2015年3月15日日曜日

川村記念美術館のレンブラント

■レンブラントを買うなんて

千葉県佐倉市にある川村記念美術館には「マーク・ロスコの部屋」という特筆すべき展示がありますが、他にも素晴らしい作品が展示されています。その一つが、このレンブラントです。まず、購入されたレンブラントの作品が日本に存在する、という事実が驚きです。19世紀の印象派の絵は売買されることもありますが、17世紀のレンブラントの作品が動くことはまずありません。上野の国立西洋美術館ですら所蔵しているのは、彼のエッチングだけなはずです。

■「つば広の帽子の男」(1635)レンブラント29歳の作品


この作品では、人物の優しくも力強い視線が非常に印象的です。この視線にこの人物の、聡明さ、誠実さ、温和さが現れているように見えます。そして、こうした印象は、画面の中で絵画的にレンブラントが創り出したものです。つまり、作品にふさわしい印象を作り出すために、色彩、明暗、構図、モチーフ等々に秩序を与えていきます。そうした点を少し詳しく見ていきましょう。

▲二つの光…レンブラントの手法(おそらく彼の創案)

レンブラントは多くの作品で二つの光の位置関係によって、絵画の中にドラマを作り出しています。この事実は、画集をめくっていただければ、どなたにも納得していただけるはずですが、典型的なのはミュンヘンに展示されているキリストの磔刑と復活に関連する5点の連作です。

  1. 処刑前のキリスト
  2. 死の直後のキリスト
  3. 埋葬されるキリスト
  4. 復活するキリスト(画面四時方向にぼんやりと描かれている)
  5. 昇天するキリス

処刑前では肉体そのものが輝いていますが、埋葬では復活を予感させる光が描かれ、復活では光の主体は身体ではなく、天使の側にあります。つまり、二つの光の関連性でドラマを演出しているのです。

▲「つば広の帽子の男」における二つの光

この絵の明るい部分は、人物の右頬から右肩の襟にかけて、並びに人物の背後にある壁の部分です。この明るい部分に着目しますと、背後から前方やや上への動きが感じられるはずです。そして、その動きがこの人物の視線の方向とおよそ一致することが分かるはずです。

▲つばの形

帽子のつばは画面右側では波打っていて、しかも幅狭く描かれ、画面左では膨らんだ形として伸びやかに広がっています。この形そのものに、私たちはどのような動きを感じるでしょうか。右側は萎んでいくようであり、左側は膨らんでいくようです。ですから、この形に私たちの感情を乗せて動きますと、画面右から左に向かっての動きを感じ取れるはずです。

▲襟のひだ

幾何学的に100%ある位置を指し示すわけではありませんが、主なひだの方向を、直線としてではなく動きの方向で延長すると、そのほとんどが、人物の右目領域に集まります。

つまりこの作品では、人物の右目を中心に、画面後方右側から画面手前への動きが作り出され、それが人物の視線の持つ印象へと変るのです。

自然認識と水彩:アブラナ

■アブラナとの出会い

アブラナに対する一番の印象は、「黄色」でしょう。花が黄色いのは言うまでもありませんが、つぼみの時ですら、非常に黄色に近い緑色で、とても明るい印象を受けます。

アブラナが一面に咲いていますと、個々の形には意識はいかず、ただその光る色合いに圧倒されます。
ゲーテも『色彩論』の中で、光と近い関係にある黄色は、今ある場所から広がっていく傾向がある、と述べています。つまり、形としてまとまりにくいのです。

山村暮鳥の詩「風景」には、そうした体験が描かれているように思います。

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな

■一本のアブラナ
個々の植物には意識が向きにくいですが、しっかりと見ますと、茎は重さに対抗する方向にしっかりと伸び、わずかに花の近くが光の方向を向いていることが分かります。

つまり、目立たぬながらもしっかりとした軸を持ち、そこから周囲の世界にひたすら広がっていく動きがアブラナの特徴と言えるでしょう。

■アブラナと光
アブラナは日当りの良い立地を好み、日照が不足すると花の生育が悪くなります。

また、古くは油の素として栽培され、その油は行灯の光として使われました。
やはり、本物の輝きには及びませんが、「光の植物」という体験は描けるかと思います。
■リンク

2015年3月9日月曜日

フォルメン(組紐模様)自由自在


ギャラリー

原理が分かれば、どのようにでもデザインできます。

交わる三つの円からの作図


はがき用デザイン


その他、いろいろ










 グラス・リッツェンによる作品

友人が作ってくれました。



関心を持つ人が多ければ、方法をお教えします。(簡単すぎるので、公開を渋ってます)。



2015年2月1日日曜日

『一般人間学』レーバー要約、第01講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 基礎づけ:霊界とのつながりは新たな教育の前提条件(1~2)

▲《主知的・感情的とモラル的・霊的》-物質主義と霊学(1)

