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2015年3月15日日曜日

川村記念美術館のレンブラント

■レンブラントを買うなんて

千葉県佐倉市にある川村記念美術館には「マーク・ロスコの部屋」という特筆すべき展示がありますが、他にも素晴らしい作品が展示されています。その一つが、このレンブラントです。まず、購入されたレンブラントの作品が日本に存在する、という事実が驚きです。19世紀の印象派の絵は売買されることもありますが、17世紀のレンブラントの作品が動くことはまずありません。上野の国立西洋美術館ですら所蔵しているのは、彼のエッチングだけなはずです。

■「つば広の帽子の男」(1635)レンブラント29歳の作品


この作品では、人物の優しくも力強い視線が非常に印象的です。この視線にこの人物の、聡明さ、誠実さ、温和さが現れているように見えます。そして、こうした印象は、画面の中で絵画的にレンブラントが創り出したものです。つまり、作品にふさわしい印象を作り出すために、色彩、明暗、構図、モチーフ等々に秩序を与えていきます。そうした点を少し詳しく見ていきましょう。

▲二つの光…レンブラントの手法(おそらく彼の創案)

レンブラントは多くの作品で二つの光の位置関係によって、絵画の中にドラマを作り出しています。この事実は、画集をめくっていただければ、どなたにも納得していただけるはずですが、典型的なのはミュンヘンに展示されているキリストの磔刑と復活に関連する5点の連作です。

  1. 処刑前のキリスト
  2. 死の直後のキリスト
  3. 埋葬されるキリスト
  4. 復活するキリスト(画面四時方向にぼんやりと描かれている)
  5. 昇天するキリス
    ト

処刑前では肉体そのものが輝いていますが、埋葬では復活を予感させる光が描かれ、復活では光の主体は身体ではなく、天使の側にあります。つまり、二つの光の関連性でドラマを演出しているのです。

▲「つば広の帽子の男」における二つの光

この絵の明るい部分は、人物の右頬から右肩の襟にかけて、並びに人物の背後にある壁の部分です。この明るい部分に着目しますと、背後から前方やや上への動きが感じられるはずです。そして、その動きがこの人物の視線の方向とおよそ一致することが分かるはずです。

▲つばの形

帽子のつばは画面右側では波打っていて、しかも幅狭く描かれ、画面左では膨らんだ形として伸びやかに広がっています。この形そのものに、私たちはどのような動きを感じるでしょうか。右側は萎んでいくようであり、左側は膨らんでいくようです。ですから、この形に私たちの感情を乗せて動きますと、画面右から左に向かっての動きを感じ取れるはずです。

▲襟のひだ

幾何学的に100%ある位置を指し示すわけではありませんが、主なひだの方向を、直線としてではなく動きの方向で延長すると、そのほとんどが、人物の右目領域に集まります。

つまりこの作品では、人物の右目を中心に、画面後方右側から画面手前への動きが作り出され、それが人物の視線の持つ印象へと変るのです。

2014年8月28日木曜日

エジプト期の人類の意識

Gottfried Richter著 Ideen zur Kunstgeschichte(芸術史における理念)を参考に

■エジプトの芸術

まず、メンカウラー王の彫像を詳しく見てみよう。

深彫りのレリーフのようで、板状の背景から三者が並んで前方に歩み出ている。背景から最も前方に出ているのは、メンカウラー王の左足であるが、その左足も背景の板とつながっている。右側の人物は両手に、王は左手に短い棒状の物を握っていて、非常な緊張感が漂っている。また、王は右手で女神と手をつないでいる。

背景と最も繋がりを感じさせるのは、三人すべて頭部の上にある部分である。左の女神イシスでは角と太陽円盤、メンカウラーでは冠、右側の人物では頭部から伸びた飾りのようなものである。

