2014年7月18日金曜日

耳は音から空気を分離する

■シュタイナーが言う耳の働き

『人間の音体験』1923年3月7日の講演(第4段落)で、シュタイナーは耳について次のように言っています。

こうした事柄を感じつつ理解するには、次の点をはっきりさせておかなくてはなりません。通常、音楽体験は耳と関係している、と仮定されていますが、その仮定は的外れです。音楽体験は人間全体にかかわるのです。そして耳は、通常仮定されている機能とはまったく違う役割を果たします。「耳で音やメロディを聴く」という言い方は、大間違いです。…完璧に間違いです。音(楽音)、メロディ、あるいは何らかのハーモニーとは、本来、人間全体で体験されています。そして、こうした体験が耳によって、非常に特異な仕方で意識に上ります。通常、音の媒体は空気と考えられています。空気を吹き込む管楽器ではなく、他の何らかの楽器でも、音は空気というエレメント(元素)に生きています。しかし、私たちが音として体験するものは、本来、空気とはまったく関係しません。事情はこうです。耳という器官は、音体験の前に、まず音から空気的なものを分離します。その結果、音を共鳴、あるいは反響として受け取ることで、音を音として体験しているのです。耳とは、空気の中に生きている音を、私たち人間の内にはね返す器官なのです。そのやり方は、音を空気エレメントから分離し、私たちが音を聞くことで、音をエーテルエレメントの中で生かすのです。つまり耳とは、空気の中での音の鳴りを克服し、音の純粋にエーテル的なものを、内に向かってはね返すためにあるのです。耳とは、音知覚のための反響装置なのです。

つまり、耳は音から空気を分離する器官であるというのです。これを模式図で示します。

■音と振動に関する経験則


ある音に対し、1オクターヴ上、2オクターヴ上、3オクターヴ上、という言い方をする。
ある音が110ヘルツだとすると、これはそれぞれ、220ヘルツ、440ヘルツ、880ヘルツとなる。


  • 人間の体験レベル=音では、+1、+1、+1オクターヴ、と足し算的、
  • 物質レベル=振動数では、×2、×2、×2振動数、とかけ算的(指数的)。


■空気の振動から音への道筋

空気の振動→鼓膜→三つの耳小骨→蝸牛管の円窓→蝸牛管のリンパ→蝸牛管の基底膜→コルチ器の繊毛→神経

この道筋で、基底膜までは明らかに振動が関係しています。しかし、コルチ器と振動の関係は微妙です。

■基底膜での音高知覚のしくみ

振動は蝸牛管の中の基底膜を伝わっていきます。そして、その伝わり方は音高によって違います。
硬い物体は高周波(高い音)も低周波(低い音)も伝えますが、柔らかい物体では高周波は通りにくくなります。緩く張った弦では音が低いのと同じ原理です。
ここで、基底膜の様子を見ると、基底膜は入り口付近(外側)では硬く、中心に近づくにつれ柔らかくなっています。ここに高周波と低周波が入ってきます。まずは双方とも基底膜の振動として伝わっていきます。ところが、基底膜は先に進むにつれ柔らかくなりますから、高周波はしだいに伝わりにくくなり、すぐに消えてしまいます。それに対し低周波は、蝸牛管のかなり奥まで伝わってから、消えることになります。そして、振動が消える地点のコルチ器の繊毛を刺激し、蝸牛管の入り口付近では高い音、中心付近では低い音を感じ取っています。

■音高の知覚位置は、足し算的


基底膜のどの位置で、どれくらいの高さの音が感じ取られているか、言い換えると、どの位置で特定の振動が消えるかを調べた結果があります。
この図で、8000、4000、2000、1000、500といった位置を見ますと、ほぼ等間隔であることがわかります。つまり、オクターヴ毎に等間隔なのです。これは物質レベル=振動数が人間体験レベル=音に変換されていることを示しています。

■振動が消えるところで音が知覚される

さらにこの基底膜での振動の様子をシュミレーションした研究があります。するとある特定の振動数の音波が基底膜を伝わっていきますが、ある位置で急激に消えてしまいます。そして、その消える位置が、その周波数の音が知覚される場所と考えられます。
Keidelより

つまり、「物理的音波が消えるところで知覚としての音が発生する」と言えるのです。
これはまさにシュタイナーの言う、「耳とは、音から空気を分離する器官である」という言葉に対応します。
ここでの基本的考察は、E=M, クラーニッヒ先生のDer innere Mensch und sein Leib の聴覚についての記述を要約したものです。

2014年7月15日火曜日

ペンの考察・・・デザインとは

■手の仕事におけるデザイン

シュタイナー教育では手の仕事を重視し、1年生から編み物などに取り組みます。そうした作品では、使えることが重視されます。手は世界に奉仕する存在だからです。そして、そこでのデザインも、使うことが前提になります。たとえば、リコーダーのケースでは、どちらに出し入れ口があるのかが明確であるようなデザイン、あるいはポットウォーマーでは、温かさを保つという機能、下が開いていること、そうしたことが見えるデザインをします。こうしたことを通して、「本質にふさわしいデザイン」という姿勢を身につけていきます。
万年筆のデザインを例に、本質とデザインの関係をまとめます。

