2015年6月9日火曜日

『農業講座』第1講、コーベルヴィッツ、1924年6月7日(土曜日)

カイザーリンク伯爵への謝辞

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深い感謝と共に、カイザーリンク伯爵の言葉を振り返っています。 これはアントロポゾフィーから湧き上がりうる正当な感謝の気持ちというだけでなく、この困難な現代にあってアントロポゾフィーに関心を持つ人びとすべてが感謝を表明するはずであろう、アントロポゾフィーにおける真の感謝であり、また心の奥深くから感じることのできる感謝です。 そしてアントロポゾフィーの精神に基づき、ここで語られた言葉に心から感謝いたします。

■01-02

この農業講座をまさにカイザーリンク伯爵夫妻の館で催せますことに深い満足感を覚えます。 以前の訪問のときからわかっていますが、このコーベルヴィッツには霊的魂的な素晴らしい雰囲気があり、そしてまさにその霊的魂的な雰囲気が、これからお話しする事柄を素晴らしく準備してくれています。

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伯爵は、不都合を感じられる人もおられるかもしれないと言っておられました。これはオイリュトミーの女性たちを指すと思いますが、他の外からのお客さまも該当するかもしれません。しかし、私たちがここに集まった真の理由から見ればこう言う必要があります。今回の農業講座を開催するに当たって、これほど素晴らしいお手本のような農場に勝る場はないと。 アントロポゾフィーの世界で現われ出てくるものはすべて、それにふさわしい情感の雰囲気に浸ることを必ずその背景にしています。 その点から見れば、この場ではまさに農業にふさわしいものが現われ出ることができるはずです。

■01-04

これらいっさいを含めて、私はカイザーリンク伯爵家に心からの感謝を捧げます。また、この祝祭的かつ学びの日々をこの地で過ごすことができる点について、妻であるシュタイナー夫人もこの感謝に賛同するはずです。 私たちがこのコーベルヴィッツに集うことで、アントロポゾフィー運動と結びついた農業の精霊が、この祝祭の日々に力を発揮するであろうことに思いを\kana{馳}{は}せずにはいられません。 「来たるべき日」\footnote{社会三層化の理念によって設立された総合的企業体およびその出版社の名称。アントロポゾフィーの総合誌「ディー・ドライ」は最初ここから刊行された}から出発し、シュトゥットガルトで展開した農業運動の当初から、序言と実行と犠牲的な協力とによって支援してくださり、また農業と共に成長することによってその根底から培われた彼の精神を、農業関連分野で働かせたのは、このカイザーリンク伯爵でした。 それによって、私たちの運動の最も深いところから、ある力が働きました。その力が、伯爵が私たちを必要としたその瞬間に、このコーベルヴィッツにごく自然なかたちで私たちを引き寄せたのです。 一人ひとりがこの講座のためにコーベルヴィッツに来られたと私が確信できるのは、それゆえなのです。 こうした理由から、ここに来た私たちもまた同様に、カイザーリンク家の方からすでにご説明があったように、こうした活動をする私たちをこの数日間受け入れてくださることに喜んで感謝の意を表わさなくてはなりません。

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心の底からのこの感謝の念は、私自身も同様ですし、カイザーリンク家のみなさまにはこの感謝を受け止めていただくようお願いするばかりです。 何日もの間、このように手厚く、多くの訪問者を受け入れ、またそれができることが、どれほど大変かを私は承知していますので、この感謝にもそれ相応のニュアンスを込めたいと思います。また、都市から遠く離れたこのような館でこうした催しを行なうことの困難に巡らせた私の思いと共に、この感謝の言葉を受け取っていただけるよう、お願いいたします。 ここでの主催者であるカイザーリンク伯爵は、身内に向けてではなく外来のお客さまに向けての配慮から、さまざまなことが到らないと言われましたが、ここでのもてなしと接待に、どのような状況においても、私たち全員が満足してこの地を旅立つことを確信しています。

■01-06

講座自体にも同じように満足してくださるかは、おそらく今後も議論される別の問題です。それでも、後日さまざまな議論によって内容の理解を深めるべく、この数日ですべてを出し切ろうと思います。 多方面から長期にわたってこうした講座が希望されていましたが、今回初めて、アントロポゾフィー的努力を背景にそうした講座を引き受けました。そのことを、皆様にはお考えになっていただきたいと思います。 こうした講座では、多くのことが必要とされます。農業への関心はあらゆる方面につながり、人間生活の広大な領域にまで広がり、農業に属さない生活領域など存在しないことが講座の中で自ずと明らかになるからです。 何らかの側面、何らかの片隅から出発しても、人間の生活のあらゆる関心が農業領域に位置づけられていきます。 もちろんここでは、農業の核心部分にしか触れることはできません。 ただ、この核心部分は自ずとさまざまに枝分かれしていくでしょう。その理由はおそらく、ここで語られる事柄が完全にアントロポゾフィーを基盤にしているからです。まさにその理由によって、必然的にすべてにつながるのです。 ここで先にお断りしておかなくてはなりませんが、今日、導入として述べることはやや中途半端かもしれません。農業特有の問題とのつながりが、必ずしも誰にでもわかるわけではないと思われる地点までしかお話しできないからです。 らで述べることは農業とはかけ離れているように見えますが、これは基礎なので、さらなる話もその上に積み上げざるをえないのです。

近代精神は農業の出発点とはならない


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まさに農業もまた、近代的精神生活全体によって致命的な打撃を受けています。 この近代的精神生活は特に経済面において破壊的なかたちをとってきましたが、この破壊的意味合いはほとんど誰も予感していません。 そのような状況に対抗しようと意図したのが、私たちのアントロポゾフィー運動に発する経済活動です。 こうした経済活動は、実業家や商業家によって生み出されました。しかし彼らだけでは、その本来の意図だったものをあらゆる方面で実現することはできませんでした。こうした事柄に対する正しい理解を広げるに当たって、現代ではあまりに多くの妨害的な力が存在しますし、それだけの根拠でもこれは十分に困難だったのです。 実効ある力存在に対しては、個々人はまったく無力です。そのために今日に到るまで、アントロポゾフィー運動から生まれたこの種の経済活動における最も根源的な問題、つまり最も本質的な事柄が議論すらされていません。 現実には何が問題だったのでしょうか。

■01-08

一般論ではなく具体的に話すために、農業を例に説明しようと思います。 現在では、たとえばいわゆる国民経済に関するさまざまな書物や講演集があり、これらには社会経済から見た農業経済が論じられた章があります。 社会経済的諸原則からどのように農業を構築するかを考えています。 つまり、農業をどのように構築するかという社会経済学的理念を取り扱った書物はあるのです。 国民経済学では、その講演も著作もすべて明らかに無意味です。 その無意味なことが今日、広く行なわれています。 まず農業的事柄の基盤、つまりビート栽培、ジャガイモ栽培、穀物栽培の何たるかを知って、たとえ農業を社会形態として語るにしろ、初めて農業について語りうるのです。 それなくしては、国民経済的諸原則についても語りえません。 物事は事柄から把握されるのであり、何らかの理論的考察からではありません。 大学で農業に関する多くの国民経済学の講義を聴いた人は、事柄など固定的でわかったように見えるので、今日こうした話を聞いても馬鹿げていると思うだけです。 しかし、実際はそうではありません。農業については、畑、森、家畜の飼育をもとにしか判断できません。 事柄自体から引き出されたものではない国民経済に関するものなど、すべて捨ててしまう方がよいのです。 根なしである国民経済との関連で語られることは単なる言葉の遊びです。それに気づかないうちは、農業分野を含むあらゆる分野で意味ある洞察は得られません。

■01-09

人は、事柄を理解せずとも、さまざまな視点から物事を語れると思い込んでいます。その根源は、個々の生活領域においてすらもその基盤に回帰できない点にあります。 ビートがビートに見え、こんな形をしていて、切り易いのか切り難いのか、何色で、どのような成分を含んでいるか、などはいくらでも語ることができます。 しかしこれでは、ビートそのものはまったく理解できていません。とりわけビートと耕地の関係、いつ実るかといった季節との関係などがわかっていません。そうではなく、次のことが明確でなくてはならないのです。

磁針は地球との関連で理解される


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別な生活領域でしたが、こうしたことをわかりやすくするために、私はよくある喩えをしました。 磁針を見て、一方の先端はほぼ北を向き、もう一方は南を向くことを発見します。 そしてなぜそうなるかを考え、原因を探し、磁針の一方が北を向きもう一方が南を向くのは、地球全体と関係していることを見つけます。 磁針がこのような向きを示すことの原因を磁針自体に求めるなら、それは無意味でしょう。 磁針の向きについては、磁針と地球全体との関係を知って、初めて理解できるからです。

■01-11

磁針の場合にはただちに無意味とわかりますが、全体の関連を顧みずに有意味と見なされている事柄も多くあります。 ビートが地中で育っているとします。それをその狭い全体の中で、あるがままに捉えるでしょう。しかしその成長は、無数の状況に左右され、それどころか地球外の宇宙的な世界に存在するものにも左右されているとしたら、そうした考えは無意味でしょう。 今日の人びとは多くのことを、あたかもごく限られた範囲の物事だけに関係し、全宇宙からの作用とは無関係であると見なし、このように説明し、実生活でもそうした説明をしばしば取り入れています。 人間の個々の生活領域においてこうした状況に陥っていて、苦しんでいます。かつて人びとは学問ではなく本能を頼りに働いていましたが、そうした本能が残っていますから、近代の学問があってもそこまでひどくはなっていません。たとえばある男性が医師に、生理的に必要な肉やキャベツがそれぞれ何グラムと処方してもらいます。彼らの多くは傍らに秤を置き、これから食べるものを計量します。そうしたことも知っていなくてはいけないというのは確かですが、私はいつもこう考えざるをえません。つまり、食卓に盛られたものが足りないくらいで、腹八分目がよいという本能を持つ方がよいと思うのです。

実践では学問より本能の方が役立つことが多い


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このように本能とは人が為すべきことすべての根底にあり、学問より前にあります。 そしてこうした本能はしばしば非常に確実に役に立ちました。昔の農事暦や農事の決まりを読みますと、そこに記されたことが非常に賢く、わかり易いことに大変に驚くことでしょう。 それらが迷信的にならないのは、本能的に確実な人が居たからです。 種播や収穫については非常に意味深い格言が見られる一方で、生じうる愚行を避けるために、「鶏が堆肥の上で時を告げると、雨が降るか、あるいは天気が続く」といったものも見られます。 迷信に陥らないように、本能的なものの中にはいたるところにユーモアがあります。

■01-13

今、こうしたことがアントロポゾフィー的観点から語られますが、それはかつての本能に戻ることではありません。そうではなく、本能が与えてくれるものを、深い霊的な洞察から見い出そうとしているのです。また、本能が与えてくれるものは、ますます頼りなく、先細りになっています。 そのためには、植物や動物、さらには大地自体の生の営みの観察を強力に広げ、さらには宇宙的な側面にまで広げなくてはなりません。

■01-14

暴風と月の満ち欠けをありきたりなやり方で結びつけることはできませんし、それはまったく正しいのですが、別な面から見ますと、言い伝えられてきたことが正しい場合もあります。 別のグループにはよく話したことなのですが、かつてライプツィヒに二人の教授が居ました。一人はグスタフ・テオドール・フェヒナーで、精神的な事柄において確実な見識を持っていました。ですので、雨の降るとき降らないときが月の運行や月に関係することを、単なる外面的な観察を根拠としても、それを迷信と片づけることはできませんでした。 このことは統計的な研究から得られた必然でした。 しかし同僚である有名なシュライデン教授は、こうしたことから目を背ける時代に、学問的理性的根拠を持って、これらすべてを拒絶したのです。 ライプツィヒ大学のこの両教授には共に夫人が居ました。 グスタフ・テオドール・フェヒナーはユーモアのある人物でしたので、「これは妻たちに決めてもらうべきだ」と言いました。 さて、当時ライプツィヒではある習慣が残っていました。 洗濯のための水が簡単には手に入らなかったのです。 遠くから運んでこなければなりませんでした。 そこで\kana{瓶}{かめ}や桶を置いて雨水を溜めました。 これを両夫人ともがやっていました。 ところが場所が足りなかったので、桶を同時に並べることはできませんでした。 そこでフェヒナー教授はこう言いました。 「もし、尊敬する我が同僚の言うことが正しく、いつ桶を並べても差はないと言うのでしたら、シュライデン教授夫人は、私が月齢にしたがって調べた雨の少ないとする時期に桶を並べてください。そして私の妻は、私の計算で雨が降ると思われる時期に桶を並べさせてもらいます。 私の話がナンセンスだと言うなら、シュライデン教授夫人は喜んでそうしてくださるでしょう」。 その結果は、シュライデン教授夫人はこの申し出が気に入らず、自分の夫の言葉よりフェヒナー教授の計算にしたがって桶を並べたいと言いました。

■01-15

こんな話があったのです。 学問は正しい場合もありますが、実践にはこうした正しい学問の入り込む余地はないのです。 こうした話はやめにして、誠実に話をすすめましょう。 それでも、地上での物質的生活を可能にする唯一のもの、つまりそれは農業ですが、それをしっかりと見ようとするなら、今日の普通の視点よりもさらに深い視点を採らなくてはいけないという点に注意を喚起するために、このように言ったのです。

■01-16

今日アントロポゾフィーの立場から語ることが、あらゆる分野について満足しうるものであるかは私にはわかりません。 それでも農業に対し、アントロポゾフィーの立場から何らかを与えうるかを模索してみなくてはなりません。

宇宙リズムから人間はある程度解放されている


■01-17
以上を踏まえ、私たちの地上存在における農業にとって重要な話を始めたいと思います。 何かについて語るにしても、今日では多くの場合、化学的・物理学的成分を最重要視する傾向があります。 しかしここでは、化学的・物理学的成分から始めるのではなく、植物や動物の生活(生命)にとって非常に重要な意味を持ち、化学的・物理的成分の背後にあるものから出発したいと思います。 人間や動物の生活(生命)を観察しますと、それらは外界から非常に自立していると言えるでしょう。 人間に近くなればなるほど、より強く自立していると言えます。 人間や動物の営みの中には、地球外、あるいは地球を直接に取り巻く大気圏などの影響をまったく受けていないように見える現象もあります。 これはそう見えるだけではなく、特に人間の営みの多くにおいては、そうあることがまさに正しいのです。 大気的な影響によって、特定の病気が悪化することは知られています。 人間のある種の病気やその他の生命現象が、外的自然現象が示す時間的流れと類似した成り行きを見せることも、わずかではありますが知られています。 ただそのように一致していても、始点と終点はずれています。 最も重要な生理現象の一つである月経は、時間的には月の満ち欠けを再現していますが、始点と終点は一致していません。 男性女性の両性の生体には、自然リズムを再現している微妙な現象が数多くあります。

■01-18

物事により密接にかかわるならば、たとえば太陽黒点の周期をきちんと理解したなら、社会生活上の事柄もよりよく理解できるはずです。 しかし、社会生活上の事柄が太陽黒点の周期に対応するにしろ、太陽黒点の始点や終点からは独立していて一致しないので、人はこうした事柄になかなか目を向けません。 両者は同じ周期、同じリズムですが、時間的には一致しません。 社会生活上の事柄では自然現象の周期やリズムが内的に保たれているにしろ、自律化しているのです。 ある人に向かって「人間の営みはミクロコスモスで、マクロコスモスに従っている」と言いますと、「それはナンセンスだ」と反論するかもしれません。 「ある種の病気では、発熱周期が七日である」と主張しますと、その人は「そうだとするなら、発熱と同時に何らかの外的現象が生じ、両者が並行し、外的現象が消えると同時に発熱も終わるはずだ」と反論するかもしれません。 ……こうした発熱はこの反論のように振る舞うことはないにしろ、始点と終点が外的現象と同期していないにしろ、内的リズムは保持しています。

植物は宇宙リズムと結びついている


■01-19
宇宙において、人間ではこうした解放がほぼ完全に終わっています。 動物は人間ほどには解放されておらず、植物では地上の外的な自然も含め自然界全般の中に完全に組み込まれています。 それゆえ、「地上界の存在はすべて宇宙的出来事の残照である」という知見を考慮しませんと、植物の営みはまったく理解できないでしょう。 人間では宇宙からある程度解放されているので、宇宙的出来事が真似されるだけなのです。 人間には内的リズムがあるからです。 植物の場合は、徹底的に宇宙的出来事を写し出しています。 この点には、今日の序論で触れておきたいと思います。

ケイ素は宇宙とつながる


■01-20
さて、宇宙空間において地球はまず月に囲まれ、太陽系の諸惑星に取り囲まれています。 古代の本能的な学問では太陽も惑星に数えていましたので、その順は月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星でした。 さて、ここでは天文学的な論考はせず、惑星的営みの中で地上と関連する事柄に触れたいと思います。 地上的営みを巨視的に見るなら、考えうるものの中で最大の役割を地上的に果たしている事柄があります。私はそれを、世界におけるケイ素性物質の営みと呼びたいと思います。 ケイ素性物質は、角柱と角錐で囲まれた石英という美しい形態として現われます。 ケイ素性物質は水晶の結晶では酸素と結びついていますが、その酸素を除外して考えますと、それがいわゆるシリカ(ケイ素)です。 今日の化学においては酸素、窒素、水素、イオウといった元素がありますが、この物質、つまり酸素と結びついたシリカ、言い換えるとケイ素(Kiesel)は一つの化学元素です。 石英中でシリカとして活動しているものが、地球表層の27~28%を占めることを忘れてはいけません。 酸素は47~48%を占めますが、他の元素はこれよりは少ないのです。 つまりシリカは、非常に多量に存在しています。

■01-21

さて、このシリカは石英といった石の中に存在していて、外的物質、つまり土壌を植物の成長との関連で考察する際には……土壌のことを人はよく忘れています……、大きな意味を持たないかたちで現われます。 つまり、それは水に溶けないのです。 水は素通りしてしまいます。 つまり、表面的で月並みで一般的な見方では、たいした役割を果たしていないように見えます。 しかしスギナ(Equisetum)を見ますと、その成分中には石英中と同じケイ酸が90%(灰分中)、非常に繊細に分布しています。 こうしたことから、ケイ素ないしシリカが非常に重要であるに違いないことがわかると思います。 地上で出会うもののほぼ半数が、ケイ素成分なのです。

■01-22

さて奇妙なことがあります。このケイ素はほとんど注目されていませんし、ケイ素が非常に有効に作用しうる場でも、今日もなお完全に無視されています。 アントロポゾフィーから生まれた医学では、ケイ素性物質は多くの医薬品にとって重要な成分です。 多くの病気に対して内服あるいは浴用としてケイ素が処方されます。なぜなら症例の中で感覚の異常状態を示すもの、内部感覚内の異常ではないものの、諸器官内で痛みを呼び起こすもののほとんどが、まさにこのシリカによる影響だからです。 ……古くからの言い回しで……《自然界のやりくり》において、ケイ酸は非常に大きな役割を担ってきました。 それは、ケイ素がご承知のように石英などの岩石中に見られるだけでなく、非常に微細に大気中にも分布しているからです。つまりケイ素はいたるところに存在しています。 土として私たちに与えられているものの約半分、48%はケイ酸なのです(注)。 このケイ素の働きをご存知でしょうか。 仮説的にまさにこう問わなくてはなりません。
(注:内容)現在、地殻中の二酸化ケイ素含有率は59.8%とされる。その半分がケイ素の重量である。

■01-23

もし地球上に現在の半分しかケイ素がなかったら、すべての植物が多少なりとも角錐状のフォルムを取るでしょう。 花はすべて萎縮し、ほとんどの植物がサボテンのような異様なフォルムになるでしょう。 穀類は非常に変なフォルムになります。茎は下にいくにしたがって太くなり、肉質にすらなるのに対し、穂は萎縮し、完全な穂はほとんどなくなるでしょう。

植物と石灰質の関係


■01-24
これが一方の面です。 もう一方では、カルシウム性物質やその類縁、つまりカリウム、ナトリウムなどが、ケイ素性物質ほど広範ではないにしろ、地球上のいたるところに存在しています。 もしこれらが現状より少量しか存在しなかったら、きわめて茎の細い植物ばかりで、そのほとんどが茎を絡み合わせたツル植物ばかりになるでしょう。 花は周囲にばらばらに広がっていくでしょうが、結実せず、また何の栄養もないでしょう。 この二つの力が均衡し協調することによって、……二つの物質を代表として取り上げるなら……石灰性物質とケイ素性物質が協調することで、植物は私たちが目にするような現在のフォルムで繁栄できるのです。

■01-25

さてさらに先に進みましょう。 ケイ素性物質の内に生きるものは、すべて地球からの力ではなく、火星、木星、土星という外惑星に由来する力です。 これらの諸惑星から発するものが、ケイ素質やその類縁物質を経由して植物的営みに作用しています。 これに対し、月、水星、金星といった地球に近い惑星に由来する力は、石灰的なものを経由して地球上の植物や動物の営みに作用します。 ですからあらゆる耕地に対し、「この中にはケイ素質と石灰質とが作用している。 ケイ素質には土星、木星、火星の作用が、石灰質には月、金星、水星の作用がある」と言えるのです。

植物の自己保存と食用性という二重性



■01-26

さて次に、植物そのものを観察してみましょう。 植物の営みには二通りのことが観察されるはずです。 第一は、個々の植物種を含めたすべての植物が自己保存能力、つまり生殖力を持ち、自分と同じものを生み出しうる点です。 これが一つです。 もう一つは、植物が自然界の低次段階にあって、より高次段階の生命に栄養を提供している点です。 植物生育におけるこの二つの流れは、当面ほとんど何の相互関係もありません。 自然界の形成力は植物が次代、次々代へと発達していく経過に関連していますが、そうした自然界の形成力にしてみれば、私たちがその植物を食べると栄養になるかなどはどうでもよいからです。 ここに見られるのは二つのまったく異なる関心事です。自然における諸力の関連で見れば、内的再生産力や成長に関係するもの、植物の世代から世代へとつながっていくもの、それらは、月、金星、水星に由来し、石灰質を経由してやって来た宇宙から地球への作用です。 これを理解するためには、食用とはせず、単に世代を重ねていく植物で表面に現われていることを単純に観察してみましょう。すると水星、金星、月からの諸力による宇宙的作用だけに着目しているかのようであるとわかります。それらの諸力は地球上の植物存在の再生産に関与しています。

■01-27

しかし、植物が真の意味で食用になる場合、つまり植物内に動物や人間にとっての栄養素が作り出される場合には、火星、木星、土星がケイ素質を経由してかかわっています。 ケイ素質は植物存在を大宇宙にまで開かせ、植物の諸感覚を目覚めさせ、宇宙空間から発し、地球から遠い諸天体が形成したものを受け取らせます。これには火星、木星、土星が関与しています。 それに対し、月、水星、金星の領域からは植物を生殖可能にする能力が与えられます。 当面これらは単なる知識に思えるでしょう。 しかし、いくらか広い観点から得られたこうした事柄は、自ずから実践につながっていきます。

惑星的作用を仲介するもの



■01-28

月、水星、金星からの諸力が地球に入り込み、植物の営みで作用を及ぼします。このとき、何がこれを促進し、また何が多少なりとも抑制するでしょうか。 植物の営みに対する月や土星からの作用は、何が促進し、何が抑制するのでしょうか。こう問わなくてはならないことがおわかりでしょう。 \mysubsection{月は水を介して}