この彫像には、板状の背景から前方に歩み出る際の非常な緊張感が見られる。

この背景を仮定的に霊的世界と考えてみよう。すると、メンカウラー王はイシスに付き添われ、この物質界に緊張を持って歩み出ていると見ることができる。

■ケフレ王の座像

ケフレ王の座像も興味深い。

座ってはいるものの、身体全体に緊張感がみなぎっている。右手には短い棒状の物を握り、左手は膝の上にぴったりと置かれている。背筋はしっかりと伸び、堂々とした体躯もリラックスはしていない。頭部は前方に向けられ、身体に比べて解放された印象を受ける。
ところが、このケフレ王の座像を横から見ると、まったく違った事情が見えてくる。

正面からは見えない形であるにせよ、タカが両翼でケフレ王の頭部を抑えているのである。タカはホルス神と考えられる。つまり、王という存在の背後には、霊的存在であるホルス神がいて、常に王にささやきかけている。
エジプト期の人類は、まだまだ霊界とのつながりが強く、懸命に地上界に出てこようとしている、と言えるだろう。

■エジプト文化期との関係

シュタイナーの観察によれば、エジプト文化期(第三後アトランティス文化期)は紀元前3000年くらいから、紀元前800年くらいまでである。ここで紹介した像は、その後期のものである。しかし、エジプト芸術には「過去の踏襲」という特徴があり、かなりの年月を経ても、芸術表現はあまり変化していない。その意味で、上の彫像はエジプト文化期の基本的雰囲気を示していると考えても、問題はないだろう。

ロマネスク文化に現れた意識

■未開民族としてのヨーロッパ

原則としては、ゴルゴタの時が人類の最下降点であるが、それは人類の中でも最も進んだ状態で、人類の他の大多数は、その後も物質への下降を続け、物質とのきちんとした出会いに向かう。ギリシャ、ローマ、パレスチナ人に比べ未開人であったヨーロッパ人もその例外ではなく、その歩みが芸術の中に表れている。

■ロマネスク

12世紀末に始まるゴシック期に先駆け、ヨーロッパではロマネスク文化が広がった。ここには、まだ地上化しきっていない人類がさらに地上に向かう方向が読み取れる。
フランスのシャルトル大聖堂はゴシック建築として有名であるが、その西のファサードは1194年の大火でも焼失を免れ、それを残した形で再建されている。

■シャルトルの彫像

西の入り口の両側には、聖人が柱状のモチーフの中に彫り込まれている。

ここでは、その一点にだけ注目する。

足下である。小さな山の上に立っているのか、つま先がかなり下を向いている。この形を体験と共に観ると、これがまだ地上にきちんと立っていないことがわかる。重さの中にきちんと定位していないのである。

■聖母子の比較

次のステンドグラスは、シャルトルで焼失を免れた聖母子の、世界で最も美しいステンドグラスの一つである。

これについても、ゴシック様式との比較で一点だけ触れておく。
それは、母と子の位置関係である。ロマネスクでは、子は母の領域を越えることなく、母の輪郭の内側に留まっている。

しかし、ゴシックでは(ここでは彫像なので比較としては最適ではない)子どもが母の輪郭線の外に出ている点である。
つまり、母的存在に完全に守られているのを快しとするか、母的存在からはみ出しているのを快しとするかの、人間意識の差であるとも言える。
つまり、完全に地上存在に成りきれず、霊的世界(母親)に包まれている状態にあるロマネスク人と、霊的世界から踏み出し、重さとせめぎ合うのがゴシック人と言うことができる。

■二つの「栄光のキリスト」

バルセロナの北、ピレネーのカタロニア地方には、カタロニア・ロマネスクと呼ばれる様式が残っている。
その一つが下の「栄光のキリスト」である。

全体に素朴な絵であるが、ここではその目に注目する。

いわゆる三白眼で、黒目は上を向いている。ここでは多くの作品は紹介できないが、カタロニア・ロマネスクではこの三白眼は珍しくはない。



それに対し、先進地イタリアのサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」では趣がかなり違う。

まず、その目である。

黒目がしっかり座り、地上的存在になっていることを感じる。
さらに特筆すべきは、キリストが座っているクッションである。

クッションが跳ね上がっているのである。つまり、このキリストには《重さ》がある。言い換えると、完全な地上存在になっているのである。
繰り返しになるが、このような絵が描かれたのは、それを見る人びとの意識が、それを求めたからである。つまり、絵や芸術作品の変化は、その時代を生きる人間の意識の変化を示している。そして、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会では、重さのあるキリストを身近に感じたのである。

