2015年1月15日木曜日

神秘学概論、印刷&読み上げ

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『神秘学概論』まえがき-第3章まで、印刷用PDF

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第四章、宇宙進化は、いずれ商品として売り出しますので、お買い求めください。



2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、目次

まえがき

第1部、自由の学

第01章、意識的な人間の行為
第02章、学問への基本衝動
第03章、世界に仕える思考
第04章、知覚としての世界
第05章、世界の認識
第06章、人間の個体性
第07章、認識に限界はあるか

第2部、自由の現実

第08章、人間的営みの諸要因
第09章、自由の理念
第10章、自由哲学と一元論
第11章、世界における目的と人間的営みにおける目的(人間の位置づけ)
第12章、道徳的ファンタジー……ダーウィン主義と道徳
第13章、人生の価値(楽観論と悲観論)
第14章、人間的な個と類

第3部、最終的な問い

補足、一元論からの帰結
付録1.1918年新版への補足
付録2.1894年初版へのまえがき

fine

『自由の哲学』、1918年新版への序文

■00-01:すべての支えとなる観点と自由の可能性の吟味

本書では、人間の魂の営みに関する二つの根本問題が述べられている。 人間には体験や学問を介して多くが近づいてくるが、それらが自立的であるとは感じられない。 そこで一つ目の問いは、こうしたものすべてにとっての支えとなる観方が、人間のあの構成要素に対する観方で可能なのだろうかという問いである。 疑問の提起や批判的判断を原動力に、この不確かな領域に入り込んで行くだろう。 もう一つの問いはこうである。 意志的存在としての人間を自由と見なせるのだろうか、それとも、自由は単なる幻想なのだろうか。つまり、自然現象が必然の糸に操られているのと同様に、人間の意志も必然に支配されているものの、人間がそれを見抜けないがために自らを自由と錯覚しているだけなのだろうか。 これらの問いは、妄想の空まわりから生じたものではない。 ある特定の魂の状態ではごく自然に魂内に生じる問いである。 意志は自由であるのかそれとも必然に縛られているのかという可能性を真摯に吟味しなければ、魂の本来の姿ではないとすら感じられるかもしれない。 本書で示すのは、第一の問いに対して人が取る立場いかんで、第二の問いにおいて人がどのような魂的体験をすることになるかである。 他の認識にとって支えとなりうる、人間の構成要素に対する観方が存在することを証明しようとする試みである。 さらにこの観点からは、自由な意志を展開しうる特定の魂領域を見つけ出しさえすれば、意志の自由という理念が完全に正当であることを示す。

■00-02:実際の魂的活動に用いるべき哲学

この二つの問いに関連しているここでの観方とは、それがいったん得られれば、それ自体が生き生きとした魂の営みの一部になりうるものである。 ここでは理論的解答は提供しないし、そうした解答はいったん得られれば、あとはその確証が記憶に保持されるだけである。 本書の根底にある考え方からすれば、そうした解答は見かけだけでしかない。 完成した最終解答を与えるのではなく、魂のある体験領域が示される。その領域では、必要とされるいかなる瞬間にも、自らの魂的活動によって常に生き生きと新しい答えが示される。 こうした問いが繰り広げられる魂領域をいったん発見した人間には、この領域を実際に観ることで、この二つの人生の謎を解くに当たって必要なものが与えられる。 そして、その手に入れたものとともに人は謎多き人生において、運命や欲求が導く深みや広がりに入り込んでいく。 ……その独特の営みによって、そしてその独特の営みと人間の全魂的営みの類縁性によって、その正当性と有効性が証明される一つの認識が、これによって名乗りを上げたはずである。

■00-03:後の霊学研究との関係

25年前に本書を執筆したときには、本書の内容について以上のように考えていた。 今日でも私は、本書の最終的な思想を示すとするなら同じように書かざるをえない。 当時の執筆にあたって私は、ここで挙げた狭い意味での二つの根本問題と関連する事柄以外は語らないよう自制していた。 後になって私が語り始めた霊的経験領域について、本書ではまったく触れていない。それを不思議に思うなら、当時の私は、霊的探究の成果を述べることではなく、そうした成果を得るための基礎を築こうとしていたとお考えいただきたい。 この『自由の哲学』には、自然科学の特殊な成果は盛り込まれていないし、特別な霊的成果も盛り込まれていない。 しかし、それらの認識を確実に進めようとする者にとって不可欠であると私が確信する内容が盛り込まれている。 何らかの個人的理由から私の霊的探究の成果とはかかわりたくないと考える人にも、本書の内容は許容しうるはずである。 また、霊的探究の成果に魅力を感じる人にとっても、ここでの試みは重要でありうる。 あらゆる認識の基礎となる二つの基本問題に向けられた囚われのない観察が、「人間が真に霊界に生きる」という観方につながっていくことを証明しようとしているからである。 本書では、霊的経験に入る前に、霊的領域の認識が正当であることを示そうとしている。 そしてその正当性を示すに当たっては、本書の論旨に自ら入り込もうとするか、あるいは入り込めるなら、ここで語られる内容を考えうることと思えるために、本書のいかなる場面でも、私が後年に明らかにした高次の体験を参照する必要がないように留意した。

■00-04:新版での変更の理由

このように、本書はある意味では霊学関連の私の著書とはまったく違った位置づけになるが、見方を変えれば、そうした著作とも密接に結びついている。 これらを考慮した上で私は、25年を経た今、本質的には内容をまったく変えずに本書を復刊することにした。 ただ多くの章で、長めの補足を加えた。 私の論述が誤解を受けた経験から、こうした詳細な補足が必要と思われた。 四半世紀前の記述の中で、今日、言葉不足と思われた部分だけを変更した。 (こうした変更を、私の基本的信念の変更と曲解するのは、悪意しかありえないだろう)。

■00-05:新版が遅れた理由

本書は長年、品切れであった。 今述べたことからも明らかなように、この二つの根本問題に関する25年前の内容を今日も語り続ける必要があることは私にはわかっていたが、この再版の完成を長年ためらっていた。 初版刊行以来、おびただしい哲学的見解が提出され、それらを検討すべきか否か、またどこで検討すべきかを、私は再三自問していた。 また最近の私は、霊的領域の探究に没頭していて、こうした検討を思うように行なえない状況にあった。 現代哲学の諸業績を可能なかぎり根底から展望した結果、そうした吟味検討はとても魅力的ではあるにしろ、本書で述べられるべき内容にはふさわしくないと確信した。 最近の哲学の傾向について『自由の哲学』の観点から述べるべき事柄は、私の『哲学の謎』の第二巻で読むことができる。
1918年4月 ルドルフ・シュタイナー

『自由の哲学』、第01章、意識的な人間の行為

▲人間の自由を考える上での諸要素01~06

■01-01:重要な問い:人間は自由か否か

「思考と行為において、人間は自由であるのか、それとも既定の自然法則的必然の配下にあるのか」。 この問いには幾多の鋭い考察が加えられた。 人間意志の自由という理念には、熱き信奉者も、頑固な反対論者も数多い。 自由という自明な事実を否定できる人間は偏狭な精神の持ち主だと倫理的情熱をかけて語る者がいる。 もう一方では、自然の法則性が行為や思考という人間の領域に入ると成り立たないなどとするのは非学問性の最たるものであると言う人もいる。 まったく同一の事柄が、一方では人類の至宝とみなされ、もう一方では最悪の幻想とされている。 人間の自由と、人間もそこに含まれている自然というものの作用とを、どのように折り合いをつけるか、鋭い感性が無限に費やされてきた。 また、どうしてそうした馬鹿げた考えが生じえたのかを理解すべく払われた努力も決して少なくはない。 首尾一貫性を自らの信条とする者なら、ここに提出されているのは、人生にとって、宗教にとって、実践にとって、また学問にとって最も重要な問いの一つであると感じている。 最新の自然研究から《新たな信仰》を確立しようとする文献(ダーヴィッド・フリードリヒ・シュトラウス『古い信仰と新しい信仰』)が、この問いに次のようにしか言っていないのは、現代の思考が悲惨なまでに表面的になっていることの兆候だろう。 「人間意志の自由について、ここでは深入りはしない。 名に値する哲学では、何物にも依存しない選択の自由などは、いつも空疎な幻影でしかなかった。 また人間の行為や思慮の倫理的価値規定では、選択の自由は取り上げられない」。 私がこの一節を引用したのは、そこに特別な意味を見出したからではなく、この問題に対する現代の大多数の考えが集約されていると思ったからである。 可能な二つの行為から任意に一つを選択できるというだけでは自由とは言えないのは、子どもじみた学問を卒業した人なら誰でも知っているように思われる。 複数の可能な行為からまさにある一つを遂行するに当たっては、常に一つの特定の根拠が存在するというのが一般の主張である。

■01-02:行為の選択の自由は本来の自由とは無関係

これは明解であるように思える。 とは言うものの、反自由論者は常にこの選択の自由を攻撃してきた。 現在、日増しに賛同者を増やしている見解の立場をとるハーバート・スペンサーは、それでも次のように述べている(『心理学の諸原理』、ハーバート・スペンサー著、B.フェッター博士による独訳版シュトゥットガルト1882年)。 「誰でもが任意に欲したり、欲さなかったりしうるというのは本来自由意志というドグマに由来する定理であり、これは当然、意識の分析によっても、これまでの論述(心理学)の内容からも否定される」。 意志の自由に対する他の否定論者たちも、同様な出発点をとっている。 こうした反対論の萌芽はスピノザに見られる。 彼の自由の理念に対抗する単純で明快な論法は、その後、数限りなくくり返されたが、その多くは非常に巧みに理論武装されており、本筋である単純な理路を見つけることが困難である。 1674年の10月か11月、スピノザは次のような書簡を書いている。
「ある事柄が、その本性からの必然によってのみ成り立ち、また行為されるとき、私はそれを自由と呼ぶ。 また、何らかの他者によって厳密かつ固定的に規定されている事柄を、強制されたと呼ぶ。 したがって、例えば神は、必然的であるにもかかわらず、自由である。 なぜなら神は、自らの本性からの必然性だけで成り立っているからである。 同様に神は、自分や他の一切を自由に認識する。 なぜなら神は、自らの本性からの必然性によって、神が認識することのみに従うからである。 私が、自由な決断ではなく、自由な必然性を自由としていることがわかるはずである」。

■01-03:スピノザ:外的動因での行為は自由ではない

「次に、神による被造物に降りて行こうと思う。これらは、完全に外的原因によって、その存在や作用が厳密かつ固定的に規定されている。 これを明瞭に洞察するために、非常に単純な事例を挙げよう。 例えば石が外からの衝突という原因によって、いくぶん運動し始める。 その後、外的原因である衝突が終わっても、石は必然的に運動し続ける。 この慣性によって運動する石は、衝突という外的原因に決定されざるをえないので、強制されたものであり、必然的ではない。 ここで石について言えることは、他のあらゆる事物にも当てはまる。 それらは多くの場合でそうであるように、個々の事柄が外的原因によって厳密かつ固定的な仕方で成り立ち、作用するように規定された複合的なものであるかもしれない。

■01-04:スピノザ:行為の動因を洞察しないと自由ではない

石自身が、運動しつつも、運動継続に可能なかぎり努力していると自覚的に考えていると仮定してみよう。 この石は、自らの努力を自覚し、それに無頓着ではないので、自分は完全に自由であり、運動を続けるのは自らが望むからに他ならないと思い込むだろう。 ところがこれこそが、自分が持つと皆が主張する人間の自由なのである。 つまり、自分の欲求は意識しているものの、その欲求を規定している原因については無知である。 この意味で、ミルクを欲しがる幼児、復讐をたくらむ怒りに囚われた少年、逃げ出そうとする臆病者は、それぞれ自らを自由だと思っている。 さらには、しらふに戻れば言わない言葉を口にする酔っ払いも、それを自由な決意で行なっていると思っている。 経験が教えるところによれば、人間は、欲求をほとんど統御できず、善いことがわかっていても、激情に駆られれば悪いことをしてしまうのであるから、人間が自分を自由だとするにしても、それは単に欲求があまり強くなかったか、しっかり熟慮したことを覚えていたおかげでその欲求を抑えることができたにすぎない」。

■01-05:人間は行為の動因を自覚する場合があるのではないのか

上の見解は、明確で規定もしっかりしているので、そこに隠れた根本的誤謬を見つけ出すのも容易である。まず、その見解をまとめておこう。 石にとっては、衝突にしたがって特定方向に運動することが必然であるように、人間にとっても、何らかの理由に駆り立てられて行動するのは必然である。 自らの行為を意識しているというだけの理由で、人は自分がその行為の自由なる発動者であるとしている。 しかし人間は、従わざるを得ない原因に駆り立てられて行動していることを見逃していると言うのである。 この論考の誤りはすぐにわかる。 スピノザのように考える人たちは、人間が、彼の行為に対して意識を持てるだけでなく、その行為に到る原因に対しても意識を持てることを忘れている。 ミルクを欲しがる幼児や、後悔するようなことを口にする酔っ払いが自由でないことは当然である。 どちらも、身体深部に宿り、そこから抗い難い強制力を発揮する原因については、わかっていない。 しかし、行為だけでなくその原因も意識化している場合と、上述のものとを同一視してもよいのだろうか。 人間の行為とは、一種類なのだろうか。 戦場の兵士、実験室の科学者、錯綜する外交問題に取り組む政治家、これらをミルクを欲しがる幼児と学問的に同じ段階に置いてもよいのだろうか。 問題解決の際に最も単純な事例で考えるのは、確かに最良の方法である。 しかし、事の区別がきちんとできなければ、混乱の原因になるだけである。 行為するにあたって、その根拠を知っているか否かは、そうした根本にかかわる差異なのである。 とりあえずこれは、まったく自明な真実のように思える。 にもかかわらず自由の否定派たちは、本人によって認識され、洞察されている行為の動機と、ミルクを欲しがる幼児における身体的要求に由来する強制的動機とが同じ意味を持つのかを吟味することすらしない。

■01-06:ハルトマン:意志の規定要素の個的性格は未知にとどまる

エドゥアルト・フォン・ハルトマンは『倫理意識の現象学』(451ページ)で、二つの主要要因が人間の意志を規定しているとしている。 動因と(その人の)個的性格である。 人間は皆同じ、あるいは大差はないと考える場合、意志は彼らを取り巻く外的諸事情に左右される。 表象から行為の動因を導く際に、それぞれがその人なりの個的性格に沿って欲求を生み出すとしたら、そこでの規定は外側からではなく内側からということになる。 このとき人間は、外からの表象を、内なる個的性格に沿って動因にせざるをえない、言い換えると、外的動因が主要ではないので、自分を自由であると思い込む。 しかしハルトマンによれば真実は次のようになる。 「私たち自身が表象を元に動機を作り出すにしろ、これは随意的ではなく、個的性格上の資質に沿った必然性に従っている。つまり、自由とは言えない」。 このハルトマンの論でも、私によって完全に意識化された動機と、きちんと把握されずにいる動機との違いに対し、何の配慮もされていない。

▲自由を考える上での中心課題07~11

■01-07:意志の自由に密接にかかわる事柄がある

こう考えると、ここでのテーマを適切に見るための視点につながる。 意志の自由を、意志の側だけから一方的に偏って考えることは許されるのだろうか。 もしそうでないとするなら、どのような問いを関連させなくてはならないだろうか。

■01-08:動機が意志される場合とされない場合を区別

行為の意識化された動機と意識されない衝動とを区別するなら、前者による行為は、盲目的衝動からの行為とは評価が違ってくるだろう。 この差をまず問題にしよう。 そしてこの問いの結果が、自由に関する問いをどのように問うたらよいかに影響する。

■01-09:行為者と認識者を分けてしまうと

行為の根拠を知るということにはどのような意味があるのだろうか。 ある不可分な全体を二分してしまったがために、この問いに目が向けられずにいた。 その全体とは、人間である。 行為する人間と認識する人間とを分けてしまい、最も重要な、認識から行為する人間という部分が空白になってしまったのである。

■01-10:動物的動機と理性的動機では違うのか

動物的欲望に支配されるのではなく、理性が支配するときのみ人間は自由である、 と言われる。 あるいは、目的や決意にしたがって生活し、行為するとき自由であるとも言われる。

■01-11:動機が動物的か理性的かは本質問題ではない

しかし、こう主張しても何も進展しない。 理性、あるいは目的や決意が、動物的欲望と同様に強制的に作用するか否かが問題だからである。 飢えや渇きが私の内で必然的に生じるのと同じように、私の関与なしに理性的決意が生じるなら、私はそれに従わざるをえず、自由は幻想にすぎないことになる。

▲いくつかの自由否定論を論破12~16

■01-12:動機から意志への部分が人を自由にさせない

自由とは、欲することを意志しうる点にではなく、意志を行為できる点にあると言われることもある。 この考えを、詩人であり哲学者であるロベルト・ハマーリンクは『意志の原子論』で、鋭い輪郭を持つ表現で述べている。
「人間はもちろん、意志することを行為できる。しかし、欲したいことを欲することはできない。 なぜなら、意志は動機に規定されるからである。 しかし 欲することを意志できないのだろうか。 この言葉を詳しく見てみよう。 これは理性的な意味を持つだろうか。 根拠や動機なしに意志できるとするなら、それが意志の自由ということになりはしないだろうか。 しかし、根拠を持って他の何物でもないこれを行なおうとすることこそが意志だろう。 根拠も動機もなしに何かを意志するとは、欲することなしに何かを意志するということになってしまう。 つまり、意志と動機は概念的に不可分である。 規定を与える動機がなければ、意志とは、満たされていない潜在的可能性にすぎない。 動機があって初めて意志は活性化し、現実のものとなる。 最も強力に作用する動機に規定されているかぎり、人間の意志は《自由》ではないというのはまったく正しい。 もう一方で、 《不自由》の対極として考えうる《自由》なる意志、つまり、欲しないことを意志しうる、などというのも、馬鹿げていると言わざるをえない」(『意志の原子論』第2巻213ページ以降)。

■01-13:動機が意識化されるか否かが自由の本質

このハマーリンクの論でも、動機が一般論で述べられているに過ぎず、無意識的動機と意識的動機の違いが考慮されていない。 《最強》の動機が私に作用し、それに従うように私を強制するのだとすれば、自由について考えても無意味である。 ある動機が行為を強制するとしたら、行為できるかできないかには何の意味もない。 動機が働いたときに、ある行為をするか否かが問題なのではなく、強制的必然性を持って動機が働きかけているか否かが問題なのである。 もし何かを欲せざるをえないとすれば、それを行使できてもできなくても、不自由であることに変わりはない。 もし私の性格や周囲の状況によって、どう考えても不条理であるような動機が迫ってくるとしたら、意志することを行為できないことに喜びすら感じるはずである。