■書きにくさとの出会い

・先が太い


色鉛筆などで先が太くなってしまっていると、紙との接触点が確認できず、思った場所に書き込めません。

・持ちにくい


画像ではわかりにくいですが、このペンは持つ部分がサラサラな感じに仕上げてあり、持っていて非常に滑りやすいのです。光沢仕上げの部分の方がずっと安定して持てるくらいです。さらに悪いことに、持つ部分がやや細く、掴みにくくなっています。

■書きやすさとは何か(主に万年筆)

まず、「ペン」や「書く」といった事柄に関係する項目を、思いつくままに書き留めます。

次にそれを、関連を意識しながら平面上に構成します。

このようにしますと、「ペン」についての概念図ができあがり、そこで本質的な要素が明確になります。
(こうしたやり方はほぼ常識なので、書くまでのことはないかもしれません。しかし、中高校生などの初学者のために、載せておきます。)

こうした概念図に沿って考えていくのが、物作りの基本です。たとえば、学校建築の際にも、学校内で生じることを中心に、こうした概念図を作ることができます。シュタイナー学校の設計をしている建築家のそれをチラッと見せてもらったことがあります。その建築家は、すでに何校かを手がけていましたが、その概念図自体はほとんど変更の必要がない、と言っていました。

■ペンを握る

さて、筆記用具を握るときに、ポイントとなる部分は4点あります。まず、親指、人差し指、中指の背の3点です。


そこに親指と人差し指の又の部分が加わり、4点です。

■4点を考慮したペン

下図のペンは、親指と人差し指の触れる部分が平面で、安定して握れる構造になっています。

さらには、指の又の部分も平面になっていて、それの安定に寄与しています。


素材は、レゴと同じABS樹脂で、強度と適切な摩擦が得られています。

■目と指の協調のために

持つ部分が先に向かって少し細くなり、ペン先を指し示していますので、ペン先を意識しやすい構造になっています。これによって、目と指の協調を取りやすくなっています。

■デザイナー、ヴォルフガング・ファビアーン氏の1980年の作品

これは、(ウォルフギャングと表記されることが多い)ファビアーン氏が、小学生用にデザインした、Lamy社のSafariです。
デザインという意味でのお手本的な例の一つです。

■握り持ちの理想の筆記具は?

指の力が弱い小学生が鉛筆でしっかりと書こうとすると、鉛筆をしっかりと握らなくてはならなくなります。そして、それが完全に習慣化した人も多く見受けられます。
この握り方を否定するのではなく、それに適した筆記具のデザインを考えれば、ひょっとしたら役立つものが生まれるかもしれません。

■副作用…基準が明確になると迷いが消える

2008年頃、私は興味本位で廉価版万年筆をいろいろと入手していました。目新しいものがあれば、欲しくなるのです。そのようにして手にした一つが、持ちにくいということで紹介したものです。
その「持ちにくさ」がきっかけになり、書きやすい万年筆とはどのようなものか、を考えて、その一つの結果がこのレポートです。
これをまとめることで、私の中にも変化がありました。目移りしなくなったのです。自分の中に明確な基準ができますと、進むべき方向が明確になり、無駄な目移りがなくなるのです。

2014年7月13日日曜日

フラードームによる家づくりエポック

制約の多い土曜クラスでの実践例

森章吾が2001年に行なった実践例の報告です。

■家づくり

3年生、4年生くらい、ピアジェが言う《ギャング・エイジ》の頃に、子どもの内面は大きく変化します。(ちなみに、《ギャング》というのは「群れ」程度の意味で、「銀行ギャング」といった用法での「盗賊」といった悪い意味はありません。)
9歳くらいである程度の自立心を獲得します。それはしばしば、「私は何でもやれる」といった根拠のない自信に繋がります。そうした芽生えは大切ですので、それを否定してしまってはいけません。それでも、子どもが実際に物や自然とかかわることで、「自分には、まだ学ばなくてはいけないことがある」、と実感させていくことも重要な教育課題です。「根拠のない自信」については、8歳の少年が、大人の泥棒を一人で撃退し、「子どもでもやれる」ということを映像にした『ホーム・アローン』のような映画に彼らが惹きつけられることにも現れています。

9歳くらいで、自己の内面が育ち始め、自立心が芽生えますと、それは「自分たちの空間」への憧れとしても現れます。隠れ家づくり、基地づくりに憧れるのです。そうした内面の発達に合わせて、シュタイナー教育では、家づくりのエポックがあります。
9歳ごろの子どもの様子については、コェプケ著『9歳児を考える』(拙訳)を参照ください。