■01-29

一年の流れの中では雨の日と雨の降らない日があります。 現代の物理学者が行なう雨の研究では、雨天時には非雨天時より地上に多くの水が落ちるというだけです。 彼らは水を、水素と酸素からなる、抽象的な物質と捉えています。単に水素と酸素からなる物質なのです。 水を電気分解しますと、二つの物質に分離し、それぞれが独自の活性を示します。 しかしそれだけでは水の持つすべてを語り尽くしてはいません。 化学的には酸素と水素ですが、水はそれ以上のものを秘めています。 たとえば、月からの諸力に地球上での道筋をつけるためには水が最も適していて、水が地球圏において月の諸力を分配しています。 地球上の水と月とには、ある種の関係があります。 何日かの雨が終わって、その後で満月になると仮定します。 満月の時に月からやって来る諸力によって、地上ではある偉大なことが生じます。 植物成長全体にこの諸力が差し込むのです。 もし満月以前に雨の日がなかったら、この月からの諸力は植物に差し込むことができません。 「何らかの関連で雨が降り、それを満月が照らした後で種子を播くことには意味があるのだろうか、それとも何も考えずにいつでも種子を播いてよいのだろうか」。これは取り上げなくてはならないテーマです。 確かに芽は出すでしょうが、「雨と満月光の後での播種は適切か」という問いは吟味してみる必要があります。なぜなら、ある種の植物では、満月からの作用とされるものが、雨の日の後では豊かで強く、太陽が照らした後ではわずかで弱々しいからです。 古くからの農民のしきたりにはこうした事柄がありました。 言い伝えによって何をすべきかがわかりました。 言い伝えは今日では迷信とされ、こうした事柄についての満足のいく学問はまだありませんし、ここで立ち止まってはいけません。 \mysubsection{土星は熱を介して}

■01-30

次に、地球は大気圏に囲まれています。 この大気圏は気体的である他に、温かくなったり冷たくなったりします。 特定の時期には大気がかなりの熱を集積し、その緊張が過度になりますと、嵐によってそれを放出します。 さて、熱によって何がどうなるでしょうか。 霊的に観察しますと、水はケイ素に対しかかわりを持ちようがありませんでしたが、熱はケイ素に対し非常に強い結びつきを持つことがわかります。そしてケイ素的なものを介して作用しうるまさにこの諸力は、ある特別な作用を及ぼしますし、この諸力こそ土星、木星、火星に由来する諸力なのです。 土星、木星、火星から発せられるこの諸力を見るにあたっては、月の諸力を見るときとはまったく違う観察法で見なくてはなりません。 なぜなら「土星の公転周期は約30年で、月齢の周期は30日、あるいは28日である」という点を考慮しなくてはならないからです。 つまり、土星は15年間しか見えません。 土星と植物の成長との関連はまったく異なっています。 土星は、地球を上から照らしているときだけでなく、その光が地球を通り抜けざるをえないときでも作用します。

■01-31

土星が30年かけてゆっくり周回しているのですから、この図のように、ここに土星の軌道があり、土星がここにあるときには地球上のある点を直接に照らし、ここではまた地球上のこの地点に地球を通して作用しています。

土星が30年かけてゆっくり周回しているのですから、この図のように、ここに土星の軌道があり、土星がここにあるときには地球上のある点を直接に照らし、ここではまた地球上のこの地点に地球を通して作用しています。 ここで、土星的諸力が地球上の植物の営みにどれくらい強く作用しうるかは、常に大気の熱状態に影響されます。 冷気では土星の諸力は届かず、暖気では届きます。 この土星の諸力が行なっていることは、植物の営みのどこに見られるのでしょうか。 土星が地上の熱の力を借りて行なう作用は、一年のうちに芽生え、枯れ、種子を残す一年生植物の生育においてではなく、多年生植物において見られます。 この熱を介して植物に入る諸力やその作用は、樹木の樹皮に見られますし、多年生植物を多年生植物たらしめているものすべての内に見られます。

多年生植物と外惑星の関係

■01-32

植物の一年だけの命や植物の短い寿命は、短い公転周期の諸惑星と関連しているからです。 それに対し、こうした現われては消える状態から脱却させ、樹々を樹皮で包み、それらを多年化する作用は、たとえば30年の土星、12年の木星といった長い公転周期の惑星の諸力が、寒暖を仲介にやってきています。 したがってアイヒェ(ヨーロッパミズナラ)を植える際には、火星周期をよく知っていることが意味を持ちます。 アイヒェを火星が相応の位置にあるときに植えますと、何も考えず自分の都合で植えた場合とは成長が違ってくるからです。 あるいは皆様が針葉樹林をお持ちなら、土星の諸力が大きな役割を果たしますから、いわゆる土星上昇期での植林と、別な時期での植林ではまったく違った結果になります。 こうした事柄を見通している人なら、植物が成長したがっているか否かを見て、植林の際にこうした諸力を理解していたか否かを正確に言い当てられます。 一般には明白ではない事柄も、生の営みを深く理解した人には白日の下にさらされるからです。

農業は宇宙とのつながりを再考する必要がある

■01-33

例としてこう仮定してみましょう。宇宙の運行を理解せずに植えられた木を薪にして燃やしたとしましょう。すると、正しい理解と共に植えられた木を燃やした場合のような健康な暖かさは得られません。 日常生活と密接にかかわる事柄の中にこうした事柄が入り込んでいるのです。まさにこうした点にそうした事柄が非常に大きな意味を持ちます。しかし、今日人びとはほとんど何の考えもなく生活しています。 こうした事柄を考えないですむことを人びとは喜んですらいます。 相応の装置を作り、ネジを巻いて動くのと同じに、あらゆる事柄が機械のように進行するはずと思っています。 こうした物質主義のやり方にしたがって、自然界すべてが運行していると考えているのです。 しかしこれによって人びとは、実生活において重大な事柄にすでに足を踏み入れてしまったのです。 こうして重大な謎にぶつかりました。 私が幼少期に食べたようなジャガイモを、今日ではなぜ食べられなくなったのでしょうか。 私はあちこちで試しましたが、実際、そうなのです。 昔、私がそれを食べた場所へ行っても、もはやそうしたジャガイモは食べられません。 時の流れと共に、多くのものにおいて内的栄養力が著しく衰えています。 ここ数十年、これは非常に顕著です。 その理由は、私が今日、導入としてご紹介した道筋で再び見い出されなくてはならない、宇宙における親密な作用を、人がまったく理解していないからなのです。 私は、今日では見当も付かないような問いを提示しました。 私たちは、これをさらに考察するだけではなく、深化させ、実践に適用するのです。

『農業講座』第2講、コーベルヴィッツ、1924年6月10日

目次

% 第02講

■農場は一つの個体である

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02-01
初めの数講は、具体的実践の鍵を見つけるべく、農業の繁栄に関する認識から必要なことを抜粋し、まとめていきます。 現実化のためにすぐに適用されるべきこと、そのために意味のあることを中心に述べます。 農業的に生産されるものが、どのように生じ、世界のあらゆる領域でどのような命のつながりを持つかを見ることに、初めの数講は焦点を当てていきます。 さて、一つの農場とは、言葉の最上の意味において、一種の個体、それ自体で完結している個体です。 どの農場も、本来ならこの完結した個体という状態に近づかなくてはならないはずです。……完全には無理であっても、本来そこに近づけるとよいのです……。 つまり、農作に必要なものすべてがその農場内で入手できることが望ましいのです。 そしてそこには、当然ながら相応数の家畜が含まれます。 根本的には、理想的に構築された農場という観点からすれば、外部から農場内にもたらされる肥料などは、病んだ農場を癒やす薬剤とみなされるものです。
02-02
健康な農場とは、自らが必要とするものを自給できるはずです。 これが自然な姿であることの理由を、これから見ていきます。 事柄を本質や現実に沿って見ずに、外面的、物質的に見ていますと、当然のように次の問いが生まれます。 「隣の農場の牛糞も、自家の牛糞も同じではないのか」。 よく言われるように、物事は厳格には遂行しきれませんが、事実に即して事を整理するなら、農場は自己完結していなくてはならないことを概念的にでも知っておく必要があります。

■地表は横隔膜に相当する

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02-03
この見解が正当であることは、農業の基盤となる大地を観察することによって、そしてまた地球の外から働きかけてくるものを考察することによって、みなさんにも明らかになるでしょう。 ここで、地球外からの地球への作用は、ほとんどの場合まったく抽象的にしか語られません。 もちろん太陽の光や熱、さらにはこれらと結びついた気象現象などすべてが、作物が生育する大地を作り上げるにあたって、何かしらつながっていることは知られています。 しかしより厳密な状況については、現代的な観方では実際的な理解は得られません。 なぜなら現実や事実そのものに入り込んでいかないからです。 ……別な観点からもこうした事柄を観察していきますが……、今日はまず、農業の基礎が大地である、という視点から始めたいと思います。
02-04
この大地とは……模式的にこの横線で示しますが……、通常、鉱物的なものと見なされていて、せいぜいのところ腐植土形成や施肥によって幾分生命的なものが持ち込まれるとされます。それによって、大地はそれ自体として単に何らかの命を持ち、植物的なものを内包するだけでなく、アストラル的作用も持つことがわかります。 現代ではこのように考えられることもなく、これに対する賛同はさらに少ないのです。 この見解をさらに進め、大地内の命が、夏と冬とでは非常に微妙な、言わば薄まったレベルで異なっていることに目を向けますと、今日ではまったく考慮されていないにしろ、農業実践に非常に大きな意味を持つ領域に入っていきます。 土壌を少し観察すれば、土壌は生体における一種の器官であることがわかりますし、その生体とは、自然成長が存在するところならどこにでも見られます。(図)
02-05
実際、大地は人間の横隔膜と比較しうる一つの器官です。 イメージで語りますと……ここでは厳密には述べませんが、当面はこれで十分です……、こう言えるでしょう。「人間では、横隔膜より上には、頭部があり、また呼吸や循環のための器官があリ、下には別の器官がある」と。 さて、この観点から大地を人間の横隔膜と比較しますと、「大地という個体では、頭部は地中にあり、私たちを含めたすべての動物はこの個体の腹内に生きている」と言えるはずです。 地表より上とは、……一言で言うなら……農場という個体の内臓器官にあたります。 農場を歩くとき、私たちは腹の中を歩きまわっていますし、植物は腹の中へと伸びていきます。 農場とは逆立ちした人間であり、まさに逆立ちした個体と見るべきです。 動物に関しては講座が進む中で触れますが、やや事情が違います。 さて、私はなぜ「農場という個体は、逆立ちしている」と言うのでしょうか。
02-06
その理由は次のようなものです。大地のすぐ近くは空気や水蒸気や熱などが取り巻き、私たちはその中で呼吸し、生活し、植物はそこに向って成長し、そこから外的な熱、外的な空気、外的な水を受け取っています。そしてこれは人間下半身の腹部での活動に対応します。 それに対し大地の内部、つまり地表下で起きている事柄のすべては、植物の成長全般に対し、特には幼児期ですが、全生涯にわたる人間頭部での作用に相応しています。 地表の上と下とでは、絶えず活発な相互作用があります。そこでまず、諸作用の分布を見ます。地表より上には、月、水星、金星の直接の影響による作用が見られ、またそれらは太陽の作用を補助し、変化させています。いわゆる(月も含めた)内惑星の作用です。 それに対し、(地球を中心に考え)太陽より遠いいわゆる外惑星は、地表より下に作用し、太陽の地表下への作用を助けています。 ですから、植物の成長との関連で言えば、遠い天体の作用は地表より下に、地球に近い天体の作用は地表より上にあります。

■宇宙からの作用は地中の砂や岩石で反射される

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宇宙の彼方から植物成長に作用するにしろ、光線が植物に直接作用することはなく、その作用が一旦大地に受け止められ、大地から上方に再放射されることで作用します。 つまり、植物成長に対して有益あるいは有害な下方の大地からの作用は、元々は宇宙的である力が反射しているのです。 地表より上に存在する空気や水へは直接照射が直接に作用しますが、これが大地に蓄えられ、そこから力を発揮します。 それゆえ、大地の成分が植物成長に一番に関係するのです。 これを土台に、考察を動物にまで広げる必要があります。
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土壌の中には、地球進化に重要な意味を持つ宇宙の最遠からのものの影響を受け取る何かが働いています。 これは普通に、砂とか岩石とか言われるものです。 砂や岩石は水を通さず、通常の見方では何の栄養も含んでいませんが、成長発達のためには、考えうる最も重要なものなのです。成長や発達は最遠の宇宙的諸力に左右されるからです。 見てきた通り、主要な働きをするのはケイ素的な砂ですが、それを介した回り道で、ありえないことのように思えるかもしれませんが、大地の生命エーテル、大地の化学作用といったものが地中に取り込まれ、そこから反射して作用するのです。 土壌自体が内的生命をどれくらい持つか、また固有の化学性をどれくらい発揮するかは、砂の部分の性質に左右されます。 植物が土壌中の根において経験するものは、ほとんどが岩石を……今、言っている岩石は地中深くてもかましませんが……経由して植物に伝えられる宇宙的生命性、宇宙的化学性なのです。 植物の成長を研究するためには、まずは植物の成長基盤である地質学的な基礎を明確にしておくべきでしょう。 そして根が重要な意味を持つ植物では、諸関連の中で、基本的にはたとえそれが地中深くにあるにしろ、ケイ素的な土壌を見落とさない方がよいでしょう。
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さて、ありがたいことにケイ素は、ケイ酸などの化合物として地中に47%から48%含まれていますから、必要とされる場ではどこでも十分量のケイ素が得られます。 こうした道筋で、あるものがケイ素を介して根と関連しますが、それは植物を通って上方に導かれうることも重要です。 これは上に流れていかなくてはなりません。 ケイ素によって宇宙から引き寄せられるものと、地表より上で行われるものが絶えず相互作用をしていなくてはなりません。 つまり、腹の中で行われることと、下の頭部が受ける力とに相互作用がなくてはならないのです。 頭部は、宇宙からの力を受けなくてはなりません。 そしてそれは、地表より上のいわば腹内の作用と密接に相互作用していなければなりません。 宇宙の力は地中で捕まえられ、絶えず上方に流されなくてはなりません。 そしてこの上方への流れを可能にするのが、地中での粘土質です。 地中の粘土質とは本来、宇宙的実質作用を下方から上方にもたらす促進媒体なのです。
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実践的な話に移る中で、植物形態の違いに応じて土壌中の粘土質やケイ素をどう構成するかといった指針も与えられます。 しかしまず、そこで何が起きているかを知っていなくてはなりません。 それ以外のこと、つまり粘土の様子についてや、宇宙的なものを受け取れるようにするための加工法といった問題は、もちろん次の段階では非常に重要です。 しかしまず、粘土質が宇宙的なものを上方へ促すものであるという点を知っている必要があります。
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しかし、宇宙的なものの上方への流れだけでは不十分なはずです。その不足分を私は地球的、地上的なものと呼びたいのですし、腹部内でいわば外界の消化系としてあるもの、……夏冬を通して地表より上の空気の中で行われるもの、これは植物の成長にとってはまさに一種の消化ですが、こうしたかたちで消化として起きている事柄もまた、地面の中に引き込まれなくてはなりませんし、それによって実際に相互作用が生じるはずです。 《地》より上に位置する《水》や《風》を介して、諸力の存在、あるいはホメオパシー的に微量な素材の存在の基で何かが作り出されますが、それは地中に存する多量あるいは少量の石灰によって地中に引きこまれます。 地中に含まれる石灰分や、極微量ホメオパティー的に地表の極近くに散在する石灰分は、そのどれもが近接する地球的なものを地中へと導き入れるために存在しています。

■熱や風は地中ではより生き、地上ではより死んでいる

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学問が今日の単なる言葉の遊びから脱却し、実のある学問となったときに、こうした事柄は今とはまったく違う姿を見せるでしょう。 これらについて、精密な成果を上げることができるようになるでしょう。 するとたとえば、地表より上の熱、つまり太陽、金星、水星、月の領域に属する熱と、地中で効力を持つ熱、つまり木星と土星と火星の影響下にある熱とは、非常に違うこともわかるでしょう。 一つは花や葉のための熱、もう一つは根のための熱と呼ぶことができますが、この二つの熱は根本的に違っています。 その違いは大きく、地上の熱を死んだ熱、地下の熱を生きた熱と呼びうるくらいです。 地下の熱は内的な生命原理、何か命あるものを内に持っていますし、それは特に冬に顕著です。 この地中で作用する熱を人間が体験せざるをえないとしたら、全員が非常に愚かになるでしょう。 賢明であるために、私たちは死んだ熱を体内に導き入れなくてはならないからです。 ところがこの死んだ熱が、地中の石灰質によって、あるいは地中の別な素材によって地中に導き入れられますと、地上の熱から地中の熱への移行において、熱が微かな生命性を帯びます。 今日では、地上の空気と地下の空気の違いがわかっています。 しかし、地上の熱と地中の熱が違っているなどとは考えも及びません。 地中の空気にはより多くの炭酸ガスが、地上の空気にはより多くの酸素が含まれていることは知られています。 しかし、その理由はまったくわかっていません。 その理由は、地中に吸い込まれ取り込まれた空気は、生命の微かな息吹を吹き込まれるからです。 熱も空気と同じです。 地中へ取り込まれると、熱も微かな生命性を受け取るのです。

■《地》が宇宙の結晶化の影響を最も受ける時期

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02-13
水や地的なもの、固体そのものでは事情が異なります。 地中では、それ以外のところにあるときよりもさらに死んでいるのです。 これらは地中では外的生命をいくぶん失い、それによって遙かな宇宙の諸力に浸される能力を得ます。 鉱物的諸物質が最遠の宇宙的諸力に浸されるためには、地表のすぐ上にあるものから解放されなくてはなりません。 地表近くのものから最も解放されやすく、地中に最遠の宇宙的影響が入り込み易いのは、現在の暦で言えば1月15日から2月15日の冬の間だと言えるでしょう。 これは、いずれは厳密な研究で検証されるべき事柄です。 この時期は、地中の鉱物的物質において、結晶力や形成力が最も大きくなります。 それが冬の最中です。 このとき大地の内部は特異な状態で、その鉱物塊が鉱物塊であり続けようとする度合いが最も少なく、彼方の宇宙からの結晶形成力の影響に身をさらしているのです。
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さて、事情は次のようです。 1月の下旬には、地中の鉱物性諸物質における結晶化への憧れが最も強くなります。 そして自然界の事情では、この結晶性への憧れは地中深くなればなるほど強まります。 このとき鉱物類に起きていることは、植物成長には影響を及ぼしません。 この時期、地中の植物は最も自分に向かっていて、鉱物的物質との結びつきが最も弱いのです。 ところがそれ以前と以後の時期には……主に以前の時期ですが……、 鉱物性のものは形態的なもの、結晶的なものに移行し始めますので、この時期には鉱物性のものが植物成長にとって非常に重要になります。 このとき鉱物質は、植物成長にとって特に重要な作用を持つ諸力を放射します。 まとめるとこう言えるでしょう。 「11月から12月にかけての時期に、地表下の非常に特別なものが植物成長に対し効力を発揮する」と。 こうして「どうしたらこれを植物成長に対し有効活用できるのか」という話が期待されるでしょう。 植物成長をコントロールするにあたって、いずれはこうした有効活用の重要性が理解されるからです。
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これについて今ここでコメントしておきます。 この冬の時期にはある作用が上方に向かうはずなのですが、そうした作用がなかなか上方に向かうことができない土壌では、詳細は後で述べますが、適切に希釈した粘土質を加えるといいでしょう。 こうした結晶的な力は単純に雪に見られ、またこれは地中深くに入れば入るほど強くなります。 1月から2月には終わるこの結晶化がまだ終わらないこの時期に、土壌に粘土を加えることによって、とりあえずは地中にあるものを地上にまで引き上げ、植物成長に取り込ませ、利用できるようにするのです。
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正しい認識を欠くと単なる試行錯誤に陥ってしまう領域で、このような仕方で一見するとかけ離れた認識から、根本的な助けとなるヒントが導き出されます。 農業生産の場とは、地中のものと関連しつつ、時間の流れと共に生きる個体であること、そして大地の命が冬には特に強く、夏には特定の仕方で死んでいることを明確に把握していなくてはなりません。

■カオスとしての種子に宇宙が作用する

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02-17
ここで耕作にあたって最も重要なことを問題にします。 ……アントロポゾフィーのサークル内ではしばしば申し上げましたが……この最重要事項とは、宇宙の諸力が地球に働きかけられるために必要な諸条件を知ることです。 これを洞察するために、一旦、種子形成を見ます。 種子からは胚が成長してきますが、その種子とは、通常、非常に複雑な分子構造体と考えられています。 そして、種子形成をその複雑な分子構造から解明することが最重要課題となっています。 「分子には特定の構造があり、単純な分子は構造も単純である。さらに、より複雑な分子もあり、タンパク質の分子構造は非常に複雑である」と言います。 複雑な分子構造を持つとされる種子内のタンパク質に対し、人は驚嘆し、不思議に思うばかりです。 なぜなら次のように考えるからです。
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「種子内のタンパク質分子は非常に複雑であるはずである。 次世代の生体がこの複雑さから生じ、成長するからである。 また、この次世代の生体は非常に複雑であるし、これは種子内の胚に準備されている。 したがってこの種子とは、顕微鏡的、さらには超顕微鏡的な複雑さで構築されているはずである」と。 ある程度までは、ここで言われるとおりです。 タンパク質が地上的に構成されるにあたっては、その分子構造も最高段階にまで複雑化されます。 しかしこの最高度に複雑な構造から、新たな生体が生まれてくること決してないのです。
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種子から生体が生じてくるにしろ、親から受け継いだものだけをもとに種子ができあがり、そこから子どもが生じてくるのではありません。植物も動物も、そうではありません。 これは全く正しくありません。 真実は次のような成り行きです。 この構造体の複雑さが最高度に達しますと、それは崩壊します。 そして、地上的領域において複雑に成りきったものの中に、最後には小さなカオスが生じます。 それは宇宙の塵への崩壊と言えるでしょう。 そして、究極の複雑さに至り種子が宇宙の塵となって崩壊しますと、そこに小さなカオスが生じます。 すると周囲を取りまく全宇宙が、カオスを内に持つ種子に作用し始め、そこに自分を写しだすのです。 このようにして小さなカオスを素に、宇宙のあらゆる方向からの作用によって形成が始まります。


こうして、種子に宇宙の似姿が実現します。 地上的な有機体生成過程は、種子形成において毎回完結し、カオスに到ります。 このカオスに全宇宙が作用し、その度、新たな生体が形成されます。 古い生体が持つのは、種子をある宇宙状態に導く傾向だけなのです。 ある宇宙状態への親和性を持つがゆえに、タンポポからメギが生じることはなく、まさにタンポポを生じさせる方向からの作用を受けるのです。
02-20
個々の植物は、常に何らかの宇宙的星位の写しとして、宇宙から形成されます。 もしこの地上に存する宇宙的諸力に宇宙の作用を発現させようとするなら、地上的なものを可能な限りのカオスに導く必要があります。 宇宙からの作用を受けようとする場合には、地上的なものを可能な限りカオスにまでもたらさなくてはなりません。 植物成長に関して言えば、自然自身がすでにそれを行っています。 また、次々に新しく作られる生体器官も宇宙から形成されますので、次の種子が形成されるまで、宇宙的なものを生体内に保持している必要もあります。

■植物に地上的なものを近づける腐食質

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02-21
何らかの種子を地中に植えますと、宇宙のある特定の方向から見た全コスモスがその種子に写されます。 種子内には星位が作用していて、それによって植物は固有のフォルムを持つのです。 そして、種子が大地に植えられた瞬間に、大地の外側のものが種子に非常に強く作用します。 その瞬間に種子は、宇宙的なものを否定し、拡大し、あらゆる方向に成長しようとする憧れに満たされます。 それは、地面の上で作用するものは、本来こうしたフォルムを固定化したくはないからです。 種子はカオスにまで行き着かせなくてはなりませんが……この《カオスにまで引き込む》に対し、種子の中で植物フォルムを生かしている宇宙的なものに対し、種子から植物が出始めさらに芽が伸びるときには、地上的なものを植物内に持ち込む必要があるのです。 成長のためには、植物を大地(地球)に近づける必要があります。 しかし、これを実現するには次の方法しかありません。 地上にすでに存在している命、つまり完全なるカオスにまでは達していないもの、完全には種子形成に達していないもの、そうではなく植物生体内で種子形成に達する前で終わっているもの、こうした地上にすでに存在する命を植物生命の中に持ち込むのです。 幸運にも、このために特に都合のよい地域があります。 つまり自然の営みにおいて、人間にとっての大きな恵みとなる豊かな腐植土が形成される地域です。 人工的な代替法では、自然な腐植土形成がもたらす大地の豊かさを不十分にしか補えません。
02-22
この腐植士形成の根底にあるのは何でしょうか。 腐植土形成は、植物の生命から生じたものが、自然プロセスに取り込まれることで生じます。 カオスにまで達していないものは、何らかの仕方で宇宙的なものを跳ね返します。 これを植物成長に作用させますと、地上的なものを植物内にしっかりとつなぎ止め、宇宙的なものを種子形成への流れの中だけで作用させることができます。 地上的なものは、種子形成ではなく葉や花の展開などに作用します。 宇宙的なものは、これらの中へは作用を放射するだけです。 これは克明に辿ることができます。