■01-14:決意が自分の内で生じる様子が本質

固めた決意を行為に移せるか否かではなく、どのように決意が私の内で生じるかが問題なのである。

■01-15:動物を引き合いに出しても人間の意識しうる動機は語れない

人間を他のいかなる生物とも違ったものにするのは、理性的思考である。 活動できるという点は、他の生物と共通である。 人間の行為における自由概念を明確にするために、動物とのアナロジーを持ちだしても何も得られない。 現代自然科学はそうしたアナロジーを好む。 そして動物において人間に似た行動を見つけると、人間学上の重要な問いに肉薄していると思い込む。 こう考えることで理解を誤ってしまう例は、パウル・レーの『意志の自由の幻想』(1885年、5ページ)に見ることができる。
「石の運動は必然的に思え、ロバの欲求は必然的に思えない理由は簡単である。 石を動かす原因は外部にあり、目で見えるが、ロバの欲求に関する原因はロバの内部にあり、見えない。 その原因の働く場と私たちの間には、ロバの脳が存在する。 ……因果関係を見通せないので、そうした因果関係は存在しないとしている。 意志とは、(ロバの)方向転換の原因であり、それ自体は何ものにも左右されず、絶対的な発端である」としている。
ここでも、その根拠が意識化された行為については、「その原因の働く場と私たちの間には、ロバの脳が存在する」とされるだけで、素通りされている。 以上の言葉から、ロバの行為ではありえないにしろ、人間では、私たちと行為の間に、意識化された動機が存在しうることを、レーは想像だにしていないことがわかる。 彼はそのことを数ページ後に証明している。
「意志を規定する原因を私たちは知覚しないので、意志が原因から特定されることはありえないと私たちは考えるのである」。

■01-16:反自由論者は自由が何かを理解していない

反自由論者が何が自由かも知らずに主張をしていることを証明する例は、これくらいで十分だろう。

▲行為の根拠を知るための認識的活動17~19

■01-17:行為の根拠を知るのは認識の問題である

行為者がなぜ行為するのかを自覚していないならば、その行為が自由ではありえないという点は明らかである。 根拠を自覚している行為は、それとどのような関係にあるのだろうか。 そこからはまさに次の問いに導かれる。 思考の根源と意味とは何か。 魂内の思考的活動についての認識なくしては、何かについての智という概念、この場合は行為についての智であるが、それはありえない。 思考全般の持つ意味を認識すれば、行為における思考の役割を明確にすることも容易になるだろう。 「魂は動物にも備わるが、それを精神にまで高めるのは思考である」と、ヘーゲルも正しく述べている。

■01-18:行為の根拠を認識しても”冷たく”はならない

行為のすべてが、冷たい悟性的思考から生じる、などと主張してはいない。 抽象的な判断からの行為だけが最高次の意味で人間的行為であるという立場とはまったく無縁である。 それでも、動物的欲望の充足という領域から一歩でも抜け出た行為では、その動機は考えに満たされている。 愛、同情、愛国心などは、冷たき悟性では語りきれない行為である。 そこには、ハートあるいは心情が正しく宿っていると言われる。 これに疑問の余地はない。 しかし、ハートあるいは心情が行為の動機を作り出すのではない。 確かに行為の動機は、心情を前提としていてそれを自分の領域に取り込む。 しかし私の心の中に同情が現われるのは、意識内に同情すべき人物の表象が現われたときである。 道は、頭を経由してハートにつながっているのである。 これについては、愛も例外ではない。 単なる性欲の表出でない愛であれば、愛とは、愛する存在についての表象の上に成り立っている。 そして、表象が理想主義的であればあるほど、愛はより祝福されたものとなる。 ここでも、思考内容が感情の父なのである。 愛では、あばたもえくぼと言われる。 しかし、これを逆に見ることもできる。 愛は、愛する対象の長所を見せてくれる。 そうした長所に、多くの人が気づきもせず、素通りしている。 一人がその長所に目を止め、それがゆえに心に愛を目覚めさせる。 彼が他の人と違ったのは何であろうか。それは他の何百人もが持ち得なかった表象をその人だけが作り上げた点である。 他の人は表象がないので、愛さないのである。

■01-19:行為の起源の前に思考の起源を吟味する

事柄を私たちが望むやり方で取り上げてもかまわないだろう。 すると以下の点がしだいに明らかになるはずである。 「行為の本質を問うに当たっては思考の起源を問うことが前提になっている」。 それゆえ私は、まずこの問いに向かう。

『自由の哲学』、第02章、学問への基本衝動

私の胸には二つの魂が宿る、
 それらは互いから離れようとする;
 一方は堕ちた愛欲の中で、
 生身によって現世にしがみつく;
 一方は塵から自らを力づくでもたげ
 高き予感の地へと向かう
 『ファウスト』第一部(1112-1117)

▲人間における分離と統一のせめぎ合い01~03


■02-01:人は与えられるものでは満足せず認識を求める


ゲーテのこの言葉は、人間本性に深く根ざした一連の性格を表現している。 人間は、一元的に組み上げられた存在ではない。 人は常に、外界が与えてくれるもの以上を求める。 欲しがる思いを自然は人間に与えたが、その中には、私たち自身が活動しなければ満足させられない欲求も含まれる。 与えられた贈り物は豊かだが、私たちの欲求はさらに大きい。 私たちは、満足には達しえないように生まれついているようだ。 その満たされえぬものの特別な一つが、認識への渇望である。 一本の樹を二度眺める。 一回目では、枝は静止し、次には揺れている。 私たちはこうした観察だけでは満足しない。 樹はなぜ、ある時は静止し、ある時に揺れ動くのか。 私たちはそう問う。 自然を見るたびに、私たちの内に多くの問いが生じる。 私たちが出会うあらゆる現象は、私たちへの問いである。 私たちにとって、一つひとつの体験が謎になる。 卵から、親に似た姿の動物が現われる。 すると、この類似の根拠を問う。 何らかの生物で、ある段階までの成長や発展を観察する。 するとこの体験の条件を探究する。 自然が見せてくれるものだけでは、私たちは決して満足しない。 どのような場面でも、事実の解明と言われるものを求める。

■02-02:認識を求めるとき外界とは別存在である自分を自覚する


事物によって直接に与えられるものを超えた何かを求めることによって、私たちの存在全体が二つの部分に分かれる。 一つは外界で、もう一つは外界に対峙する自分であることを意識化する。 私たちは、自立した存在として外界と向かい合っている。 全宇宙は私たちにとって、対極をなす二つとして現われる。 つまり、そして世界である。

■02-03:意識によって自分と世界を分離する


意識が輝き出すと、私たちは外界との間に隔壁を作ってしまう。 しかしそれでも、私たちが世界に属し、世界と絆で結ばれ、宇宙ではなく宇宙内の存在であるという感情が失われることはない。

▲分離を統一へと導こうとする諸見解04


■02-04:人は分離を一体化しようと努力する


この感情が元になって、対置に橋を架ける努力が始まる。 結局のところ、人間の精神的努力は、すべてこの対置の橋渡しなのである。 精神史とは、世界と私たちとを一体として結びつける、絶えることのない探究の歩みである。 宗教、芸術、学問、すべてがこれを目標にしている。 自我は現象世界だけでは満足せずそこに謎を見出すが、信心深い宗教家はその謎の解明を神からの啓示に求める。 芸術家は、自らの内に生きるものと外界とを宥和させるべく、素材に自らの自我の理念を込める。 芸術家も現象世界だけでは満足できないと感じ、現象界を越えたもの、つまり自我の内に隠れたものを形にしようとする。 学者は、諸現象の法則を探り、観察によって経験したものに、思考をもって入り込もうとする。 世界内容を私たちの思考内容としたときにはじめて、私たちは、見失った関連を、再度発見する。 詳細は後述するが、学者が学問研究の持つ課題を通常以上に深く捉えたなら、この目標は達成される。 ここで述べた事柄は、すべて世界史的な現象でもある。 つまり一元論二元論の対立である。 二元論では意識によって生じる自我と世界の対立だけに注目している。 そして、精神物質主観客観思考現象という対立を宥和させるべく、徒労に帰す努力をしている。 二元論は両世界には橋が存在すると感じてはいるものの、それを見出せる状態にはない。 人間は自己を《自我》として体験するし、この《自我》は精神の側にあるとしか考えられない。 さらに、この自我と向かい合う世界の方は、感覚によって捉えられる知覚世界、つまり物質界と考えざるをえない。 こうして人間は、自らを精神と物質という対置の中に置くことになる。 身体が物質界に属するので、その対立はさらに強調される。 《自我》は精神界の一部に属し、感覚知覚される物質的物体や事象は《世界》に属する。 物質と精神にまつわるあらゆる謎は、根本的な謎として、必然的に人間としての固有存在の内に再発見される。 一元論では一体性だけを見て、事実上存在する対置関係を否定、もしくは消去しようとする。 この二つの見方のどちらも、事実関係を正確に捉えていないので、満足な解答を与えることはできない。 二元論では、精神(自我)と物質(世界)を本質的に異なる構成存在と考えていて、両者を関連づける道筋を見つけられない。 精神は、自分とは本性がまったく違う物質界に生起する事柄を、どうしたら知りうるのだろうか。 あるいは、精神が自らの意図を行為に移すにあたって、このような状況下で、どうしたら物質に作用しうるのだろうか。 この問いに向けて、才知に満ちたものから無意味なものまで、あらゆる仮説が立てられた。 現在のところ、一元論の事情も大差ない。 一元論は、三通りの解決策をとった。 精神を否定して唯物論になるか、物質を否定して観念論に救いを求めるかした。 あるいは、最も単純な宇宙存在においても、物質と精神が不可分に結びついていると主張する。 したがって人間においてこの二つの存在様式がいささかも分離せずに見られるのも驚くに当たらないと言う。

▲分離を克服し統一を目指すいくつかの試み05~09


■02-05:唯物論による分離克服の試み


唯物論からは、満足のいく世界説明は得られない。 なぜなら、何かを説明しようとする際には、現象についての考えを作り上げることから出発せざるをえないからである。 唯物論においても考えが出発点で、それを向けるのは物質や物質的経過についてである。 しかしそれを行なった段階で、《物質界についての考え》と《物質界》という二つの異なる事実領域を相手にすることになる。 唯物論では、考えすらも純粋な物質的経過と捉えようとする。 消化器官で消化が行なわれるのと同様に、脳内で思考活動が行なわれると考える。 唯物論では、物質が物理的作用や生命的作用を有するとするし、物質が特定の条件下では思考能力も持つとしている。 しかし、こうすることで問題の所在を変更したにすぎないということに気づいていない。 唯物論者では、思考能力を自分自身にではなく、物質に帰した。 こうして唯物論は振り出しに戻ってしまう。 物質は、どのようにして自らについて考えうるのか。 物質はなぜ自らに満足し、自らの存在を受け入れないのか。 物質主義は、確実なる主観、つまり私たち自身の自我から目を背け、曖昧な対象に行き着いている。 ここで物質主義は、同じ謎に直面する。 唯物論的見方では、問題解決には到らず、問題の配置換えしかできない。

■02-06:観念論による分離克服の試み


それでは、観念論はどうだろうか。 純粋な観念論者は、物質を自立的存在と認めず、精神の産物にすぎないと捉えている。 しかし、この世界観を人間本性の謎の解明に応用すると、袋小路に入ってしまう。 自我は精神の側にあり、それに対置する感覚世界からまずは何も受け取っていない。 さて、感覚世界に近づくにあたって精神的な道筋は閉ざされているように見えるし、そうなると感覚世界は、物質的な道筋を経由して自我に知覚され体験されなくてはならない。 《自我》が精神的存在でしかないとするのであれば、《自我》内にそうした物質的プロセスは存在しない。 自我の精神的作用内には、感覚界は決して入り込めない。 自我が世界と非精神的様式で関係を付けなければ、自我は世界の存在に気づきすらしない。 《自我》はそれを認めざるをえないだろう。 行為の場合にも、意図を物質的素材や物質的諸力の助けを借りて実現せざるをえない。 つまり、外界を必要とする。 極端な観念論者、別な言い方をするなら、絶対的観念論によって極端な観念論者とされる思索家とは、ヨハン・ゴットリープ・フィヒテである。 彼は宇宙構造体全体を自我から演繹しようとした。 そこで彼は、経験内容を一切含まない、宇宙についての一つの偉大な思考像を作り上げた。 唯物論者は精神を否定することはできず、同様に、観念論者も外的物質界を否定することはできない。

■02-07:より狭い観念論


《自我》を認識しようと目を向けると、まずこの《自我》が理念世界を思考的に形成するのを知覚する。それゆえ精神性に傾倒した世界観では、自らの人間的構成要素に着目しつつ、精神という全体からその一部でしかない自分の観念世界だけを認知するという誘惑に駆られる。 こうして精神主義からは一面的な観念論が生じる。 精神界を観念世界を介して見出そうとするのではなく、観念世界そのものを精神界と見なすのである。 それゆえ観念論は、《自我》の作用範囲内に留まらざるをえないという呪縛を受けたかのようになってしまう。

■02-08:ラング説:世界を物質的に説明しようとして物質を思考の産物とした


奇妙な観念論の一亜種が、多くの読者を獲得した『唯物論の歴史』を著したフリードリヒ・アルベルト・ラングの立場である。 彼は、思考も含むあらゆる宇宙現象が純粋に物質的経過の産物として説明されるとき、唯物論は完全に正しいと言えると仮定している。 たださらに逆に、物質や物質的過程そのものは、思考の産物であるともしている。
「感覚によって私たちに与えられるのは事物の作用だけであり、事物の忠実な像でも、まして事物そのものでもない。 感覚そのもの、脳、そして脳内の分子運動、これらすべてがこの作用である」。
こうして、思考は物質的経過が生み出し、その物質的経過は思考する《自我》が生み出すとしている。 つまりラングの哲学は、自分の髪を引っぱり上げることで自らを宙に浮かばせたミュンヒハウゼンの話を概念に置き換えたにすぎない。

■02-09:単純な存在に物質と精神の両者が融合しているという説


第三の一元論は、最も単純な存在(原子)がすでに物質と精神の結合存在であると考える。 しかしこう考えても、意識内で生起する問いを、別な舞台へ移しているだけである。 つまり、その最も単純な存在自体が不可分な統一体であるとき、どうしたらそれは自分を二通りに表現できるのだろうか。

▲分離を統一へと克服する鍵は人間内にある10~13


■02-10:出発点の確認:対置は意識内で始まる


上述の諸見解に対し、第一にはっきりさせるべき点がある。 それは、根本対置、原初的対置が、まず意識内に現われるという点である。 私たちを母体である自然から引き離して《自我》とし、さらに《自我》を《世界》に対置したのは、私たち自身である。 古典的にはこのことは、とりあえず非学問的な体裁ではあるにしろ、ゲーテの『自然』に書かれている。 「私たちは彼女(自然)の中に生き、同時に異物である。 自然は常に私たちと語り合うが、自らの秘密は明かさない」。 しかしゲーテは、その裏側も語る。 「人間はすべて自然の内にあり、すべての内に自然はある」。

■02-11:私たちは自然と乖離しつつ自然の中に居る


確かに私たちは自然と乖離しているが、私たちが自然の内にあり、自然に属していると感じるのも真実である。 私たちの内に息づくものは、自然そのものの働きでありうる。

■02-12:分離を克服する手段は私たちの内にあるはず


私たちは自然に回帰する道を見つけ出さなくてはならない。 単純な考察が、この道を教えてくれる。 確かに私たちは自分で自分を自然から切り離したが、自然からの何かが私たちの本性内に持ち込まれているはずである。 この内なる自然存在を、私たちは自らの内に見つけ出さなくてはならず、それができればあの関連を再発見するだろう。 二元論はそれを怠っている。 二元論では、人間内面を自然とはまったく異質な精神存在と見なし、この異質存在と自然を無理矢理結びつけようとしている。 これでは当然ながら、接点は見つからない。 まず自分のにある自然を認識すれば、外の世界にも自然を見出しうる。 私たちの内にある自然と同質なるものが、導き手となるだろう。 これで採るべき道筋が示された。 自然と精神との相互作用に思索を弄ぼうとは思わない。 そうではなく、私たちが自然から離れる際に持ち出したあの要素を見出すべく、私たち自身の存在の深みへ降りていこうと思う。

■02-13:自分自身を研究することが指針となる


私たち自身を研究することで、問いの解答が得られるはずである。 私たちは、単なる《自我》ではない、ここにおいては《自我》以上の何かがあると言える地点に到達しなければならない。

▲学問的であることは目指さない14


■02-14:学問的に論述しようとはしていない


ここまで読み進んできた多くの読者が、ここでの論述が《現代の学問レベル》に達していないと考えることは、私の想定内である。 これに対しては次のように述べておきたい。つまり、ここまでの記述では、学問的成果を問題にする意図は一切なく、誰もが意識内で体験できることを述べたにすぎない。 その中で、意識と世界の融和について述べた文が幾つかあるが、それは事実そのものを明確にするためであった。 したがって、《自我》、《精神》、《世界》、《自然》等々の個々の表現を、心理学や哲学における厳密な用法に則して用いてはいない。 日常的な意識には、明確に区分された学問的概念はないし、ここまでは単に日常的な事実関係を問題にしてきた。 意識に対するこれまでの学問的解釈ではなく、日々、意識がどのような営みをしているかを問題にしたのである。

『自由の哲学』、第03章、世界認識に仕える思考

▲観察と思考01~07

■03-01:観察と思考の違いを際立たせる実例

ビリヤード球が突かれ、その運動が別の球に受け渡されるのを観察するとき、私はその観察経過に何の影響も与えていない。 第二の球が進む方向と速度は、第一の球のそれによって決まる。 また、単に観察するだけでは、衝突後に生じる第二の球の運動は予見できない。 しかし、観察内容に考察を加えると、事情は異なってくる。 私が考察する目的は、その経過についての概念形成である。 球の弾性という概念に特定の力学的諸概念を結びつけ、さらにここでの初期条件を加えて考察する。 私の作用が及ばない知覚領域での成り行きに、概念領域での第二の成り行きを付け加える。 この第二の経過は私の活動に依存している。 私がそうしたいと思わなければ、概念探求を放棄し、観察だけで満足しうることからも、そのように言える。 しかしそうしたいと思うなら、球、弾性、運動、衝突、速度等々の諸概念を、観察事象における特定の関係で結びつけるまで、私は落ち着かない。 観察される過程が私とは無関係に進行することが確かなように、概念的プロセスは私が関与しなければ成り立たないことも確かである。

■03-02:観察に触発される概念結合は私たち自身の行為に見える

この私の活動が、本当に私の自律的本性から流れ出るものなのか、それとも、私は自分が思うようには考えることはできず、そのときに意識内に存在する考えや考えの結合による規定にしたがってしか考えられないという近代生理学者の方が正しいのかは、後に検討する(注)。