■土曜クラスでどのように家造りを実現するか

▲日本的木造はかなり困難

ドイツのシュタイナー学校の家づくりはレンガ造りが多いようです。しかし、日本家屋の基本は木造です。ミニチュア版であっても、両者の作業には質的に大きな違いがあります。
レンガ積みでは、一つ一つの作業にはたいした熟練を必要としません。まさにコツコツと積み上げていけば、やがては出来上がります。ところが、木造ですと材木を切ったり、削ったりといった作業が難しく、かなりの熟練が必要です。現実的に考えるなら、木材パーツをほぼすべて製材所で製材し、子どもが植樹祭的な作業で組み立てる、といったやり方にならざるを得ないでしょう。
しかし、《土曜クラス》的な学習の場では、さらなる制約があります。作りかけの家を常時設置しておくことはできず、途中段階で、毎回撤収しなくてはなりません。そのような状況の中でも、子どもに家づくりをある程度体験させてやれる方法を以下に紹介します。フラードームを作るのです。

■本質からみると妥協の産物

ただし、このフラードームによる方法は決して理想ではありません。家づくりでは、

  • 大地と結びつく土台の体験
  • 内部空間をつくる壁の体験
  • 屋根を支える柱の体験

が基本です。また、人類にとっての最初の家、つまりアダムとイヴが楽園から追放されて、初めて必要になる家とも関連しますので、素朴な家が望ましい、という考え方もあります。こうした本質に照らし合わせると、フラードームが不満足な解決法で、妥協の産物でしかないことがわかります。上述の三つの体験を実現させる可能性があるなら、ここでの方法はまったく薦めません。しかし、制約がある中で家づくりを実現させるギリギリの方法として捉えていただければ、その価値評価を誤ることはないと思います。

シュタイナー教育では理念(イデア)を見据え、それを理想としなくてはいけません。その意味で、私たちは徹頭徹尾、理想主義です。しかし、理念が物質界に受肉する際には、さまざまな制約を受けます。たとえば、『低学年はなぜぬらし絵か』でも書いたように、理想を認識しつつ、現実的な解を探すのは、常に一貫した姿勢です。理想を知らなくては、妥協もできないのです。また逆に言えば、シュタイナー教育には決定版の教材というのは存在しません。どの一つをとっても、「ある一つの実践」でしかありえないのです。

■イメージのすり合わせ

家づくりと聞くと、多くの子どもは非常に大きなイメージを描きます。白紙を渡して、どんな家を望んでいるかを描かせてみると非常に興味深い結果が帰ってきます。その子の潜在的な願望や、身体的状況が反映されるのです。キッチンばかりが大きな家とか、自分の部屋と母親の部屋が隣同士で、兄弟の部屋がない家などを描くこともあります。

■民族と家

それぞれの民族がどのような家を作ってきたかを比べていきますと、しだいにイメージが固まっていきます。
エスキモーの家やアラブの日干し煉瓦の家について話をします。日干し煉瓦とは、土をこねてそれを天日で乾かしただけの物です。それで家が作れるのです。しかし、それを日本に持って来ますと、基本的には泥ですから、雨が降ると泥が少しずつ流れていってしまいます。大雨になったら壁は溶けて崩れてしまうはずです。アラブでそれが家として使えるのは、雨があまり降らないからです。こうした話によって、家と土地との密接なつながりが意識されます。
アフリカのマサイ族の家も興味深いでしょう。彼らはウシやヤギなどの家畜を連れ、乾燥した大地を移り歩く放牧民族です。アフリカとはいえ、乾燥した土地では夜はとても冷え、家なしでは生活できません。しかし家の材料は限られています。砂を多く含む土では固まりません。すぐその場で手に入る材料でなければ家は作れません。そう説明してから、マサイ族が潅木の枝とウシの糞で家を作ることを紹介します。
こうした話から、人々が身近に手に入る素材で自分たちの家を作っていることを子どもは学びます。そこから、現代の私たちにとって身近に手に入る素材が何であるかを検討していきます。まず出てくるのが木です。実際、日本という国は木が多く、先祖たちはみな木で家を作ってきました。しかし、現在では自由に切れる木などはありません。こう考えていきますと、必然的にダンボールにたどり着きます。

しかし、ダンボールを使って安易に「家づくり」をしますと、路上生活のミニチュアになってしまう危険がありますので、何らか工夫が必要です。そして、その一つの解決策がフラー・ドームによるダンボール・ハウスです。

■フラー・ドーム

子どもの中に出来上がりのイメージがありませんと、作業のモチベーションが上がりませんし、飽きるのも早くなります。そこで、模型を見せることで、子どもたちと出来上がりのイメージを共有しましたら、かなりうまく行きました。