■宇宙的なものと地上的なものの植物における流れ

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02-23
仮に根から成長する植物があるとします。 茎の先端に小さな種子がつきます。 葉が展開し、花を咲かせます。 葉や花では、形態化とも言うべきもの、つまり地上的素材での充填が地上的なものです。 葉や籾が太ったり、諸物質を内に取り込むための基盤は、私たちが植物に与える地上的なもの、カオスにまで達していないものなのです。 それに対し、宇宙的な力は周辺に向かうと葉や花に入り込みますが、種子ではその宇宙的な力が茎を通ってまっすぐ上に向かってやって来ます。 これは直接に観察できます。
02-24
緑の葉(図)をごらんください。


緑の葉では、その形に、厚みに、緑色に地上的なものを担っています。 しかし、もし葉に太陽の宇宙的な力も息づいていなければ、葉は緑ではありえなかったでしょう。 さらに有色の花では、太陽の力だけでなく、そこに火星、木星、土星が補助的に加わっています。 この観点から植物成長を見ますと、バラの赤い色には火星の力が見られます。 ヒマワリ(Sunflower)は太陽の花と呼ばれていますが、これはその姿に由来するもので、色から見ると正しいとは言えません。 色から名付けるなら、木星花と呼ばれるべきです。 なぜなら太陽の力に木星が補助的に加わり、それで花を黄色や白にするからです。 青味がかった色のチコリでは、この青に太陽の作用を補助する土星の作用を感じ取るはずです。 赤い花には火星を見て取る可能性があります。 白や黄色の花には木星、青い花には土星を見る可能性があり、本来の太陽自身の作用は緑葉に見る可能性があります(図参照)。

▲根における宇宙的・地上的要素

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しかし、花において色として現われるものは、根では力として特に強く現われます。 外惑星中に生きるもの、力あるものは、地中でも作用するからです。 ですから、次のように言えるはずです。 「植物を大地からひき抜くと、下には根がある。このとき根の中には宇宙的なものがある。しかし、花はほとんどが地上的で、最も繊細な色彩のニュアンスだけが宇宙的である」と。
02-26
花とは逆に、根に地上的なものが力強く展開すると、それは根におけるフォルムに入り込んでいきます。 植物のフォルムは、地上的領域内で生じうるものによって与えられるからです。 フォルムを広げていくものは、地上的なものです。 そして、根が分岐し広がる場合、上に向かう宇宙的なものが色彩に現われるように、そこでは下に向かう地上的なものが作用しています。 ですから、一体的にまとまった根は宇宙的です。 それに対し、分岐した根では地上的なものが地中にまで作用していますし、これは花の色彩に上に向かう宇宙的なものが作用しているのと同じです。そして、太陽的なものはその中間に位置します。 太陽的要素は、主に緑葉の領域に作用し、花と根の交代関係において、その中間として働きます。 太陽的なものとは、大地の横隔膜そのもので、宇宙的なものは地中に属し、そこから植物の上方に作用します。 これに対し、地上的なものは地表より上に属し、石灰質を助けに植物中に引き下げ入れられます。 石灰質によって地上的なものが根にまで強く引きこまれた植物を観察してみてください。こうした植物では根が分岐してあらゆる方向に伸びています。 たとえば良質の飼料用牧草類……カブやテンサイ類ではなく……イガマメなどです。 ですから、こう言えます。 「植物を理解するには、そのフォルムや花の色から、その植物に宇宙的なものと地上的なものがどれくらい作用しているかを見ればよい」と。
02-27
さて仮に、何らかの手段で、宇宙的なものを植物内に強く留め置いたとしましょう。 すると宇宙的なものが花に向かって勢いよく上ってはいかず、茎的な部分に残り、そこで活動することになります。 こうした状況で、宇宙的なものは植物のどこで活き活きと活動するでしょうか。 ケイ素的なものの中で活動するのです。 スギナをよく観てください。 スギナ類には、まさに宇宙的なものを自らに引きつけ、自らをケイ素で満たす特性があります。 実際、ケイ酸を(灰分中に)90%含みます。 こうしたスギナ類はいわゆる宇宙的なものを非常に多く含んでいますが、それが花にではなく、まさに下部での成長に現われています。 他の例を挙げましょう。
02-28
仮に、ある植物において、茎を通って葉へと上昇しようとするものを、根領域に留めたいとしましょう。 こうしたことは、現代ではさほど問題にされません。 それはさまざまな事情によって植物種がすでに固定化しているからです。 しかし太古の人々は、植物を容易に別の植物に変化させることができました。 ですからその当時は、こうしたことが非常に重要だったのです。 今日でもこれが重要になることがあります。それは、ある特定の植物の望ましい生育条件を見つけてやる場合です。
02-29
ある植物において、宇宙的な力を花や果実に完全には上昇させず、下部に留め、いわば茎や葉の形成を根に引き止めたいとする場合、どこに着目し、何をしたらよいのでしょうか。 この場合、そうした植物を砂地に植えなくてはなりません。 ケイ素質の土地では、宇宙的なものが地中に保持され、ほとんど捕まえられるからです。 ジャガイモは芋なので、地中の芋の中に花形成の力を押しとどめなくてはなりませんし、葉や茎を形成する力を芋自体に保持しなくてはなりません。 ジャガイモの芋は根ではなく押しとどめられた茎です。 ジャガイモは砂地以外では宇宙的な力を留めることができませんので、砂地に植えなくてはなりません。
02-30
以上の事柄から、植物成長を判断するにあたってのABCとは、植物において何が宇宙的で、何が地上的・地球的かという点です。 宇宙的なものをより密にし、それによって宇宙的なものを根や葉に保持させたいとき、土壌の諸性質を利用してそれにふさわしい土壌をどのように作れるでしょうか。 逆に、宇宙的なものを薄め、その薄めたものを花の色や果実の繊細な味として引き上げるためにはどうしたらよいのでしょうか。 アンズやプラムの繊細な味覚は、花における色彩と同様に、果実にまで引き上げられた宇宙的なものなのです。 実際私たちは、リンゴでは木星を食べ、プラムでは土星を食べているのです。 かつての人類はその本能的な原叡智から、当時存在した原始的な植物から果樹を作り出し、それが遺伝によって現在の種々の果実にまで伝わって来ています。 しかしそうしたものがまったくなかったとしたら、現代人は現状の知識を頼りに、古代に現存した少数の植物を用いて多様な果樹を作り出すことなど、ほんのわずかにしかできないでしょう。 果樹の品種も存在せず、遺伝による継承もない状況で、果物を再度作り出さなくてはいけないとしたら、賢き現代人はたいしたこともできないでしょう。 現代人はすべてを試行錯誤で進め、プロセスに合理的に入り込んで行かないからです。 しかし地球上において農業を発展させようとするなら、これこそが復活すべき基本条件なのです。
02-31
私たちの友人のシュテーゲマン氏は「事後の事実確認とは、生産の価値喪失である」と言っていますが、これはまさに正しい認識です。 この価値喪失とは……このコメントを皆さんが不快に受け止めるかはわかりませんが……、魂の育成が退化していることも同様で、この過去数十年と未来数十年にわたる宇宙におけるカリユガ(暗黒時代)と関係しています。 私たちは、自然内における重大変化にも直面しています。 太古から伝えられ、絶えず継承してきたものがあります。 自然環境もそうですし、自然的に伝搬してきた知識、あるいは伝承された治療薬などです。 しかし、そうしたものが意味を失っているのです。 こうした事柄が持つ自然関連全体に入り込むために、私たちは新たな知見を獲得しなくてはなりません。 人類には次の二つの選択肢しかありません。 あらゆる領域において、自然関連全体から、宇宙関連そのものから再び何かを学びとるのか、それとも自然、さらには人間の営みを滅亡させるのかです。 過去においては、自然のつながりに真に入り込む知見が不可欠でした。 それと同様に、今日の私たちもそうした知見を必要としているのです。
02-32
……すでにお話いたしましたが……、現代では必要に迫られて、地中での空気の振る舞いは知られていますが、地中での光の振る舞いは知られていません。 現代では、 「まさに宇宙的な鉱物であるケイ素が光を地中へ受け止め、光を作用させるのに対し、地上的・生命的なものに近い腐植は光を受けいれず、地中で光を作用させず光欠乏的作用をもたらす」ということが知られていません。 しかしこうした事柄は、皆に知られ、また見通されていなくてはならないのです。

■惑星的理解によって動物と農場の関連を知る

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02-33
さて、地上における植物成長はそれだけでは全体にはならず、その地域の動物を含めて考えなくてはなりません。 理由は後で明らかになりますが、農場においては人間の存在は無視できます。 しかし動物にはある特性があり、無視できません。 つまり、ある地域での特定の植物相と動物とが一体となった活動をすることで、最高の、こう表現すべきでしょう、最高の質的宇宙的分析を行っているのです。 ……この正しさはただちに示されると思いますので、もし検証をすれば私は嬉しいのですが……、ある特徴的なことが成り立ちます。 ある農場で牛、馬、その他の動物の数が適正ですと、これらの動物は全体でこの農場が必要とする量、つまりカオスとなったものを補充するのにふさわしい量の糞尿を生産します。 さらには、馬、牛、豚の数が適正ですと、糞尿内の混合比も適正になります。 これは、植物成長から受け取る適切な量を動物が食べ尽くすことと関連しています。 動物たちはその土地での植物生産から適正な量を食べるのです。 こうした理由で、動物は体内プロセスの進行と共に、大地に還されるべき必要量の糞尿を生産するのです。 「何らかの糞尿を外部から持ってくる必要が生じるにしても、それは病んでしまった農場に対する一種の治療薬として扱われるべきである」というのは、本来正しいのです……完全には実行しきれませんが、理念的にはこれが正しいのです……。 農場に居る動物がその農場に糞尿を供給するなら、その農場は健全です。 これには当然、特定の農場に必要な動物の種類と頭数が見極める正しい学問の発展が必要です。
02-34
しかし、動物で働く内的諸力がわかっていれば、そうした学問は自ずと生じます。 前に大地の地上部は腹部、地下部は頭部に相当すると紹介しましたが、これは動物生体の理解にも役立ちます。 動物生体は、生息する自然の全体と関連しながら生きています。


動物生体の形態、体色、前部から後部にかけての構造や成分構成を見ますと、鼻先から心臓部にかけては、土星、木星、火星の作用があり、心臓では太陽の作用、そして心臓より後ろの尾にかけては金星、水星、月の作用があります(下図参照)。 こうした事柄に興味を持つ人が、将来、この観点から動物の形態を観察し、真の認識を育て上げていけたら望ましいでしょう。
02-35
このように形態にそって認識を高めていくことには非常に大きな意義があるからです。 博物館に行って何らかの哺乳類の骨格をご覧になってください。 そのときに次のような意識を持ってみてください。 「頭部形成には主に太陽光が作用している。それは口から流れ込む直接放射の太陽作用である。そして副次的な事柄、たとえばある動物を太陽がどう照らしているか……ライオンと馬とでは太陽による照らされ方が違う……といったことで、頭部や頭部に直接に続く諸器官がどのように形成されているか」を意識するのです。 このように直接の太陽照射は動物の前部に関連し、また頭部形成に関連するのです。
02-36
さて、考えてみてください。 太陽光は月による反射という別な道筋でも地球圏に入って来ます。 つまり、直接の太陽光だけでなく、月に反射された太陽光も関係してきます。 月に反射した太陽光は、動物頭部を照らしてもまったく作用しません。 そこには効果は及びません。 これらのことは特に胎生期の営みについて言えることです。 しかし、月による反射光は動物の後半身に対し最高の効力を発揮します。 動物骨格の後半身部分を、頭部形成との特徴的な関係を見てください。 こうした対極性に対するフォルム感情を育ててください。 つまり、大腿骨の付き方、消化器官の終わり方などを、対極である頭部における形成と対比させ、その様子に対する感情を育ててください。 そうしますと、動物の前半身と後半身に太陽と月の対極が見られるようになるでしょう。 さらに観察しますと、太陽の作用は心臓までで、心臓に近づくにつれ抑えられ、頭部形成や血液形成には火星、木星、土星が作用し、さらに心臓から後方に向けては月の作用を水星、金星が支えていることがわかるでしょう。 そして、頭部を地下に、後半身を上にするように動物を地面に差し込みますと、農場個体に存在する見えない構造と同じ位置関係になります。
02-37
動物は大地に成育する植物を食べますが、たとえばその大地が必要とするものと動物が糞尿として与えてくれるものとの関係を、こうした動物形態から見つけ出すことができます。 たとえばある植物内で発揮される宇宙的作用は、地中から上方に導かれることを、みなさんは知っていなくてはなりません。 ある植物がこうした宇宙的作用を特に豊かに持っているとします。 またある動物は、そうした飼料の基盤となる糞尿をその生体から供給します。 この動物がこの植物を食べますと、この植物の生育に特に適した大地を作り出すような糞尿を供給してくれるのです。
02-38
事物の形態的に見抜きますと、自己完結的な個体である農場に必要となるすべての事柄がわかるのです。 そのためには、動物を勘定に入れておかなくてはなりません。

『農業講座』第3講、コーベルヴィッツ、1924年6月11日

自然界の諸活動についての特別拡張講義:自然界における霊性の作用

■03-01

すでに述べましたように、農業という枠内で見れば、地球や宇宙における諸力は、地上の物質を介して作用しています。 明日以降、実践的な話に移るにあたって、今日は次の問いをきちんと考察することで話がつなげていきます。 「前に述べた宇宙的諸力や地上的諸力は、どのように地上の物質を介して作用するだろうか」。 ここで私たちは、自然の活動そのものにまで話を広げなくてはなりません。

■03-02

農業生産に関する最も重要な問いの一つが、農業生産全体に対する窒素の意味とその影響です。 そしてまさに今日、窒素作用の本質への問いがまったく混乱してしまっています。 窒素が働くあらゆる場において、人はその働きの枝葉末節、一番表面的なところしか見ていません。 窒素が作用する自然界全体の関連までは見ていませんし、自然領域内に留まるかぎり、それを見ることもできません。 それを見るためには、自然領域の彼方まで視界を広げ、宇宙における窒素の振る舞いに目を向けなくてはなりません。 ……これはこれからの話の中で取り上げますが……、 窒素それ自体としては植物の営みにさしたる役割は果たしていません。 しかし植物の営みを理解する上では、まず窒素の役割を知らなくてはなりません。

■03-03

窒素が自然存在に作用するに当たって、いわば四人の兄弟がいます。 いわゆる自然の営みにおける窒素の働きや意味を把握したいなら、同時にこの四兄弟の働きを知る必要があります。 この四兄弟は窒素と結びつき、外的自然科学にとっては意味を図りかねる仕方で動植物タンパク質に存在しています。 炭素、酸素、水素、イオウです。

■03-04

タンパク質の意味を完全に知るには、その最重要成分である水素、酸素、窒素、炭素を取り上げるだけでは十分ではなく、タンパク質に意味深い作用を及ぼす元素、つまりイオウも加えなければなりません。 なぜならイオウは、タンパク質内にあって、世界に遍在する霊的なもの、つまり霊による形成力と物質との仲介者だからです。 それゆえ物質界で霊の動きの痕跡をたどろうとするなら、イオウの活動を追わなければいけないとすら言えるでしょう。 他の元素も含めて、こうした活動は表には現われていませんが、イオウは最も重要な意味を持っています。 イオウという道筋を通って、霊が自然界の物質に作用するのです。 イオウはほとんど霊の担い手だからです。 イオウの古い名前はズルファー(サルファー)ですが、これはフォスファー(リン、光の担い手)と関係しています。 イオウが古代にこう呼ばれたのは、光の中に、広がっていく光の中に、太陽のような光の中に、広がりゆく霊を見たからです。 それゆえ、物体中に光が入り込み、作用する際に関係するこのイオウやリンという元素を「光の担い手」と呼んだのです。

■03-05

自然の収支におけるイオウの活動は非常に微細ですので、まずそれ以外の炭素、水素、窒素、酸素という四兄弟を観察し、それらを真に理解することによって、これらの元素の宇宙全体での位置づけを捉えるのが一番よいでしょう。 今日の化学者は、これらの元素について多くは知らないからです。 化学者は、実験室内でこれらの元素が表面的にどう見えるかは知っていますが、宇宙の活動全体における内的な意味はまったくわかっていません。 これらの元素について知られている知見は、喩えて言うなら、道を通り過ぎる人を写真に撮り、その写真を頼りに外見を思い出しているという程度でしかありません。 これらの元素についてはその本質を深く知る必要がありますが、今日の学問がやっていることは、シャッターを切る程度のものでしかありませんし、これらの元素についての専門書や講義の内容はたいしたことは言っていません。

■03-06:炭素

まず炭素から始めましょう。……植物への応用は自ずと明らかになります……。 この炭素は非常に高貴な地位にあったものが、近代になって大変に落ちぶれてしまいました。 ……恐ろしいことに、他の宇宙的存在も後には同様な道筋をたどりました……。 人は炭素を、ストーブにくべるもの、つまり石炭と見なしています。 鉛筆のグラファイトだと思っています。 炭素のある同素体は今でも高貴なものとされています。ダイヤモンドです。しかしなかなか買えませんから、高貴さをさほど感じてもいません。 現在、炭素について知られていることは、宇宙におけるもの凄い意味からすればきわめてわずかです。 この黒い奴は、数百年前まで、つまり比較的近年までは非常に高貴な名前で呼ばれていました。《賢者の石》と呼ばれたのです。

■03-07

「賢者の石とは何か」については、いろいろなおしゃべりがありました。 しかしこうしたおしゃべりからはたいしたものは得られていません。 かつての錬金術師やそれに類する人々が言う《賢者の石》とは、さまざまな現われ方をする炭素を意味していたからです。 何が賢者の石なのかを彼らが秘密にしたのは、そうしないと誰もが賢者の石を手に入れてしまうからでした。 しかし、これは炭素でした。 ではなぜ炭素が賢者の石だったのでしょうか。

■03-08

これについては古い観方から答えることができますが、これは今日でも炭素について知っておくべきことです。 自然界における炭素は、何らかの過程を経て石炭やグラファイトといった固まりになって姿を現わします。 しかし、そうしたことは無視し、その活き活きとした活動、つまり炭素が人間身体、動物身体をどのように通り抜けてきたか、さらには炭素が自分自身の諸関連からどのように植物体を作り上げてきたかなどを捉えますと、通常、人が炭素について思い浮かべる無形態状態は、自然界の営みにおける炭素のなれの果て、死体に見えるでしょう。

■03-09

つまり炭素とは、自然界における形態形成プロセスの担い手なのです。 比較的短時間しか存続しない植物の形態にしても、あるいは永遠の流転に組み込まれた動物の肉体の形態にしても、何かが形態化する際には、炭素は偉大な造形家として働きます。 この偉大な造形家は、単なる黒色の物体ではなく、 内的運動と共に完全な活動状態にあるときには、形態形成する宇宙像、自然界における形成の素となる偉大なる宇宙像に満たされています。 そして自然界で形成されるすべてが、こうした宇宙像から必然的に現われ出て来るのです。 炭素の中には隠れた造形家が活動していて、この隠れた造形家は自然界で作り出されるべきさまざまなフォルムを形成する際に、イオウを使います。 自然界において炭素を正しい意味で観ようとするなら次のように見なくてはなりません。 宇宙における霊の活動が、イオウによっていわば潤いを与えられつつ造形家として働き、炭素の助けにややしっかりとした植物のフォルムを作りあげ、さらには発生と共に崩壊が始まる人間フォルムを作りあげていく様子を見るのです。 そしてまた人間は、植物とは違い、炭素を酸素と結びつけ炭酸にして排出することによって、発生しつつあるフォルムをただちに無化できるので、人間でありうるのです。 炭素は、人間の身体をちょうど椰子のように硬く作ろうとするので、……炭素は私たちをそれくらい固めようとしています……、そこですぐに呼吸がそれを崩します。この炭素を固化から引きはがし、酸素と結びつけ外へと導きます。 これによって私たちは人間として不可欠な可動性を伴って形成されるのです。

■03-10

しかし植物内での炭素は、特定の方法で形態保持作用をしていて、一年生植物の場合ですら植物体をある程度しっかりさせます。 古い格言では人間について「血液はじつに特別な液体だ」と言っていますが、それは確かに正しく、人間の自我は血液の中で脈打っていて、自我は血液において肉体的なかたちでも表現されています。 しかし、より正確に述べるなら、このイオウによって潤された道筋に置かれ、波打ち、力を振るい、自らを形成し、その形態を再び解消していく炭素は、人間の血液内で活動する霊的なもの、自我と呼ばれるものと同じなのです。 人間自我が人間の本来の霊性として炭素の中に生きているのと同じように、いわば宇宙霊における宇宙自我と言えるものが、イオウという回り道をして、自らを形成しさらに解消していく炭素の中に生きているのです。

■03-11

地球進化のかなり初期の段階では、炭素とは唯一分離されたものでした。 たとえば石灰的なものが加わったのは、後の時代になってからで、その石灰を人間は、硬いものを作り上げるための下地として、しっかりとした骨格を作り上げるために利用したのです。 これによって炭素内に生きるものを動かすことができるようになり、人間は石灰質の骨格として、土台となる固なるものを作りあげました。 これは、少なくとも高等動物では同じことが言えます。 これによって人間は、石灰形成から抜け出し、動きのある炭素形成に上昇したのです。 ちなみに石灰形成とは、単に鉱物的で固まったものであり、地球にも存在し、硬い《地》的なものを内に持つために人間もまた自身に組み込んだものです。 骨格形成における石灰において人間は、自らの内にしっかりとした《地》を持つのです。

■03-12

すべての生き物の根底には、多少なりとも固まっているか、多少なりとも流動的かの炭素的骨組みがありますから、これが作られる経路では宇宙からの霊性が活動していることがおわかりでしょう。 事柄をわかりやすくするために、完全にシェーマとして図を描かせてください。 霊性がイオウを助けに作り上げた骨組みをこの青で描きます。 これは絶えず交代する炭素か、固定化した炭素の骨組みです。 交代する炭素の中には大変な希釈度で活動するイオウが含まれていますし、炭素の骨組みでは、植物でそうであるように、他の元素や添加物が混ざり、多少なりとも固化しています。

■03-13

人間、あるいは何らかの生命あるもの観ますと、……これは私たちの集まりではしばしば取り上げていますが……この生命あるものには、生命の本来の担い手であるエーテル的なものが浸透していなくてはなりません。 ここで生命あるものにおける炭素的骨組みには、さらにエーテル的なもので貫かれていなくてはなりません。その結果、この梁状の骨組みにエーテル的なものがより静かにしっかりとつくか、あるいは多少なりとも流動的なものとしてそこで動いています。 これをはっきり捉えるために、き農業を設かにする諸条件わめて図式的に描いてみることをお許しください。 しかし、エーテル的なものは骨組みの全体に広がっていなくてはなりません(図の緑)。 つまり、この骨組みがあるところには必ずエーテル的なものがなくてはならないと言えます。