■言い訳

カタロニアとサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」の時代を比べると、実は、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の方が古い。しかし、私はこれを「地域の発展度」の違いと勝手に解釈している。

ルネサンス・・・自らの内に中心を感じる

■ブレネレッキによる透視遠近法の発明

ヨーロッパにおいて、自我の目覚めはルネッサンスにおいてやって来ます。その中でも特筆すべき出来事は「透視遠近法」の発明です。透視遠近法によって、人類は外的物質空間を描き始めます。それ以前の絵画では、「対象に対する内的な近さ」によって描き分けられていました。つまり、重要な人物は遠方に居ようと、大きく描かれるのです。その意味では「内的意識空間」が絵画に反映されていました。ところが、透視遠近法により、物質空間が絵画に取り込まれたのです。



透視遠近法においては、

  • 自分から遠ざかる平行線が、画面上の消失点交わり、
  • その消失点は、画面に向かった私の視線の延長線上にある、

という現象が起こります。言い換えますと、透視遠近法では、空間内の無限遠点を意識するのと同時に、私の立ち位置も意識せざるを得ないのです。
このように、ルネッサンス期には、人間が物質的外界と出会うことで人間も自分自身の地上存在を意識し始めるようになります。その代表的な作品が、ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』とデューラーの諸作品、特に『自画像』です。

▲ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』

細部まで「見えるままに」描ききろうとする努力は明らかです。

凸面鏡の中には、描いている自分も描き込まれています。
諸説はありますが、絵のほぼ中央に自らの名前を署名しています。個としての自分をしっかりと意識していたことが伺われます。

▲デューラーの『自画像』

デューラーも名人芸的描写力で物質界を描きました。そしてまた、自画像という画題が、自己意識の強い現れであることも確かです。

■それ以前の兆候

13世紀のジョットでは、絵画の中に情景の意味が深く盛り込まれています。それが当時の意識と合致していたのです。


スティグマを受けるフランチェスコ

14世紀に活躍したシモーネ・マルティーニの『受胎告知』では、背景は完全に金屏風になっています。その意味では、ガブリエルによる受胎告知を物質界からは離れて描いたように見えます。



しかし、全体をよく観ますと、この画家が床の大理石を丁寧に描いていることがわかります。



画家としての情熱を注いでいる、と言ってもよいかもしれません。このように、「物質に対する目覚め」は着実にやって来ていて、それがルネッサンスで花開いたのです。

■ブレネレッキによるフィレンツェのドゥオモ



フィレンツェの大聖堂を完成させたのも、最初に紹介したブレネレッキです。その空間体験は、それ以前のゴシック様式とはまったく違います。

ゴシックの天井

ゴシックでは、《内部》は強く感じますが、《中心》はありません。ところが、ドームではその構造からも明らかですが、《中心》を強く感じるのです。そして、ルネサンスの人びとは、それをよしとしたのです。

デゥオモの内部

2014年8月10日日曜日

シュタイナー教育的水彩プロセス:クリスマスツリー

■クリスマスツリー


11月から12月かけての季節、クリスマスツリーはよく取り上げられる題材です。
4年生のぬらし絵で取り上げることができますが、3年生でも状況によっては可能でしょう。
別の所でも書きましたが、1、2年生からぬらし絵で具象画を描かせる先生が「シュタイナー教育」の看板を掲げていたら、無知か詐欺のどちらかです。



