2015年2月1日日曜日

『一般人間学』レーバー要約、第03講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 教師の意識と人類の至上の理念との関係(1)

▲教師の意識と人類の至上の理念との関係(1)

教師は、外には宇宙法則を、自らの魂内にはー特に低学年の教師はー人類の至上の理念との関連を、包括的に観ることができなくてはいけない。低学年の先生が高学年の先生よりも低く観られる、というのは学校にとって癌のようなものである。将来に至っては、すべての教師がその霊的素地において同じ価値と尊厳を持たなくてはいけない。すべての教師は、直接に生徒に教えるというのではないにしろ、背景に偉大な智を持っていなくてはならず、授業はそこから湧き上がってくるのである。

■ 人間を理解する上での二つの根本的障害:二元論とエネルギー保存の法則(2~6)

▲心理学が不完全である理由(2~3)

心理学的認識においては、869年のカトリック公会議の影響がいまだに残っている。このドグマによって、それ以前にあった人間の三分節(霊、魂、体)から二分節(魂、体)にしてしまった。これを前提にしてしまうと、人間の本性を理解することができなくなる。

▲エネルギー保存則から帰結される阻害(4~5)

人間を理解する上でもう一つ障害になるのが、エネルギー保存則である。つまり、宇宙全体のエネルギー量は一定である、という考え方である。(ユリウス、ロベルト、マイヤーはこの法則を1842年に定式化したが、エネルギー総量が同じである、と述べたのではなく、エネルギーはメタモルフォーゼすると述べていた)。心の人間存在であることの根本には、人間を通して絶えず新しい力が、それどころか新しい素材が作られる、というのである。

▲教師の課題:自然と文化の伝達(6)

生徒を、自然界を理解できるようにしてやることと、精神活動の考え方へと導いてやることが教師の課題である。この両者は、人間が社会的な営みに入って行かれるための条件である。

■ 世界への二通りの道筋と純粋思考の持つ意味(7~14)

▲自然に対する二重の関係―表象の側(7~8)

外的な自然は一方では私たちの表象および思考の側に向かって開かれている。(誕生前の鏡像である像的特徴)。もう一方で自然は私たちの意志の側に向かっても開かれている。(死後の営みに対する萌芽的性格)。こうした二重性から、人間の二層性という誤りが導かれた。―表象によって自然を捉える場合は常に、自然の死んでいく側面だけしか捉えられない。

▲知覚過程における自我ー意志の側(9)

私たちは十二感覚によって外界と結びつくが、これはまずは意志的なもので萌芽的である。プラトンは。人間が観るときには(超感覚的な、つまりエーテル的な)触手が物の方に伸びていくと言っている。頭部における眼の位置からして、動物と人間では世界との関係が異なっていることがわかる。動物とは異なるこうした点において、つまり眼の二本の超感覚的な触手の左右を超感覚的に触れさせることができるために自我、つまり自分自身を知覚できるのである。

感覚知覚にとっては、私たちが意志的に物に対して行う活動が決定的に重要である。高次の感覚に至るまですべての感覚器官は意志的である代謝と結びついている。

▲「なっていくこと」と「できあがっていること」(10~12)

最初に挙げられた自然との二重の関係がもう一度特徴づけられ、要約される。人間は悟性によって死んだ物を捉え、それを自然法則として定式化する。感覚器官にまで達して働いている意志によって人間は死を克服しうるもの、世界の未来となりうるものへと持ち上げる。このように述べてからシュタイナーは自然との生き生きとした関係を、光と色との関係を例にしながら、根本から述べ、誕生前と死後を新しい形で結びつけている。自然界では絶えず死に向かう方向と生成へと向かう方向が結びついている。

▲認識における、感覚に依拠しない純粋な思考(13~14)

もし人間が、ここに挙げた二つの力しか自らの内に呼び起こすことができなかったとしたら、人間は決して自由ではありえないだろう。悟性の側だけに結びついているとしたら、死んだものとした結びつかず、自分自身においても死んだ部分としか結びつかず、死んだもの、死していくものを自由にしようとするだけだろう。また意志の側だけであれば、人間はぼんやりとしてしまい単なる自然存在でしかなくなるだろう。ーこの対極的なもののなかに第三のもの、人間が誕生から死までの間担っているもの、つまり感覚に依拠しない純粋思考、そこで絶えず意志が働いている思考が加わる。この思考によって人間は自律的な存在となる。

■ 自然に対する人間の意味(15~21)

▲進化に対する人間の意味(15~17)

近代の学問では、自然現象の中での生成の流れと新生成の流れを分けて考えておくことができない。この分離ができるようになるためには、次の問いが現実に即したかたちで答えられなくてはならない。つまり、「もし人間が地球にいなかったら、自然はどのようになっていただろうか」という問いである。自然科学的な見地からは、その学問が前提としていることからの当然の帰結として、「耕作や科学技術によって変形を受ける前の自然が、人間だけがいない状態で鉱物界、植物界、動物界として成り立っていた、と考える。

