霊学の観点からの医術の拡張


水声社刊『アントロポゾフィー医学の本質』と同じ原文からの翻訳です。


霊学の観点からの医術の拡張(独&和)

目次


第1章 人間を真に認識することが医術の基礎となる

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01-01
本 書では、医学知識と医療技術のための新たな可能性を示す。また本書の内容は、ここに述べた医学的見解の基礎となる視点を受け入れることができるとき、初めて正当に判断することができる。
01-02
現行医学の科学的方法に異議を唱えることが本書の主眼ではない。私たちは現代医学をその諸原理からすべて認めている。そして、現代医学の意味において正当な医師のみが、本書で提供する事柄を臨床的に実践できる、というのが本書の見解である。
01-03
現在認められた科学的方法によって人間について知ることができるが、私たちはそれに違った方法から得られる知識を付け加えるだけである。そしてそれゆえ、この拡張された世界認識、人間認識から医術の拡張に取り組む必要性を感じる。
01-04
現代医学を否定しているのではないので、本来、ここでの内容に現代医学からの反論はないはずある。他人が自分の知識を認めなければならない、というだけでなく、さらに要求を強め、自分の認識を超えるものを持ち出してはいけない、とする人ならばこの私たちの試みを初めから否定できる。
01-05
世界認識、人間認識をさらに拡張するものを、私たちはルドルフ・シュタイナーが基礎付けたアントロポゾフィーに見ている。現代自然科学的方法では、それでしか得られない人間における物質的な認識が得られるが、アントロポゾフィーではそれに霊的人間という認識を付け加える。アントロポゾフィーでは、物質についての諸認識を単に熟考することで霊的認識に移行するのではない。この道筋では、出来の善し悪しはあるにしろ、仮説からは逃れられず、その仮説が何らかの現実と対応しているかは誰にも証明できない。
01-06
霊的なものについて発言する前に、アントロポゾフィーでは、発言をすること自体を正当にする方法を作り上げる。この方法を理解するために、次のことを考えてみよう。現在認められている自然科学のあらゆる成果は、基本的には人間の諸感覚で捉えたことを元にしている。というのは、実験や観察で装置を使い自分の感覚によって得られるものを拡張するにしろ、感覚を介して人間が生きるこの世界における体験に、本質的に何ら新しいものは付け加えていないからである。
01-07
また思考を通してであっても、それが物質世界での研究で用いられる思考であるなら、感覚的なものが与えるもの以外には何ももたらさない。思考では、法則(自然法則)を得るべく、感覚的印象を組み合わせ、分析し、等々を行う。しかし、感覚世界の研究者はこう言わねばならない。この私から湧き出る思考は、感覚世界における現実なるものに、何らか現実を付け加えることはない、と。
01-08
生活や教育から得た思考に留まりさえしなければ、事情はすぐさま変わってくる。この思考自体を強めることができるのである。単純で容易に見渡せる考えを意識の中心に置き、他の考えは一切排除し、魂のすべての力でそのイメージに集中することができる。筋肉を同じ方向で繰り返し伸縮することで筋肉を強化できるように、ここで述べた練習を行うと、思考の領域においても、魂的な力を強化できる。この練習では簡単で容易に見渡せる考えを基礎にしなければならない点は、強調しておかなくてはならない。なぜなら、魂がこの種の練習を行っている間は、無意識的なもの、あるいは半無意識なものから一切影響を受けてはいけないからである。(ここではそうした練習の原理だけしか示すことができない。個別の場合にそうした練習をどのように行うか、についての詳細な導入や解説はルドルフ・シュタイナ-の著作『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』や『神秘学概論』などアントロポゾフィーの文献に述べられている。)
01-09
誰かが全力を傾注してある特定の、意識の中心に据えられた考えに没入したら、自己暗示に類するあらゆるものにさらされ、容易に妄想世界に入り込む、という反論はすぐにでも上がりそうである。アントロポゾフィーでは同時に、練習をどのように進めるかも示している。それゆえこの反論は正当とは言えない。アントロポゾフィーが示しているのは、この練習の間、意識の中では、あたかも代数か幾何学の問題を解いているのと同じように、完全に熟考的なやり方で進んでいく様子である。問題を解く際には意識が無意識に滑り落ちることはあり得ないのと同様、アントロポゾフィー的手引きに正しく従うなら、ここで述べた練習中にもそうしたことは起こらない。
01-10
この練習の結果、それ以前には予想もできなかったほどに思考力が強化される。自分の中で力を発揮するこの思考力は、新しく付け加えられた人間存在のひとつの実質のように感じられる。また同時に、この自身の人間本性の実質と共に、以前には予感はあったかもしれないにしろ経験を通して知ることはなかった宇宙実質(内容)が開示する。少しだけでも一度、自己観察によって通常の思考をよく見てみると、感覚によって与えられる諸印象に対し、考えとは影的にすぎないことがわかるだろう。
01-11
強化された思考力で知覚するものは、色褪せた影のようなものではない。実質に満ち、具体的-像的である。そして、感覚印象の内容よりもずっと密な現実である。上述の方法で自らの知覚能力を拡張したなら、新たな世界が立ち現れてくる。
01-12
感覚世界で知覚できたのと同じように、この世界での知覚を身につけると次の二つが明らかになる。以前に知っていた自然法則は物質世界でのみ成り立つこと、さらには新たに足を踏み入れた世界の本質が、物質世界とは異なる法則、それどころか逆の法則において成り立つこと、である。この世界では地球の引力法則は成り立たない。その逆である。地球の中心から外に向かって働く力ではなく、反対に地球を取り巻く宇宙という周辺から地球の中心に向かって作用する力が立ち現れる。物質界の他の諸力についても、相応のことが言える。
01-13
アントロポゾフィーの中では、この世界を見るための、練習によって獲得されたこの人間の能力をイマギナチオーン的認識力と呼んでいる。イマギナチオーン的という根拠は、それが《空想》にかかわるからではない。そうではなく意識の内容が、影的な思考産物ではない像で満たされるからである。そして、感覚知覚を介した直接体験において現実に居ると感じるのと同様に、イマギナチオーン的認識での魂的活動においてもそれを現実と感じる。この認識に関連する世界をアントロポゾフィーではエーテル界と呼ぶ。これは二十世紀初頭物理学の仮説的エーテルではなく、霊的に実際に見られたものを言っている。エーテルという名称は、古くにこの世界が本能的予感されたときのものと呼応している。現在明確に認識されうるものに比べれば当時の予感は認識としての意味はない。しかし、何かを指し示したいときには名前が必要である。
01-14
このエーテル界の中では、人間の物質的な体に並存するエーテル的な体を知覚できる。
01-15
このエーテル的な体は、その本性から植物界にも見られる。植物にはエーテル体がある。物質法則は、事実として、生命のない鉱物の世界でのみ成り立つ。
01-16
地上には、物質法則の範囲内に留まるのではなく、あらゆる物質法則を退け、それに背反する法則を受け入れることができる物質素材があるがゆえに、植物界が可能なのである。物質法則はあたかも地球から外に流れ出るように、エーテル法則は宇宙のあらゆる周辺部から地球に向かって流れ込むように作用する。植物界での生成においては、地上的物質的なものと宇宙的エーテル的なものの共同作用を見なければ、それを理解することはできない。
01-17
人間のエーテル体についても同じことが言える。人間の中ではエーテル体によって、肉体の諸力からなる法則的な作用をそのまま拡張した何かが起きるのではなく、物質的素材が宇宙的エーテル的なものの中に流れ込むことでまずその物質的諸力を脱ぎ捨てることを基盤とする何かが起きる。
01-18
このエーテル体内で活動する諸力は、人間の地上生の最初期…最も顕著にはその胎児期…には形成力および成長力として作用する。地上生が経過するにつれ、この諸力の一部が形成や成長から解放され、思考力になる。通常の意識にとっての影的思考世界を作り出す思考力になるのである。
01-19
人間の通常の思考力は繊細化された形成・成長諸力である。これを知っていることには非常に大きな意味がある。人間生体の形成や成長には霊的なものが開示している。さらには、この霊的なものが年齢を経るなかで思考力という霊的なものとして現れる。
01-20
この思考力は、エーテル界に吹き渡る人間の形成・成長力の一部である。エーテルの他の部分は人生のはじめに担った課題に忠実にとどまる。形成や成長が進み、ある程度それが終わっても、人間はさらに発展する存在であるからこそ、生体内で活動し作用するエーテル的・霊的なものが、その後の人生で思考力として現れうるのである。
01-21
このようにイマギナチオーン的な霊的観照においては、形成的(塑像的)な力が一方ではエーテル的・霊的なものとして開示し、もう一方では思考の魂的内容として現れてくる。
01-22
ここで地上物質素材という素材物質的なものをエーテル的形成内までたどると、次のように言えるはずである。つまり、これらの物質素材はエーテル的形成の場に入ると必ずある存在を受け入れる。そしてその存在によって物質素材は自分が担っている物質的性質から自分自身を異質化する。この異質化によって、これらの物質素材はある世界に入り、そこに霊的なものがやって来て、物質素材を霊固有のものに変容するのである。
01-23
19世紀中葉まで、生きた身体を説明するために《生命力》という非科学的な主張が残っていた。しかし、上に述べられたように、人間のエーテル的・生命的構成要素にまで上っていったものは、それとは本質的に異なる。ここで問題となるのは、実際の観照である。つまり、人間を含むあらゆる生物の内には、肉体と同様に実存する構成体があるが、その構成体を実際に観照すること…霊的なものを知覚すること…が問題なのである。この観照を行うためには、確実な方法もなく通常の思考で考え続けても無駄である。また、空想力によって別世界を考え出しても役立たない。そうではなく、まったく精確な方法で人間認識を拡張し、それによってもうひとつの拡張された世界に経験を広げるのである。
01-24
より高次の知覚をもたらす練習はさらに先へ進め得る。意識の中心に置いた考えに集中する際には、より高められた力を用いた。さらにその上に、より高めた力を用い、得られたイマギナチオーン(霊的・エーテル的現実の像)を消し去る。すると完全な無の意識状態が得られる。目覚めてはいるがそこに何の内容もない目覚めである。(より詳しくは前掲書を参照のこと。)しかし、この内容なき覚醒状態はそのままであることはない。物質的印象もエーテル的・像的印象もすべて無になった意識はある内容に満たされる。それは、物質世界の印象が感覚に流れ込んでくるのと同様に、リアルな霊界からその人間に流れ込んでくる。
01-25
イマギナチオーン認識を介して人間の第二の構成要素を知った。そして、無なる意識を霊的内容で満たすことで第三の構成部分を知る。アントロポゾフィーでは、このようなやり方で成立する認識をインスピラチオーン認識と呼ぶ。(この表現を誤解しないいただきたい。この表現は古い時代の霊界を見る本能的なやり方に由来する。しかし、ここでの意味は、すでに精確に述べてある。)インスピラチオーンによって参入しうる世界を、アントロポゾフィーではアストラル界と名付けている。…すでに説明したように、ここで《エーテル界》について語るとき、それは周辺としての宇宙から地球に向かう作用を意味している。しかし、インスピラチオーン的意識による観察の意味で《アストラル界》について語るときには、宇宙の周辺部からの作用から特定の霊-諸存在へと移行している。そして、地上素材が地球から外へ向かう諸力の中で開示しているのと同じ意味で、この霊-諸存在は宇宙周辺部からの作用の中で開示している。夜空を見て星や星座について語るのと同じようで、ここでは宇宙の彼方から作用する具体的な霊-諸存在について語っている。それゆえ《アストラル界》と表現される。このアストラル界で人間はその構成要素の第三の部分を担っている。人間のアストラル体である。
01-26
このアストラル体の中にも、地球的素材が流れ込む必要がある。こうしてさらに地球的素材は自らをその物質的本性から異化する。…エーテル体を植物界と共有しているように、人間はアストラル体を動物界と共有している。
01-27
人間を動物界よりも高き存在にするもの、本来の人間的構成要素は、インスピラチオーンよりも高次なやり方で認識される。アントロポゾフィーではそれをイントゥイチオーンと呼ぶ。インスピラチオーンではある世界の霊的諸存在が開示する。イントゥイチオーンでは認識者としての人間とこの世界との関係がより密になる。完全に目覚めた意識そのものの中に純粋に霊的なものを持ち込み、さらにそれが肉体を介した体験とはまったく無関係であることを、意識を持った経験として直接に体験する。それによって人はある営みに身を置く。他の霊的諸存在の間にあって、人間霊としてそのままであるような営みにである。インスピラチオーンでは世界の霊的諸存在が開示し、イントゥイチオーンによって人はこれらの霊的諸存在と共に生きる
01-28
このようにして、人間の第四の構成要素、つまり本来の《自我》を認めるに至る。ここでもまた、地上的素材がこの《自我》の本質と活動に入り込むことで、自身をその物質性からさらに異質化している様子が見られる。《自我機構》としてこの物体素材を受け入れる構成要素は、とりあえずは地球的素材のフォルムとなる。そして、その中の素材は地球的物質的あり方から最も異質化されたものである。
01-29
こうしたやり方で《アストラル体》や《自我》として知ったものとは、人間生体内においてエーテル体と同じような仕方で肉体と結びついているのではない。インスピラチオーンやイントゥイチオーンによれば、睡眠中は《アストラル体》と《自我》は肉体やエーテル体から離れ、覚醒状態のときにのみ人間本性の四つの部分が完全に相互に入り込み合った人間的統一存在が実現されることがわかる。
01-30
睡眠中、人間の肉体やエーテル体は、物質世界やエーテル界に留まっている。しかしそのときの肉体やエーテル体は、植物のそれと同じ状態ではない。それらは内にアストラル体と自我存在の余韻を残している。そして、この余韻をもはや止め置くことができなくなる瞬間に必然的に目覚めがやってくる。人間の肉体は決して単なる物質世界の作用に、人間のエーテル体は決して単なるエーテル世界の作用に支配されてはならない。そうなると、両者は崩壊するだろう。
01-31
さてインスピラチオーンやイントゥイチオーンによってはまた別なことも示される。物質的素材はエーテル的作用圏に移行することで、その本質がさらなる形成を受けることになる。有機的な体は地上的本質から引き離され、地球外の宇宙から入り込むもので形成されるが、生命とはまさにそのことに依拠している。この構築だけだと生命は持つが、意識自己意識には至らない。アストラル体が自らの機構を肉体とエーテル体の中に構築しなくてはならない。同じことを自我は自我機構に関して行う必要がある。しかし、この構築においては魂の営みの意識的展開は生じない。それを実現するには、構築の対極にある分解が行われる必要がある。アストラル体は自らの器官を構築し、そして魂の意識内で感情活動を展開することで、それを再度分解する。また、自我は《自我機構》を構築し、そして自己意識の中で意志活動を働かせることで、それを再度分解する。
01-32
霊は、人間構成体の中では構築的素材活動を基盤に自らを展開することはなく分解的なものを基盤とする。人間内で霊が活動している所では、素材は自らの活動から退かなくてはならない。
01-33
エーテル体内における思考の発生ですら、エーテル的本性がそのまま続くことではなく、それが分解されることが基盤になっている。意識的思考とは、形成や成長といった過程の中で起こるのではない。そうではなく、エーテル的成り行きに組み込まれた形態崩壊、萎縮、死滅といった過程の中で起こる。
01-34
意識的思考では、身体的形成から考えが離れ出て、魂的形成として人間に体験される。
01-35
さて、こうした人間認識を基盤に人間本性を見ると、人間全体であるにしろ個々の器官であるにしろ、それを見通すことができるのは、肉体、エーテル体、アストラル体、そして自我がそこにどのように作用しているかを知ったときだけであるとわかる。主に自我が活動している器官もあれば、自我の作用はわずかで、肉体機構が支配的な器官もある。
01-36
高次の人間構成体が自分らの役に立たせるために、どのように地球素材に力を与えているかを認識したとき、また、地球素材が人間本性の高次な部分の活動領域に入り込むことで、どのような変容を遂げるのかを認識したときに、そのときにはじめて健康な人間を見通すことができるのと同様に、人間の高次の構成部分が変調に陥った場合に、全生体、あるいはある器官あるいは一連の器官がどのような状態になるか、を見通したときに、はじめて病気の人間を理解することができる。そして、地球素材ないしは地球的経過がエーテル的なもの、アストラル的なもの、自我に対してどのように振る舞うか、それについての智を発展させたときにのみ、治療手段について考えることができる。なぜなら、そうしたときにはじめて、人間生体内に地球素材を薬として導入することによって、あるいは何らかの地上的活動による治療によって働きかけることができるからである。それによって、人間構成体の高次の部分が何の制約も受けずに自らを展開することができるし、あるいは、地球的素材がそれを投与された患者にとって必要な道筋をつける補助となる。その道筋では、地球的素材が基盤となり、霊的なものが地上的作用を及ぼすのである。
01-37
人間は、肉体、エーテル体、魂(アストラル体)、そして自我(霊)によって本来の人間である。健康な人間では、本来、この四つの部分について観察しなければならない。病気の人間では、これら諸部分の阻害されたバランスを見なければいけない。病人の健康のために、この阻害されたバランスを再び回復させる治療方法を見つけなければならない。
01-38
本書では、そうした基盤に基づく医学的観方が示めされている。

第2章 なぜ人間は病気になるのか?

目次にもどる02-01
人間は病気になりうる、という事実を純粋に自然科学的に考えると、存在の本質自体に根付いた一つの矛盾に陥る。病気のプロセスで起きていることは、表面的に観察すれば、一つの自然プロセスである。健康な状態で相応に起きる事柄もまた、自然のプロセスである。
02-02
自然プロセスを、人はまず人間の外界で観察して知るし、人間観察をすれば、それが外界のそれとまったく同じだとわかる。ここで人間は自然界の一部であると考えている。人間における諸過程は、外界で観察しうる諸プロセスよりも非常に複雑であるにしても、それでも質としては同種と見なしている。
02-03
しかしここで、この観点から解答しえない問が生じる。人間内において、どうして健康と抗う自然プロセスが生じうるのか・・・ここでは動物については触れない・・・という問いである。
02-04
健康な人間生体は自然の一部として理解できるように見える。しかし、病気の生体はそうではない。病気の生体そのものは、自然由来ではない何かを考えることで理解しうるはずである。
02-05
人間精神(霊)の物質的基盤は、人間以外の自然界に見られるのと同様な何らかの複雑な自然プロセスと考えられがちである。外界の自然プロセスがそのまま身体内に継承された場合、それは健康な人間生体の基盤とはなるが、それは精神的体験の基盤ともなるのだろうか?まったく逆である。自然プロセスがそのままのかたちで生体内に継承されると、精神的体験は消失する。睡眠中や気絶している時がそれにあたる。
02-06
逆に、ある器官が病気になると意識的な精神の営みが冴えてくる様子を検討してみよう。痛みが起こり、あるいは少なくとも不快感や違和感が生じる。通常は経験しない内容が感情の営みに入ってくるのである。さらに意志の営みは妨げられる。健康な状態では当然のように行えた四肢の運動が、痛みや不快感によって妨げられ、行えなくなる。
02-07
ある身体部分において、痛みを伴った運動が麻痺へ移行していく様子を着目してみよう。痛みを伴った運動は、麻痺の初期である。活発化した精神が有機体(生体)に入り込んでくる。健康な状態では、この活性化した精神の働きは、表象あるいは思考の営みに現れている。人は表象(イメージ)を活性化し、四肢運動がそれに続く。最終的には生体的過程によって四肢の運動にまで至るが、人は表象と共にその生体的過程に意識的に入って行くことはない。表象は無意識の中に沈んで行く。健康状態では表象と運動の間に感情が入るが、これは単に魂的に活動する。感情はそんなにはっきりとは身体組織に寄りかかっていない。しかし、病気状態でははっきりと寄りかかっている。感情は、健康状態では肉体組織から離れたものとして体験されるが、病気時には結び付いたものとして体験される。
02-08
このことから、健康時の感情と病時の体験では、その過程が似ているように見える。つまり、健康時には病気時ほどには身体組織と結びつかない何かが存在しているはずである。霊的観察でその正体を明らかにすると、それはアストラル体である。それは可視的機構内の超感覚機構である。アストラル体が器官とゆるやかに結びつく時、アストラル体は魂的経験を引き起こすが、これは完全に魂的体験内にあり、身体と結びついている、とは感じられない。あるいは、アストラル体が器官に密に入り込むことがある。すると病気の体験を引き起こされる。生体へのアストラル体の介入が病気の一つのかたちであると考えられるはずである。この病態では、健康時よりも霊的な人間が生体により深く入り込んでいる。
02-09
思考も生体内に肉体的基盤を持っている。健康状態では、思考は感情よりもさらに肉体から解放されている。霊的に観察すると、アストラル体の他に、思考内で魂的に自由に活動している自我機構という特別なものもあると分かる。この自我機構と共に人間が肉体的なものの中に密に沈み込むと、ある状態が現れる。自己の身体観察が、外界観察に似てくるのである。… 外界の事象や出来事を観察する際には、次のような事実がある。つまり、観察者の思考と観察物の間には生き生きした相互作用はなく、むしろ相互に独立しているのである。麻痺があると、人間の四肢がこの状態になる。四肢が外界になってしまう。自我機構は、健康時には四肢とゆるやかに結びついていて、動作時にはそれと結びつくもののすぐにまた離れることができるが、それができる状態ではない。自我機構が四肢に入り込んだままで、そこから抜け出せない。
02-10
ここでも、健康な運動過程と麻痺を同列に見ることができる。確かに、これは明らかである。健康状態の運動とは、始まるそばから止められる麻痺なのである。
02-11
病気の本質は、アストラル体あるいは自我機構が、物質体と密に結びつくことにある、と見なくてはならない。しかしこれは、健康状態におけるよりゆるやかな結合が単に強まっただけである。また、アストラル体や自我機構による人体への正常な介入とは健康な生命過程と類縁なのではなく、病的過程と類縁なのである。霊や魂が働きかけると、身体の通常状態は棚上げされ、逆向きのものに変えられる。しかしこれによって、両者は生体を病気状態への途につかせる。通常の営みでは、この状態が発生するとすぐに自己治癒力が調整する。
02-12
霊的あるいは魂的なものが肉体に入り込み過ぎ、自己治癒がきわめて緩慢にか、あるいはまったく行われない場合に、一つの病態が生じる。
02-13
つまり病気の原因は、霊的ないし魂的能力の中に求めるべきなのである。したがって治癒とは、魂的ないし霊的なものを肉体組織から引き離すことにある。
02-14
これは病気の在り方の一つの種類である。もう一つ別の形態がある。通常は自我機構やアストラル体は肉体とゆるやかに結びついていて、これが自立した感情、思考、意志の前提条件となっているが、この両者が離れ過ぎる可能性もありうる。すると、健康な過程の延長線上にあるものが、霊や魂が入り込めない諸器官や諸過程の中に過剰に入り込む。こちらの場合を霊的に観察すると、肉体組織はそれでも単に外界の非生命的プロセスを遂行しているのではないことが分かる。肉体組織にはエーテル体が浸透している。肉体組織だけでは自己治癒過程が呼び起こされることは決してない。それはエーテル有機体の中で点火される。そのことから、健康とは、その起源をエーテル有機体中に持つ状態であることが分かる。それゆえ、治癒とはエーテル体への手当の上に成り立つ【註 第1章で述べられた内容を第2章の内容と比較するなら、ここで問題となることがよりよく理解される。】。%注