フラー・ドームは図のような構造です。基本はサッカーボールで、正五角形と正六角形の面が組み合わされています。その五角形や六角形を平面ではなく、傘型にしたものです。ちなみに、傘型の方が平面より強度が出ます。
完全な球状立体には、五角形用二等辺三角形を5×12=60枚、六角形用二等辺三角形を6×20=120枚が必要ですが、カマクラ状の小屋では下部1/4や、窓や入り口部分が不要ですので、前者が5×5=25枚、後者が6×11.5=69枚必要になります。
作業では、ダンボールを三角形に裁断する作業に一番時間を要します。また、大型カッターを使いますので若干の危険を伴います。しかし、大人の指導があるにしても、危険なものを有効に使いこなすことも、子どもには自信になります。子どもたちが作業に飽きていると感じたら、「続きはお母さんたちに手伝ってもらおうか」と提案してもいいでしょう。私が体験したのは、きっぱりとした「自分たちでやるわい」という返事でした。

子どもが合理的作業手順を体験することも大切です。

  • 厚紙製の原寸三角形型紙を用意する
  • それをダンボールに当てて外形を描く
  • 長めの板を定規代わりにしてカッターで裁断する

床などを傷つけないように、大人が万全の準備をしなくてはなりません。何らかの問題が起きたら、すべて「大人の準備が不十分」と考え、子どもの失敗は責めてはいけません。たとえば、カッターを当てる定規に類するものは、左手で抑える幅が十分でなくてはいけません。幅が狭いとはみ出した指を切る確率が高くなります。

  • カッターでの切り方も指導する

刃を立てず、できるだけ寝かして切る:右手の小指がダンボールに触れるくらいでもよい。
力を入れて一回で切ろうとはせず、「5、6回、刃を当てて切るくらいの力でいい」と教える

■作業 

切断の際には、幅のある板をガイドに使っている

上の記述でもおわかりでしょうが、教える際には大人としてやすやすとやっている行為をもう一度意識化しなおして、どこに困難があるのかを把握し、予想可能な過ちはチェックしておく必要があります。自分が当たり前にやっていることを自覚化する、というのは必要な準備でもありますが、大人にとってはすばらしい内的な練習でもあります。しかし、チェックを十分に行っていても、考えられないような失敗というのは出てきます。


5枚(6枚)の三角形をできるだけきっちりと隙間のないように気をつけ、非常に平べったいながらも〈傘形〉になるように注意しながら張り合わせていきます。五角形の方は〈頭〉がやや尖っているので安定した形になりますが、六角形の方は非常に平面に近く、しばしば〈オチョコ〉状態になるものができましたが、そうなってしまっても大きな問題ではありません。

ドームが大地を結びつく感じを出すために、2×4材を所定の長さに切らせ、土台にしました。この際に、ノコギリによる切断の作業が生じますが、これは子どもたちのお気に入りでした。

窓枠、入り口はダンボールを接着して
窓枠と入り口は、正五角形、正六角形の枠ですから、幅8cmから10cmのダンボールを接着してその形を作ります。



土台部分の組み立て
パーツがそろったら、土台、下部の壁、屋根の3つの部分をそれぞれ組み立て、さらにそれらをつなげ合わせます。

屋根を運ぶ
10人の子どもたちが、言われなくても自分から仕事を探し、喜びをもって組み立てていった姿は忘れられません。


完成!!
土台は木材です。

2014年7月11日金曜日

旧約聖書に暗示された『見えない人間』

■エデン中央の二本の樹

エデンの真ん中には樹があったとされています。そして、《真ん中》を文字通り受け取れば一点しかないにもかかわらず、樹は二種類あったとされます。つまり、《生命の樹》と《知恵の樹(認識の樹)》です。そして、アダムとイヴは蛇の誘惑により、知恵の樹の実を食べます。その《知恵の樹》の実によって二人は死すべき定めを背負い込み、エデンから追放されます。

人間は今もなお、この出来事の渦中に居ると言えるでしょう。
『私たちの中の目に見えない人間』で、自我機構から発するとされるライン1とライン2を思い起こしてください。ライン1は人間に活力を与え、構築的に働く流れでした。そして、ライン2は、ライン1で得られた活力を食いつぶし、死に向かわせながらも、人間の意識的な活動を成り立たせ、人間としての知恵を育む可能性を与えてくれています。
同じ根源を持ち、一方は《生命》、一方は《認識》であり、認識には死が関係するのです。

■ユダヤのソロモンの神殿では

錬金術の図像から、J&B

これらの《生命の樹》と《認識の樹》は入り口の柱で象徴されています。Jachin(ヤヒンあるいはヤキン)とBoaz(ボアズ)です。対応関係はご想像にお任せします。錬金術関係の図像などを見れば、対応を間違えることはないでしょう。

■シュタイナーもどこかで触れているはず

この関係は、おそらくシュタイナーもどこかの講演で触れていると思います。不勉強ゆえ、そこまで調べがついていません。ご存じの方がいらしたら、是非、当方までお知らせください。

2014年7月10日木曜日

5年生の植物エポック教材、コケ

■コケはどこに生えている?