開校に当たっての祝祭的な言葉の後シュタイナーがまず語ったのは、これから成されようとしていることが、どれほど偉大な関連の中にあるのか、ということだった。そこでの課題は、単に《主知的・感情的》なものではなく、最高度の意味で《モラル的・霊的》なものである。つまり、共に活動している人間が単に物質界に生き、働いていると理解するのではなく、霊的諸力からの委託を受けた人々であると理解することを意味している。イマギナチオーン的、インスピラチオーン的、イントゥイチオーン的に個々人の背後に居るとされる霊的諸力とのつながりをつくる。(このあとシュタイナーは教師のためのマントラを与えた。シュタイナーの意向により、記載はされず、口伝されてきた。)

▲《世界秩序の祝祭的行為》(2)

学校設立とは《世界秩序の祝祭的行為》と見なされなくてはならない。これもまた善き霊がエミール・モルト氏に学校設立という考えを抱くようにすることで、霊的世界で準備された。ルドルフ・シュタイナーの謝辞はこの導きの時代霊に対して向けられていた。

■ 第五文化期の教育課題:物質主義とエゴイズムの克服(3~9)

▲時代の状況と時代からの要求(3~6)

序曲の後、教育的課題について検討される。そうした課題とは時代毎に異なっている。そして、現在の課題もしだいに意識の前に明らかになっている。意識魂の時代、第五文化期での課題は、それ以前の文化期の課題とは違うのである。未だに、過去のものが支配的ではあるにせよ。新たに必要とされる事柄に対して物質主義は目を曇らせる。その結果として、シュタイナー学校に通おうとする生徒であっても、間違った教育をすでに受けてしまっているのである。こうした場合、初めからバランスを取ること、改善することが問題になる。この目標に向かって、未来の教師は全員この新たな教育的課題と意識を持って取り組まなくてはならない。

▲現代の底流であるエゴイズム(7~8)

現代文化は精神生活に至るまでエゴイズムを基礎に築き上げられている。そのエゴイズムの一つとして、死後も自我を保ち続けようとする人間的衝動がある。宗教において人間の不死性ばかり偏って見ていて、誕生前のことを無視するとき、まさにこれは人間のエゴイズムにアピールしていることになる。生活のあらゆる部分でこうしたアピールと闘っていかなくてはならない。なぜなら、それは人類を後退させるものだからである。それができるのは、人間の誕生前に目を向けるときである。人間は誕生前に長い間、成長発達している。その結果、霊的な世界で〈死に〉別な存在形式を持たなくてはならない、という衝動を持つ地点にまで至る。つまり、さらにエーテル体と肉体を纏おうとする衝動である。このように、地上的人生とは、人間がそこから由来する霊的な営みの継続なのである。したがってこの地上での教育とは、誕生前に霊的存在が行っていたことの継続なのである。このように洞察することで、教育者に正しい雰囲気が生まれる。

▲誕生前教育?(9)

誕生前教育という問題は抽象的で何も掴むことができない。具体的に考えると、誕生前の人間はより高次の存在たちの庇護の元にあった。妊娠中の母親がモラル的にそして知的に《正しく》生活していると、そのこと自体が胎児に働きかける。教育は誕生後に始まる。つまり、産声と共に地上的世界の秩序の中に入ってきたときに、始まるのである。

■ 霊・魂と身体の結びつきとしての誕生(10~12)

▲霊・魂と身体との結合(10~12)

霊界から物質界に移るにあたって二組の三体が統合しなくてはならない。つまり:霊人、生命霊、霊我の側と意識魂、悟性・感情魂、知覚魂(感受魂)の側である。

誕生前の人間とはこのように形成された霊魂である。そして、生活の場である高次の領域から地上的存在へと向かって来る。そして、この霊魂は、地上でさらなる三体つまりアストラル体、エーテル体、肉体からなる身体と出会う。これらの霊・魂・体ははじめ母体内にあり、やがて物質界に生まれ鉱物、植物、動物の三界と結びつく。はじめはきちんと結びついていない霊魂と身体を調和させることが教育の課題になる。

■ 二つの教育的課題:呼吸を教えることと睡眠を教えること(13~18)

▲呼吸、および人間と外界の関係(13)

その課題をより具体的に言えば、外界との正しい関係を作り出すことであり、その中で最も重要なのが呼吸である。母体内での呼吸はまだ準備段階で、それは誕生と共に始まり、ただちに三層構造的人間全体とかかわる。

▲呼吸と代謝作用(14)

血液循環と呼吸は外界から取り込まれた物質を身体全体に運ぶ。つまり、呼吸は代謝系とも関係している。

▲呼吸と神経感覚系の営み(15)

一方で呼吸は神経感覚系とも密接に関連している。つまり、吸気では脳水が圧迫され、呼気では下に下がる。そのため、呼吸は人間と外界を仲介している。それでも、呼吸と神経感覚系の調和を作ることはその先の課題である。

▲呼吸の営みと発達(16)

子どもはまだ、神経感覚系の営みを維持していくような形で呼吸することはできない。別な言い方をすれば、呼吸と神経感覚系がきちんと調和したときに初めて、霊魂は子どもの地上的営みの中に入り込んでくることができるのである。したがって、教育の課題とは子どもが正しく呼吸できるように教えることなのである。