結果を見ると、普通のぬらし絵です。
しかし、描いていくプロセスには特別な体験があります。

■描画プロセス


まず、青で寒く、暗い、しかしどこか清らかな雰囲気を描いていきます(プラッシアン・ブルー)。しかし、すべてを塗り尽くしてしまわずに、上に白い部分を残します。


その白い部分を星形に整形し、内側から聖なる光としての黄色を入れます。
整形は子どもには難しいので、丸のままでもいいですし、教師が手伝ってやるのもよいと思います。
筆はよく洗い、ピュアな黄色(レモンイエロー)が描けるようにします。
その星から、光が左右に振れながら、柔らかく降りてきます。
最後に、光が温かさに変わり、バーミリオンで幹を描きます。

■物質的な観方と精神的・霊的な観方

この描き方は、物質的にはありえない方向です。しかし、イエスの降誕という事実の意味を深く考えますと、非常にリアルな表現です。
これをリアルと感じ取れる人は、子どもたちと一緒に描いてみてください。

■あわせてご覧ください。


【重要】低学年はなぜ《ぬらし絵》?

アントロポゾフィー絵画が目指す《色彩からの造形》

2014年5月27日火曜日

見える美と、シュタイナー教育が目指す見えない美

■二人のヴィーナスの素性

プラトンの『饗宴』には、パウサニウスの話として、二人のヴィーナスが紹介されています。

・ウラニアのヴィーナス

宇宙の神ウラノスは大地の女神ガイアと交わり、子どもをもうけますが、ウラノスはそれをことごとく殺してしまいました。それでもガイアは我が子を密かに洞窟に隠し、ウラノスの手から子どもを守りました。

そしてあるとき、ウラノスがガイアと交わろうとして降りてきたところを、その子どもの一人であるクロノスが大鎌を振るい、そのペニスを切り落とし、海に投げ入れたのです。するとそこから泡が立ち上り、女神ヴィーナスが生まれた、というのです。これがウラニアのヴィーナスです。
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・パンディモスのヴィーナス

ゼウスとディオネの間に生まれた女神で、結婚の神とされています。

■二人のヴィーナスのより深い解釈


この二人の素性について、ネオプラトニズムの哲学者プロティノスが興味深い考察をしています。つまり、ウラニアのヴィーナスの方は、叡智の直接の娘であり、物質界(感性界)と関係しない女神だと言うのです。

ラテン語では、《母=mater》(マーテル)ですが、これは《物質=Materie》と同じ起源です。「母がいない」というのは「物質と関係しない」という意味でもあるのです。

このことから、ギリシャ時代から2人のヴィーナスに象徴される二種類の《美》が知られていたと思われます。実際、《美》には二種類あります。つまり
  • 物質的であり、目で見ることのできる美(物質的・感覚的な美)
  • 物質とはかかわらず、目で見ることのできない美(精神的・霊的な美)
前者については、誰もが知っているでしょう。しかし、後者を体験するには、精神的なものに対する感覚を育てなくてはなりません。そして、数学とは、そうした美に対する感覚を育てるための重要な一分野なのです。(このblogの数学関係の内容は、すべてこの方向を意識しています。)
『数学セミナー』という雑誌には、専門家が出題し、読者に解答を求めるページがあります。そのページは「エレガントな解答を求めます」というコーナーです。同じ解答でも、無骨なものも、エレガントなものもあるのです。

あるいは、芸術作品でも、見える美しさがその作品の価値を決めるのではなく、見えない美しさこそが価値を決めると言ってもよいでしょう。当然ながら、両者を兼ね備えた作品もありますが、見える美に傾きがちな人間を見えない美に目覚めさせるべく、見てくれは決して美しくない芸術作品も二十世紀以降、数多く創作されてきました。たとえば、マルセール・デュシャンの『泉』です。これは、世界の美術評論家の投票でピカソの『ゲルニカ』を抑えて1位を獲得した、二十世紀最高の芸術作品と言われるものです。間違いなくスリリングで天才的な作品ですが、その姿は決して美しくはありません。

シュタイナー教育が希求する美は、間違いなく目に見えない美です。目に見える美も無視することはありませんが、それはあくまでも、目に見えない美への橋渡しの役割しかなく、それが自己目的化することはありません。

