾臓、肝臓、胆汁、さらに遡って胃までの諸器官とは、外界から食物を受け取り、それが持つ外界の法則を、人間の内的有機体、人間の内的リズムに適応させる器官なのです。

■ 外界とのかかわり

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さて、人間本性は全体として働きますから、すべての部分を内界に向けているのではありません。内側の人間本性は絶えず外界と調和し、生き生きとした相互作用を行っていなくてはなりません。しかし栄養物を介した関係では、肝臓、胆汁、脾臓といった器官系が外界に対抗しますから、外界との相互作用は断絶しています。これらの働きで、外界の法則性はすべて排除されています。もし人間がこれらの器官系しか持たなかったら、外界と完全に隔絶し、完全に自己完結した存在になってしまいます。したがって、他の要素も必要なのです。一方で、外界を内界にふさわしく変容するための器官系が必要ですが、他方で、自我の道具が外界と直接に向かい合える必要もあります。つまり、生体が外界から隔離された存在となってしまわないように、生体自身が直接に外界と関係する器官が必要なのです。血液が、一方では外界固有の法則性をすべてそぎ落とした上でかかわり、他方では、外界をそのまま直接に取り込むかたちでかかわります。それは、血液が肺を流れ、外気と触れ合うことで実現されます。こうして血液は外気の酸素によって活性化されますが、このときは酸素が持つものを何も弱めずに受け入れています。実際、空気中の酸素を、人間は自我の道具に直接に、酸素の本性や性質そのままに取り込みます。こうして非常に奇妙な事実と向かい合います。人間が持つ最も高貴な道具、自我の道具である血液とは、前述の諸器官系によって丁寧に濾し取られた栄養物を受け取る存在でもあるのです。こうして血液は、人間の内的有機体、内的リズムの完全なる表現となる能力を持ちます。ところが、それ自身が持つ内的法則性や活性をそのままに、何の衝突もなく取り込まれることが許されている外界の物質があり、それが血液と直接に接触することによって、人間生体は自己完結したものにならず、外界との結びつきを持つことができるのです。

■ 内界と外界の出会い

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こうした観点からも、人間の血液有機体のすばらしさがわかります。血液系とは、真の意味で、人間自我のリアルな表現手段であり、事実、一方では外界に向かい、もう一方では自分自身の内側に向かっているのです。人間が神経系という、言わば回り道を介して外界の印象を受け取っていることはすでに見てきましたが、その関連で言えば、肺では、空気中の酸素と血液が直接に触れ合っています。ですから私たちの中には、一方で脾臓・肝臓・胆汁系、もう一方で肺系という対極的な働きをする二つの系があって、これらが血液で接している、と言えるのです。血液が、一方で外気と接し、もう一方で固有の本性を取り除かれた栄養物と接することで、生体内の血液で外界と内界が直接に接します。こう言っても差し支えないと思いますが、電気のプラスとマイナスのように、人間の中で世界のこの二つの働きがぶつかり合います。このように世界の二つの作用系がせめぎ合いっています。そして、そのせめぎ合いの作用を受け止めるにふさわしく作られた器官があります。その器官がどこにあるのかはすぐに想像できるでしょう。血液が心臓に流れ込みますと、変容した栄養液は心臓にまで作用します。また、心臓に血液が流れ込みますと、外界から直接に血液内に入り込んだ酸素が心臓に作用します。ですから、心臓とは二つの系が出会う器官であり、また人間とはこの二つの系の中に組み込まれ、その二つの面とかかわっているのです。一方には内的器官のすべてがぶら下がり、もう一方では外界のリズムや活性と直接につながる器官が心臓である、と言えるでしょう。

