2014年11月24日月曜日

第06講要約&一部解説(一般人間学)

■ 思考・感情・意志を霊的に見ると

この第6講を語るにあたり、シュタイナーの意識の背景には、7つの意識段階(後述)がある。 その中で、まず思考、感情、意志の位置づけが述べられる。 第01~19段落の内容をまとめると次のようになる。
思考 : 目覚めた意識 感情 : 夢的意識 意志 : 熟睡的意識 しかし、意識段階にはもう一つ別な側面が加わる。 それは《物質的》なリアリティである。 つまり、 ・物質的にはかかわらない ・物質的にやや関与する ・物質と格闘する という三段階である。 標語を付け加えてまとめると以下のようになる。

  • 思考 : 目覚め : リアルな影響なし    : 絵に描いた餅 
  • 感情 : 夢   : リアルな影響が像になる : 胃が重いと夢も重い 
  • 意志 : 熟睡  : 非常にリアルな影響   : 消化吸収過程は意識不可

■ 思考

思考では、意識は完全に目覚めている。こうした意識状態を『神秘学概論』では《対象物意識》と呼んでいる。 思考内容は物質界の像であり、それを考えても何の影響を受けないし、逆に思考内容は物質界には影響を及ぼさない。

■ 感情

感情の意識は夢的であり、こうした意識状態を『神秘学概論』では《形象意識》と呼んでいる。
夢では、リアルな現象と像とがある種の対応を示している。これについては以下を参照してください。
http://goethenian.blogspot.jp/2014/06/blog-post_14.html

 さて、感情を考えてみると、喜びとか悲しみが意識される。 しかし、その感情の原因を探ってみると、必ずしも明確ではない。 自分の好きなものについて自省してみれば、それはすぐにわかる。自分がそれが好きである理由は10も20も並べ立てられるだろう。 しかし、本当の理由は自分でも把握できていない。つまり、無意識の中から湧き上がるように現れてくる。

教育に関連した例を挙げよう。 幼稚園児から小学校低学年の子どもは、一般的にお絵かきが好きだ。ところが、3年生くらいになると、そこから離れていく。 その原因をアントロポゾフィー的に探っていくと、《形成力》が鍵を握っていることがわかる。 つまり、幼児ではこの《形成力》がリアルに身体に働きかけ、身体を作り上げる。ところが、身体が完成に近づくと、この形成力が「絵を描きたい」という感情となって現れるのである。 しかし、この形成力はさらに記憶力などに変容していく。そうすると「絵を描きたい」という衝動は少なくなってくる。

■ 意志

シュタイナー教育で言う《意志》とは(物質的に)リアルな行為であり、リアルな代謝活動である。幼児の身体が実際に成長したり、食べた米が実際に消化され、手足を動かして地面に穴を掘ることである。 そのリアルな物質的プロセスに《自我》つまり意識は入りこむことができない。というよりは、入りこんでしまったら、それに耐えられない。それゆえ、そこでは眠っているのである。
代謝活動と意識は両立しないし、それは一般的法則と言えるくらいである。 代謝活動が活発であるとき、たとえば食後、病気感染時、骨折修復時、肉体運動後などは、目覚めた意識を保つのが難しい。

■ より高次の意識段階

ここまで、目覚めた意識、夢的意識、熟睡的意識について語り、シュタイナーは第20段落以降、さらにより高次の意識について語っている。
シュタイナーが言う意識状態は次の七段階である。

  • イントゥイチオーン意識 : 人格霊 
  • インスピラチオーン意識 : 大天使 
  • イマギナチオーン意識  : 天使 
  • (目覚めた)対象物意識 : 思考、人間界 
  • 夢的意識          : 感情、動物界 
  • 熟睡的意識         : 意志、植物界 
  • 熟睡より深い眠りの意識 : 鉱物界

 つまり、対象物意識を中心に、上下に3つずつの段階がある。
思考とイマギナチオーンの関係は、この第6講ではあまり詳しくは触れていないので、その部分を補うとしたら、次のようになるだろう。
《対象物意識》の思考では、思考の対象は物質的外界に向かっている。ところが、思考を物質から解放し、概念的、理念的内容を思考すると、思考は純粋思考にシフトしていき、それがイマギナチオーンに対応する領域になる。

■ インスピラチオーン

インスピラチオーンでは、たとえば人間のオーラを見ることがそれに当たる。 この場合に何が起きているかを見れば、それが高次な夢的意識であることは明らかだろう。 オーラでは、たとえば相手の感情の様子を色彩の動きとして感じ取る。 つまり、現実に生じているのは相手の人間内での感情の営みであり、それを色彩という《像》で意識する。この構造は、夢状態と同じである。しかし、現象と像との関係はより精密である。

■ イントゥイチオーン(対象との一体化)

イントゥイチオーンは意志領域と関係する、とシュタイナーは述べている。私にとっての「意志を働かせる人間」は、砂場で遊ぶ幼児である。対象(砂)と一体になってそこに働きかけている。 《イントゥイチオーン》を高橋巖さんは《霊的合一》と訳しておられるが、非常に的確だと思う。
『神智学』の中でシュタイナーは「非常に単純な思考の中にもイントゥイチオーンがある」と述べているので、まずこの意味から考えてみよう。

私たちが「何かを理解する」というのはどのような体験だろうか? たとえば、ピタゴラスの定理が書かれた本を読む。しかし、読んだだけでは何も理解していない。すべての言葉を言葉として理解していていも、内容は理解できない。 ところが、そこに記述されている思考の流れを自ら体験しながら読むなら、そのときにはじめて理解できる。言い換えるなら、自分を無にし、思考の流れと自らを一体にしたときにはじめて理解できると言えるだろう。

第2講では、「表象とは、誕生前の体験が反感によって弱められたものである」と述べられている。このときの《誕生前の営み》とは、肉体を持たない自我が、諸概念、諸理念と一体になること、と考えられる。反感とは何かを引きはなす力であるから、それが働くためにはまず一体になっていなくてはならないからである。

このように意志領域では、対象と一体になることが鍵になる。その意味でイントゥイチオーンでは、霊的な意味で対象と一体化するのである。

ところが、この一体化ができるためには条件がある。
まず物質レベルでの一体化を考えてみよう。 自分の動きと、体操の内村航平さんの動きを完全に一体化されられれば、オリンピックの金メダルも夢ではないだろう。しかし、そのためにはパワー、スピード、柔軟性が不足しているのは明らかである。 霊的現実と一体化するためにも、同様なことが生じる。私たちの魂的能力でパワーや柔軟性が不足していると、それと一体化することはできない。 霊的現実との一体化では、さらに問題がある。一体化することで、私たち自身が霊界に対して影響を及ぼすのである。したがって、一体化が可能になった時点で、人が自らの思考を適切に制御できないと、それは「手当たり次第に撃ち放された弾丸」『神智学』のように、あちこちに害を及ぼす。

■ ゲーテのファウスト第2部

シュタイナーはゲーテの四肢の活動がファウストのイントゥイチオーンに結びついた、と述べている。 この講で明言はしていないが、「イントゥイチオーンをもたらしうる四肢活動」に関連する事柄を後の講で述べている。言わば四肢が賢くなければ、イントゥイチオーンは湧き上がってこない。

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