■資料、プラトンとプロティノスの抜粋(共に、中央公論社刊、世界の名著より)

プラトン『饗宴』(アプロディテ=ヴィーナス)
[プラトン] 饗宴より
プロティノス『エロスについて』
[プロティノス]プロティノス

2014年5月8日木曜日

シュタイナー教育、低学年の音楽でカギとなる「五度の雰囲気」

 

「五度の雰囲気」についてのシュタイナーの言葉

シュタイナー学校の1~3年生の音楽で一番のカギになるがこの「五度の雰囲気」です。このことをシュタイナーは『人間の音体験』(1923.3.7)の中で言っています。
9歳までの子どもは長調や短調の雰囲気を正しく捉えることはできません。この頃の子どもは、五度の雰囲気の中にいるのです
しかし、これだけでは何を言っているのか、ほとんどまったくわかりません。
ですので、シュツットガルトの教員養成ゼミナールで教えていた、故ピーター=ミヒャエル・リーム先生の教えをまとめ、関係者の理解の助けになればと思います。
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「五度」の現象、「五度体験」

音楽で五度と言ったら、インターヴァル(音程)を指します。たとえばラとその上のミ、あるいは下のレの関係です。
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五度の振動数
五度のインターヴァルは、ラを432Hzとしますと、ミは648Hzに、下のレは288Hzになります。
振動数の比で言えば、低:高=2:3になります。
五度の体験=呼吸(着地せずに漂う)
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たとえば上の楽譜のように、「レーラー、レーラー、レーラー」という五度の音形をゆったりとしたテンポで繰り返します。するとしだいに呼吸がその音に同調してきます。自然に低い音で息を吐き、高い音で息を吸うようになるのです。
これが五度体験の核です。そして、高音(吸気)で少し眠り、低音(呼気)で少し目覚める体験をします。これを普通の長調音階と較べると、その差がさらに際立ちます。つまり、長調音階では、基音(ド)でしっかりと着地する体験をするのに対し、五度では漂う感覚しかありません。
五度、2:3、呼吸、肺の不思議な関係
五度と呼吸は密接に結びついていますが、人間の肺の形態とも興味深い対応を示します。左肺は二葉、右肺は三葉に分かれているのです。
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肺の模式図
シュタイナーが言う「五度体験」とは
私たちの「五度体験」は「呼吸」と関連しました。ところが、シュタイナーの観察によれば、「五度体験」では、自我の呼吸、つまり自我の出入りの体験がそこにあるのだそうです。『人間の音体験』の第1講でシュタイナーが五度体験について述べていることを挙げると次のようになります。
  • ルネッサンス以前では、人間の体験は五度体験が中心であった。
  • 五度体験の中で人間は自分が他者の中に移るのを感じた。
  • 天使が私の中で歌う、という感覚を持った。
  • 主観が入り込む余地はなかった。
  • 器楽伴奏を必要とし、無伴奏では歌えなかった。器楽音楽や無伴奏歌唱が可能になるのは三度体験の後である。
ルネッサンス以前の人間の意識
これを示す芸術作品を紹介しましょう。