■ 内界と外界の調和


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この二つの系がぶつかり合い、そこですぐに調和が生まれることなどあり得るでしょうか。酸素や空気を取り込むことで私たちに作用する大きな世界システムと、栄養物を変容させ身体内部の小さな世界システムがありますが、この二つのシステムが血液の中で心臓を通り抜けるだけで、調和的なバランスをとることなど考えられるでしょうか。もしそうだとしたら、この両システムが内的バランスを作り出す中で、人間は、言わばその両方から引っ張られることになります。この連続講演が先へいけば、人間本性と世界の関係はこうではないことがおわかりになるはずです。実際はむしろ外の世界は完全に受け身で、力は送り出すものの、その扱いは完全に人間の内的活動に委ねられますし、またその内的活動が人間を挟む二つのシステムの中でバランスを取るのです。人間に自らの内的活動の余地が残されていること、内的なバランスを作り出す役割が器官レベルで人間に委ねられていること、この二点が本質的に重要であることは、やがておわかりになるでしょう。ですから、この二つの世界システムに調和を与え、バランスをとるためのものを、まさに生体内に探さなくてはなりません。外界の法則性は人間に直接入り込んできますし、人間内部の独自な法則性は摂食に伴って入り込んでくる外界の法則を変容させますが、この二つだけでは調和はもたらされない、とはじめから言えたはずです。この調和は人間の特別な器官系によってもたらされます。人間自身が、この調和を作り出さなくてはいけないはずです。その過程は意識的なものではなく、無意識的です。一方には脾臓・肝臓・胆汁系が、もう一方には肺系があり、それらが心臓を流れる血液で向かい合っていますが、そこにさらに、これも血液と密接な関係にある腎臓系が組み込まれることによって、この二つの系にバランスがもたらされるのです。
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血液が空気と直接に触れることによる外界からの作用と、栄養物に働きかけその固有の性質をそぎ落とすための諸器官に由来する作用、この両極の作用を、言わば調和させるのが腎臓系なのです。もし前述の二つの系が不調和のまま作用すると余分なものが生じえますが、腎臓系はその余分なものを排除しうるのです。

■ 内臓と太陽系

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以上で内的有機体のすべてが出そろいました。消化器系とそれに続く肝臓、胆汁、脾臓といった内臓器官があり、これらが血液に対置しています。そしてまた、これらの内臓器官は血液系の素材を準備します。他方、血液には別な器官も対置していて、それが内臓器官系に由来するものと外界に由来するものとのバランスをとり、隔離の側に偏り過ぎてしまわないようにしています。…この正当性はまた後に見ていきますが…血液系とその中心である心臓を生体の中心と考えますと、この血液系を基準に整理することができます。すると、一方には肝臓、胆汁、脾臓系を、もう一方には…心臓とはまた別なつながり方をしていますが…肺系を並べることができます。その中間に腎臓系が来ます。肺系と腎臓系には非常に興味深い関係がありますが、それはまた後で見ていきましょう。今は細部には入り込まずに、全体の関連を見ていきます。これらいくつかの系を非常に単純に模式化して並べますと、それだけで、人間の内臓にはある特定の関連があること、そしてその関連では、心臓とそれに付随する血液系が最も重要であることがわかります。

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オカルティズムの世界では、脾臓作用を土星的作用とし、肝臓作用を木星的、胆汁作用を火星的作用としていることはすでに申し上げました…この名称の正当性はさらに詳しくわかるはずです…。それと同じ根拠から、オカルト的認識では心臓とそれに付随する血液系を人体における《太陽》としていますし、それは惑星系での太陽の役割に対応します。また、オカルティストは肺系を《水星》、腎臓系を《金星》とします。…こうした呼称の正当性についてはここでは検討しませんが…人体の諸系をこのように呼ぶことで、それが内的宇宙であることが暗示されますし、血液系と関連する二つの器官系もこの視点から見ることができます。諸関連をこうした意味で考察したときに初めて、人間の内的宇宙と呼べるものの全容が現れてきます。水星や金星と太陽との関係が肺や腎臓と心臓との関係と同じように考えられますが、オカルティストはその根拠をきちんと把握しています。それを実際に示すことが、今後の講演における私の課題でしょう。

