■表象と意志の対極について
思考(表象)と意志は対極ではあるが、両者は互いに混ざり合っていて、機械的に《対極》と割り振ることはできない。■感覚には意志と認識の両方がある
たとえば視覚では、共感・反感、つまり神経的なものと血液的なものの両者があり、バランスが取れている。神経系=網膜、血液系=脈絡膜人間の眼と動物の眼 動物の眼はずっと共感的で、剣状突起などの血液的器官が発達している。逆に、人間の眼は反感的であるがゆえに、認識が可能なのである。
■意志は主に共感的
意志は基本的に共感的であるが、成長と共にそこに反感的な要素を加え入れ、つまり意志に認識を加え「人間的行動」へと導く。■感情は思考と意志の中間に位置する。
まず、感情では思考と意志がしっかり結びついている。「激情による行為」では、感情が意志に流れ込んでいる。
また、感覚知覚も感情とかかわりあっている。知覚によって感情が動くのは周知だろう。
さらには、思考的要素である判断にも感情が流れ込んでいる。判断については、ジークヴァルトとブレンターノの論争がある。 ジークヴァルトは「判断には感情が重要」とし、ブレンターノは「判断には思考が重要」と考えた。しかし、私たちの判断の現実を見ると、判断内容には思考が重要であるが、正しいという確信は感情に表れる、という折衷案が妥当である。
身体的には、感情は血液と神経の出会うところで生じる。
■音楽においても思考的要素重視派と感情的要素重視派の対立があった。
思考的要素を重視:ハンスリック感情的要素を重視:ワーグナー
ワーグナーは自作の『マイスター・ジンガー』でハンスリックをパロディ化したベックメッサーを登場させ、「形式ばかりに捕らわれた音楽」を歌わせている(YouTubeのベックメッサー)。また、持論は主人公のヴァルターのアリア『朝のように輝き』に託している(YouTubeのヴァルター)。
■個々の感覚はそれぞれに異質
聴覚には聴覚の質があり、視覚には視覚の質がある。したがって、「感覚一般」という言い方はできない。十二感覚論は第8講でやや詳述している。■人間は成長に伴って現実を獲得していく
人間は成長に伴って、認識や意志によって現実を自分のものにしていく。シュタイナーがしばしば述べている例、つまり同じ光景を見ても教養ある人とそうでない人では見ているものが異なる、ということにもつながる。人間と現実との関係について、カントは「人間には現実の像しか得られず、現実は認識不可能である」としてしまった。これを出発点にしては、人間的な生き方はできないだろう。
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