第3章 生命の諸現象

目次にもどる03-01
食物として取り込まれた素材の活性のあり方が、外界にあったときと同じかたちで生体内に継続される、と考えていては、健康にしろ病気にしろ、人間生体を理解することはできない。生体が摂取する素材には人体外で何らかの作用が見られるが、ここで重要なのは、その作用の継続ではなく、克服なのである。
03-02
外界の素材がその特性のままに作用を体内でも継続するというのは錯覚であるし、通常の化学的思考法ではそう見えるが故にそう錯覚している。化学的思考ではその研究に沿って、たとえば水素は外界でも体内でも同じように存在する、と信じ込んでいる。なぜなら、水素は飲食を経て取り込まれた栄養物中に含まれ、その後、気体、汗、尿、便などの排出物中や、胆汁のような排泄(分離or分泌)物中に見られるからである。
03-03
生体に摂取される前と排出された後に水素として現れるものに、生体内では何が起きているのか、と問う必要性を今日、誰も感じていない。
03-04
こうは問わない。水素として現れるものが生体内で何をやり通してきているのか?
03-05
この問いを考えると、注意はどうしてもすぐに睡眠中と覚醒中における生体の違いに向けられる。睡眠中の生体内における素材的構成要素は、意識や自意識を伴う体験を展開させるための基盤ではない。しかし、それは生命を展開する基盤ではある。この関連で言えば、睡眠中の生体と死体は区別される。死体では、素材的基盤がもはや生命のためのものではない。この違いを死体と生体における素材の組み合わせの違いと捉える限り、理解は先に進まない。
03-06
半世紀近く前に、優れた生理学者デュボア・レーモンは、素材の働きからは決して意識を説明できない、と指摘した。彼は言う、特定数の炭素・酸素・窒素・水素原子が過去、現在、未来にどう配列するかには必然性があり、さらにはその配列変化がどのように「赤を見る」とか「バラの香りを嗅ぐ」 といった知覚を引き起こすのか、といった問題を人は永遠に洞察できないだろう、と。こうした事情から、自然科学的思考法では、覚醒中の知覚する人間は決して説明できず、説明できるのは睡眠中の人間だけである、とデュボア・レーモンは考えた。
03-07
この見解で彼はある錯覚に囚われていた。素材の働きからは、意識現象は生じえないが、生命現象は生じうる、と彼は信じたのである。ところが実際には、デュボア・レーモンが意識現象について語ったのと同じことを生命現象についても言わなくてはならない。特定数の炭素・酸素・窒素・水素原子が過去、現在、未来にどう配列するかが生命現象が引き起こされる理由ではない、と。
03-08
生命的諸現象と無生物的諸現象が異なった方向性を持つことは、観察によってわかる。無生物的諸現象はこう言えるだろう。無生物的諸現象では、素材の本性から放射する諸力、…相対的な意味で…中心から周辺への諸力がそれを支配していると分かる。生命現象では、素材は外から中に向かって働く諸力、…相対的な…中心に向かって働く諸力が支配していると分かる。生きたものへ移行するには、素材は外に向かって放射する諸力から離れ、内に向かって射し込む諸力に自らを組み込まなくてはならない。
03-09
さて、いかなる地上的素材や地上的経過も、地球から外に放射する力を持ち、それと同じグループに属する。そうした素材は、化学がそう見る通り、物的地球の構成部分でしかない。その素材が生きはじめるとき、地球の一部であることから脱しなくてはならない。その素材は地球との共同体から抜け出る。その素材は、地球外のあらゆる方向から地球に向かって降り注ぐ諸力に取り込まれる。生命が展開する素材や過程ではこう考えざるをえない。つまり、それらは地球の中心から作用する諸力に類するものから抜け出し、中心点ではなく周辺を持つ領域に入る、と。
03-10
この諸力はあらゆる方向から働きかけ、あたかも地球の中心を希求するかのようである。この諸力は本来地球圏の素材的なものを完全に無形態にしてしまうはずである。しかし、この諸力空間には、その形態解消を変更する地球以外の天体からの作用が混ざっているので、そうはならない。これらのことは植物で観察しうる。地球素材は、植物内では地球の作用圏から引き上げられている。それらは無フォルムを目指す。無フォルムへ移行しつつも、太陽作用に類する宇宙的作用がそこに変更を加える。こうした変更がない場合、あるいは夜間などには、素材内にある地球共同体に由来する諸力が再び主導権を持つ。そして、地球的諸力と宇宙的諸力の共同作業によって植物存在が生じる。地球的影響下の諸力の作用を受けつつ素材がさまざまに展開する領域全体を物質的としよう。そうすると全く別種の諸力、すなわち地球から放射するのではなく、地球に射し込んでくる諸力には別な呼称を与えなくてはならない。前章では人間生体のある一面を示したが、ここではそれとは別なもう一面が見られる。近代物理学的思考法の影響で混乱を招いているにしろ、古来の意味と整合性を保ちつつ、私たちは人間生体のこの部分をエーテル的と名付けた。植物の中、つまり生命を持って現れるものの中では、エーテル的なものが力を発揮している、と言わざるをえない。
03-11
生きた存在という点から見れば、人間内でもエーテル的なものが力を発揮している。しかし、単に生命の諸現象だけを見ても、植物とは決定的に違う。太陽エーテルの働きが終わる夜間など、宇宙からのエーテル作用が展開されなくなると、植物の中では物質的作用が力を発揮する。人間存在が身体を物質的な諸力に委ねるのは、死後である。睡眠中、意識的現象および自己意識的諸現象は消失している。しかし、宇宙からの太陽エーテルが作用せずとも生命的諸現象は存続している。植物は枯れるまで、地球に射し込むエーテル諸力を絶え間なく取り込む。しかし人間は、胎生期からエーテル諸力を個体化し内に持っている。植物がこのように宇宙から得ているものを、人間は生涯、自分自身から汲み出す。さらなる発達に向けたエーテル力を人間はすでに母体内で受け取っているからである。宇宙的起源を持ち、地球に向かって射し込む作用を持つように定められたある力が、肺ないしは肝臓から作用する。この力は方向においてメタモルフォーゼを遂げている。
03-12
それゆえ、人間はエーテル的なものを個体化して内に持っている、と言わなくてはならない。人間は物質的なものを個体化し、肉体形態や肉体諸器官として持っているが、それと同様にエーテル的なものも持っている。人間は独自の肉体と同様、独自のエーテル体を持つ。睡眠中もエーテル体は肉体と結びついたままで、肉体に生命を与える。死においてのみ肉体から離れる。

第4章 感受する有機体の本質について

目次にもどる04-01
植物形態や植物生体は完全に二つ力領域による成果である。つまり地球から放射する力と地球に射し込んでくる力である。しかし、動物や人間のそれはこの二つだけの成果ではない。植物の葉は完全にこの二つの力領域の影響下にある。また動物の肺もこれらの影響下にあるが、影響はそこからだけにとどまらない。葉にとっての形成力はすべてこの領域にあるが、肺の形成にはこれらの領域外の力もかかわっている。このことは、外的フォルムを与える諸力だけでなく、内部での物質的な運動を調整し、特定の方向を与え、結合分離を司る諸力についても当てはまる。
04-02
植物が吸収した素材が周囲から地球へ射し込む諸力の領域に達したときにその生死が問題になる、と言えるだろう。植物内にあっても、周辺からの諸力作用を受けなければこれらの素材は命を持たない。この周辺からの諸力の影響下に入って生命を得る。
04-03
しかし、植物素材が命を持つにしても、植物各部がその活動に伴い過去現在未来にどのような位置にあるかにはまったくかかわらない。そのあり方は外に放射する諸力や内に差し込む外界の諸力に完全に委ねられている。動物的物質素材は、この両諸力とは別な作用領域に入る。これらの素材は生体内でも運動するし、生体全体としても運動するが、この運動は内から外に放射する諸力や外から内に射し込む諸力にだけ従っているのではない。それゆえ動物の形態形成は、地球から外に放射する諸力や地球に向かって射し込む諸力の領域とは無関係である。
04-04
植物の場合、上述の諸力の協働により周辺部から射し込む諸力がオンオフする。こうして植物存在は二つの部分に分かれる。一方は生命に向かう、完全に周辺領域に入った部分であり、成長や開花を担い、芽を伸ばす器官である。もう一方は命を失う方向にあり、外に放射する諸力の領域に留まっている。これには、成長を硬化させたり、生命にとっての支えとなるものなどすべてが含まれる。この両部分間で、生命は燃え上がり、また消えていく。そして植物における死とは、放射する諸力の働きが射し込む諸力よりも優勢になることに過ぎない。
04-05
動物の場合、一部の物質素材がこの二つの力領域とは完全に別なところにある。その結果、植物よりもさらにもう一つの構成部分ができる。器官形成に、この二つの力領域に留まるものと、それらから抜け出たものの二つが生じる。この二つの器官形成の間に相互作用が生じる。そしてこの相互作用こそが、動物的物質素材が感受性を持ちうる原因である。それに伴って、動物物質素材と植物物質素材は外観も違い、性質も異なるのである。
04-06
動物生体内には、地球からの放射力領域や地球への入射力領域とは独立した一つの力領域がある。物質的・エーテル的作用領域以外にアストラル領域が存在するが、これについてはすでに別の観点から述べた。《アストラル的》という表現に戸惑うことはない。放射する諸力は地上的であり、射し込む諸力は地球を取り巻く宇宙・周辺的諸力である。そして、《アストラル的》諸力は、この両者より上位にある。《アストラル的》諸力は、この二種類の力よりも高次の何かを内に持つ。これが、地球自体を初めて天体に、《星》(アストルム)にする。地球は、物質的諸力によって自らを宇宙から分離し、エーテル的諸力によって自らに宇宙を作用させ、《アストラル的》諸力によって宇宙における独立した個になる。
04-07
動物の有機体において《アストラル的》なものは一つの構成部分をなし、それはエーテル有機体や物質有機体が独立し、自己完結した構成部分であるのと同じである。それゆえこの構成部分を《アストラル体》と呼ぶことができる。
04-08
動物的機構の理解は、物質体、エーテル体、アストラル体の間の相互関係に着目したときにはじめて可能になる。なぜなら、この三つすべてがそれぞれに動物機構内で独立した構成部分をなすからである。ただし、この物質体やエーテル体は、外界の無生物的物体(鉱物)や命を持つ植物有機体のそれとは異なる。
04-09
動物の物質有機体は非生命的と言えるが、それでも鉱物的・無生命的なものとは異なる。動物の物質有機体は、まずエーテル有機体とアストラル有機体によって鉱物的なものから異質化され、その後、エーテル的・アストラル的諸力が後退することで、再度、非生命に戻される。動物の物質有機体においては、鉱物界において働く諸力や、地上界で作用する諸力は、単に破壊的に作用しうるだけである。鉱物的なものからの破壊的攻撃に比してエーテル的アストラル的諸力が優勢であるときにだけ、動物の物質有機体は動物有機体全体に奉仕しうる。
04-10
動物のエーテル有機体は、生きているという点では植物と同様であるが、その在り方は植物とは異なる。動物エーテル体の生命はアストラル的諸力によって、生命内にあって異質なものに変わっている。この生命は、地球に射し込む諸力から引き離され、その後再度この領域の中に置かれている。このエーテル有機体は一つの構成体であり、その中に単なる植物的諸力が存在するが、それは動物機構にとってはぼんやりし過ぎている。アストラル諸力がエーテル有機体作用に光を与えるときにのみ、エーテル有機体は動物生体全体に役立ちうる。エーテル有機体の働きが優勢になると入眠し、アストラル的有機体が優勢になると覚醒する。
04-11
睡眠と覚醒の両者とも一定の限界を超えて活動してはならない。睡眠が限界を超えると、生体全体で植物的なものが鉱物的な方向に傾くであろう。すると、植物的なものの過剰繁茂という病的な状態が生じるだろう。また覚醒が限界を超えると、植物的なものが鉱物的なものから完全に異質化されるだろう。するとこの鉱物的なものは、生体内において生体に沿ったフォルムではなく、生命からはずれ生命なきフォルムを取るだろう。鉱物的なものが過剰繁茂し、病的な状態が生じるだろう。
04-12
物質的、エーテル的、アストラル的な三つの有機体すべてに、物質的素材は外から入り込んで来る。この三つは、それぞれの仕方でその物質の固有性を克服しなければならない。それにより、諸器官の三分節構造が生じる。物質機構が諸器官を形成するにあたっては、エーテル的及びアストラル的機構を通り抜け、その後で物質領域に戻ったものとして形成する。しかしこの(物質)領域に完全にたどり着くことはありえない。そうなってしまった場合、それは有機体の死だからである。
04-13
エーテル有機体が作る諸器官は、アストラル機構を通り抜け、さらにアストラル機構から絶えず離れようとしている。これらは内には、睡眠的朦朧状態へ至る力がある。また、単なる植物的営みを展開する傾向もある。
04-14
アストラル有機体が形成する諸器官は、植物的営みから自らを遠ざけている。しかし、これらが存続できるのは、植物的生命が繰り返しそこにやって来るときだけである。なぜなら、これらの諸器官は地球から外に放射する力とも地球に射し込んでくる力とも親和性を持っておらず、もし地上的領域からの影響を繰り返し受けなかったとすると、地上的領域から完全に落ちこぼれてしまうからである。これらの諸器官の中では、動物的なものと植物的なものがリズムを持って交互に作用する必要がある。このリズムある交互作用が睡眠と覚醒の交代を制御している。睡眠中においては、アストラル的諸力の諸器官も植物的営みの朦朧状態にある。このとき、これらの諸器官はエーテル領域や物質領域に全く作用していない。それらは、地球から放射し、地球に射し込んでくる諸力領域に完全に委ねられている。

第5章 植物・動物・人間

目次にもどる05-01
動物の形態形成はアストラル体において行われるが、これは外に向けては動物の全形態に、内に向けては諸器官の形成になる。感受能力を持つ動物的物質素材は、この形成作用を持つアストラル体の一つの成果である。この形成作用が最後まで行われると、動物的なものができあがる。
05-02
人間においてこの形成作用は最後までは到達しない。それは途上のある地点で止められ、抑制される。
05-03
植物の中には、地球に射し込む諸力によって変容される物質素材が存在する。これは命を持った物質素材である。この物質素材は、命無き物質素材と相互作用をしている。植物存在の中では、絶えず命無き物質素材から命ある物質素材が湧出的に分離してくる、と考える必要がある。この命ある素材の中で植物形態が生じるが、それは地球に向かって射し込む諸力の成果としてである。これによって物質素材の流れが生じる。命なきものが命あるものに変容し、また命あるものが命なきものに変容する。この流れの中で植物の諸器官が発生する。
05-04
植物では命のあるものが命なきものから生じたが、それと同様に、動物では感受能を持つ物質素材が命のある素材から生じる。つまり、二通りの物質素材の流れがある。エーテル内において、生命は形態形成的生命にまではならない。生命は途上に止められる。そして、アストラル機構がその流動的生命に形態形成を押し込む。
05-05
人間においては、このプロセスもまた途上に止められる。感受的物質素材は、さらなる機構の領域に引き込まれる。これは自我機構と名付けられる。感受的物質素材はさらにもう一度変容する。三通りの物質素材の流れが生じる。この流れ中で、内的にも外的にも人間形姿が生じる。こうしてこの人間形姿は、自己意識的な精神活動の担い手となる。最も微小な物質素材に至るまで、人間とはこの自我機構の成果なのである。
05-06
さて、この形成作用を物質素材の側でたどることができる。ある段階から次の段階に物質素材が変容する際には、下段から上段への排泄(分離)として素材が生じるし、形態の構築はこの排泄(分離)された素材によって行われる。植物では、命なき物質素材から命ある物質素材が排泄(分離)される。この排泄(分離)された物質素材に、地球に向かって射し込むエーテル諸力が形態形成的に作用する。まずは本来の意味における排泄(分離)は起こらず、エーテル諸力が物質的素材を完全に変容する。しかし、種子形成だけがこれ(素材の完全なる変容)に当たる。種子は母体植物に包まれ、物質的諸力の作用から守られているので、種子形成においてはこの完全な変容が可能なのである。種子形成が母体植物から離れた段階では、植物の諸力作用に分化が起きる。一方はエーテル領域に向かう物質素材形成、もう一方はそれが再度、物質的形成に向かう方向である。こうして植物存在に、命に向かう道筋をたどる部分と、死へと向かう部分が生じる。この死に向かう部分は、植物生体の排出部分として現れる。樹木の樹皮形成はこの排出のとりわけ特徴的な例である。
05-07
動物では、二通りの排泄(分離)と、二通りの排出が進行している。最終段階にまでは至らず途上に止められた植物的なものにさらなる変容が加わり、生きた物質素材から感受する物質素材が作られる。この感受的素材は、単に生きているだけの素材から排泄(分離)される。ここでは、一方に感受する存在に向かう物質素材、もう一方にそこから離れ、単に生命に向かう物質素材が関係する。
05-08
しかし、生体ではあらゆる部分が相互に作用し合う。排出とは生命なきものに向かうものであり、植物ではほとんど完全に生命のない、鉱物的なものにまで達するが、それでも鉱物的なものそれ自体とは距離がある。植物の樹皮形成に見られる物質素材形成では、鉱物に向かう途上にあり、鉱物化すればするほど植物からは離れるが、動物でそれに相当するものは消化の排出物である。これは植物の排出物よりも鉱物から離れている。
05-09
人間では、この感受的物質素材から自己意識を持つ精神の担い手となる物質素材が排泄(分離)される。しかし、絶えず排出も同時進行しているので、感受能力をめざすだけの物質素材も生じる。人間生体内部でも、動物的なものが継続的に排出されつつ、存在している。
05-10
覚醒状態にある動物生体では、排泄(分離)、排泄(分離)されたものによる形成、さらに感受的物質素材での排出がアストラル活動の影響下にある。人間ではこれに自我有機体の活動が加わる。睡眠中、アストラル有機体および自我有機体は直接的活動をしていない。しかし、これらの活動は物質素材を捉えており、ちょうど慣性のように活動が継続する。アストラル機構や自我機構の側から行われるやり方もそうであるが、ある物質素材が一旦完全に形成されると、それは睡眠状態でもこれら二つの機構のやり方で、いわば慣性として作用し続ける。
05-11
つまり、睡眠中の人間でも、生体内の植物的活動だけを問題にすることはできない。アストラル機構と自我機構が物質素材を形成していて、睡眠状態でもその中でこの両者が作用し続ける。睡眠と覚醒の相違とは、人間的-動物的作用と、植物的-物質的作用が交代することではない。事実関係は全く異なる。感受的物質素材や自己意識的精神を担いうる物質素材は、覚醒中には生体全体より高いところに引き上げられ、アストラル体と自我機構のために働く。そのとき肉体やエーテル有機体は、地球から放射する諸力と、地球に射し込んでくる諸力だけが作用してくる状態で活動しなくてはならない。こうした作用のあり方では、肉体とエーテル有機体をアストラル体と自我機構が外側からだけ捉えている。しかし睡眠中は、アストラル体と自我機構の影響下で生じた物質素材がこの両者を内側から捉える。睡眠中の人間に対し、宇宙からは、地球から放射する諸力と地球に射し込む諸力のみが作用している一方で、内側からは、アストラル体と自我機構が準備した物質素材の諸力が働きかけてくる。
05-12
もし感受的物質素材をアストラル体の残りと名づけ、自我機構の影響下で生じた物質素材を自我機構の残りと名づけるなら、次のように言えるだろう。覚醒中の人間生体では、アストラル体と自我機構自体が作用し、睡眠中の人間生体では、両者の素材的残りが作用している。
05-13
覚醒時の人間は、アストラル体や自我機構を介して外界と結びく活動を行っている。睡眠中の肉体やエーテル有機体は、素材にまで達した、アストラル機構と自我機構の残りによって生きている。酸素のような物質素材は睡眠中も覚醒中も呼吸によって吸収されるが、こうした物質素材の働きはこの二つの状態で区別されなくてはならない。外から取り込まれた酸素は、それが持つ性質から、睡眠に誘い、覚醒には向かわせない。酸素吸収が多くなると異常な仕方で眠り込む。覚醒中にはアストラル体が酸素吸収に伴う眠気を誘う作用と闘っている。アストラル体の肉体に対する作用が止むと、酸素の固有の性質が発揮される。眠り込むのである。