■ 血液にかかわってくるもの

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そのリズムを心臓が表現し、また自我の道具である血液系には、何かがあることがわかります。そして、その何かの形態、内的本性、構成要素は人間の内的宇宙によって方向付けられ、またその何かが、今あるように生き、また生きられるためには、そのような(マクロコスモス的な)全体としての系に組み込まれていなくてはなりません。この人間の血液系とは…もう何度も申し上げていますが…私たちの自我の肉体的道具なのです。現在の私たちが持つような自我は、肉体、エーテル体、アストラル体という基盤の上に構築されて初めて成り立つことがわかっています。世界をふらふらと自由に飛び回る自我などというものは、私たちのこの世界では考えられません。人間の自我にはその基盤として肉体、エーテル体、アストラル体が不可欠です。霊的な意味において、この自我は今述べた人間の構成要素を前提としていますが、それと同じように肉体的な意味においても、つまり自我の肉体的器官である血液系も、アストラル的肉体器官、エーテル的肉体器官を前提にしています。血液系は他の器官系を基盤にして初めて発達しうるのです。植物は、無生物的自然環境を基盤にしても難なく育ちますが、人間の血液器官の基盤としては、単なる外的自然では役に立たず、まずその外的自然を変容しなければならない、と言わざるを得ません。人間の肉体がエーテル体やアストラル体を前提にするのと同じように、体内に入ってくる栄養素材は、人間自我の道具になるためにまず変容を受けなくてはなりません。
▲ 15
この自我の肉体的器官である血液は肺を介して外界に規定されている、という言い方もできます。しかし、もっと厳密に言えば、肺も一つの肉体的器官に過ぎませんから、外的リズムが血液に働きかけるときには、この器官が働きかけているのではなく、この器官を介して取り込まれた空気の持つ外的リズムが血液に働きかけているのです。ここで私たちは、次の二つを区別しなくてはなりません。一つは人間に向かって外から空気というかたちでやってきて、吸い込まれ、外界のリズムを直接に血液に浸透させうるものです。もう一つは、自我にとっての生きた器官である血液に直接に入り込むのではなく…どのように入り込むかはすでにお話ししました…魂という回り道を通って入り込むもの、つまり、感覚器がそれを受け取り、血液という黒板に書き込まれる外界の印象です。ですから人間では、まず呼吸を介して取り込まれた空気によって外界と物質的に直接に触れ合い、その影響を血液にまで及ぼし、その他に、周囲の世界に接する感覚器官を介して魂内に知覚過程が生じ、外界と非物質的に触れ合う、と言えるでしょう。このように呼吸プロセスよりもさらに一歩高次なプロセスがあり、これは霊化された呼吸プロセスとも言えるでしょう。呼吸プロセスによって外界を物質的に取り込む一方で、感覚知覚プロセスという霊化された呼吸プロセスによって…ここで《感覚知覚》という語は、人間が外的印象に関連して作り上げたものすべてを指します…私たちは何かを内に取り込みます。ここで、この二つのプロセスはどのような共同作用をするのだろうか、という疑問が生じます。と申しますのも、人間生体内ではすべてがかかわり合いながら働いているからです。