▲睡眠と覚醒の交代(17)

具体的課題の二つ目は睡眠と覚醒の交代と関係している。外的に見れば子どもはほぼすべての時間眠っている。しかし睡眠と覚醒の内側にあるものはまだきちんとできていません。つまり、地上界で体験した事柄を霊的世界に持ち込むことができない。大人の場合は地上での体験を霊界に持ち込むとそこでそれが変容され、さらにその結果が再び地上に持ち込まれる。私たちは子どものために霊界から何かを持ってきてやることはできない。地上界での体験を霊界に持ち込んでいかれるように助けてやることしかできない。そうしたときに初めて、霊界から力が流れ込んでくるのである。

▲呼吸と眠りについてのまとめ(18)

正しい呼吸を教えること、睡眠と覚醒の正しい交代を教えることが最も重要な課題である。教育者、授業者として行うことすべてについて、それが霊魂と身体の結びつきを促すものか抑えるものかを意識していなくてはならない。

■ 教師の自己教育(19)

▲教師の自己教育(19)

教師は、行ったことを通して子どもに働きかけるだけではなく、それよりはむしろ、彼がどんな人間であるかによって働きかける。つまり、人間性が問題なのであって、教育的手法に長けているか否かがそれ以上に重要なのではない。どのような人間もそうであるが、教師のあり方を決める主要因は、どのような考え方を育て、身につけているか、なのである。呼吸とか、睡眠覚醒の交代といった宇宙的な関連を考えている人はそうでない人とは違ってくる。なぜなら、そうした考えを持っていると、容易に陥りやすい単なる個人的霊性を抑えることができるからである。

こうした個人的霊性が解消したときにはじめて、生徒と教師の正しい関係が作り出される。経験的には、悪ふざけをしたり教師を笑いものにしたりなど、〈正しい関係〉と矛盾することがたくさんあるが、そんなものは気にかける必要はない。教師は、こうした抵抗にめげずに、生徒との望むべき関係を作り出さなくてはならない。そしてこれは、教師が自分自身の側から行うことによって成し遂げられる。自分自身をどのような種類の考えで満たしているか、と授業中に子どもの身体と魂で起こるべきことの関係を認識すると、霊魂と身体の正しい結びつきをもたらすように働きかけるようになる。
この第一講は大切な基本モチーフが現れる一種の序曲となっている。本来の意味での教育的人間学は次の講演から始まり、発展していく。

『一般人間学』レーバー要約、第02講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 新たな心理学の必要性(1)

▲新たな心理学の必要性(1)

最初の大きな課題は、未来の教育の礎となる現実的な心理学を新たに基礎づけることである。なぜなら、意識魂の時代に入った現在において人間の魂を真に捉えられていないからである。伝統的な心理学の概念には内容がない。たとえば、表象や意志についての正しい概念を持っていない。その理由の一つは、人間を宇宙的な関連の元で見ていないからである。この関連を認識して初めて《人間本性そのものの理念》が得られる。

■ 表象と意志(2~6)

▲表象の特徴は像的であること…誕生前の鏡像(2~4)

表象の最も中心になる特徴は、それが像的であることである。たとえば私たちは、鼻や胃といった存在要素を持ち、それを自分のものと感じている。表象的把握では、対象と一体となるのではなく、まさに対象と距離を置くことでそれを捉えている。その意味でデカルトの「我思うゆえに我あり」つまり、認識が存在の証明になる、という発言は誤りである。

思考的活動もさまざまな像の動きである。表象によって空間内の物体の像が写し出される。それと同様に、表象には誕生前の体験が写し出される。誕生前から絶え間なく流れ込んでくる体験が人間の身体性にはじき返される。それゆえ、表象は誕生前に人間が存在したことの証明である。

▲意志の萌芽的性格ー死後を指し示すもの(5)

意志とは認識の終着点である。なぜなら、それ自身は何の内容も持っていないからである。(意志に内容を意識することはあっても、その内容は表象から来ている)。それは私にとっては萌芽として存在していて、死後に私たちの中で霊的・魂的現実になる。

▲表象と意志のまとめ(6)

表象と意志の対極性がまとめられている。像(表象)とは現実以下のものであり、萌芽とは現実以上のものである。そこには後に現実となるものの素地が含まれているのだから。ショーペンハウアーは意志の霊的性質を予感はしていた。

■ 魂の営みの対極性:意識されない反感と共感(7~15)

▲反感と共感ー魂界の鏡(7~9)

像的な表象と萌芽的な意志の間に、物質界の現在を生きる人間がいる。誕生前のものを跳ね返すことで像を作り出し、意志は完全に展開させず、萌芽にとどめている。こうしたことはどのようにて起きているのか?