5年生の植物エポックでは、
コケはどこに生えている?
という課題で、シュタイナーの言う土壌と植物の関係(2014.06.10の投稿)が子どもたちに明確に意識されるでしょう。教師はスカウティングしておかなくてはなりませんが、そうした準備を経て、子どもたちにコケを探させるだけで、十分に生徒を生き生きさせることができるでしょう。
私の近所には自然の森などがない完全な都市環境ですが、それゆえに興味深い事実も見つかります。以下、コケが見られた場所です。残念ながら、コケの種類まではわかりませんでした。


石垣の隙間

コンクリートの壁
除草剤が撒かれた土地

除草剤が撒かれた土地のアップ


このように見ますと、コケは生きた土のないところに生えています。それが明確になってから、
草むらにはなぜコケが少ないか
を検討することで、コケのすごさが分かってくるでしょう。つまり、生きた土が十分にあると、草などにその場を明け渡すのです。そして、草が十分に育って土が豊かになると、そこに森が生まれてきます。

荒れた死んだ土の場所に生え、生きた土を作り始め、それが十分にできると草に場所を明け渡す
それがコケなのです。こうした事実を知りますと、人は岩やコンクリートにへばりつくコケを違った目で見るようになるのではないでしょうか。

■厳密な生態学では

厳密に言えば、火山島などの死んだ土に始めに生え始めるのは、コケ類ではなく地衣類で、植物学的分類では両者はまったく別な仲間です。しかし、そこまで厳密に捉えずに、「地にへばりつくように育つ植物」という意味で「コケの仲間」と教えて問題はないと思います。
かつての高校生物教科書には、コケ類とシダ類の生活史の違いなどが載っていましたが、私たちが自然と向き合う上では、あまり大きな役割を果たさない知識でした。

2014年7月9日水曜日

『私たちの中の目に見えない人間』解説01

■人間の四つの構成要素を知っていることが前提

『私たちの中の目に見えない人間』(1923.02.11)という講演があり、石川公子、小林國力両氏に共訳で出版されています。

これは、『神智学』や『神秘学概論』に描かれた「人間の本質」 をさらに詳しく述べたもので、アントロポゾフィー的人間理解には欠かせない内容です。つまり、アントロポゾフィー的にやや踏み込んだ内容ですので、前述のシュタイナーの著作を、思考によってしっかりたどり、《肉体》《エーテル体》《アストラル体》《自我》の四つの構成要素に対する確信がなければ、内容も理解できず、ナンセンスに思えるだけでしょう。

■霊的(精神的)存在である《自我》が身体に降りてくるとするなら

霊的存在である《自我》が身体に降りてくるとするなら、とりあえず《自我》は肉体の外側にあり、それがやがて肉体に宿ることになります。これは当然ながら、意識されない側の自我です。この意識されない自我は、誕生前には、《人間化》に向け受精卵や胚に、膜、尿膜、絨毛膜として、外から働きかけます。

そして、ある時点で肉体内に入り込み、以後は内部から《目に見えない人間》として、肉体を形成していきます。そして、この働きが、成長力、食物摂取を含む栄養関連活動、日々の活力再生、意識の及ばない生体活動などを司っています。

■目に見えない人間の四つの機構

この自我機構、アストラル機構、エーテル機構、肉体機構から成り立つ《目に見えない人間》は、誕生と共に《目に見える人間》に入り込まれ、言わば内側から作用します。
誕生前
誕生後の組み込み


肉体はエーテル機構によって生命を維持されています。そのエーテル機構を適切な場所とタイミングで働かせるのがアストラル機構です。そして、それら全体を統御し、まさに《人間の身体》に導くのが自我機構だと考えてよいでしょう。そしてこれは、前述のように、栄養・成長・再生プロセスにかかわり、四肢代謝人間、下部人間とも呼ばれます。(①のライン)

■《機構》と《体》の違い

《自我》と《自我機構》の違いは、前者が主に《自我意識》つまり意識される自我を指すのに対し、後者は、意識される側もされない側も含めたグローバルな元締め、といったイメージです。

■左右の小箱のズレ

この「ズレ」については、アントロポゾフィー医師のハラルド・マテス氏が明確に解説しています。右側は目に見えない「法則性」で左側は人間として実現して持っている部分です。

物質体について言えば、

  物質界の諸法則>>人間物質体の法則≒実現した物質体

エーテル体、アストラル体についても同様ですが、可能性としての法則と人間に実現した部分の差は大きくなります。

自我については、右側の自我機構には形成的力があるのに対し、人間自我においてはその写ししか実現していないので、離れて表現されています。

■意識されない側の自我の働きを示す状況証拠

まず、脳が健全でなければ適切な意識を持つことはできないのは明らかですし、脳が適切に働くための重要な条件の一つが、《直立》であることも納得されると思います。「四つ足であったら、重い脳を支えることができない」という説は昔から繰り返されています。さて、この《直立》には、骨格だけを考えてもさまざまな条件があります。