■ 感覚知覚からの作用と栄養物からの作用

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この問いをより正確に見てみましょう。…正確に問うか否かは本質にかかわります…。そうすることで、とりあえず今日のところは仮説的ですが、答えをイメージできるからです。一方には、血液を介して作用するもの、内臓器官でのプロセスを経て血液になったものがあり、もう一方には、外的感覚知覚プロセスによって血液になっていくものがあります。そしてこの両者の間でどのような共同作用、相互作用が行われるかをはっきりさせなくてはいけません。この両者の間では相互作用が生じるに違いないのです。血液とは、いろいろな意味で徹底的に濾過され、非常に多くのことがかかわり、自我の道具となりうるすばらしく有機化された素材であるとは言え、それでも物質的な素材であり、それ自身は肉体に属します。それゆえ、人間の血液中で作用する肉体的プロセスと、感覚知覚と呼ばれる魂内の事柄は、とりあえずは非常にかけ離れている、と言わざるを得ないでしょう。これは普通に考えたら、否定し得ない現実です。血液素材、神経素材、肝臓素材、脾臓素材等々はリアルであるとするのに、知覚、概念、理念、感情、意志インパルス等々はリアルではないとする奇妙な考え方をとるなら別ですが。この両者のかかわり方については、各世界観同士で論争が見られます。つまり、思考が単に何らかの作用、神経物質といったものの作用である、という世界観と、そうでないという世界観の論争です。この問題では世界観同士の論争が起きうるのです。しかしどのように論争するにしても、外界の知覚、それを元に作られるもの、思考、感情など、魂的営みは現実である、という事実は当然見過ごすことはできません。注意してください。私は「隔離された現実」とは言っていません。そうではなく「現実そのもの」と言っています。なぜなら、世界においては何物も隔離されてはいないからです。「現実そのもの」という表現はそんなに明確ではありませんが、実際に観察できるものとお考えください。それには胃、肝臓、脾臓、胆汁などと同じように、思考、感情なども含まれるのです。

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この二つの現実を並べますと、他にも気付くことがあります。つまり、一方には、非常に綿密に濾過された物質である血液があり、もう一方には、一見物質的なものとは無関係と思われるもの、つまり思考、感情などの魂的内容があります。この二種類の現実に直面することで、実際に、ある種の困難が生じてきます。さまざまな世界観は、この現実に直面しますと、ありとあらゆる解答を無駄に積み上げるのです。魂的なものである思考や感情が、肉体的なものに直接働きかけ、あたかも思考が物質素材に直接働きかける、と考える世界観もあります。その対極にあるのが、物質主義的な世界観です。つまり、思考や感情などが肉体的・物質的な過程から作り出される、と考える立場です。この二つの世界観の間の論争が巷で繰り広げられ、長い間、重要な意味を持っていました。…ちなみにオカルティストは、そのような空疎な言葉による論争には荷担しません。しかし、それでも一歩も進めなくなり、近代になって《心理身体並行論》という奇妙な名前の別な見解が出現しました。…精神が身体プロセスに影響を及ぼすのか、それとも身体的プロセスが精神に働きかけるのか、このどちらの考え方が正しいかをまったく判定できなくなってしまったので、単純に、この二つのプロセスが並行している、と言っているのです。考えたり感じたりしているとき、肉体ではある特定の過程が並行して起きている、と言うのです。…「私は赤色を見る」という知覚の場合、それに対応して何らかの物質的過程が神経系で生じている、と言う見解です。赤を知覚し、またその知覚に喜びや痛みが伴うとき、そこにも物質的な過程が対応しています。そして、「対応する」という以上のことは言いません。この理論では事実上困難から逃げてしまい、棚上げしています。こうした土壌からは無益な論争が湧き上がり、何も説明していない心理身体並行論なるものが生まれてきました。それは、まったく見当違いの領域に迷い込み、それを元に答え出そうとしたからです。魂内の活動を見るなら、それは非物質的な過程ですし、非常に繊細に組織されたものである血液であろうと、それに類するものは物質的な過程です。…物質的活動と魂的活動…この二つを並べて、両者がどのように作用し合うかをいくら懸命に考えても、そこからは何も生まれません。こう考えても勝手な解答をでっち上げるか、あるいは解決できないとわかるだけです。より高次の認識を身につけますと、この問題に何らかの判断を下すことができます。外界を物質的に観ているだけでもなく、思考を物質的外界と結びつけるだけでもありません。物質的なものを超え、超物質的世界へと導いてくれる認識形式を私たちは見つけなくてはなりません。諸々の感情など、一切の魂的営みを行いつつ、私たちは物質界に生きていますから、物質界が魂的営みの場ではありますが、その魂的営みの根源は超物質界です。ですから私たちは、魂的営みからその超物質界へと向かっていかなくてはなりませんし、また、物質的なものからも超物質界に上っていかなくてはなりません。つまり、私たちは二つの側から超物質界に上っていかなくてはならないのです。