魂界には反感と共感の働きがあり、そこから人間には意識されない反感と共感の力が働いている。私たちは地上界に降りてくるが、それによって霊的なものすべてに対して反感を発達させる。その反感によって誕生前のリアルを表象像にまで変容させる。意志活動は死後まで突き抜けていくが、これと私たちとを結びつけるのが共感である。この二つの力は意識されないし、またこの両者の交互作用が感情の原因である。

▲反感(10)

反感の中で人間は命や誕生前の世界すべてを跳ね返す。この成り行きには認識の特徴がある。認識は誕生前には密度の高い現実として存在している。そしてそれが反感と出会うと像にまで弱められる。今日肉体的な人間として私たちが表象をする際の力は誕生前からの余韻である。

▲反感の段階(11~12)

反感が強められると記憶像、記憶が生じる。つまり、人間は表象に対して一種の吐き気を催し、それを押し返し、それによってそこに現れさせる。像的表象、記憶への跳ね返し、像的なものの保持、というプロセスが行き着くところが概念である。

▲共感(13~15)

表象では反感が必要であるのに対し、死後の萌芽である意志では共感が必要である。その共感が高まるとファンタジーが生じる。これが人間全体に浸透して感覚にまで至ると日常的な意味でのイマジネーション、つまり知覚像的イマジネーションが生じる。抽象によって表象するのではない。たとえばチョークを見て《白》の知覚が生じるのは、意志の力、つまりファンタジーからイマジネーションへと至る共感的力をつかっているのである。一方、概念は記憶に由来する。

共感、反感との関連で上述の区別をしたときにはじめて、人間の魂を捉えることができる。死後の魂界ではこの両者があからさまに現れる。

■ 魂と身体形成とのつながり(16~20)

▲神経系(16)

人間の魂的様子は身体にも現れる。誕生前の魂的なものは反感、記憶、概念を経て人間身体にまで至り、そこで神経組織を形成する。また、知覚神経と運動神経の区別は「無意味」である。

▲血液(17)

意志、共感、ファンタジー、イマジネーションは萌芽的なものに留まる。生じるそばから消滅していく。人間の身体においても、物質的にできあがってもただちに霊的状態に移行しようとするものがある。これは利己的な愛によってどうにか物質性を保つが、最後には破壊される。これは血液である。

▲「血はまったく特別な液体だ」(18)

血液には霊的なものへと舞い上がろうとする傾向がある。死に至るまで血液を体内に留めておくためには、絶え間ざる消滅と新生が必要である。その役割は吸気と呼気が担っている。

▲神経と血液の対極性(19)

つまり、私たちの内には両極のプロセスがある。血流に沿ってのプロセスは私たちの存在を霊化しようとし、(運動神経と言われているものは本来は血液の流れである)神経に沿っては、物質化しようとする。神経経路に沿って物質が分泌、排泄される。

▲神経を理解することの教育的な意味(20)

この基本原理を考慮すると、子どもを身体的にも魂的にも健康に教育することができる、つまり衛生的な授業ができる。(このテーマは後の講演でさらに検討される)。誤った教育がはびこっているのは、人間本性を認識できていないからである。例を挙げれば、感覚神経と運動神経の区別する認識は間違っている。特定の神経が傷つくと歩けなくなるといのは、《運動》神経が麻痺するからではなく、自分自身の脚を知覚できなくなっているからである。

■ 人間と宇宙の関連…身体におけるその三重の現れ(21~28)

▲共感と反感の身体における現れ(21~22)

人間本性は宇宙的なものとの関連を考えて初めて理解されうる。表象では宇宙的なものが誕生前から、意志では死後から働きかけている。私たちの中で無意識に広がっているものは、宇宙における高次の認識では非常に意識化されている。

共感と反感は体においては三重に表れている。つまり、神経活動が中断され飛躍があるところに三つの炉がある。頭部神経、脊髄、自律神経系の神経叢である。感覚神経から運動神経に受け渡されるのではなく、ある神経から別な神経に直線的に伝わっていく際に跳躍がある。それによって私たちは魂的に動かされるのである。

▲頭部と四肢の対極性(23~25)

経験は私たちと宇宙を結びつけていて、行為は宇宙においても終わることなく継続する。逆に私たち自身は宇宙の共感と反感が展開した結果である。

私たちの身体は頭部、胸部、四肢というように分節化している。それでもこの3つの系は厳密な境界で分断されてはおらず、むしろ徐々に移行している。頭部は主たる頭部であり、他にも《二次的頭部》がある。胸部、腹部系についても同様なことが言える。たとえば、脳にいても栄養系があり、それが大脳に入り込んでいる。脳外皮(浅灰白層)は退化した栄養器官である。私たちの脳が動物より優秀なのは、栄養供給が動物の脳より優れているからである。認識そのものは脳によるのではなく、脳では単に認識が身体的に現れるのである。