その一つが、大腿骨の骨頭部分における、「最小限の素材で最大限の強度を出せる構造」です。そして、この構造については興味深い事実が知られています。つまり、病床などで長く寝ていた人では、この構造が不明瞭になり、しっかり直立していると構造が鮮明なのです。この事実は、大腿骨骨頭部分の力学的に合理的な構造が、できあがったものとして保持されているのではなく、重さという抵抗を受けながら、絶えず作り続けられていることを示しています。
ここでさらに問います。「この人間の身体に相応しい構造を作っているのは誰か」と。
その答えは、あらゆる《人間的》なものの元締めにたどり着くはずです。つまり、大腿骨骨頭に働いている秩序化の力も《自我》以外には考えられないのです。このようにして、《意識的自我》が宿るに相応しい人間的構造を《意識されない領域で働く自我》が作り上げています。

■人間における二つの対極的な流れ

第一の流れ:自我機構からアストラル体、エーテル体を経由して肉体へ向かう流れ
これは、栄養摂取、栄養配分、身体構築、四肢運動の役割を担います。つまり、腸などの内側から血液を経て外に向かう、遠心的な流れです。(改変、四肢運動、つまり随意筋の運動はライン2的です。)
またこれは、業界用語でライン1と呼ばれ、《構築的》な流れです。
これは次のような例えで理解されています。家を適切に作り上げるには、設計者、現場監督、大工さん、材料が必要なのと同じように、人間身体を人間のものとして適切に作り上げるには、自我機構(設計者)、アストラル機構(現場監督)、大工さん(エーテル体)、栄養物(材料)が必要、という訳です。
第二の流れ:自我機構が、アストラル体やエーテル体を介さず、直接に肉体に働きかける流れ
これは、感覚系から神経系に流れ込んでいて、人間の意識的な活動と関係します。自我意識が持てるのも、この流れの働きです。
感覚系において「私は私である」という自我意識にとって重要な意味を持つのは触覚で、これは全身に分布しています。そうしますと、この流れは体表から神経を介して内に向かう求心的な流れになります。
これは業界用語でライン2と呼ばれ《解体的》な流れです。
意識が身体に対して解体的に働くことは、単純な事実からわかります。人は、長時間目覚めていることができず、睡眠を必要とする、という事実です。意識的な活動によって、生命的な力が消耗するのです。

■ライン1とライン2の対極性

ライン1
無意識的、構築的、血液、遠心的
ライン2
意識的、解体的、神経、求心的

■神経における解体的作用についての説明

神経での生理活動を見ると、それが死へ向かうプロセスであるとわかります。よく知られているように、神経では電気的な刺激が伝わっていきます。通常の生きた神経細胞では、内がマイナス、外がプラスの状態を保っていますが(分極)、これは生理活動の結果、言い換えると生きている力を使った結果です。さて、神経が興奮するとプラスマイナスの関係が一時的に逆転し、内がプラス、外がマイナスになります(脱分極)。興味深いのは、このプラスマイナスの関係が、神経興奮時=死んだ細胞である点です。つまり、神経が興奮するとき、神経は微細な死を体験しているのです。
事実関係については、Wikiを参照してください。

■ライン1についての重要なコメント

シュタイナーの黒板絵
いろいろに書き加えられた図

シュタイナーはライン1を単純な白色の線で表現していますが、これには若干の手抜きがあります。より正確に考えるなら、次のようになります。
左側は省略

つまり、《自我機構》から発した力は、《アストラル機構》に取り巻かれ、さらにそれが《エーテル機構》に取り巻かれ、実際に《肉体》に作用するのはエーテル機構である、という点です。そして、これら3種の力関係が人間の健康に大きな影響を及ぼします。

■ライン1の自我&アストラル機構が弱いと


エーテル機構はしっかり働きますが、そこに対するコントロールが十分ではなくなり、いわばエーテル体が野放しになります。すると、結核的傾向、炎症的傾向が生じやすくなります。
あるいは、自我機構だけが虚弱になりますと、アストラル体の動物的要素が勝り、自我機構が入り込みにくい部位、言い換えると血液が直接に入り込まない部位において脱人間化が生じます。それによって、特に関節の変形を伴う病気が現れます。

■他の二つの流れ

シュタイナーはさらに二つの流れ(ライン3、ライン4)についても説明しています。
ライン3は、アストラルレベルで直接に肉体にかかわります。それゆえ、ライン2ほどではありませんが、身体的な《解体》に関係し、またその《解体》を代償にある程度の《意識》を手に入れます。そして、これは呼吸に関係します。
ライン4は、エーテルレベルまで降り、おそらくエーテルレベルで活動する経路で、ライン1ほどではありませんが、《構築的》です。そして、これは心拍にその作用が現れます。
そして、《解体》と《構築》の微調整をこの呼吸・心拍の相互作用のなかでおこなっている、と考えられます。