■03-14

さて、このエーテル的なものをもしそれだけとして取り出しても、そのものとしては物質的地上では存在しえません。 もしこの物質的な担い手が居なかったら、いわば無になってすべてを通り抜けてしまい、物質的地上界においてそれを捕まえなくてはならないはずのものも、掴むことができないでしょう。 地上に存在するものすべてについて言えることは、霊的なものは常に物質的な担い手をもたざるをえないという点です。 ここで物質主義者はこの物質的担い手のみに注目し、霊的なものを忘れています。 私たちがまず出会うのはこの物質的担い手ですので、彼らはけっして間違っていません。 しかし彼らは、霊的なものがいつでも物質的担い手を持たざるをえない点を見落としています。 このエーテル内で作用する霊的なものの物質的担い手は……エーテル内には低次の霊的なものが作用していると言えます……物質的担い手はエーテルに浸透されていますが、エーテルも言わばイオウに潤され物質的なものの中へ導かれます。 そして、その物質的なものに、形態形成や骨組み構築ではなく、この構造体に永遠の動きや生命をもたらします。 イオウの助けによってエーテルから命の作用をもたらす物質的担い手、それが酸素なのです。 これを酸素において、また物質的側面から捉えますと、酸素において、また酸素への道筋において波打ち、振動し、揺れる本性であるエーテル的なものを表現しています。 そう捉えますと、私がここに緑色で描いたものをイメージすることができるでしょう。

■03-15

エーテル的なものはイオウを助けに酸素という道筋を通って動きます。 これによってはじめて、呼吸プロセスに意味を持ちます。 私たちは呼吸プロセスを介して酸素を取り入れます。 今日の物質主義者は、酸素と言っても水を電気分解して試験管に得られる酸素についてしか語りません。 私たちが酸素を取り入れるためには、空気中の酸素は死んでいなくてはなりませんが、そのように殺されていない場合には、酸素の中にはいたるところに超感覚的なものの中で最も低位のエーテルが生きています。 私たちが生きた酸素によって失神してしまわないように、呼吸する空気の酸素は殺されています。 もし私たちの中により高次の生命が入り込みますと、私たちは失神します。 私たちの中に起きる過剰な増殖でさえ、それがふさわしくない部位で生じますと、失神したり、もっとひどいことになります。 生きた酸素を含む生きた空気に取り囲まれたなら、完全にぼんやりと歩き回るでしょう。 私たちのまわりの酸素は殺されていなければなりません。 しかし酸素とは生まれながらにして生命の担い手、つまりエーテルの担い手なのです。 酸素は、諸感覚のまわりにおいて人間を外的に取り囲む役割を果たしています。 しかし、この役割から離れますと、酸素はただちに生命の担い手になります。 体内では酸素が生きることが許されているので、呼吸によって酸素が体内に取り込まれますと、再び命を持ちます。 私たちの内側で循環している酸素と、外側で私たちを取りまく酸素は、同じではありません。 私たちの内部では生きた酸素でしたが、大気から地中に入りますとやはり生きた酸素になります。ただ地中の酸素の生命性は、人間内や動物内ほど高次ではありません。 それでも生きた酸素になるのです。 地下の酸素は地面より上の酸素と同じではありません。

■03-16

こうした事柄について、物理学者や化学者たちと理解しあうのは難しいです。 彼らの方法では、いつでも酸素を地上的なものから切り離して取り出さざるをえず、それゆえ死んだ酸素しか得られないからです。 それ以外ではありえないのです。 物質的なものだけを志向する科学はどれもこうした状況です。 そうした科学は死体しか理解できないのです。 現実には酸素は生命あるエーテルの担い手であり、この生命あるエーテルが酸素を支配し、操作しています。 その際、エーテルはイオウという回り道でこれを行なっています。

■03-17

地上において私たちの手が届きうる最高度の霊性、つまり人間の自我あるいは植物ではそこに働く宇宙霊性が、その働きを見せてる炭素による骨組みについて、私は今、……言わば隣り合わせとして……述べました。 人間の呼吸を見ますと、そこには人間内で現われる生きた酸素があり、これはエーテルを担っています。 さらにその背後には炭素の骨組みがあり、これは人間では動的です。 これらは互いに向き合わう必要があります。 酸素は、骨組みが事前に示す道筋に沿って動くことができなくてはなりません。 炭素の霊性が引いた何らかの線に沿って行くことができなくてはなりません。 さらにまた自然界のいたるところで、エーテル的酸素的なものは霊的炭素的なものに向かう道を見出せなくてはなりません。 これはどのように行なわれるでしょうか。 何が仲介するでしょうか。

■03-18:窒素

ここでの仲介者は窒素です。形態が炭素によって受肉し、その形態の中に窒素が生命を導き入れます。窒素とは、それが現われるあらゆる場で、ある役割を担います。霊性はまず炭素的なものにおいて形を得ますが、その霊性に生命を仲介するのがその役割です。動物界、植物界、地中など、いたるところで窒素は酸素と炭素の橋渡しをしています。ここでも霊性がイオウの助けによって窒素内で活動しますが、それはアストラル的霊性です。それは人間のアストラル体内におけるアストラル的霊性であり、またこれは植物や動物などの営みに作用する地上的外界のアストラル的霊性なのです。

■03-19

霊的に言いますと、このように酸素と炭素の間にアストラル的なものを置き、そのアストラル的なものは窒素を用いて物質的なものに自らを刻印付けるのです。窒素が存在するところでは、どこでもアストラル的なものが広がっていきます。もし窒素が炭素の骨組みに対して非常に強い引力を持たなかったら、エーテル的生命的なものは雲散霧消しまい、この炭素の骨組みにはまったくかかわれなかったはずだからです。炭素において道筋が付けられたところならどこでも、窒素が酸素を、窒素内のアストラルがエーテルを導きます (図の黄色)。この窒素は偉大な導き手で、生命を霊性へと導きます。それゆえ、人間内の窒素は魂的なもののにとって本質的で、単なる生命と霊性とを介する仲介者なのです。
 

■03-20

この窒素は、本来、非常に素晴らしいものです。 もし人間生体において窒素の道筋をたどりますと、それは完全に人間の形になります。 窒素人間があるのです。 もしこれを取り出すことができたなら、それは考えうるかぎりの美しい幽霊になるでしょう。 なぜなら窒素は、人間の硬い構造を完全になぞっているからです。 もう一方で窒素は、生命の中にも直接に流れ込んでいます。 ここで呼吸プロセスをのぞき込むことになります。 呼吸プロセスを介して人は、酸素、つまりエーテル的生命を自分の内に取り込みます。 炭素とは、活動し変転し形態化するものでしたが、ここでその炭素のある場所に酸素を引き込む内的な窒素が登場します。窒素はそこに酸素を運び、それによってこの炭素的なものを抱え、さらに先へ進むように促すのです。 酸素が二酸化炭素になり、それが呼気として吐き出されるのを仲介しているのは窒素なのです。

■03-21

この窒素は、あらゆるところで私たちを取り巻いています。 つまり私たちのまわりには、酸素、つまり生命の担い手が少量と、アストラルの担い手つまり窒素が多量にあります。 私たちにとって周囲の酸素は、日中だけでなく夜も絶対に不可欠です。 しかし呼吸としては窒素はわずかにしか必要としないので、窒素に対しては、昼夜を通し尊敬の念が足りないかもしれません。 しかしこの窒素とは、私たちに対する霊的な関係を持つものなのです。 可能性としては、次のような実験があります。

■03-22

まず、人間を密閉空間に入れます。容器内の空気から少量の窒素を抜きとり、人間のまわりの空気の窒素濃度を通常よりいくらか少なくするのです。 この実験を注意深く行なえたとしますと、空間内の窒素が、外側から補われずとも人間の内側から補われることがわかるはずです。 窒素の量が通常状態になるように、人間が自分の窒素を放出しているはずなのです。 人間としての私たちは次のような役割を担うことになっています。 私たちの内的全存在と周囲の窒素との間に正しい比率を作り出す働きです。 外部の窒素がより少なくなっては都合が悪いのです。 窒素は呼吸には必要としませんし、いつでも十分なはずなので、かえって好都合です。 そこにある霊的関連とっては、現状の空気中に存在する量の窒素がどうしても必要です。

■03-23:植物とアストラル

窒素は、霊の中に強く入り込み作用することがおわかりになったと思いますが、次にこの窒素は植物の営みに不可欠であると考えられます。 大地に生える植物には物質体とエーテル体しかなく、動物が持つアストラル体はその中にはありません。 しかし、アストラル的なものは外側から植物をぐるりと取り巻いているはずです。 アストラル的なものが外側から植物に触れなければ、植物は開花しないでしょう。 動物や人間がアストラル的なものを内に持つのとは異なり、植物はそれを内には持ちませんが、外側からそれに触れられている必要があるのです。

■03-24:窒素の感受性

アストラル的なものはいたるところにあり、その担い手である窒素もいたるところにあります。 窒素は空気中では死体となって漂っていますが、地中に入り込んだ瞬間にふたたび生命を持ちます。 酸素が地中で生命を持つのと同じように、窒素も地中で生命を持つのです。 この地中の窒素は単に生命を持つだけでなく、……このことは特に農業では考慮すべきことですが……、 物質主義によって奇形化した今日の脳にしてみればパラドクスに聞こえるかもしれませんが、この窒素は生命を持つだけでなく、感受性をも持つようになるのです。 窒素はまさに神秘に満ちた感受性の担い手となり、この感受性が地上の営み全体に流し込まれるのです。 窒素は、ある地方の水の量が適正かを感じ取ります。 水の量が適正であれば窒素はこれに共感し、少なすぎればこれに反感を持ちます。 またその土地に適した植物があればこれに共感する、等々です。 このように窒素は、あらゆるものにある種の感性的な営みを注ぎかけるのです。

■03-25

土星、太陽、月等々の惑星が植物形態や植物の営みに影響する点を私は昨日までの講義で述べてきましたが、そうしたことは誰も知らないと言えるでしょう。 通常の生活では、誰もそうしたことを知らないことはご存知でしょう。 しかし、あらゆるところに存在する窒素は、それをまったく正確に知っているのです。 窒素は、諸天体から放射され植物の営み、さらには大地の営みに作用するものについて、無意識ではないのです。 人間の神経感覚系にとって窒素は感受し仲介するものです。同様に、窒素は感受し仲介するのです。 窒素は本当に感受の仲介者です。

■03-26

あたかも流れ動く感受作用のようにあらゆるところを動き回る窒素に目を向けますと、自然の微妙な営みをのぞき込むことができます。 そして窒素の扱いが植物の営みにとって非常に重要であることわかるのです。 これらは当然、以後の考察の対象になります。 しかしここでは、先に別なことを述べておかなくてはなりません。

■03-27

霊性から発したものは、まず炭素において骨組みとしての形態を取ります。 次にアストラルから発したものが窒素的なものにおいてその骨組みに命と感受を満たします。 そしてその生命の中には酸素的なものが作用しています。 これらの活き活きとした共同作用をご理解いただけることでしょう。

■03-28:水素

これらすべてが地上において共働するにあたっては、別な何か、物質界に対し彼方の宇宙とのつながりを作り出す何かが、それらを貫き通しています。 地球が固まったものとして他の世界と分離して宇宙空間を運行することなど、地球にとってはあってはならないからです。 もし地球がそのようでしたら、それはあたかも農場の人が、外の農地に生えるものを一切無視して孤立を守るのと同じです。 理性的に考えれば、そうはしないでしょう。 この圃場には、今たくさんの作物が育っています。 しばらくすると、それらは参加者のみなさんのお腹に入るでしょう。 そしてこれらは、ある道筋で再び圃場に帰ります。 私たちは人間として他から分離することはできはしません。そうではなく、私たちは周囲の世界と結びつき、そこに属しているのです。 私の小指が私のものであるように、そのまわりにあるものも当然人間全体に属します。 そこには絶え間ない物質交代がなければなりません。 同様に、そこにあるあらゆるものを含んだ地球と、宇宙全体との間にもそうしたつながりがなくてはなりません。 地上で物質的形態をとって生きるものすべては、宇宙空間に帰ることができなければならず、いわば宇宙空間で純化され浄化されえなくてはなりません。

■03-29

つまり、このようになります(図)。 まず私が青で描いたもの、つまり炭素の骨組みがあります。 緑色の部分はエーテル性の酸素です。 さらに、いたるところで酸素から出発し、さまざまな線で窒素によって仲介されるものがあります。 これが、アストラルとして形成されたもの(黄色)、炭素と酸素の橋渡しをするものです。 窒素が、緑の線で模式的に示唆されているものを青い線に導き入れる様子はいたるところで示すことができます。

■03-30

さて、生物内で繊細な構造として形成されたものは、再び消滅できなくてはなりません。 霊性は消滅しませんが、霊性が酸素から生命を引き寄せ、炭素において構築したものは消滅します。 これらすべては、ふたたび消滅できなくてはなりません。 単に地球上で消失するだけではなく、宇宙の中へ、宇宙空間の中にまで出て消滅できなくてはなりません。 これはある元素が行なっています。 それは物質的なものとも、霊的なものとも、考うるかぎり類縁です。 それは水素で、……これは物質的にも最も繊細であるにもかかわらず……、実際、その中では物質性が完全に崩壊し、イオウに運ばれつつ、渾然一体たる宇宙空間に流れ込んでいくのです。

■03-31

霊性はそうした諸形姿をとりつつ物質化し、さらにその物質体内にアストラル的に生き、そのアストラルの写しの中に霊性、自我として生きていると言えるでしょう。 そこにおいて霊性は物質的な仕方で、物質に変容した霊性として生きています。 しばらくすると、そこは霊性にとって居心地がよくなくなります。 そして霊性は自らを解放しようとします。 このとき霊性は、ここでもイオウを利用しつつ、再びある元素を必要とします。 その元素の内にあって霊性はあらゆる規定、あらゆる構造から離れ、渾然一体たるカオスの宇宙空間に入り込みます。 そこではもはや、いかなる機構も存在しません。 霊的なものにも、物質的なものにも非常に近い元素とは、水素なのです。 何らかの形態を与え、命を吹き込むアストラル的なもの、それらすべてを水素は担い宇宙の彼方の高みにまで運びます。 それによって、前に述べたように、アストラル的なものが再び宇宙空間から再び取り込まれうるような作用をするのです。本来、水素はすべてを解消します。

■03-32

ごらんのように、ここには五つの元素、イオウ、炭素、水素、酸素、窒素があり、これらは生命の領域で、また一時的に死に、見かけ上の死の領域で作用し動き回っています。 これらすべての元素はある特定種類の霊性と内的なつながりを持ち、通常の化学が言うものとはまったく違っています。 今日の化学は元素の死体について語っているだけです。 実際の元素については何も言っていません。 これらの元素を感受するもの、生きたものとして学ばなくてはなりません。 水素は最小の原子量で、まずは見かけ上も最も微かなものなので、まさに水素とは、霊性がもっとも少ないものなのです。

■03-33

瞑想では、人はいったい何をしているかご存じでしょうか。……こうしたことは、いい加減な精神と捉えられてしまってもいけませんので、ちょっと補足しておかなくてはなりません……。 東洋人は、これを東洋人のやりかたで行なってきました。 中部ヨーロッパの私たちは、私たちのやり方でこれを行ないます。 私たちは、呼吸プロセスには間接的にしか頼らない方法で瞑想を行ないます。集中や瞑想の中に入り込みそこで活動します。 ところが、魂的な修練を積む方向で私たちが何かを行ないますと、たとえそれが非常に微細で繊細なものであっても、それらに対応することが必ず身体の側にも生じます。 呼吸の規則正しい動き、つまり人間の生に非常に密接に関連する何かが、非常に繊細ではありますが、瞑想によって変化させられます。 瞑想中は、通常の目覚めた意識プロセスのときよりも、二酸化炭素をいくらか多く体内に保持します。 常にいくらか多めの二酸化炭素が体内にとどまるのです。 邁進する日常生活では大量の二酸化炭素を常に同じくらい排出していますが、瞑想時にはそこまで吐き出しません。 いくらかを内側に留めます。 私たちを完全に取り囲む窒素に向かって、多量の二酸化炭素を吐き出しはしないのです。 いくらかを内に留めます。

■03-34

さて、机などに頭を強くぶつけますと、みなさんはその時の自分自身の痛みを意識します。 しかし、優しく撫でますと机の表面を意識するでしょう。 瞑想もこれと同じです。 みなさんを取り巻く窒素の体験の中に徐々に入り込めるようになります。 これが瞑想時に実際に起きていることです。 すべてが認識され、窒素の中に生きるものも認識されます。 窒素は非常に賢く、窒素は感じ取ったことを知ってもいるので、水星、金星などの行ないを教えてくれるのです。 こうした事柄はすべて完全に現実の出来事です。 ……幾つかのことについてはより詳しく触れたいと思いますが……、こうした内的な瞑想の行では、農業に対してすでに何らかの関係が得られ始めています。 この問題は、特に私たちの友人、シュテーゲマン氏が興味を持たれていました。 つまり、魂的・霊的なものと私たちを取り囲むものとの共働作用なのです。 農業に携わる人が瞑想しうるなら、それは決して悪いことではありません。 瞑想によって人は、窒素の開示に対し敏感になります。 窒素の開示に対しますます敏感になっていくのです。 そのように窒素の開示に対し敏感になりますと、そうでない場合と比べ、営農行為のスタイルと意味づけがまったく違ってくるのです。 突然にあらゆることがわかります。 浮かび上がってくるのです。 農園や農場で逆巻いている諸力についての秘密をすべてを知るのです。

■03-35

これまで数時間の話をくり返すことはできませんが、それでも違った風に内容を性格づけようとは思います。 学者から見れば学があるとは思えない農夫が、圃場を歩いていると思ってください。 学者は「農夫は愚かだ」と言いますが、実際はこれは正しくありません。 その理由は単純で、農夫とは……失礼な言い方かもしれませんが……本来瞑想家であるからなのです。 彼が冬の夜に毎晩瞑想することは、非常に多くの意味があります。 彼は、霊的認識の獲得と言える何らかをすでに身につけています。 ただ彼は、それを言葉で語ることはできません。 しかし霊的認識が突然に現われるのです。 圃場を歩いていると、突然に認識がやって来ます。 何かを知り、それを後に試みます。 子どもの頃、私は農夫と共に生活していましたが、少なくともその当時、私はこれを経験していましたし、これはまさにそうなのです。

■03-36

本来は、こうした事柄に結びつかなくてはなりません。 単なる知的作業は無意味です。 それでは深みには到りません。 こうした事柄に結びつけられなくてはならないのです。 自然界の生命と活動は非常に繊細で、大雑把な悟性的理解では捉えられません。 現代にあって、学問はこの過ちを犯しました。 現代学問は、ずっと繊細に織りなされている事柄を大雑把な悟性的理解で見通そうとします。 イオウ、炭素、酸素、窒素、水素といった元素がタンパク質で一つ合体していることはご存知でしょう。 ここで私たちは、種子形成をこれまで知られた以上に正確に理解できるでしょう。

■03-37

炭素、水素、窒素は、それらが葉、花、つぼみ、根の中にある場合には、常に何らかの形で他の元素と結びついています。 これらはそうした他の元素に従属し、自立はしていません。 それらが自立するには二つの道しかありません。 その一つは、水素がそれらすべてを宇宙の彼方に運び去り、個々的な特性を消し去り、すべてを普遍的カオスに解消してしまうという道で、 もう一つは、水素的なものがタンパク質素材を小さな種子形成の中に追い込み、そこでタンパク質を自立させ、宇宙からの作用に対し感受性を持つようにさせるかです。 小さな種子形成にはカオスがあり、周辺全体にもカオスがあります。 そしてここで、種子内のカオスと宇宙の彼方のカオスとが相互に作用するはずです。 こうして、新たな生命が生まれます。

■03-38

本来は霊性の担い手であるいわゆる元素、これらの作用が自然界でどのように現われるかを見てみましょう。 人間内では、酸素や窒素の作用はかなり秩序だっています。酸素や窒素の諸性質はその秩序正しさの中で生きています。 ただ、見かけ上これらは自然の内に隠れているので、通常の学問ではここまでは到りません。 しかし炭素や水素から派生したものはそれほど秩序正しくは振る舞うことはできません。 まず炭素を取りあげましょう。 植物界から動物、人間界へと移行しますとその作用が失われます。動物、人間界ではまさに炭素がまず一時的に有効になる必要があります。 そうなってから、しっかりとした形態を作り出すために、より基盤の深い骨組みを作り上げる必要があります。 そのより基盤の深い骨組みとは、非常に深い骨組みである石灰系の骨組みの中にあり、また、私たちが常に内に持つケイ素系の中にもあります。 その結果、人間や動物の内部では、炭素が持つ形態形成力はある程度、背後に隠れています。 炭素は、石灰やケイ素の形態形成力を踏み台に上へと昇っていきます。 石灰は地上的形成力を、ケイ素は宇宙的形成力を炭素に与えます。 人間や動物内においては、炭素は必ずしも常に単独で効力を発揮しているのではなく、石灰やケイ素が形成するものに頼っているのです。

■03-39

しかし石灰とケイ素は植物生長の基盤でもあります。 人間の消化、呼吸、循環プロセスすべてにおいて、また骨格形成やケイ素的構造との関連において、炭素がどのように展開するかについて認識を深めなくてはなりません。 人間内に潜り込め、さらに循環プロセスが見られるとしたら、そこで炭素形態形成がどのように石灰やケイ素の中に輝き込んでいくかを、より深く認識しなくてはなりません。 上は植物に覆われ、下には石灰やケイ素を含む地表を見渡すときには、こうした観方を育てなくてはなりません。 人間の内部は覗き込むことはできません。 しかし大地については認識を育てなくてはなりません。 酸素系が窒素系に捉えられ、炭素系の中に引き下ろされる様子を認識できなくてはなりません。 ただし炭素系が、石灰系やケイ素系を頼りにしているときにだけ、そうなります。 こうも言えるでしょう。それは(酸素系?)は炭素を通り抜けていくからであると。 さらにこうも言えるでしょう。 周囲に生きるもの、酸素系として命を与えられるものが、ここで地中に取り込まれなくてはならないと。 酸素系は窒素の助けで大地の深みに送り込まれなければなりません。 それ(炭素)がそこで、石灰質の中で自らを形成しつつ、ケイ素系を頼りにすることができるようにするためです。

■03-40:マメ科について

そして、必要な感受性や受容力さえ備えていれば、こうしたプロセスはマメ科植物(legminose)において素晴らしい形で観察されます。 このマメ科植物とは、実際、農業でも窒素収集者と呼ばれ、窒素を引き付け、地下に受け渡すことが知られています。 マメ科植物を観察すると次のように言えます。 人間の肺が酸素を必要とするのと同じように、地下には窒素を必要としている何かがあることがわかります。 それが石灰質なのです。 肺が酸素呼吸のためにあるに、地中の石灰質はある種の窒素呼吸のためにある、と言おうと思います。 そして、マメ科植物は、上皮細胞上で起きることと似た働きをします。 吸気では、それ(窒素?)は下方に行きます。 これを行なうのは、本来、この種の植物だけです。 その他の植物では、吸気ではなく呼気の側がすべてです。 このようにして、私たちの考察では植物界全体が、言わば二つに分かれていきます。 窒素に注目し、一種の窒素呼吸として見ますと、植物界全体が二つに分かれるのです。 マメ科植物の生えている場所には、いわば呼吸の通り道があり、それ以外の植物が生育する場には、ずっと神秘的な意味の呼吸を行なう、別な役割を果たす植物があるのです。

■03-41

次のような課題があります。 植物界という全体的有機体の中で、個々の植物種をそれぞれの位置づで観るのです。 それは、人間有機体全体の中で個々の器官がそれぞれ位置づけを持っているのと同じです。 個々の植物種を、ある全体の部分と見なせるようでなくてはなりません。 そのように見ますと、マメ科植物の持つ大きな意味がわかるのです。 確かに、こうしたことはすでに知られています。 それでもこれらの事柄を、今述べた霊的な背景から認識する必要があるのです。 そうしないと、残された伝統はますます失われ、それを新たなに応用するにしても、完全に間違った道に陥ってしまう危険が生じる可能性があるからです。