第6章 血液と神経

目次にもどる06-01
個々の器官の活動を生体全体とのかかわりにおいて見ると、特に印象深いのが血液形成と神経形成である。血液形成は摂取された栄養物を元に行われ、血液生成過程全体は自我機構の影響の下にある。自我機構の作用は、舌や口蓋における知覚を伴った意識的な過程に始まり、無意識、あるいは意識下で行われるペプシン、膵液、胆汁などの過程にまで及ぶ。その後、自我機構の作用は減退し、栄養素材を血液素材へとさらに変容する過程においては、主にアストラル体が働く。このアストラル体の作用は、呼吸プロセスにおいて血液が空気(つまり酸素)と出会うところまで続く。この地点ではエーテル体が主たる活動を行っている。呼気内に含まれる炭酸とは、身体を離れるまではおおよそ、(知覚する物質素材でも死んだ物質素材でもなく)単に生きた素材である。(エーテル体の作用を内に担ったものはすべて生きている)。この生きた炭酸の大部分は生体から離れる。わずかな部分は生体内で、頭部器官をその中心とする諸過程に働きかける。炭酸のこの部分には命なき無機的なものに移行する強い傾向があるが、もちろんこれが完全に命を失うことはない。
06-02
神経系はこれと逆方向である。消化器官に行き渡っている交感神経では、主にエーテル体が支配的力を発揮している。ここで取り上げている神経諸器官は、それ自体としてはほとんど単に生きているだけの器官である。アストラル機構並びに自我機構は、この神経諸器官を内側から組織化するように働きかけるのではなく、外側から働きかける。それ故、この神経諸器官内で効果を持つ自我機構とアストラル機構の影響はより強力である。激情や熱情は、交感神経に持続的かつ重大な作用を及ぼす。悲しみや心配事はこの神経系を徐々に破壊する。
06-03
脊髄神経系とそこからの分枝には、主にアストラル機構がかかわっている。それゆえこの神経系は、人間の魂的なものや反射作用の担い手であるが、しかし自我内、つまり自己意識を持つ精神内で生起する事柄の担い手ではない。
06-04
脳神経となったものが自我機構の支配下にある。ここではエーテル的、アストラル的機構の活動は抑えられている。
06-05
以上のことから、生体全体において三つの領域が生じることがわかる。下部領域では、主としてエーテル有機体によって内的に作用を受けた神経と、主に自我機構の作用下にある血液素材とが共働している。胎生期と後胎生期の発達段階におけるこの領域には、人間生体への内からの生命付与と関係するあらゆる器官形成の出発点がある。胎形成期には、まだ非力なこの部分は周囲の母体から生命付与的、形成的影響を受けている。次に中部領域を考えると、ここではアストラル機構の影響を受ける神経器官と、これもまたアストラル機構、並びにエーテル機構の上部とに依存する血液過程とが共働している。人間の形成期においてここには、外的また内的運動を仲介する器官が発生するための出発点がある。その運動を仲介する器官とは、あらゆる筋肉形成を挙げられるが、本来の意味で筋肉ではなくとも、運動の原因となるあらゆる器官を指している。上部領域では、内側から組織する自我の下にある神経と、生命なき鉱物的なものへ移行する傾向を強く持つ血液プロセスとが共働している。人間形成期においてここには、骨形成並びに人体において支持器官となるものすべての出発点がある。
06-06
人間の脳を理解するには、脳に骨形成の傾向があること、さらにはそれが発生の最初期に中断されていることが分かっていなければならない。そして骨形成においては脳化衝動が完全に最終段階にまで達している点を認識したときにのみ、骨形成を見通すことができる。そしてこの衝動作用には、外側から中部領域の衝動が入り込んでいるし、この中部領域では、アストラル的に規定された神経器官と、エーテル的に規定された血液素材とが協働している。骨を燃やすと固有の形態が残るが、その骨灰には人間機構の最上部領域に由来する成果が見られる。骨を希塩酸処理した後に残る軟骨素材の中には、中部領域からの衝動の成果が見られる。
06-07
骨格とは自我機構の物質的像である。骨形成においては、命なき鉱物的なものへ向かう人間の有機的物質素材は完全に自我機構の影響下にある。脳において自我は霊的構成要素として活動している。自我が持つ形成的力、物質にまで働きかける力は、そこではエーテル的な組織化の力、さらには物質自体が持つ力に凌駕されている。脳では、自我の持つ組織する力はかすかにその底にあるだけである。この力は生命のあるものや物質固有の作用の中に消えていく。まさにこれが、脳が霊的な自我作用の担い手である理由である。つまりそこでは、自我機構が生命的物質的活動にかかり切りになってしまわず、(自我機構が)それ自体として自由に活動できるからである。これに対し骨格は、自我機構が完全に物質化した像である。しかしここで自我機構は物質的組織化の中で完全に力を使い果たし、霊的活動としては何も残らない。それゆえ、骨中の諸経過に対しては最も無意識である。
06-08
呼吸プロセスによって外に吐き出される炭酸は、生体内部ではまだ生きた物質素材である。それは、中部領域の神経系に根ざすアストラル的活動に捉えられ、外へ排出される。炭酸の一部は代謝と共に頭部に向い、そこでカルシウムと結びつき、自我機構の作用に入り込み易くされる。それにより炭酸カルシウムは頭部神経の影響下で骨形成へと促されるが、この頭部神経には内側から自我機構が衝動が与えている。
06-09
栄養素から生ずる物質、つまりミオシンとミオゲンには血液中で沈殿する傾向がある。これらはまずアストラル的に規定された物質素材であるが、この物質素材は、エーテル体によって内側から組織されている交感神経と相互作用をしている。しかし、この二つのタンパク物質は、その一部でアストラル体の影響下にある中部神経系の作用も受けている。これによりこの両者は、タンパク質の分解産物、脂肪、糖、そして糖に類似した物質素材と類縁になっていく。このことによって、この両者は、中部神経系の影響を受けつつ、筋肉形成へ至る道筋を取る能力を得る。

第7章 治癒作用の本質

目次にもどる07-01
人間の機構総体とは、相互に入り組み合う諸過程からなる自己完結システムではない。もしそうだとしたら、魂的・霊的なものの担い手ではあり得ない。人間生体が魂的霊的なものの基盤となりうるのは、次のようなときにだけである。つまり、神経物質素材の中、骨素材の中、あるいはこれらの物質素材を巻き込んだ諸過程において、人間生体が絶えず崩壊するか、あるいは無生物的鉱物的に活動しているときである。
07-02
神経組織の中で、タンパク質素材は崩壊する。崩壊したタンパク質素材は、神経組織中では崩壊したままである。ちなみに、胚(卵)細胞などの構成体では、地球に射し込む作用の領域下で再構築される。タンパク質素材が崩壊することによって、二つのエーテル作用、つまり感覚を介して外界の事物や経過から入り込んでくるエーテル作用と、運動器官が用いられることで生じるエーテル作用が、器官としての神経を利用し、それに沿って身体の隅々まで伝わっていく。
07-03
神経内には二通りの経過がある。一つはタンパク質物質素材の崩壊である。もう一つは、この崩壊しゆく物質素材が、エーテル物質素材を伴って、全体に流入していく経過である。さらにこのエーテル物質素材は、酸、塩、リン的、イオウ的なものによって流入へと促される。(別訳:もう一つは、この崩壊物質素材へのエーテル物質素材の流入であり、酸、塩、リン的、イオウ的なものによってその流入が点火される。)そして、この二経過の均衡を保つのは脂肪と水である。
07-04
その本質を見るなら、この二経過は生体に絶えず働きかける病気プロセスである。これらのプロセスは、継続的に作用する治癒プロセスによって打ち消されなければならない。
07-05
これに対しては次のようにバランスを取っている。つまり、血液には成長や代謝プロセスの基盤となる諸過程があるだけでなく、病気の原因となる神経の諸過程に対抗する絶えざる治癒作用もある。
07-06
血液の血漿成分や繊維成分には、狭義の意味での成長や代謝に役立つ諸力がある。血液の治療的作用の元となるのは鉄成分であり、これは赤血球を分析すると見られる。それゆえ鉄は胃液中にも見られ、また酸化鉄として乳糜(にゅうび)中にも現れる。こうした場所では、あちこちに神経プロセスに対抗的な諸過程の源泉が作られている。
07-07
血液を検査すると、鉄とは、人間生体内で結晶化能力への傾向を持つ唯一の金属であることがわかる。それゆえ鉄が発揮する諸力は、外界の物質的・鉱物的な自然力の持つそれと同じである。これらの諸力は、人間生体内で、外的・物質的な自然に則った力系をなしている。ところがこの力系は絶えず自我機構によって克服されている。
07-08
ここでは二つの諸力系を問題にしている。それぞれの起源は、神経諸過程と血液形成である。神経過程の中では発病的過程が展開されるが、その上限は、それに対抗する血液過程による治癒力を越えることはない。神経過程とは、アストラル体が神経物質素材に、そしてそこからさらに生体全体に作用を及ぼす過程である。血液過程では、人間生体に外的な物質的自然が入り込むものの、そこに自我機構が立ち向かい、自我機構による形成に従わせる。
07-09
この相互作用において、発病的過程と治癒的過程を、直接に捉えることができる。神経プロセスでは正常程度に活性化される過程が、生体内でそれ以上に強くなると病気になる。より強めた外的自然作用を、生体内において、この発病過程に対抗させられれば治療的に作用できる。ただし、この外的自然作用を自我機構が克服し、それによって逆向き(病気)プロセスを相殺しなければならない。
07-10
乳中に含まれる鉄分はわずかである。乳は発病的作用が最も少ない物質素材である。血液はあらゆる発病的なものを引き受け続けなくてはならない。それゆえ血液は有機化された鉄分、つまり自我機構のなかに取り入れられた鉄、ヘマチンを、持続的作用を持つ治療薬として必要とする。
07-11
内部組織中に現れる病的状態に作用する治療薬、さらには作用は外からであっても生体内で進行する病的状態に作用する治療薬においては、まず次の事柄を認識することが重要である。つまり、神経器官で進行するタンパク質崩壊は正常範囲内であるが、アストラル機構によって生じるそれと同じ意味でのタンパク質崩壊が、生体内のどの部位でどれくらい生じているのかを認識する必要がある。仮に下腹部で停滞が生じているとしよう。そこで生じる痛みとは、アストラル体の過剰活動の証である。この場合、上で特徴を見てきた事態が腸組織で生じている。
07-12
さらに次の問いが重要である。この過剰なアストラル作用はどうしたら緩和できるだろうか?これは血液中に物質素材を送り込むことで可能である。つまり、自我機構の中でもまさに腸器官で活動する自我機構部分があり、それが把握できる物質素材を送り込むのである。これはカリウムとナトリウムである。これらを何らかの調合剤、もしくはたとえばルリハコベ(Anagallis arvensis)などの植物機構のかたちで生体に投与すると、アストラル体の強すぎる神経作用を減ずることができる。そして、アストラル体の過剰作用状態から、血中から取り込んだ上述の物質素材を自我機構が克服する状態へと移行できる。
07-13
鉱物物質素材の適用に当たっては以下のことを配慮しなくてはいけない。つまり、何かを付加し、あるいはよりよくは調合剤としてカリウムないしナトリウムにイオウを結合させ、それによってこれらの金属を正しく血流に導き、タンパク質メタモルフォーゼを崩壊前で止めるのである。つまりイオウはその特性として、タンパク質崩壊を阻む作用を持つ。いわば、タンパク質物質素材内の組織化力を保持する。イオウがカリウムないしナトリウムと結合した状態で血流に入ると、イオウの働きは、カリウムないしナトリウムが特に親和性を持つ器官に現れる。それがこの場合は腸器官なのである。

第8章 人間生体における活動。糖尿病

目次にもどる08-01
人間有機体は、(四つの)構成体全てを貫く諸活動を繰り広げ、またその諸活動の活動衝動は自身の内でのみ始まりうる。外部から取り込むものには、次の二通りしかない。人間自身の活動を展開するに当たっての単なるきっかけであるか、あるいは、それが生体内に入り込んだ瞬間に、それが持つ異物的活動が生体内活動と区別が付かない働きをするかのどちらかである。
08-02
人間に不可欠な栄養素には、例えば炭水化物がある。その一部はデンプンに類似する。デンプンそれ自体は植物中で作用を展開する物質素材である。デンプンが人体内に取り込まれたときには、植物内で到達しうる状態にある。この状態ではデンプンは(人間生体にとって)異物である。摂取されたデンプンには特定方向の活動性があり、人間生体はその方向では何の活動も展開できない。例えば、人間の肝臓内で作られるデンプン類似素材(グリコゲン)は、植物デンプンとはいくらか異ったものである。それに対し、人間生体内の活動と同種の活動を喚起する物質素材にはブドウ糖がある。ゆえにデンプンは人間生体内ではデンプンのままではいられない。デンプンが体内で何らかの役割を果たすためには、変化させられる必要がある。つまりデンプンは、口腔内のプティアリンに浸されることで糖に変化する。
08-03
タンパク質と脂肪はプティアリンによって変化しない。これらは、とりあえずは異物として胃に入る。胃が分泌(分離・排泄)するペプシンによってタンパク質は変化分解され、ペプトンができる。ペプトンが持つ活動衝動は、身体のそれと一致する。それに対し、脂肪は胃中でも変化しない。脂肪は膵臓の分泌(分離・排泄)産物によって変化させられ、死んだ生体から、グリセリンと脂肪酸として生じる。
08-04
ところがデンプンから糖への変化は、消化過程全体を通して行われる。プティアリンによって変化を受けなかった場合、デンプンは胃液でも変化させれれる。
08-05
プティアリンがデンプンを変化させる場合、この過程は、第2章で自我機構と命名したものの活動領域の境界部で行われている。この領域で、外部から摂取されたものが最初に変化させられる。ブドウ糖とは、自我機構の領域内で作用しうる物質素材である。甘みの存在基盤は自我機構の中にあるが、ブドウ糖が甘みを持つのはそれに対応している。
08-06
胃液によってデンプン糊から糖が生じるが、これは自我機構が消化器系のこの領域に入り込んでいることを意味している。そこでは甘さは意識されない。それでも、《甘さ》を…自我機構の領域である…意識内で感じる際に起きている事柄は、人体の無意識領域へと入り込んでいく。そして、自我機構はそこで活動する。
08-07
第2章との関連で言えば、第一の無意識領域とはアストラル体である。胃におけるデンプンから糖への変化では、アストラル体が活動している。
08-08
自我機構が、何かに圧倒されたり妨害されることなく、十全に活動できるとき、人間は意識を持ちうる。プティアリンの作用領域内がこれに当たる。ペプシンの作用領域では、アストラル体が自我機構を圧倒している。自我活動がアストラル的活動の下に潜っている。つまり、素材領域では、糖が存在するところに自我機構をたどることができる。糖が存在するところに自我機構が存在する。糖が生じるところでは自我機構が現れ、人間以下(植物的、動物的)の物質性を人間的な方向に向けさせる。
08-09
さて、糖尿病では糖が排出産物として現れる。ここで、人間生体の近傍で自我機構が現れるにあたっては、自我機構は破壊的作用のかたちをとる。自我機構が作用する他のどの領域を見ても、自我機構がアストラル機構の下に潜り込んでいることがわかる。糖を直接に受け取るのは自我機構内である。糖はそこで甘味のきっかけとなる。デンプンを受け取り、それをプティアリンや胃液が糖に変化させることから、口腔内や胃内ではアストラル体が自我機構と協働していて、また胃内では自我機構を凌駕していることがわかる。
08-10
糖はまた血液中にも存在する。糖を含む血液が全身を循環することで、血液が自我機構を全身に運んでいく。その全身のあらゆるところで、自我機構のバランスは人間生体の作用によって保たれている。第2章で述べたように、人間の構成体には自我機構とアストラル体の他にエーテル体と肉体がある。このエーテル体と肉体も自我機構を取り込んでいて、これを内に持っている。この状態が保たれる限り、尿中に糖が排泄されることはない。糖を担うものである自我機構の営みの様子は、生体内の糖に結びついた諸過程に現れる。
08-11
健康な状態でも、糖自体の過剰摂取や、中間変容産物を経ずに直接体内の諸過程に入り込むアルコールの過剰摂取の際には、尿中に糖が現れうる。いずれの場合も、糖プロセスが人体内の他の諸経過と並立しつつ、独立して現れる。
08-12
糖尿病の根底には次のような事実がある。つまり、自我機構がアストラル領域、エーテル領域に沈み込む際に弱ってしまい、糖素材に働きかけることができないのである。その結果、本来なら自我機構を介して糖に起こるべきことが、アストラル、エーテル領域を介して起きてしまうのである。
08-13
自我機構は身体活動に入り込んで作用するが、自我機構をそこから引き離すあらゆることが糖尿病を悪化させる。単発的ではなく継続的な興奮、過度な知的作業、全生体への自我機構の正常な介入を妨げるような遺伝的負荷などである。これらすべては次のことと関連している。頭部器官では本来なら精神的・魂的経過に並行すべき経過が生じるが、この経過が速すぎたり遅すぎたりするために並行関係にずれが生じているのである。思考する人間とは別に、いわば神経系が独自に考えている。しかしこの神経系の活動は、本来睡眠中にのみ行われるべきものである。糖尿病患者の場合、覚醒状態と並行して生体深部に一種の睡眠が進行している。それゆえ、糖尿病が進行に伴って神経素材が本来の姿を失っていく。これが、自我機構による掌握が充分でないことの結果である。
08-14
糖尿病患者では、もう一つ癤(せつ)形成(おでき)という随伴現象が見られる。癤形成は、エーテル活動が過剰になることで生じる。本来作用すべき場に自我機構が働いていないのである。アストラル作用は自我機構との調和があってはじめて力を発揮するので、そうした部位では、アストラル体は活動を展開することができない。その結果がエーテル作用過剰で、それが癤形成となって現れる。
08-15
こうしたことをまとめると、自我機構を強化しうるときにのみ、糖尿病を治癒過程に導けることがわかるだろう。