四肢を含む下半身と頭部が対極をなしている。頭部系は宇宙からはき出されたものであり、頭部は宇宙からの反感によって形成されている。人間が内に持つものに対し宇宙が吐き気を催し、吐きだしたものが頭部である。頭部は宇宙の写しであり、自由にかかわる器官である。それに対し生殖器官を含む四肢は宇宙に組み込まれている。宇宙は四肢に対して共感を持っている。宇宙の反感と私たちの反感が共に働くことで感覚知覚が生じる。四肢系のあらゆる内的な営みは、宇宙が愛と共に私たちの四肢を揺らすことに拠っている。

▲教育に対する帰結(26~28)

意志と表象が対極として向かい合っているということは、教育にも関係する。表象形成の方だけに偏って働きかけると、人間全体を誕生前のものに向かわせることになり、意志がすでに役割を終えたものだけにかかわることになる。抽象的な概念ではなく、子どもに像を与えることでこうした偏りを和らげることができる。それはファンタジー、イマジネーション、共感から出てくる。抽象化は炭酸形成を促し、身体を固くする。像は酸素を保持させ、生成へとつながる。なぜなら、それによって子どもは絶えず未来に、死後に向けられるからである。…私たちは像によって教育することで誕生前の活動を受け継ぐし、その像は身体を活動させることで萌芽となりえるのである。つまり、像によって私たちは全人に働きかけている。

こうした考えを自らの感情に受け入れることで、教育において不可欠な神聖さがえられる。

一方に認識、反感、記憶、概念、もう一方に意志、共感、ファンタジー、イマジネーションがあり、この両方の概念系列を知ることは教育実践に非常に有効である。

『一般人間学』レーバー要約、第03講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 教師の意識と人類の至上の理念との関係(1)

▲教師の意識と人類の至上の理念との関係(1)

教師は、外には宇宙法則を、自らの魂内にはー特に低学年の教師はー人類の至上の理念との関連を、包括的に観ることができなくてはいけない。低学年の先生が高学年の先生よりも低く観られる、というのは学校にとって癌のようなものである。将来に至っては、すべての教師がその霊的素地において同じ価値と尊厳を持たなくてはいけない。すべての教師は、直接に生徒に教えるというのではないにしろ、背景に偉大な智を持っていなくてはならず、授業はそこから湧き上がってくるのである。

■ 人間を理解する上での二つの根本的障害:二元論とエネルギー保存の法則(2~6)

▲心理学が不完全である理由(2~3)

心理学的認識においては、869年のカトリック公会議の影響がいまだに残っている。このドグマによって、それ以前にあった人間の三分節(霊、魂、体)から二分節(魂、体)にしてしまった。これを前提にしてしまうと、人間の本性を理解することができなくなる。

▲エネルギー保存則から帰結される阻害(4~5)

人間を理解する上でもう一つ障害になるのが、エネルギー保存則である。つまり、宇宙全体のエネルギー量は一定である、という考え方である。(ユリウス、ロベルト、マイヤーはこの法則を1842年に定式化したが、エネルギー総量が同じである、と述べたのではなく、エネルギーはメタモルフォーゼすると述べていた)。心の人間存在であることの根本には、人間を通して絶えず新しい力が、それどころか新しい素材が作られる、というのである。

▲教師の課題:自然と文化の伝達(6)

生徒を、自然界を理解できるようにしてやることと、精神活動の考え方へと導いてやることが教師の課題である。この両者は、人間が社会的な営みに入って行かれるための条件である。

■ 世界への二通りの道筋と純粋思考の持つ意味(7~14)

▲自然に対する二重の関係―表象の側(7~8)

外的な自然は一方では私たちの表象および思考の側に向かって開かれている。(誕生前の鏡像である像的特徴)。もう一方で自然は私たちの意志の側に向かっても開かれている。(死後の営みに対する萌芽的性格)。こうした二重性から、人間の二層性という誤りが導かれた。―表象によって自然を捉える場合は常に、自然の死んでいく側面だけしか捉えられない。

▲知覚過程における自我ー意志の側(9)

私たちは十二感覚によって外界と結びつくが、これはまずは意志的なもので萌芽的である。プラトンは。人間が観るときには(超感覚的な、つまりエーテル的な)触手が物の方に伸びていくと言っている。頭部における眼の位置からして、動物と人間では世界との関係が異なっていることがわかる。動物とは異なるこうした点において、つまり眼の二本の超感覚的な触手の左右を超感覚的に触れさせることができるために自我、つまり自分自身を知覚できるのである。

感覚知覚にとっては、私たちが意志的に物に対して行う活動が決定的に重要である。高次の感覚に至るまですべての感覚器官は意志的である代謝と結びついている。

▲「なっていくこと」と「できあがっていること」(10~12)

最初に挙げられた自然との二重の関係がもう一度特徴づけられ、要約される。人間は悟性によって死んだ物を捉え、それを自然法則として定式化する。感覚器官にまで達して働いている意志によって人間は死を克服しうるもの、世界の未来となりうるものへと持ち上げる。このように述べてからシュタイナーは自然との生き生きとした関係を、光と色との関係を例にしながら、根本から述べ、誕生前と死後を新しい形で結びつけている。自然界では絶えず死に向かう方向と生成へと向かう方向が結びついている。