(注:内容)ツィーエン著『生理的心理学教程』、イェーナ1893年171ページ参照

ここではとりあえず事実関係だけを確認しておく。つまり、私たちが関与せずともそこに存在する対象や出来事と向かい合うと、私たちは居ても立ってもいられず、そうした諸対象を結びつける適切な概念結合を探したくなる点である。 この行為が、本当に私たちの行為なのか、それとものっぴきならない必然性に従わざるをえないのか、その点についてはここでは問わない。 ただ、この行為が私たち自身の行為に思える点は、疑いがない。 対象に対する概念が即座に見つからないことも、私たちはよく知っている。 行為の主体が私自身であるというのは見せかけかもしれないが、観察そのものからすれば、事態はそう見える。 さて、ある出来事に対し対応概念を見出すことで何が得られるのかを問おう。

■03-03:出来事に対応する概念を見つけると事柄の関連が得られる

ある過程の各部分の相互関係は、対応する概念を見つける前と後とでは、深い意味で違っている。 単なる観察でも、そこに現われる出来事の各部分の成り行きをたどることはできる。 しかしそれらの関連は、概念の助けがなくては闇の中である。 ビリヤード球が特定の方向と速度とでもう一つの球に向かうのを私は見る。 そして、衝突後に起こることは、少し待って、出来事を実際に確認しなくてはわからない。 衝突の瞬間にビリヤード台が隠されてしまったら、単なる観察者としては、その後の出来事は知りえない。 しかし、隠される前に衝突の適切な概念を作っていたら、話は違ってくる。 観察できなくとも、そこで何が起こるのかを語りうる。 観察された経過や対象物それ自体だけから、他の経過や対象物との関連が現われ出ることはない。 観察と思考が結びつくと、こうした関連がはじめて明らかになる。

■03-04:観察と思考が二本柱

観察と思考、これらが正当に評価されるなら、これこそがあらゆる精神活動の出発点である。 通常の悟性的判断から高度な学問研究まで、この二つが私たちの精神を支えている。 哲学者たちはさまざまな対置関係を出発点にしてきた。観念と現実、主観と客観、現象と物自体、自己と非自己、理念と意志、概念と物質、力と素材、意識と無意識などである。 しかしこれらすべてより、人間にとって観察思考という対極が最も重要なことは容易に示すことができる。

■03-05:世界現象の解明は思考から出発する

ある種の原則を提示したいとしよう。その際には、それを私たちがどこかで観察したことを証明するか、あるいは誰もが理解しうる明確な考えとして語るかしかない。 基本原則を語ろうとするなら、どの哲学者も概念形式、言い換えると思考に頼る必要がある。 つまり哲学者は、哲学的に活動するに当たって、間接的に思考を前提にしている。 世界進化の要因が思考なのか、それとも他の何かであるかという点はこの場では問題にしない。 しかし、哲学者も思考がなくては智を得ることができないという点は最初から明らかである。 世界現象の成立に当たっては、思考は脇役にすぎないかもしれない。しかし世界現象について何らかの見解を作り出す際には、明らかに思考が主役である。

■03-06:観察には身体が必要

さて観察のためには身体を必要とするという身体上の都合がある。 馬についての思考と馬という対象物とは、別個に現われる二つの事柄である。 そして対象物としての馬は、観察を介してしか捉えられない。 単に馬に目を向けるだけでは、馬についての概念を形成できないのと同様、単に馬について思考するだけでは、馬という対象物は生み出せない。

■03-07:時間的には観察が先

時間的には、観察が先で思考はその後である。 つまり、思考すらも観察によって知る以外にはない。 本章の冒頭で取り上げたのは、ある出来事に沿って思考に火が着き思考以前の状態を越えていく様子、つまり本質的には観察の記述であった。 体験領域に入り込んでくるすべてを私たちは観察を介して知る。 感覚、知覚、直観の内容、感情、意志行為、夢や空想の像、表象、概念や理念、あらゆる幻想や幻覚、これらすべては観察を介して私たちに与えられる。

▲思考は一つの特殊な観察08~16

■03-08:思考の観察は特別な状態

観察対象にはいろいろあるが、思考は他のあらゆる対象と本質的に違う。 机や樹木では、対象物が私の体験という場に現われた瞬間に観察が始まる。 しかし、この対象物についての思考を私は同時には観察していない。 机を観察し、机について思考するが、その思考の観察は同時ではない。 机という対象とともに、机についての思考をも観察しようとする場合、まず私は、私自身の活動とは離れた地点に立たなくてはならない。 対象や成り行きについての観察や、それらについての思考は、日常生活でもごく当たり前に行っているのに対し、思考の観察は一種の例外的な状態と言える。 思考と思考以外の観察内容との関係を規定しようとするのだったら、この事実を相応に配慮する必要がある。 思考以外の世界内容を観察するときに、ごく普通に行っているやり方がある。思考の観察に際してもそのやり方を応用するが、結果としてこの正常なやり方にはならない点はきちんと踏まえていなくてはならない。

■03-09:「感情も思考と同列ではないか」の否定

ここで思考について言われていることは、感情など、他の精神活動についても当てはまるという反論もありうるだろう。 例えば快という感情では、ある対象物が快を生じさせるが、このとき私は、その対象物は観察するにしろ、快という感情は観察していない。 しかしこの反論の論拠は間違っている。 快と対象物との関係は、思考によって形成される概念と対象物との関係と同じではない。 事柄に対する概念を私の活動で作り出していることを、私は最も確実に意識しているのに対し、私の快の感情は対象物によって喚起され、さらにそのあり様を例えるなら、落石が対象に作用するのと同じである。 観察ということで言えば、快の感情の観察も、その原因となる出来事の観察も同じである。 しかし、概念においては、これは当てはまらない。 こう問うことはできる。「ある特定の成り行きが私において、快という感情を生じさせるのはなぜか」。 しかし、こう問うことはできない。「ある特定の成り行きが私において一連の概念を生じさせるのはなぜか」。 この問いには意味がない。 ある成り行きについて考える場合、そこでは私に対する作用などまったく問題ではない。 窓ガラスに投げられた石の及ぼす作用を観察し、それに対応する概念を得たとしても、それによって私は、私については何も経験していない。 しかし、ある成り行きによって喚起される感情の場合には、私は、私の人格についての経験をしている。 「これはバラです」と観察対象について述べるとき、私自身については何も言っていない。 しかし、同じ対象に対し「これは嬉しい」と言うとき、私は単にバラについて述べているだけでなく、バラに対する私の関係も性格づけている。

■03-10:思考活動には観察の目が向かない

このように観察の対象という位置づけで見るなら、思考と感情を同列に扱うことはできない。 他の精神的活動についても同様であることは、容易に示すことができる。 思考との対比で言えば、それらは、一連の観察される対象物や経過と同種である。 思考は、観察される対象物にだけ向けられ、思考する自身の側には向けられない活動である。 この点は思考のまさに特筆すべき性質である。 こうした特質は、事柄に対する考えの表現の仕方と感情や意志行為の表現の仕方の違いにも現われている。 対象を見て、それを机だと認める場合、普通は「私は机について考える」とは言わず、「これは机だ」と言う。 しかし、「机があって私は嬉しい」とは言うだろう。 前者では、私が机と関係を結ぶことを表明する点はまったく重要ではないが、後者ではまさにその関係が問題なのである。 「私は机について考える」と表現した場合、私は前述の例外的状態に入っている。 つまり精神的活動には必ず伴っているにしろ、それが観察の対象とされることはない何かを観察対象としているのである。

■03-11:思考では思考対象と取り組む

思考中、思考者は思考のことを忘れている点が、思考の特質なのである。 人は、思考そのものと取り組むのではなく、思考にとっての観察対象と取り組んでいる。

■03-12:思考は通常、観察されない

思考を観察することによる最初の成果は、それが通常の精神的営みでは観察されない対象であるという点である。

■03-13:思考が観察されない理由

思考は通常の精神的営みにおいて観察されないが、その根拠は思考が私たち自身の生産活動を土台にしている点にある。 自分自身が生み出したのではないものは、対象として観察領域に入って来る。 その対象を私の関与なしにできあがったものとして、目の前に見る。 それが私に近づく。 思考プロセスの前提条件として、私はその対象を受け入れなくてはならない。 その対象について思考しているとき、私はそれと取り組み、眼差しはその対象に向けている。 この取組みがまさに思考しつつの観察である。 私の活動にではなく、活動の対象に私の注意は向けられている。 別の言い方をしよう。 思考している最中、私は自分自身が生み出す思考ではなく、自分によって生み出されたのではない思考対象を見ている。

■03-14:現在進行形の思考は観察できない

例外的状況を作り出し、自分自身の思考そのものについて考えても、状況は同じである。 現在進行形の思考活動は決して観察できない。せいぜい思考過程において経験したことを、後に思考対象にできるだけである。 もし仮に現在進行形の思考を観察しようとするなら、私は自分の人格を二つに分けなくてはならないだろう。一人は考え、もう一人はその考えている自分を見る。 これは不可能である。 二幕に分けてしか行なえない。 思考を観察するとしたら、それは現在進行形の思考であることは決してなく、別の思考である。 この目的のための対象としては、私自身の以前の思考活動でも、他者の思考プロセスをたどることでも、前に例として述べたビリヤード球といった仮定的思考プロセスでもかまわない。

■03-15:創世記との対応:創ってから見る

活動的な生産、静観的な対置、この二つは両立しない。 このことは、モーセによる創世記に見ることができる。 神は、最初の六日間で世界を創造する。 そしてすべてが出来上がった後で、それらを静観する可能性が生まれる。 「そして神は、自らが創造したすべてを見られ、それが大変よいと思われた」。 これは私たちの思考も同じである。 それを観察しようとするなら、まずそれが存在しなくてはならない。

■03-16:思考を自らが作り出すことの二つの帰結

現在進行形の思考の成り行きを観察できない根拠と、思考プロセスを他のいかなるプロセスより直接かつ密接に認識する根拠は同じである。 私たち自身が思考を作り出すがゆえに、その経過の諸特徴、つまりそこで取り上げられている成り行きがどのように行われているかがわかるのである。 事柄としての対応関係、個々の対象物間の相互関係といったものは、思考以外の観察領域では間接的にしか見出しえない。それが思考では完全に直接的な仕方で知りうるのである。 観察だけでは、なぜ稲妻の後に雷鳴が続くのかはわからない。 雷鳴と稲妻という概念を思考によって結びつける根拠は、二つの概念内容そのものから直接に知る。 私が持つ稲妻や雷鳴の概念が正しいか否かは、ここでは問わない。 私が手にしている両者の関連は、私にとって明らかだし、その由来は両概念自体なのである。

▲思考の物質過程と思考そのもの17

■03-17:思考の生理学的背景はここでは無関係

思考プロセスが透明で明晰であることは、思考についての生理学的知見にはまったく左右されない。 私がここで取り上げている思考とは、精神活動の観察で現われるものだけである。 思考する際には脳内で物質の相互作用などの物質的過程が並行しているが、ここではそれは一切考慮しない。 思考において私が観察するのは、脳内のどのような過程が稲妻と雷鳴の両概念を結びつけるかではなく、何がきっかけでこの両概念が特定の関係にもたらされるのかである。 観察からは、私の思考結合は脳内での物質過程に沿って行なわれるのではなく、まさに考えの内容に沿って行なわれる点がわかる。 現代ほどには物質主義が趨勢を誇る時代でなければ、こうしたただし書きはまったく不要だったはずである。 「物質が何であるかを知れば、物質が思考する様子もわかる」と思い込む人間が居る現代では、大脳生理学に立ち入らずとも、思考を論じうることを明言しておく必要がある。 今日では、思考の概念を純粋な意味で捉えることが難しくなっている。 ここで私が論じてきた思考についての考え方に、即座にカバーニの「肝臓が胆汁を、唾液線が唾液を分泌するように、脳が思考内容を分泌する」という言葉を引き合いに反論する人は、ここでの話の本筋がまったく理解できていない。 そういう人は、他の森羅万象の対象物を見るときと同じ単なる観察で思考を探そうとする。 しかし、そのやり方では思考は決して見つからないし、その理由は、私がすでに証明したように、まさに思考が通常の観察には見えないからである。 唯物論を克服できない人にはある能力が欠けている。 つまり思考においては、思考以外の精神活動では意識化しえない何かを例外的に意識化するという能力である。 この視点をとろうとしない相手とは思考についての議論も成り立たないし、それは視覚が不自由な人と色については語れないのと同様である。 彼には、私たちが生理的過程を思考とみなしているなどと思わないでもらいたい。 思考をまったく見ていないので、彼は思考を説明していない。

▲世界認識の鍵は思考の観察18~21

■03-18:鍵は思考の観察

思考を観察する能力を備えた人にとっては、……正常な人ならその気になれば誰でも思考を観察できる……この観察は人が為しうる観察の中で最も重要である。 なぜなら、その産出者が自分自身である何かを観察しているからであり、自分の見知らぬ対象物ではなく、自分自身の活動と向き合っているからである。 観察している対象がどのようにして生じるのかもわかる。 人はそこでの諸状況や諸関連も見通すのである。 これで、他のあらゆる世界現象を解明しうる確実な足場が得られた。

■03-19:「我思う、故に我あり」との関係

足場が得られたという感情から、近代哲学者ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり」を基礎に、人間のあらゆる智を体系付けようとした。 思考以外のあらゆるもの、あらゆる現象は私がいなくとも存在する。そして、それが真実か、幻影か、夢か、私にはわからない。 ただある一つだけは、無条件に確実だと私にはわかる。 なぜなら、私自身がそれを存在へと導くからである。私の思考である。 思考の源泉は、神など、私以外のところにあるかもしれない。 しかし、私自身が思考を現出させている点は、私にとって確実である。 この命題に対し、とりあえずデカルトは上述以外の解釈は退けた。 森羅万象を見渡して、思考を最も私自身たる行為と捉えるという点だけは彼も主張することができた。 命題の後半、「故に我あり」の意味については、論争が絶えなかった。 この部分は、ある一つの条件下においてのみ意味を持ちうる。 ものに対して述べうる最も単純な言明は、それは「ある」、存在するなのである。 こうした存在のより細かい規定がどのようなものであるかは、私が経験しうるあらゆるものにおいて、その出現の瞬間には語りえない。 いかなる対象においても、それがどのような意味で存在するかを規定しうるためには、まず他者との関連を探求する必要がある。 経験されたある成り行きとは、一連の知覚内容であるかもしれないし、夢あるいは幻覚などでもありうる。 要するに、いかなる意味でそれが存在するのかは、私には語れない。 成り行きそのものから意味を汲み取ることはできず、その成り行きを他者と関連づけることによってはじめて、その意味を経験できる。 しかしここでも、その成り行きとこれらの事柄との関係しか知り得ない。 存在の意味を、その存在自身から汲み取りうる対象が見つけ出せれば、探求のための確かな基礎が見つかる。 そしてそれは、思考する存在としての私自身である。 なぜなら、思考的活動による内容、それ自身で充足し規定を持った内容を、私という存在に付与するからである。 これを出発点に私は問うことができる。「他の事柄は、私自身と同じ意味で存在するのか、それとも違った意味なのか」と。

■03-20:思考の観察を加えても無問題:新たな要素は加わわらない

思考を観察対象とするとき、他の観察される森羅万象に、通常なら意識に上らない何かを付け加えることになる。 しかしだからといって、そうした他者に対する人間のかかわり方そのものは、変化しない。 観察対象の数は増えるものの、観察方法は変わらない。 他の事物を観察する場合、森羅万象の出来事に……これも観察の一つに数えるが……ある見逃されたプロセスを混ぜ込んでいる。 こうして他のあらゆる出来事には、配慮が届かない何かが常に混ざる。 思考の観察では、そうした配慮が届かない要素は存在しない。 なぜなら、その背景でうごめいているものも、思考だからである。 観察対象と、そこに向けられる活動とが、質的に同じなのである。 そしてこれも、思考の特徴の一つである。 思考を観察対象とする際には、性質の異なる何かの助けを借りる必要はない。 同一要素内に留まっている。

■03-21:思考の観察によって取り組む問い

その生成に私が関与せずとも存在する対象について思考内で考え始めるとき、私は単なる観察を越えるが、ここで問題になるのは、そこで何が私を正しく導いてくれるのかである。 対象を自分に作用させるだけではなぜいけないのか。 私の思考が対象に関連を持つことは、どのような様子で可能になっているのか。 自身の思考プロセスについて考察するに当たって、誰しもこう問わなくてはならない。 そしてこれらの問いは、思考そのものについて考察することで解消する。 私たちは、思考に異質なものを付け加えることはないし、それを越えて何かを付け加えることを正当化する必要もない。

▲思考の持つ特異な特徴と特異な役割22~27

■03-22:自然創造と自然認識の関係:シェリングの誤り

「自然認識とは、自然創造である」とシェリングは言う。 大胆な自然哲学者のこの言葉を文字どおり受け取るなら、生涯、自然の認識を諦めざるをえないだろう。 なぜなら、自然はすでに存在しているし、それを再度創造するためには、その成立の背景にあった諸原則を認識しなくてはならないからである。 自然の再創造にあたっては、すでに成立しているものから、その存在の諸条件を読取る必要がある。 創造に先行すべきこの読取りが、シェリングの言う自然認識であるし、それはその読取り後の創造が一切実行されないとしてもである。 創造できるとしたらいまだ存在しない自然であるが、それについての事前の認識なしにはそれは行えない。

■03-23:思考では自ら創造せずとも認識できる

認識する前の創造、これは自然では不可能であるが、思考では実際に私たちが行なっている。 思考を認識するまで、思考行為を控えたいなどと思っていたら、思考は始まらない。 後に自己行為の観察という方法によってそれを認識するために、決然と考え始めなくてはならない。 思考の観察にあたって、私たちはまず自身でその対象を創造する。 他の対象では、その存在は私たちの関与なしに与えられる。

■03-24:思考は思考できるが、消化は消化できない

「思考を観察する前に、思考する必要がある」という私の説に対しては、同等の正当性を持って「消化過程を観察するまでは消化を待つ、などと言うことはできない」という反論をぶつけてくるかもしれない。 これはデカルトに対するパスカルの反論、「我散歩する、ゆえに我あり」と似ている。 確かに、消化の生理プロセスを研究する前でも、私たちは決然と食べ物を消化しなくてはならない。 しかし、思考の観察と対比させるなら、消化作用を思考的に観察するのではなく、消化作用を食べ、消化作用を消化しようとしている、と考えなくてはならない。 消化が消化作用の対象にはなりえないのに対し、思考だけは思考の対象になりうるということは、決して無意味ではない。

■03-25:思考ではすべてを見通せるがゆえに宇宙把握の出発点となる

思考において私たちは宇宙的出来事の一端を掴んでいるし、何かが生じる際に、私たちはその一端に居合わせているはずだという点に疑いはない。 そして、まさにこの点が重要である。 私たちにとって思考以外の事柄は謎として現われるが、まさにその根拠は「その成立にかかわっていない」という点にある。 それらは何をせずとも目の前に存在するが、思考ではそれがどのように出来上がるかがわかっている。 それゆえ、宇宙的出来事を観察するに当たって、思考以上に根源的な出発点はない。