第9章 人体におけるタンパク質の役割とアルブミン尿

目次にもどる09-01
タンパク質とは、自らが持つ形成諸力を生体内でいかなる仕方でも変容させうる物質素材であり、諸器官のフォルムや生体全体のフォルムは、タンパク質素材を変形させた結果である。このように応用されうるために、タンパク質には以下の能力が不可欠である。つまり、生体内に入った瞬間に、そのタンパク質の物質的本性からのあらゆるフォルムを放棄し、必要とされるフォルムをとることができなくてはならない。
09-02
タンパク質中には水素、酸素、窒素、炭素の本性や、それら相互結合に由来する諸力があるが、前述のことからそれらが崩壊することがわかる。無生物的な元素結合が終わり、タンパク質崩壊の中で生体的形成諸力が作用し始める。
09-03
この形成諸力はエーテル体と結びついている。エーテル体の活動に取り込まれたり、そこから脱落したり、絶えずタンパク質は跳び移っている。自分が属していた生体から離されると、タンパク質は、水素、酸素、窒素、炭素の持つ無生物的諸力で結合された物質素材になる傾向を示す。生体の構成要素として留まる場合、タンパク質は上述の傾向を抑え、エーテル体の形成諸力に自らを適合させていく。
09-04
人間は栄養物と共にタンパク質を摂取する。外部から取り込まれたタンパク質は胃液中のペプシンによって、まず水溶性のタンパク質素材であるペプトンに変化させられる。そして、この変容は膵液でも引き継がれる。
09-05
栄養物として摂取されたタンパク質は、とりあえずは人間生体にとって異物である。そこには、そのタンパク質を作った生物によるエーテル的諸過程の名残がある。タンパク質からこれを完全に取り除かなくてはならない。人間生体のエーテル作用の中に取り込まれる必要がある。
09-06
つまり、人体内での消化過程の進行に伴って二通りのタンパク質素材が問題となる。この過程の始まり部分では、タンパク質は人間生体にとって異物的である。そして終わり部分では生体自身のものになっている。その間に一つの状態がある。摂取された栄養タンパク質が持ち込んだエーテル作用がまだ完全にはなくなっておらず、新たなエーテル作用が完全には取り込まれていない状態である。そのとき、タンパク質はほとんど無生物的になっている。その地点でタンパク質は、人間の肉体からの作用だけにさらされている。肉体のフォルムとは人間的自我機構の成果であり、肉体は無生物的な作用諸力を持っている。それゆえ肉体は生きたものを殺す働きを持つ。自我機構の作用圏に入ったものはすべて死ぬのである。それゆえ自我機構は肉体内に純粋に無生物的な物質素材を組み込む。肉体内でのこの無生物的素材による作用は、人間外の無機界のそれと同じではない。それでも無生物的に作用し、殺す働きを持つ。タンパク質死滅化作用が生じる場とは、消化領域の中の膵液成分であるトリプシンが活性を持つ部分である。
09-07
トリプシン作用に無生物的なものが関連していることは、この物質素材がアルカリを助けに作用するという事実に見て取ることができる。
09-08
膵液トリプシンと出会う以前の栄養物タンパク質は、元の生物に由来する異物的活性を持っている。トリプシンと出会ってタンパク質は命を持たないものになる。人間生体内でほんの一瞬だけ命を失う、と言えるだろう。そうしてタンパク質は、自我機構に相応しいあり方で肉体に取り込まれる。この際に自我機構は、タンパク質素材由来のものを人間エーテル体の領域に導き入れる力を持っていなくてはならない。こうして栄養物タンパク質は人間生体の形成素材になる。それ以前のタンパク質に付随した異物的エーテル作用は人間から離れて行く。
09-09
栄養物タンパク質を健康に消化するために、人間は十分に強い自我機構を持っていなくてはならない。つまり、人間生体が必要とするタンパク質すべてを、人間エーテル体領域に取り込ませられるだけの力が必要なのである。これが行われないと、このエーテル体が本来行わなくてもよい過剰な活動をしなくてはならなくなる。エーテル体が活動するにあたって、エーテル体は自我機構によって準備された充分量のタンパク質素材を得ることができない。すると、自我機構が取り込んだタンパク質に命を与えていく方向での活動が、異物的エーテル作用を担ったタンパク質を力尽くで自分のものにする、という結果になる。すると人間は、自分のエーテル体の中に、本来自分とは関係のない一連の作用を持つことになる。これらは非常時的な仕方で排出されなくてはならない。こうして病的な排出が生じる。
09-10
この病的な排出は、アルブミン尿症として知られている。この場合には、本来エーテル体領域に取り込まれることが望ましいタンパク質が排出されている。自我機構が弱体であるために、ほとんど非生命化される中間状態を経過できなかったタンパク質である。
09-11
さて、人間の排出作用はアストラル体領域の諸力と関係している。アルブミン尿症では、アストラル体が本来の役割とは異なる活動を強いられるので、生体内におけるアストラル体の本来の活動部位での活動が不十分になる。これが生じるのが腎上皮の領域である。腎上皮障害という症状は、そこで働くべきアストラル体の活動が逸脱してしまっていることの現れである。%(変更前)腎上皮障害という症状は、そこで働くべきアストラル体の活動が別なところへ離れていることの現れである。
09-12
こうした関連を見ることで、アルブミン尿症治療の手がかりが見つかる。弱体化した膵臓での自我機構の力を強めることが治療につながる。

第10章 人間生体における脂肪の役割と見かけ上の局所的な症候群

目次にもどる10-01
脂肪は、外界から生体内に取り込まれる物質素材の中で最も異物的ではない。摂取時のあり様から人間生体内でのあり様へと、脂肪は最も容易に移行する。たとえばバターは脂肪を含むが、その脂肪の80%が、プチアリン、ペプシンの領域では変化を受けずに通過し、膵液による変化だけを受ける。グリセリンと脂肪酸に変わるのである。
10-02
脂肪では、他者生体(他者のエーテル諸力など)から人間生体に持ち込まれる性質が極めて少ないので、こうした様子を見せるのである。人間生体の固有の作用に脂肪は容易に組み入れられる。
10-03
このことは、脂肪が生体内における熱発生で特別な働きを担っていることと関係している。そしてまたこの熱とは、自我機構が肉体中で生きるに当たっての主たる場でもある。人体内のいかなる物質素材も、それが自我機構とかかわるのは、その作用において熱展開が見られるときに限られる。脂肪のあらゆる振る舞いを見ると、以下のような物質素材であるとわかる。つまり、身体を満たすだけのものであり、また身体に蓄積されるだけのものである。そして、脂肪の熱を発生する過程だけが活動的機構にとって問題となる。たとえば動物生体から栄養物として脂肪が取り込まれた場合、人間生体にその脂肪から取り込まれるのは、熱発生能力だけである。
10-04
ところがこの熱発生は代謝過程の最終段階の一つとして生じる。それゆえ栄養物として摂取された脂肪は、代謝過程の初・中期では変化を受けず、身体の内的活動領域に達して、つまり最も早くても膵液の領域で取り込まれる。
10-05
人間の乳の中には脂肪が見られるが、これは生体の特に注目すべき活動を示唆している。母体はこの脂肪を自分の中で使い果たさない。それを分泌産物へと移行させる。ところがこれによって母体の自我機構がこの脂肪に移行する。これが母乳に形成力がある理由である。母親の自我機構が持つ形成的諸力が、これを介して子どもに受け渡される。こうして、遺伝を介して受け渡した形成的諸力にいくらか上乗せするのである。
10-06
人間が持つ形成的諸力が熱発生によって体内に蓄積された脂肪を使い果たせば、これは健康である。自我機構による熱プロセス内で脂肪が消費しきれず、生体内に未消費のまま入り込むと、不健康な道筋にある。そうした脂肪は余剰で、生体内のあちこちで熱発生の可能性となる。この熱は、生体のあちこちで混乱を巻き起こしながら他の生命過程に介入し、また自我機構もそれを掌握していない。いわば寄生的な熱発生源が生じている。これらの内には炎症状態に向かう傾向がある。そうした熱発生源が生じる原因は、身体が余計な脂肪を作り出す傾向を持つからである。つまり、自我機構の活動には内的な熱が必要であるが、それに必要な脂肪以上に脂肪を作ってしまうのである。
10-07
健康な生体においては、動物的(アストラル的)諸力が脂肪を適量範囲で生産ないしは摂取する。その量は、自我機構が熱過程に変容させられる量と、筋肉・骨格運動の秩序を保つに必要な量を加えたものである。この場合には、身体に不可欠なだけの熱が生産される。動物的諸力が自我機構に十分な脂肪を用意できない場合、自我機構は熱飢餓に陥る。この状態では、自我機構がどうしても必要とする熱を諸器官の活動から奪うことになるはずである。すると諸器官はいわばもろく硬直したものになっていく。そこで行われるべき諸過程が緩慢になる。すると病的プロセスがあちこちで見られるようになるが、こうした場合には、病態の原因が全身的な脂肪不足であるか否か認識することが重要である。
10-08
すでに述べたもう一方の場合、つまり脂肪が多すぎる場合には、寄生的熱発生源が形成され、それによって諸器官が通常の水準を超えて活動することになる。すると諸器官に負担となる、過剰な栄養摂取傾向が現れる。こうした状態が起きるにしろ、該当人物が必ずしも大食漢になることはない。たとえば、生体内での代謝活動において、何らかの頭部器官に対する物質素材供給が過多になり、それに伴い、下腹部器官や分泌過程への供給が不足することもありうる。すると栄養不足に陥った諸器官での活動が鈍化する。腺での分泌が不足する場合もある。生体における流動的部分が不健康な混合状態に陥る。たとえば、胆嚢分泌の比率が膵液分泌に対して多くなりすぎることがある。症候群が局所的に現れるにしても、ここでもその原因が(全般的な)不健康な脂肪活動にあるかを判断することが重要である。

第11章 人体の形姿と痛風

目次にもどる11-01
タンパク質の摂取過程は、人間生体内にある二つの活動方向の一方に関連する。こちら側は素材摂取の基盤になる。これに属する活動の結果が、フォルム形成、成長、素材内実の新生である。生体を準備し、無意識において行われる活動に類するものはすべれこれに属する。
11-02
その対極にあるのが排出から成る過程である。これは外への排出でもありうるし、排出産物が体内でのフォルム化や身体の物質素材化へとさらに加工されるものでもありうる。これらの諸過程は、意識的な経験の物質的基盤となる。第一種の諸過程と第二種のそれとの間にはバランスが成り立つが、それが第一の側に限度を超えて傾くと、意識は朦朧となる。
11-03
特に注目すべき排出過程は、尿酸排出である。この排出にはアストラル体が働いている。これと同じ排出は生体全体で起きていなくてはならない。その量が特に多いのは尿を介した排出である。たとえば脳では、それが極度に微細なやり方になっている。尿を介した尿酸排泄では、主としてアストラル体が働いており、自我機構は脇役的にそれに関与している。脳における尿酸排泄では、最も決定的なのは自我機構であり、アストラル体は後ろに回る。
11-04
さて、生体内でアストラル体は仲介役で、自我機構の働きをエーテル体と肉体に伝えている。自我機構は諸器官に命なき物質素材や諸力を運び込まなければならない。無機的なものの諸器官への浸透によってのみ、人は今あるような意識的な存在でありうる。(浸透するのが)生命的な物質素材や力だったら、人間意識は動物的意識に鈍らされてしまったはずである。
11-05
アストラル体は諸器官に作用し、自我機構によって搬入される無機物を受け入れやすいようにする。いわばアストラル体が自我機構のために道を切り開くのである。
11-06
人間生体下部ではアストラル体の働きが優勢であることはすでに知っている。そこでは尿酸素材が生体に取り込まれてはならない。尿酸素材は十分に排出されなくてはならない。そこはこの排出の影響下にあるので、無機的なものの浸透は必然的に妨げられる。尿酸が多く排出されればされるほどアストラル体の働きは活発で、自我機構の働きは僅少で、同時に無機的なものの浸透も少ない。
11-07
脳内ではアストラル体の働きは少ない。尿酸の排出は少なく、それゆえ自我機構の意味において無機的なものが搬入される。
11-08
自我機構は多量の尿酸を処理することはできない。それは必然的にアストラル体の活動に委ねられる。少量の尿酸は自我機構へと移行し、そして自我機構の意味における無機的なフォルム形成の基盤をつくる。
11-09
健康な生体では、個々の領域に対して適正な収支の尿酸分布が成り立っているはずである。神経感覚機構全般に対しては、自我-作用によって消費されうるだけの尿酸量が供給されなければならない。代謝-四肢機構のためには自我-作用は抑制されなければならず、アストラル活動が多量の尿酸排泄を行えなくてはならない。
11-10
さて、アストラル体が自我-活動のために諸器官への道を付けているので、(その物質的表現である)尿酸の適正な分配、蓄積は人体の健康にとって非常に本質的な部分の一つであると見なされなければならない。なぜならそこに、何らかの器官、あるいは器官系における自我機構とアストラル体の関係が適正であるか否かが現れるからである。
11-11
本来アストラル作用に対し自我機構が支配的であるべき何らかの器官で、アストラル活動が優勢になったと仮定しよう。そしてこの器官ではその器官構造の限界から、ある一定以上の尿酸排出はできないと仮定しよう。するとこの器官には自我機構で処理されない尿酸が過剰に蓄積される。こうなるとアストラル体がその排出にかかわり始める。しかし当該部位に排出器官がないので、尿酸は外へではなく、生体自身の内に蓄積される。もしその尿酸が生体内の自我機構が十分に介入できない場所に達すると、そこに無機的なもの、つまり、本来は自我機構にのみ属するがアストラル活動に委ねられてしまったものが見られるようになる。人間生体内に、人間以下の(動物的な)過程が押し込まれた病巣が生じる。
11-12
これは痛風である。痛風は遺伝的素質があると格段に発生しやすくなると言われている。遺伝的な力が優性なところではアストラル的-動物的なものが特に活発になりやすく、そのために自我機構が抑制される、というのがその理由である。
11-13
真の原因を以下に求めるとこの事柄をよりよく見通すことができる。つまり、生体内の肉体の活動によってはその異物性を失うことがない物質素材が栄養摂取を介して人間生体内にやって来ているのである。その素材は自我機構の弱さゆえエーテル体には移送されずに、アストラル作用の領域にとどまる。関節軟骨や結合組織部分では、そこでの自我活動がアストラル的作用の遅れを取ると尿酸が過剰に蓄積しうるし、そうなると、器官内での無機的なものによる過重負担が生じる。人間生体のフォルム全体は自我機構の成果であるので、上述の不規則性は該当器官の変形につながる。その場合には、人間生体が人間のフォルムから外れる方向に行く。

第12章 人間生体における構築と排泄(分離)

目次にもどる12-01
他の諸生体と同様、人間生体も半流動状態から形成される。とはいうものの、生体形成には常に空気状素材が付け加えられる必要がある。その中で最も重要なのは呼吸を介して得られる酸素である。
12-02
まず固い部分、たとえば骨組織を観察して見よう。これは半流動状態から分離排出される。この分離排出では自我機構が働いている。このことは、骨格系の形成の様子をたどってみれば誰でも納得できる。人間が胎生期や小児期を通じて、自我機構の表現である人間形姿を獲得していく程度に応じて骨格系ができあがっていく。その際に根底にあるのはタンパク質の変容である。その変容において、まずタンパク質素材から(アストラル的そしてエーテル的な)異物が分離排出される。%注:(豚肉からブタ的要素が排出される)そこでタンパク質は無生物的状態を経由するが、その際には液状にならなくてはならない。自我機構は熱の中で活動しているが、タンパク質はこの状態において自我機構に捉えられ、人間自身のエーテル体に供給される。こうして人間のタンパク質になる。そこから骨素材に至るにはさらなる変容が必要である。
12-03
人間的タンパク質に変容した後にもタンパク質は、炭酸カルシウムやリン酸カルシウムなどを作りかえ、受け入れうるところまで、十分に変化させられる必要がある。そのためには中間段階をやり遂げている必要がある。つまり、気体的なものの受容という影響を受けなければならない。この気体状のものが炭水化物の変容産物をタンパク質中に持ち込む。こうして個々の器官を形成する基礎となる諸物質素材が生まれ出てくる。たとえば肝臓の物質素材や骨の物質素材は完成した器官素材であるが、ここで言うものはそこまで完成した物質素材ではなく、そこからまだすべての身体器官を形成しうる、より一般的な物質素材である。完成した器官形態を作り出すにあたっては、自我機構が作用している。上述の未分化な器官素材では、アストラル体が活動している。動物の場合、このアストラル体の中に完成した器官形態が含まれている。動物的本性とも言えるアストラル体の活動によって、人間の場合は特殊化前の基盤までが作られ、さらにそこに加えて自我機構が働きかける。人間においては、動物化が最後までは完遂することはない。途中で止められ、自我機構がその中間段階の上にさらに人間的なものをいわば積み上げる。
12-04
この自我機構は完全に熱的諸状態の中で活動している。自我機構は、この普遍的アストラル性のものから個々の器官を引き上げる。ここで自我機構は、アストラル的なものがこの段階にまでもたらした普遍物質素材に働きかけるが、作られる器官に応じてその熱状態を高めたり、低めたりする。
12-05
自我機構によって熱状態が下げられると、硬化プロセスが生じ、物質素材の中に無機的物質素材が入り込む。これが骨形成の基礎となる。こうして塩的物質諸素材が吸収される。
12-06
自我機構によって熱状態が高められると、解消的傾向を持つ生体器官、つまり液状あるいは気体状へと向かう器官が形成される。
12-07
器官が必要とする熱状態上昇を十分に満たすだけの熱を自我機構が生体内で作り出せないと仮定しよう。すると解消方向への活動を行うべき器官が硬化方向へ道を外れてしまう。こうした器官は病的傾向を持つようになるが、この傾向自体は骨の中では健康である。
12-08
さて、骨は自我機構によって形作られる。しかし、形成が終わると自我機構領域から放逐される器官である。すると骨格は、自我機構によって内的に掌握されるのではなく、単に外的に掌握される状態になる。骨は成長的-生体的領域から外れていて、身体運動の際に力学的に自我機構の役に立つのである。ただし、内側から働く自我機構の作用も、一部は全生涯にわたって骨に浸透している。骨ももちろん生体内の器官の一つであり続けなくてはならず、生命を失ってはいけないからである。
12-09
上述の根拠から、骨と類似する形成活動に移行しうる器官がある。それは血管である。すると、血管ではいわゆる硬化(Sclerosis)が生じる。こうした場合、これらの器官系から、いわば自我機構が追い出されるのである。
12-10
骨領域において、そこで必要となる熱状態の低下が自我機構によってなされないと、逆の事が起きる。骨が、解消的活動を行う諸器官に似てくる。すると骨は硬化が不十分なために、塩蓄積のための基礎を作ることができない。形成された骨は自我機構領域に属するが、その骨形成の最終段階が行なわれない。アストラル的活動が本来止まるべき地点で止まらなくなる。必然的に形態が誤形成される傾向が現れる。なぜなら健全な形態形成とは、自我機構領域内でのみうまくいくからである。
12-11
これがクル病的症状である。こうした事柄を見渡すと、人間の諸器官の活動が相互にかかわり合う様子を理解することができる。骨は自我機構の領域内で生じる。骨は一旦形成されてしまうと、自我機構のために働く。つまり、自我機構はもはやこれを形成はせず、逆に随意運動として利用する。アストラル機構の領域で発生するものの場合も、これと同様である。ここでは分化していない諸物質素材や諸力が形成される。これらは体内のいたる所に現れ、分化した器官を形成する際の基礎となる。アストラル的活動が未分化な素材や力をある段階にまでもたらし、その後それを分化への器官形成が利用する。人間生体はすべて半流動的なものに浸透しつくされ、その中ではアストラルを基礎とする活動が縦横に力を発揮している。
12-12
諸排泄(分離)は、生体内でより高次の構成体を形成する際に利用されるが、この諸排泄(分離)の中でこのアストラルを基礎とする活動が行われている。こうした方向性の排泄(分離)を腺生成物に見なければならない。ちなみに、この腺生成物は生体の実質活動における収支でも役割を果たしている。これは生体内に向かう排泄(分離)であるが、この他に本来の意味での外部に向けての排出という排泄(分離)もある。こうした排泄(分離)を、取り込まれた栄養物の中で生体にとって不要で、それゆえ外に捨てられたものにすぎないと考えてしまっては間違いである。生体が素材を外に排泄(分離)する点が問題なのではなく、生体が排出に至る活動を遂行していることが重要なのである。この行為の遂行は生体存続のために不可欠である。生体内への素材吸収、素材蓄積の活動は不可欠であるが、この排泄(分離)活動も同様に不可欠である。この両者の活動の健全な関係性が実質的生体活動の本質なのである。
12-13
この様に、外向きの諸排出に、アストラルに起源を持つ活動の成果が現れている。無生物にまで至った素材が諸排出に入り込むとき、そこでは自我機構も活動している。さらには、この自我機構の営みは特に非常に重要である。つまり、そうした排出に力が使われることで、いわば内部に向かって反圧が生み出されるからである。そしてこれは生体の健康に不可欠である。尿で排泄(分離)される尿酸は、内部への反圧として、生体に正しい睡眠への傾向を作り出す。尿中の尿酸が少なく、血中に多い場合、健康維持に不十分な短すぎる睡眠の原因となる。