▲認識における、感覚に依拠しない純粋な思考(13~14)

もし人間が、ここに挙げた二つの力しか自らの内に呼び起こすことができなかったとしたら、人間は決して自由ではありえないだろう。悟性の側だけに結びついているとしたら、死んだものとした結びつかず、自分自身においても死んだ部分としか結びつかず、死んだもの、死していくものを自由にしようとするだけだろう。また意志の側だけであれば、人間はぼんやりとしてしまい単なる自然存在でしかなくなるだろう。ーこの対極的なもののなかに第三のもの、人間が誕生から死までの間担っているもの、つまり感覚に依拠しない純粋思考、そこで絶えず意志が働いている思考が加わる。この思考によって人間は自律的な存在となる。

■ 自然に対する人間の意味(15~21)

▲進化に対する人間の意味(15~17)

近代の学問では、自然現象の中での生成の流れと新生成の流れを分けて考えておくことができない。この分離ができるようになるためには、次の問いが現実に即したかたちで答えられなくてはならない。つまり、「もし人間が地球にいなかったら、自然はどのようになっていただろうか」という問いである。自然科学的な見地からは、その学問が前提としていることからの当然の帰結として、「耕作や科学技術によって変形を受ける前の自然が、人間だけがいない状態で鉱物界、植物界、動物界として成り立っていた、と考える。

霊学の観点からは逆の答が導かれる。進化において人間が存在しなかったとするなら、地球の自然界はまったく違った形で存在していただろう。

・・・とりわけ高等動物は、人間がさらに進化するために言わば沈殿物のように排泄されることで生じた。

・・・人間がいなかったとしたら、下等動物だけでなく、植物界、鉱物界もとうの昔に硬化し、生成発展の余地はなかっただろう。

▲地球の形成力にとっての人間死体の意味ー若さを保たせる働き(17~21)

火葬であれ土葬であれ、人間の死体は絶えず地球に還っていくし、それによってリアルなプロセスが働く。死体によって進化を支える力が補われる。それはちょうど酵母がなければパンが膨らまないのと同じようにである。死体の力が働いているので、今日もなお鉱物は結晶化できるし、植物や下等動物が成長できるのである。人間の死体は地球進化の酵素なのである。死によって人間は自然プロセスの一部になる。

人間死体に地球進化を支える力があるのは、地上生の間、人間の肉体に絶えず霊的・魂的な諸力が入り込むことよって肉体が変容し、死に際しては誕生のときとは違ったものになっているからである。人間は外界から得た素材や誕生時に受け取った諸力を新しいものにし、それらを死に際して変容させたかたちで地上的プロセスに受け渡す。それによって人間は超感覚的なものを絶えず感覚的・物質的なものに伝えている。人間は誕生から死までこの霊的・魂的な「滴」をが受け取り、死ぬと大地に渡す。この滴によって超感覚的な力が地球を絶えず実りあるものにしている。これがなかったとしたら、地球はとうの昔に死んでいただろう。

■ 人間に対する自然の力の働きかけと自然への人間の働きかけ(22~29)

▲死の力による骨と神経の形成(22~23)

自然界の二つの流れ、つまり死と新生は人間の中にどのように続いているだろうか?自然界に強く働いている死の力は人間においては骨格系と神経系にあたるものを与えてくれている。死をもたらす力を変容させずに人間に作用させたら、私たちは骸骨になってしまうだろう。それを弱めることで神経系ができあがる。神経とは絶えず骨になろうとする傾向を持っている。それを妨げているのは神経が血液や筋肉などに属する要素と結びついて変化しているからである。一方に神経・骨格系があり、もう一方に筋肉・血液系があり、その両者を正しく結びつけることは非常に重要である。(クル病では骨がしっかりと死ぬことが妨げられている)。眼では、まさにこの両極の力が正しく共働することで、意志的活動と表象的活動を相互に結びつける可能性が与えられている。

▲骨格系と幾何学(24~25)

昔の人は神経と同様に骨も考えることを知っていた。実際、あらゆる抽象的学問、たとえば幾何学などは、骨格系の能力に拠っている。人間が、具体的な生活の中では決して現れることのない抽象的な三角形を幾何学駅・数学的ファンタジーから作り出せる、というのは背骨が直立していて、平面上でたとえば三角形を動けることに拠っている。

幾何学的図形として固定された動きを人間は大地と共に行っている。地球の動きとはコペルニクスが述べた動きよりはるかに複雑である。たとえば、プラトン立体の直線の動きをしている。

私たちの骨格系の持っている認識を私たちは直接に意識はされないが、幾何学的な像として反映されている。幾何学をすることで、人間自身が宇宙で行っていることを再構成しているのである。

▲人間を通して生の力が自然界に流れ込んでいく(26~28)

死の力の反対側には血液・筋肉系の力がある。これは絶えず動き、変化し、生成し、萌芽的である。人間が居なければ地球上のすべてのプロセスに広がっていってしまうであろう死を人間だけが防ぐことができる。大きな結晶化から個々の結晶を引き離し、それを保たせている。こうして人間は地球の命を活性化し、さらなる発達の可能性を守っている。