■ 魂と物質をつなぐエーテル体(記憶を例に)

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物質の側から超物質界に上るためには、私が前に述べた修練、外的感覚的なものの背後を見えるようにする修練、感覚印象が織り込まれているヴェールを通してその背後を見るための魂の修練が必要です。人間の外的器官を観察するとヴェールとしての感覚印象が得られますし、その点では、体内で最も繊細に組織された血液であっても同様で、そこからは物質的・感覚的なものが得られます。超感覚的世界に至るには、魂の修練が必要です。まず、魂的印象を受け取っている立ち位置よりも一段深い地点、つまり物質的地平の下に降りなくてはなりません。物質的・感覚的世界の下で、生体の超感覚的要素であるエーテル体に出会います。このエーテル体は…これについては、まさにこのオカルト生理学的立場からより詳しく取り上げますが…超感覚的有機体です。そして、とりあえずこれは、目に見える人間生体の原型であり、この超感覚的基礎素材から生体が形成されてくると考えておきましょう。当然ながら、血液もこのエーテル体の写しです。物質的・感覚的有機体の背後へ一段深く降りた地点で、私たちは人間のエーテル体という超感覚的部分と出会いました。ここで、この超感覚的なエーテル体には、もう一つ別な側から、つまり魂の側、外界の印象を元に作り上げる知覚、思考、感情の側から近づくことができるかを検討してみましょう。
▲ 19
そうしますと、魂的営みからは、さらに直接的にエーテル有機体にいきつけることがわかります。さて…これで今日の考察を締めくくりたいと思いますが…魂内の活動では、まず外界から印象を受け取り、つまり、外界が感覚器官に働きかけ、その外的印象は魂内で加工されます。いいえ、加工などという生やさしいものではなく、知覚印象を消化し自分の中に吸収しています。記憶、想起といった簡単な現象を考えてみましょう。何年か前に外界の知覚から作った印象やイメージを,今度は魂の奥底から引っ張り上げます。樹とか匂いとかの単純な例で考えましょう。するとそれが想起です。ここでは、外界の印象を元に、魂の中に何か持続的なものが溜め込まれた、と言わざるを得ません。魂の修練を経て、魂そのものまでをも見ますと、次のことがわかります。つまり、溜め込まれた印象を想起像として呼び戻せるまでに魂的営みを高める瞬間、この魂的体験の中で、私たちは自我だけで活動しているのではありません。自我と共に外界に向かい合って、印象を受け取り、それをアストラル体の中で加工する場合、私たちはそのすべてを自我だけで行っています。しかしそれだけでしたら、すべてをその場で忘れてしまうはずです。結論を導き出すとき、私たちはアストラル体の中で活動しています。しかし、印象をしっかりとしたものにし、少し後に…たとえそれが数分後であっても…それを再び呼び戻せるようにする場合、自我が得てアストラル体が加工した印象は、エーテル体に刻印されているのです。このように記憶表象とは自我によってエーテル体に刻みつけられたものですし、その内容は、外界に触発されて生じる魂的活動から得ています。このように私たちには、魂の側からエーテル体に記憶表象を刻み込む能力があります。そしてまた体の側からは、それが生体に最も近い超感覚的存在であることがわかっています。するとここで、この刻印の様子はどのようなものであるか、という問いが生まれます。アストラル体で加工されたものがエーテル体に取り込まれる成り行きは、実際にはどうなっているのでしょうか。アストラル体はどのようにしてそれをエーテル体に導き入れるのでしょうか。