■03-26:「行われる思考と観察される思考は違う」という誤り

ここで、広範に見られる思考にまつわる誤りに触れておきたい。 「その本来のかたちでの思考は、人間には与えられていない」という誤りである。 経験という諸観察を相互に結びつけ、概念のネットでつないでいく際の思考と、私たちが対象物の観察の際に用いた思考、さらにはそこから引きはがされた思考、そして後に観察の対象にされた思考は決して同一ではないと言うのである。 私たちが意識せずに事物に組み入れているものと、私たちが後に意識的に引き出すものとは別だと言う。

■03-27:思考の観察でも思考内に留まっている

こう考える人は、このやり方で思考から抜け出すのはまったく不可能である点に気づいていない。 思考を観察しようとする場合、私は思考の外へは一切出られない。 事前に意識する思考と事後に意識する思考とを区別するにしても、こうした区別がまったく表面的で、事柄そのものとは完全に無関係であることを忘れてはいけない。 思考しつつ観察しても、そのことで事柄自体を変化させることはない。 まったく違う感覚器官や知性を持った生物が、馬を私とはまったく違ってイメージしていることは考えうるが、私自身の思考を観察すると、それが別なものになってしまうなどとは考えられない。 私は、自分が産出している事柄を観察している。 私の思考が、別知性から見てどのようになるかではなく、私から見てどうなのかが問題なのである。 いずれにしても、私の思考を別知性が見た像が、私自身による像よりも真実であることはない。 もし思考が私自身によるものではなく、未知な存在の活動によるものだとしたら、思考の像がある特定の仕方で現われるにしろ、その未知存在の思考それ自体については、私は知りえないと言えるだろう。

■03-28:思考は思考において完結する

私自身の思考を別な視点から見る必要性を、私はさしあたって感じない。 思考を助けに、私は思考以外の全宇宙を考察する。 私の思考だけを例外にする必要はあるのだろうか。

■03-29:思考は自らで自らを支える梃子の支点である

私は宇宙観察の際に思考を出発点にするが、以上でその根拠は十分に検証した。 アルキメデスは、梃子を発明したときに、梃子の支点さえ見つかれば、全宇宙さえも持ち上げられると考えた。 彼は、他者によって支えられるのではなく、自分自身によって支えられる何かを必要としていた。 私たちの思考内には、自分自身によって成り立つ一つの原理がある。 この原理から始めて、宇宙の把握を試みる。 思考は、思考自体によって把握されうる。 残された問題は、その思考によって思考以外も把握できるかである。

▲思考と意識の関係30~34

■03-30:思考と意識はどちらが先か

これまでは、思考の担い手である意識についてはまったく顧慮してこなかった。 現代の大多数の哲学者は、「思考より前に意識が存在しなければならない」と反論するだろう。 したがって、出発点は思考ではなく、意識であると主張する。 意識がなければ思考はないという意見である。 それに対しては、次のように反論せざるをえない。「思考と意識の関係を明確にしようとするとき、私はそれについて考えなくてはいけない」と。 つまり私は、思考を前提にしている。 これには以下の再反論がありうる。「哲学者が意識を捉えようとする場合には思考を用いるし、その意味では思考を前提にしている。しかし通常の生活では、思考は意識内に生じるのだから、意識が前提になっている」と。 これが、思考を創造する造物主に対する答えだとするなら、疑いの余地なく正しい。 事前に意識を作り出さなくては、思考を生じさせることができないのは当然である。 しかし、哲学者が問題にするのは、天地創造ではなく、世界の把握である。 それゆえ彼が求めるべきは、宇宙創造の出発点ではなく、宇宙理解のための出発点である。 人は、本書の哲学者が自分の原理(思考)の正当性を第一に問題にし、把握しようとする対象(意識)に頓着していないとして非難する。 しかし私はこの非難を奇妙に思う。 造物主ならば思考の担い手をどうすべきかを知っていなくてはならないが、哲学者は既存のものを理解するに当たっての確かな基盤を探さなくてはいけないからである。 意識を出発点にして思考をその意識よりも下位に置くなら、思考的な考察によって事柄を解明する可能性が事前に与えられていないことになり、この場合私たちは何を利用すればよいのだろうか。

■03-31:思考は主観・客観を超越している

第一に、思考する主観とか、思考される客観といった関連は想定せず、思考を中立的に捉えなくてはならない。 なぜなら、主観と客観、と見るとき、そこには思考によって作り上げられた概念が含まれるからである。 「他者が把握されうるためには、まず思考がなくてはならない」というのは否定されえない。 これを否定する場合、人間である自分が宇宙創造の出発点ではなく到達点にあることを見落としている。 したがって、世界を概念的に認識しようとする場合、出発点は、時間的に最初にある存在の要素ではなく、私たちに最も近く、最も密接な要素を取らなくてはならない。 宇宙生成の原初に跳び、そこから観察を始めるのではなく、まさに現在のこの瞬間から観察を始め、時間的に後のものから先のものへと遡れるかを検討しなくてはならない。 現在の地球の状態を説明するために、硬化に向かう過去の天変地異のことばかりを言っているかぎり、地質学に展望はひらけない。 現在の地球で何が起きているのかを研究することから始め、そこから過去に遡るなら、はじめて確かな基盤に立った地質学になる。 原子、運動、物質、意志、無意識などを手当たりしだいに原理と仮定しているかぎり、哲学は宙に浮いている。 絶対的な到達点から出発するとき、哲学者は目標を達成できる。 宇宙進化における絶対的な到達点とは、思考なのである。

■03-32:「思考そのものが正しいか」は不毛な問い

思考そのものが正しいか正しくないかを私たちは断定できないと言う人たちもいる。 そうであるなら、この出発点にも疑いが伴う。 これはまさに、「樹それ自体が正しいか否かは断定できない」というのと同じくらい理性的な発言である。 思考は一つの事実であり、事実そのものが正当か否かを論じることは無意味である。 ある樹木が特定の道具の素材に適するか否かを問うのと同様、せいぜいのところ、思考が適切に適用されているか否かを問うことはできる。 対象世界に対して思考をどう適用したときに正しく、どう適用したときに誤りなのか、それを示すことが本書の課題である。 思考によって世界について何か意味のあることを示せるのかについての疑問であったら私にも理解できるが、思考そのものの正当性に対する疑いは私には理解できない。

★1918年新版への補足

■03-33a:思考は対象と私を個的に関係づけない

ここまでの論述では、囚われのない観察から得られる事実として、思考とそれ以外の魂の営みの間に見られる重要な相違について述べられている。 この囚われのない観察をしようとしない人は、以下のような反論をしたがる。 「私がバラを考えるとき、これは私がバラの美しさを感じるときと同様に、バラと《私》との関係を表現している。 感情や知覚などにおいて《私》と対象との間に関係が成立しているのと同じように、思考においてもそうした関係が成立している」と。 この反論は、次の点をきちんと熟慮していないことで生じうる。 つまり、思考行為においてだけは、その活動の隅々まで、思考実行者と《私》が一体であるという点である。 思考以外の魂の営みでは、この隅々までという点は当てはまらない。 たとえば快を感じる場合を細かく観察すると、《私》がどこまで活動者と一体であり、どこからが受動的で、その結果、快が《私》に単に現われるだけであるかを明確にできる。 そしてこれは他の魂の営みでも同様である。 ただしその際、「思考像が見える」ことと、思考によって思考内容を練り上げることとを混同してはいけない。 思考像の方は、曖昧な思いつきと同様、夢のように魂内に現われうる。 しかし、思考はそうではない。

■03-33b:思考と意志との関係

……ところで、「そうした意味で思考を捉えると思考内に意志が入り込み、単純に思考を取り上げているのではなく、思考における意志も関係している」と言う人も出てくるだろう。 しかしさらに正しく表現すると、「実際の思考は、いつでも欲せられているはずである」となるだろう。 ただこのように言っても、ここで論考された思考の特質には何の影響も与えない。 それが欲せられるという点は思考の本性として必然かもしれない。 それでも次の点は重要である。 その遂行に当たって、《私》にその全容が見渡せ、《私》自身の活動として現われ出るもの以外は、欲せられることもない。 それどころか、ここで確認された思考の存在性のゆえに、観察者にとって思考とは徹底的に欲せられたものに見えるのである。 思考についての何らかの判断を下すために必要な事柄をすべて見通そうとする人なら、この思考という魂の活動には、上述の特殊性があることを認めざるをえないだろう。

■03-34a:「観察できるのは思考の仮象のみである」への反論

著者が思索家として高く評価している人物(エドゥアルト・フォン・ハルトマン)から、「活動する思考を観察しているというのは思い込みで、それは単に仮象にすぎない。したがって、ここでの思考についての論述は適切ではない」という反論を頂いた。 思考の根底には意識化されない活動が存在していて、実際に観察されるのはその活動による結果にすぎない。 この意識化されない活動は観察されえないというまさにその理由から、観察された思考がそれ自体で成り立つという錯覚が生まれる。これは並んだ電球が順に高速に点滅するのを見て、光点が動いていると思い込むのと同じであると言うのである。 この反論も、事柄を正確に見ていないことから生まれる。 思考内に居て、自我の活動を観察しているのは《私》自身であるという点を考慮しないことから生じる。 並んだ電球の点滅を光点の運動と錯覚するのと同様な錯覚が起きるとするなら、《私》は思考外に居るはずである。 付け加えてこうも言える。「こうした比較をする人は、光点の運動を見て、それぞれの場所で見えない手がその都度点灯しているというのと同じくらい、とんでもない錯覚に陥っている」と。

■03-34b:思考の内に見出されるものだけが出発点

……そうではない。 思考内には、《私》自体の内で見通せる活動によって作り出されたものしか存在せず、それ以外のものを思考内に探そうとしたり、仮説的活動を思考の基盤としてでっち上げようとする人は、簡単に観察しうる単純な事実関係から目を背けているはずである。 自分で目を閉じてしまわなければ、上述のように思考に《付加的に想定された》ものは、すべて思考の本質から外れていることを認識するはずである。 囚われのない観察からは、思考そのものの内にないものは思考の本質に数えることはできないことがわかる。 思考という領域から離れてしまったら、思考が作用するものには到達できない。

『自由の哲学』、第04章、知覚としての世界

▲思考によって生じる概念が知覚に秩序を与える01~05

■04-01:思考で捉える概念界には秩序がある

概念理念は思考によって発生する。 概念が何であるか、言葉で述べることはできない。 言葉は、人が概念を持つことに人の注意を喚起するだけである。 誰かが樹を見ると、彼の思考が自らの観察に反応する。観察対象に理念的な対応物を付け加え、その対象と理念的対応物を対と見なす。 対象が観察の視野から消えると、後には理念的対応物だけが残る。 これが、対象物に呼応した概念である。 経験を積めば積むほど、私たちの概念の総和も大きくなる。 しかし、諸概念は単独では存在していない。 法則に従った全体として互いに関係を保っている。 たとえば《有機体》という概念には《法則に従った発達》や《成長》といった概念が結びついている。 単一の事物において形成された異なった概念も、完全に一つにまとまる。 私がライオンにおいて形成したすべての概念は、《ライオン》という包括概念でまとまる。 このように、個々の概念は完結した概念体系にまとまり、その中でそれぞれがふさわしい位置を占める。 理念と概念は質的には同じである。 理念は概念より内容豊かで、より満たされ、より包括的であるが、それでも概念である。 ここで特に強調しておきたいのは、私が出発点にしたのは、思考であり、思考を働かせてはじめて得られる概念理念ではない点である。 概念と理念は、思考が前提になる。 自分自身で完結し、他者には規定されないという本質を持つ思考について述べていることを、そのまま単純に概念に当てはめることはできない。 (ここでは、その点を特に強調しておく。それはこの点が私とヘーゲルの違いだからである。 ヘーゲルは概念を一義的、根源的なものとしている)。

■04-02:概念は観察では得られない

概念は、外界の観察からは得られない。 これは、子どもが成長するにしたがって周囲の諸対象物に対応する概念をしだいに身に付けていくという事情からもわかる。 諸概念はこのように観察に付け加わっていく。

■04-03:観察についてのスペンサーの見解

多くの読者を獲得している現代哲学者ハーバート・スペンサーは、観察の際に人間が行なっている精神的プロセスを以下のように述べている。

■04-04:概念によって知覚同士のつながりが得られる

「ある秋の一日、畑を散歩していると、数歩先で物音が聞こえ、その音が聞こえる溝の横で草が揺れているのを見かける。するとおそらく、私たちはその場所へ行って、物音と草の動きをもたらしたものが何かを調べるだろう。 近づくと、一羽のウズラが溝の中で羽ばたいているのを見つけ、私たちの好奇心も満たされる。 現象が解明されたのである。 注意深く見ると、この説明の成り行きは次のとおりである。 小さな物体が何かのきっかけで静止状態から動かされると、近くにある別な物体も動かされるが、私たちはそれを人生の中で数限りなく経験しているので、そうしたきっかけと動きの関係を一般化する。 そして、きっかけによって何かが動くというこの場合も、一般化された関係の特殊としての一例と見なすのである」。 しかしより詳しく見ると、この状況に対するこの説明は間違っていることがわかる。 物音を聞くと、私はまずこの観察に対応する概念を探す。 この概念はまず私を物音を越えた次元へと連れ出す。 それ以上追求しない人は、物音を聞いてそれで満足する。 しかし、よく考えてみると、私は物音を何らかの事柄による結果と捉えていることがわかる。 つまり、まず物音という知覚を結果という概念に結びつけると、私は個別の観察の次元を超え、原因という概念を探すように促される。 結果という概念が原因という概念を呼び、私はその原因となる対象を探し、ウズラを見つける。 この原因と結果という概念は、観察からは、あるいは、そうした観察の何万回もの積み重ねからも、決して得られない。 観察が思考を呼び起こし、その思考によってはじめて、何らかの個別な体験を他の体験と結びつける道が示されるのである。

■04-05:観察のみを客観科学とすると思考は否定することになる

《厳密な客観的科学》を標榜し、その内容を観察のみに限定するなら、すなわちそれは、あらゆる思考の放棄も要求していることになる。 その本性からして、思考は観察を超えるからである。

▲思考によって意識が生じる06~08

■04-06:思考と意識の関係

さてここで、思考そのものから、思考する存在の考察に移ろう。 なぜなら、この思考存在によって思考と観察が結びつけられるからである。 この概念と観察が出会い、互いに結びつけられる舞台とは、人間の意識である。 これで、(人間の)意識が性格づけられた。 意識は、思考と観察を仲立ちする。 観察では対象は外から所与のものとして与えられるが、思考において、人間は能動的である。 人間は、対象物を客観、自分自身を思考する主観とみなす。 人間は、思考を観察(対象)へと向けるので、それを客観として意識する。また、思考を自分自身に向けるので、自分への意識、言い換えると自己意識を持つ。 人間の意識とは、それが思考する意識であるがゆえに、必然的に自己意識である。 思考の眼差しを自分自身の活動に向けるとき、人間は自分の最も根源的な構成要素、つまり自身の主観を、客観として対象にしている。

■04-07:主観・客観は思考によって現われる

思考の助けを借りることで、自分を、客観と向かい合う主観と規定している点は見逃してはいけない。 したがって、思考を単に主観的な活動と捉えることは許されない。 思考は、主観と客観を超えている。 主観と客観という二つの概念も、他の概念と同様、思考によって作り上げられている。 私たち自身を思考する主観として客観(対象)に概念を関連づけるとき、この関係を単なる主観的なものと捉えてしまってはいけない。 この関係を取り結ぶのは、主観ではなく、思考である。 主観は、自らが主観であるから思考するのではない。 そうではなく、思考する能力を持つがゆえに、主観として現われるのである。 思考する存在としての人間が行なう活動とは、単に主観的とは言えない。主観でも客観でもなく、この両概念を超えた活動なのである。 したがって、私の個的な主観が思考する、などとは決して言えない。 むしろ主観は思考のおかげで命を持つと言えるのである。 このように思考とは、私を私自身を超えたところに導き、客観と結びつけてくれる要素である。 それと同時に、主観としての私を客観と向かい合わせることで、私と客観を分離する。

■04-08:包括と対置という人間の二重性の根拠は思考である

人間の二重性の根拠はここにある。 第一に、人間は思考することで自分と世界を包括する。 第二に、これも思考によって、自らを事物と対置する人間的な個とする。

▲観察が思考に結びつく過程09~12

■04-09:観察対象はどのように意識に入り込むか

さて次の問いは以下のとおりである。「意識内で思考と出会うことになる、これまでは単に観察対象と呼んできた要素がある。これはどのような状態で意識内に入り込むのだろうか」。

■04-10:思考由来のものをすべて除くと

その答えを探すに当たっては、観察領域から思考に由来するものをより分けて、すべて取り除かなくてはならない。 なぜなら、その時々の意識内容には常にはじめから諸概念がさまざまな仕方で知らず知らずのうちに絡み付いているからである。

■04-11:純粋な観察に思考が働きかける

完全なる人間知性を持つ存在が無から生じ、初めて外界と出会ったと仮定してみよう。 この存在の意識にのぼり、思考を始動する以前のものは、純粋な観察内容であるはずだろう。 このとき世界はこの存在に対し、色彩、音、圧力、熱、味、匂い等の相互に関連を持たない感受客体の集合体、さらには快不快の感情しか示さない。 この集合体が、思考を含まない純粋な観察である。 この観察に思考が対置していて、これはきっかけさえあれば常に観察に働きかける準備ができている。 経験的には、そうしたきっかけはすぐ見つかる。 思考には、ある観察要素を別な観察要素と関連させる準備が常に整っている。 こうした観察諸要素に諸概念を対応させ、それらをある関連の下にまとめる。 前述のとおり、このようにして物音の観察を別な観察と結びつけた。物音を後者による結果と考えたのである。

■04-12:思考が作る関連は主観的ではない

思考活動を主観的と捉えることはできないとしてきたことを思い起こすと、「思考によって作り上げられるそうした諸関連は、単に主観的にしか成り立たない」と信じ込む誘惑に陥ることはないだろう。

▲知覚と主観の関係13~18

■04-13:観察内容と意識的主観の関係を問題にする

さて、今述べた直接に得られる観察内容と私たちの意識的主観との関連を、熟慮によって探求することが次の問題である。

■04-14:観察では対象を知覚する

単語の用法にはばらつきがあるので、私の今後の用語について、読者との共通理解を図る必要があるように思われる。 上述の直接的な感受対象から意識的主観が観察を介して知見を受け取る場合に、その感受対象を知覚と呼ぶ。 つまり、観察の経過ではなく、観察の対象を知覚としている。

■04-15:知覚は感受、感情、思考も含む

感受という表現を採らなかったのは、それが生理学においては、私の言う知覚の概念より意味が狭いからである。 私の内面での感情は知覚とすることができるが、生理学的な意味での感受ではない。 感情についての知見も、それが私にとっての知覚になることで得られる。 思考が意識にはじめて現われる際の様子も知覚と呼ぶことができるし、思考についての知見が観察によって得られる様子は、感情におけるそれと似ている。