霊学の観点からは逆の答が導かれる。進化において人間が存在しなかったとするなら、地球の自然界はまったく違った形で存在していただろう。

・・・とりわけ高等動物は、人間がさらに進化するために言わば沈殿物のように排泄されることで生じた。

・・・人間がいなかったとしたら、下等動物だけでなく、植物界、鉱物界もとうの昔に硬化し、生成発展の余地はなかっただろう。

▲地球の形成力にとっての人間死体の意味ー若さを保たせる働き(17~21)

火葬であれ土葬であれ、人間の死体は絶えず地球に還っていくし、それによってリアルなプロセスが働く。死体によって進化を支える力が補われる。それはちょうど酵母がなければパンが膨らまないのと同じようにである。死体の力が働いているので、今日もなお鉱物は結晶化できるし、植物や下等動物が成長できるのである。人間の死体は地球進化の酵素なのである。死によって人間は自然プロセスの一部になる。

人間死体に地球進化を支える力があるのは、地上生の間、人間の肉体に絶えず霊的・魂的な諸力が入り込むことよって肉体が変容し、死に際しては誕生のときとは違ったものになっているからである。人間は外界から得た素材や誕生時に受け取った諸力を新しいものにし、それらを死に際して変容させたかたちで地上的プロセスに受け渡す。それによって人間は超感覚的なものを絶えず感覚的・物質的なものに伝えている。人間は誕生から死までこの霊的・魂的な「滴」をが受け取り、死ぬと大地に渡す。この滴によって超感覚的な力が地球を絶えず実りあるものにしている。これがなかったとしたら、地球はとうの昔に死んでいただろう。

■ 人間に対する自然の力の働きかけと自然への人間の働きかけ(22~29)

▲死の力による骨と神経の形成(22~23)

自然界の二つの流れ、つまり死と新生は人間の中にどのように続いているだろうか?自然界に強く働いている死の力は人間においては骨格系と神経系にあたるものを与えてくれている。死をもたらす力を変容させずに人間に作用させたら、私たちは骸骨になってしまうだろう。それを弱めることで神経系ができあがる。神経とは絶えず骨になろうとする傾向を持っている。それを妨げているのは神経が血液や筋肉などに属する要素と結びついて変化しているからである。一方に神経・骨格系があり、もう一方に筋肉・血液系があり、その両者を正しく結びつけることは非常に重要である。(クル病では骨がしっかりと死ぬことが妨げられている)。眼では、まさにこの両極の力が正しく共働することで、意志的活動と表象的活動を相互に結びつける可能性が与えられている。

▲骨格系と幾何学(24~25)

昔の人は神経と同様に骨も考えることを知っていた。実際、あらゆる抽象的学問、たとえば幾何学などは、骨格系の能力に拠っている。人間が、具体的な生活の中では決して現れることのない抽象的な三角形を幾何学駅・数学的ファンタジーから作り出せる、というのは背骨が直立していて、平面上でたとえば三角形を動けることに拠っている。

幾何学的図形として固定された動きを人間は大地と共に行っている。地球の動きとはコペルニクスが述べた動きよりはるかに複雑である。たとえば、プラトン立体の直線の動きをしている。

私たちの骨格系の持っている認識を私たちは直接に意識はされないが、幾何学的な像として反映されている。幾何学をすることで、人間自身が宇宙で行っていることを再構成しているのである。

▲人間を通して生の力が自然界に流れ込んでいく(26~28)

死の力の反対側には血液・筋肉系の力がある。これは絶えず動き、変化し、生成し、萌芽的である。人間が居なければ地球上のすべてのプロセスに広がっていってしまうであろう死を人間だけが防ぐことができる。大きな結晶化から個々の結晶を引き離し、それを保たせている。こうして人間は地球の命を活性化し、さらなる発達の可能性を守っている。

自然科学やアメリカ的思考に基づく哲学では人間は宇宙における単なる観客でしかない、つまり宇宙は人間なしでも存続するのである。シュタイナーは、彼の初期の著作である「真理と学問」の中で人間を舞台として捉え、しかも人間的なことが起こる舞台ではなく、宇宙的な事柄が起こる舞台として捉えていることに触れている。こうした考え方をしなければ決して正しい教育者とはなれない。

人間の中の骨格・神経系と血液・筋肉系の共同作用によって絶えず素材や諸力が新しく作られている。そして、それによって地球も死から逃れている。霊的なものに向かっていく血液の新生と保存(第2講)という考え方とここでの考え方の両者を結びつけたものを基礎に考えが展開していく。無からは何も生まれえないが、一方が滅びもう一方が生じるという形で変容する、という《総合的》な考えによって初めて現実の人間を把握できる。

▲結末(29)


表象の営みにおける力によって宇宙法則を明文化する代わりに、私たちは《公準》を作った方がよいだろう。つまり、異なる領域をお互いに分けておくために概念を用いるのである。(これは、物体の相互不可侵性を例に示された)。定義をしそれにユニヴァーサルな有効性を認めることが重要なのではなく、物において観察され体験されることを記述することが大切なのである。

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