■ エーテルの流れと二つの脳内器官

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この導き入れ方は非常に注目に値します。まず自我の肉体的表現である血液が身体全体をどのように流れるかを非常に単純化して観てみましょう。…ここでは私たちは完全にエーテル体の中に居ると考えましょう…。するといろいろな様子が見られます。自我が外界に呼応して活動する様子、自我が受け取った印象を表象へと凝縮していく様子などが見られ、それに伴って血液が実際に活動する様子も見られます。しかし血液ではそれ以上のことが見られます。血液循環全体が上に向かって…下にはわずかですが…随所でエーテル体を活性化し、いたるところでエーテル体が決まった道筋で流れ始めるのが見られます。その流れは、あたかも血液に結びついているように見え、心臓から頭部に向かい、さらに頭部で集まるように見えます。その流れはおよそ…外的な喩えをさせていただけるなら…電流のように、向かい合う二極の一方に集まり、プラス・マイナスの電気が打ち消し合うように振る舞います。

▲ 21
外界の印象によってエーテル的諸力が呼び起こされ、それによってエーテル体に記憶表象が刻み込まれます。そしてこの成り行きを、修練を積んだ魂によってオカルト的に観察しますと、エーテル的諸力がもの凄い緊張にあって、ある一点で激しく一体になろうとしているのが見えます。これは記憶力にならんとするエーテル的諸力と見なせます。脳に向かって上り、そこで一つにまとまるエーテル的流れの最後の部分を事実に即して描くとしたら、このようになります。ここには一点に集められた凄い緊張が見られ、これはあたかも「エーテル体の中に入るぞ」と言っているかのようです。ここで、この頭部のエーテル的流れとぶつかる別な流れがリンパ系から発するのが見えます。記憶が形成されようとしているときには、ちょうどプラスとマイナスの電極がもの凄い電圧で互いを打ち消し合おうとするのと同じように、脳の中に二つのエーテル的流れがもの凄い力で集約されるのです。この二つのエーテル的流れは実際に合流し、それによって表象が記憶表象になり、エーテル体の一部になります。

▲ 22
こうした超感覚的現実、生体内のこうした超感覚的流れは人間の生体にも現れています。つまり、こうした流れによって知覚可能な肉体器官が作り出されているのです。間脳には、記憶表象にならんとするものが目に見える形で表現されています。脳内の別な器官がそれに対置していますが、それは下部の諸器官から来るエーテル体の流れの現れです。エーテル体内における二つの流れが肉体的・感覚的なものとなってこの二つの脳内器官として現れていますし、これらはまた同時に、エーテル体内でそうした流れが生じていることを示す最終的な徴{しるし}でもあります。これらの流れがしっかりと集約され、生体内の素材を取り込み、密に固まってこれらの器官になったのです。そして実際に、一方の器官からもう一方に向かって明るい光の流れが放射するのが見えます。この記憶表象を作り出さんとする肉体器官は松果体であり、それを受け取る側は脳下垂体です。

▲ 23
ここは身体の中で非常に特別な部位です。ここでは魂的なものと体的なものが協働し、それが肉体器官としても表現されているのです。

▲ 24
以上の原理的なことの紹介で今日の講義を終わりたいと思います。この先の明日以降、さらに詳細に述べ、正確な証明も付け加えたいと思います。次のような考えを、正確に持ち続けることが大切です。まず、超感覚的なものの研究が可能であること、さらにはその超感覚的なものが肉体的に表現される場合どのようなものができうるか、そして、それが実際に存在するか、を問うことができる点です。ここでは、実際その通りであることを見てきました。ここで取り上げているのは、超感覚的なものへの入り口となる感覚的なものです。ですからこれらの諸器官について述べていることを、物質科学が非常に怪しげなものと見なすのもご理解いただけると思います。さらには、外的学問ではこれらの諸器官について、まったく不十分で曖昧な情報しか提供できない点もまた、ご承知いただけると思います。

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