2015年2月1日日曜日
『一般人間学』レーバー要約、第09講、解説
元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約
■ よい教育のための条件: 事実世界の認識(1~3)
▲《教育的本能》(1)と話の進め方(2)
子どもを真に事実認識すると、それが教育的本能を目覚めさせる基礎になる。 これまで人間を霊的な視点から捉えるにあたり、意識状態の違いを問題にしてきた。ここからの話は、霊から魂、体へと進み、成長過程にある子どもの健康管理の話へとつながる。▲二十歳までの三段階(3)
教育に関して言えば、成長を三つの段階に分けることができ、それぞれに特徴がある。交歯までの子どもは、模倣存在である、という特徴を持つ。交歯から性的成熟までの子どもは、内面本性の奥底から権威を求めている。そして性的成熟を迎えると、自らの判断で周囲の世界と結びつき始める。■ 認識的思考と論理(4~6)
▲論理的思考の発達(4)
地上に生まれた人間の思考は、本来、論理的である。また論理とは学問的なものでもあり、教師はそれを自在に操れなくてはならない。しかし、子どもに論理を教えるにあたっては、教師はまずそれを自分自身の行動で示す必要がある。▲結論(結びつけること)、判断、概念の三ステップ(5)
論理的活動、つまり思考的認識的な活動は、結論(結びつけること)、判断、概念の三段階のステップを踏んで行われる。この順はまず言語と結びついている。つまり、話をするときには、絶えず何かと結びつけている。それだけでなく、この順は、あらゆる営みと関連している。《動物園のライオン》というのがよい例になるであろう。 -ライオンを見た知覚を意識にもたらし、それを全体の知覚の中に位置づける。これができるのは、その知覚をその他の体験の中に統合できるからである。《ライオンとは、ここでは結びである》 -《ライオン》という知覚全体を、過去に出会ったもの、動物園で見たものに結びつけることで私たちは判断を下する。『ライオンは動物である』―《ライオンは判断である》 -この判断が前提となって、一般概念である《動物界》から《ライオン》という特殊概念を導くのである。《ライオンは概念である》 結びつけ、判断し、絶えず概念形成していなければ、私たちは意識的な営みはできないし、言語を介して他人と相互理解をすることもできない。▲《つまり、カーユスは死すべき存在である》(6)
《カーユス》を例に再度認識のステップが示される。通常の論理学と異なるのは、最初に結論(結び)が来る点である。通常の論理学の教科書的な例では、「カーユスは死すべき存在である」というのが、結論(conclusio)として思考の流れの最後に置かれている。■ 人間の魂と霊の中での論理の進み方(7~14)
▲結びつけについて(7~9)
結びは、完全に目覚めた意識の中で行われるときに健全である。この認識は授業構成を考える上で根本的で重要な意味を持つ。できあがった結びつけ(結論)を子どもの記憶に押し込むと、子どもの魂を荒廃させてしまいる。こうしたやり方で訓練されてしまった子どもに対しては、できあがった結びつけ(結論)を《下位に》置き、今、その場での結びつけ(結論)を育てるように努めるといいであろう。▲判断について(10~11)
判断は、当然のことながら完全に目覚めた営みに属する。しかし、判断は魂の夢想的領域、つまり感情の領域に属する。感情で判断を下しながら進んでいるのである。こうして、判断は―良きにつけ悪しきにつけ―習慣になる。日常的には判断は文章として表現される。つまり、教師が語る一つひとつの文章が子どもの魂の習慣になっていく。▲概念の形成(12)
形成された概念は、魂の眠りの領域にまで降りていく。つまり、身体を作り出している魂の領域である。特に人相は、人生を送る中で次第に形成される(目覚めた魂は身体には働きかけない。また、夢見る魂は、しぐさとして表現される)。だから人間の顔には、その人がどのような概念を作り上げてきたかが現れている。また、子ども時代に注ぎ込まれた概念も現れる。このように《教育の力》が働く。▲時代現象としての画一性(13~14)
シュタイナーの同時代人であるヘルマン・バールは、次のようなコメントを語っている。人間の人相がますます没個性的になっていて、人間を互いに区別できなくなっている、と。このような画一性が見られるということは、教育の著しく損なわれていることを示しているし、教育のどこから手をつける必要があるかが現れている。■ 生きた概念(15~19)