これは、ルネッサンスの前のゴシック、そこからさらに少しさかのぼったロマネスクの「栄光のキリスト」です。この目を見ると、地上に降りきっていない、漂う雰囲気を感じ取れるでしょう。ロマネスク・栄光のキリスト
ロマネスクでは他にも「漂う」感覚が見られます。シャルトル大聖堂西正面の彫刻群です。ちなみに、シャルトルの大聖堂は1194年の焼失後に再建されたゴシック建築です。しかし、これらの彫刻群は焼失を免れ、ロマネスクの風情を残しています。
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ここで特に注目していただきたいのは、その足下です。足がしっかり着地しておらず、全体に浮遊感を漂わせていることがお分かりいただけると思います。
「私」という感覚が自分の中にしっかり入り込んではおらず、出たり入ったりを繰り返していた状態だったと思われます。これが「五度体験」です。幼児が何かに見とれているとき、その状態はまさに「心ここにあらず」で、自分が外に出て行き、対象と一体になっていることがうかがわれます。「自分が他者の中に移る」のです。そしてまた、先生や親のお話に聞き入るとき、子どもの心はそのお話に満たされています。「天使が私の中で歌う」体験に比することができるでしょう。
幼児の場合、私としての体験はもちろんありません。そのことを端的に現す現象があります。幼稚児にとって、お母さんが自分の友だちを全員知っているのは当然のことなのです。自分の体験と母親の体験を分離することはできません。このように主観と客観が一体ですと、そこに自分の主観が入る余地はありません。
 無伴奏で歌を歌うと、多くの人はある困難に気づきます。音高(ピッチ)を正確に保てないのです。勝手にどんどん転調していきます。調性をキープするためには、「自分をしっかり」保たなくてはなりません。それは幼児には不可能ですし、ルネッサンス以前の人びとにも困難であったことでしょう。
これは子どもの成長にも観察されます。小学校1、2年生では、みんなと一緒なら、歌も歌えるし、詩も朗読できますが、「一人で歌って(朗読して)ごらんなさい」と要求しても、それはできません。シュタイナー教育では、このような成長の法則を無視したことは行いません。しかし、9歳を越えたなら、「独唱」が教育的な価値を持ち始めます。
「五度体験=自他の出入り」に関連する音楽的要素
五度から作られるスケール
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ラを中心に、上下に五度レとミをとり、さらにそこから五度のソとシをとります。
次に、低いソを上に、高いシを下に一オクターヴずらします。すると、レミソラシレミのスケールができます。五度の雰囲気の音楽では、このスケールが好まれて使われます。
拍子
五度の振動数比は2:3でした。その2と3を拍子に関連づけ、2拍子系と3拍子系を検討してみましょう。これらには異なる雰囲気があります。
3拍子系…ワルツなど踊りの動きも円運動で、循環しつつ高揚していく雰囲気がある。人は地上的に自分に戻る。
2拍子系…典型的には行進曲で、地上との強い結びつき。ポルカの踊りは直線的。天上的なものと結びつく。
それゆえ、古来3拍子系はtempusperfectus(完全なるテンポ)と呼ばれ、天上的世界を表す音楽に用いられましたし、拍子記号も円形が用いられました。音楽ではありませんが、フォルムにおいても円は天上的、直線は地上的なもののシンボルです。
唱法
古来、唱法には2つの種類があります。つまり、ジルベ的唱法(音節唱法)とメリスマ的唱法です。
ジルベ的唱法とは、一つの音符に一つの語音が対応する歌い方です。歌のほとんどの部分はこの唱法で歌われます。メリスマ唱法の代表的な例は、有名なクリスマス・キャロル「荒野の果てに」の後半部分、つまり
グローォォォォオーォォォォオーォォォォオーリア
の部分です。メリスマ唱法では母音を伸ばし、幾つもの音符に渡って歌うのです。この唱法の差をきちんと体験しますと、ジルベ的唱法では自分の中にきちんと居る感じを持ちますし、メリスマ唱法では意識が外に出て行くのを感じ取ります。
五度の雰囲気
このように五度の雰囲気の神髄は「天上的雰囲気と地上的雰囲気の行き来」にあります。そして、それを実現するための手段は
  • スケール
  • 2拍子&3拍子
  • ジルベ唱法とメリスマ唱法
  • 歌詞
が考えられます。
天上的 3拍子 メリスマ唱法 天上的内容
地上的 2拍子 ジルベ唱法 地上的内容