第13章 病気の本質と治癒の本質

目次にもどる13-01
生体のどこかで痛みが生じるとき、これはアストラル体と自我の体験である。人間が覚醒状態にあるときには、アストラル体と自我の双方とも、肉体やエーテル体に相応の仕方で入り込んでいる。眠りに入ると肉体とエーテル体だけが生体的活動を行う。アストラル体と自我はそれらから離れる。
13-02
眠りの中で生体は、成長の最初の時点、つまり胎生期や乳児期で行われた活動に戻る。覚醒時には、こうした成長の終末に位置する時点、つまり老年期や死の時期での過程が支配的である。
13-03
人間の成長初期には、エーテル体の活動がアストラル体のそれよりも活発である。しかし、徐々に後者の活動が活発になり、エーテル体の活動は後退する。睡眠中のエーテル体が持つ強度は、成長初期と同等ではない。成長に伴ってアストラル体との関係で発展させてきた強度を持つ。
13-04
それぞれの器官、それぞれの年齢において、器官に割り当てられたエーテル的活動と、同様に器官に割り当てられたアストラル的活動とは対応している。アストラル体がエーテル体に応じただけ入り込めるか否かは、その割合が正しいかにかかっている。エーテル的活動の低下によってアストラル体がバランスを保てなくなると痛みが生じる。また、エーテル体が通常限度よりも強く活動をしていると、アストラル的活動とエーテル的活動が特に密になる。心地よさや安楽感が生じる。ただし、快感がある限度を超えて増大していると痛みに変わり、逆に痛みは快感に移行することも分かっていなくてはならない。このことを考慮しないと、ここで述べたことが以前の内容と矛盾するように見えるかもしれない。
13-05
ある器官において本来のエーテル的活動が展開されないと、その器官は病気になる。たとえば、消化過程から生体全体までをつなげる代謝活動を見てみよう。代謝産物が、生体の物質素材形成や生体の活動に余すところなく取り込まれるなら、それはエーテル体が相応の働きをしている証拠である。しかし代謝経路のどこかに物質素材が蓄積し、生体活動に取り込まれない場合には、エーテル体の活動が低下している。通常ならばアストラル体によって活性化される物質的過程、なおかつ自分の持ち場でのみ生体の役に立つような物質的過程が、自らの持ち場を越えてエーテル的活動にまで入り込んでくる。こうした仕方で、アストラル体が優勢になることで初めて成立しうる過程が生じる。その過程の正しい場とは、老齢期の生体解消が始まるところである。
13-06
ここで、エーテル的活動とアストラル的活動をどのように調和されるかが問題となる。エーテル体を強めアストラル体を弱めなくてはならない。これは諸物質の状態を変化させることで実現できる。つまり、病気状態のときよりも容易にエーテル体が働きかけられるように諸物質を加工するのである。また、自我機構にも力を与えてやらなくてはならない。アストラル体は動物的なものを起点として活動するが、自我機構を強化することでその活動を抑制し、人間有機体への方向に向かわせる。
13-07
何らかの物質素材が代謝経路においてどのような作用を展開するかを観察すれば、こうした事柄を認識的に洞察する道筋が見つかる。イオウを取り上げてみよう。これはタンパク質に含まれている。タンパク質摂取の全過程において、イオウはその基礎となっている。イオウは、異物的エーテルから無生物状態を経て人間生体のエーテル的活動へと移行する。イオウは器官の繊維素材、脳、爪、毛髪の中に存在する。つまりイオウは、代謝経路を通って生体の周辺部分まで行っている。こうしたことから、イオウが、タンパク質素材を人間エーテル体領域に吸収する際に役割を果たす一つの物質素材であることがわかる。
13-08
ここで、イオウはエーテル的作用領域からアストラル的なそれへの移行でも役割を果たしているのか、さらには自我機構と何らかの関係を持つか、といった疑問が生じる。酸や塩といった生体内に取り込まれた無生物的物質素材とイオウは目立った結びつきを示さない。そうした結合があったならば、それはイオウプロセスがアストラル体や自我機構に取り込まれる基盤になる。つまり、イオウはそこまでは行かないのである。イオウの効力は物質界とエーテル体に広がっている。このことは、生体へのイオウの多投与が、めまいや意識が朦朧化を引き起こすことにも現れている。睡眠もイオウを多く投与することでより深くなる。そして、睡眠とは、アストラル体や自我機構が魂的構成要素として作用していない状態である。
13-09
こうしたことから、イオウの治療薬としての作用がわかる。病気状態のときよりも、生体の物質的諸活動がエーテル的なものにとって掌握しやすくなるのである。
13-10
リンでは事情が異なる。リンは生体内にリン酸やリン酸塩として、タンパク質、繊維素、脳、骨などの中に存在する。リンは、自我機構にとって重要な無生物的物質素材の領域にまで入り込んでいる。またリンは人間の意識的活動を活性化する。こうしたことからリンも睡眠に影響するが、その働きはイオウとは正反対である。つまり、イオウは無意識な肉体的活動やエーテル的活動を高めるが、リンは意識的活動を喚起する方向で睡眠に影響する。リンは骨中にリン酸カルシウムとして含まれる。そして、この骨という器官は、成長や代謝制御など、自我機構によって内側から制御されるのではない場合、つまり自我機構によって身体運動といった外的力学的に使われる場合には、自我機構の支配下にある。%自我機構は、骨に対して、身体運動の外的力学に役立つものとして使い、成長や代謝などを内側から制御しているのではないにしろ、骨の根底にあり、リンはその骨の中のリン酸カルシウムに含まれている。
13-11
それゆえ、アストラル領域が自我機構を凌駕するくらいに肥大した病的状態に対抗し、自我機構を強め、さらにそれによってアストラル体を押さえ込まなくてはならない場合に、リン治療薬は効果を発揮するのである。
13-12
クル病を考えてみよう。前にも述べたが、この原因はエーテル的アストラル的活動の異常増殖であり、そこから自我機構活動の欠乏にまで至っている。まず適切な方法でイオウによる治療を行うと、アストラル的活動に対するエーテル的活動を強められる。これがうまくいった後にリン治療に入ると、エーテル機構に対して準備したものが《自我》にとっての準備へと移行する。こうしてクル病に対し二方向から対処する。(クル病に対するリン治療が疑問視されていることは承知している。これについては一つだけ言っておきたい。ここで述べた方法は、従来の治療の取り組みとはまったく関係である点である。)

第14章 治療的思考法について

目次にもどる14-01
ケイ酸の作用は、代謝経路から始まり生体内の生命が非生命に変わるところにまで及ぶ。形成諸力は血液を介し、血液に沿った道筋を取らざるを得ないが、ケイ酸はその血液中に見られる。ケイ酸は毛髪中にも見られる。その毛髪とは、形成が外に向かって終わる場である。ケイ酸はまた骨中にも見られるが、そこは内に向けての形成が終わるところである。また、尿中に排泄(分離)産物として現れる。
14-02
ケイ酸は自我機構の物質的基礎なのである。自我機構は形態形成的に作用するからである。形態形成やフォルム付与は(意識されない)内外界との境界まで効力が及ぶが、そうした部位に至るまで、自我機構はケイ酸プロセスを必要としている。生体の外縁部、つまりケイ酸を含む毛髪において、生体は意識されない外界につながっている。骨において生体は意識されない内界、意志が作用する内界とつながっている。
14-03
健康な生体においては、このケイ酸の二つの作用領域の間に意識の物質的基礎が広がっているはずである。ケイ酸には二通りの課題がある。体内において、成長や栄養摂取などに過ぎないプロセスが限度を超えないようにする。また外に向かっては、外界にあるままの自然作用から生体内部を切り離し、生体の領域に自然作用のままのものが入り込んでこないようにし、人体固有の働きを展開できるようにしている。
14-04
若年期の人体では、形態形成的諸力を持つ組織付近にケイ酸が最も多く見られる。ケイ酸はそこから両側の境界に向かって活動を広げ、意識的な営みのための諸器官を形成しうる場をその両極の間に作り出す。その主なものは、健康な身体では感覚器官である。しかし、次のこともしっかりわかっていなくてはならない。つまり、感覚活動は人間生体全体を貫いているのである。諸器官は相互に作用を及ぼし合っているが、その根底には器官同士の相互知覚がある。普通言われる感覚器官とは異なる、たとえば肝臓、肺、腎臓といった器官では、そこでの知覚が非常に微かなので、通常の目覚めた意識にまでは上ってこない。それぞれの器官は生体内でそれぞれの機能を果たしているが、同時に感覚器官でもあるのである。
14-05
つまり、人間生体全体にはお互同士の知覚が張り巡らされているし、すべてが健全に協働するためには、またそうでなくてはならない。
14-06
そして、これらすべての基礎がケイ酸作用の適切な分布なのである。人間生体全体に特に組み込まれたケイ酸有機体が存在する、とすら言えるかもしれない。そしてそのケイ酸有機体は次の三つの基礎になっている。つまり、健康な生命活動に不可欠な諸器官の相互感受とそれらの正しい関係、内に向けての魂や霊(精神)の展開、そして外に向けての自然作用の正しい抑止である。
14-07
この特別な有機体が適正に働くためには、生体内にケイ酸が適量存在する必要がある。つまり、自我有機体がそれを充分かつ余す所なく使える量である。余剰ケイ酸に対しては自我機構の支配下にあるアストラル機構が十分な力を持ち、すべてを尿などのかたちで排出しなくてはいけない。
14-08
排出されず、過剰で、自我機構がそこにかかわらないケイ酸は、生体内に異物として蓄積するし、またケイ酸には形態形成的傾向があるがゆえに、…それが適量であれば…まさに自我機構の役に立つが、余剰になると破壊的に阻害的に作用する。それゆえ生体に過剰なケイ酸がもたらされると、胃腸系の不調のきっかけとなる。過剰な形態形成作用に突き進ませるものを分離排出することがここで消化器系の課題となる。流動的であるべきものが乾燥化される。過剰なケイ酸投与によって生じた明らかな身体的不均衡を背景とする魂的アンバランスの場合に、これが最も顕著に現れている。めまいを感じたり、抗い難い眠気に襲われたり、聴覚や視覚が統御不能になったりする。神経系に伝達され入っていく手前で感覚作用が停滞してしまっているかのように感じられる。こうしたことを見ると、まずケイ酸は身体の周辺部へ向かって行くが、そこで過剰になるとケイ酸が持つ異物的形態形成のために正常な形態形成が妨げられることがわかる。同様に、内側に向かった終端でも形態形成に支障が生じる。運動系がコントロール不能であると感じ、また関節に痛みを感じる。これらはすべて、ケイ酸の異物的形態形成が強すぎる部位で炎症プロセスに変化する可能性を持つ。
14-09
こうしたことに、ケイ酸が生体内で発現しうる治癒力の可能性が示されている。通常の意味では感覚器官ではない器官を考えてみよう。この器官において、生体の他の諸部位に対する感受性が、もちろんこの感受性は意識されないが、過敏であると仮定してみよう。するとこの器官の働きに支障が生じることがわかる。ケイ酸を投与することによってこの過敏性を取り除くことができれば、この病態を解決できるだろう。まさに病的になった器官の周囲にだけケイ酸投与が作用するように生体の身体作用に影響を与えることが重要であり、上述したような意味で生体全体に作用を及ぼしてはいけないのである。
14-10
ケイ酸を必要とするまさにその器官にケイ酸を送り込み、その器官においてケイ酸の排出を促し、他の器官を損なわずにケイ酸を生体に導入するには、ケイ酸を他の薬物と組み合わせればよい。
14-11
もう一つの場合としては、他器官からの作用に対する感受性がある器官で低下することがある。それは、該当器官の周囲でケイ酸作用が過剰になることで起きる。この場合、生体全体のケイ酸作用に働きかける必要がある。つまり、それによって局部的に過剰なケイ酸作用を消すかが、他にも、薬剤を用いてケイ酸を排泄させる可能性もある。しかし、ある部位でケイ酸が過剰になる多くの場合は、他の部位ではケイ酸が不足するので、前者の治療法の方が望ましい。局部に偏在するケイ酸作用を全身に分散させるには、例えば硫黄療法がある。その理由は、生体内での硫黄作用に関する本書の記述を読めば理解できるだろう。

第15章 治癒の方法

目次にもどる15-01
治療薬の作用を認識する基礎は、人間以外の世界に存在する諸力の展開を見抜くことである。というのは、ある治癒過程のきっかけをつくるには、生体に諸物質を導入し、これが生体内で広がり、病気過程を徐々に正常過程へ移行させなくてはならないからである。病的過程の本質とは、生体内にその生体全体の活動に適合しない何かが起きていることにある。そうした病的過程には、外の自然界の過程と共通点がある。
15-02
次のように言うことができる。生体内部に外界の自然的過程に類する過程が生じると、病気が始まる。そうした過程が肉体やエーテル有機体を捉えてしまう可能性がある。すると今度は、アストラル体あるいは自我が、通常なら行うことのない課題を果たさなければならなくなる。本来ならアストラル体や自我が自由な魂的活動を展開するべき年齢において、この両者はより以前の年齢まで…多くの場合、胎児期にまで…さかのぼらなければならない。そして、本来ならすでに物質的エーテル的有機体が担っているべき肉体的、エーテル体的形態形成に力を貸さなくてはならない。つまり、それは生まれて数年はアストラル体と自我機構が面倒を見ていて、その後は物質・エーテル有機体だけに委ねられている。つまり、肉体やエーテル体の全体的形態は元々はアストラル的活動や自我機構の活動から生じるが、年齢が進むにつれてアストラル・自我活動は物質・エーテル機構から離れていく。人間生体のあらゆる発達は、この事実の上に成り立っている。アストラル体や自我機構が離れないと、これらはある発達段階にふさわしくない形で働きかけることになる。
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下腹部において停滞が生じると仮定しよう。物質・エーテル機構が、以前の年齢で任されたはずの人体の相応部分での活動を行っていない。アストラル・自我活動が介入しなければならない。これによって、アストラル・自我活動の持つ生体内での他の課題が手薄になる。たとえば、筋肉に入る神経形成といった、本来アストラル・自我が活動すべきところでそれが欠けてしまう。その結果、生体の特定部位で麻痺症状が現れる。
15-04
ここで問題となるのは、次のような物質を生体に導入することである。つまり、アストラル機構と自我機構からそれらにふさわしくない活動を取り除くことがきる物質である。ここで、植物体における強力なエーテル油形成におけるプロセス、特に花形成に働くプロセスが、こうしたものを取り除く働きを持つことを見い出すかもしれない。リンを含む物質もそれを行いうる。ただし、他の物質を混ぜることでリンの作用が腸管において展開し、腸管を越えた代謝にまでは作用しないように配慮する必要がある。
15-05
皮膚の炎症症状が問題となる場合、アストラル体と自我機構がそこで異常な活動展開している。すると、アストラル体と自我機構が本来行うべき内部諸器官に対する作用がおろそかになる。アストラル体と自我機構が内部の諸器官の感受性を弱める。それゆえこれらの諸器官の感受性が弱まり、それらが行うべき諸プロセスを行わなくなってしまう。こうしてたとえば、肝臓活動の異常状態が現れうる。すると消化に正常でない影響が出る可能性がある。このようなときに生体にケイ酸を与えると、皮膚で行われるべきアストラル有機体や自我有機体の活動から負担が取り除かれる。これらの有機体が行う内部に向かっての働きが再び解放され、健康化プロセスが始まる。
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異常な心拍といった病状が見られる際には、アストラル有機体の規則的でない活動が血液循環の流れに作用している。するとこのアストラル活動は、さらに脳過程に対しても弱まる。そのために、てんかん様の状態が現れる。なぜなら、頭部有機体におけるアストラル活動が弱まることで、そこに属するエーテル活動に過緊張が起きるからである。レヴィスチクム(Liebstöckel)から得られるゴム状の物質素材を…例えばお茶として、望むらくは何らかの加工で製剤の形で…生体内にもたらすと、血液循環に不適切に消耗していたアストラル体の活動が解放され、脳機構に対する働きが強まる。
15-07
これらの症例すべてにおいて、適切な診断で病的作用の方向を見極めなくてはならない。最後に述べた症例を見てみよう。その原因は、血液循環におけるエーテル体とアストラル体間の相互作用阻害でありうる。脳の症状はその結果である。治療に関しては、上述のように行うことができる。
15-08
しかし、事態は逆でもありうる。原因となる不規則性がまず脳システムのアストラル活動とエーテル活動の間に起こることもある。この場合、異常な心臓活動を伴う不規則な血液循環はその結果である。このような時には、たとえば硫酸塩を代謝過程に与えなくてはならない。これは脳エーテル機構に働き、その機構内にアストラル体に対する引力を呼び起こす。その結果は、思考の主体性、意志の活動領域、存在の全体的統一性が良い方向に変化する点に見て取ることができる。するとおそらく次には以下のことが必要になるだろう。つまり、たとえば銅塩によって循環系に対して、エーテル機構を補助し、その中にアストラル的諸力を新たに獲得しやすくする作用を及ぼすのである。
15-09
過剰なアストラル・自我有機体の活動が物質・エーテル有機体を介して身体の何らかの部位で作用している場合、その過剰な活動を外からの働きかけで生じる活動で置き換えるなら、全生体が本来の規則的な活動に戻っていくことに気づくだろう。生体には自身の不足を埋め合わせる傾向がある。止めなければならない過程が内的に生じているときには、類似した過程で外側から働きかけてこれに対抗する。こうしたやり方でしばらくの間何らかの不規則性を人工的に調整すると、生体は自ら回復していくのである。