結論、判断、概念はそれぞれ異なった意識状態にルーツがあるが、そのことを踏まえると、教育の中でそれらの扱いが異なるべきであるとわかる。結論は話し合いの中で培われなくてはならないし、身につくのは概念にまで実ったものだけである。 そのためには、生徒たちに死んだ概念《概念の死体》を植え付けるのではなく、生きた概念、つまり人間が成長し変容していくのと同じように、発展可能な概念を与えなくてはならない。死んだ概念の見本は定義である。定義の代わりに、対象をできるだけ多くの視点から見てその様子を記述すること、つまり特徴づけを行わなくてはならない。こうしたやり方は自然学の中で典型的に行うことができる。たとえば、いろいろな動物を別々に扱うのではなく、それら同士の相互関係や人間との関係で見ていくのである。 人間は、教育を受けても生き生きとしていなくてはならない。しかしながら、生きて動きのある概念の他に、いわば《魂の骨格》となるような一生変化しない概念にも正当な場がある。そのような骨格概念とは、人間の理念である。個々の生き物や世界についての生きた概念は、成長に伴って、人間と発展を共にできる。そしてそこに、ゆっくりと形成されていく人間という多面的な概念、そのまま残ってもよい概念が付け加わる。このようにして、世界の個別な事柄が人間と結びけられていく。あらゆる生きた物には、変化するという傾向がある。子どもの中に生き生きと植え付けられた畏敬、尊敬、祈りの雰囲気といったものは、年を経て晩年に至ると、祝福の能力に変容する。子どものころにきちんと祈ったことのない人には、歳を経ても祝福の力は現れないのである。■ 誕生から成人までの三つの年代(20~24)
講演の始めに、誕生から青年期までを三つに分けることができ、またそれぞれに模倣、権威、自立した判断といった特徴がある点が述べられた。今度は人生の時間軸におけるそれらの現れ方が考察される。▲第1・七年期と父なる世界: 世界は善きもの(21)
誕生前に霊界において、人は対象に没入する力を育んできたが、交歯までの子どもはまだその力に満たされている。その没入する能力の表れが模倣なのである。この第1・七年期での魂の基本的雰囲気では―全員がそうではないが―ほとんどの場合、無意識の前提がある。世界はすべてモラルに満ちている、と。こうした前提を教育に利用することができる。たとえば、モラル的な特徴づけである。-模倣の中には誕生前の営みへの方向性が息づいていた。この事実は、子どもには魂的・霊的な過去があることを示している。▲第2・七年期 : 世界は美しい(22)
権威に浸る第2・七年期では、子どもは主にその瞬間に関心がある。動物的にではなく人間的に周囲の世界を楽しみつつ、現在を生きることができる。―それは授業においても同じだ。―ともすると教条主義的になりかねない授業であるが、芸術との生き生きとした関係でそれを避けることができる。子どもの持つ基本感情は「世界は美しい」である。授業は芸術に《浸され通して》いなくてはならない。たとえば、授業で対象をよく観るときにも、有用性の原則が中心になってはいけない。そうではなく、美的な要素を中心に据える。▲第3・七年期 : 世界は正しい(23)
性的成熟を迎えてからは、「世界は正しい」が人間の無意識な前提になる。『一般人間学』レーバー要約、第10講、解説
元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約
■ 導入 : 話の流れ、復習と予習(1)
▲問題点(1)
人間についての魂的、霊的、体的な視点を相互に結びつけていく。こうした全体的な展望から、身体の外的側面を語ることができる。■ 頭部、胸部、四肢の構造と形態(2~4)
▲球形がすべての形態モチーフの中心になる(2)
人間についての体的考察も三分節から始める。それらのフォルム原則の基本は球形で、それが各器官で異なった現れ方をしている。▲頭部と太陽との関連(2)
頭部は、体的には球形に見える。頭部形態は物質的には閉じた形であり、太陽に対応する。▲胸部と月の関連(2~3)
人間の構成体の中央部分である胸部は、球の一部である。一部分は見えていても、《多くの部分》が隠れ、これは月に対応する。胸部では背中側は体的であり、前方に向かって魂的なものに移行する。▲四肢(4)
四肢は胸部に《差し込まれて》いる。つまり、球の内側にある半径として、中心と表面をつないでいる。▲《頭部にも四肢がある》―比較(5)
顎部分は―いわば退化した―四肢として頭蓋骨に差しこまれている。腕や脚といった四肢では筋肉や血管が骨を取り巻いていて、そちらが本質的であるのに対し、頭部では骨が主体である。生体のこの様子には《宇宙の意志》が表現されている。一方《宇宙の叡智》は、頭部の骨格として表現されている。外的なフォルムとは、いかなるときも内的なものの表現である。■ フォルム諸原則の相互関係: メタモルフォーゼと裏返り(6~8)
▲難しい章(6)
各タイプの骨格が相互に変容していることを理解するのは、人間学の中でも最も難しい。教師が日常的な事柄からかけ離れた内容についても概念を持っていることが望ましい。▲背骨と頭蓋骨 : メタモルフォーゼ(7)
ゲーテは脊椎骨説というメタモルフォーゼの考えを、人間形姿にも応用した。ゲーテはヒツジの頭蓋骨を観て、頭部の骨はすべて変形した脊椎骨であると考えた。▲四肢骨と脊椎骨、さらには頭蓋骨: 裏返り(8)
四肢の骨を、脊椎骨や頭蓋骨のメタモルフォーゼ、あるいは逆に器状の頭蓋骨が四肢の管状骨のメタモルフォーゼと捉えるのはさらに難しい。これを理解するためには、手袋の裏表が逆になるような裏返りを考えなくてはならない。■ 《球》と身体の系(8~12)
▲中心と周囲(8~10)