音色としては、重さを感じさせないキンダーハープの音色がまず第一に考えられます。

五度の雰囲気の作例

「食前の祈り」JuliusKnierim作曲
まず、クニーリムによる五度の雰囲気の曲をご紹介します。「食前の祈りの歌」です。
Erde, die uns dies gebracht,
Sonne, die es reif gemacht.
Liebe Sonne, liebe Erde,
euer nie vergessen werde.
大地がこれらをくださいました
太陽がこれらを実らせました
愛する太陽、愛する大地、
私たちは決して忘れはいたしません
(クリスチャン、モルゲンシュテルン)
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このメロディでは中心のa’を基点にして、d’-a’、a’-e"というように、上下に五度圏をとり、それらを同等に扱っています。言い換えると、a’を境目にして、上下に二つの世界(五度圏)が接していて、音楽の中でその二つの世界を行き来するのです。しかも、この曲は上下でほぼ完全に対称な形になっています。そして、この音楽には、独特の浮遊感があります。二つの世界を行き来していて、地上に降りてこないのです。
さて、この曲では、拍子にも工夫がなされています。「愛する太陽、愛する大地」と呼びかけるところで、2拍子系から3拍子系に転換し、その際のインターヴァルは五度です。ですから、拍子の点でもインターヴァルの点でもこの箇所では二つの世界を行き来するのです。
この曲の特徴をまとめると、
  • 五度から作られるペンタトニックの構成音を用いている。
  • a’-e’’,a’-d’の二つの五度圏を行き来している。(しかも、対称に)
  • 歌の中で、純粋な五度が際立つようになっている。
  • 2拍子系(地上的)と3拍子系(天上的)を組み合わせている。
  • 歌詞にも、「大地」(地上的)と太陽」(宇宙的)という二つの内容が取り入れられている。
朝の歌(ピーター=ミヒャエル・リーム作曲)sample http://1drv.ms/1mFuMbe
Ich sah, ich sah,
wie die Sonne kam,
die Erde ganz in die Arme nahm;
In Menschenaugen,
in Blütenschalen
sah ich die Sonne
wiederstrahlen。
私は見る、私は見る、
お日様がやって来て
大地すべてを抱くのを
人間の目に、
花の器に、
私は見る、お日様の光が
照り返しているのを。
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この詩では「人間の目に、花の器に」のところで地上的な〈物〉に出会います。それ以前の太陽や大地は具体的に目に入りきるものではありません。このように歌詞が地上的になる部分で作曲者のリームは3拍子系から2拍子系に転換しています。

鳥の揺りかご(ピーター=ミヒャエル・リーム作曲)
シンプルだけど絵が見えるようで、個人的にはとても好きな曲です。
Leise gehet,
leise wehet
durch die Zweige
hin der Wind
auf und nieder,
hin und wieder
schaukelt er das Vogelkind.
静かに過ぎる
静かにそよぐ
小枝を抜けて
風が行く
高く、低く
行っては帰り
風はヒナをやさしく揺する
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最初の2小節で情景を描き出します。風が枝の間を渡っていくようすが8音で表現されてはいないでしょうか。リーム先生は「詩と音楽が一体であること」をとても大切にされました。それは、シューベルト、シューマン、ブラームスといったドイツ歌曲の伝統を受け継ぐものでもありました。この2小節は3拍子系でゆったりと浮かんでいる感じを表現しています。
次の2小節では拍子が6拍子、つまり3+3の2拍子系に変わり、動きが現れ、実際に風が渡っていきます。
終止の部分は「ミソー」です。これを仮に「ラソー」あるいは「レソー」に変えますと響きがより地上的になります。なぜなら、ソで終わるがゆえにト長調的であるにとどまらず、直前音がドミナント和音(レ♯ファラ)の構成音になり、ト長調の機能和声的終止になるからです。逆に「ソシー」あるいは「ソラー」で終わりますと、より注に浮いた感じになります。これは、調性感が薄くなるからです。
このように見ますと、同じレミソラシ・ペンタトニックを用いて、いろいろな雰囲気の音楽が作れることがわかります。法則として以下のようにまとめることができます。
就学前の子どもに対して ラ、またはシによる終止
1、2年生 機能和声的でなくソで終止
3年生の前 機能和声的にソで終止