■03-42

マメ科植物の働きは次のように理解できます。 結実傾向を見ますと、他の植物ではそれがより上方に偏っていますが、マメ科ではそれが葉の領域にあります。 花が咲く前に稔ろうとするのです。 マメ科植物で、開花の前に稔ろうとする傾向がいたるところで見られます。 その理由は、窒素質の中に生きるものが、マメ科植物では地面に非常に近い側に保たれているからです。 ……これらの植物は実際、窒素質を大地に運んでいます……。 他の植物では窒素質が大地から離れたところで展開するのに対し、マメ科植物では大地に近い側で働きが強まっています。 ご存じのように、マメ科植物の葉は、通常よりいくらか緑色が暗い傾向があります。 またマメ科植物では本来の果実部分がある意味で退化していて、種子の発芽能力が短命ですぐに発芽能力を失うこともご存知でしょう。 つまりマメ科植物は、夏ではなく、冬において植物界が持つものに向けて組織されているのです。 したがって、これらの植物は常に冬を待つ性質を持つ、植物から展開してくるもの(葉や花の意味か?)と共に、冬を待ちたがっている、と言ってよいでしょう。 これらの植物が必要としているものが十分に見つかりますと、成長がゆっくりになります。つまり、空気中の十分の窒素で、これをマメ科植物は独自のやり方で下方に導くことができます。

■03-43:石灰について

地上や地下で起きている事柄の生成や営みを覗き見るための方法が、このやり方なのです。 これに加えて、石灰質が人間の欲望世界と非常に似ていることがわかりますと、すべてが有機的で活き活きとすることがおわかりになるでしょう。 石灰は、元素としてのカルシウムでも、まったく落ち着いていません。酸素と結びついて石灰になりたいと感じています。 しかし石灰になっても満足せず、あらゆるもの、あらゆる金属酸、さらにはもはや鉱物ではない涯青までも取り込もうとします。 石灰はすべてを自分に引きよせたがり、地中で真の欲望的本性を展開しています。 感じる力がある人ならば、他の物質との違いがわかるはずです。 石灰は何かを吸い込みます。 石灰質は実際に欲望的本性を示し、その広がりは植物的なものを引き付けるものが広ががりと重なることをはっきりと感じます。 それは、石灰質が求めるものがすべて植物内に生きているからです。 植物内に生きるものは、絶えず石灰質から引き剥がされなくてはなりません。 それは何によって引き剥がされるのでしょうか。 それは気高きもの、何ものも求めない気高きものによってです。

■03-44:気高きもの、ケイ素

何も求めず、自己に安息する気高きものがあります。 それはケイ素です。 ケイ素は自分自身内での安定に達しています。 鉱物的な硬い輪郭を持つ物の中にだけしかケイ素質が存在しないと考えるなら、それは間違いです。 ケイ素質はホメオパティー的希釈度でいたるところに存在し、自己内に安息し、何も要求しません。 石灰質はすべてを求め、ケイ素質は何一つ求めません。 知覚器官は自分自身は知覚せず、外界だけを知覚しますが、ケイ素質はちょうどそうした知覚器官のようです。 地上的なものにおいて、ケイ素質は一般的な外的知覚感覚であり、石灰質は普遍的な外界欲望で、粘土がこの両者を繋いでいます。 ただし粘土はややケイ素質に寄りですが、それでも石灰質に橋渡しをします。

■03-45

こうしたことは一度、見通しておいた方がよいでしょう。 それによって感受性を伴った認識に達するからです。 石灰質を欲望小僧と感じ取るこれるのが望ましいでしょう。 なぜなら、石灰質こそすべてを自分のところへもぎ取ってこようとするものだからです。 またケイ素は、気高い紳士であって、石灰質によってもぎ取られたすべてを奪い返し、大気圏的なものの中に運び、そして植物フォルムを形成します。 ケイ素は、スギナといった城のようなところに籠城するか、あるいは、薄まった状態の非常に繊細な仕方で、それはしばしばホメオパティー的な希釈度ですが、あらゆるところに存在して、石灰質から何かを取り返すものとして作用します。 ここでも、自然作用が非常に密接に作用し合っていることがおわかりでしょう。

■03-46

炭素はあらゆる植物の中で、本来の形態形成者、つまり骨組みの形成者です。 しかし地球進化の中で、炭素にとってこのことが困難になりました。 もし炭素の他に水しか存在しなければ、炭素はすべての植物を形成できたはずです。 そうであればすべての植物が成長したはずです。 ところが、そこに石灰質が入り込み、炭素を妨害したのです。 石灰による抵抗を克服しなくてはならず、炭素はケイ素と結びつき、両者が粘土として一体になり、これが再び形成にかかわります。 こうした状況下で、植物はどのような営みを行なっているのでしょうか。

■03-47

植物は、下では石灰質の触手に捕えられ、上ではケイ素質によって繊細で細長く繊維質のように、つまりちょうど水生植物のようにされようとしています。 しかし中間部は本来の植物フォルムを形成しつつ、すべてを秩序に収める炭素が働いています。 そして、私たちのアストラル体が自我とエーテル体の間で秩序を作りあげているように、アストラル的である窒素がその中間で働いています。 石灰質は絶えず下に向かってため込もうとし、ケイ素質は絶えず上に向かって放射しようとしています。 この石灰質と粘土質・ケイ素質との間で、窒素がどのように活動しているかを学び、理解しなければなりません。

■03-48

ここで次の問いが生じます。 「正しく窒素分を植物界にもたらすにはどうしたよいか」。 明日はこの問題を取り上げ、さらに肥料の問題への橋渡しをしていこうと思います。

『農業講座』第4講、コーベルヴィッツ、1924年6月12日

農業を豊かにする諸条件

霊的なものの中に入り込んでいく諸力と諸素材:施肥の問題


■01

農業においても、霊の本性や作用を自然界において巨視的に、つまり霊性を包括的に見ることで、霊学的方法を見出さなくてはなりません。ところが物質主義的学問では、どんどん狭い範囲、微小なものに向かってしまっています。 農業では元来、微細で顕微鏡的なものを扱っているわけではありません。そうした狭い範囲内で作用し、狭い範囲で作用が完結する微細なものはしばしば自然科学が扱っています。 しかし人間や動植物が生きる世界は、決して小さな範囲で判断できるものではありません。 一般の学問は、人間存在の全体を認識する際にも、小指や耳たぶを出発点にして、そこから積み上げて巨視的全体を捉えようとしますが、たとえば農業の重要事項を捉えるに当たっても、同じやるかたをします。 これに対して私たちは、……これは今日、可能でありまた不可欠ですが……、偉大な宇宙的関連に向かう現実的な学問を打ちたてなりません。

■02

今日、あるいは数年前まで一般に通用した学問がきっぱりと自己修正したことがなかったでしょうか。たとえば人間栄養学では、長期間にわたって学問的無知無能が支配していたためにそうしたことが起きました。 それらはすべて科学的で、科学的に証明され、考察対象になった事柄のみを根拠にした考えれば、その証明は完璧でした。 つまり70kgから75kgの平均体重の人では、約120gのタンパク質を必要とすることが学問的に証明されていました。 これは科学的証明でした。 しかし今日では、学問的見識を持つ人なら、誰もこれを信じません。 学問が自己修正したのです。 今日では、1日120gのタンパク質摂取は、不必要であるばかりか、有害であり、健康を保つのに適切なタンパク質摂取量は1日に50gであると知っています。 これが学問の自己修正です。 タンパク質の過剰摂取によって、腸内でタンパク質からの有害な中間物質生成が促されることは、今日では常識です。 タンパク質の消化吸収の時点だけを問題にするのでなく、人間の一生全体を視野に入れれば、過剰なタンパク質による有毒作用が主に晩年の動脈硬化につながることがわかります。 このように、人体についての科学研究でも、狭い視野で短期間だけを問題すると、しばしば誤りに陥いることがわかります。 しかし人間は普通、十年では死にません。短期的に見れば効果的に見えることが原因となって、しばしば非常に後になってその有害作用が現われるのです。

■03

精神科学ではそうした間違いはしにくいのです。 私は今、通常の学問が修正を迫られることがあると申し上げました。しかし、それを理由にしばしばなされる安っぽい科学批判には同調しません。 こうした自己修正が不可避で、また不可欠であることは容易にわかるからです。 しかしもう一方では、精神科学も実際生活に参与しようとしますと安っぽい批判を受けます。 精神科学では、偉大なる命の諸関連を見て、諸力や諸素材を単に物質的にではなく、霊的に捉えるからです。 こうした批判は農業においてもまったく同様になされ、特に肥料問題では厳しさが増します。

■04

肥料の問題では今日、諸説が乱立していますし、それ自体が、自然界の種々の流れにおける肥料の意味がわかっていないことの証です。 肥料は植物の栄養である、とよく聞きます。 数分前に栄養の話をしましたが、その意図は、まさにこの近代や現代で人間の食物栄養の見解が朝令暮改状態であることを示すためでした。 生物に対する栄養をまったく誤って捉えてしまったがために、自己修正を余儀なくされたのです。

■05

栄養において最も重要なのは、毎日の食べ物であると人は思っています。……ちょっと常識外れなことを言いますが、気になさらないでください……。 確かに、日々の食べ物は重要です。 しかし、日々の食べ物のほとんどは、身体素材として吸収されるのでもなく、蓄積されもしません。 そうではなく食べ物の意味とは、内に持つ諸力を身体に与え、身体を活性化することにあります。 体内に摂取された物の大部分は再び体外に出されます。 重要なのは、代謝的意味での量的秩序ではなく、食物から生命的諸力を正しく取り込めるかなのです。 こうした生命的諸力は、たとえば歩行、労働、あるいはただ手を動かすだけでも必要だからです。

■06

その反対に、身体に物質的に満たし、蓄積するために必要なものは、その大部分が感覚器官、皮膚や呼吸を通して取り込まれます。……人間は7、8年で身体の物質を更新するので、やがては外に出される物質ですが……。 つまり身体は、身体は絶えず極度に微細な希釈度で取り込み、凝縮して体内の素材として蓄積しています。 身体はそれらを空気から取り込み、爪や髪など切らなくてはいけないくらいに密にして固めます。 栄養物が摂取され、肉体を通り、爪や垢などになるというのは間違った定式です。 そうではなく、呼吸や感覚器官、それどころか眼さえを通して、非常に繊細なかたちで取り込まれ、生体を通り抜け、排出されるというのが正しい定式です。 胃を介して摂取されるものもまた実際に重要ですが、それは摂取物が身体にとっての内的活性や意志的諸力を、ちょうど燃料のように鼓舞するからです。

■07

ご覧のように、精神科学的研究では簡単に明らかになる真実に、現代学問からの正反対の見解が主張されますと、望みが見つからなくなってしまうのです。 重要な問題において、今日の学問とは相互理解できないと感じるので、絶望的になるのです。 そうした相互理解が必要なのです。 今日の学問は、まさに実際生活の問題に対して、袋小路に迷い込むだろうからです。 現代科学の道筋では、ほとんど目の前にある特定の事柄ですら理解できません。 私は実験のことを言っているのではありません。 実験に関して科学が言う事実は、原則的に正しいのです。 実験は非常に有用です。しかし理論化されるとひどいことになります。 残念ながら、さまざまな領域における実践的な視点はそうした理論から生れています。 こうした事柄すべてを見ますと、自然科学との相互理解は難しいことがわかります。 しかしもう一方で、農業を含む最も重要な領域では相互理解が不可欠なのです。

■08

正しいやり方を進めようとするなら、農業におけるさまざまな領域で、諸物質素材、諸力の作用の仕方や、霊の作用の仕方について正しい見識を持つことが必要です。 使い方がわからなければ、子どもは櫛に噛みついたり、無意味な使い方をするでしょう。 それと同様に、事柄の本質を知り、該当の状況での事柄の成り行きを知るまでは、事柄を無意味に扱うでしょう。

■09

イメージを明確にするために、樹を考えてみましょう。 樹木は普通の一年性植物とは違います。 樹皮などに覆われています。 一年生植物と比べ、樹の本質は何でしょうか。 分解程度はさまざまでも非常に多くの植物分解産物、つまり腐植を含み、場合によっては動物の分解産物も含んだ盛り土と、樹とを比べてみましょう。


■10

こちらは腐植の豊かな盛り土に窪みを作ったもので、こちらは樹です。 程度の差こそあれ、樹の外側は固く、内側は成長し、これによって樹の形ができあがっていきます。 このようなものを二つ並べますと、奇異な感じでしょう。 しかしこの二つは、みなさんが思うよりずっと似ているのです。 今述べたように、この土的なものには分解へと向かう腐植性の物質が満たされて、エーテル的・生命的なものが含まれています。 それが重要です。 この土にはエーテル的・生命的なものを含むという特別な性質がありますし、これは本来、植物的覆いへの途上にあります。 ただそれが実際に、植物の覆い、つまり樹皮にまでなることはありません。 自然界ではそれがありえないのはご理解いただけると思います。 腐植質には特別で特徴的な性質があり、エーテル的・生命的なものから土壌に作用します。 そうした腐植質で満たした盛り土を作る代わりに、植物では盛り上がったものをより高次の発達段階のものが取り巻いているだけなのです。

■11

つまり、通常の地表よりもある程度高いところで、また大地の内部と遮断されていますと、そこにあるものはエーテル的・生命的なもので自らを満たそうとする特別な傾向を示します。 ですから鉱物的で無機質なごく普通の土を腐植や分解産物で肥沃にしたいなら、盛り土をして、そこに廃棄物などの物質をそこに入れるとより簡単にできます。 このようにしますと、土自体が内的に活発になり、植物に似たものになろうとする傾向を持つのです。 樹木の成長でも同じプロセスが行なわれています。 大地が盛りあがり、植物をとり囲み、樹木を取り巻くようにエーテル的・生命的なものが植物に与えられます。 それはなぜでしょうか。

■12

植物という輪郭内に収まっているものと、植物を取り巻く土壌は非常に類縁であるというイメージを皆さんの内に目覚めさせるべく、私はこのように語りました。 植物の輪郭線で、あるいは植物の外に出ると生命活動が終わるという考えは正しくありません。 生命活動は根から出て地中に入り込んでいますし、植物内の生命と植物外の生命には明確な境界線はありません。 施肥などの世話を受けた大地の本性を理解するためには、このことを徹底的に理解していなければなりません。

■13

施肥とは大地に命を与えることなのです。これは肝に銘じていく必要があります。 これを知ることで、植物を死んだ土壌で育てようとしたり、結実までに必要な要素を植物が大地の生命から得られないといった事態を避けなくてはなりません。 植物は、生命を持つ土壌に育てられれば、結実までに不可欠なものを容易に手に入れます。 実際、植物は多少、寄生的に成長し、生きた大地に寄生体として育つのです。 また、そのはずなのです。 地球上のほとんどの土地では、土壌だけで有機的廃棄物を十分に大地に送り込んだり、必要な生命性を得られるほどにそれらを分解したりすることは期待できませんので、どうしても植物の成長を施肥で助けなくてはなりません。 いわゆる黒土と呼ばれてる土地は、それはわずかですみます。 そうした地域では、自然自体が大地の生命をしっかり補っています。

■14

ご覧の通り、ここでの問題は真に理解しなければなりません。 さて、きつい言い方ですが、もう一つ別のことも理解しなくてはなりません。 農業に関連する事柄に対し、すべて一種の個人的な関係を持たなくてはならないのです。 とりわけ肥料に関係する仕事では、個人的な関係が必要です。 これはあまり心地よくない課題ですが、この個人的な関係がなくては先へ進みません。 なぜでしょうか。 何らかの生命を持つものの本質に入り込めば、これはただちにわかります。 生命を持つものの本質に入り込みますと、そこには常に外側と内側があります。 そして、皮膚様のものが内と外を分けています。 今はその内側を見てみましょう。


■15

生物内の力の流れは、外に向かうものだけではありません。 生体の内的な命の流れには、皮膚に押し返され内側に向かう流れもあります。 また生体は、ありとあらゆる力の流れに外側から取り囲まれています。 さて、個人的なやり方で非常に厳密に表現される事柄があります。それは、生体が自らの内と外との関係で、自分自身を必然的に形成していく様子です。 生体内部で力の作用として生じていること、つまり皮膚の内側で生命を喚起し、生命を保持するもの、これらすべては……ここでもきつい表現になることをお許しください……、それ自体が匂いを放つ、さらに言えば悪臭を放たなくてはなりません。 通常なら匂いを放ち、匂いを広げるものがあります。それを外に向けて放射させすぎず、内部にため込むことで、本来、生命が成り立つのです。 生体は外界に対し次のような関係で生きているはずです。 匂い発生的な生体内の生命が、生体内で何かを作り出します。そして、それをできるだけ境界である皮膚を通して外に出さないようにしなくてはなりません。生体とは、内側で匂い、外側での匂いが少ないほど、健康であると言えるくらいなのです(図参照)。

■16

植物生体は匂いを放出するのではなく、取り込む宿命を負っています。 よい香りを放つ植物が生育している牧草地には促進的作用がありますが、その働きを見通しますと、お互い同士の生命的な支え合いに気づくでしょう。 ここでのよい香りとは、単なる生命の匂いではありません。その理由については後でより詳しく検討できると思いますが、このよい香りは外から植物に向かって働きかけるものです。 こうした事柄すべてに対し、人は生き生きと個人的に関係しなければなりませんし、そうすることで、自然の現実にしっかりと入り込むことができるのです。


■17

さて、施肥やそれに類するすべては、土壌にある程度の生命を配分することがその主たる役割です。 しかし生命の配分だけが問題なのでもありません。 昨日の話では、ある特定の力線に沿って窒素が広がり、窒素の助けで生命が運びこまれると述べました。 それが可能になるように大地に作用する必要があるのです。 つまり、地下の諸構造に生命をもたらすのに必要な窒素を、施肥によって大地に送らなくてはなりません。 植物の土壌となるべき大地の領域、植物の下部に存する諸構造に対し生命をもたらさなくてはならないのです。 これが施肥の役割です。 この役割は、正確で事柄に即したやり方で遂行されなくてはなりません。

■18

純粋に鉱物的なものを肥料に用いますと、実際それは決して《地》には達せず、せいぜい地中の《水》に達するだけです。 この点には注意を喚起しておきます。 鉱物的肥料では、地中の《水》には作用できますが、《地》を活性化することはできません。 ですから鉱物的肥料で育った植物では、活性化された《地》からではなく、《水》からの刺激による成長の様子が見られます。

■19

肥料を実践的に研究しようとするなら、もっとも平凡な肥料、それどころか軽蔑さえされている堆肥(コンポスト)が最上の対象です。 その中には、見向きもされない何らかの廃物が投入され、土壌を活性化させます。つまり、農業や園芸由来のもの、腐ったイネ科の草、落ち葉、さらには動物の死骸などです。 こうしたものは、決してないがしろにしてはいけません。 エーテル的なものだけではなくアストラル的なものさえ含んでいるのです。 これは重要です。 堆肥の山には、エーテル的なもの、生きたエーテル的なもの、生きたもの、さらにはアストラル的なものが入っています。 もちろん堆肥は、糞尿肥料ほどには、生きたエーテル的なものやアストラル的なものを含んでいません。しかしある意味では、より安定した形で含んでいます。 それらはよりしっかり結びつき、それはアストラル的なもので顕著です。 こうした安定性を相応の仕方で考慮することも大切です。 もし成長が急すぎるエーテルがありますと、窒素に対するアストラル的作用がただちに影響を受けます。 つまり堆肥の山に成長が急すぎるエーテルがありますと、いわばアストラルが旺盛になりません。

■20

この点についてはすでにいろいろな観点から述べましたが、自然界には自然に対し有益なものがあります。 それは石灰質です。 石灰質を生石灰(CaO)といった形で堆肥の山に加えますと、特筆すべきことが起きます。 生石灰は、香りを放つアストラル的なものにはそれほど強く働きかけず、エーテル的なもの、さらには酸素も吸収し、それによってアストラル的なものが素晴らしく作用するようになります。 これによって、ある特定の目標が達せられます。 つまり堆肥によって次のような傾向を持つ何かを土壌に与えるのです。 アストラル的なものを非常に強く、エーテルを迂回せずに《地》に直接に入り込ませる傾向です。

■21

こう考えてみてください。 エーテルを迂回する必要のないアストラルは《地》に非常に強く入り込み、《地》がアストラル化されます。 さらにそのアストラル化されたものの道筋に沿って窒素系が浸透しますと、そこには人間生体の特定のプロセス、つまり人体内の植物的なプロセスと非常に似たものが生じます。ただその植物的プロセスは、果実形成が重点ではなく、葉や茎の形成に重点が置かれたものです。 すでに述べましたように、人間は相応の仕方で栄養物から活性化力を取り出さなくてはなりませんでした。 《地》に伝えるこのプロセスを私たちが内に持たなくてはならないのはそのためなのです。 今述べた方法を採りますと、大地に対しても同様な活性化力の取り出しに向けた刺激をしていることになります。 こうして大地を整えますと、体内に入ることで動物を内的に活性化し、動物身体を内側から活き活きとさせられる飼料を作り出せるのです。 別な言い方をしますしょう。 この堆肥は牧草地に施肥するのがよいのです。さらに別な手順も必要ですが、これを厳密に行いますと、乾燥飼料としても良質な牧草飼料を育てることができます。 しかし、これらを正しく行なうには、事柄全体を見通さなくてはなりません。 そこで行なうべき個々の事柄は、当然ながら勘と密接に関連しているからです。 こうした勘は、このプロセスの本質をすべて見通すことで育つのです。

■22

単に私がこれまで述べたやり方で堆肥の山を積みますと、堆肥のアストラルが非常に簡単にあらゆる方向に拡散しうるでしょう。 そしてここでも、事柄に対する個人的なつながりが問題になります。 つまり堆肥の山をできるだけ匂わないようにする必要があります。 その方法は簡単で、堆肥を薄く敷き、その上に乾燥ピート(泥炭化したミズゴケやカヤツリグサなど)を敷き、さらにその上に薄い層を敷くというようにすればよいのです。 これによって、そのままでは匂いとして発散してしまうものを、内部に保持することができます。 窒素とは、どのような化合物になっても飛散する傾向を持つからです。 それが保持されます。 ここでの私の話の要点は次のとおりです。 事柄全体に働きかけるためには、あらゆるところに生命的なもの、さらにはアストラル的なものをも注ぎ込まなくてはならないという確信を持って農業のすべてを行わなくてはなりません。

■23

この同じ出発点から、別な結果も得られます。 雌牛には鞘角があり、別の動物には枝角があるのはなぜか考えたことはあるでしょうか。 これは非常に重要な問いです。 しかし、これについて学問的解釈は、通常、きわめて一面的で外面的です。 雌牛にはなぜ鞘角があるかを答えてみましょう。 有機的なもの、生命的なものには、外向きの力の流れだけではなく、内向きの力の流れをありうるという話をしました。 仮に丸っこい形の生物がいると想像し、外向きと内向きの力の流れがあると思ってください。 これに何の規則性もなければ、丸っこい生物ができあがるかもしれません。 この条件だけですと、非常に奇妙な外見の雌牛になります。 この雌牛は全体が丸っこく、胎生初期に見られるような小さな足の突起があるとしましょう。 そのままであれば、グロテスクです。 しかし雌牛の作りはそのようではなく、鞘角や蹄があります。 蹄や鞘角が生える部位では、何が起きているのでしょうか。 そこでは流れが非常に強力に内に向いています。 また外的なものは、特に完全に遮断されています。 皮膚や頭髪には透過性がありそれを介してのコミュニケーションがありますが、そうしたものがないだけでなく、外に向かっての流れが完全に閉ざされています。 それゆえ鞘角形成は、動物の全形姿に関連するのです。 鞘角形成や蹄形成は、動物の形態形成全体と関係します。

■24

しかし、枝角形成は様子がまったく違います。 枝角形成では流れが生体に戻るのではなく、ある種の流れがまさに外に一歩導かれる点が重要です。 つまり、力を外に逃がすために一種のバルブで流れをつくるのです。……ただしその流れは必ずしも液体や気体の流れではなく、枝角に局在する力の流れでもありえます……。 鹿の美しさは、ある種の流れを外に送り出し、周囲世界に生き、神経や感覚に有機的に作用するあらゆるものを取り込み、周囲の世界としっかりとコミュニケーションしていることに由来します。 敏感な鹿なのです。 ある意味において、枝角を持つ動物全般で、その眼から見て取れるような神経過敏的なものをわずかに帯びていることがわかります。