骨格のメタモルフォーゼを考えるに当たっては、それぞれの部位で中心と周辺の関係が、それぞれに異なっている点を考慮する必要がある。中心は、頭部では内部に集約され、胸部では《遙か彼方》にあり、四肢系では周囲全体に球面状の部分が中心に当たる。 別な表現:頭部からは外に放射する動きが始まっている。それに対し四肢では、外から向かってくる流れがまとまり、密になり、四肢として目に見えるようになっている。四肢では身体的な部分は暗示に過ぎず、そこには同時に魂的なもの、霊的なものも働いている。▲三つの《球》(11)
人間の身体は宇宙から作り出されているので、三つの球が相互に入り込んだものとして考えるとわかりやすい。 +宇宙全体を包括する最も大きな球を考え、その周辺部分から放射する線がやってきて、その最後の部分だけが身体として目に見えるようになっている。四肢系。 +二番目の球では大部分は見えず一部分だけが見えている。胸部系。 +最も小さな球があり、そこだけはすべてが見えている。頭部系。▲頭部系と四肢系が胸部において合一する(12)
頭部には閉じようとする力があり、四肢系では自分を開こうとする力があるが、中央部の系ではその両者が交錯している。こうした力の対立は、肋骨の形態に見て取れる。肋骨の後方は背骨に向かって閉じ、また前方でも上部は内部空間を作る力が強く、胸郭が閉じている。それに対し、下方に向かっては広がる力が主になり、肋骨も一番下では左右が閉じていない。■ 人間の身体と《宇宙の動き》(13~17)
▲エジプトとギリシャの彫刻芸術(13)
エジプト人やギリシャ人は、ここで三つの球として表現した人間とマクロコスモスとの関連に対して意識を持っていた。そのことは彼らの彫刻に現れている。エジプトではやや抽象的に表現され、ギリシャでは美しい調和として表現されている。▲頭部と四肢:人間に向かう傾向と宇宙に向かう傾向(14)
頭部はそれぞれの人間の方に向かう傾向を持っている。それに対し四肢は、その中で人間が動き、事をなす、宇宙に向かっている。私たちはこのように宇宙と向かい合うとき《四肢的人間》である。▲鉄道の乗客(15)
肩の上に静止している頭部は、宇宙の動きを静止にもたらすのが課題である。それは列車に乗客が静かに乗っているのと同じように、魂が頭部で静止している。頭部は―本当の意味で静止しているとは言えないが―四肢によって運ばれている。そして胸部は、動きと静止を仲介している。▲ダンスと音楽 : 宇宙の動きの模倣(16~17)
惑星、星、地球自身の動きを四肢によって真似ることで、私たちはダンスをしている。この動きは胸を経て頭部に向かう途上で堰き止められる。肩の上で静止している頭部は静止的であり、動きが魂にまで入り込むのを防いでいる。その結果、魂で起きることと四肢のダンスとは関連する。不規則な動きでは魂は《文句を言い》、規則正しい動きでは《つぶやき》始め、調和的な宇宙の動きでは《歌い》始める。■ 動きから静止へ、感覚知覚の根源と諸芸術の根源(18~19)
▲感覚知覚と芸術の根源(18~19)
音の知覚を例に、知覚全般の根源を説明している。頭部、つまり感覚器官は外的な動きを共に行うことはなく、動きを胸部に跳ね返し、それによって感覚知覚が生じる。四肢は、外からは見えない非常に繊細な動きによって外界の動きを真似している。そして、それが静止させられることで、内面において対応する音や色などを知覚している。 外に向かって彫刻や建築芸術であるものが、内から外への反射によって音楽的な芸術になる。―色彩とは静止に達した動きである。■ 人間の霊的本性の喪失。《霊の否定》の結果としての自然科学的物質主義(20~22
)▲時代の中でおろそかにされたこと(20)
裏返してみなければ、手袋について半分しかわからないのと同じように、外側に現れた部分のみを見ていては、人間について半分しか理解できない。▲《全体的》人間の喪失―宇宙とのつながりの喪失(21)
人間の四肢部分では霊的、魂的、体的人間という人間全体が(大きな球として)現れている。また、胸部人間では魂と体が(中くらいの球として)現れ、頭部人間は単に身体(最小の球)として現れている。一八六九年のコンスタンチノーブル公教会会議において、人間が持つ最大の球、すなわち霊について知ることが禁止された。それによって人間と宇宙との関係に翳りが生じ始めた。一人ひとりの人間では、ますますエゴイズムに沈み込み、宗教自身もエゴイスティックになっていった。▲それぞれの身体系での発達の相違。物質主義的進化論(22)
自然科学における物質主義の主因は、前述のカトリック公教会会議における《霊性の否定》、つまり人間の四肢本性の隠蔽にある。そこから進化に対して誤った結論が導き出された。 人間の身体で最も古い部分である頭部について言えば、それは動物界に由来している。胸部は後になって頭部に付加されたので、頭部ほどには動物的ではない。四肢はさらに後になって付け加えられたのであるから、その意味で最も非動物的で、最も人間的な器官系である。―四肢の真の本性が意識から消されてしまったために、人間を考えるに当たってますます頭部を中心に考えるようになり、そこから物質的進化論という大きな誤りが生じた。つまり、頭部が動物から生じたというだけでなく、人間全体が動物に由来すると考えられるようになった。■ 授業の《神聖化》(23)
