重要な視点と方法論的コメント
■魂的視点、霊的視点
魂界にかかわる事柄については、共感・反感の視点がもっとも本質的である。 また、霊的視点で観る場合には、覚醒・夢想・熟睡といった覚醒状態が本質的である。 しかし、単に意識状態だけを問題にするのではなく、熟睡状態では物質的には強い作用を受け、目覚めた状態ではその作用は少ない、という相関関係にも注意する必要がある。■事実と事実を関係づける
アントロポゾフィーの方法論は、「事実と事実を結びつける」ことに尽きると言っても過言ではない。理論を構築するのではなく、あくまでも事実を結びつける。ただし、事実にもさまざまな層があり、物質的事実もあれば、魂的事実、霊的事実も存在する。したがって、事実を結びつけるときには、こうした領域も視野に入れなくてはいけない。■子ども=体的、中年=魂的、老年=霊的
子どもでは感情が意志につながり、老年では感情が思考につながっている点を取り上げている。これは、日常的にも体験できるので、納得しやすいだろう。子どもは喜ぶと跳ね回るが、老人はそうではない。■感受は意志的(認識的ではない)
日本語ではなじみのない表現ですが、知覚にかかわることをより精密に描写するために、訳語として導入している。シュタイナーが「感覚知覚」について述べるときには、
- Empfindung(エンプフィンドゥング)と
- Wahrnehmen(ヴァール・ネーメン)の
Empfindungは感受
Wahrnehmenは知覚、つまり、Wahr=真実、nehmen=取る、「真実として取る」という意味である。
ドイツでの《感受》の典型的な用例としては、春先にくしゃみが止まらなくなった人が、「私は花粉に感受的になっている」といったものがある。この場合、身体は花粉に反応しいているが、花粉の存在を意識的に知覚してはいない。
したがって、
- 《感受》=無意識な体的プロセス
- 《知覚》=感受されたものが意識化されるプロセス
ただし、シュタイナーも常に厳密に区別して使っているわけではありませんので、状況によって文脈から理解する必要がある。
■「感受が意志的」という視点は何に重要か?
ここであらすじとは少し離れるが、「感受が意志的」であると考えることで、どのようなことが実際に分かってくるかを考えてみよう。 生徒、特に低学年の生徒が先生の話を聴いている状況を考えよう。 生徒は、たとえば「お姫様が森の中に入っていきました」という内容を意識的に捉えている。 しかし、《感受》という側面で考えれば、そこには同時に、子ども自身には意識されず、しかし身体的・魂的には深い影響を与える部分がある。 その意識されない部分の一つが「教師の声の質」であることは間違いがない。響きが豊かで包み込むような声であれば、教師としては理想的である。逆に、ビリつくような声、鼻づまりの声、響きがなく弱い声が望ましくないのは明らかだろう。実際、もちろんすべてのケースに当てはまるわけではないが、学級崩壊を起こしたクラス担任の声が何らかの意味で弱い場合はしばしば観察される。 そう考えると、1919年にこの『一般人間学』と並行して行われたゼミナールで、シュタイナーが言語造形の練習を不可欠なものとして取り入れていることは興味深い。教師の話す内容だけでなく、そこでの言葉や声までもを重視していたと思われるからである。 ところで、私が知る日本でのシュタイナー系言語造形練習のわずかな例は、シュタイナーがこのゼミナールで取り上げた練習の伝統とはかけ離れていた。したがって、日本語での《言語造形》を体験するだけでは、シュタイナー学校教師にとって重要な部分が伝わらない可能性があることは指摘しておく。 これを避ける非常に簡単な方法がある。 身近な言語造形の先生に《ドイツ語の言語造形練習》をリクエストし、各自がそれを練習してみれば、誰でもその違いを体験できる。 《感受》を重視するなら、学校や幼稚園の空間の快適さも重要な要素になるはずである。 もちろん、予算を無視して理想空間を作ることはできないが、空間が及ぼす影響が人間の深部にまで渡ることを知っていたら、空間の快適さを無視して効率だけで教室を建築することはないだろう。
■覚醒、睡眠の身体地図
人間の各部でも、意志領域は当然眠っているので、代謝、四肢、感受領域に当たる部分、つまり体表面や体深部は眠っている。 それに対し、神経領域、つまり身体中層部は目覚めている。これはシュタイナーのここまでの論理をたどれば、当然の帰結である。そして、「神経では霊的に無であるので、霊を把握しうる」という次の説明につながっていく。■「神経では霊的に無であるので、霊を把握しうる」