第16章 治療薬の認識

目次にもどる16-01
治療薬として使用しようとする物質素材については、まず、それに含まれうる人体内外での諸力作用を判断できるくらいにその物質素材を知らなくてはいけない。その際、通常の化学で研究されうる作用の可能性には着目しない。むしろ、ある物質素材が持つ内的諸力の状況が、地球から放射する力や地球に差し込んでくる諸力と関係する中で生じるその作用の観察が重要になる。
16-02
この視点から、たとえばアンチモン鉱を観察してみよう。アンチモンは他の金属硫化物と非常に強い近親性を持っている。またイオウは、かなり狭い範囲内のみで一定の状態を保つ一連の諸性質を持っている。加熱、燃焼などといった自然界の諸プロセスに対し敏感である。それによってイオウに次のような能力が与えられている。タンパク質領域、すなわち地上的力から完全に抜け出しエーテル作用圏に入り込んでいる素材領域で重要な役割を果たすのである。アンチモンはイオウと近親的に化合するので、イオウと結びついて容易にこのエーテル作用に入り込むことができる。それゆえアンチモンは人体内のタンパク質活動に容易に入り込みやすく、(タンパク質を)エーテル作用へもたらす助けになる。そして、何らかの病的状態のために、外からタンパク素材が入って来てもそれを変容できず、自分自身の活動をそこに組み込むこともできなくなっている身体を助けるのである。
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アンチモンにはしかし、別な特性も見られる。可能であるなら、放射状の形態を取る。それによって、地球から離れ、エーテル内で作用する諸力に向かう線が形成される。それゆえアンチモンを人間生体に投与すると、エーテル体の作用に対し道のりを半分ほど向かうことができる。またアンチモンの精錬過程でも、エーテル的親和性を示す事柄が見られる。精錬過程によってアンチモンは細い繊維状になる。精錬とは、ある意味では下方的・物質理的なものから上方的・エーテル的なものへの移行プロセスである。アンチモンはこの移行部分に位置づけられる。
16-04
さらにアンチモンは灼熱状態で酸化され、また燃焼によって白煙が生じる。この白煙は冷たい物に触れるとアンチモン華をつくる。
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さらにアンチモンは電気の作用に対してある種の防御力を示す。特定のやり方で電気分解処理すると、陰極に沈殿物が集まる。それに金属先端で触れると爆発する。
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こうした事柄を見渡すと、アンチモンが持つ傾向がわかる。つまり、条件がわずかにでも整えば、その瞬間に容易にこのエーテル的要素に移行するのである。霊的に見ると、これらの個別現象は単なる真実の暗示にすぎない;なぜなら、霊視では自我活動とアンチモン作用の関係を直接に観るからである。つまり、アンチモンプロセスが生体内に取り込まれると、それはちょうど自我機構のように働くのを観るのである。
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人体内を流れる血液には凝固する傾向がある。この血液の凝固傾向は自我機構の支配下にあり、その下で調節されていなくてはならない。血液は生命を持つ中間的産物である。完全なる人間有機体、つまり自我機構となる途中まででもいくつもの過程があり、血液内に生成したものはそうした諸過程を経ている。自我機構の形態形成へとつながるためには、さらに諸過程を経なければならない。それがどのようなものであるかは、以下の記述でわかるだろう。血液は身体から離れると凝固する。この事実から、まず血液自身に凝固的傾向があること、そして人体内ではその凝固が絶えず妨げられているはずであることがわかる。血液を凝固から防ぐ力とは、同時に血液を生体に組み込んでいる力そのものなのである。凝固に至る直前にあるフォルム諸力によって血液は身体形態の中に組み込まれている。凝固が起きてしまっては生命が危険である。
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それゆえ、この血液凝固に向かわんとする諸力の欠乏に起因する病的状態の場合に、何らかのかたちのアンチモンが薬剤として有効になる。
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生体の形態形成は、本質的にはタンパク質素材の変容によってなされている。つまり、その変容を通してタンパク質が鉱物化諸力と共同するようになるのである。そのような鉱物化諸力はたとえば石灰が含んでいる。この要点は、牡蛎の殻形成にわかりやすく現れている。タンパク質素材を本来の性質に留めおくために、牡蛎は殼形成と共に何かを排除しているはずである。同様なことは卵の殻形成においても見られる。
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牡蛎においては、石灰性のものがタンパク質作用に組み込まれないように、それは排泄(分離)されている。人間生体では、石灰性のものの組み込みが起きているはずである。そこでは単なるタンパク質作用は次のように変容させられるはずである。つまり、変容後のタンパク質作用中で何かが共同作用するが、その何かとは、石灰性のものの中で自我機構によって形態形成的諸力において呼び起こされうる。これが血液形成内で起きているはずである。アンチモンはまず石灰を排泄する力に対抗し、自分のフォルムを保持しようとするタンパク質を、アンチモンの持つエーテル要素との親密性によって無フォルム状態に移行させる。そして、石灰性やそれに類するものを受け入れられる状態にされる。
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チフスにおいては、その病的状態が形態形成能力を持つ血液素材に対するタンパク質素材の供給不足によって引き起こされることは明らかである。そこで現れる下痢の様子には、タンパク質変容能力が腸においてすでに失われ始めていることがわかる。重度の意識障害も見られるが、これは自我機構が身体から追い出され、身体に働きかけることができないことを示している。その理由は、自我機構は鉱物化諸力の中で作用しうるが、タンパク質素材物質がその鉱物化諸力に供給されないからである。この観方が正しいことは、排泄嘔吐物に感染の危険があるという事実が証明している。こうした事実は、形態形成諸力の破壊傾向が高まっていることを示している。
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チフス的症状に適切な配合でアンチモンを処方すると薬効があることがわかる。アンチモンはタンパク質素材が持つ固有の力を取り除き、自我機構による形態形成的諸力がそこに入り込めるようにする。
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現在一般に非常に広まった視点からは、ここでのアンチモンについての見解は厳密ではない、と言うだろう。そしてさらに反論として、通常の化学的方法の厳密性を語るだろう。しかし素材の持つ化学的作用は人間生体にはほとんど作用がなく、それは画家が絵具の化学組成を気にかけるくらいの程度でしかない。たしかに画家が、絵具を化学的に知るのは良いだろう。しかし、画家が絵を描く際に絵具をどう扱うかはそれとは別の話である。これは治療家にも当てはまる。化学を何かしら有意義な基礎と見なすことができるだろう;しかし、人体生体内での素材の作用の仕方は化学とはまったく無関係なのである。…薬学も含めた…化学が認めることだけが正確であるとするなら、生体内における治療過程で生じている事柄を観る可能性を否定することになるだろう。

第17章 治療薬認識の基礎としての物質素材認識

目次にもどる17-01
人体外である作用を示す物質素材を何らかの方法で人体に投与すると、体内で諸力作用が生じるが、治療薬の効果を判定しようとするなら、その諸力作用を見極める眼を持たなくてはならない。
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古典的な例として、蟻酸を挙げることができる。これはアリの体内に生じる炎症誘発的で焼けるような物質素材である。これはアリの体内で排泄(分離)産物として現れる。こうしたものは動物体内の相応の器官で生産されているはずであり、それによって動物生体の活動を適切に遂行できるようにしているはずである。生命とは排泄(分離)的活動によって成り立っている。排泄(分離)産物が生産された場合、それには生体内での役割はない。排出されなくてはならないのである。生体の本質は行為の中にあるのであって、物質素材にあるのではない。有機体とは素材の関連ではなく、活動である。素材は活動への刺激を内包している。素材がそうした刺激性を失ったなら、生体にとってはもはや意味がなくなる。
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人間の生体内でも蟻酸が生じる。しかしそこでは、蟻酸はそれなりの意味を持っている。自我機構の役に立つのである。生命物質素材のうちで無生命に向かう部分がアストラル体を介して排出される。自我機構は、生命物質素材の無生命化という移行を必要とする。しかし、自我機構はまさにこの移行過程を必要とするのであって、移行による産物を必要としているのではない。
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さて、無生命へと向かうものが形成されると、それは生体内で負担となる。直ちに排泄(分離)されなくてはならないか、あるいは間接的な回避として、溶解されなくてはならない。溶解されるべきものが溶解されない場合、それは生体内に蓄積し、痛風、あるいはリウマチ的状態の基盤となる。このとき、人間生体内では溶解されるべきものを溶解すべく、蟻酸がしだいに形成され、姿を現れす。蟻酸が必要量生産されると、生体は無生物へと向かう産物を正しい仕方で取り除く。生産力が弱いと、痛風あるいはリウマチ的状態が生じる。外から生体に蟻酸を与えると、自分自身で作り出せないものを与えることで、生体を補助することになる。
17-05
この種の物質素材を、人間生体内に入ってからの作用という視点で他と比較すると、そうした作用の様子を学び知ることができる。シュウ酸を取り上げてみよう。シュウ酸はある特定の条件で蟻酸に変化しうる。蟻酸作用は、シュウ酸作用のメタモルフォーゼである。蟻酸は動物的排泄(分離)物であるが、シュウ酸は同様に植物的排泄(分離)物である。植物におけるシュウ酸形成の活動は、動物における蟻酸形成の活動と相同である。つまり、シュウ酸形成はエーテル領域に対応し、蟻酸形成はアストラル的なものに対応する。痛風やリウマチの状態として現れている病態の原因は、アストラル体の活動の欠乏である。痛風やリウマチの原因はアストラル機構に由来するが、その原因がエーテル機構にずれ込んでいるような別な状態もある。そうなると、アストラル的な諸力閉塞が生じ、これによって自我機構が邪魔をされ、その働きが抑圧されてしまうだけではなく、エーテル的なものの中にも、アストラル機構では克服できない阻害作用が生じてしまう。これは下半身の活動停滞として、肝臓、脾臓活動の阻害、胆のう結石などのかたちで現れる。このような場合にシュウ酸を投与すると、相応なかたちでエーテル機構の活動を補助することができる。自我機構の力がこのシュウ酸によってアストラル体の力に変容し、これがエーテル体を強めるように働くので、シュウ酸によってエーテル体を強化することができる。
17-06
こうした観察から出発し、生体にとって治療的に働く素材を学び知ることができる。こうした観察は、植物の営みから始めることができるだろう。植物内では、物質的活動はエーテル的活動に浸透されている。エーテル活動によって何をなし得るかを植物から学ぶことができる。動物的アストラル的有機体では、この活動はアストラルへと移行している。エーテル的活動が弱すぎる場合には、紹介した植物産物から派生するものを加えることでそれを強化することができる。人間生体の基盤には動物的なものがある。人間のエーテル体とアストラル体の間で行われていることは、特定の限界では動物のそれにも当てはまる。
17-07
植物界に由来する治療薬で、エーテル的活動とアストラル的活動の間の阻害された関係を修復することができる。人間の物質的、エーテル的、アストラル的機構と自我機構との相互関係において何らかの障害があるときには、そうした植物由来の手段は役に立たない。自我機構は、その活動を、鉱物的なものを指向する過程に向けているはずである。
17-08
したがって、それに対応する病態の場合には、鉱物的なものだけが治療薬として有用である。鉱物的なものの治療作用を知るためには、何らかの物質素材がどこまで分解されうるかまでをも研究する必要がある。なぜなら、生体内では外から投与された鉱物的なものは分解されなくてはならず、生体自らの力で新しいフォルムとして再構築されなくてはならないからである。治療作用は、そうした分解、構築の上に成り立つ。そして、生体側で欠如している活動を投与された治療薬の活動が引き受ける、という線上でことが起こらなくてはならない。
17-09
例として、月経過多を取り上げよう。この場合には、自我機構の力が弱まっている。その力が、血液準備に偏って一方的に消費されている。生体内での血液の吸収力が、自我機構内にわずかしか残らない。この諸力があまりに激しく作用するために、生体内で諸力が通るべき無生命へと向かう道筋を全うできないのである。諸力は道の半ばで力尽きてしまう。
17-10
カルシウムを何らかの化合物として生体に投与することで、それに助力することができる。これが、血液生産において協働して形成する。この領域での自我活動が軽減され、血液吸収に向かうことができる。

第18章 オイリュトミー療法

目次にもどる18-01
私たちの治療においては《オイリュトミー療法》と呼ばれるものが特別の役割を果たしている。オイリュトミーとはルドルフ・シュタイナー博士によって、まず新しい芸術として、アントロポゾフィーから生み出された。
18-02
オイリュトミーについてはその芸術としての本質をシュタイナー博士がたびたび語っているし、芸術としてはすでにかなり広まっている。
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それは、人間が舞台上で運動するものであるが、舞踏ではない。その違いは、舞台上の人間が腕や手を動かす表現に見て取れる。人がグループとなって動くことによって、その全体が、それ自体芸術的な作用を及ぼす舞台にまで高められる。
18-04
すべての動きは人間生体の内的構成体を元にしている。生れてからの数年に、その内的構成体から流れ出てくるものが言語である。言語における音(おん)が人間の成り立ち(Konstitution)から出てきているのと同様に、この人間の成り立ち(Konstitution)を真に認識するなら、現実に可視なる言語、可視なる音楽であるような動き、つまりソロあるいはグループの動きを導き出すことができる。その際には、言語に恣意的なものが入り込んでいないのとまったく同じに、動きに恣意的なものが含まれることはない。ある単語の中でIであるべきところでOが発音されることがないのと同様に、オイリュトミーでもIや嬰ハ音に対してそれぞれ決まったしぐさしか現れえない。オイリュトミーはこのように人間本性が実際に開示したものである。さらに、言語や歌は人間本性から無意識的に発達したのに対し、真の人間認識を介して意識的に発展させうるものである。
18-05
公演の際には、舞台上で人間がソロ、またはアンサンブルで動く。詩が朗唱されるのと同時に、見える言葉に変換される。詩の内容を聴き、同時にそれを目で観る。あるいは音楽が演奏され、それが仕草や動きとして可視なる歌としても表現される。
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オイリュトミーとは動く彫刻であり、本質的な意味で芸術領域の拡張である。
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この芸術的なオイリュトミーを二つの別な方向に拡張することができる。一方は教育的な方向である。エミール・モルトによって創設され、ルドルフ・シュタイナーが指導しているシュツットガルトのヴァルドルフ学校では、体育と並んで教育オイリュトミーが全学年で行なわれている。ここで重要なのは、通常の体育では、肉体における動力学的や静力学的なものだけが育てられる点である。オイリュトミーでは、体、魂、霊という全人的なものが流れ動く。そのことを成長しつつある子どもは感じ取る。幼い頃に言葉を学び取った経験は人間本性のまったく自然な発露として体験されたが、オイリュトミーの練習もそれとまったく同じ自然さで体験される。
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もう一つは治療的な方向である。健康な人間の構成要素から流れ出たものである芸術オイリュトミー、教育オイリュトミーの動きやしぐさを改変し、病んだ構成要素に沿ったかたちで流れ出るようにしてやるとオイリュトミー療法になる。
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そのようなかたちで行われる動きは罹病した器官に戻って作用する。動かれるしぐさが器官の疾病にまさに適切なものであれば、ここで行われる外的な動きが健康をもたらしつつ器官に入り込んで行くのが見える。このような動きによって人間に働きかけるというやり方は、体、魂、霊に作用するので、他のいかなる運動療法よりも、病人の内側により集中的に入り込んで行く。
18-10
それゆえオイリュトミー療法は決して素人事にはなりえないし、またそのように見られたり、扱われてはならない。
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オイリュトミー療法士は人間生体をしっかりと認識していなくてはならず、しかもまた医師との協力の元で初めて治療を行うことができる。素人芸はおしなべてひどい結果を招くだけである。
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事柄に即した適切な診断を基礎にできるときにのみ、オイリュトミー療法が可能なのである。オイリュトミー療法をここで述べてきた治療に対する思考方法の恵み多き一分枝として述べることができるというのも、オイリュトミー療法の実践的な成功があるからである。

第19章 特徴的な症例

目次にもどる19-01
この章では、アーレスハイムの臨床治療研究所の実践から、いくつかの症例を紹介したい。これらの症例は、人間の霊的部分への認識を助けに病態の総合像を探る試みであり、その総合像を診断することで、薬剤処方も直接に判断できる。ここで基礎となる観方は、病化プロセスと健康化プロセスは一つの円環プロセスとして捉えることにある。人間の諸構成要素の相互関係が異常になると病化が始まる。患者が診察に訪れるときには、異常はすでにある程度に達している。そこで発病の時から人体内で生じたすべての経過を逆行させ、最終的には発病以前の健康な状態に達するまで手当する必要がある。そうしたプロセスはそれ自身で逆戻りすることはなく、生体全体における成長力の損失を伴う。またこの成長力は、幼少年期には身体を大きくするために使われた。
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それゆえ薬剤は次の二面を持たなくてはならない。つまり、病化プロセスを逆行させること、および減退した生命力を支えることである。後者は、一部、疾病に応じた食餌療法がその代わりになるはずである。
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生体は栄養物に働きかけ、そこから生命力を得るが、重症になると生体はそこまで栄養物に働きかける状態にないことが多い。したがって、この意味でも生体の支援になる治療を準備しなくてはならない。臨床治療研究所から出ている代表的な薬剤では十分にこうした準備がなされている。それゆえ、薬剤を注意深く見さえすれば、その成分が含まれる理由を認識するだろう。疾病の経過を見る際には、病化の局部的プロセスだけでなく、生体の全体的変化を考慮する必要があり、これを遡行プロセスに組み入れて考える必要がある。これから特定の症例を特徴付けるが、それが個別のケースでどう考えるべきかを示している。それらの状況を具体的に記述した後で一般的な考察に進もうと思う。

症例1.

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26才の女性患者である。全人的に非常に不安定な状態にある。この患者を見ると、アストラル体の活動が過剰であることが明確に判る。このアストラル体に対する自我機構の支配が不足していることも見て取れる。患者が何らかの仕事をしようとすると、アストラル体が即座に激昂する。自我機構はそれを抑えようとするものの、常にはね返されている。こういった症状では、体温上昇を引き起こす。規則的な消化活動のためには、最高の意味において自我機構が正常であるかが鍵を握っている。この患者の自我機構が無力であることは執拗な便秘に現れている。この消化活動の障害の帰結が、彼女が訴える偏頭痛や嘔吐である。睡眠中は、この打ちのめされた自我機構が生体の下から上への活動不足を引き起こし、呼気を妨げる。その帰結として、睡眠中生体内の炭酸ガスが過剰になり、覚醒時に、肉体的には動悸、心理的には不安感や叫びとなって現れる。身体的検査によれば、アストラル体、エーテル体、肉体を規則正しい関係に導くまさにその諸力の欠乏が認められる。アストラル体固有の活動が過剰に展開されるために、肉体及びエーテル体に流れ込む力が減少する。それゆえ、成長期においても肉体やエーテル体の発達は繊細にとどまる。このことは、患者の華奢かつ虚弱な身体や、しばしば悩まされる背中痛にも現れている。脊髄活動ではまさに自我機構が最高度に力を発揮しなければならないので、(それが弱いと)背中痛が起きる。患者は夢を多く見ると言う。これは、睡眠中に肉体とエーテル体から離れたアストラル体が、それ自身の活動を過剰に展開していることの結果である。必然的に、自我機構を強め、アストラルの活動を抑えなければならない、というのが出発点となる。自我機構を強めるには、消化経路において弱まっている自我機構を援助する薬剤を選べばよい。銅がそれに当たる薬剤である。腰部に銅軟膏湿布することで、自我機構からだけでは不足している発熱作用を強めることができる。心臓の異常活動が抑制され、不安感が和らいでゆくことに、その効果を見ることができる。過剰なアストラル体独自の活動には、非常に微量な鉛の内服処方で対抗できる。鉛はアストラル体を収縮させ、アストラル体の中に肉体やエーテル体とより強く結びつく力を呼び起こす。(鉛中毒では、アストラル体がエーテル体、肉体とあまりに強く結びつき、後者に対して強すぎる分解プロセスが働いている。)この治療で患者は目に見えて回復した。不安定な状態から、ある種の内的な強さと確実さを持った状態に向かった。引き裂かれた情緒状態から内的満足へと変わっていった。便秘と背中の痛みは消え、偏頭痛や頭痛もなくなった。仕事をする能力を回復した。

症例2.

19-2-01
48歳、男性、少年期には頑健な身体で、内面も活発であった。戦争中に腎臓病で5ヶ月間治療を受け、完治して退院したという。35歳で結婚し、5人の健康な子どもに恵まれたが、6人目は出産時に死亡。33歳で精神的に過負荷状態、鬱、疲労感、無力感を感じる。それと並行して精神的な絶望感が現れる。この患者は教師であったが、その職業に対するネガティヴな疑問が生まれ、それに対しポジティヴなものを考えられなかった。この病態では、アストラル体が持つエーテル体や肉体に対する親和性が乏しく、それ自体の動きも鈍くなっている様子が現れている。それによって、肉体とエーテル体がその固有の性質を現してしまっている。アストラル体がエーテル体ときちんと結びついていないことは鬱状態として現れている;また肉体ときちんと結びついていないことは疲労感や無力感に現れている。また、この患者の精神的な絶望感は、アストラル体が打ちのめされ、エーテル体や肉体を消費できなくなっていることに由来する。これらすべては、眠りは良好であることと関係している。なぜなら、アストラル体のエーテル体や肉体に対する関係がわずかだからである。また、同じ理由から目覚めは悪い。アストラル体が肉体の中に入り込もうとしないのである。夜になって、肉体やエーテル体が消耗してきたときにはじめて、アストラル体はそれらと正常に結びつくことができる。それゆえ、この患者は夜になってはじめて目覚めてくる。こうした状況全体を見ると、まずアストラル体の働きを強めなくてはいけないことがわかる。そのためには、ヒ素を自然水の形で服用すればよい。しばらく後には、この人物が身体をよりよく掌握していったことがわかる。アストラル体とエーテル体の関係が強まり、鬱、無力感、疲労感がなくなる。肉体も、長期にわたってアストラル体との結びつきが弱かったために運動面で怠惰になっているので、その助けとして低濃度のリン治療を行わなくてはならない。リンが自我機構を補助し、肉体からの抵抗を克服できるようになる。ローズマリン浴によって、蓄積した代謝産物を外に流しだす可能性が開ける。アストラル体が不活性なために(神経系、リズム系、運動および代謝系など)人間生体における個々の諸部分の調和が阻害されているが、これをオイリュトミー療法によって調和させることができる。患者にライラック茶を与え、アストラル体が無為であったために生じた代謝系の遅滞を再び正常な状態に戻した。この患者においては、完治を成し遂げることができた。

症例3.