自然科学やアメリカ的思考に基づく哲学では人間は宇宙における単なる観客でしかない、つまり宇宙は人間なしでも存続するのである。シュタイナーは、彼の初期の著作である「真理と学問」の中で人間を舞台として捉え、しかも人間的なことが起こる舞台ではなく、宇宙的な事柄が起こる舞台として捉えていることに触れている。こうした考え方をしなければ決して正しい教育者とはなれない。

人間の中の骨格・神経系と血液・筋肉系の共同作用によって絶えず素材や諸力が新しく作られている。そして、それによって地球も死から逃れている。霊的なものに向かっていく血液の新生と保存(第2講)という考え方とここでの考え方の両者を結びつけたものを基礎に考えが展開していく。無からは何も生まれえないが、一方が滅びもう一方が生じるという形で変容する、という《総合的》な考えによって初めて現実の人間を把握できる。

▲結末(29)


表象の営みにおける力によって宇宙法則を明文化する代わりに、私たちは《公準》を作った方がよいだろう。つまり、異なる領域をお互いに分けておくために概念を用いるのである。(これは、物体の相互不可侵性を例に示された)。定義をしそれにユニヴァーサルな有効性を認めることが重要なのではなく、物において観察され体験されることを記述することが大切なのである。

『一般人間学』レーバー要約、第04講、解説

元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約

■ 未来の教育と意志についての認識(1~3)

未来の教育においては、意志の教育と感情の教育に特に重点を置く。そのためには意志についての洞察が必要である。意志について認識すれば、感情の一部も認識できる。つまり、感情とはせき止められた、弱めたれた意志である。-意志は地上生においては決して成就することはない。あらゆる意志の遂行においても必ず死語にも続いていく《残り》が存在する。人生全体を通じて、また幼児期においても、この残りを考慮しなくてはならない。

■ 体、魂、霊という人間本性の全体(4~8)

▲全体展望(4)

全体としてみると、人間は体、魂、霊からなっている。体は遺伝によって生じる。魂は以前の地上生に由来している。また現在の人間では意志はその萌芽だけが存在していて、未来になって初めて発展する。

▲霊的本性(5~7)

現在のところ萌芽として存在しているものの一つを霊我(マナス)と呼べる。昔の人々は、人間において死後にも残る部分をマーネンと呼んだ。ここで複数形を用いているのは正しい。なぜなら、地上では人間は個として単数的に存在しているが(マナス、個人的天使)、死後は複数的である大天使に受け止められるからである。また、生命霊、霊人は人間の中の最高次なものであるが、これは遠い将来に発達する。 この3つの霊的な部分が死後から次の誕生までの間、霊的存在の庇護の元に発達する。人間は地上において発達するだけではなく、死後も発達する。しかし、霊的存在からの臍の緒がついた状態である。

▲魂的本性(8)

今日の段階ですでに意識魂、悟性魂(情緒魂)、感受魂という人間の本来の魂的部分が体の中で生きている。

▲体的本性(8)

そこに体的な構成部分、つまり感受体(アストラル体)、エーテル体、肉体を加えると人間全体になる。

■ 体的諸本性と意志(9~12)

▲肉体と本能(9)

動物の肉体はさまざまな意味で人間とは違った作りになっている。つまり、周囲の世界と叡智に満ちてつながっている。その動物が生きて行くに必要で、その動物に特有な行動様式が動物の身体のフォルムに根付いている。建築物をどのように作り上げたら良いかをがビーバーが身体組織で知っていることが例に挙げられている(人間が同じようなことをするためには、長期に渡る勉強が必要である)。身体のフォルムから来て行動を導く要素を本能と呼ぶことができるし、これは意志の最も低い次元である。動物のフォルムには自然そのものが本能のあり様を記している。

▲エーテル体と欲望(10)

目に見えない形でエーテル体が肉体に浸透し、それを形成しているように、肉体に現れている本能もまた掌握している。それによって本能は、内面化され、ひとまとまりになり、欲望になる。本能はあたかも外側から迫ってくるように見えるのに対し、欲望はより内側からやってくるように見える。

▲感受体と衝動(11)

感受体が欲望を捕らえるとこれはさらに内面化され衝動となり、同時に意識に上ってくる。衝動というのは動物において見られる意志の最高の形である。これは継続的で《特徴的な》魂の性質ではなく、生じては消えていくものである。

■ 魂的本性と意志-動機(12)

人間にも動物と共通な体的なものがあるし、それに伴って同種の意志も持っているが、それが三つの魂領域を内に担う自我においては変容され、動機が生じる。身体では3つの体がはっきりと区別されたが、3つの魂を明確に分けることはできない。それは現在の人間ではそれらが互いに入り込み合っているからである。(ヘルバルトは表象の側を強調し、ヴントは意志の側を強調している)。したがって、「ある人間の動機を知れば、その人間を知ることになる」と言える。しかし、それよりも《奥》に微かに響いているものがあり、それを考慮に入れなくてはならない。