この講義のテーマは人間の体的考察であるが、実は「物質主義の原因は何か」という問いが主要テーマであることがわかる。教師が文化的事実に対して、根拠のある見識を持つことは重要である。なぜなら、それがあってはじめて、教師は《人間形姿》への正しい敬意を持つことができるからである。子どもの中に、これから少しは進化すべき小さな《家畜》を見るのではなく、宇宙全体につながりをもつ中心点としての人間を見るのである。 こうした感情は授業を神聖なものにするし、子どもとの地下のつながりを作りあげる。ちなみに、電信は一本の電線で可能であるが、それは大地の地下のつながりがあるからである。 教育とは一つの芸術、偉大な命の芸術でなくてはならない。それに対して必要な感情が、広大な宇宙について、さらにはその宇宙と人間との関係について考察することで実るのである。『一般人間学』レーバー要約、第11講、解説
元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約
■ 序論 : 話の進め方について(1~2)
人間身体の本性を霊的・魂的側から観察すると、肉体の構成や発達を理解する助けになる。最も基本的な観方は頭部、胴部、四肢という人間の三層構造であり、これらはそれぞれ魂的、霊的に異なったありようをしている。■ 個々の器官系における体魂霊の相互関係(3~9)
▲人間の頭部形成(3)
頭部は主に体であり、胸部は《体的》で魂的、四肢は《体的》、魂的・霊的である、という第10講の内容を振り返る。それでも実際には頭部も魂的・霊的ではあるが、その様子が胸部や四肢と異なっている。―頭部は胚発生においても最初期に形成されてくるが、人間全般に対応するものが最もはっきりと現れてくる(頭部の胸部的な部分=鼻部 頭部の四肢的な部分=顎)。頭部がすべての部分を最も完備しているのは、動物界全体を貫きすべての進化段階を経て人間に至っているからである。―そこにある意識状態を見ると、頭部では体的に最も完成しているがゆえに、魂的なものは夢見、霊的なものは眠っている。▲頭部人間における体魂霊(4)
頭部では、魂的なものは夢見、霊的なものは眠っている、という点については、人間成長全体から総合的に見ていこう。七歳までの子どもが周囲の世界を愛し、それと完全に一体になる模倣の存在であるのは、子どもの霊(および魂)が頭部の外側にあるおかげである。交歯によって誕生からの数年間続いていた頭部の発達は終結する。▲交歯(5)
交歯によって肉体のフォルム形成は終わる。また外界との最初の関わりも終わる。▲胸部形成(6)
胸部器官は誕生時にすでに体的・魂的であるのに対し、霊は夢見つつ外の周囲の世界に漂っている。頭部と比べるなら、胸部は初めからより目覚めていて、生き生きとしている。▲四肢形成(7)
四肢には霊、魂、体が初めから入り込んでいる。新生児であるら四肢は目覚めているが、未発達、未形成である。▲教育にとっての帰結(8~9)
初期に教育を行うことができるのは、四肢人間に対してだけであり、そこから少しだけ胸部人間に作用を広げることができる。なぜなら、四肢や胸部は頭部人間を目覚めさせるという課題を持っているからである。子どもの(頭部の)霊と魂は、教育者の前にいる段階ですでに非常に完成されている。したがって、霊と魂の不完全な部分だけを育てなくてはいけない。 そうであるからこそ、教育が可能なのである。そうでなかったら、教師は育ちゆく子どもの常に先を行っていなくてはならず、生徒も教師と同じくらいにしか賢くなれないし、同じくらいにしか天才的でありえない。―知的なものに関しては、教師は生徒に先行している必要はない。しかし、モラル的なもの感情的なもの―つまり、教育にとっての唯一の目標と言ってもよい意志と感情の育成については、自分に可能なあらゆる努力と自己教育を行う必要がある。■ 言語を介した魂的な教育(10~11)
これまで述べてきたものの他にも《教師》が存在する。それは言語の叡智であり、これは私たち自身よりもずっと賢い。言語は子どもの意志に働きかけ、そこから眠った頭部を目覚めさせる働きがある。■ 自然から与えられた教育手段…母乳(11~13)
▲問題(11)
本来、眠った頭部の霊性を目覚めさせるために、誕生したらすぐに意志の教育が必要である。手足をばたつかせるだけのこの時期には、赤ん坊に体操やオイリュトミーをさせることも、音楽やその他の芸術的活動をさせることもできない。そうなると、言語が働きかけ始める少し後の時期と、この誕生の時との間に大きな隙間が生じてしまう可能性がある。もし、その隙間を埋める何かを自然の叡智が用意してくれなかったとしたら。▲母乳(12)
この隙間を埋めてくれる叡智とは母乳である。母親の四肢器官から生じ、その四肢的力を内に秘めたこの素材の役割とは、子どもの中に眠っている人間霊を目覚めさせることにある。―世界に存するあらゆるものは、人間との関係を持っている。▲魂的、そして自然的教育。まとめ(13)
誕生直後から、自然なる教育手段である母乳によって行われてきた教育を、模倣を通して自ら何かを行うことや、言語によって、教育者は正しく引き継ぐことができる。その際に常に注意しなくてはならないことは、教育を頭部に向けて、決して障害を与えてしまわないようにすることである。なぜなら、頭部は誕生してきた時に、すでに発展させるべきものすべてを持ってきているからである。■ 文明諸技術(14~15)
▲霊的世界と地上的世界(14)