19-3-01
31歳の芸術家の患者。演奏旅行中に当院に来院。排尿系器官での炎症的機能障害。カタル、熱、極度の疲労感、全体的弱体化、就業不能。
19-3-02
問診により、同様な状態を繰り返していることがわかった。患者の霊的体質を検査した結果、アストラル体が過敏で、脆弱であった。その帰結として、肉体とエーテル体が、容易にカタル的、炎症的状態に陥りやすくなっている。この患者は、子どもの頃からアストラル体が十分に作用せず肉体的に弱かった。それゆえ、麻疹、猩紅熱、水疱、百日咳、繰り返しの咽頭炎、さらには14歳で尿道炎、29歳ではそれに膀胱炎を併発している。18歳で肺炎、胸膜炎、29歳ではインフルエンザの際に肋膜炎、30歳で前頭洞カタル。眼には絶えず結膜炎の傾向が見られる。… 2ヶ月の入院中、患者の体温は初め38.9度で、その後下がり、14日前後で再び上昇、その後には36度から37度の間を上下し、時おり37度を超え、また35度以下にもなった。こうした体温変化は、自我機構内での交代的雰囲気が像として明確に現れている。アストラル体の働きによって正常なリズムに和らげられることなく、自我機構の半ば意識された内容が直接に肉体やエーテル体の熱プロセスに作用するとこのような曲線が現れる。アストラル体の総合的作用に向けられるべき能力が、この症例ではリズム系にだけ集中し、そこで芸術的能力としてだけ働いている。それに伴って、他の器官系ではアストラル体の不足が生じている。そこからの重要な帰結の一つは、夏期における非常な疲労感と不眠である。夏の間は、外界によるアストラル体への負担が増加する。そして、内側に向けての作用能力が落ちる。肉体とエーテル体の諸力が支配的になる。一般的な生命感覚的知覚では、それは強い疲労感として現れる。アストラル体の活動能力に支障をきたし、それ自身が肉体から離れることの妨げになっている。それゆえ、不眠になる。アストラル体とエーテル体の分離不足が興奮的で不快な夢となる。この夢は過敏なアストラル体が肉体的な傷害に触れることがその原因である。肉体的に損傷を受けていることが、人体切断という像で象徴化されていることが特徴的である。それに伴うショックはそこでの自然な感情での現れである。アストラル体の働きが代謝系において不足していることは、帰結として便秘傾向に現れる。アストラル体からの働きかけが不十分なためにエーテル体が自律化し、それによって植物性や動物性のタンパク質を完全に人間的なものに変容させることができない。したがって、尿中にタンパク質が検出される。アストラル体の働きが不充分であるので、肉体において、人間にとって異質なプロセスが現れる。そうしたプロセスの結果が膿形成である。これは言わば、人間内における人間外の過程である。それゆえ、尿の沈殿物に真性の膿が生じていた。また、この膿形成には魂的な並行プロセスがある。肉体中でアストラル体が素材を充分に変換できないのと同様に、魂的にも人生経験を充分に咀嚼していない。人間的でない素材形成が膿となるように、魂的内容も人間から逸脱した特徴を持つ。-異様な生活環境、予感、象徴などである。…したがって、ここでは、アストラル体に働きかけ、バランスを取り、浄化し、力づける必要がある。自我機構は非常に刺激に反応しやすいので、その活動をいわば治療薬作用の担い手として利用することができる。外界に向かっている自我機構に対する最も有効な働きかけは、外側から内側に向けての働きかけである。これは、罨法(あんぽう)によって行うことができる。まず、シナガワハギ(Melilotus)の湿布を行った。これはアストラル体がリズム系に対して偏って働いているのを是正し、その力配分を調整しバランスを取るように働く。当然のことながら、この種の湿布はリズム系諸器官が集中している部分に行ってはいけない。代謝系や運動系の器官が集中している部分にこの湿布を行った。頭部から発する自我機構の雰囲気交代が作用を無効にしてしまうはずなので、頭部の湿布は避けた。シナガワハギ(Melilotus)の作用と適合するはずであるアストラル体と自我機構を補助することが問題となった。そこでゴボウの根から採ったシュウ酸を加えることでこれを行おうと試みた。シュウ酸は自我機構の活動をアストラル体の活動へと変化させるように働く。規則正しく分節化した排泄(分離)をアストラル体作用にもたらす、という課題のために、これらすべてに加えて、非常に低濃度の内服薬を与えた。頭部機構から指令される排泄(分離)は、硫酸カリウムで正常化しようと試みた。狭義の代謝系に依拠する過程に対しては、炭酸カリウムで働きかけようと試みた。尿排泄(分離)の調整にはテウクリウム(Teucriumシソ科の植物【註 Teucrium argutumの情報あり】)を用いた。つまり、硫酸カリウム、炭酸カリウム、Teucriumを等量含む薬剤を用いた。こうした治療すべてについて、肉体的、魂的、霊的な有機体全体の非常に不安定なバランスを考慮しなければならなかった。したがって、肉体的には絶えず安静にし、霊的なバランスのために魂的な静けさに注意しなければならなかった。これによってさまざまな医薬品が相互関連して働き合うことが可能になるからである。動いたり興奮したりしてしまうと、このように複雑な治療プロセスはほとんど不可能である。… この治療の終わりには患者は身体的に力強くなり、魂的にもよい状態になった。このように不安定な健康状態では、何らかの外的攻撃を受けると当然ながら、何らかの問題が再発しうる。ここでの総合的治療には、こうした場合にそのような攻撃を避けるという意味合いも含まれる。

症例4.

19-4-01
1回目は4歳、2回目は5歳半で来院した子どもの症例。母親とおばも同伴した。子どもの病態は母親やおばに関連していると診断できた。子どもについては次のことが明らかになった。双子で6週間ほど早産であった。もう一人は、胎生末期に死亡している。6週目に罹病し、非常に激しく泣き叫び、総合病院に運ばれた。そこでは、幽門痙攣症(Pylorospasmus)と診断された。また、子どもは一部は乳母によって一部は人工栄養で育てられた。8ヶ月で総合病院を退院した。帰宅したその日に痙攣の発作を起こし、それが2ヶ月間毎日続いた。その際に子どもは硬直し、白目を剥いた。発作の前には不安感が生じ、泣いた。また発作の前には右目が斜視になり、嘔吐した。2歳半で発作が再発し、それは5時間続いた。このときも硬直し、死んだように倒れていた。4歳で再び30分ほどの発作を起こす。このときに初めて、発熱を伴ったと記録されている。退院後数回の全身痙攣の後、両親は右腕と右脚の麻痺に気づいた。2才半で子どもは初めて歩行を試みるが、前に出るのは左足だけで、右足は引きずっていた。右腕も意志が伝わらないままであった。来院時にも子どもには同じ症状が見られた。
%強制改行… ここで、子どもの諸構成要素の状態を明確にすることが重要である。錯綜した諸症状の問題とは別に、この点を検査した。エーテル体の特定の諸部分では、ほんの僅かしかアストラル体の影響を受けておらず、極度に萎縮していることがわかった。胸部の右半分では、エーテル体は言わば麻痺している。その反面、胃のあたりではアストラル体がいわば肥大している様子が見られる。ここで、前述の複合的諸症状とここでの知見とをすり合わせることが重要である。消化においてはアストラル体が胃に対して非常に過剰な負担をかけているが、エーテル体が麻痺しているがために、腸からリンパ系への移行が停滞してしまっている。これにより、血液の栄養が十分でない。それゆえ、吐き気の現象を特に重要な症状と捉えなくてはならない。痙攣の発作の原因は、エーテル体が萎縮し、アストラル体がエーテル体を介さずに肉体に直接作用することにある。この子の場合、それが強度に常在する。この場合はそれに該当するが、この状態が成長期で継続してしまうと、意志を正常に受け取れるように運動系を育てるための諸過程が欠落してしまう。それがこの子では、右半身の不随という形で現れている。… ところで私たちは、この子どもの状態を母親の状態と関連づける必要があった。来院時、母親は37歳であった。彼女は、13歳の段階で現在の大きさにまで成長していたと言う。子どもの頃、歯が悪く、小児時に関節リュウマチを患い、クル病であったと訴えている。生理は比較的早かった。患者の説明では、16歳で腎臓病になり、痙攣状態も経験したと言う。25歳で括約筋の痙攣によって便秘を起こし、それを広げる必要があった。現在も排便の際に痙攣を伴う。複合的諸症状からの推論をしなくても、直接観察からだけでも、子どもと非常によく似ていることがわかる。ただそれは、ずっと穏やかなかたちで現れている。ここで、人間のエーテル体が交歯と性的成熟の間の期間で特に発達することを考慮しなくてはならない。この母親の場合、利用可能なエーテル力の強さが充分でなかったことが、性的成熟までの成長しか可能でなかったこととして現れている。性的成熟からはアストラル体が特に発達し、それが肥大化することでエーテル体を過剰に圧迫し、肉体に強く入り込ませ過ぎてしまう。これが13歳の段階で成長が止まったことに現れている。ところで、この患者は決して小柄ではなく、むしろ非常に大柄である。その理由は、エーテルの成長力は少なかったにしろ、アストラル体によって制限されずに肉体の量的肥大に作用したからである。このエーテル諸力は、それでも肉体の機能に対しては正常に働きかけることはできなかった。それは関節リュウマチとなって現れているし、さらに後には痙攣症状となっている。エーテル体が弱いために、肉体に対してアストラル体がとりわけ強く作用している。この作用は、分解的である。この分解的な力は、正常な生体発達では、アストラル体がエーテル体や肉体と離れる睡眠時に、構築的諸力によってバランスが取られている。この患者のようにエーテル体が弱いと、過剰な分解が生じているし、それは12歳ですでに歯の充填が必要としたことに現れている。たとえば妊娠時のように、エーテル体に対する要求が特に強くなる時期には、必ず歯が悪くなる。エーテル体の弱体は、アストラル体との結びつきの関係においては夢がとりわけ多いことに現れているし、この患者では眠りは健全なときもあるが、そこでもさまざまな異常が現れる。エーテル体の弱体は次のことにも現れている。肉体内にエーテル体によって克服されていない異物的プロセスが生じ、尿中にタンパク質やヒアリン円柱、塩が含まれる。【註 ヒアリン円柱:尿細管から分泌されるタムフォルスファールムコ蛋白が固まって、トコロテンのように出てくるもの。】…特筆すべきは、この病的プロセスが母親とおばで類似している点である。人間の諸構成体の組み合わせという点では、ほぼ同等な所見である。エーテル体の作用が弱く、アストラル体が過剰になっている。ただ、アストラル体自体は母親より弱い。それゆえこの場合も早めの初潮が見られた。しかし、こちらでは炎症の代わりに痛みだけが現れた。何らかの器官、たとえば関節の不調に由来するような痛みである。生命力が正常に働いている場合には、関節においてはエーテル体が特に活発に活動していなくてはならない。エーテル体の活動が弱いと、肉体の活動が優勢になり、それがここでは腫れや慢性的な痛風となって現れる。アストラル体が弱く、主観的な何かを感じ取ることにもあまり強く作用していないことは、甘さを好む食生活に現れている。甘さはアストラル体の感受性を高めるのである。この弱いアストラル体が昼間の活動でさらに消耗し、その弱体状態が残ると、痛みがはっきりと現れる。患者は夕方から痛みが増すと訴えている。この3人の患者の病態の関連を見ると、この二人の姉妹の前の世代、特に子どもの祖母に当たる人物に原因があることが示唆される。この人物に原因を求めなくてはならない。この3人の患者全員でアストラル体とエーテル体のバランスが崩れていることを考えると、この子の祖母に当たる人物のアンバランスが原因でありうる。このバランスの不良状態は胚の栄養供給器官、特に尿膜が祖母のアストラル体とエーテル体によって不充分にしか形成されていないことが原因でありうる。尿膜形成が不充分であることがこの3人の患者すべての原因であるかを検討しなくてはならない。私たちの所では、この問題は純粋に霊学的なやり方で明確になった。肉体としての尿膜は、霊的なものに移行しつつ、有能性としてアストラル体の諸力にメタモルフォーゼしていく。未発達な尿膜では、アストラル体の有能性があまり発達せず、これは特に運動器官全般に現れてくる。この3人の患者でこのことは共通している。アストラル体の様子から尿膜の様子を実際に認識することができる。私たちはここで世代間のつながりについて触れているが、これが想像たくましい推論の帰結ではなく、現実的な霊学的観察に基づいていることがお分かりいただけるはずである。
19-4-02
この真実に苛立ちを覚える人に対しては、ここでの議論は、矛盾に突き進もうという欲求からではなく、一旦分かってしまった認識は何人にも知らしめるべきであるという要請から生じている、と言いたい。神秘に覆われた遺伝という概念も、もし世代間における肉体的なものから霊的なもの、あるいはその逆へのメタモルフォーゼを認識しようとしないなら、暗闇にとどまるだろう。
19-4-03
こうした見解は、治療においても、どこから治療プロセスを始めるべきかの洞察へとつながっていく。この種の遺伝について何ら注意を払わずに、エーテル体とアストラル体間の不具合にしか気づかなかったら、人間のこの2つの部分に作用する医薬品を用いたはずである。しかし、ここでの症例ではこれは効果がなかったであろう。なぜなら世代を超えて伝わる障害は根深く、人間の各機構それだけでバランスを取ることができないからである。このような症例では、自我機構に作用しなくてはならず、エーテル体とアストラル体の調和や強化にかかわるすべてを、自我機構から作用させなくてはならない。言ってみれば感覚刺激(感覚刺激は自我機構に働く)を強めることで自我機構に近づき、これを達成できる。子どもに対しては次のことを試みた:5%の黄鉄鉱軟膏の膏薬を右手に張り、頭部の左半分に皇帝海綿軟膏を塗布した。黄鉄鉱は鉄とイオウの化合物で、外用すると、アストラル体を生き生きとさせエーテル体への親和性を増すという自我機構の作用を活性化する。皇帝海綿抽出物には特に有機化された窒素が含まれ、これが頭部から発して自我機構を介してエーテル体を生き生きとさせ、そのアストラル体への親和性を高める。この治療プロセスの補助として、自我機構をそのものとして活性化するオイリュトミー療法を行った。これによって、外的に処方されたものが生体の深部にまで導かれる。このようにして治療プロセスを導入したが、さらに補助としてアストラル体やエーテル体を自我機構からの作用に対し特に鋭敏にするはずのものを加えた。リズムを持った日課の中で、アキノキリンソウ(Solidago)の煮出液での入浴、ハコベ(Stellaria media)の煮出液を背中への塗布、柳の樹皮茶(特にアストラル体の感受性に特に作用する)の飲用、さらには0.001の錫(特にエーテル体の感受性を高める)。治療作用に対抗する傷ついた器官を鎮静化するために、さらに薄めたケシの汁を与えた。
19-4-04
…母親では後者の治療をより多く行った。なぜなら、世代が一代上であるので、遺伝的な力がより少なく作用しているからである。おばに対しても同じことが成り立つ。…入院中には、子どもが指示を守りやすく、魂的によりよい状態になるような状況を整えることができた。たとえば、聞き分けがよくなり、それまでは非常に不器用だった動きがより器用になった。その後のおばからの報告では、子どもの状態が大きく変わったとのことである。ずっと静かになり、優勢だった不随意的運動が弱まった。そして、一人で遊べるくらいに器用になり、魂的な状況も、以前にあった特別な感じがなくなった。

症例5.

19-5-01
26歳の女性患者。1917年には胸膜炎は治癒に向かっていたが、それに続いて1918年に肺カタルを伴った感冒に罹り、そのひどい後遺症で来院。感冒以後、完治していない。1920年の段階で、大変痩せ弱っていて、 微熱と寝汗の症状があった。感冒の直後には背中痛が現れ、1920年後半までひどくなりつづけた。激痛が続いた結果、背骨が曲がっている。右手の人差し指に腫れもある。安静(横たわる)療法で背中の痛みはかなり改善された。…来院時には、右大腿部に陥没性の膿瘍が見られ、若干の腹水によって腹部が張り、左右両側の肺の先端部にカタル性の雑音があった。食欲や消化は良好である。尿は濃縮され、タンパク質がわずかに見られる。霊学的検査の結果は次の通りである。アストラル体と自我機構は過敏な状態にある。こうした異常はエーテル体に現れ、本来のエーテル的機能が発現するのではなく、アストラル的機能のエーテルへの影響が表に現れてくる。アストラル的機能とは解体的である。それゆえ、生命活性や肉体器官での正常なプロセスが萎縮しなくてはならなかった。これには常に、人間生体内で行われる人体外的諸プロセスとも言えるものが伴う。陥没膿瘍、背中痛、腹部の張り、肺のカタル的現象、タンパク質の代謝不足といったことはこれに関連する。したがって、この治療ではアストラル体と自我機構の感受性を下げなくてはいけない。ケイ酸を投与することでその効果を得られる。ケイ酸はいかなる場合も他への感受性に比べて自身の力を強める。このケースでは、ケイ酸の粉末を食事に混ぜ、また浣腸で処方した。感受性を抑えるに当たって、背中の下部に辛子湿布を行った。これはそのものが感受性に対して作用し、それを通じてアストラル体と自我機構を抑えるが故に効果を持つ。消化活動における過敏なアストラル体を弱めるあるプロセスを介して、アストラル体の活動を本来あるべきエーテル体の部位に導くことができた。そのために、微量の銅と動物性炭素を作用させた。患者のエーテル体が、エーテル体にとって不慣れな正常な消化活動から離れてしまう可能性があったが、それに対しては膵臓液を与えることで対処した。
19-5-02
陥没性膿瘍を何回か(注射針で)刺した。吸引によってかなりの量の膿を抜き取り空にした。膿形成が弱まり、最終的には消えたため、膿瘍は小さくなり、腹部の張りも軽減された。膿がまだ流れている頃に、さらに体温が上がって驚いたことがある。このことも説明不能ではない。上述のアストラル体的身体構成では、ちょっとした心理的興奮によってもそうした熱が出うるのである。しかしこのような場合では、そのような発熱が、説明されうる点と身体に非常にダメージを与える点は別であることに注意しなくてはならない。なぜなら、ここでの条件下におけるこのような発熱とは、まさに生体内に解体プロセスが深く入り込んでいく仲介だからである。したがって、アストラル体の有害な作用を緩和するために、即座にエーテル体強化の手を施さなくてはならない。高ポテンシーの銀注射を処方し、熱を下げることができた。体重が10kg増え、丈夫になって退院した。ただ、錯覚に陥ってはならない。このケースでは予後療法によってこの治療結果を固定しなければいけないのである。

中間のコメント

19-01
これまでに述べてきた症例では、診断から処方を見出すための原則を特徴づけようとしてきた。事がわかりやすいように、かなり個別に対処しなくてはいけない症例を取り上げた。私たちは典型的な病気に対する典型的な薬剤も生産している。そうした典型的な薬剤を処方する症例も扱いたいと思う。

症例6. 枯草熱(花粉症)

19-6-01
重度の枯草熱の男性患者。子どもの頃から罹病。40歳で来院。こうした病状に対しては《ゲンチドー》薬剤がある。症状が最もひどくなったとき…5月…に投与した。《ゲンチドー》の注射と鼻腔への部分塗布を処方した。例年ならばひどい枯草熱に悩まされていた時期に、明確な症状改善が見られた。その後、患者は旅行に出て、以前とは比べものにならないほど改善していると報告している。翌年彼は、枯草熱の季節にアメリカからヨーロッパへと旅行したが、その際にはずっと軽い発作を一回経験しただけであった。繰り返しの処方の結果、この年は全体を通して耐えられる状態であった。完治をめざし、本来の意味での発作は起きていなかったが、翌年の処方も予定されていた。翌年の状態について、患者は次のような言葉で語っている:「発作の可能性があったので、1923年の年頭から治療を再開した。鼻粘膜の過敏性が以前よりずっと軽減されていると思っていた。私の仕事ではイネ科や樹木が花粉を飛ばす真っ只中に居なくてはならなかった。また夏を通して暑く埃っぽい道路を馬で走らなければならなかった。それでも、一夏を通して、一日の例外を除いて枯草熱の症状は現われなかった。この一日も、あらゆる根拠を総合するなら、風邪を引いたのであって枯草熱の発作を起こしたのではない、と思っている。この35年間、この年になってはじめて、かつては地獄とも思えた環境の中で、何の妨げもなく過ごし、働くことができた」。