■04-16:外界観察に対応するイメージは絶えず修正される

素朴な人は、自分の知覚内容を、現われたそのままにそこに在り、自分はその存在には影響しないと見なしている。 その人が樹を見ると、その樹が、姿も色も細部も場所も、見えるままにそこに在ると思っている。 彼は、朝、地平線から昇る丸い太陽を見て、さらにその円盤を追う。そして、その円盤が見えるとおりの姿で存在していると考える。 彼は、それまでの観察と矛盾する観察と出会うまで、そう思い続ける。 距離のことがまだわかっていない幼児は月を掴もうとし、現実だと思い込んだ視覚だけによる経験が、第二の知覚(触覚)と矛盾するときには誤りであることを理解する。 知覚範囲が拡がるたびに、私の世界像は訂正を迫られる。 このことは、日常生活でも、人類の精神的進化でも見られる。 昔の人は、太陽と地球や惑星をあるイメージで関係づけていたが、そのイメージが新たに見出された知覚と適合しなかったために、コペルニクスによる別なイメージに置き換わらざるをえなかった。 フランツ医師が、生まれつき眼が不自由な患者を手術した際に、その患者は次のように語った。「手術前に触覚を介して作ったイメージとは大きさなどがまったく違っていた」と。 触覚による知見を、視覚によって訂正する必要があったのである。

■04-17:修正される理由は何か

このように、観察に対し絶えず訂正が迫られるのは、どうしてなのだろうか。

■04-18:知覚像は人間の状態に依存する

少しでもしっかり考えれば、この疑問は解決する。 並木の一方の端から前方に続く並木を見ると、遠くにいくにしたがって木々が小さく、また相互により近接して見える。 見る場所を変えると、知覚像も変化する。 眼前に見える姿を規定する要素は、対象には存在せず、私、つまり知覚者の方に存在する。 並木にしてみれば、私の立ち位置などどうでもよい。 しかし、私から見た並木の知覚像は、私の立ち位置に依存している。 同様に、太陽や太陽系惑星にとっては、人間が地球のどこから見ているかなどはどうでもよい。 人間が見る知覚像は、その人がどこから見るかで変わってくる。 知覚像が私たちの視点に依存することは、非常に簡単に見通せる。 しかし、知覚像が人間の肉体的、精神的な器官に依存するということになると話は複雑になる。 私たちが音を聞くとき、その音が鳴る空間内では空気の振動が生じていて、さらには、音の原因とされる物体ではその一部分が振動していると物理学者は解明している。 正常な耳があるときにだけ、この振動を音として知覚することができる。 そうした知覚器官がなければ、世界はすべて永遠に静寂に包まれるだろう。 生理学によれば、外界の壮麗な色彩世界をまったく知覚できない人がいると言う。 彼らの知覚像は明暗のニュアンスだけであるか、あるいは赤といった特定の色の知覚がない。 彼らの知覚像には、赤の色調が欠け、通常の人とは異なっている。 ここで、知覚像が観察場所に依存して異なる場合を《幾何学的》、私の器官に依存する場合を《質的》と呼びたい。 幾何学依存性では、知覚対象の大きさや相互の距離が規定され、質的依存性では、知覚対象の質が規定される。 質的依存性、つまり赤い面を赤と見られるかは、私の眼という生体に規定される。

▲バークレー説とその論破19~22

■04-19:知覚像は主観的で客観的には存在しないという説

したがって知覚像は、とりあえずは主観的である。 知覚が主観的であると認識すると、知覚の基盤に何らかの客観的なものがありうるのかという点が疑わしくなりうる。 たとえば、赤色や音を知覚するためには特定の身体器官が不可欠であるので、私たちの主観的な身体器官を除外して考えるなら、知覚には何の構成要素もなく、その知覚を対象とした知覚活動がなければ知覚にはいかなる仕方でも存在しないと思い込むこともありうる。 この観点を取る古典的な代表者はジョージ・バークレーである。 彼は、知覚における主観の役割を意識した瞬間から、精神による意識が向いていない世界が存在することなど、信じられなくなるはずであると考えていた。 「真理の中には非常に明白なものがあり、それらは目を開きさえすれば理解できる。 次の重要な命題はそうしたものの一つである。 天界の合唱から地上界のすべて、一言でいえば全宇宙をなすあらゆる構造体は、精神なくしては存在しえない。 またそれらは、知覚、あるいは認識されることで存在となるので、私が知覚しないかぎり、あるいは私の意識か他の被造物の意識内に存在しないかぎり、まったく存在しないか、あるいは永遠なる精神の内に存在するだけである」。 この見解では、まさに知覚されている対象を除けば、知覚としては何も残らない。 見られていなければ色は存在せず、聞かれていなければ音も存在しない。 色や音が存在しないだけでなく、知覚行為がなければ、(物体として重要な性質である)空間占有性や形態、運動も存在しない。 空間占有性や形態を知覚する際には、常に色など、その主観性には議論の余地がないとされる諸性質が結びついていて、空間占有性や形態が単独で存在することはない。 したがって、知覚される主観的諸性質がなくなれば、それに結びついた空間占有性や形態も必然的に消えるはずである。

■04-20:「知覚に似た物体が客観的に存在する」は否定される

形態、色、音などが知覚内においてしか存在しないとしても、意識された知覚像に似た物体は、意識を前提にしなくても存在するはずだという反論も見当たる。しかしそれに対して、上述の見解からは、色は色に、形態は形態にしか似ることができないと述べる。 さらに、私たちの知覚は私たちの知覚にしか似ておらず、他のいかなる物とも似ていない。 そして、対象物と言われる物も、特定の結びつき方をした一連の知覚にすぎない。 したがって、《机》から、形態、空間占有性、色など、すべての知覚を除いてしまうと、何も残らない。 この見解からの帰結は、「私の知覚対象は私によってのみ存在し、しかも私がそれを知覚しているそのときだけであり、知覚が消えればともに消え、知覚がなければ意味を持たない」となる。 諸知覚以外にはいかなる対象物も存在せず、それについて知ることもないのである。

■04-21:知覚の成立を吟味すると上述の説は破綻する

一般的に知覚は、私の主観である生体機構もそこに含めたものとして捉えられている。 この状況を取り上げているかぎり、この主張には反論の余地はない。 しかし、知覚の成立において、私たちを知覚することが果たす役割を提示できれば、事情は違ってくる。 すると、知覚行為の際に知覚対象に何が起きているのか、さらには知覚される以前の知覚対象に何が存在していなくてはならないかも決定できるはずである。

■04-22:知覚には「自己の知覚」も含まれる

こうして知覚対象という客体の観察から、知覚の主体の観察へと移行する。 物体を知覚するだけではなく、自分自身も知覚するのである。 自分自身の知覚における最初の内容は、知覚像が現われては消えるのに対し、私が存在し続ける点である。 何か別な物を知覚している時でも、私は意識内でいつでも私を知覚できる。 眼前の対象の知覚に没頭すると、とりあえず私はその対象だけを意識する。 そこに、私自身の知覚も現われうる。 すると、単に対象物を意識するだけでなく、その対象に向かい合い、それを観察している私の人格をも意識する。 単に樹を見るだけでなく、その樹を見ているのが自分であることもわかっているのである。 さらに、樹を観察しつつ私の中で何かが起きていることも認識する。 樹が私の視界から消えても、意識内にはそこでの経過の名残が残る。樹の像である。 この像は、観察中、私自身と結びついていた。 私自身の内に新たな要素を取り込み、豊かになった。 この要素を、樹についての私の表象と呼ぶ。 自分自身を知覚することでこの表象を体験していなかったら、表象について語れる状態にはなりえない。 知覚は現われたり消えたりするだろうし、私はそれを成り行きに任せる。 私が私自身を知覚し、知覚の度に私自身の内容が変化することに気づくことによって、嫌が応にも、対象物が観察される様子と私自身の状態変化を関連させ、それを自分の表象とするのである。

▲唯表象論とその論破23~27

■04-23:カントは認識を表象内に限った23~28

私は表象を私自身において知覚する。これは色や音といった他の対象の知覚と同じ意味で知覚している。 また同時に、私が向かい合う他の対象を外界と呼び、自分自身の知覚による内容を内界として、区別することができる。 この対象物と表象の関係をきちんと認識しなかったがために、近代哲学に最大の誤解が生じてしまった。 私たちの内での変化が知覚されること、私自身が経験する変化ばかりが強調され、変化のきっかけとなった対象を見失ってしまったのである。 「私たちが知覚するのは対象物ではなく、私たち自身の表象にすぎない」と言ったのである。 観察対象である机そのものについては何も知ることはできず、机を知覚する際の私自身内の変化しか知ることができないと言うのである。 この見解を前述のバークレーの見解と混同してはいけない。 バークレーは、知覚内容が主観的である点を主張しているだけで、表象についてしか知りえないとは言っていない。 彼は、知を自分の表象に限定するが、その理由は、表象を出たところには対象は存在しないという考えだからである。 バークレーの見解では、私が机として見ているものも、私が視線を移してしまえば存在しなくなる。 それゆえバークレーは、知覚は神の力によって直接生じるとしている。 神が知覚を私の内に呼び起こすがゆえに、私は机を見るのである。 バークレーにとっては、神と人間精神の他にはリアルな存在はない。 世界と呼ばれるものは、虚構の内にのみ存在する。 素朴な人間が、外界とか自然物とか言っているものは、バークレーにとっては存在しない。 このバークレーとは別に、カントの見解がある。 カントも私たちの世界に対する認識を私たち自身の表象に限定する。しかしその理由は、表象以外には物体が存在しえないと確信しているからではなく、私たち自身の生体が、私たち自身に起きる変化しか体験できず、物体における変化を体験できるようには作られていないと考えるからである。 表象とは別個の存在などはないと考えるからではなく、「主観的な考えという媒体を介さなくては、想像したり、仮定したり、考えたり、認識したり、あるいは認識できなかったりする」(オットー・リープマン『現実の分析』28ページ)と考えるがゆえに、表象しか知りえないという結論に達する。 この見解では、これは無条件に正しく、証明なしに直接理解できると信じている。 「哲学者が明確に認識していなければならない第一の基本命題は、私たちの智がとりあえずは表象の及ぶ範囲に限られるという認識である。 私たちが直接経験しうるものは、ただ一つ、表象だけである。またそれは直接に体験されるがゆえに、どんなに疑っても、表象からの智を疑うことはできない。 それに対し、表象の域を越えた智に対しては、疑いを持たざるをえない。 ところでここでの表象という用語は、いかなる場合も非常に広い意味で用いていて、あらゆる心理学的出来事を含んでいる。 それゆえ、哲学を始めるに当たっては、表象の域を越えた智のすべてを疑わなくてはいけない」とフォルケルトは『イマヌエル・カントの認識論』の冒頭で述べている。 ここでは、この主張が直接的で自明の真理のように述べられているが、実際には以下のような思考操作の結果として作られたものである。 まず素朴な人は、対象物が自分が知覚しているとおりに外界に存在すると信じている。 しかし物理学、生理学、心理学によれば、知覚のためには身体器官が不可欠で、物について知りうるのは、そうした身体器官に伝達されるものに限られると学ぶ。 つまり知覚とは、事物そのものではなく、身体器官における変化にすぎない。 エドゥアルト・フォン・ハルトマンは、ここで概略を示した思考の流れをそのまま取り入れ、直接的な智は表象からしか得られないという命題が必然的に確信されるとしている(『認識論の基本問題』16~40ページ)。 私たちにとっての音とは、私たちの生体外での物体や空気の振動であるので、その音なるものは、外界におけるそうした運動によって喚起される生体の主観的な反応にすぎないと結論される。 色や熱についても、同様に私たちの生体における変化にすぎないと言う。 何らかのまったく同じ外的経過が、色彩体験あるいは熱体験をひき起こすことがある。 実際、こうした外的経過によって、この二種のまったく別な知覚がひき起こされることはよく知られている。 そうした経過が皮膚の神経を刺激すると、主観的に熱を知覚し、そうした経過が視神経に作用すると、光や色を知覚するのである。 したがって、光、色、熱などは、外からの刺激に対する知覚神経における反応ということになる。 触覚においても、外界の対象物について知らされるのではなく、私自身の状態を知るだけである。 近代物理学を元にすると、およそ次のように考えられる。物体は非常に小さい分子からなり、この分子同士は、お互いに直には接しておらず、ある程度離れている。 つまり、その間には隙間がある。 この隙間を介して、相互に引力や反発力を作用し合っている。 物体に手を近づけるにしろ、手の分子と物体の分子は直接に触れ合うことはなく、両者には一定の距離が保たれる。 そして、私が物体の抵抗として感じるものは、その物体分子が私の手に及ぼす反発力の結果にすぎない。 つまり私は、物体の外側に留まり、物体からの生体への作用を知覚しているだけである。

■04-24:ミュラーの説:刺激の種類によらず眼は視覚を提供

上記の考察をさらに補完するものとして、J. ミュラー(1801~1858)の、いわゆる特異的感覚エネルギー論がある。 その理論では、それぞれの感覚では、外からどのような刺激が来ても、反応の仕方は一定であるとする。 その原因が光と呼ばれるものであっても、力学的圧力であっても、電流であっても、視神経に作用すると、光の知覚が生じる。 また逆に、同じ外的な刺激があっても、感覚器官によって異なった知覚が呼び起こされる。 したがって、感覚によって伝えられるものは、外界の経過ではなく、感覚器官における経過であると言えるだろう。 それぞれの感覚器官は、その器官の本性にしたがった知覚を規定している。

■04-25:「知覚は主観的にすぎない」の生理学的考察

生理学の知見でも、対象物による感覚器官への作用を直接に知ることはできないとされる。 生体内の様子を生理学的に辿っていくと、外界での運動は、感覚器官の段階ですでに変更されていることがわかる。 これは、眼や耳で特に明らかである。 両者とも非常に複雑な器官で、外からの刺激を神経に伝達する前に根本から変化させる。 変更された結果としての刺激が神経末端から脳にまで伝えられる。 ここではじめて中枢器官が刺激されるはずである。 これからもわかるように、外界の経過は、意識に伝わるまでに一連の変容を経ている。 そして、脳内で生起することと外界の経過の間には多くの中間過程が介在し、両者には何の類似性も考えられない。 そして、最後に脳が魂に伝えるものは、外界の経過でも、感覚器官内での経過でもなく、脳内での経過だけである。 ところが魂は、その脳内の経過をも直接に知覚するのではない。 最終的に意識化されるものとは、脳内の経過ではなく、感受である。 私が赤を感じ取るときに生じる脳内の経過は、そのの感受とは似ても似つかない。 赤の感受は、脳内過程を原因として、魂内で結果として現われる。 それゆえハルトマンは次のように述べている(『認識論の基本問題』37ページ)。 「主観が知覚するものとは、常に自分自身の心理状態の変化であり、それ以外ではない」。 何らかを感受するにしても、それを知覚される側の物体という範疇に類別することはできない。 脳を介しては、単に個々の感受が伝えられるだけである。 硬さ軟かさという感受は触覚を介して、色や光の感受は視覚を介して与えられる。 それでも、これらの異なる感受は一つの同じ対象物に結びつく。 したがって、この結合は魂そのものによって為されているはずである。 つまり、脳によって提供される個々の感受を、魂が物体としてまとめている。 脳が視覚、触覚、聴覚などの個々の感受を仲介するが、その道筋はそれぞれ個別である。そして、個々の感受が魂内でトランペットの表象にまとめられる。 この経過の終点(トランペットの表象)は、私の意識にしてみれば真っ先に与えられていたものである。 私の外に存在し、私の諸感覚に印象を及ぼした原初のものは、私の意識内のどこにも見つからないのである。 外界の対象物は、脳までの道筋、さらには脳から魂への道筋で完全に失われている。

■04-26:「知覚は主観的表象にすぎない」の精査

偉大なる叡智によって構築されていながらも、精密に吟味すると無に帰してしまうこのような思想は、人類の精神史でも類を見ない。 これがどのように出来上がってきたかを詳しく見てみよう。 出発点は、知覚された物体、つまり素朴な意識に与えられるものである。 次に、もし感覚がなければ、この物体にまつわるすべてが存在しないことを示す。 眼もなく、色もない。 つまり、眼に働きを及ぼすものにはまだ色は存在していない。 色は、眼と対象物との相互作用ではじめて生じる。 つまり、外界の物体には色はない。 しかし、眼の中にも色は存在しない。なぜなら、眼の中には化学的あるいは物理的な過程が存在し、それはさらに神経を経て脳に伝わり、そこでさらに別な過程へと解消するからである。 しかしこの別な経過もまだ色ではない。 色は、脳のプロセスを介し、魂内ではじめて喚起される。 その色はまだ意識にまでは上っていない。色は、魂を介して外界の物体に移される。 この物体において、私は色を知覚していると思うのである。 こうして一つの円環が完結する。 私たちは、私たちの内に色のついた物体を意識するに到った。 これがまず第一点である。 ここで思考過程を精査する。 眼がなければ、私にしてみれば、物体は色を持たない。 つまり、色が物体にあるとは言えない。 そこで私は色を探し始める。 眼に探しても見つからず、神経においても見つからず、脳にもない。 魂内に色が見つかるが、それは物体と結びついていない。 色のついた物体が見つかるのは、元の出発点である。 円環が完結する。 素朴な人が外界の空間に存在すると考えるものを、私は、魂が作り上げたものとして認識していると考える。

■04-27:「知覚は主観的表象にすぎない」を論駁

この段階に留まれば、すべてがみごとに収まっている。 しかし、この事柄は、一から振り返ってみる必要がある。 私はここまで、たった一つの対象と取り組んできた。 つまり外界の知覚である。これについて私は以前、素朴な人間であり、完全に間違った見解をとっていた。 私に見えるそのままに客観的にそこに存在していると考えていたのである。 しかし、そうした知覚は私の魂的状態の変化に過ぎず、表象活動とともに消えることに気づく。 こうした状態で、考察を知覚から始める正当性はあるのだろうか。 知覚が私の魂に作用するなどと言えるのだろうか。 これまで私は、テーブルというものを、私に働きかけ、私の内に表象を作り出させるものと思ってきたが、この瞬間から、それ自体を表象として扱わなくてはならない。 しかしこの考え方を一貫して押し進めていくと、私自身の感覚器官やそこでの諸経過も主観に過ぎなくなってしまう。 眼が実際に存在するなどとは言えず、眼についての私の表象があるとだけしか言えない。 神経伝達や脳のプロセス、さらには、多種多様で混乱した複数の感受から物体を構築するとされる魂内での経過すらも表象に過ぎなくなる。 第一の思考サイクルが正しいという前提で、私の認識活動の各部分をもう一度たどると、そうした認識活動の諸部分も表象という実体を持たない、お互い同士で作用し合うことのできないものであることがわかる。 対象物について私の表象が、眼についての私の表象に作用し、その相互作用から色についての表象が生じるなどとは言えない。 また、そう言う必要もない。 私の感覚器官やそこでの活動、神経や魂での諸過程、それらはすべて知覚を介して与えられるということが明らかであるので、上述の考えの筋道はありえないことがわかるからである。 対応する感覚器官がなければ、知覚内容は存在しないというのは正しい。 しかし、知覚がなければ感覚器官は存在しないというのも同等に正しい。 私は、テーブルの知覚から、それを見る眼の知覚、それに触れる皮膚神経の知覚に移行しうる。しかし、その眼や皮膚神経の知覚で行なわれていることも、知覚からしか経験しえない。 すると、眼の中でのプロセスと、色彩として知覚されるものがまったく似つかないことにすぐに気づく。 色彩知覚の際に行なわれている眼内プロセスが色彩とは違うと指摘しても、それで色彩知覚を否定できるわけではない。 神経や脳の諸プロセス内にも同様に色は見つからない。つまり私は、(表象ではなく実在する)自分の生体器官における知覚を、第一の知覚、つまり素朴な人間が自分の生体外にあるとした知覚に結びつけているだけである。 私はある知覚から別な知覚に移行しているだけなのである。