霊的世界、地上的世界は、それぞれに独自の法則に従っており、それらを決して混同してはいけない。この数千年の間に発達し、さらにはこれからも伝統や因習として受け継がれて行くであろうあらゆる文明諸技術は地上的世界のものである。霊的存在たちは人間の言葉を話すこともなければ書くこともない。―読み書きを《胸部や四肢》を介して学ばせることができれば、それが子どもにはよい。▲芸術の要素からの読み書きの授業(15)
七歳児に対して、通常のやり方で読み書きを学ばせることはできる。頭部の霊性がこの年齢でもある程度は目覚めているからである。しかし、そうすると頭部の霊性に傷を負わせることになる。それゆえ、読み書きの授業は線描、絵画、音楽的要素で行う必要がある。文字のフォルムを線描から導き出すと、子どもを四肢人間から頭部人間へという流れで教育することができる。知的なものが意志を調教するのではなく、意志が芸術的な道を介して知的なものを目覚めさせるのである。■ 《子どもは成長しなくてはいけない》(16~20)
▲魂的手段による成長の助長と抑制(16)
子どもの最も重要な活動は成長である。教育や授業はこの成長を阻害するのではなく、それに付随するものでなくてはならない。交歯までは頭部から発するフォルム形成が主であるが、第二・七年期では命の発達、つまり胸部からの成長が主となる。―教師は自然の働きを助ける役割を果たさなくてはならない。それができるためには、どのような魂的な教材が子どもの成長をゆっくりにしたり、加速したりするかを知っている必要がある。ある程度までは、子どもを《のっぽ》に引っ張り上げたり、小柄にとどめたりすることができるのである。▲ファンタジーと記憶が成長に及ぼす影響(17~20)
子どもの記憶力にあまりに強く働きかけると、子どもは細く上に伸びる。またファンタジーに強く働きかけると、子どもの成長を押しとどめることになる。このように、記憶とファンタジーは成長発展力において不思議な関係を持っている。 成長を偏らせないという努力において、子どもの身体的成長を繰り返し観察し、その間に授業で行ってきた内容との関係を吟味することが非常に助けになる。それをきっかけに、その後の授業でファンタジーと記憶のバランスを取り、生じうる偏りを補正していくことができる。 こうした手段が講じられうるには、教師が何年も担任をすることが前提になる。それによって初めて教師は生徒を知ることができる。―授業内容の影響ではなく―ファンタジータイプ、記憶タイプの子どもがいることがわかるし、子ども自身が持っている成長傾向も認識できる。そして、状況によっては授業でそれらを調和させることもできる。こうした現象において、体と魂の関連は非常に具体的に見て取ることができる。 現実の世界ではすべてが相互に関連しあっている。そうした関連を認識するためには、《正しい》定義を得ようとしてはいけない。定義とは、諸現象を常に分離し、孤立化させる。そうではなく、私たちの理解力を、生き生きとした概念という意味で、動きのあるものに保たなくてはならない。■ まとめ(21)
霊的・魂的なものからは、自然に体的なものへとつながる。中心となる教育手段は、子どもの成長年齢によって異なる。最も初期には自然の叡智が母乳を与えてくれているし、その次には言語と行為によって魂的に成長する。第二・七年期の子どもではあらゆる教育が芸術的でなくてはならない。そして、小学校を終える頃には、第三・七年期の教育において特徴的なものが輝きと共に入り込んでくる。自立した判断力、個としての感情、自立した意志衝動である。『一般人間学』レーバー要約、第12講、解説
元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約
■ 課題 : 世界の中における人間身体の位置づけ(1~2)
人間の肉体は、周囲の物質的・感覚的世界との関係で見なければならない。人間はその周囲の世界と相互に関係し、それに養われている。また人間は、鉱物界、植物界、動物界とも類縁関係にある。しかし、そうした類縁性が見えるようになるのは、自然界の深い領域に入っていったときである。 人体の体的・物質的なものとは、骨格、筋肉、血液循環、呼吸、栄養摂取系、貯蔵器官、内臓、脳と神経、感覚器官である。ここで述べられるのは、これらの器官や機能と外界との関係性である。■ 頭部器官とそれの動物界との関係―エーテル体(3~6)
▲進化における人間の位置(3)
そこに神経系も組み込まれている脳・神経系は、とりあえずは人間において最も完成したものであり、時間的に最も長い発達を遂げてきている。これは動物界のさまざまな形態を凌駕しており、最も人間的な系である。▲頭部の形態形成的な役割(4)
第1・七年期では、頭部からの働きかけで絶えず胸・胴部系、四肢系の肉体的フォルムが形作られている。こうした働きは交歯と共にある種の終点を迎える。それでも頭部は魂に満たされ、霊に満たされつつ、その後も身体の諸形態を保っていく。▲形成と超感覚的な動物形態の克服(5)
頭部から生じる諸力は、本来の人間的形姿を目標にしていない。むしろ頭部は、自然界に見られるさまざまな動物形態を形成しようとしている。胴部や四肢は、こうした諸フォルムが実現しないように働いている。つまり胴部・四肢系が絶えず動物フォルムを克服し、それを人間フォルムに変容させようとしている。▲対動物界としての思考(6)