■ 私たちの内なる第二の人間としての霊的本性、ならびに意志(13~18)

▲霊我と願望(13)

動機において微かに響いているものとは、願望である。しかし願望と言っても衝動から発じる願望ではなく、動機から生じた行為を後で振り返ったときの意識に現れるものを意味する。「あれはもっと上手くやれるはず、あるいは違った風にやれたはずだ」と言うときの願望である。行為に対して後悔するのは多くの場合単なるエゴイズムから来ている。つまり、よりよい人間であるために、もっとよくできたはずだ、と考えるのである。願望がエゴイズムではなくなるのは、「次のときにはこれと同じ行為をよりよくやろう」というように向かうときである。このような意味での願望とはすでに霊我に属しているし、この段階から、死後も継続する要素となる。

▲生命霊、意図と私たちの内なる第二の人間(14)

願望がはっきりとした形をとり、行為をより上手く実行するにはどうしたらよいか、という表象を形作ると、生命霊の働きによって意図が生じる。ここでは人間の中の意識されない部分が働いている。つまり第二の人間であり、-それは表象的にではなく意志的に-どのようにしたら未来における行為でよりよくできるか、という明確な像を作り上げる。

▲ドッペルゲンガー。アントロポゾフィーと分析心理学(15~16)

第二の人間については分析心理学でも言っている。第二の無意識に存在する人間の方が目覚めた人間よりも遙かに洗練されている点が、教科書的な例を引いて述べられている。言わばあらゆる人間の奥に居るもう一人の人間の中にはよりよい人間が居て、そこから今述べた意図が生じてくる。

▲霊人と決断(17)

死によって魂が身体から解放されるまでは、意図は萌芽である。意図は死後、霊人に属する決断になる。-つまり、願望、意図、決断は霊的人間の意志の形である。

▲死後における意志の発達(18)

願望、意図、決断や人間の奥なる本性からくるものは、死後の営みにおいて初めて発達する。誕生から死までの人間もこの意志の力を体験はしているものの、それは単に表象的であり、言い換えると像的である。-授業では、この意識されない魂の領域に秩序を与え整えるように働きかけなくてはならない。授業は、人間本性の深い部分で行われていることと共同しなくてはいけない。

■ 意志の教育(19~27)

▲反文化的なマルクス主義(19~23)

授業とは内なる人間を把握し、そこから形作られなくてはならない。マルクス的社会主義では通常の人間関係を元に授業を展開するという過ちを犯してしまっている。その意味でロシアのルネチャスク学校改革は文化の死を意味している。穏健社会主義からの要求もまた素人考えである。なぜなら、ボルシェビズムが(正当な)社会主義の中に悪魔的なものを持ち込んでいる点を認識していないからである。 教育が人間本性に対する深い洞察にしたがうときに初めて社会的前進も可能であること知る必要がある。大人同士の間で成り立っている関係を決して授業に持ち込んではいけない。なぜなら、それは子どもの本性にそぐわないからである。校長の廃止、子ども自身による自己教育、つまり反権威的教育といった多くのものは、確かに善き意志から来ているけれども、文化や未来にとって必要なものを全く見過ごしている。

▲繰り返しの行為による意志の育成(23~27)

授業や教育は魂の深い層、特に意志の本性に働きかけなくてはいけない。これを子どもに正しい仕方で行うにはどうしたらよいのか? 知的なものはすべて年老いた意志でしかない。それゆえ悟性に働きかける教示や警告は子どもに作用しない。要約すると、感情とは成就する前の意志であり、意志の中には人間全体の営み、つまり体的、魂的、霊的な営みがある。つまり、子どもであっても意識されない願望、意図、決断を勘定に入れる必要がある。意志への道は感情を経由している。正しいことへの感情を子どもの中に目覚めさせる何かに子どもの注意を向けさせ、これを子どもに繰り返しやらせることによって、行為が習慣になる。意識化されない習慣は感情を豊かにし、完全に意識化された繰り返しは意志衝動や決断力を強める。知的な営みでは一回だけそれを紹介して理解するものと考えている。感情や意志には繰り返し、つまり習慣にまでなった行為が作用する。 教育実践において、この原則は当たり前のこととして成り立つ。たとえば、毎日「父なる神よ」を祈る。今日の人間は一回だけのことに強制されている。それでも、意志の育成は意識的な繰り返しの上に成り立つ。子どもの頃に、今日も明日も同じことをする、という指示を受けることによって人間は強くなる。これは権威から行う。なぜなら、子どもは学校では一人が命令しなくてはならない、ということを理解するからである。 意志育成には芸術が特によく作用する。なぜなら、芸術とは繰り返しの上に成り立っているからであり、繰り返し喜びをもたらし、何回も楽しむことができるからである。それゆえ、あらゆる授業が芸術的な要素で満たされていることが望ましい。