▲批判的観念論の問題点28~33

■04-28:生理プロセスと魂的体験がつながらない

これ以外にも、ここには一つの論理的飛躍がある。 生体内の諸過程を辿っていくと、脳という中心の過程に近づけば近づくほど、前提が仮説的にはなって行くにしろ、脳内のプロセスまでは遡ることができる。 外的観察による道は、脳内の諸過程までで終わる。 仮に物理的、化学的な補助手段などを用いれば、脳内で何かを知覚できるが、その知覚が終点なのである。 感受からは内的観察の道が始まり、複数の感受を素材に、事物を組み上げるところまでたどり着く。 脳内プロセスと感受を橋渡しする部分で、観察の連続性が失われている。

■04-29:批判的観念論は自己存在を素朴実在論的に仮定

ここで紹介してきた考え方は自らを批判的観念論とし、素朴実在論と呼ぶ素朴な意識の立場を否定している。 そしてこの批判的観念論は、ある知覚を表象としていながら、別な知覚は、見かけ上は自らが論破した素朴実在論が行なっているのと同じ意味で実在と認めるという過誤を犯している。 批判的観念論は、自分自身の生体の知覚だけは素朴なやり方で客観的に有効な事実とみなすことで、知覚が表象であることを証明しようとし、さらにはお互いに橋を架けられない二つの観察領域を無批判につなげている。

■04-30:批判的観念論では自己身体を無批判に前提としている

批判的観念論は、自身の身体器官を素朴実在論的に客観的存在であると仮定しなければ、素朴実在論を否定できない。 生体の知覚と、素朴実在論が客観的実在とする知覚が同種であると気づいた瞬間、批判的観念論は、生体を確実な土台とすることができなくなる。 自らの主観的生体組織を単なる表象複合体と見なさなくてはならないはずである。 しかしそうなると、精神的機構の作用によって知覚世界の内容が生じていると考える可能性も失われる。 《色彩》という表象は《眼》という表象の変容したものと仮定せざるをえない。 いわゆる批判的観念論は、素朴実在論を借用しなくては成り立たないのである。 素朴実在論を否定するには、素朴実在論が前提としているものを、自らの身体という別の領域で無批判に成り立つとする必要がある。

■04-31:知覚の客観性は観念論では否定できない

知覚領域内を精査することで確実となったことは、それによっては批判的観念論が証明されえない点、さらには知覚の持つ客観的性格を否定することはできない点である。

■04-32:ショーペンハウアーは「世界は表象」と無批判に前提

「知覚世界は私の表象である」という命題を、自明で証明不要なものとしてうち立てることはそれ以上に許されない。 ショーペンハウアーは彼の主著『意志と表象としての世界』を次の言葉で始めている。「世界は私の表象である…… これは、生きて、認識をいとなむすべてに関して当てはまる一つの真理である。ところがこの真理を、反省的に、ならびに抽象的に真理として意識することのできるのはもっぱら人間だけである。人間がこれをほんとうに意識するとして、そのときに人間には、哲学的思慮が芽生えはじめているのである。哲学的思慮が芽生えたあかつきには、人間にとって明らかになり、確かになってくるのは、人間は太陽も知らないし大地も知らないこと、人間が知っているのはいつもただ太陽を見る目にすぎず、大地を感じる手にすぎないこと、人間を取り巻いている世界はただ表象として存在するにすぎないこと、すなわち世界は、世界とは別のもの、人間自身であるところの表象する当のもの、ひとえにそれとの関係において存在するにすぎないことである。……

なんらかの\kana{先天的}{ア・プリオリ}な真理ということが言えるとすれば、上に述べた真理がそれに当たる。というのは、上の真理は、およそありとあらゆる経験、考えられるかぎりの経験の形式を言い表わしているのであって、それとは別の形式、時間と空間とか因果性とかいう形式よりもはるかに普遍的な形式を言い表しているからである」。 ……(中央公論社、世界の名著『ショーペンハウアー』西尾幹二訳、111ページ) この文のすべては、前述の「太陽や大地が知覚されるとするなら、眼や手も同様に知覚である」という点を考慮すれば、否定される。 ショーペンハウアーの論法や表現を真似て、反対見解を述べてみよう。 自分が太陽も大地も知ってはおらず、また太陽を見る眼、大地に触れ大地を感じる手も表象にすぎないと気づく。 このように言い換えると、論理の破綻は明らかである。 なぜなら現実の眼や手であれば、そこにおける変化を太陽や地球の表象とみなすこともできるが、表象としての眼や手は表象を生むことはできないからである。 それを許しているのは、批判的観念論だけである。

■04-33:知覚時に起きることと前提条件の区別

知覚と表象の関係を検討するに当たって、批判的観念論は完全に不適切である。 知覚行為の際に知覚に並行して起きていることと、知覚が成り立つ前にすでに存在していなければならないものとの区別については段落04-20以降にその概略を述べたが、批判的観念論ではそうした区別をつけることができない。 したがってそのためには、別な道を採らなくてはならない。

『自由の哲学』、第05章、世界の認識

▲批判的観念論をめぐる諸問題01~08

■05-01:素朴実在論は論破されるが、批判的観念論の前提も成り立たない

観察内容を探究して、「知覚は表象にすぎない」と証明するのは不可能であることが、これまでの考察で明らかになった。 この証明は以下を示すことで成り立つとされる。 私たちの個における心理学・生理学的な成り立ちは素朴実在論的であると仮定されている。 それと同様に、知覚プロセスも素朴実在論的に成り立つのであれば、私たちは、物それ自体ではなく、単に物についての表象とかかわっているだけである。 こうして素朴実在論を一貫してたどっていくと、前提条件とは正反対の結果に到達する。したがって素朴実在論的前提は、世界観の基礎とはなりえず、棄却せざるをえない。 また、上述の証明を根拠に「世界は私の表象である」と主張する批判的観念論も、前提条件には目をつむっておいて結果だけ認めようとしているので、成り立たない。 (エドゥアルト・フォン・ハルトマンは『認識論の基本問題』でこの証明の過程を細かく述べている)。

■05-02:批判的観念論の正しさはまだ否定できないが、その証明は無効

批判的観念論そのものが正しいか否かという問題と、その正当性を示すための証明に説得力があるか否かという問題は別である。 批判的観念論そのものの正否については、話の流れで後述する(注)。

(注:内容)05-28段落

しかし、その証明の説得力はゼロに等しい。 家を建てるにあたって、二階を建てている間に一階が崩れれば、二階も壊れる。 ここで、素朴実在論は一階に、批判的観念論は二階に相当する。

■05-03:表象の背後に実在を認めるタイプの批判的観念論

知覚世界全体は表象にすぎないという見解の人、さらに詳しく言えば私の魂への未知なる事物からの作用にすぎないと考える人にしてみれば、魂内にのみ存在する表象を認識の対象にすることはなく、私たちとは独立して存在し、私たちの意識の及びえない事物が認識の対象になる。 そこではこう問われる。「直接に観察が不可能なその事物について、どれくらい間接的に認識できるのか」と。 この見解を取ると、知覚なぞはその事物に感覚を向けるのをやめればただちに消えてしまうのであるから、意識される諸知覚間の内的な関連は問題にせず、観察者とは独立した存在であり、意識されえない知覚の原因とされるものが問題になる。 この観点からすれば、私たちの意識とは鏡のようなもので、そこに映る事物の像は、その鏡面を事物に向けるのをやめれば、ただちに消えてしまう。 事物の鏡像だけが見え、そのものは見えないなら、その鏡像の様子から、鍵穴を覗くようにその事物の諸性質を間接的に窺わなくてはならない。 現代の自然科学はこの立場を取っている。 この自然科学は、知覚には隠された唯一の実在とされる物質的過程についての知見を得るための最後の手段として、知覚を用いている。 批判的観念論の哲学者が何らかの存在を認めるとするなら、この存在について表象を用いて間接的に認識しようと努力する。 彼の関心は、表象という主観的世界を飛び越え、この表象を作り出すものへと向かっていく。

■05-04:表象の背後の実在すらも表象とするタイプの批判的観念論

批判的観念論者では、「私は私の表象世界の中に閉じ込められていて、そこから出ることはできない」とまで言うこともありうる。 表象の背後に事物を考えるにしろ、この考えもまた私の表象の域を出ないとしている。 こう考える観念論者は、物それ自体を完全に否定するか、あるいは百歩譲っても、それについて何も知ることができないのであるから、あたかもそれは存在しないも同然で、人間にとって何の意味もないとするだろう。

■05-05:第二の批判的観念論では認識の欲求は生じえない

こうした批判的観念論者にとっては、世界認識への渇望などはあたかも無意味であり、世界全体は夢のようなものである。 彼にしてみれば、人間は二種類に分けられる。 一方は自分自身が紡ぎ出す夢を現実と見なす囚われた人、もう一方はこの夢世界の虚無性を見通し、それとかかわることへの情熱をしだいに失っていく賢者である。 この立場からすると、自らの人格すらも単なる夢の像になってしまいかねない。 睡眠時の夢の中に自分自身の姿が夢として現われるように、目覚めた意識の中で、外界の表象に自分自身という表象が加わるのである。 すると意識内には、リアルな自我ではなく、表象自我しか存在しないことになる。 事物の存在を否定するか、あるいは事物については知りえないとする人は、必然的に自らの人格の存在、より正確には人格の認識を否定しなくてはならない。 こうして批判的観念論者は次のように主張する。 「あらゆる現実は素晴らしき夢となる。その夢に現われる生き物も実際には存在せず、その夢を見ている精神も実際には存在しない。夢自体で自己完結する夢である」(フィヒテ『人間の意味』)。

■05-06:絶対的幻影主義と超越論的現実主義

直接の生きた営みを夢と認識するなら、夢の背後を虚無と考えるか、あるいは自分の表象が現実に関連していると考えるかであるが、そのいずれにしろ生きる営み自体は必然的に学問的関心の対象ではなくなる。 知りうるすべてが夢で充足しているという立場では、あらゆる学問は無意味である。それに対し、表象は物に結びついていくと自信満々に信じている人にとっては、この《物それ自体》の探究が学問になる。 前者の世界観は絶対的幻影主義とすることができ、後者は、それを首尾一貫している代表者自身の命名により、超越論的現実主義と呼べる(注)。

(注:内容) この世界観では超越論的という語を次のような意味で用いている。まず、物それ自体について直接には何も語れないとされる。しかし、既知なる主観から主観の彼岸に存する未知なるものを間接的に推論する(超越論)。 この見解では、物それ自体は私たちが直接に知りうる領域の彼岸に存在する。つまり超越的存在である。 しかし私たちの世界は、その超越的存在と超越論的に関連することができる。 ハルトマンが現実主義と表現するのは、主観的なもの、理念的なものを越え、超越存在、つまりリアルなものに向かうからである。

■05-07:認識の土台を知覚に求めようとすることが問題の根源

この二つの見解は素朴実在論と同じで、知覚を研究することで世界の足場を探そうとしている。 しかし、この知覚領域内でそうした足場が見つかることは決してない。

■05-08:表象を夢とするなら、覚醒状態は何か

この超越的実在論者にとっての中心的な問いは、以下のようであるべきだった。 「自我は、どのようにして自身を出発点に表象世界を実現するのか」と。 私たちに与えられた表象世界は、そこに感覚を向けるのを止めるとただちに消えてしまう。それでもそこに誠実な認識努力を向けることができるのは、それ自身で成り立つ自我の世界を探究するに当たって、表象世界がその仲介手段になってくれるからである。 事物の経験が表象であるなら、私たちの日常生活は夢に相当し、事実の認識は目覚めに当たるだろう。 夢の映像が興味深いのも、夢を見ている最中だけであり、そのときには夢の本性は見通していない。 目覚めた瞬間には、夢の諸映像間の内的関連などは問わず、その夢の背景にある、肉体的、生理的、心理的な経過に着目する。 同様に、世界を自らの表象と見なす哲学者が、その表象を構成する個々の事柄同士が持つ内的関連に興味を持つことはありえない。 もし彼が存続的な自我を認めるなら、表象同士がどう関連するかは問わず、意識内で表象が特定の推移を見せるときに、彼とは独立した存在である魂内で何が起きているかを問うだろう。 夢の中で飲んだ酒が原因で焼けるような喉の痛みを感じ、咳の発作とともに目覚めた場合(ヴァイガント、『夢の発生』1893年参照)、目覚めた瞬間にはもはや夢の中での出来事には興味を失う。 夢の中で咳の発作という象徴になった何らかの生理的、心理的プロセスに注目するだけだろう。 それと同様に哲学者は、眼前の世界が表象であると確信したら、ただちにその表象を離れ、その背後に隠れた現実的な魂に意識を向けるはずである。 ただ前述の幻影主義が、自我それ自体を表象の背後などにはないと完全に否定するか、あるいは最低限でもそれを認識不能としてしまうとより困難な状況に陥る。 夢状態に対しては覚醒状態が存在し、そこでは夢を洞察し実際に起きていることと結びつけることができるが、「夢対覚醒」という意味での「覚醒対何か」の何かに当たる状態がないと、容易に上述の見解に導かれうる。 こう考える人は、「夢対覚醒」と同じ関係で「知覚対何か」に当たる何かが実際に存在する点にまで考えが及んでいない。 その何かとは、思考である。

▲鍵は思考09~14

■05-09:《思考無視派》とそこからの脱却

素朴な人は、ここで述べてきた洞察不足を自覚することができない。 生活に没入し、経験されるままの事物を現実として受け止めている。 この立場から抜け出す最初の一歩は、「思考は知覚にどのようにかかわるのか」と問うことだけのはずである。 表象する前後で知覚が見たとおりの姿で成り立つか否かなどはどちらでも同じで、知覚について何かを語りうるには、思考の助けが必要なのである。 また私が「世界は私の表象である」と言うとき、これはある思考プロセスの結果を語っているし、世界に思考を適用できなかったらこうした結果も誤ってしまう。 知覚と知覚に対する発言との間には、必ず思考が挟み込まれている。

■05-10:《思考付加物説》とその論破

事物を観察するにあたって、多くの場合、思考が見過ごされてしまう理由についてはすでに述べた(03-11以降参照)。 思考においては、思考対象だけに注意が向き、同時に進行する思考活動には注意が向かないのがその理由であった。 それゆえ素朴な意識では、思考を事物と関係するとは捉えず、事物とは別次元と考え、思考的考察を単なる世界の付け足しと思っている。 思考者が現象世界に投影する像とは、事物に属するとは見なされず、人間の頭の中だけの存在とされる。思考による像がなくても、世界はすでに完成していると見なされている。 世界は、そこにおける諸素材と諸力で完結し確立されていて、そこに人間が像を投影しているとされる。 こう考える人は、次の問いを吟味していなかった。「思考なしで世界は完結しているという説が正しいとする根拠はどこにあるのか」。 植物が花をつけるのと同じ必然性で、世界は人間の思考を必要としているのではないのだろうか。 大地に種子を植える。 すると根と茎が伸びる。 葉を展開し花を咲かせる。 その植物を前にして見る。 その植物は魂の中である特定の諸概念と結びつく。 葉や花は植物に属するのに対し、こうした概念は植物に属さないなどとなぜ言えるのだろうか。同様に植物に属するのではないだろうか。 これに対しては、「葉や花は、それを知覚する主観が居なくても存在する。それに対し概念は、人間が植物と向かい合ったときに初めて現われる」と反論する。 確かにそのとおりである。 しかし、葉や花も植えられるべき大地や、それらが展開しうる光や空気が存在してはじめて現われ出てくる。 植物についての概念もまったく同様に、思考する意識が植物に近づくと初めて生まれ出てくる。

■05-11:「事物とは知覚の総和である」は無根拠

知覚経験のすべてを足し合わせればそれが事物の完全な全体であり、思考的考察の結果などその事物とは無関係で、その全体への添え物に過ぎないという考えは、非常に恣意的である。 今、目の前に薔薇のつぼみがあるとき、私がまず見るのは閉じた花である。 このつぼみを水に活けると、明日にはこの対象に対する別な像が得られるし、このつぼみから目を離さなければ、今日から明日にかけての無数の中間段階が見られる。 ある瞬間に見られる像は、対象における連続的な形成の偶然的な一段階にすぎない。 つぼみを水に活けなかったなら、そのつぼみが潜在的に持つ一連の発達状態は展開しえない。 また明日には、花を継続的に観察することができず、不完全な像しか得られないこともありうる。

■05-12:「偶然に見た状態をその事物そのもの」とは言えない

ある時点で偶然に見た姿をもとに「これがその事柄だ」と言ってしまうのは決して事柄に即してはいない。

■05-13:「概念も事柄に属する」と考えうる

まさにこのように、知覚的特徴の総和で事柄を説明できるというのも根拠は薄弱である。 ある霊性が知覚と不可分に概念を感じ取ることができるというのはありうる可能性だろう。 そうした霊性にしてみれば、概念がその事柄に属していないなどということは思いもつかない。 必然的に、概念を事柄と不可分に結びついた存在と見なすはずである。

■05-14:現象に思考的内容が結びついた例

ここで例を挙げてより明確にしたいと思う。 石を水平に投げると、その石が次々に位置を変える様子を見る。 そして、そうした位置同士を線で結ぶ。 数学にはさまざまな曲線フォルムがあるが、その中には放物線もある。 点がある特定の法則下で動くときに生じる曲線が、放物線であることを知る。 石を投げた際の運動の諸条件を調べると、その石の軌跡が放物線として知られた曲線と同じであることがわかる。 石の軌跡がまさに放物線であることは、所与の条件の結果であり、その条件に必然的に従う。 同じ条件下の他のあらゆる現象において、この放物線の軌跡が現われる。 思考という回り道を取る必要のない上述の霊性にしてみれば、異なる地点における一連の視覚情報が与えられるだけでなく、私たちが思考によってこの現象に付け加える放物線という軌跡が現象と不可分に与えられるだろう。