人間の思考に超感覚的に対応するものとは、絶えずメタモルフォーゼしつつ、頭部から下へと流れる動物的なものである。考えとは変容した動物界である。―頭部があまりに多くの動物形姿を発生させると、それを受け入れる他の諸器官が反抗し、たとえば偏頭痛が生じる。■ 胴体系および植物界との関係―アストラル体(7~11)
▲人間の呼吸と植物の同化作用(7~8)
血液循環、呼吸、栄養摂取などを伴う胴部・胸部系は、植物界と相互作用を行っている。もし人間が呼吸によって生じる二酸化炭素を体内に止めて、酸素を放出し、体内の炭素へと変化させると、人間の中に《完全に植物的な成長》が生じる。なぜなら、それはまさに植物が行っているプロセスだからである。植物は酸素を放出し、炭素からデンプンや糖などを作り、それを元に身体を作り上げる。植物界とはメタモルフォーゼした炭素である。人間の呼吸の裏返しとして、植物ではそれとは逆な炭酸同化プロセスが対応する。▲植物的プロセスの克服、反植物的なものの領域(9~10)
人間が突然に植物界に溶け込んでしまわないのは、頭部や四肢がそれに対して抵抗しているからである。それは、人間が二酸化炭素を体外に排泄し、植物界が外なる自然界で発生できるようにしているからである。こうしたやり方で人間は体内に《植物的なものの反対王国》《植物界の負像的なもの》《逆植物界》を作っている。▲胴体系から発する疾病的傾向(11)
頭部・四肢系が弱いために生体内に生じる植物界を抑えることができなくなると、人間は病気になる。したがって、外の植物界には私たちの病態の像を見ることができる。色彩豊かな植物界で働いているものは、それが人間の内部で形成されると病気の原因になる。個々の病気について、それに並行する植物界と事柄を見つけることが医学の課題である。それとともに、毒草の問題が提起されている。■ 胴体系 : 燃焼プロセスと栄養(12~15)
▲人間内の燃焼プロセス: 自然プロセスの中間部分(12)
呼吸の場合と同じように栄養摂取においても、人間は周囲の世界から物質を取り込み、それを―呼吸で得られた酸素の助けを借りて―変容させる。しかし、その際に生じる燃焼プロセスでは、最初の部分と最後の部分が欠け、中間部分だけである。未熟な果実や腐敗した果実を食べると、燃焼の最初の部分や最後の部分が体内に生じ、病気になる。▲自然プロセスの中間部に、呼吸に魂を与える: 魂と体の結合(13)
呼吸と栄養摂取との結びつきとは、魂(非植物界)と体(自然プロセスの中間部)との関係の基盤である。人間は呼吸プロセスによって、自然プロセスの中間部に魂をつなげる。▲未来の医学をスケッチ(14~15)
ここで論述から、未来の医学をスケッチできる。外界の植物的プロセスにおける熱、風、水などに人間がさらされたとき、それらはどのように人間に働きかけるかを研究する必要がある。病気の原因をバクテリアやウィルスに求める代わりに、どうして人間の体内に、バクテリアが《好ましい滞在場所として嗅ぎつけ》てくる、ある種の植物的プロセスが生じ始めるのか、という問いに注意を向けるのである。■ 骨格・筋肉系および鉱物界との関係―自我機構(16~21)
▲私たちの身体の機械部分(16~18)
人間が動く時には、身体の機械部分全部を動かす。そこでは力学的な力、特にテコの原理が働いている。もしそうした力だけを写真に撮ることができたら、たとえば歩いている様子を帯状の影として捉えることができる―物質の中にではなく、それによって身体を動かしているこうした力の中に自我は生きている。可視的な身体はそれに引きずられているだけである。▲四肢系の力による結晶形成と抑制(19)
前述の力からなる身体の役割は、栄養物と共に摂取された無機成分がその本来の結晶形になるのを妨げることにある。つまり、地上的な結晶形成に対抗することである。▲糖尿病と痛風: 体内の病的な結晶化(20)
四肢による溶解作用が弱すぎる場合、たとえば糖尿病や痛風といった病気が生じる。こうした病態への対抗物質としては、感覚器官、脳、神経器官に生じる《仮像物質》―崩壊的物質として―を用いることができる。▲まとめ(21)
この第十二講で語られたアントロポゾフィー的・人間学的内容は、新しい教育実践の基本となる。『一般人間学』レーバー要約、第13講、解説
元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約
■ 導入:洞察を活動に応用する(1)
これまでの講演で、人間と外界との関係について洞察され、得られたことは実践に応用されるべきであろう。■ 人間の中の霊的・魂的な流れ(2)
頭部と四肢のつくりは違っている。 :頭部は内側から押し広げるように、四肢は外から内に向けて押しつけるように形成される。しかし、どちらの場合も根底にあるのは、人間全体を貫く霊的・魂的な流れである。そうした流れは手のひらや足の裏を通して身体の外から中へ入り込み、額の部分を内から外に押しているし、それは《内的人間的なもの》として現れている。■ 霊的・魂的なもの:内側でせき止められ-外から吸う(3~9)
▲身体は霊的・魂的なもののせき止め装置、そしてそれに吸い取られる(3)
