復活祭後;第30週
1912年10月27日~11月2日
Es sprießen mir im Seelensonnenlicht
魂の太陽の光の中で 私にそれ(2行目)が芽吹く
Des Denkens reife Früchte,
思考の熟した成果が、
In Selbstbewußtseins Sicherheit
自己意識の確実さの中で
Verwandelt alles Fühlen sich,
すべてが感情へと変容していく、
Empfinden kann ich freudevoll
喜びに満ちて私は感受することができる
Des Herbstes Geistes Wachen:
秋の霊の目覚めを:
Der Winter wird in mir
冬は私の中で
Den Seelensommer wecken.
魂の夏を目覚めさせるだろう。
4つの文からなるこの週の骨組みは、
私に成果が芽吹く
すべてが感情に変容する
霊の目覚めを感受できる
冬が魂の夏を目覚めさせる
となります。そこに修飾語がからんできます。
さて、前の週で思考が現れ、そこでの熟した成果が魂の太陽の中で伸びていくとあります。春における植物の芽生えと対称をなす内面での発芽と成長です。
3、4行目は、すべてが感情へと変容するとあり、しかもそれがクリアな自己意識の中で行われます。
思考、感情と並んだ後で、「感受」つまり、何かを感じ取る領域について述べています。ただ、「思考」「感情」が名詞で表現されたのに対し、「感受」は動詞です。名詞による表現は、事実描写的な印象を与えるのに対し、動詞での表現は「私」がそのことの主体であることがより明確になります。
そして最後に未来形の wird で表現される冬への展望が述べられています。
およそこのような内容であるものの、詳しく見ていくと解釈に戸惑う部分もあります。それは1行目のmir(私に)です。in mir という表現であれば「私の中で」という意味で内容的にも矛盾なく理解できます。ところが「in」はなく、単に「mir」(私に)なのです。動詞がsprießen(伸びる)なので、「私に向かって伸びてくる」という解釈の可能性も捨てきれません。したがってここではとりあえず、「私の中で」と「私に向かって」の両者のニュアンスがあると考えていただくしかありません。