▲思考の諸特性15~20

■05-15:概念抜きで現象が現われる原因

対応する概念を伴わずに、まず現象だけが与えられる原因は、その対象物の側にあるのではなく、私たちの精神の機構にある。 私たちの全存在の機能の仕方では、個々の事物における関連する要素が二つの側から私たちの存在に流れ込んでいることがわかる。つまり、知覚の側と思考の側である。

■05-16:事物の事情と私の事情は無関係

事物を捉える際の私の組織の様子など、事物の本性には関係がない。 知覚と思考の間の溝は、観察者としての私が事物と向き合った最初の瞬間には存在する。 しかし、その事物にどの要素が属しどの要素が属さないかという点と、私がそうした要素に達する際の成り行きとはまったく無関係である。

■05-17:人間がある範囲に制約され分離していることの意味

人間とは、ある範囲に制約された存在である。 まず人間は、諸存在中の一存在にすぎない。 その存在は、時間と空間の中にある。 それゆえ、常に全宇宙における限られた部分にしか触れられない。 しかしこの限定された部分は、周囲と時間的にも空間的にもつながっている。 私たちの存在が事物と結びつき、個々の宇宙的出来事がそのまま私たちでの出来事であったならば、事物と私たちの区別はないはずである。 しかし、そうであったなら私たちには個別化した事柄などない。 すべての出来事が連続的に他のものに移行していくだろう。 コスモスは一体なるものであり、それ自身で自己完結した全体的なものであろう。 次々と流れていく出来事は一切停滞しないはずである。 私たちは特定範囲に制約されているために、私たち自身が個別化して見えるが、本来は個別化してはいない。 たとえば、赤という一つの質が別個に存在することはない。 その赤は、多方面で他の諸性質と結びついているし、そうした他の諸性質がなければ赤として成り立ちもしない。 私たちは、世界の特定の部分を切り取ってそれをそれ自体として観察せざるをえない。 私たちの目は、多種多様な色彩全体から個々の色彩を順々に捉えることしかできないし、私たちの悟性は関連性を持った概念体系から個別の概念を捉えることしかできない。 この分離というのは主観的な行為であり、私たちが宇宙プロセスと一体ではなく、あらゆる存在の中の一存在にすぎないという状況に縛られていることで生じている。

■05-18:思考による自己規定と自己知覚の相違

ここで問題なのは、他と私たち自身との存在の位置関係を規定することである。 この規定化は、単なる自己の意識化とは異なる。 後者は、他の事物を意識化するのと同様にその基礎は知覚である。 黄色、金属光沢、硬い等々の諸特性を《金》にまとめるのと同じように、自己知覚によって一連の諸特性が得られ、その全体を私の人格としてまとめる。 自己知覚によっては、自身が属する領域から離れることはない。 この自己知覚と思考における自己規定とは違うのである。 外界での個々の知覚を思考によって世界の関連に組み入れるのと同様に、自分自身においてなされた諸知覚を私は思考によって世界プロセスに組み入れる。 私の自己知覚は、私をある特定境界内に閉じ込める。それに対し私の思考は、この境界には制限されることはない。 その意味で私は二重の存在である。 私は、自己の人格として知覚している領域内に閉じ込められている。しかし、ある活動の担い手でもあり、その活動が境界内に限定された私の存在を一段高次の領域から規定してくれている。 感受や感情とは違い、思考は個人的ではない。 思考はユニヴァーサルである。 思考は個々人で個的な色彩を帯びるが、それは各自の個的な感受や感情と結びつくからである。 このように個々人において特有な色づけを受けるために、本来ユニヴァーサルである思考がそれぞれ違って見えるのである。 しかし、三角形についての概念は一つしかない。 この概念の内容にしてみれば、それを受け取る意識の担い手がAであるかBであるかは無関係である。 しかし、その概念はこの二人の意識の担い手にそれぞれ個別の仕方で受け止められる。

■05-19:概念は自分が作っているという誤り

この考えに敵対する克服し難い先入観がある。 囚われた考え方だと、私が頭で捉えた三角形概念と、隣人が頭で捉えた三角形概念とが同じであると洞察できない。 素朴な人は、概念形成者は自分だと考えている。 それゆえ人は、各自が自分の概念を持つと信じてしまう。 この先入観の打破は、哲学的思考にとっては基本要求である。 三角形という唯一なる概念は、何人もがそれを考えることによって複数になることはない。 多くの人が考えるにしろ、思考それ自体は一体だからである。

■05-20:思考によって人は宇宙の末端につながる

思考の中にはある要素がある。 その要素が、私たちという個別化した個体をコスモスと結びつけ、一つの全体にするのである。 感受、感情(知覚)において私たちは個別存在であり、思考においてすべてを包括する全・一存在となる。 これが私たちの二重性のより深い根拠である。つまり、正真正銘の絶対力が私たちの内に存在することがわかる。その力はユニヴァーサルであるが、ただ私たちがその力を知るのはそれが流れ出る世界中心においてではなく、末端の一点においてである。 もし世界中心においてそれを知っていたなら、私たちがそれを意識した瞬間にあらゆる宇宙的謎を理解するだろう。 しかし私たちの自己存在は、ある特定の境界を持ちつつ末端に位置している。 それゆえ、私たちの領域以外については、中心である遍在的宇宙存在から私たちに入り込んで来る思考を助けに知るのである。

▲認識とは知覚と概念の統合21~22

■05-21:認識衝動は思考が生み出す

私たちの内にある思考によって、特殊としての私たちが普遍としての宇宙存在へと包括されることによって、認識への衝動が生じる。 思考を持たない存在にはこの衝動はない。 何らかの事物が目の前に現われても、問いは生まれない。 他の事物は、そのものとして外的に留まる。 思考する存在においては、外界の事物に概念が現われそれにぶつかる。 私たちが概念を受け取るのは、外側の物からではなく内側からである。 認識によって内外の二要素が一体化され、調和へともたらされる。

■05-22:認識とは知覚と概念の統合行為

つまり知覚とは完成し完結したものではなく、現実総体の一方の側でしかない。 もう一方の側は概念である。 認識行為とは、知覚と概念の統合である。 ある事物は知覚と概念によって全体となる。

▲意志が人間と世界をつなげるという説23

■05-23:ショーペンハウアーは意志が人間を世界につなげるとした

ここまでの叙述で次のことが証明された。 つまり、世界に存在する個別なものの内に何らかの共通項を探しても無駄で、それは思考によって得られる理念的内容以外にはない。 私たちは、諸知覚に思考的考察を加えることで、それ自体で内的に関連し合うこの理念的内容を得る。そして、それ以外の世界内容において統一を探す試みは、すべて必然的に棄却される。 人間的・人格的な神、力あるいは素材、理念抜きの意志(ショーペンハウアー)のどれをも、私たちはユニヴァーサルな統一的世界として認めることができない。 これらの諸要素はすべて、観察という領域に限定されている。 人間的な制約を受けた人格を自分自身において知覚し、力や素材を外界の事物において知覚する。 意志たるものも、人格という枠内に収まった活動でしかない。 ショーペンハウアーは《抽象的な》思考を統一的宇宙の担い手にしたくなかった。 その代わりに彼にとって直接にリアルに与えられているものを担い手と考えた。 この哲学者は、世界を外界と見なす限り、決してそこには到れないと信じていた。
このような世界の意義を探究すること、この世界から出発し、表象以外になお存在しているかもしれないもの(世界のもう一つ別の側面)へ通路を見出していくことは、もし仮に探究者その人が純粋な認識主観〔身体がなくて翼のはえた天使の頭〕にすぎないとしたならば、けっしておこなわれ得ないだろう。 しかし探究者その人も表象の世界に根をもっている。 つまりこの世界に個体として存在している。 いいかえれば、表象としての全世界を制約する担い手である認識は、どこまでも身体によって媒介されているのである。 身体の受ける刺戟が、前に示したとおり、悟性にとっては、個の世界を直観する出発点となっている。 ……

 この身体は、純粋に認識する主観そのものにとっては、他のあらゆる表象と同じく一表象であり、さまざまな客観のなかの一客観である。 身体のおこなう運動も行動もそのかぎりにおいては、あらゆる他の直観的な客観の諸変化と同様にしか、認識する主観には知られていない。 身体のおこなう運動や行動の意義が、まったく別の仕方で、主観のために解き明かされていないとしたら、身体の運動や行動は主観にとってはまったく無関係ならびに不可解なものとなるであろう。

(中略)

 認識主観が個体として現われるのは、身体と一体をなしているからだが、身体は、この認識主観に対して二つのまったく異なった仕方で与えられている。 第一は、悟性的な直観における表象として、客観のなかの一客観として、客観の諸法則に従うものとして与えられている。 第二には、同時にまったく別の仕方で、すなわち意志という言葉がその特色を端的にあらわしている、誰でも直接に知っているものとして与えられている。 ……

 意志のほんとうの働きと言えば、それはいずれであれ、ただちに、必然的に、身体の運動のことである。 意志の働きが身体の運動として現象することを同時に知覚することがなければ、人は意志の働きをほんとうに意欲することもできないだろう。 意志の働きと身体の活動とは因果のきずなが結んでいる、客観的に認識された二つの異なる状態なのではない。 それらは原因と結果という関係にはなく、一つにして同じものなのであって、ただ二つのまったく異なった仕方で与えられているだけのことなのである。 つまり、第一には悟性に対し直観のなかで、第二には完全に直接的に、与えられているにすぎない。 ……(中央公論社、世界の名著『ショーペンハウアー』西尾幹二訳、247ページ)

こうした論考によって、ショーペンハウアーは、人間身体の中に意志という《客観性》が見出されると信じた。 身体のアクションが物それ自体を具体的に感じ取る直接のリアリティであるというのが彼の見解である。 この論考に対しては次のように反論せざるをえない。身体のアクションが意識に上るに当たっては自己知覚を介さざるをえないし、その知覚が他の知覚より優先的であることもない。 意志の本性を認識しようとするなら、それは思考的考察によってのみ可能であり、言い換えると、意志の本性が私たちの概念理念体系に組み込まれたときなのである。

▲知覚の検討、思考による補完を中心に24~29

■05-24:思考を伴わない知覚の様子

素朴な人の意識には、次のような見解が深く根づいている。 つまり、思考とは抽象的で何の具体的内容も持たないと言うのである。 それはせいぜいのところ世界内容の《理念的》な対応像を与えるだけで、その内容自体ではないと言う。 こう判断する人は、概念抜きの知覚がどのようなものであるかを明確にしたことがない。 知覚としての世界を一度見てみよう。 それは空間内に並立し、時間内で順次現われる無関連な個別なものの集合体である。 知覚の舞台に現われては消える事物のどの一つをとっても、他とは何のかかわりもない。 そこでは世界は等価値の対象物からなる多様性として現われる。 世界運行に関して、一つが他よりも重要な役割を果たすことはない。 ある事実が他よりも重要な意味を持つことを明らかにしようとするなら、必ず思考に伺いを立てなくてはならない。 思考の働きがなければ、ある動物にとっての意味のない退化した器官も、その動物にとって最も重要な身体部分もまったく同列にしか見えない。 個々の事実について、それ自身の意味ならびに世界の他の部分に対する意味が明らかになるのは、本質と本質の間に思考の糸が結ばれたときである。 思考のこの活動は内容に満たされている。 具体的な内容があって初めて、なぜカタツムリがライオンより低次の生命段階にあるのかがわかる。 単に対象を見るだけや知覚するだけでは、生体の完成度を私に教えてくれる内容は与えられない。

■05-25:観察によって知覚が、直観によって思考が得られる

この内容を知覚にもたらすのは思考で、それは人間が持つ概念理念界からもたらされる。 外から与えられる知覚内容に対して、この思考的内容は内側から与えられる。 そうした内容が現われる際の形式を、私たちは直観としたい。 思考にとってのこの直観とは、知覚にとっての観察に対応する。 直観と観察は私たちの認識の源である。 直観とは知覚において欠けた現実部分を補うものであり、外界の事柄を観察しても、私たちの内側から対応する直観が得られるまでは、それは異物である。 事物に対応する直観を見つけ出す能力がないなら、十全なる現実は現われてこない。 色覚異常の人には色の質は見えず明暗の差しかわからないのと同様に、直観を欠く人には互いに関連のない知覚断片だけが観察される。

■05-26:観察では分離しているものを直観で結合する

ある事物を説明する、あるいは理解できるようにするというのは、私たちの機構に観られる上述の諸状況のためにいったんは引き裂かれざるをえなかった事柄を元の諸関連の中に組み込むことである。 宇宙全体から独立分離した事物など存在しない。 すべての分離とは、私たちの機構において主観的に成り立つにすぎない。 私たちには宇宙全体が上と下、前と後、原因と結果、対象物と表象、素材と力、客観と主観などに分離して現われる。 私たちの直観とは一体なるものであり相互に関連しているが、その直観によって個別なるもの、つまり観察によって眼前に現われるものが結合される。このように知覚の際にはバラバラになって与えられたものを私たちは思考によってまとめ上げる。

■05-27:私たち自身が分離したものが統合される

対象物が謎に包まれているのは、それが分離された存在であるからである。 しかしこの分離は私たちがもたらしたものであり、概念世界の範囲内で再び克服されうるのである。

■05-28:思考の絶対性を出発点に知覚とは何かを考える

思考と知覚以外には私たちに直接与えられているものはない。 ここで問いが生じる。 「ここでの論考に沿って考えるとき、知覚の意味とは何だろうか」。 知覚の本性が主観的であるとする批判的観念論による証明が実際には証明として成り立っていないことはすでに認識した。しかし、そこで証明しようとした事柄自体が誤りであることはまだ検討していない。 批判的観念論は、思考の持つ絶対的本性から証明を始めてはおらず、素朴実在論に立脚していた。そしてその素朴実在論自体が、一貫して考えるなら成り立たないことがわかっている。 もし思考の絶対性を認めたなら、この知覚をめぐる状況はどのようになるだろうか。

■05-29:知覚だけでは知覚はつながらず、思考を必要とする

たとえば、赤といった特定の知覚が私の意識に上ったと仮定しよう。 これまでの考察から、この知覚には特定の形、特定の温度や触覚といった他の諸知覚が関連していることがわかる。 この関連を私は感覚界の対象物とする。 「私に上述の諸知覚が現われた空間部分において、今述べた事柄以外に何があるのか」を問うことができる。 するとその空間部分において力学的、化学的などの諸過程が見つかるだろう。 さらには、その対象物から私の感覚器官への途中経過を研究することもできる。 その本性からしてもともとの知覚とは一切関係を持たない、可塑素材の運動過程が見つかるかもしれない。 感覚器官から脳への伝達を研究しても、同様な結果が得られる。 こうしたそれぞれの領域で私は新しい知覚を得る。しかし、時間空間内で相互にバラバラな諸知覚すべてをつなぐ媒体がある。その媒体が思考なのである。 音を媒介する空気の振動とは、私にとっては空気の振動としてではなく音として知覚される。 諸知覚をこのように分解し、またそれらの相互関係を明らかにすることができるのは思考だけである。 直接の知覚と諸知覚における理念的な関連(これは思考によって認識される)、この二つ以外には何もない。 知覚客体と知覚主体の間にある知覚を超えた関連とは、理念的なものしかない。言い換えると概念でしか表現されないものである。 知覚客体が知覚主体を触発する様子を知覚することができるのなら、あるいはその逆に、知覚過程が構成される様子を主観を介して観察できるのなら、現代生理学やそれに立脚する批判的観念論の考えを正しいと認めるだろう。 批判的観念論の見解では、理念的である(主観に対する客観の)関係を、知覚によって確認すべきプロセスと取り違えている。 それゆえ、「目による色彩知覚がなければ色彩はない」という文は、目が色彩を作り出すという(感覚界的な)意味を持つことはありえず、思考によってのみ認識されうる理念的関連、つまり色彩知覚と目による知覚の間に成り立つ理念的な関連を意味している。 経験科学では、目の諸性質と色彩の相互関係を明らかにし、色彩知覚を伝達する視覚組織のしくみ等々を解明するだろう。 空間的関連、あるいは別な関連において、ある知覚に別な知覚が続く様子をたどることはできる。 そしてこれを概念的に表現することができる。しかし、ある知覚が不可知覚なものから生じてくる様子をたどることはできない。 諸知覚の間に思考的関連を見出すこと以外の努力は当然ながらありえない。

▲概念の厳密化:知覚表象とは30~31

■05-30:知覚が継続化され知覚表象となる

さて、知覚とは何だろうか。 これを一般論として問うと漠然としている。 知覚とは常にある特定の具体的な内容を持つ。 そして、この内容は直接的に、しかも何も余すことなく与えられる。 何も余すことなく与えられるものが、知覚以外にも存在する。それは思考である。 ある知覚が《何》かと問う場合、その問いは対応する概念的直観に向かっていくだけであろう。 この視点で見るなら、批判的観念論の言う知覚が主観的か否かといった問いは出てこない。 主観的と見なすことが許されるのは、主観に属すると知覚されるものだけである。 主観と客観とのつながりを作るのは、素朴な意味での現実的プロセス、つまり知覚可能な出来事ではなく、思考である。 つまり客観とは、知覚されるにしろ知覚主体の外に知覚されるものである。 目の前にあった机が私の観察領域から消えても、知覚主体は知覚可能であり続ける。 机を観察することで、私の中で、これもまた継続的なある変化が生じた。 つまり、後になって再び机の像を作り出す能力が私の内に残る。 像を再構成するこの能力は私と結び付き続ける。 心理学ではこの像を記憶表象としている。 そしてこの像だけを、正当な意味で表象と呼べる。 これには私自身における知覚可能な状態変化が対応している。つまり、視野内に机が存在することによって生じた状態変化である。 さらに言えば、この状態変化は、知覚主体の背後に存在するとされる《私それ自身》の変化ではなく、知覚可能な主体の側での変化である。 知覚地平上にある外界事物の知覚が客観的であるのに対し、表象は主観的な知覚である。 この主観的知覚と客観的知覚を混同したことで、観念論は「世界は私の表象である」と誤解してしまった。

■05-31:次は表象をより詳しく見る

次の章ではまず、表象の概念をより明確に規定しよう。 ここまでも表象について取り上げてきたが、それは表象の概念ではなく、表象が知覚領域のどこで見出されるかの道筋を示しただけであった。 より正確な概念で表象を捉えることで、表象と対象物との関係をより満足のいくかたちで明らかにできるだろう。 これによって私たちは境界を越えていくことになるだろう。 つまり、人間の側の主観と世界の側の客観との関係を認識という純粋な概念領域から、人間的な個の具体的な営みへと降ろされるだろう。 世界において掴むべきものを知れば、それに向かうのも容易になるだろう。 世界に属し、そこに私たちの活動を向ける客体を知ったときにはじめて、私たちはそこに全力を傾注できるのである。