霊的・魂的なものは本来何の抵抗もなく人間を通り抜けようとするが、人間はあたかも堤防の役割を果たし、それをせき止めている。また、霊的・魂的なものは外的肉体的な人間を絶えず吸い取っている。▲破壊と構築。胸部・腹部系の持つバランスを取る役割(4)
霊的・魂的なものが外側から人間を吸い込み、破壊しようとしている。外側に向けて出続ける垢はその結果である。胸部・腹部系は身体構築の役割を果たし、人間を物質的に満たす。そしてそれによって破壊との間のバランスを保つことができる。それがなかったら、四肢は物質的に存在することができない。四肢は本来、霊的特性を持つ。四肢を動かすと、外界の霊が身体的にそれを食い潰していくので、それに対し常に物質的にバランスを取る必要があるのである。▲過剰な物質としての脂肪(4~5)
胸部・腹部系が四肢で物質素材を多く作りすぎそれが壊されないと、霊的・魂的なものを含まない物質である脂肪が蓄積される。脂肪は霊的・魂的なものにとっては障害物となり、頭部への流れに負担がかかることになる。そして頭部が空になる。それ故、特に子どもでは強すぎる脂肪プロセスを防ぐことが重要である。そうでないと、宇宙的プロセスの活動が少なくなってしてしまう。▲神経の発生と血液の運搬機能(6)
人間の頭部では霊的・魂的なものがせき止められ、そこで跳ね返される。それによって脳に物質が沈殿する。それゆえ生きた組織である神経に死んだ物質が生じる。霊的・魂的なものは神経系に沿って人間内を通っていくが、それは崩壊していく物質が必要だからである。▲霊的・魂的なものが人間内でどのように働くか。三通りの霊概念(7~9)
霊的・魂的なものは人間中では三通りに働いている。そして、生きた生体に対する関係と、物質的な死んだものに対する関係は異なる。生きたものは霊的・魂的なものにとって密で不透明なもので、それを止めてしまう。死んだものは、光にとっての透明ガラスのようにそれを通す。血液と神経の対極性はこのように特徴づけられる。-命ある生体的なものをきっかけに霊が働き、それによってフォルムができ、生体が形を持つ。■ 身体的労働と霊的労働(10~17)
▲外からの霊、内からの霊-ある逆説(10)
肉体的に働くとき、人間は完全に霊の中で泳いでいる。精神的(霊的)労働の場合は逆に、内側で霊とかかわり、身体はこの活動の道具になっている。そのことは身体での諸プロセスに現れている。こうして一つの逆説が生じる。肉体的労働は人間にとって霊的であり、霊的(精神的)労働は人間内で体的である。▲肉体的労働、疲労と眠り(11)
過度な肉体労働によって、人間は、外からやって来る霊に洗われ、その霊とあまりに強く類縁関係を持つようになる。人間は霊に圧倒され、それに服従せざるをえず、長く眠る。また眠りすぎると胸部・腹部系が強く刺激されすぎ、人間は熱くなる。▲意味のない行為と意味のある行為。体操とオイリュトミー(12~13)
怠け者であっても、一日中手足を何らかの形で活動させている。しかし、行為に意味がなく、それゆえ意味のある行為よりも多くの眠りをそそることになる。意味のある行為では、私たちは霊を内に取り込む。その霊と意識を持った状態で協働し、睡眠中の無意識的作用をあまり必要としなくなる。 意味のない活動では、動きが身体の要求にしたがっているだけである。意味のある活動とは、周囲の求めに応じた行為である。この相違は教育的に重要である。こうした違いは、たとえば純粋に生理学的な体操(スポーツ)とオイリュトミーの違いとして見られる。しかし、一方だけが正しいと言っているのではなく、両者のリズミカルな振れが望ましい。 過度なスポーツ活動は、実践的なダーウィニズムである。これによって人間を家畜的な感じ方をする存在へと引き落とそうとしている。 この事柄は、これだけラジカルな言い方をする必要があり、また教師はこの関係性を理解している必要がある。なぜなら、社会的にも働きかけなくてはならないからである。▲霊(精神)的活動と眠り(14)
精神的な仕事では、必ず生命的物質の破壊が伴う。しかし、それが行き過ぎると眠りを妨げる。しかし、読書や講座でも、内容を本当に考え、感じ取りながらたどろうとしても、それが非常に不慣れで大きな努力を必要とするような思考作業だと私たちは眠り込む。▲《すべてを関連の中で考えなくてはならない》(15~17)
内的な死滅プロセスに対抗するひとつの可能性がある。対象に意識を向け、関心を持つことで、それをよく観ることや考えることの中に感情が付け加わり、それによって胸部が生き生きと活動するようになり、物質が命あるものに保たれ、睡眠に対する影響も少なくなる。 試験の準備では対象に関心を持たずに多くの事柄を覚え込まなくてはならない。これによって内的営みが無秩序になっていく。それゆえ、子どもに対する試験は止める方が望ましい。これは一つの理想なので、急ぎすぎないこと。社会状況を変えるためには、人間が別様な考え方を身につけたときである。 命の諸現象を考察するときには、関連性を忘れてはいけない。教育的、社会的、衛生学的な革新を目指す標語は以下である。外に向かっては仕事を霊化し、内に向かっては知的仕事に血を通わせること!『一般人間学』レーバー要約、第14講、解説
元シュツットガルト・シュタイナー教員養成ゼミナール長、シュテファン・レーバー先生による要約