■25

雌牛の鞘角とは、アストラル的エーテル的に形成すべき作用、また消化器系までをも活動に巻き込む作用を内側に送り込むためにあるのです。 その結果、まさにこの鞘角や蹄から発する放射によって、消化器系で活発な仕事がなされるのです。 それゆえ周囲的なものが消化器系に戻って作用することに関係する口蹄疫を理解するには、こうした関連を見通す必要があります。 こうした関連を洞察た口蹄疫に対する私たちの治療薬があります。 ごらんのように、鞘角には特別な本性があり、生命的なものやアストラル的なものを内的営みに反射放射させるのに適しています。 鞘角は、生命放射、さらにアストラル放射をします。 実際、そうなのです。 もし生きた雌牛の身体内、腹部にまで入り込めたとしますと、そこではアストラル的生命的なものが鞘角から内側に向けて流れてくる様子を嗅ぎ取ることができるでしょう。 蹄もこれと同様です。

■26

こうしたことをヒントに、一般的な厩肥の作用をさらに高める私たちの側から推奨できることがあります。 一般的な厩肥とは一体何でしょうか。 外から家蓄の体内に入り、そこからある一定段階までが栄養として取り込まれます。 そしてこの栄養の働きは、本来、身体素材の増大ではなく、生体内で諸力の作用がダイナミックに生じさせるきっかけでした。 こうして、再び外に排泄されます。 しかしその排泄物は一旦は生体内にあり、アストラルやエーテルに満たされていました。 それはアストラルにおいては窒素保持力が満ち、またエーテルにおいては酸素保持力が満ちています。 糞として現われる塊は、そうしたものに満たされているのです。

■27

詳細は後に話しますが、この塊を何らかの形で大地に移しますと、大地にエーテル的アストラル的なものを与えることになります。 こうしたエーテル的アストラル的なものは、正当な意味で動物の腹内にありましたし、そこで植物的に諸力を作り出しました。 私たちが消化活動で作り出している諸力は、植物的なものだからです。 糞が残っていることに、本来、私たちは非常に感謝しなくてはなりません。 そこではエーテルやアストラルが生体内部から外に解放されているからです。 エーテルやアストラルは糞の中に残っています。 糞中のエーテルやアストラルを保つために、私たちはそれを相応の方法で手に入れなくてはなりません。 そうすれば、それは土壌や《地》を活き活きさせ、またアストラル化できます。 単に《水》に作用するのではなく、《地》に作用するのです。 これには、大地の非生命的なものを克服する力があります。

■28

さて、この大地に与えられるものは生体内の代謝系プロセスを通過しているはずですから、当然、食物として口に入る前の形は失なわれています。 それらは分解的、解消的な途上にあります。 しかし最上の時点は、それ自身が持つエーテルやアストラルによって解消し始める時です。 このとき、寄生生物や微生物が発生し始めます。 寄生生物にとって良好な栄養基盤になるなのです。 それゆえ、こうした寄生生物は、肥料の質と関連すると思われています。 しかしこうした微生物の有無は、その肥料の現状を示しているだけです。 微生物の持つ意味は、肥料の状態を示す点にあります。 逆に、これらのバクテリア等を肥料に投入すれば、肥料の質を劇的に高められると考えるなら、それは錯覚です。 表向きはそう見えても、現実はそうではないのです。 こうした考えが現実にはいかにありえないかは、また後で話しましょう。 ここでは先に進みます。

■29

雌午の鞘角に入手しうる牛糞を詰め、あまりに粘土質あるいは砂地の土地でなければ、75cmから150cmの深さに埋めます。 必要な砂地でない適当な場所を選ぶことはできるでしょう。 このように雌牛の鞘角に牛糞を詰めて大地に埋めますと、この鞘角の中にあった諸力、雌牛の体内で作用していた諸力、つまり生命的、アストラル的なものの反射を鞘角の中に保持することができます。 そして、鞘角の外側が土で覆われていることで、エーテル化やアストラル化へと向かう放射は、すべて鞘角内部の空洞に向かいます。 こうした力を伴った牛糞で満たされた鞘角は、大地が内的に最も活き活きとしている冬の間、周囲の大地にあるエーテル的で活性化する力をすべて引き寄せます。 大地が内的に最も活き活きとしているのは冬でした。 この活き活きとしたものすべてがこの牛糞の中に保存され、それによってこの鞘角の内容物は、非常に高度に濃縮された活性的肥料力を得ることができます。

■30

その後、鞘角を掘り出し、入れたときには牛糞だったものを取り出します。 ドルナッハでの最近の実験では、牛糞を取り出した際に、それがまったく臭わないことをメンバーたちが確認しました。 驚きでした。 取り出した中身はまったく臭いませんでしたが、水を作用させたらわずかに香り始めました。 これは、香るものすべてが凝縮され、何らかの作用を受けていることがわかります。 この中にはアストラル的エーテル的な非常に大きな力が含まれています。 鞘角を地中に埋め、冬を越させ、次に鞘角から中身を取り出し、普通の水かぬるま湯で薄めれば、そうした力を実際に使えるようになります。 私はまず施肥すべき土地を見渡します。これで量的なことについての印象が得られます。 三番目の窓から最初の横道があるところまで(約1200m$^2$)に対し、鞘角一本分を60リットルバケツ半分の水で薄めればよいでしょう。 ただし、鞘角の中身を水と徹底的に結びつける必要があります。 つまり、まずバケツの壁面に沿った周辺部を高速で攪拌し、中央部がほぼ底に付くくらいに凹ませます。 次に、素早く回転方向を逆向きにし、全体がぶつかり合うように泡立たせます。 これを一時間ほど続けますと、水と鞘角の中身が徹底的に混ざり合います。

■31

労力がいかに少ないかを考えてみてください。 この仕事の負担は決して大きくはありません。 農場で手の空いている人にとっては、少なくとも初めのうちだけでも、この牛糞由来物の攪拌は、特別な楽しみになるかもしれないと思います。 娘さんや息子さんたちにこれをやってもらえば、非常にうまく事が運びます。 無臭のものから微かな芳香が漂ってくると、心地よいでしょうから。 こうした事柄との個的な関係は、興味本位で自然を嗅ぎまわる人にはあまり関係がないでしょうが、自然全般を好んで感じ取る人には非常に心地よいものです。

■32

さて次にこれを耕作中の大地への散布し、調合剤溶液を《地》の領域と一体化させることが大切です。 狭い土地では普通の散布機でかまいません。 当然ながら、広い土地では特別な散布機を組み立てなくてはなりません。 通常の肥料の中にいわばこの《霊的な肥料》を加えますと、そこからいかに豊かな実りが得られるかがおわかりになるでしょう。 さらにまた、こうした事柄が非常に有意義な発展の可能性を持つことも気づかれるでしょう。 私が今述べた手法には、もう一つが直接に結びつくからです。それは次のように行ないます。

■33

ここでも雌牛の鞘角を使います。 ただし、牛糞の代わりに、石英、ケイ石、正長石、長石などのいずれかを小麦粉くらいまで微粉末にし、さらに粥状あるいは薄いパン生地状にして、鞘角に詰めます。 そうしましたら、この鞘角に冬ではなく夏を越させ、晩秋に取り出し、それを翌春まで保存しておきます。 これによって、地中における夏の営みにさらされたものを取り出すことになります。 そしてこれを、先の調合剤と同様に扱いますが、ただここでは非常に少量しか必要としません。 バケツ一杯の水にエンドウマメくらいの大きさの塊を入れてかき混ぜますが、場合によっては針の頭くらいでもかまいません。 ただし、これも一時間は攪拌しなくてはなりません。 これを植物自体に散布しますが、……これは特に野菜などで有効です……、乱暴に注ぎかけてはいけません。 そうではなく、霧状に吹きかけます。 そうしますと、牛糞調合剤の地中からの働きかけを、別な側面から補助しているのがわかるでしょう。

■34

そして、こうした散布が不均一ではなく、圃場に上手く広がりますと、牛糞調合剤が下から押し上げ、石英粉末調合剤が上から強すぎず弱すぎず引き上げている様子が見られるでしょう。 これは農場全体に微かに振りかけなくてはなりませんが、そのような機械を作ることはさほど難しいことではないでしょうから、それを用いないという手はありません。 これは、特に種子を採る作物ではすばらしい効果を発揮します。

■35

ご覧のように、こうした事柄は、大きな関連の観察から得られ、単一の事柄からは得られません。 指から人間全体を理論的に構築しようとするような狭い考え方でも、何らかのことは成し遂げますし、またそれは決して無視できない成果です。 今日の研究は、農場経営にとって何が生産的でありうるかを問い、さらにはそれをも超えて、最も経済的利益のあがる生産物はどのように作れるかを問うまでなっています。 そう言ってもさほど的外れではありません。 常にそのように考えているわけではありませんが、無意識にはそれが根底にあります。ですので、何らかの方法で大きな成功を収めますと、たとえば巨大なジャガイモとか何か大きく膨れあがった作物を得ますと、農家は驚くのです。 この考え方から一歩も出ずに研究をしていますが、これらは最重要事項ではないのです。

■36

最も重要なのは、事柄が人間にまで達したときに、人間存在に対し一番発展的に作用するかなのです。 農場か果樹園で素晴らしい見栄えの果物を収穫できるでしょう。 しかしそれは人間にとっては単に胃を満たす物でしかなく、人間の内的存在を有機的に促すものではないかもしれません。 人間が自らの生体にとって最上の栄養を得るという地点には、今日の学問は達しえません。 なぜなら、そこへの道を見出していないからです。

■37

しかし、精神科学が語るものの根底には、自然の摂理全体があります。 これは全体から考えられています。 それゆえ個別のことを語る場合でも、それは常に全体を指し示しています。 人間にとって、動物にとって最上であるような農業を営むなら、それ以外の結論はありえません。 人間を基本にし、人間から出発して考察するなら、結論は同じです。 人間本性が最高度にかかわれるものに対する視座も、これによって生じてくるのです。 これらの点が、ここでの考察法と今日の通常の考察法の違いなのです。








































































『農業講座』質疑応答1、コーベルヴィッツ、1924年6月12日


■qa01-Q01

牛角糞プレパラート(500番プレパラート)の希釈は、さらに比例的に続けるのでしょうか。

■qa01-A01

▲シュタイナー博士 …… この点に関しては、何点か言うべきことがあるでしょう。 おそらく次のような結果が出ると思いますが、散布すべき土地が増えたら、水の量を多くし牛角糞の必要量は少なくなるはずです。したがって、比較的少ない牛角糞でより広い面積に施肥できます。 ドルナッハでは25本の牛角糞があり、とりあえずそれを分配してかなり大きな農園に施肥しました。 その際、角1本分をバケツ半分に希釈しました。 次に、角2本分をバケツ1杯に入れました。 さらに、より広い面積に施肥する必要があり、バケツ7杯に7本の角を用いました。

■qa01-Q02

大面積に散布する際に、牛角糞の撹拌にあたって撹拌機を用いるのは許されるでしょうか。 それとも問題があるでしょうか。

■qa01-A02

▲シュタイナー博士 …… これは当然ながら、厳密に捉えるべき事柄なのか、あるいは徐々に代用品に滑り落ちていく決断をするかの問題です。 手での撹拌と機械による撹拌では意味がまったく違うのは疑いありません。 もちろん機械主義者はこれを認めないでしょう。 実際に手で撹拌すると、その際手の動き、偶然の出来事、そこでの感じ取られること、そうしたものすべてが撹拌の中に入り込み、単なる機械での撹拌とはまったく違うのです。 今日ではもちろん人々はこうした違いが問題になりうると思っていませんが、それでも医学分野ではこうした違いがはっきりと認められています。 何らかの医薬品を、手で作るか機械で作るかは決して同じとは考えないでください。 物が人の手で作られますと、その物に何かが付け加わります。 こうしたことを馬鹿にしてはいけません。 皆さんの多くはリッターの医薬品をご存知でしょうが、これについて私はしばしば意見を求められました。 このリッターの医薬品は、大変な賞賛を受けるのと同時に、何の効果もないという意見も広範にあります。 もちろん効力はありますが、この医薬品を通常の販売経路に乗せますと薬効はほぼ失われるだろうというのが私の確信です。 医薬品の場合、医者自身がこれを所持し、患者さんに直接手渡しにすることが重要だからです。 少人数の中で医者がこうした医薬品を患者さんに手渡しますと、特定の内的高揚感が伴います。 すると、高揚感など重さも量れないと言う人もいるでしょう。 しかし高揚感は共通のヴァイブレーションとなり、患者が高揚することで医師も感動します。 光は医薬品に非常に強く作用しますから、高揚感にその作用がないと言えるでしょうか。 高揚感は伝わりますし、効き目も大きいので、今日でも情感を伴う医者は偉大な作用を及ぼしうるのです。 リッターの医薬品は、まさにこれによって強く作用するのです。 高揚感によって偉大な効果をもたらしうるのです。 反対に、機械的に作業しますと、おそらく効果は弱わまるでしょう。 人間の手から発するもので作るのか……実際に人間の手からは多くのものが発せられています……、あるいは機械で作るのか、この種の事柄ではまさにこの点が問題なのです。 しかし、しだいにこの撹拌の楽しさがわかってくれば、牛の角を機械で大量に処理しようなどとは誰も考えなくなるでしょう。 日曜日のデザートのように、行なうようになるかもしれません。 たくさんの客を招かなくてはいけない日曜日に、必要なことをおしゃべりしながらこの仕事を行なえば、機械を使わずとも最高の結果が得られるでしょう。

■qa01-Q03

バケツ半分の水(30リットル)を10アールの土地に撒くのは、技術的に少し難しそうです。 牛の角の本数が増えると、その本数分だけでなくあらゆる面で困難が急速に大きくなります。 散布もより困難になるでしょう。 そこでこの量の水にさらに水を加えて薄めることはできるでしょうか。 それとも、この比率は変えられませんか。 つまり10アール当たりバケツ半分の水という比率です。

■qa01-A03

▲シュタイナー博士 …… 水を増やすことはできます。 しかしその場合、撹拌の方法を変える必要があると思います。 次のようにすることができます。 まずバケツ半分の水に牛角糞を1本入れて最後まで撹拌します。これをバケツの中で薄めますが、ここでも撹拌しなくてはなりません。 水の量をバケツ半分に固定して、上の方法で薄めた場合の牛角糞の量をあらかじめ計算して、その量だけを入れてバケツ半分で撹拌する方がよいと思います。 非常に重要なのは、両者が密接に入り込み合うようにすることです。 この牛角糞という素材を水に入れて撹拌するだけではまったく不十分で、実際に相互の入り込み合わせることがが重要です。 密接な相互浸透を呼び起こす必要があります。入れる素材が少しばかり密であっても、あるいは撹拌が十分に力強くありませんと、根本からの混合にはなりません。 すでに溶液になったものにさらに水を加えて撹拌するよりは、多くのバケツに水を半分入れて、1本分に満たない牛角糞を入れて撹拌する方が容易だと思います。

■qa01-Q04

溶液内に固形物が残っている場合、散布機でよりうまく散布するために、濾過した方がよいでしょうか。

■qa01-A04

▲シュタイナー博士 …… その必要はないと思います。 速く撹拌しますとかなり濁った溶液になりますが、そこに異物が残っているかは気にしなくてよいでしょう。 牛角糞は非常によく溶解します。 混じり気のない雌牛の糞であれば最高ですが、何らかの異物が混ざっていても、それを取り除く労力を特別に費やす必要はないと思います。 異物が混ざっていても、状況によっては何の害もなく、むしろ都合よく作用するかもしれません。 牛角内で濃縮し、その後に水で希釈することによって、実際には放射としての作用しか残らず、もはや物質ではなくなっています。 そこではダイナミックな放射だけが作用していて、沈殿した異物が撒かれた場所で、茎ばかりが徒長して実のつかないジャガイモができる危険はありません。 そうした危険はないはずです。

■qa01-Q05

私は、散布機に異物が詰まらないかだけを問題にしたのですが。

■qa01-A05

▲シュタイナー博士 …… 濾過は害にはなりません。 散布する前に濾過できるようにしておくのが一番よいでしょう。

■qa01-Q06

溶液の濃度を適切にするための牛角糞の適切な重さは話されていません。 また、バケツ半分というのは、スイス式のバケツでしょうか、リットルバケツでしょうか。

■qa01-A06

▲シュタイナー博士 …… スイスバケツを使用しました。 スイスの搾乳用のバケツです。 こうした事柄は、実際に観て試したものです。 しかし今となっては、その分量を重量比にすべきでした。

■qa01-Q07

雌牛の角は、同じものを繰り返して使えますか。 それとも、常に屠殺されたばかりの牛の角でなくてはならないでしょうか。

■qa01-A07

▲シュタイナー博士 …… それはまだ試していませんが、この点について知りうることから考えて、3回から4回までは繰り返し使えるでしょう。ただ、それ以上になるとふさわしくなくなります。 状況によっては、3、4年使った雌牛の角を牛舎内で保存すれば、さらにもう1年使えるかもしれません。 一つの農場で雌牛の角がどれくらい手に入り、また、どれくらい節約する必要があるかは、私にはわかりません。 今の私には結論の出せない問いです。

■qa01-Q08

雌牛の角はどこから手に入れたらよいでしょうか。 東ヨーロッパか中部ヨーロッパか、どちらがよいのでしょうか。

■qa01-A08

▲シュタイナー博士 …… 雌牛の角の産地は問いません。 しかし皮剥場のものは適さず、できるだけ新鮮なものでなくてはなりません。 ところで、矛盾に思えるかもしれませんが、奇妙なことに、西半球と東半球では生命や営みが違います。 アフリカ、アジア、ヨーロッパにおける生命と、アメリカにおける生命では何か違うのです。 ですから、状況によってはアメリカの牛の角では、効果を上げるために方法を変えなくてはいけないかもしれません。 そうした角では、糞を少し濃縮し、圧縮し、叩き固める必要があるかもしれません。 雌牛の角をその地方から手に入れるのが最良です。 角内の諸力と、その地方のそれ以外の諸力とには非常に強い類縁関係があり、他の地方の角内の諸力は、その地方の諸力とぶつかり合ってしまう可能性があります。 角を提供する雌牛が必ずしもその地方産ではない場合も多いことを考慮する必要があります。 しかし雌牛は、ある地方の牧草を3、4年食べ続け、そこで生きますと、それが西半球の牛でなくても、その土地に属するようになることを考慮すれば、これは問題ではなくなります。

■qa01-Q09

何歳くらいの雌牛なら角を取ってもよいのでしょうか。 年を取ったものと若いもののどちらがよいでしょうか。

■qa01-A09

▲シュタイナー博士 …… こうしたことはしっかり実験してみなくてはなりませんが、事の本質から言えば、中期の雌牛(老いていない成牛)の角が最良だと思います。

■qa01-Q10

角の大きさはどれくらいがよいでしょうか。

■qa01-A10

▲シュタイナー博士 …… (黒板に角の大きさを描いてみせた。30~40cmであった(図参照)。 一般的なアルゴイ産の平均的な雌牛の角の長きである)。

■qa01-Q11

去勢雄牛、雄牛、雌牛のどれから角を取るかは、本質的な問題ではないのでしょうか。

■qa01-A11

▲シュタイナー博士 …… ほぼ間違いないはずですが、去勢雄牛の角にはまったく効力がないでしょうし、雄牛の角では、効果はかなり弱いでしょう。 ですから私は、常に雌牛の角と言っていますし、雌牛は雌です。 雌牛の意味です。

■qa01-Q12

パンの原料となる穀類の種を蒔く一番よい時期はいつでしょうか。

■qa01-A12

▲シュタイナー博士 …… この講座で種蒔きを取り上げるときに、答がわかります。 種蒔きは当然ながら非常に重要で、冬の3か月に近い時期か、やや離れているかは大きな違いです。 種蒔きの時期が、冬に近い場合には再生産能力が強まり、冬から離れた場合では穀物の栄養的な要素が強く作用します。

■qa01-Q13

牛角糞は砂と混ぜて散布してもよいでしょうか。 その場合、雨には意味があるでしょうか。

■qa01-A13

▲シュタイナー博士 …… 砂に関する回答としては、問題ありません。 それはまだ試していません。 何の問題もありません。 しかし雨の作用については、もう一度、試してみなくてはなりません。 雨が降っても何の変化ももたらさないと仮定できそうですし、もしかしたら効力を安定させるように作用するかもしれません。 また逆に、諸力の強すぎる凝縮が問題になり、雨の雫が落ちるわずかな衝撃で多くが流されてしまうことも考えられます。 実際に非常に繊細な作用ですので、あらゆることを考慮しなくてはなりません。 ただ、牛角糞に砂を混ぜて散布するのは問題はないでしょう。

■qa01-Q14

牛角や牛角糞の保存のあたって、有害な影響はどう防いだらよいでしょうか。

■qa01-A14

▲シュタイナー博士 …… 一般論で言えば、いわゆる有害な影響を避けようとすると、放置するかえってより悪い影響が生じます。 最近では、いたるところで消毒作業を見かけるのではないでしょうか。 これに関しては、あらゆる領域で疑いなく行き過ぎています。 私たちの医薬品では次のようなことがありました。 カビを完全に排除しようとしますと、本来の治癒力を減退させる方法を用いざるをえなかったのです。 カビや虫に対抗するものを、私はまったく尊重していません。 虫やカビなどはそれほど有害ではないのです。 消毒にいろいろ力を注ぐよりは、一番よいのは放置しておくことです。 角の中に土が混入しないように、角に豚の膀胱をかぶせました。 特別な方法で角そのものをきれいにするのは、特に勧められることではありません。 《汚れ》とは必ずしも汚れではないことは承知していなくてはなりません。 たとえば顔を金箔で化粧したとしますと、それは汚れですが、金は汚れではありません。 つまり汚れは必ずしも常に汚れではないのです。 場合によっては、汚れがまさに保存的に作用することもあります。

■qa01-Q15

種子をできるだけカオスにもたらすに当たって、何らかの手段でそれを助けた方がよいのでしょうか。

■qa01-A15

▲シュタイナー博士 …… 補助することはできますが、その必要はありません。 種子形成が始まりますと、それですでに最高度のカオス形成が始まっています。 そこでは何の補助も必要ありません。 補助が必要なのは、まさに施肥です。 しかし種子形成では……受精した種子が存在するときには、必ず完全なカオス状態になっています……、それを補助する必要はないと思います。 もちろん、土壌を通常よりケイ酸的にすることで、それを実現できます。 ケイ酸を介して作用しているのは、地中に取り込まれた宇宙的なものだからです。 そうすることはできますが、どうしてもやる必要はないと思います。

■qa01-Q16

実験圃場の広さはどれくらいでしょうか。 また、次世代の植物形成まで保持されるべき宇宙的な諸力に対して何かしておくことはないでしょうか。

■qa01-A16

▲シュタイナー博士 …… それについては次のような実験ができるでしょう。 こうした事柄では、基本原則を示すのは比較的容易ですが、状況に応じて適切な面積を見つけるには試す必要があります。 この問題には非常に容易に答えられます。 隣同士の畝に一方はコムギ、もう一方は牧草のイガマメを植えます。 それ自身が容易に種子形成に向かう傾向を持つ植物、たとえばコムギでは、ケイ酸による種子形成の阻害が見られるはずです。 それに対し、種子形成が本来は完全に抑えられているイガマメでは、ケイ酸を加えることによって、ゆっくりではあっても種子形成が生じるのがわかるでしょう。 こうした事柄を研究する場合には、いつでも比較の方法を取ることができます。 つまり、諸性質を穀類のコムギとマメ科のイガマメで比較しますと、種子形成について非常に興味深い実験ができます。

■qa01-Q17

薄めた牛角糞プレパラートの散布時期は、いつでもよいのでしょうか。

■qa01-A17

▲シュタイナー博士 …… 牛角を地中から掘り出した後、その効力が衰えさせたくないなら、散布時期は重要です。 しかし原則的には、必要になるまで牛角を地中に埋めておくことができます。 地中に入れておけば、越すべき一冬を越し、さらに夏にしばらく地中にあっても悪くはなりません。(ただし日本では土壌中の生物が活発なため、春以降も地中に牛角を埋めておくことは勧められない……イザラ書房版訳者)。 別な場所に保管する必要がある場合は、木箱を作り、内側に乾燥ピートを敷き詰め、あらゆる面が乾燥ピートで覆われるようにします。 その内側に牛角を入れ、非常に強い濃縮度を保ちます。 それに対し、水で薄めたものの保存はまったく勧められません。 長く置いてから散布することにならないように、時期を選んで撹拌を準備すべきでしょう。