症例7. 硬化症

19-7-01
硬化症とタンパク尿で61才の女性患者が来院。微熱、胃腸の障害を伴うインフルエンザによって、その時の症状が誘発されていた。インフルエンザの発病以来、患者は常に気分がすぐれなかった。起床時の息苦しさ、めまい、頭や耳や手の脈打つ感じを訴えたが、それは起床、歩行、階段登りの際により明確とのことであった。睡眠は良好である。便秘傾向。尿蛋白。血圧185mmHg。アストラル体の過剰活動に認められる硬化症を出発点とした。肉体とエーテル体が、アストラル体の活動全体を受け入れられる状態にないのである。こうした場合には、肉体やエーテル体で吸収しきれない過剰なアストラル体の活性が残る。人間生体が正常でしっかりとした姿勢を保つことができるのは、こうした吸収が完全に行われるときである。そうでないと、この場合で見られるような未吸収部分が、脈動感などの主観的幻想やめまいといった形で現れてくる。また、摂取栄養物が正常な代謝系に入る前に、この未吸収部分は摂取栄養物に掴みかかり、それらに諸プロセスを強制する。これが原因となって、便秘傾向や尿蛋白、さらには胃腸の障害が現れてくる。こうした場合には血圧は上昇するが、その理由はアストラル体が過剰に活動すると自我活動をも高め、その高まった自我活動が血圧上昇として現れるのである。…この症例には主に《スクレロン》を処方した。まためまいの発作に対し、一過的に非常に微量のベラドンナを処方した。消化促進のためにニワトコ茶を、規則正しい便通のために浣腸と下剤茶を、また塩分は硬化を促進させるので、無塩の食事療法を処方した。病状は比較的早くよくなった。めまいの発作や脈動感も少なくなり、血圧は112まで下がった。健康状態は主観的にも目に見えて改善した。硬化症はその年以来、進行していない。一年後、患者はわずかな症状で再来院した。同様な処方によって病状はさらに改善した。治療から長い期間を経た後も硬化症による生体の退行が起きていないことは、この患者では明らかであった。硬化症に特有の外的症状が少なくなり、以前患者に見られた急速な老化もなくなっていた。

症例8. 甲状腺腫

19-8-01
女性患者が34歳で来院。ある種の重さや肉体の内的な破綻が魂的なあり方全体に強い影響を与えてる人間の典型である。頑張りながら、ようやく言葉を発しているように見える。顔全体が凹面的な形をしている点が非常に特徴的である。鼻根では、生体活動が抑圧されているかのようである。患者が言うには、学童のころから繊細で病気がちだった。本当の意味で病気と呼べるのは、軽い麻疹だけである。常に青白い顔で、強い疲労感を感じ、食欲はなかった。医者を転々とし、そこで順に以下のような診断を下された。肺尖カタル、胃カタル、貧血症。患者自身の意識としては、病気は肉体的なものというよりは魂的ものであった。
19-8-02
既往症を述べたので、次に霊学的な所見を述べ、後にそこから既往症全体を検討したいと思う。
19-8-03
この女性患者では、アストラル体が強度に弛緩している。それによって自我機構が堰き止められ、肉体やエーテル体に達していない。意識の営み全体に、わずかな眠気が覆っている。肉体は、摂取した物質素材の側からのプロセスに晒されている。それゆえ、これらの外的活性を持ったままの素材が生体の各部に変容させられていく。エーテル体にまつわる活力が自我とアストラル体によって非常に低下させられ、それによって内に向かった感受性、つまり一般的な生命感情や身体状態に対する感情が活き活きし過ぎ、外界に向けられた感覚活性は鈍くなり過ぎている。それゆえ、あらゆる体的機能の相互不調和の道を進まざるをえない。身体機能を自我の側からまとめ切れない、という感情が現れる可能性しかないのである。これは彼女の場合には魂的無力感として現れる。それゆえ彼女は、身体的というよりは魂的に病んでいると訴えるのである。自我とアストラル体が無力になると、所見に見られたような病状が身体各部に現れるはずである。自我が無力になると、甲状腺、副腎などの腺に異常が、さらには胃腸組織に異常が現れる。これらすべてはこの患者にも予想されるし、また実際に確認されている。彼女の甲状腺腫や胃腸系の状態は霊学的な所見と一致する。また、以下の事柄は非常に特徴的である。自我とアストラル体が無力であるために、必要な睡眠の一部がすでに覚醒状態で満たされ、睡眠が極度に浅くなっている。これがこの患者では頑固な不眠症として現れている。寝入りも目覚めも容易に感じているのもこれと関係している。これは、夢を多く見るという彼女の言葉とも関連しているが、これは本来夢ではなく、夢と覚醒時の印象とが入り混じったものである。刺激の強度が抑制されているので、これらの夢は記憶にはあまり残らず、興奮的でもない。無力な自我の影響は内臓ではまず肺に現れる。肺尖カタルとは、常に自我機構の弱さの表れである。自我によってなされたのではない代謝はリウマチとして現れる。これら全体が、自覚症状としては全般的疲労感として現れる。初潮は14歳。自我機構が弱く、動き始めた生理のプロセスを押し戻すだけの力がなかった。自我がこの押し戻しの作業をしていることは、仙骨付近で脊髄に合流する神経で意識に昇り、感じ取られる。神経に自我機構やアストラル体が十分に流れていないと痛みが現れる。この患者は月経時に背中の痛みを訴えていた。こうしたことから、以下が治療方針となる。私たちはイヌサフラン(Colchium autumnale)がアストラル体に、とりわけ首や頭部のそれに強い刺激を与えることを発見した。それ故私たちは、甲状腺腫を主な症状とする総ての病気に対しColchicum autumnaleを投与する。この患者にもColchium剤を一回5滴、日に3回投与した。それによって甲状腺腫は縮小し、患者も楽になった。こうしたやり方でアストラル体を強めると、それが仲介となって自我機構がよりよく機能する。その際には、生体内で消化系、生殖器官系に作用しうる手段が有効になってくる。その手段とは、油を混ぜたニガヨモギの浣腸である。油を混ぜる理由は、それが消化管の活性を高めるからである。この手段は改善に非常に有効であった。私たちは、この治療が35歳前後の人間でふさわしい効果を発揮すると考えている。というのも、この時期の自我機構には、たとえそれが弱ったものであっても、他の生体構成要素との強い親和性があり、容易に活性化できるからである。患者が来院したとき、彼女は34歳だった。

症例9. 更年期における偏頭痛的症状

19-9-01
女性患者が55歳で来院。彼女の話では、子どもの頃は繊細で虚弱であった。子どもの頃に麻疹、狸紅熱、水疱瘡、百日咳、おたふく風邪を患っている。初潮は14~5歳であった。最初から出血が非常に多く痛みを伴っていた。40歳時に腫瘍のため下腹部の全摘出を行った。 患者の話では、35歳以降、3~4週間毎に偏頭痛的な頭痛が三日間続き、それが46歳時には、三日間続く意識喪失を伴う頭部の病気にまで悪化した。…現状での霊学的所見:自我機構が全般に弱っていて、それはエーテル体の活動を充分に抑制できていない点に現れている。植物的生命活動が頭部や神経感覚系にまで広がることは、自我機構が通常の強さであればありえないが、ここではそれが起きてしまっている。こうした状態は、特定の症状と一致する。まず第一には、尿意が頻繁であること。腎臓での排泄(分離)は正常に発展したアストラル体が制御しているが、これを抑制すべき自我機構がそのアストラル体に十分に対抗できないためにこうしたことが起きる。第二の症状としては、就寝が遅いことと疲労感を伴った目覚めである。自我が充分に引っ張ってくれないために、アストラル体が肉体やエーテル体から抜け出しにくいのである。目覚めたにしろ、睡眠中の名残である生命活動が、自我の弱体のために疲労として感じ取られる。第三の症状は、夢が少ない点である。自我機構がアストラル体に刻印する像が弱く、生き生きとした夢となって現れることができない。
19-9-02
こうした認識からは次のような治療が導かれる:自我機構のために、肉体とエーテル体への道筋をつけてやる必要があった。夜には額に2%のシュウ酸塩を、朝には下腹部に7%のイラクサ(Urtica doioca)溶液を、昼には両足に20%の菩提樹花の溶液を湿布した。これらによって、まず夜間の生命的活動が抑制されるはずである。シュウ酸塩は生体内での過剰な生命活動を抑制するからである。朝は、自我機構に肉体までへの道筋をつけてやる必要があった。これは血行促進によって実現される。そのためには、イラクサ内の鉄の作用を用いることができる。残った問題は、昼間、自我機構の肉体への入り込みを促すことである。そのために、昼、菩提樹の花の持つ誘導導入効果を用いた。この患者では、上述の頭痛が46歳のとき悪化した。この頭痛を(子宮)摘出による閉経と、さらには頭痛の悪化を意識喪失と関連させる必要があった。ちなみに、この意識喪失は更年期の代償症状として現れている。この改善に私たちはアンチモンを用いた。自我機構のコントロール下にある一般的な代謝であれば、アンチモンが有効であるはずだからである。しかし、これでは改善しなかった。これは次のことを証明している。つまり、自我機構には主に生殖器官をコントロールする比較的独立した部分があり、ここではそこが問題なのであった。そのためには Potentilla-Tormentilla (キジムシロ属)の根を非常に高度に希釈したものが効くと考え、実際に効果があった。

第20章 典型的な薬剤

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前置き

20-01
ここでは、その一部がすでに流通している薬剤について、その治療効果を述べようと思う。これらは典型的な病態に適している。したがって、典型的病態が問題になる場合には、当然ながら本書の内容に即したかたちでの治療効果が上がる。こうした観点から、私たちの治療薬について述べる。

1. 《スクレロン》剤

20-1-01
これは金属鉛、蜂蜜、糖からなる。鉛は生体に対し、自我機構による解体作用を促すように働く。自我機構による解体作用が弱すぎる生体にこれを十分な薬量で投与すると、その解体作用が促される。薬量が多過ぎると自我機構の働きが過剰になる。身体が形成されるよりも多く分解され、必然的に衰弱する。硬化症では自我機構が弱すぎる。自我機構だけでは充分に分解しない。それゆえアストラル体によってのみ行われる分解が現れる。生体から分解産物が遊離し、それが塩素材からなる器官に供給され、それを強めることになる。適量の鉛は、分解作用を再び自我機構の中に引き戻す。分解産物は硬化的なものとして身体に残ることなく、外に排泄される。硬化症を治療するためには、身体内に留まってしまっている塩形成プロセスを外に向かって開く道をつけてやる必要がある。鉛によってプロセスの方向を自我機構に沿ったものに定めるのである。このプロセスをいわば重くさせないための付加物が必要である。これは蜂蜜を付加することで実現される。蜂蜜によって自我機構はアストラル体を支配できる状態にもたらされる。硬化症ではアストラル体が比較的自律しているが、蜂蜜によってその自律性を取り除くことができる。糖は自我機構に直接作用する。糖は自我機構自体を強める。つまり、私たちの薬剤は以下のように作用する:鉛はアストラル体的な解体ではなく、自我機構的な解体として作用する。蜂蜜はアストラル体的解体作用を自我機構的解体作用に移行させ、糖は自我機構固有の役割を行えるようにする。硬化症の初期症状は、思考を貫徹する力や記憶を正確に支配する力が失われる点にある。硬化症のこの段階で私たちの薬剤を処方すれば、病態がさらに進行するのを避けることができるだろう。もちろん、後期の症状でも効果があることが示されている。(使用法は薬剤の取扱説明書に記載されている。)

2. 偏頭痛薬《ビオドロン(ドイツではケフアトドロン)》

20-2-01
頭部機構の内側に位置する灰白部分は、人体中で肉体的に最も発展を遂げた部分である。この部分では通常の感覚を包括した活動を行っていて、またそこには自我やアストラル体が働きかけている。また、生体のリズム系にはアストラル体とエーテル体が作用し、代謝-四肢系には肉体とエーテル体が作用しているが、この脳の灰白部分はリズム系にも、さらには非常にわずかであるにしろ代謝-四肢系にも関与している。脳の周辺部分はこの部分とは異なっている。周辺部分の方は、代謝-四肢系とのつながりが最も強く、リズム系とはややつながり、神経-感覚系とのつながりが最も薄い。ここで自我機構の活動が押し返されるために、脳の中心部で神経-感覚活動が減衰し、消化活動が増加すると、つまり正常な場合よりも脳の周辺部と似た状態になると、偏頭痛が生じる。したがってこの治癒には以下が関連する:
  1. 神経感覚活動の活発化;
  2. リズム系の方向転換、つまり代謝方向から呼吸方向への転換;
  3. 自我機構からの統御ができていない純粋に生命力的な代謝活動の抑制;
である。第1番目はケイ酸によって行うことができる。人体内では呼吸から神経感覚活動へと移行するプロセスがあるが、酸化ケイ素にはそれと同じプロセスが含まれる。第2番目はイオウによって達成できる。イオウには、リズム系に作用し、消化系に傾倒している状態から呼吸に向わせるプロセスが含まれている。そして第3番目は鉄が作用する。鉄は、消化系からリズム系を引き離すプロセスの後で、代謝を血液リズムのプロセスへと引き入れ、それによって代謝プロセス自体を抑制する。したがって、適切に調合されたイオウケイ酸が抗偏頭痛剤となりうる。これは多くの症例で示されている。

3. 気管支炎、気管支カタルに対する薬剤、黄鉄鉱

20-3-01
ここである薬剤について述べたいと思うが、この薬剤が存在するのは、素材における諸プロセスを人体内の諸プロセスと正しく結びつけうる認識があったおかげである。ここで注意しなければならないことがある。それは、素材とは本来、静止に至ったプロセスであること、いわば固まったプロセスである点である。本来ならば、黄鉄鉱と言うのではなく、黄鉄鉱プロセスと言わなくてはならないはずである。鉱物としての黄鉄鉱の中に固く閉じ込められているプロセスは、鉄プロセスと硫黄プロセスが共に作用することで生じうるものに対応している。前節で述べたように、鉄は血液循環を活性化し、イオウは血液循環と呼吸が結びつく際の仲介をする。血液循環と呼吸が関係し合うまさにその地点に気管支炎や気管支カタルの原因があり、またある種の吃音の原因がある。血液循環と呼吸の間でのプロセスは、胎生時には相当の器官を形成しているし、その後もその器官を絶えず更新している。そして、生体内でこのプロセスが正常に進まないときには、鉄硫化物を投与することでそれを肩代わりすることができる。この認識から出発して、黄鉄鉱から上述の病状に対する薬剤を調整している。この鉱物の持つ諸力が体内注射に際して罹病した該当の器官に正しく行き着くことができるように作りかえるのである。この場合、当然ながら特定の物質素材的プロセスが生体内で採る道筋を知っている必要がある。鉄プロセスは代謝から血液循環に入り込んでいく。硫黄プロセスは血液循環から呼吸過程へと入り込む。

4. アンチモン化合物の効果

20-4-01
アンチモンは他の物体と非常に強い類縁関係を持っている。たとえばイオウに対してである。イオウは生体内ではあらゆる呼吸プロセスとつながっているが、アンチモンには上述の性質があるために、そうしたイオウと同じ道筋をとることが容易である。アンチモンにはもう一つ特徴がある。それは放射状に結晶する傾向である。これは、地球周囲に存するある種の放射的力にアンチモンが容易に添うことができることを示している。アンチモンの精錬過程ではこの性質がさらに顕著に現われる。つまり、細い繊維状になるのである。アンチモンが燃焼過程に取り込まれ白煙を発生させるとさらに意味深い事柄が表に現れてくる。この煙が冷たい物体に触れると、特徴的なアンチモン華を形成する。アンチモンは、人体外で上述のような諸力にしたがうのと同様に、生体内ではフォルム形成力にしたがう。華にはフォルム形成諸力とフォルム解消諸力のバランスが見られる。アンチモンには上述の諸性質があるので、イオウとの結合によってそこに至る道筋がつけられれば、人間生体内のフォルム形成力を血液中に導くことができる。それゆえ、アンチモンの諸力は血液凝固に働く。霊学的に見ると、血液凝固へと導く力の中におけるアストラル体が強められることがわかる。生体の中には内から外へと向かう遠心的な諸力があるが、アンチモンの作用を受けたアストラル体に同様な諸力があることが見られるはずである。外から内へと向う諸力、つまり血液を流体化し、その流体化された血液を可塑的に身体形成に役立てる諸力に対し、このアンチモンの力は対抗している。このアンチモン諸力の方向と同じに働くものとしては、タンパク質のそれがある。タンパク質プロセスが内に持つ諸力は、絶えず血液凝固を妨げている。チフスを例に取ろう;その根底にはアルブミン化の力の過剰がある。人体に極微量のアンチモンを処方すると、チフス形成力に対抗できる。アンチモンの作用が内用と外用では非常に異なることを考慮しなくてはいけない。軟膏などの外用の場合、アストラル体の遠心的な諸力を弱める。このアストラル体の遠心的な諸力はたとえば湿疹形成に現われている。また内用の場合には、過剰な求心力に対抗する。この過剰な求心力はたとえばチフスにおいて見られる。
20-4-02
アンチモンは、危険な意識障害(Sommolenz)を伴うあらゆる病気に対して重要な薬剤の一つである。この場合には、アストラル体が持つ形成的・遠心的諸力や、それに伴う脳-感覚プロセスが一部分遮断されている。そうした生体にアンチモンを投与すると、欠けてしまったアストラル諸カを人工的につくり出す。アンチモンを摂取することによって、記憶力が強まり、魂的創造力が向上し、魂的状態が内的に自己完結していくことが分かるはずである。魂が強化されることによって、生体の再生が進む。このことは、古い医学では感じ取られていた。それゆえ、古い医学ではアンチモンはユニヴァーサルな薬であった。私たちはここまで極端な観方はしないにしても、上述のように、アンチモンには多方面での治療薬としての可能性を探せるはずである。

5. 辰砂

20-5-01
辰砂には重要な薬剤を見い出すことができた。水銀の人間生体に対する作用については非常に賛否両論が渦巻いているが、まさにこの素材においてそうした作用を研究する機会が与えられる。生殖諸過程は生体内にあっても、その存在が生体そのものからほとんど排泄(分離)されている。そうした生殖諸過程の最も中心的なプロセスが固化したものが、水銀である。水銀諸力には、排泄(分離)された諸力を再び生体全体へと吸収させる、という特性がある。それゆえ、生体内のどこかで排泄(分離)的プロセスが形成され、しかもそれが再び人体全体からの支配を受けるべきであるような場合には、あらゆるところで水銀を治療として用いることができる(微量を処方しなければならないが)。あらゆるカタルプロセスがそれに当たる。カタルが生じるのは、外的作用によってある生体部位が全生体の支配から引き離されるからである。気管支やその周辺でのあらゆるカタルがそれに当たる。そこに水銀諸力を導入すると、それは治療的に作用する。それには、すでに何度も述べたイオウの性質が役立つ。つまりイオウは、生体内で循環系と呼吸系が接する部位、つまり肺を中心とするあらゆるものに作用する。辰砂は水銀と硫黄の化合物である;つまりこれは、今述べた人体部位におけるあらゆるカタルに対して有効な薬剤である。

6. 枯草熱薬《ゲンチドー》

20-6-01
枯草熱の症状は眼、鼻、咽喉、上部気管粘膜の炎症である。そして枯草熱の患者への問診では、多くの場合、子ども期に《浸出性特異体質》に類する既往症を持つことがわかる。
20-6-02
それゆえエーテル並びにアストラル体の挙動を検討してみよう。エーテル体の諸力が過剰で、アストラル体は退行し、エーテル体および肉体を正常に掌握していない傾向がある。罹病した部位ではアストラル体からの…ゆえに自我機構からも…秩序づける作用が妨げられ、それによってカタル性の症状が生じる。アストラル体と自我機構は過敏になり、これは光、暑さ、寒さ、埃といった感覚印象をきっかけに発作的な反応が起きることの説明にもなる。…それゆえ治療プロセスは、アストラル体の負担を取り除き、エーテル体の正常な掌握を助けることにあるはずである。これは革状の皮を持った果実の果汁を処方することで可能である。そうした果実では、形態形成的諸力、外から内へ作用する諸力が特に強く働いていることが単に観るだけでもわかる。そうした果汁を外用、内用することでエーテル体方向へのアストラル体の活性を高めることができる。例えばカリウム、カルシウム、ケイ酸などの鉱物的成分は、同時に自我機構を補助し(第17章照)、枯草熱を根本的に治療することができる。…詳しい使用法は薬剤に添付されている。

あとがき

目次にもどる21-01
今日の時点では、ここまでが共同作業の成果である。ここにおいて、ルドルフ・シュタイナーが発病し、当然ながら私たちの苦しみでもあるが、さらなる著述の筆を収めなくてはならない。この先には、金、銀、鉛、鉄、銅、水銀、錫に地上的・宇宙的諸力がどのように作用しているか、そしてそれをどのようにして治療術の中で扱うのかを取り上げる予定であった。古来の秘儀存在が持っていた、金属と諸天体、金属と諸器官の関連についての深い洞察について書くはずであった。そうした智について述べ、それをさらに新しく基礎づけることが意図されていた。

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