■ 人間の身体形態の三層構造(1~9)
▲身体の二つの形成原則(1)
人間の魂は三層構造であるが、身体の外観も三層に見える。これは主に、表象と意志が対極であるのと同じく、頭部と四肢での形成力が対極的であることから来ている。頭部では内から外に向けての力、四肢では外から内に向けての力である。(胸部・胴部形成はその両者の中間をなしている)。▲頭部系(2~4)
頭部は動物段階を一通り通り抜け、それを超えた存在であり、人間の全体を表現している。鼻関係は、-形は矮小化してはいるものの-胸部を代表し、肺のメタモルフォーゼである。また顎を含む口の領域は代謝や四肢と関連している。▲四肢系(5~6)
四肢の外形は、基本的に顎部分の変形である。腕や手は上顎、脚や足は下顎に相当する。このように四肢を顎と見た場合、物を《噛む》場所は、上腕部や大腿部の身体付着部分である。それに付随する頭部は、巨大で不可視で《外側のどこか》にある。その巨大な人間は、人間に口を向け、-死によって完全に消耗するまで-絶えず人間を消耗させている。この霊的な頭部は、人間を食い尽くすために、その極わずかな一部だけが物質的なのである。▲霊への献身の犠牲(6)
《私たちの生体は、差し込まれた口である霊性に絶えず吸い込まれている》。このような霊に対する献身・供犠が、四肢と他の身体部分との関係に表れているのである。▲胸部における上方への形成的傾向(7)
胸部では頭部的本性と四肢的本性が混ざり合っている。胸部は上に向かうにしたがって頭部になろうとする傾向を持ち、下に向かっては四肢になろうとする傾向を持つ。胸部は上に向かって頭部の写しとなるものを作り出している。それは咽頭で、言葉の中には頭部的な要素が生きている。言語は、空気中に頭部の欠片を作り出す誘惑から始まり、それが波として伝わり、身体的形となった頭部でせき止められることで生じている。▲言語の骨格系としての文法(8)
交歯の前後で頭部が身体として完成する。そうしたら、言語を一種の魂的骨格として理解する方向に、授業を進めることができる。具体的には、文法的要素を育てる。《言語に由来し、読み書きに働きかける要素》である。▲胸部における下方への形成的傾向(9)
胸部において下方へは、密になり、物質化した四肢的本性が組織されている。これが男女の性の根本である。この四肢的本性に由来する力が完全に現れるのは性的成熟期になってからであるが、小学校高学年頃には、魂的営みの中に入り込んでいる。■ 教師のための三つの《定言的命令》(10~19)
▲授業の中で子どもたちのファンタジーを刺激すること(10~12)
12歳から15歳にかけては、とりわけ内的な温かさや魂的な愛に満たされた活動が現れてくる。それがファンタジーである。この世代を教えるに当たっては、生徒のファンタジーをかき立て、その後に生まれてくる判断力の下地として浸透するように、すべての教材を準備しなくてはならない。歴史、地理、物理といった科目がこれに該当するが、-シュタイナーはレンズ、眼、暗室を結びつけることを例に出している-代数や幾何にも当てはまる。ピタゴラスの定理を教えるにあたっても、単に悟性に働きかけるだけでなく、ファンタジーに訴えることもできる。▲《おまえのファンタジーを生き生きと保て》(13~15)
教師と生徒との関係が《合っている》と、生徒の中に実際にファンタジーが生まれ、それを育てることができる。そのためには、教師自身が教材をファンタジー豊かに作り上げる必要がある。教師は教材を《感情を伴った意志》で完全に満たし、それも常に新しく満たす必要がある。なぜなら、新鮮なものがあって初めてファンタジーは生き生きと保たれるからである。単なる繰り返しは、作り上げられたものであっても、悟性的なものとして凍り付いていく。 教師は決してぼけてはならず、教条主義に陥ってもいけない。したがって教師のための第一の《定言的命令》は、「おまえのファンタジーを生き生きと保て」である。-これは、授業の内的なモラルを言っている。▲内的な熱(16~17)
-これまでの講義内容-基礎的な人間認識があってはじめて、教育的モラルを内的な熱で満たす内的な力が作り出される。▲《真実への勇気! 魂的な責任感!》(18~19)
内的な熱やファンタジーといったものは知的詰め込みや、怠慢へ向かう傾向の正反対である。物質主義的思考はこの傾向を助長する。それに対し、主知的なものが霊から得られた考えによって《味付け》られると、ファンタジーという道筋を経て、そこに翼が生えるのである。 十九世紀中盤に、授業、および人間の認識活動からファンタジーを徹底的に排除する傾向が起こった。(教育の中に生き生きとした精神を持ち込んでいた最後の人物がシェリングである。)その根底には、ファンタジーは非真実に堕する、という恐怖である。しかしそこには、自由に自立的に考える勇気が欠けている。したがって教師のための第二の《定言的命令》は「真理に向かっての勇気を持て!」である。-それは、個々人に対し、真理に対しての強い責任感情を育てることを要求する。「真理に対して強い責任を持て」、というのが三つ目の《定言的命令》である。
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