2014年7月8日火曜日

ドクダミの観察

■観察から認識へ

『ゲーテ・シュタイナー形態学の極意』で書いた方法を繰り返します。

  • 形そのものをできるだけ正確に思考の中でイメージする。その際に、「これは~に似ている」といった連想はしない。つまり感覚知覚における類似性に惑わされない。
  • そのイメージを作り出している自らの思考活動を観察する。


この方法で、ドクダミを見てみましょう。多くの場合、これがドクダミだとわかってしまうと、観察は終わりです。しかし、本来はそこからが始まりです。ドクダミはどのようなしぐさを示しているでしょうか。それを探るために、目に見える事柄を、言葉にしてみましょう。言葉にするというのは、体験の意識化ですから、スケッチと同様、二通りの意味合いがあります。

  • 見ながらのスケッチ(言語化):対象をより正確に観察できる
  • 想起からのスケッチ(言語化):想起の力を強め、自らの思考を観察しやすくなる


このことをゲーテはBeschreibungと呼んでいました。Schreiben(書く)を強めた言い方で、日本語では「記述」と訳すこともあります。シュタイナーはしばしば、Charakterisierung(性格付け)という言い方をしていました。

■実り多きグループでの言語化

ここで、方法論的なヒントを一つ挙げておきます。対象を十分に観察した後、現物がない状態で、その対象について数人で語り合うのです。誰かの言葉に沿って、全員が同じイメージを作り上げていきます。すると、そこには特別な雰囲気が生じます。そして、数人が同時に、「あ!そうだ」と、対象の本質を合点することさえあります。

■ドクダミの形


ドクダミの葉柄は比較的長いのですが、茎と葉柄のなす角が小さく、葉は茎からあまり遠くには離れていません。茎の周りに集まった形で葉が付くのです。

輪郭をなす線

葉の縁にはぎざぎざな線はなく、輪郭が非常に明確です。その葉身の輪郭線を遡りますと、葉柄を経て茎にまで連続しています。つまり、茎から出発した二本の線が、葉柄の向軸側の両端を直線的に伸び、葉身の縁に連続的に移行していきます。その線の動きは、茎から分かれからはかなり直線的に先へ伸び葉身に達します。するとそこから滑らかなカーヴを描きながら左右に広がり、一旦後方に戻ります。そこにいわば《ため》をつくり、その後でしだいに葉の幅を狭めながら前方に進んでいきます。そして、先端近くなりますと、今度は一気に速度を増し、鋭い先端をつくります。

葉脈の様子

葉脈には主軸と分岐がありますが、そのあり方は植物の種類によって本当に個性的です。たとえば、葉の輪郭だけを取り出しますと、ドクダミの葉はサツマイモのそれと似ています。実際、そのように表現する人もいますが、こうした表面的な比較は認識にとっては無用です。実際、葉脈も含めて観察しますと、その違いは歴然としています。

ドクダミではまず大きな分岐が葉の元の方から出ていて、それが先端に向かってしだいに中央で合流していきます。大きな分岐に限って見れば、分岐が順々に出てくるというのではなく、元に近いところで多く分岐を出しています。主軸の前進的な動きが妨げられるとこうした形になるでしょう。葉脈は、一旦は広がるものの、前方に向かう傾向が強く、その流れの中で空間に広がるのではなく、近隣の葉脈と再結合(アナストモーゼ)しています。それに対しサツマイモでは、葉脈が周囲に広がる傾向が強いことがわかるでしょう。

花の付き方(花序)

これにもさまざまなタイプがありますが、ポイントとなるのは、葉と茎と芽の関係です。

  • 茎の先端に花が付き、花が付くと成長は終わる。(タンポポ、チューリップ)
  • 茎と葉の又の部分に芽として花がつく。(オドリコソウ、枝豆)

それでは、ドクダミの花序はどうでしょうか。

位置関係から見ると、葉、茎、花軸の順に並んでいます。ですから、私たちが茎と呼んでいる部分は、茎には間違いないのですが、枝の方です。そして本来の主軸にあたる部分は花軸になって、そこで行き止まりになります。
ここで、一本の茎がすいすいと伸びる様子と、ドクダミの成長の様子を比べながら想像してみてください。ドクダミでは、その都度その都度の中心軸は行き止まり、成長が止まります。そして、その代わりに枝に当たる部分が主軸を追い越して成長していきます。しかし、その枝も葉が出て花をつけると行き止まりです。この成長の様子は、止まった状態(花)から一度大きく後ろに戻ってから再び前進するという動きになります。