小川がせせらぐ(ピーター=ミヒャエル・リーム作曲)
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Es plaudert der Bach
vom Felsenge mach,
vom steinernen Tisch,
von Vogel und Fisch,
von Sonne und Stern,
von Blüte und Kern.
Wer still ist und lauscht,
der hört, was da rauscht.
小川が鳴る
岩の間から
石のテーブルから
鳥や魚について
お日様や星について
花や実について
心静かにそれに耳を傾ければ
密かな言葉が聞こえてきます

この曲の聴きどころはとりあえず2箇所あります。3小節目に「岩」が出てくるところで「音楽と詩が一体」の法則が見られます。水が段差をもって落ちる様が下降7度で表現され、その下降が繰り返されます。次に9小節目から冒頭の繰り返しが始まります。そして、同じように進行するのかと思いきや、13小節目で雰囲気が全く変わります。「Still」つまり「静か」という言葉が出てくるところで上昇9度の跳躍が現れ、さらにはリズムも2拍子系に変わり、意識が目覚めます。内的には目覚め、外的には思わず息を呑むような静けさが支配する雰囲気が表現されています。
歌の中で高い音が現れると大きな声、ともすると叫び声になることがしばしばあります。しかし、高い音であるからこそピアニシモで歌われることで大きな感動を呼ぶ場合が少なくありません。一流歌手はそのことをよく知っています。このリーム先生の曲に低学年で出会った子どもは、それを無意識に身につけてしまうのかもしれません。
わらべ歌の特性
ペンタトニックを用いて日本人がメロディをつくると
キンダーハープなどを手にとり、レミソラシ・ペンタトニックを用いて自由にいろいろとメロディを作っていきます面白い現象が現れます。多くの日本人の作るメロディがどこかわらべ歌風なのです。それくらい、わらべ歌の雰囲気が日本人の心に染み付いているとも言えるでしょう。
さて、こうして現れるわらべ歌風のメロディをよくみますと、そこには大きな特徴が二つあります。その一つは4拍子の曲が多い点です。日本語のリズムの基本が4拍子ですから、自然にそこに行き着くのでしょう。(三三七拍子と言っているものも、休符を考えたら4拍子系ですし、パソコン、デジカメなどの省略語もそのほとんどが4拍子です)。
わらべ歌風のメロディの終止形の意味
わらべ歌風メロディのもう一つの特徴は、(レミソラシ・ペンタトニックを用いた場合)「・・・レミー」という形で終わっている点です。そして、この現象は注目に値します。
ミで終わっているということは、それが基音であることを暗示しています。これはホ短調です。また、その前の音がレですが、これはBm(シレ♯ファ)のコードの構成音です。こうしたことを考えますと、「・・・レミー」という終止系はホ短調のドミナント⇒トニカ(Bm⇒Em)という機能和声的カデンツになっていることがわかります。
つまり、多くのわらべ歌の音楽的背景は二六抜き短調+機能和声である、と言えるでしょう。またこうした音楽の人間に対する作用を考えますと、それは「自己の中に入り込む働き(基音のある調性音楽であること)、しかも肉体的な部分にまで入り込む働き(短調であること)と言えるでしょう。
これは別にわらべ歌が他の音楽に対して優れているとか劣っているとかを意味するものではありません。私にとっては、会話や文章の中で主語を省略し「私」という語を入れない日本文化の中にあって、自我を自分に結びつける働きをどこかで必要としたことの現れのように思えます。
わらべ歌と五度の雰囲気は全く別の質
その意味では日本人にはわらべ歌的なものが必要であると考えることができます。しかし、それは五度の雰囲気の音楽とは全く異なった質を持っています。ですから、五度の雰囲気の音楽とわらべ歌を同一に用いることはできません。それをしてしまったら、腹痛に風邪薬を処方するようなものです。教師にとって必要なのは、その両者の特質を理解し、それを状況に応じて使い分けることなはずです。
新たな文化をつくる
このように見てきますと、五度の雰囲気の曲は自分たちで新たに作っていかなくてはならないことがわかります。これは誰にでもできることではありませんが、新たな文化をつくるという意味でも非常にやりがいがあるのではないでしょうか。