■qa01-Q18

冬穀物に散布する場合、牛角を地中から堀り出してから9カ月後に使用することになりますが、支障はないでしょうか。

■qa01-A18

▲シュタイナー博士 …… 散布時期は問題ではなく、散布時まで牛角を地中で保存すると一番よいのです。 初秋に散布したいなら、その時点まで地中に埋めておきます。 それで牛糞が悪くなることはありません。

■qa01-Q19

目の細かい噴霧器を使った場合、液体は飛沫に細かく分断されますから、それによってエーテルやアストラルの力が失われることはないでしょうか。

■qa01-A19

▲シュタイナー博士 …… それは絶対にありません。 エーテルやアストラルはしっかりと結びついています。 初めから追い出しさえしなければ、霊的なものは物質的なものよりも逃げ去る心配はありません。

■qa01-Q20

牛角に鉱物性成分(石英粉末)を詰めて夏を越させたもの(501番プレパラート)は、どう扱ったらよいのでしょうか。

■qa01-A20

▲シュタイナー博士 …… これは堀り出してどこかに保存しても、何の問題もありません。 どこかに放り出して山にしておくことができます。 この素材は、夏を越してもまったく劣化しません。 太陽に晒しても問題ありません。 その方がよいかもしれません。 (ビンに入れて保存されることが多い……イザラ書房版訳者注)。

■qa01-Q21

後で散布しようとしている圃場に牛角を埋めるべきでしょうか、それとも別な場所にいくつかの牛角をまとめ、並べて埋めてもよいでしょうか。

■qa01-A21

▲シュタイナー博士 …… どちらでも大差ありませんので、気にする必要はありません。 実際的には、鉱物性が強すぎず、いくぶん腐植を含んだ土壌の良好な場所を探し、必要になる牛角を一カ所にまとめて埋めるとよいでしょう。

■qa01-Q22

農場での機械の使用は、どうなでしょうか。 機械は使うべきではないと言われているのでしょうか。

■qa01-A22

▲シュタイナー博士 …… これは農業分野から答えられる問題ではありません。 現代生活では、機械使用の可否を問うとしたら、それは明らかに時代錯誤です。 今日では機械を使わずに農業経営はできません。 牛角糞の撹拌は自然的過程と非常に類縁なので手で行ないますが、すべての過程がそうしたものではありません。 牛角糞の撹拌といった自然と密接な過程には機械を近づけるべきではありませんでしたが、他の該当する諸要素でもそれと同様で、機械化を避けるべき部分については、自然自体が機械ではうまくいかないように配慮しています。 種子形成では機械はほとんど無力ですし、それは自然自身の配慮です。 この質問は、特にアクチュアルだとは思いません。 つまり現代では、機械なしで仕事をやり切ることはできません。 ただ注意しておきたいのは、農業では機械化に血眼となる必要はない点です。 誰かがそうした機械改良に熱中し、新しい機械で何かが改良できても、古い機械を使い倒す方が、かえって農業的な成果は上がるでしょう。 ただこれは、厳密な意味では農業の枠外の事柄です。

■qa01-Q23

規定量に溶解した牛角糞プレパラートを、半分の広さの畑に散布することはできますか。

■qa01-A23

▲シュタイナー博士 …… そうしますと、前に述べたように、果実(地上部)が肥大します。 たとえば、ジャガイモ畑かそれに類する何かに牛角糞をそのように使いますと、果実が肥大化し、茎が繁茂し、収穫したい部分が育ちません。 肥え過ぎた畑と呼ばれるものになってしまいます。 肥え過ぎた畑になってしまった理由は、牛角糞を多く使い過ぎたからです。

■qa01-Q24

飼料作物やホウレンソウなどを繁茂させたい場合ではどうでしょうか。

■qa01-A24

▲シュタイナー博士 …… そうした場合でも、ドルナッハで私たちが主に野菜畑でそうしてきたように、バケツ半分の水に牛角1本がよいでしょう。 より広い畑での耕作では、さらに少量ですみます。 それが最適量です。

■qa01-Q25

使用する糞は、牛糞、馬糞、羊の糞など何でもいいのでしょうか。

■qa01-A25

▲シュタイナー博士 …… 間違いなく雌牛の糞が最上です。 しかし馬糞を使いうるかは、今後、研究してみなくてはなりません。 もし馬糞をこうしたやり方で加工する場合には、馬には角がなく、作用を及ぼすものがたてがみの中にありますので、牛角を馬のたてがみの毛で巻くことが重要になります。

■qa01-Q26

その散布は、播種の前と後のどちらに行なうべきでしょうか。

■qa01-A26

▲シュタイナー博士 …… 種子を蒔く前に行なう方が正しいです。 結果がどうなるのかはじきにわかります。 今年は仕事に取りかかるのが少し遅れ、いくらかの部分は播種後に行なわれます。 ですから、散布の遅れによって障害が起きるかがわかります。
当然ながら、大地に作用を及ぼすように、散布は播種の前に行います。

■qa01-Q27

牛糞を詰めた牛角を、石英粉など鉱物質を詰めるのに使えるでしょうか。

■qa01-A27

▲シュタイナー博士 …… 使うことはできますが、しかし3、4回以上は使用できません。 3、4回、使いますと、力は失なわれます。

■qa01-Q28

仕事をする人間の人物は問題になるのでしょうか。誰でもよいのでしょうか、それともアントロポゾーフがすべきでしょうか。

■qa01-A28

▲シュタイナー博士 …… これは当然、問いです。 今日ではこうした質問をすると嘲笑されるでしょう。 窓辺で花を素晴らしく育てる人が居ることを思い出してみてください。 ところが別な人の所ではちっとも咲かずに枯れてしまいます。 こうしたことは、実際にあります。 これらはすべて、外的には説明できませんが、内的に見れば人間自身からの影響で起きていることが非常によく見通せます。 瞑想を行い、瞑想の営みによって自らを準備している人ではこうしたことが起きます。 これについては、昨日お話ししました。 イマジネーションを内に含む窒素に対し、瞑想する人はまったく違った営みをしているのです。 これによって人は自らをある状況に置き、その状況ではすべてが作用を持つのです。 そして、植物成長全体に対して、自らをそうした状況に置くのです。 ただし、こうした事柄が認知されていた時代に比べれば、今日では事情はそれほど明確ではありません。 特定の準備によって、自分自身を植物成長の手入れにふさわしい状態にできることが実際に知られていた時代もあったのです。 こうした事柄が無視されている今日、これらに注意を払わない人々と絶えず交流していますと、他の人々もそれに染まり、こうした繊細な作用が失われていきます。 それゆえ、こうしたことを持ち出すと、たちまち否定されます。 こうした事柄は、今日の生活環境にあっては容易に否定されますので、それを公衆の面前で語ることに私は抵抗を感じます。 以前、ボック家のサロンでの話し合いで、友人のシュテーゲマン氏が非常に挑発的な質問をしました。 つまり、精神集中といった方法で、害虫に対抗することができるかというのです。 正しい方法で精神集中をすれば、これは可能です。 特に、大地に最も濃縮されている諸力を大地が展開する一月半ばから二月半ばにかけての時期に、いわば祝祭を設け、そうした精神集中を行なったとしますと、効果が現われるでしょう。 これは言わば非常に挑発的な質問ですが、肯定的に答えることができます。 ただこれは、自然全体との調和において行なわなくてはなりません。 ですからそうした精神集中を真冬に行なうか、真夏に行なうかでは、意味がまったく異なる点も知っていなくてはなりません。 民族伝承の中にも、現代人に重要な視点を与えてくれるものが多くあります。
昨日、お話しできればよかったのですが、私が非常に若い頃に構想し、この地上生の間に私が行なうべきことで、まだ達成できていないものの一つに、いわゆる農民哲学の執筆があります。 農民がかかわってきたあらゆる事柄における農民の概念的営みを書き記そうとしたのです。 それができていれば非常に素晴らしい何かが生まれえたでしょうし、「農民は馬鹿」だという伯爵の主張も覆せたでしょう。 繊細な叡智が描き出されたはずですし、その語り口がすでに、自然の営みとの親密さついて壮大に論じた哲学になっていたことでしょう。 自然の営みに対する農民の知識には本当に驚嘆します。 そうした農民哲学を書くことは、今日もはや不可能です。 今日では、そうした事柄はほぼ完全に失われてしまいました。 現在の状況は40年、50年前とは同じではありません。 農民哲学は非常に意味深く、当時は大学よりも多くのことを農民から学ぶことができました。 今とはまったく違う時代で、人は田舎で農民と共に暮らしていました。 現在、社会主義運動を指導している人たちはつば広のフェルト帽を被っていますが、当時、そんな人が来るなど希でした。 今日、世界は変わり果てました。 この40、50年の間に世界がどれほど変化したか、ご出席の若い方々には想像もできないでしょう。 民間伝承として口伝で存在していた美しきもの、その非常に多くが今日では失われています。 そしてそれ以上に、一種の文化哲学である本来の農民哲学では、さらに多くのものが失われています。 当時の農事暦には、今日では失われてしまった事柄が多く書かれていました。 そうした農事暦は外観も違っていて、心地よいものでした。 私はそうした農事暦を覚えています。 紙質は悪かったのですが、惑星記号が色刷りされ、表紙には微小な砂糖粒がついていました。 その本を手に取るとまずその小さな砂糖粒と向い合い、本をめくるときにそれを舐めることができました。 このように、味のあることをしていたのです。 人々はこれを代々使ってきました。

■qa01-Q29

かなり広い面積に牛角糞プレパラートを撒く場合、使う角の数は勘で決めてよいでしょうか。

■qa01-A29

▲シュタイナー博士 …… それはお勧めできません。 そうした場合には、しっかりと理性的にやる必要があると思います。 まず勘ですべてを試しに行ってみて良好な結果を得たらそれを数値化して確かなものにし、最終的には誰もが使える表が出来上がるようにすることをお勧めします。 勘でそうしたことを行なえる人は、そうすべきでしょう。 しかし他人には、表にはあまり重きを置いていないという態度を見せるべきではなく、計算できる数字と表を渡すべきです。 すべてを計算可能な数や量に置き換えた方がよいでしょう。 今日では、これは現実に必要なのです。 事柄を実行するに当たって、私たちが必要とするのは雌牛の角であって雄牛の角ではありません。 こうした事柄は、まさに反論を呼びやすいのです。 ですから、妥協できるところでは妥協し、外部の判断にも配慮するよう忠告しておきたいと思います。

■qa01-Q30

現在規定されているパーセンテージで堆肥に生石灰を加えてよいのでしょうか。

■qa01-A30

▲シュタイナー博士 …… 古くから行なわれているということは、有効であることを示しています。 ただし個々の場合には、沼地か砂地かで考慮しなくてはなりません。 砂地では生石灰は少なくてよく、沼地では酸が形成されますから、生石灰の必要量はやや多目です。

■qa01-Q31

堆肥の切り返しはどうでしょうか。

■qa01-A31

▲シュタイナー博士 …… 堆肥にとってそれは悪くありません。 当然ですが、堆肥の山を切り返したら、外側をできるだけ土で覆い、堆肥の山を保護することが重要です。 切り返したらその上を土で覆います。 そのためには泥炭土、乾燥ピートが特に有効です。

■qa01-Q32

過渡期の農場で使用しうるカリウムはどのカリウムでしょうか。

■qa01-A32

▲シュタイナー博士 …… カリ・マグネシア(苦土カリウム)です。

■qa01-Q33

角に詰めた後に残った牛糞はどのように使用するのが一番よいでしょうか。 冬を一通り過ごさせるために、秋に畑に撒くのがよいか、それとも春までそのままにしておくのがよいでしょうか。

■qa01-A33

▲シュタイナー博士 …… 牛角糞プレパラートの散布が、施肥全体の代用になるのではない点は、しっかりと自覚していてください。当然、通常の施肥は続けます。 この新しい施肥は、従来の施肥による効力を本質的に高めるための特殊施肥法なのです。 牛角糞プレパラートを施肥する場合でも、従来の施肥はそのまま続けます。




































































































































『農業講座』第5講、コーベルヴィッツ、1924年6月13日

肥料の正しい素材化


■05-01:生命領域に留まって肥料を改善する

昨日は雌牛の鞘角を用いた肥料の改良を取り上げましたが、これはもちろん施肥そのものの改良を意図しています。 もちろん施肥は行ない続けます。そして、今日お話するのは、そうした施肥にどのように向き合ったらよいかです。ただしそこでは、命あるものは命あるものの範囲内で保たれるはずであるという見解を持たなくてはなりません。

■05-02:近代では生命の洞察が失われた

成長という領域においては、エーテル的生命的なものが本来、決して失われてはならないことを見てきました。 それゆえ、次の認識を重視しました。 つまり土壌とは植物がそこから生育し、その根を取り巻くものですが、その土壌とは成長力が地中に連続的に入り込んだものであり、地中における植物的生命的なものそのものであり、ある種の生命を持つものであるという認識でした。 昨日はそれだけでなく次のことにも触れました。つまり、盛り土に腐植を加えて生命性を持たせたものと、樹皮やコルク状のものに取り巻かれた樹木とを連続的な変化として考えることができる点です。 近代においては自然の大きな関連についてあらゆる洞察が失われましたし、また失わなれる必要がありました。 ですから、このような時代にあっては、生命の連鎖についての次のような洞察が失われたのも当然です。 つまり、大地と植物成長は生命を共有していて、その生命が生物の排泄物の連続し、それが肥料として私たちの目の前にあり、さらにはこれらを包括する生命の諸力が作用する様子などが洞察されなくなったのです。 近代においては、こうした洞察はますます失われざるをえなかったのです。

■05-03:略奪農業にならざるをえない部分を補う

昨日の質疑応答で述べましたように、霊学は、ある種の狂信から、さまざまな生活分野における最新の成果に、馬鹿騒ぎ的革命的なもののように首を突っ込んだりはしません。 そうではなく、何が成し遂げられたかを完全に認識しようとしています。 ただ、こう表現してよろしければ、闘うべき相手は、完全に誤った前提に立っていいるもの、そして現代の物質主義的世界観に関連するものだけです。 そして、活き活きとした世界観を源とし、生活のさまざまな領域に流れ出てくるもので物質主義を補わなくていけないのです。 ですから、牛糞厩肥、液肥(尿)、堆肥からどのように肥料を作るかは、ここでは特には触れません。 こうした視点での肥料や液肥の作り方に関しては、すでに多種多様なことがあります。 この方面の事柄については、本日の午後に予定されている質疑応答で討議されるかもしれません。 さてここで私は次の見解が正しいことを前提にお話したいと思います。 つまり、農業とは本来、略奪農業にならざるをえないのです。 農場では生産物を世の中に送り出しますから、これによって、大地、さらには大気からも諸力を取り去っています。このように略奪農業にならざるをえないのです。 そして、これらの奪われた諸力は補われなくてはなりませんから、痩せてしまった大地を正しく活性化するために必要なもの含む肥料によって相応に対処しなくてはなりません。 ところが最近では、物質主義的世界観がしばしば判断を誤らせています。

■05-04:微生物で肥料は改良できない

第一点は、バクテリアや微生物がどのような作用を及ぼすかを丁寧に研究している点です。 そして、この微生物こそが肥料の成分構成を適正にする主体であると考えています。 肥料内でのバクテリアの振る舞いを見て、それを行なっていると見なしています。 これと関連して人は、実に才知にあふれ、非常に論理的に、しかしほとんどの場合で持続せず、有効でもないこと、つまり大地へのバクテリア接種実験を行なっています。 この考え方の基礎は、ある部屋にたくさんのハエがいるので、「ハエがこんなにいるから、部屋が汚いのだ」と言うのと同じです。 しかし、ハエがたくさんいるから部屋が汚いのではなく、部屋が汚いからハエがたくさんいるのです。 ですから、ハエは汚れを食べるはずだと考えてハエを増やしたい、あるいは別な理由で減らしたいと思い、いろいろと理論的に考えても部屋は決してきれいにはなりません。 この方法では大した成果はあがりません。それよりも即座に汚れと闘う方が成果が上がります。

■05-05:肥料微生物は一つの指標

動物の排世物を肥料に用いる場合、微生物は肥料物質中で何らかの過程が生じると現われます。つまり肥料物質が特定の状態にあるかを知るための非常に有用な指標を提供してくれるのです。 しかし、微生物の移植、培養、根絶には大きな意味はありません。 農業において重要な生命というものを巨視的に捉え、微生物であっても微視的な観方はできるだけ避ける方がよいのです。

■05-06:反論に留まらず対案を提示すること

しかし、事をどのように行なうかの適切な道筋を示せない場合には、当然ながらこうした主張はすべきではありません。 確かに私が言ったことは、すでに多方面で強く言われています。しかし、正しいことを知っているだけでは十分ではないのです。 ある間違いを否定することが正当であっても、肯定的な対案を出せないなら、その正しい見解からは何も生じないからです。 つまり、積極的な提案ができない場合、否定ばかりしても怒りを買うだけですので、控えるべきなのです。

■05-07:物質主義的無機肥料は《水》までにしか作用しない

二つ目は、物質主義的ニュアンスの観方に後押しされ、近年では肥料を無機化合物や元素で作ろうとばかりしている点です。 しかしその効果が一過性であることは、経験的に知られています。 次の点をしっかっり認識している必要があります。 つまり、鉱物化の方向で肥料の質を高めようとしても、液体的なもの、《水》にしか作用しませんが、植物の耕作をより高めるためには水の有機化、水の活性化だけでは不十分なのです。 土を通過し漏れてしまう水ではそれ以上に活性化は生じないからです。

■05-08:霊学では《地》を生命化する肥料を作る

大地を直接に活き活きさせなくてはなりません。しかしそれは、無機的なやり方では実現できず、生命的なものを用い、それを《地》に適った状態にし、固体である《地》それ自体を生命的で活き活きとさせるように作用できるようにしなくてはなりません。 肥料や液肥という物体に活性化の刺激を与えること、それこそが農業に伝えるべき霊学の課題です。このやり方を適用しますと、どのような肥料的物体に対しても、生命の領域に留まりながらそうした刺激を与えることができます。 いかなる領域においても霊学は、生命あるものの偉大な作用を見ようとし、細部を見ることや、細かいことや顕微鏡的なことから引き出された結論には目もくれません。なぜなら、それらには大した意味がないからです。 自然作用の大きなつながりというマクロコスモスの観察、これこそが霊学の役割なのです。 そのためには、当然、この自然作用の内部を見る必要があります。

■05-09:元素主義的肥料観(リービッヒ?)

さて、現代の農業文献でさまざまな形で目にする学説があります。……そしてこの学説は、経験則と思われています……。 「植物が生育する土壌では、窒素、リン、カリウム、塩素、さらには鉄が重要である。 さらにケイ酸、鉛、ヒ素、水銀、ナトリウムは植物成長を刺激する程度のものである。 これらは植物に刺激を与える」と言っています。

■05-10:元素的に考えても肥料は改善できない

このような学説を述べること自体、当人たちが暗中模索であることを示しています。 ただ人は、この学説にしたがって愚かなやり方で植物を扱ってはおらず、何らかの古い伝統にしたがっていることは救いです。 この学説に沿ってやることはできないのです。 それはなぜでしょうか。

■05-11:宇宙的関連からみた諸元素の振る舞い

現実の状況としては、ケイ酸、鉛、水銀、ヒ素は、人間がそれに対する配慮を欠いても偉大な自然は人間を見放しませんが、カリウム、石灰、リン酸では人間がきちんと配慮しませんと見放されてしまいます。 ケイ酸、鉛、水銀、ヒ素は天空が与えてくれます。天空は雨と共にそれらを自発的に与えてくれるのです。 しかし、リン酸、カリウム、石灰を大地に正しく保持させるには、大地に正しく施肥することで働きかけなくてはなりません。 これらは、天空が自発的に与えてはくれません。 そうでなくても、農業を続けるうちには大地は痩せうるのです。 私たちは大地を絶えず貧しくしています。 それゆえ、施肥が必要なのです。 多くの農場では実際にそのようになっていますが、しだいに肥料で十分に補完できなくなっている可能性があります。 すると略奪農業になります。 それで大地を絶えず貧しくしているのです。

■05-12:刺激作用が最重要

本来の自然プロセスが完全にきちんと完結できるように配慮しなくてはなりません。 つまり、いわゆる刺激作用が最も重要です。 不要と見なされている物質の中にも、微細な希釈度で地球全体を取り巻きつつ作用しているものがありますし、大地から得るものと同様に植物はそれらを必要としています。 ただ植物はそうした物質を、宇宙的広がりから吸い取っています。 水銀、ヒ素、ケイ酸は、まず土壌中に放射され、植物はそれを土壌中から吸収します。

■05-13:無計画な施肥が植物への微細な働きを妨げる

宇宙空間から植物が必要とするものが土壌へと放射されますが、それを妨げるようなことを私たちは土壌にしている可能性があります。 無計画な施肥を続けることで、大地の邪魔をしている可能性があるのです。 つまり、ケイ酸、鉛、水銀が非常に微細なホメオパシー的希釈度において発揮する効力を妨げ、宇宙空間からやって来る植物に取り込まるべきものを妨げ、炭素による植物の形態形成を助ける宇宙空間からの微細な希釈度のものを妨げ、植物が必要とし実際絶えず大地から得ているものを妨げている可能性があるのです。

■05-14:肥料に生きた力を付与する

ですから、昨日の私が話した方策だけでなく、さらなるやり方で肥料を正しく整える必要があります。 そしてここで重要なのは、植物成長を促すために必要と思われる物質を肥料に加えることではなく、肥料に生きた力を付与することです。 植物にとっては、単なる物質的な力よりも生きた力の方がずっと重要だからです。 何らかの物質を豊富に含む土壌を着々と作り上げても、植物がそれを取り込めなかったら植物成長には何の役にも立ちません。 ですから、土壌が含んでいる諸作用を植物が取り込めるように、その能力を施肥によって植物に与えるのです。 その点が問題なのです。

■05-15:リリ・コリスコによる微量要素の研究成果

生命に関係することでは、非常に微量なもので莫大な効果を上げることができますが、このことは今日、まったく知られていません。 しかしリリ・コリスコ博士による極微量な実質の作用に関する研究によって、それまでホメオパティーにおいて暗中模索であった事柄が、輝かしいばかりの仕方で学問的に基礎づけられました。 そして、微量実質や微量なものの中には生命界で使われうる放射的な諸力が含まれていて、その方射的な諸力がその研究以来、極微量のものを適切に扱うことによって解放できるようになりました。

■05-16:極微量のものを肥料に用いる

さて肥料においては、こうした極微量のものをそれほど難しくなく適用できます。 私たちは次のようなことを見てきました。 つまり、施肥の前後いずれかに牛角糞プレパラートによってしっかりと手を加えますと、それによって施肥に力として付加されるべきものを付加することになります。そうして私たちは、この微量的ではない方の施肥を、正しい方法で本来の場にもたらし、その働きを助けるのです。 しかしまだ、さまざまな方法を試みる必要があります。 それは、真の命を肥料に与えるためであり、窒素等々の物質の必要量を肥料自身が取り込むようにする安定性を肥料に与えるためであり、大地に相応の生命性を付け加えられる命への指向性を肥料に与えるためであるのです。 今日はその方向性で、牛角糞だけでなく、極微量で肥料に命を与えるものについてお話しします。 つまり、肥料に命を与え、今度はその与えらえた命が、植物成長の母体である大地の生命性へと移行できるようにするのです。

■05-17:プレパラートに使う材料の一つは代用不可

これに関連していくつかの品目を挙げますが、それらが手に入りにくい地域でも、その多くが他のもので代用可能であることを強調しておきます。 ただ一例だけ、同じ働きの代用植物が見つからないものがあります。