茎の節

また、茎の節ははっきりしていて、そこには動きの〈ため〉があります。しかし、次の葉まで茎は比較的まっすぐに伸びていきます。茎の色もそれに対応しています。節に近い部分は比較的赤みが濃いのですが、直線的に伸びている部分は比較的白い色をしています。

ドクダミとの出会い、花の形態

ドクダミは関東地方では5月の中旬ごろに白い花をつけ始め、その独特な香りとともに自らの存在をアピールし始めます。また、生えているのは林の中や瓶際といった薄暗い場所で、日光の照り付ける野原や駐車場には生えていません。
葉の色は暗い緑色で、非常に地味で、薄暗いドクダミ地帯を見ると、私たちの視線は焦点が定まらず、その無定型な暗がりに引き込まれます。ところが、そこに花が咲くと、その花が私たちの意識の中に鋭く入り込んで来ます。同じ花が日向の草むらに咲いていたら、私たちの目はそれほどまでには惹きつけられないでしょう。一旦、半暗がりに引き込まれるがゆえに、より強い印象を受けるのです。
花びらのように見える白い部分は本来は萼で、その先に濁った黄緑色をした花の部分が前方に突き出しています。念のために付け加えておきますが、萼というのは何枚かの葉が茎の一ヶ所に集中し、しかも大きさや形も収縮したものです。この白い部分は四枚ですが、よく見ると大きさは少し違っています。四枚には実は順番があり、葉に近い側が大きく、花に近づくにつれ小さくなります。

■ドクダミのしぐさ

ここで体験する動きを拡張・収縮、あるいは前進・後退という表現でまとめると、まず、後方へ向かっての《ため》の動きがあり、その《ため》の後、一気に加速しながら前方へ流れています。これが、ドクダミを特徴づける動きです。
上に述べたドクダミとの出会い体験も、この特徴と合致します。主軸が毎回止められ、少し戻った地点の枝が先に伸びる様子にも《ため》を感じ取ることができます。
そして花でも、四枚の萼で一旦前進傾向が止まり、多くの花が集まった総苞で先に進みます。これはさらに詳しく見ることができます。
花の白い部分は、花びらではなく蕚です。花の基本的秩序は、下から、萼、花びら、蜜腺、おしべ、めしべの順です。そして、通常は花びらが空間的に一番広がります。それが、ドクダミでは一段戻った萼の方が広がっています。つまり、後退的な《ため》が現れているといえるでしょう。それから先の花びらからめしべまでの形成は、急ぎ足です。

茎では、ドクダミのしぐさは明確ではありませんが、それでも若干見て取ることができます。節の部分には《ため》があり、そこから一気に直線的に次の節につながっていきます。


■類縁の植物

さて、次の葉をドクダミの葉と比べてみてください。

まず、葉柄は短いのですが、葉身は長めで、ドクダミに見られた《ため》の部分は非常に少なく、形全体に先端に向けて流れる傾向が強いことがわかります。《ため》と《前方への流れ》という視点で見ると、ドクダミとの違いは明確でしょう。この葉は、ドクダミ科のハンゲショウのものです。ドクダミの萼に当たる部分は、白くなった3枚の葉です。これが葉の半分、あるいは表だけ白いので、「半化粧」と言われるという説もあります。(半夏生は夏至から11日目の暦日)
ドクダミの萼と比較しますと、軸の周りへの収縮度が小さく、葉として周囲の広がっていることがわかるでしょう。


花の集まった部分(総苞)はどうでしょうか。ドクダミでは、せいぜい2cmくらいの長さにたくさんの花がついていました。それがハンゲショウでは大きく前方に流れています。ここでも《ため》はなく、《前方に流れ》ています。

山地 隆之さんから、画像を頂きました。

■ドクダミの薬効(以下の考察はまだまだ仮説)

さて、ドクダミには解毒作用という薬効がありました。これをニキビの例で考えてみましょう。ニキビに葉をちょっと貼っておくだけで、かなりの人で非常に効果があると言われています。通常の学問では、こうした場合、当然のように成分分析をします。つまり、ドクダミの葉に含まれる××成分に解毒作用がある、と考えます。
しかしここではまず、毒素を排泄する様子をイメージしてみましょう。
まず、ドクダミの葉が毒素を吸引しているのではない、と考えた方がよいでしょう。むしろ、ドクダミが周囲の生体組織に働きかけ、その結果、組織がその毒素を追い出す方向に働くと考えた方が自然です。乾燥剤が湿気を吸うのとはわけがちがい、活動するのはあくまでも生きた組織です。ここでドクダミの働きかけで周囲の組織がドクダミ的な動きを獲得すると仮定してみましょう。するとまず、一旦すべてを内にため込むように働くでしょう。そして次の動きで、外に向かっての勢いよく押し出します。こう考えると、まず周囲の毒素を一ヶ所に集め、その後で、毒素が体外に押し出すのかもしれません。