この言葉を段階的に理解してみよう。 まず、「眼は透明であるので、外界を見ることができる」というのは納得しやすい事実だろう。 次に、「私たちは三角形を霊的に把握することができる」。(この点については霊界?の項を参照していただきたい。) そして、これを認識できるためには、私たち自身が「霊的に透明」である必要がある点も納得いただけるだろう。 日常的にも、自分が透明ではなく、何かに囚われているために相手の話が理解できない、ということはしばしばある。 ここまでわかれば、神経が霊的に無でなければ、霊的な事柄、たとえば三角形を捉えることができないはずだ、というところまで理解が深まったことになる。■「神経が霊的に無である」とはどういうことか。
まず、私たちが《秩序》や《法則》と呼んでいるものはすべて霊的なものである。なぜなら、私たちはそれを知覚するが、外的感覚器官で捉えているのではないからである。たとえば、幾何学で言う大きさのない《点》を見ることは不可能である。《点》という霊的な法則性を思考によって捉えている。 さて、私たちの身体ではタンパク質や糖類がさまざまに結合し、考えられないくらいに高度に複雑にからみあい、調和を保っている。小腸で吸収されたアミノ酸が肝臓で低分子量のアルブミンに合成され、それがさらに各臓器で必要なタンパク質として合成されていく。これらの過程を現代の分子生物学は克明に解明していく。 これらの事実を知れば知るほど、生体の諸過程が厳密に法則性に則って進行していることがリアルに想像できるようになるだろう。 その法則性がDNAである、と考えてしまったら間違いである。確かにDNAはそうした法則性の物質的な条件ではある。しかし、法則性そのものではない。神経細胞も肝臓細胞も同じDNAを持っているが、そこで作られるタンパク質は同じではない。 このように、生体が成り立っていくためには、厳密な物質過程が必要で、その物質過程一つ一つに法則、つまり霊的なものが浸透しているのは否定できない事実である。したがって、人体が成り立つためには、とてつもない霊性が物質にかかわっているし、その物質にかかわる霊性をここでは仮に《タイプ1の霊性》と呼ぼう。シュタイナーは、このタイプ1の霊性を人間は意識することはないし、意識できないように守られている、とも言っている。 さて、霊性にはもう一つのタイプがある。それは先ほど三角形で挙げたタイプの霊で、これを人間は像として意識的に捉えることができる。これを《タイプ2の霊性》としよう。 すると、「神経では霊的に無であるので、霊を把握しうる」という言葉は、より厳密に「神経では《タイプ1の霊性》が無であるので、《タイプ2の霊性》を把握しうる」と言い換えることができる。 ここで神経の生理学的側面を見てみよう。 神経も生体の一部であるから、法則性を持った何らかの生理作用がなくては生存できない。その意味では、《タイプ1の霊性》が完全に無であるわけではない。 それでは、さまざまな刺激は神経をどのように伝わるのだろうか?- 神経の細胞膜では、カリウム(K)をエネルギーを消費しつつ積極的に取り入れ、ナトリウム(Na)を積極的に排出している。これはナトリウム・ポンプと呼ばれる。
- 細胞外はNaが多く、内はKが多いので、電気的には外が+、内が-になっている。(分極)
- 刺激がやってきて、神経が興奮状態になるとKとNaの内外濃度が瞬間的に逆転する。(脱分極)。これにはエネルギーは不要で、立てたドミノが倒れるような現象である。(神経がドミノだとすれば、倒れたドミノはすぐさまエネルギーを使って立てられることになる)。
- 神経の興奮を物質的に見るとこのような現象であり、現在の研究レベルでは「三角形についての思考」であろうと、「リンゴを美味しそうと思う」のも、同じ脱分極反応でしかなく、《タイプ1の霊性》という立場からは、同じものでしかない。肝臓はブドウ糖にもアミノ酸にも働きかけるが、そこではそれぞれ別な《タイプ1の霊性》がかかわるのであるから、生体の化学工場と言われる肝臓には無数の《タイプ1の霊性》が存在するのとは対照的である。
以上が神経における《タイプ1の霊性》の様子である。 つまり、わずかな生理作用、言い換えるとわずかな《タイプ1の霊性》を基盤に、《タイプ2の霊性》が豊かに活動している、と言えるだろう。
■現象の対応
第9講の内容を予告するかたちで、記憶・忘却がそれぞれ覚醒・睡眠に対比できることに触れている。
『神秘学概論』ではこれらを四つの構成体との関係で述べている。 死、睡眠、忘却と自我、アストラル体、エーテル体、肉体の関係をまとめると次のようになる。
死 睡眠 忘却
自我 自我 自我
アストラル体 アストラル体 -分離-
エーテル体 -分離- アストラル体
-分離- エーテル体 エーテル体
肉体 肉体 肉体
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