■05-18:カリウム成分を有効に作用させる

私が紹介した内容にしたがえば、外界に由来する生体内の炭素、酸素、窒素、水素、イオウといった物質は他の元素、つまりカリウムと結びついていることがわかります。 植物が成長のために必要とするカリウム塩の量については少しはわかっていて、カリウムないしカリウム塩は多くの場合、植物の骨組みや固めで茎的な部分で植物成長に影響し、カリウム成分が多いと成長が抑制されます。 そしてここで問題になるのは、土壌と植物の間で生じることの範囲に留まりつつ、カリウム成分を次のように加工することです。つまり、本来の植物体である植物のタンパク質成分に対し、カリウム成分が有機的プロセスにおいて正しく振る舞えるようにしてやるのです。 そのためには次のようにすればよいでしょう。

■05-19:ノコギリソウの超感覚的特徴

これには、ヨーロッパでは一般的に見られるノコギリソウを用います。 これが手に入らない地方では、乾燥物でもまったく同様に使えます。 ノコギリソウは、……本来すべての植物がそうなのですが……、奇跡の産物です。それでも、他の花を見て、再びノコギリソウを見返しますと、ノコギリソウが非常に特別な奇跡の産物であることが感じ取られます。 以前にも話しましたが、ノコギリソウの内には、霊性が指先を使って炭素や窒素などさまざまなものを生体内の相応の場所に向けて分配する何かがあります。 ノコギリソウの自然界での位置を見ますと、何らかの植物創造主がノコギリソウでお手本を作ったかのようです。つまり、正しいやり方でイオウを他の植物成分に対して正しい関係に導くお手本です。 ノコギリソウはイオウを完璧に使いこなしていて、自然聖霊たちですら他の植物ではこの域に到達させることができないとすら言えるでしょう。 ノコギリソウの動物や人間への薬効、つまりそれが生体内に正しく導き入れられれば、弱ったアストラル体の箇所をバランスを取りつつ良好にすることができることをご存じでしたら、植物成長という自然プロセス全体でのノコギリソウ的なものを辿ることができます。 道端や穀物やジャガイモの畑の縁にノコギリソウが自生しているだけで、非常によい効果があります。 ノコギリソウは駆除しない方がよいでしょう。 ノコギリソウは害になることはありませんが、邪魔にはなりえますから、もちろん邪魔な場所には生育しないようにした方がよいでしょう。 けれども、好感的な人の多くが、口数は少なくても、ただそこに居るだけでグループ内に何らかの作用を及ぼすように、ノコギリソウがたくさん生えているところでは、その存在自体が非常によい働きをしています。

■05-20:ノコギリソウ・プレパラートの作り方

さて、ノコギリソウを使って次のようにできます。 薬用にするときとまったく同様に、上方の傘形の散房花序を取ります。 生の植物の場合、できるだけ新鮮な状態で摘みとり、それを短時間だけ乾かします。 それほどしっかりと乾かす必要はありません。 もし生のノコギリソウが手に入らず乾燥したものしか手に入らない場合には、用いる前に乾燥した葉を煮出し、搾った液体を少量、花に注ぎます。 …… ご覧の通り、ここでも命の領域にとどまっていますが……、一握りから二握りのノコギリソウを取り、やや強く押しつぶし、これをシカの膀胱で包み、それを結び閉じます。 すると、シカの膀胱にかなり一杯になったノコギリソウの固まりができます。 このノコギリソウの塊を、夏の日差しができるだけ多く当たる場所に吊します。 秋になったらそれを降ろし、冬の間、地面のさほど深くないところに埋めます。 つまりシカの膀胱内のノコギリソウの花を……果実が付いたものでもかまいません……、一度は地面の上方、一度は地中の作用にさらします。 すると、これが冬の間に非常に独特の成分になったことがわかるでしょう。

■05-21:ノコギリソウ・プレパラートの肥料への作用

……こうなればノコギリソウを好きなだけ長い期間保存できます……。この膀胱から取り出したものを、家くらいの大きさのものでも構いませんが、堆肥の山に加え、その中に分散させます。ただし、そんなに丁寧に混ぜる必要はなく、分散させれば、それからの放射が作用します。 非常に強い放射の力を含んでいます。放射の力については、ラジウムなどについて語っている物質主義者も信じるでしょう。それを中に入れるだけで多量の厩肥、液肥(尿肥)、堆肥に作用します。

■05-22:ノコギリソウ・プレパラートの作用について

通常の肥料づくりにこのやり方を加えますと、このノコギリソウから得られた物質が作用し、肥料が実際に活き活き活性化され、通常なら略奪農業になってしまうものを改善することができます。 大地を活性化させる能力、遠い宇宙から地球にやって来るホメオパシー的希釈度のケイ酸、鉛などを取り込む能力を、肥料に取り戻させます。 これについては、農業サークルの会員が実験をしてみなくてはなりませんが、上手くいくことは間違いないでしょう。

■05-23:事柄の洞察が重要

洞察なしではなく、洞察を持って仕事にあたらなくてはいけませんから、次のような問いが生まれるでしょう。 ノコギリソウでは、ホメオパティー的希釈度のイオウがまさにお手本的にカリウムと結びついていて、ノコギリソウ自体から素晴らしい作用が生じ、大きな塊すらを越えて放射する能力を持ち、作用することはすでに知りました。 しかし、なぜ鹿の膀胱の中に詰めるのでしょうか。

■05-24:シカの膀胱について

これは、膀胱との関連で生起するプロセス全体の洞察と関係します。 シカは地球と関連する以上に、地球を取りまく宇宙的なものと密接に関連しています。 それゆえシカは枝角を持ちますし、その役割については昨日お話ししました。 さて、ノコギリソウの中のものは、人間や動物の生体内では、特に腎臓と膀胱の間で展開されるプロセスによって保存され、さらにこのプロセスは膀胱の物質的性質に左右されます。 シカの膀胱は物質としては薄くても(薄い膜でも)、諸力としては、内側と関係していたウシとはまったく違い、外のコスモス的諸力と関係していています。シカの膀胱はほとんど宇宙の写しです。 ノコギリソウには他の物質にイオウを結合させる諸力がありましたが、シカの膀胱はその諸力を根本的に高める可能性をノコギリソウに与えるのです。 ノコギリソウをここで述べたように加工しますと、死んだ領域には入らずに生きた領域にとどまりながら、肥料を根本的に改良できるのです。 この点が重要です。

■05-25:カルシウム作用を捉えるには

別な例を挙げましょう。 肥料に十分な生命を与え、その生命を肥料から大地に移行させ、その大地の生命によって植物を成長させる可能性を肥料に与えようとするなら、カリウム、カルシウム、石灰以外にも、植物成長に必須な諸物質を肥料に結びつけることが重要になってきます。 ノコギリソウは主にカリウム作用と関連するものを持ちます。 カルシウム作用も捉えようとする場合には別な植物を使います。 ノコギリソウほど感動的ではありませんが、ホメオパティー的希釈度でイオウを含み、そのイオウを起点として植物に必須な他の物質を引き寄せ、有機的プロセスに取り込む植物です。 それはカミツレ(Chamomilla officinalis)です。

■05-26:カミツレはカルシウム形成プロセスに関連

カミツレの特徴はカリウムやカルシウムをしっかり持つ点にあると簡単に言ってはいけません。 むしろこう言えます。ノコギリソウは、特にカリウム形成プロセスにおいて自身が持つイオウの力を展開させると。 ノコギリソウはカリウムを加工するためにまさに必要量のイオウを含んでいます。 しかしカミツレはそれに加えてカルシウムも加工し、植物から有害な結実作用を排除し、植物を健康に保つのに役立つのに役立つのです。 カミツレも若干のイオウを含んでいるのは素晴らしいことですが、カルシウムを加工する必要があるので、その量はノコギリソウとは違っています。 この点も研究の必要があります。 このように、霊学から出発するものは、常に大きな関連、言わばミクロコスモス的ではなくマクロコスモス的な関連に向かいます。

■05-27:カミツレはウシの腸に

さて、カミツレの摂取に伴う人間や動物の生体内でのプロセスを辿らなくてはなりません。 カミツレの摂取によって人体内や動物体内で生起する事柄に対し、膀胱はほとんど何の意味も持ちませんが、腸壁の物質はより重要な意味を持っています。 ですからノコギリソウと同様にカミツレを利用するには、カミツレの美しい白と黄色の花冠を摘み取り、ノコギリソウの傘状の花と同じように加工すればよいのですが、この場合には膀胱ではなくウシの腸に入れます。

■05-28:カミツレ・プレパラートの作り方

ここでも、素晴らしいもの、しかも大した手もかからず、素晴らしいものができます。 ここでは普通よく行なわれているソーセージ(腸詰め)を作る代わりに、カミツレから取った花をウシの腸に詰めます。 このような方法で、ここでも生きたものの範疇にとどまりながら、自然の作用を正しいやり方で作用させるだけで何かができあがるのです。 ここで重要なのは、このカミツレのソーセージをできるだけ《地》に近い生命的なものを作用させる点です。 そこで、この本当に貴重なソーセージを可能な限り腐植質の多い土のそれほど深くないところに埋め、一冬を越させます。その場所を選ぶに当たっては、雪が長く残り、その残雪を太陽がよく照らし、埋めたソーセージに宇宙的アストラル的作用ができるだけ多く及ぶところがよいでしょう。

■05-29:カミツレ・プレパラートは窒素を安定させる

春になってこのカミツレのソーセージを取り出し、ノコギリソウの場合と同じように保存し、堆肥に加えます。 するとこの肥料は、通常の肥料よりも窒素が安定していて、さらに大地を活性化し、植物成長をきわめて活発にすることがわかります。 この肥料を用いますと、用いない場合に比べ、より健康な植物を育成できます。

■05-30:普通ではないことも囚われなく見る

これらすべては、現在では正気の沙汰とは思われないはずですし、それは私も承知しています。 しかし、人々が正気の沙汰とは思わなかったものが、数年後には実現されることもあると考えてみてください。 スイスの新聞を読んでみるだけでよいでしょう。 登山鉄道の建設計画を見たとき、人びとは呆れ返りました。 しかしさほど時を経ずして登山鉄道は実現し、その考案者が愚か者と言われたことなどすぐに忘れられてしまいました。 重要なのは、先入観を排することです。 さて前にも述べましたように、これらの植物が身近に手に入りにくい場合には、他の植物でも代用は可能ですが、それよりはこれらの乾燥物を用います。

■05-31:イラクサは代用できない

肥料に良い作用を及ぼすこれら以外の植物で、代用できないものがあります。 人々は好きな植物は愛でますが、この植物は好みません。愛でたり、撫でたりしたがらないのです。 イラクサです。 イラクサは事実として、植物成長に対する最高の功労者で、他の植物で代用することはできません。 イラクサが手に入らない地域では、乾燥物で代用するしかありません。 しかしイラクサは実際に世界中のどこでも生育しますし、非常に大量にあるかもしれません。 いたるところで霊性を適正に導き加工するもの、前に述べたように重要な意味を持つもの、つまりイオウをイラクサも含んでいます。 イラクサの放射にはカリウムとカルシウムが含まれるほか、ある種の鉄放射もしています。 その有効性は、私たちの血液中の鉄放射とほぼ同等です。 イラクサは、野に生えますとしばしば嫌われますが、その善良性からすればそれはまったく不当です。 イラクサの持つ自然界での偉大な内的作用や内的機構は、人間生体における心臓の役割と似ていますので、もし人間に生えるとしたら、イラクサは心臓付近に生えるはずです。 イラクサは第一に素晴らしい働きをしてくれます。 伯爵、少しだけこの地方の状況にひきつけて話させてください。 つまり、土壌から鉄分を除去する必要がある場合に、邪魔にならない場所にイラクサを植えるのです。 するとこれは鉄を好み、鉄を自らに引き付けますので、特別なやり方で地面の表層部を鉄の作用から解放することができます。 鉄そのものが除去されるのではないにしても、植物への鉄作用は抑えられるのです。 ですからこの地方では、イラクサを植えることには特別な意味があるはずです。 これはちょっとした寄り道でした。 イラクサが生えているというだけで、その周辺の植物成長に意味があることに注目していただきたかったのです。

■05-32:イラクサ・プレパラートの作り方

さて肥料の改良のために、手に入るだけのイラクサを採り、それを少し萎れさせ、やや圧縮してまとめます。 今度はシカの膀胱やウシの腸は用いず、直接、土に埋めます。 その際、乾燥ピートなどで薄く巻き、イラクサが直接の《地》の領域に触れないようにします。 これをそのまま地中に埋めますが、これを掘り起こすときに土ばかりを掘り出さないように、場所をよく覚えておいてください。 これを冬、そして夏を越させますと……一年、埋めておく必要があります……、非常に強力な作用を持つ物質が得られます。

■05-33:イラクサ・プレパラートの肥料への作用

前に述べてきたのと同じやり方でこれを堆肥に加えますと、肥料の内的知覚能力が高まり、あたかも理性的になったかのように、不当な分解や、不当な窒素放出などを防ぎます。 イラクサから得た成分を付加すると、肥料を理性的にでき、さらにはそれが施肥される大地も理性的にするように働きかけ、そこで栽培しようとしている植物に対し、その個に応じた個別的な作用をするようになります。 Urtica dioicaの添加による作用とは、まさに大地の《徹底した理性化》なのです。

■05-34:現代の肥料は農産物の栄養力を劣化させている

今日の肥料改良法は、表面的には驚くべき効果をあげているように見えますが、素晴らししき農産物を、しだいに胃袋を満たすだけのものにしています。 それらはもはや真の栄養力を持たないでしょう。 大きくて見栄えの立派なもので人を騙すのではなく、真の栄養力を持つものが重要なのです。

■05-35:施肥による植物病の改善

さて、農業において発生する植物の病気も取り上げられます。 ここでは、一般論を述べようと思います。 今日ではあらゆる事柄を専門化し、個々の病気を個別に語ります。 学問的には、それぞれの病気の状態を知らなくてはいけませんし、このやり方は完全に正当です。 しかし医者としては、病態の正確な描写能力はあまり有用ではなく、重要なのは治療能力です。 病気の治療には、現行の病態描写とはまったく異なる観点が必要です。 今日の生理学や生理化学の法則に沿って生体内で起きていることを正確に知り、病気の特徴を完壁なまでに記述できるかもしれませんが、それでは病気は治せません。 組織学的観察や顕微鏡観察では治療はできず、治療のためには大きな関連から観なくてはなりません。 植物界でもこれとまったく同じことが言えます。 こうした観点からすれば、植物の性質は動物や人間より単純ですので、治療も単純で、いわばより一般的な経過をたどりますので、植物ではより包括的な治療薬をつかえます。 それができませんと、植物界で私たちは難しい立場に追い込まれるでしょう。 人間の治療ではこうした難しい立場にはなりませんが、動物の治療ではしばしば問題になります。……動物の治療については、後で述べます……。 人間は自分の苦しみを言葉で表現できます。 動物や植物はそれができません。 しかしそれゆえに、治療がより一般的に推移するのです。 すべてではないにしろ、大多数の植物病は、発見すれば、ただちに合理的な肥料で改善できます。 それは次のような方法で行ないます。

■05-36:生きたカルシウムによる植物病の改善

まず施肥を介して大地にカルシウムを与える必要があります。 しかしカルシウムを生きたもので覆って大地に投与しても役には立たず、治療的に作用させたいのなら、カルシウムを生きた領域にとどまらせなくてはなりません。 生命領域から落ちてしまってはいけません。 ですから、通常の石灰等は使えません。

■05-37:オークの生きたカルシウム

灰分の77%という多量のカルシウムを含み、しかも繊細な結合をしている植物があります。 オーク(ヨーロッパミズナラ)です。 特にオークの樹皮は、植物的なものと命ある《地》的なものの中間産物で、前に述べましたように、生きた《地》と樹皮の持つ類縁関係を典型的に示しています。 カルシウムとして自然界に現われるもののなかでは、オークの樹皮にあるカルシウム構造は最も理想的です。 これが私が述べてきた、死んだ領域ではなく、……死んだカルシウムはでも作用はしますが……、生きた状態に留まったカルシウムです。 エーテル体の作用が強すぎ、何らかの生きたものにアストラルが入り込めないときに、カルシウムは秩序をもたらします。 エーテル体を殺すか、抑えるかして、アストラル体の作用を解放します。 この作用はどの石灰にもあります。 膨れあがるエーテル性を収束させますが、その際に、有機体にショックを与えるような仕方ではなく真に規則性を保ちながら収束させようとするなら、オークの樹皮に見られるこの構造のカルシウムを用いなくてはなりません。

■05-38:オーク・プレパラートの作り方

容易に集められるくらいのオークの樹皮を集めます。 簡単に集められるくらいでよく、大量には必要ありません。 集めましたら、細かく砕き、パン屑のような感じにします。 次に、何らかの動物の頭蓋骨を用意しますが、どの家畜でも大差はありません。 この頭蓋骨に細かく砕いたオークの樹皮を詰め、できれば何らかの骨の塊で栓をしてそんなに深くない地中に埋め、上に乾燥ミズゴケを敷き、さらに樋などでできるだけ多くの雨水を導き入れるようにします。 また次のようにしてもいいでしょう。 雨水が流入流出できる桶を用意し、植物性の泥がいつでも保たれるように植物性の素材を入れます。 この植物性の泥の中に、砕いたオークの樹皮を詰めた頭蓋骨を置きます。 これで冬を越させます。雪解け水も雨水と同様に適切です。 可能であれば、秋と冬を越させる必要があります。

■05-39:オーク・プレパラートの肥料への作用

こうして得られたものを肥料に加えますと、有害な植物の病気と予防的に闘う力が肥料に与えられます。 これで肥料に四種類のものを加えました。 これらには当然何らかの労働を伴いますが、考えればすぐにわかるとおり、農学実験室で行なわれ、お金もかかるくだらない仕事よりもずっと軽微な仕事です。 ここで述べてきたものの方が国民経済からみてもより良いことがわかるでしょう。

■05-40:ケイ酸に作用するもの

さてここでさらに必要なのは、ケイ酸を正しい仕方で全宇宙から引きよせてくるものです。 ケイ酸は植物に不可欠だからです。 しかしまさにこのケイ酸を摂取する力存在を、大地は時の経過と共に失っています。 この力存在はゆっくりと失われますから、人はそれに気づきません。 マクロコスモス的なものは見ず、まさに顕微鏡的なものだけしか見ない人々は、植物成長にとってケイ酸は無意味だと思っていますから、ケイ酸の消失など気にしないのです。 しかし、ケイ酸は植物成長にとって最も重要です。 人は、こうした事柄は少しは知っていなくてはなりません。 現代の学者たちは、少し前まで見られた混乱は見せないでしょう。 なぜなら、何の当惑もなく元素の転換ということが言われているからです。 あらゆる元素を観察することで、この点では物質主義という猛獣が飼い馴らされているのです。

■05-41:生体プロセスにおける元素の転換

しかし、絶えず私たちの周りで生起しているある種の事柄は、まったく知られていません。 そうした事柄が少しでも知られれば、私が述べたような事柄もより容易に信じられるはずです。 現代的な思考法に毒された人が、「肥料の窒素分を増やす方法は何も言っていないではないか」と言うであろうことはよく承知しています。 ところがノコギリソウ、カミツレ、イラクサ等について語る中で、私はこの問いに答え続けていたのです。 なぜなら、有機的プロセスには隠された錬金術があり、たとえばカリウムが生体内で正しく作用しますと、窒素に置き換わりますし、石灰でさえ正しく作用すれば、本当に窒素に置き換わるのです。 ご存知のように、植物成長においてはすでに述べた四元素があり、イオウの他に水素もあります。 水素の重要性については述べました(第3講参照)。 石灰と水素の質的な相互関係は、空気中の酸素と窒素との質的関係と似ています。 外面的な化学定量分析でも、空気中の酸素と窒素との関係と、有機体プロセス内の石灰と水素との関係の二つが類似する点はわかります。 水素の影響下では、石灰とカリウムは窒素的なものに変化し、最終的には本当の窒素に変換します。 こうしたやり方で発生しうる窒素は、植物成長に非常に有用ですが、そのためには今述べた方法でそれを作り出す必要があります。

■05-42:ケイ酸と関係するタンポポ

ケイ酸はケイ素を含んでいます。 このケイ素も有機体内で非常に重要な物質、現在の化学ではまだ知られていない物質に転換しますし、ケイ酸は宇宙的なものを引き込むために必要です。 そして植物内では、ケイ酸とカリウム(カルシウムではありません)の間に正しい相互作用が生じなくてはなりません。 施肥によってこの正しい相互関係を作り出す方向でも大地を活性化する必要があります。 ここでまた、カリウムとケイ酸との関係に独特のつながりを持ち、肥料にホメオパティー的な希釈度で加えることで相応の力を与える能力を持つ植物を探し出す必要があります。 実際、そうした植物は見つかります。 この植物も、農場内のどこかに生えているというだけで効果があります。 タンポポ(Taraxacum)です。 黄無垢なタンポポは、その生えている地域にとって非常に大きな恩恵です。 宇宙にホメオパティー的希釈度で広がっているケイ酸と、その地域全体でケイ酸として必要とされるものを仲介するのがタンポポだからです。 タンポポは本当に天の使いの一人です。 しかし、肥料中で効果を発揮させるためには、タンポポを適切な形で使用しなくてはなりません。 そこで、当然ながらタンポポにも冬期の大地を作用させなくてはなりません。 つまりタンポポも他の植物と同様に加工することで周囲の宇宙的諸力を得るようにするのです。

■05-43:タンポポ・プレパラートの作り方

タンポポの黄色いボタンを集め、少し萎れさせ、押し固め、牛の腸間膜で縫い包み、一冬を地中で越させます。 春にこの玉を掘り出しますが、これは完全に宇宙的作用に浸されています。これはまた、必要な時まで保存できます。 こうして得られた物質を他と同様に堆肥に加えますと、この堆肥は植物が必要とするだけのケイ酸を大気中や宇宙から引き寄せる能力を大地に与えます。 こうして植物は、その周囲で作用しているものに対しる知覚能力を持ち、自分が必要とするものを引き付けます。

■05-44:ケイ酸は植物にある種の知覚能力を与える

植物が真に成長できるためには、ある種の知覚能力が必要だからです。 ぼんやりした子どもの前を私が通っても、その子はそれに気づかないでしょう。 それと同様に、地中でも地上でもぼんやりした植物のそばに何かがあってもその植物は気づかないでしょうし、それらを成長のために使うこともないでしょう。 しかし上述のやり方で植物が非常に繊細にケイ酸に満たされ、活性化されますと、あらゆるものに対し植物は知覚能力を持ち、自分に引き付けます。 植物を取り巻く非常に近い領域だけから必要なものを引き付けるようにするのはとても簡単です。 しかしそれは当然よくありません。 私が述べたやり方で土壌に手を加えますと、植物は広い範囲からいろいろな物を引き付けられるようになります。 圃場にあるものだけではなく、必要であれば隣接する草原の地中に含まれるものも、その植物に役立つかもしれません。 植物が内的に知覚能力を持ちますと、近隣の森の土壌にあるものもその植物に役立ちうるでしょう。 タンポポを用いてこうしたやり方で植物に力を与えると、自然の中にある相互作用を導き入れることができるのです。

■05-45:5つの肥料改良プレパラート

この五つの添加物あるいはその代用物を、今述べたように加えて肥料を作ってみるべきではないかと思っています。 未来の肥料とは、馬鹿げた化学的方法で作られる代わりに、ノコギリソウ、カミツレ、イラクサ、オークの樹皮、タンポポによって手を加えられるべきものです。 こうした肥料は、必要とされるものを実際に多く含みます。

■05-46:カノコソウの絞り汁

こうして準備した肥料を使用する前に、もう一手間をかけます。 カノコソウ(Valeriana officinalis)の花を摘み、その絞り汁を非常に薄く希釈します。これはいつでも作れますし、また保存もでき、必要なときにぬるま湯で薄めればよいでしょう。 この非常に薄いカノコソウの汁をごくわずか肥料に加えますと、肥料がリンと呼ばれる物質に対して正しく振る舞まえるように肥料を刺激することができます。 この六つの添加物によって、液肥、厩肥、堆肥のいずれでも、非常に優れた肥料を作ることができます。