★1918年新版への補足

■05-32:形成される考えが順次発達する

ここで取り上げてきた観方は、人が自分と世界との関係を熟慮し始めたときに、自然な成り行きで進む観方の一つと言えるだろう。 そこでは考えを自分で組み上げつつ、自分もその思想形成に組み込まれ、またそこから解放されることがわかる。 こうした思想形成は、単なる理論的反論に留まらない、それ以上のものを含んでいる。 この思想形成によって導かれる混乱を洞察し、そこからの出口を見つけ出すために、思想形成を生き通さなくてはならない。 人間と世界との関係を議論する際には、こうした思想形成は避けることができない。 しかし、この関係についての正しくないと思われる見解を否定するために必要なのではない。そうではなく、この関係についての熟慮において陥りうる混乱がいかなるものかを知る必要があるからである。 最初に熟慮したものとの関連で、どのように自分自身を否定し、乗り越えていくかという点の洞察が必要なのである。 上述の事柄は、そうした意図で述べられている。

■05-33a:世界を表象と見る必然とそれによる現実からの乖離

人間と世界との関係についての観方を築き上げていこうとすると、世界の物や出来事についての表象を作ることで、最低でもこの関係の一部を作り出していることに気づくだろう。 それによって外の世界に向けられた視線が自分の内面の表象的営みに向けられる。 すると自分に言い始める。「もし私の内に該当する表象がないと、私は物や成り行きとかかわることができない」と。 この事実関係に気づき、さらに一歩踏み出すと、「私が体験するのは私の表象だけで、外の世界を知りうるのは、その世界の表象が私の内に存在するからだ」という見解に到る。 この見解になると、世界と人間との関係を考え始めた際の最初の素朴な現実の立場からは離れる。 この立場から人は、現実の事物とかかわっていると考えていた。 ところが、自己省察によってこの立場から追い立てられる。 自己省察によって人は、素朴な意識では目の前にあると考えていた現実が見えなくなる。 自己省察からは表象しか見えない。そして、この表象が自己の構成要素と現実世界との間に割り込む。この現実世界は素朴な立場からは現実と主張できると思われていた。 しかし人は割り込んだ表象を突き抜けることができず、そうした現実はもはや見ることができない。 この現実に対し自分の目が閉ざされていると仮定せざるをえなくなる。 こうして認識的に到達不可能な《物それ自体》という考えが生まれた。

■05-33b:「世界は私の表象」は必然的帰結であるが、展望もない

……人間が表象を介して世界と関係を取り結んでいると考えているかぎり、この思想形成から抜け出すことはできない。 認識への衝動を人工的に押し殺さないかぎり、現実が素朴に存在するという立場には留まり続けることはできない。 人間と世界の関係を認識したいという強い欲求が存在すること自体が、この素朴な立場から離れなくてはならないことを示している。 素朴な立場で真実が認識されるなら、そこから離れようとする衝動を感じることはない。

■05-33c:《物それ自体》《私それ自体》は素朴実在論的に想定された

……しかし素朴な立場を離れても……気づかぬうちに……押しつけられた素朴な考え方を持ち続けていると、真実とは呼べないものに陥る。 「私は私の表象だけを体験し、それで現実とかかわっていると信じる一方で、私に意識されるのは現実についての諸表象だけである。それゆえ私の意識領域外にまず《物それ自体》という現実があると仮定する。それについて直接には何もわからないにしろ、それは何らかの方法で私に近づき、作用を及ぼし、私の内に表象を喚起する」、というのがその誤った考えである。 こう考えることで、眼前に存在する世界の他に、思考内にもう一つ別な世界をつけ加えている。しかし、この新しい世界については、もう一度初めから考え直す必要があるはずである。 なぜならこの未知なる《物それ自体》と人間自身の存在との関係では、素朴実在論における考え方がそのまま流用されているからである。

■05-33d:素朴実在論的に成り立つ《思考》が混乱から脱する鍵

……次のことに気づくと、こうした観点から批判的に熟考することで生じる混乱にも陥らずにすむ。 つまり、外界の出来事と観察者の間に表象を差し挟んでしまうという悲劇から助け出してくれる何かが、自らの内面と体験可能な外界の範囲内に存在している点に気づくかが鍵を握っている。 そして、その何かとは思考である。 思考では、素朴実在論的立場を取り続けることができる。 人はそれをしないし、その理由は、別な状況においてはこの素朴実在論の立場から離れざるを得ないことに気づいたからである。 しかし、その根拠となる洞察が思考には当てはまらない点を見過ごしてしまった。 ところが、この点に気づくと別な洞察の可能性がひらける。 つまり、自分と世界との間に表象を差し挟まざるをえないがために見えなくなっていたものが、思考の中で、そして思考を通して認識されるはずなのである。

■05-33e:ハルトマンによる批判は実は彼の慧眼

……著者が高く評価している人物から、思考についての私の論考では、思考的な素朴実在主義に留まっていて、あたかも現実世界と表象世界を混同しているようだというご批判を受けた。 それでも著者は、思考を囚われなく観察するなら、思考が《素朴実在主義》的に成り立つこと、さらには思考以外では成り立たない素朴実在論が思考本性の真の認識によって克服されることをこの論考で証明したと思っている。

『自由の哲学』、第06章、人間の個体性

■06-01:表象は外界との連続と考えられる

哲学者は表象の説明に困難を抱えている。つまり、外界の事物と私たち自身は別物であるのに、表象が外界の事物に対応した形を取ることが説明できないのである。 しかしよりきちんと観ると、こうした困難は元々存在しないことがわかる。 私たちは確かに外界の事物ではないが、それらと同じ世界に属している。 私の主観が切り取る世界にも、宇宙全体のすべてを貫く流れがしっかりと入り込んでいる。 知覚において私は、とりあえずは皮膚という境界に取り囲まれている。 しかし、この皮膚の内側もコスモス全体に属しているのである。 したがって私の生体器官と外界の対象物との間にはつながりが成立している。それによって、外界の対象から何かを私の内に取り込む必要も、蝋に刻印を押すような精神に対する刻印づけの必要もない。 「十歩前方にある樹からの情報を私はどのように受け取っているか」という問いは、問い自体が筋違いなのである。 こうした問いは、「私の身体的境界が絶対的な分離壁であり、それを通って事物の情報が私に入り込んでくる」という誤った前提から生じている。 私の皮膚の内側で働く諸力は、外側で働く諸力と同じというのが事実である。 つまり私は、実際に物体なのである。ただし、知覚主体としての私は物体ではなく、普遍的な森羅万象の一つの存在としての私が物体なのである。 樹の知覚と私の自我は同じ全体に属している。 この普遍的な森羅万象によって引き起こされる知覚は、自己知覚でも樹の知覚でも同等である。 私が宇宙認識者ではなく宇宙創造者であったら、主観と客観(知覚と私)は一つのアクションで生じるはずである。 なぜなら、互いが相手を前提とするからである。 思考とは概念を介して樹と私の両者を結びつけるものであるが、宇宙認識者として私が両存在の同属性を見つけられるのは、その思考によってのみである。

■06-02:《知覚の主観性》の生理学的証明を論破する

《知覚の主観性》では、その生理学的証明といわれるものが最も論破しづらい\footnote{訳注:《知覚の主観性》とは、外界の過程(たとえば空気の振動)と知覚(音)は別の実体であるという立場である。外界の過程は「物それ自体」であり、主観的体験の「音」との関連は見いだせないと考える。}。 皮膚を圧迫すれば、圧迫を知覚する。 同じ刺激を眼に加えると光の知覚、耳に加えると音の知覚が生じうる。 同じ電気刺激も、眼では光知覚、耳では音知覚、皮膚神経では接触知覚、嗅覚器官ではリンの匂いを感じる。 この事実からどのような結論が得られるだろうか。 「私は電気刺激(あるいは圧迫刺激)を知覚し、それに伴う光、音、特定の匂いなどを知覚する」というだけである。 眼が存在しなかったら、外界の力学的な波動の知覚に対する光知覚が存在せず、聴覚器官が存在しなければ音知覚も存在しない、等々というだけである。 知覚器官が存在しないならこれら全過程も存在しないなどと結論づける正当性はない。 眼における電気的過程が光知覚を呼び起こすという状況から、私たちが光として知覚するものは生体外では単なる物理的な運動過程であると結論する人がいる。しかし、ある知覚から別な知覚に移行しているだけで、知覚という領域からは一歩も出ていないことを彼はまったく忘れている。 「眼は外界の物理的運動過程を光として知覚する」と言うのだったら、「法則的に変化する対象物は運動過程として知覚される」と言ってもまったく正しいことになる。 12に分けた走る馬のモーションを順に円盤に描き、それを回転させると動きのアニメーションを作ることができる。 ただし、一連の馬の絵がちょうど覗き穴の位置に来たときにだけ見え、途中段階では見えないようにする。 すると、12枚の馬の絵が見えるのではなく、走る馬の姿が見える。

■06-03:知覚と表象の関係を見つける方法を探る

上述の生理学的事実を基に考えていっても、知覚と表象の関係は明らかにできない。 別なやり方で正しい道を見つける必要がある。

■06-04:知覚、思考、概念、表象の関係

知覚が私の観察領域に立ち上ってきた瞬間、私によって思考が発動される。 私の思考体系の一分枝、一つの特定の直観、一つの概念がその知覚と結びつく。 視界から知覚が消えると何が残るだろうか。 そこに残るのは私の直観であり、それは知覚の瞬間に作り出され、その特定の知覚と結びついた。 後になってこの結びつきをどれくらい活き活きと思い起こせるかは、私の精神的身体的な機能に左右される。 表象とは、特定の知覚に関連した直観であり、かつてある知覚に結びつきその知覚との関連で作られて残った概念に他ならない。 ライオンという概念は、ライオンの知覚を基に形成されるのではない。 しかし、ライオンについての私の表象は知覚において作り出される。 ライオンを見たことのない人に対しても、ライオンの概念は紹介することができる。 しかし、ライオンについての活き活きとした表象は、その人がライオンを知覚しない限り与えることはできない。

■06-05:概念は表象となって各個人の中に生きる

つまり、表象とは個体化した概念である。 これで、現実界の諸物体を表象で代表させられる理由が説明できる。 ある事物は、概念と知覚が合流した瞬間に、その現実の全容を見せる。 知覚によって概念は個的な形をとり、またこの特定の知覚につながる。 知覚毎にそれぞれ違った特性を持ちつつ概念は個々人において形をとり、その形で私たちの内に生き続け、対応する物体の表象を作り出す。 同じ概念と結びつく第二の物体と出会うと、それを第一の物体と同種と認識する。 同じ物体と再会した場合には、概念体系の中で対応する概念を見つけるだけでなく、その同じ対象物との固有の関係を伴った個体化された概念が見つけ出され、同一の対象物であることが認識される。

■06-06:知覚と概念を表象が結ぶ

つまり、表象は知覚と概念の間にある。 表象とは、ある知覚を指し示す特定化された概念である。

■06-07:経験とは個体化された表象の総和

私が表象できる事柄の総体を、私の経験と呼んで差し支えないだろう。 個体化された概念をより多く持つ人物は、豊かな経験を持つと言える。 直観能力を一切持たない人間は、経験を積み重ねることができない。 諸対象物とのつながりを結ぶ概念を得られないので、そうした諸対象物がすぐに視界から消えてしまうのである。 逆に、発達した思考能力は持ちながら、感覚器官が大雑把で知覚が十分に機能していない人も経験をあまり集められない。 何らかの方法で概念を得ることはできても、彼の直観には特定の物体に対する生き生きとしたつながりがない。 考えを持たない旅行者、抽象的な概念体系に生きる教養人、そのどちらにも豊かな経験を勝ち取る能力はない。

■06-08:私たちには外的現実とその主観的な代表が与えられている

現実は知覚と概念として与えられ、この現実の主観的な代表が表象として与えられている。

■06-09:知覚、概念、表象だけがすべてではない

認識だけが私たちの人格の表現であるとしたら、客体の総和は知覚、概念、表象で尽されるはずである。

■06-10:知覚は私たちの個とも結びつき、感情となって現われる

知覚は、思考の助けで概念と結びついて終わりなのではなく、特殊としての私たちの主観、つまり個としての自我とも結びつく。 こうした個人的な結びつきは感情として表現され、それは快不快という形で現れる。

■06-11:思考では宇宙につながり、感情では自己とつながる

思考感情は、前に考察した私たちの二重的本性に対応している。 コスモスの普遍的出来事を共に行う要素が思考であり、自己存在という狭い中に私たちを引き戻す要素が感情である。

■06-12:感情によって個としての違いが生じる

思考は私たちを世界と結びつける。感情は私たちを自分自身の中に戻し、私たちを個人にする。 もし私たちが単に思考と知覚の存在であったら、生活全体が何の起伏もなく無頓着になるだろう。 自分を単に自己として認識するだけであったら、私たちは完全に他と置き換え可能であろう。 自己認識と共に自己感情を、事物の知覚と共に快や痛みを感じることによって、私たちは個体存在として生きるし、そうした存在はそれ以外の世界との間に成立する概念関係だけで語り尽くすことはできず、それ自体で個としての価値を持つ。

■06-13:認識に比べ、感情は現実要素とは言えない

ここで、感情の営みを思考的観察よりも豊かな現実要素と見なしたいという誘惑があるかもしれない。 しかしそれにはこう反論する。「感情の営みとは、まさに私個人にとってのみ豊かな意味を持つ」と。 私の感情が宇宙全体に対して意味を持ちうるのは次のような場合だけである。 自己知覚の際の感情がある概念と結びつき、それを迂回路としてコスモスの中に位置づけられるときだけである。

■06-14:宇宙と個を両極に振れる人間

普遍的な森羅万象との共生、そして個としての存在、これらを両極として私たちの営みは絶えず振れ動いている。 思考においては、最終的には個は概念の単なる一サンプルとしての意味しか持たなくなる。 その思考という普遍的性質の高みに上れば上るほど、個的存在であり、完全に特定の個としての人格という特質は失われていく。 また外界での経験に自らの感情を共鳴させ、自己的営みの深みに降りれば降りるほど、私たちはユニヴァーサルな存在から離れていく。 そして、真の実体を持つ個とは、自らの感情を伴いつつ理念領域に最も高く上った者である。 普遍的理念を他人と共有しつつ、他人とは明らかに違う色彩を帯びた普遍的理念を自らの頭にしっかりと持つ人びとがいる。 逆にその人の独自性がまったく感じられない概念、血の通った人間から生れたとは思えないような概念を語る人もいる。

■06-15:立脚点毎に特定化が異なる

表象によって概念的な営みに個的な様相が与えられる。 実際、誰にでも世界を観察する際の自分自身の立脚点がある。 彼の知覚に彼の概念が結びつく。 彼は彼独自の仕方で一般概念を考えるだろう。 こうした特定化は、世界における私たちの立脚点毎に、そして生活環境と結びついた知覚空間毎にそれぞれ個性的である。

■06-16:それぞれの生体毎に特定化が異なる

特定化には、もう一つ別に各自の生体の特質によって決まる特定化もある。 実際、私たちの生体それぞれは、完全に特殊化した唯一の存在である。 知覚に対して私たちはそれぞれ特殊化した感情、つまり強度の異なる感情を抱く。 これが私たちの個としての人格である。 人生の場における諸々の特定化をすべて取り除いたときにそこに残るのが人格としての特定化である。

■06-17:感情を伴いつつ認識が広がっていく

考えを一切伴わない感情の営みはしだいに世界との関連を失わざるをえないだろう。 事物の認識とは、全体性を付与された人間の手から手へ、感情の営みの育成と発達を伴いながら伝わるだろう。

■06-18:概念が営みを行う際の媒体が感情である

概念が具体的な営みを獲得していくに当たって、まず感情がその媒体となる。

『自由の哲学』、第07章、認識に限界はあるか

■07-01:知覚、思考、認識の関係に対するいくつかの見解

「現実を説明するための要素は、知覚と思考という二つの領域に由来する」というのが、私たちが固めた足場である。 すでに見たように私たちの生体機構によって制約されているために、現実総体が私たちの狭い主観に限定され、とりあえずは二つに分かれて現れる。 認識ではこの二極分離を克服する。思考によって見て取られた概念を知覚に結びつけ、全体へと統合することでこの分離を克服する。 知覚と概念が一体となって組み合わされたものを存在そのもの(Wesenheit)とするが、それに対し、認識によって世界がその真の姿を現わす前の様子を現象世界と呼ぼう。 それゆえ次のように言える。私たちには世界は二分されて与えられ(二元論的)、それを認識によって一つにまとめる(一元論)。 この基本原則から出発する哲学は、一元論哲学あるいは一元論とされる。 それに対し、二世界理論あるいは二元論がある。 後者は、私たちの機構のせいで二分されただけで本来一体である現実から出発するのではなく、根本的にまったく異なる二つの世界を出発点にしている。 そして、一方の世界の説明原則をもう一方の世界に当てはめようとする。

■07-02:二元論の誤りの根源

二元論は、私たちが言う真の認識を誤って捉え、それを基盤に成り立っている。 二元論では存在全体をそれぞれ独自の法則を持つとされる二つの領域に分け、それらを表面的に対置させてしまっている。

■07-03:《物それ自体》は内容を持ち得ない

こうした二元論はある区別から出発する。つまり、カントが学問に導入し、今日もなお一掃しきれていない、知覚対象と《物それ自体》との区別である。 これまでの検討でわかったように、事物が個別化して与えられるのは知覚の側だけであり、またその原因は私たちの精神的機構にあった。 そして、思考によってその個別化を克服する。つまり、個別である知覚を法則に則って世界全体の中に位置づけるのである。 世界全体からの個別である部分、つまり知覚に規定されている限り、私たちは分離したままの状態で、私たちの主観の法則にしたがうだけである。 ところが、知覚総体を第一部分とし、《物それ自体》を第二部分として対置すると、哲学が迷走してしまう。 これは単に概念の遊びに過ぎない。 人工的な対極が作られ、その第二部分は何の内容も持ちえない。 個別の事物に対応させた第二部分に内容が得られるとしたら、それは知覚からしか汲み取りえないからである。

■07-04:《物それ自体》の二重の問題点

知覚と概念、この二つ以外のいかなる仮定も正当ではない。 《物それ自体》はこの不当なカテゴリーに属する。 二元論者は一方に仮定的世界原則を置き、もう一方に経験を置いているが、彼らが両者を関係づけられないのはしごく当然である。 仮定的世界原則が内容を持ちうるとしたら、経験世界から内容を借用し、しかもその借用しているという事実に自ら目を閉ざす場合だけである。 こうした借用をしないと、これは形式だけは概念の体裁をとっているものの、無内容な概念、非概念でしかない。 二元論者は普通、次のように主張する。「この概念の内容は私たちの認識では捉えられない。私たちが知りうるのは、そこに何が存在しているかではなく、そうした内容が存在するという点だけである」と。 二重の意味で二元論の克服は不可能なのである。 人は、物それ自体という概念の中に、経験世界から抽象化された幾つかの要素を持ち込む。しかしそれでも、豊かで具体的な経験という営みを、知覚世界から借用された幾つかの諸性質に還元することはできない。 デュ・ボア=レーモンは、知覚不能な物質である原子の位置や運動によって知覚や感情が成り立つと考え、次のように結論した。 物質的なものや運動によって知覚や感情が作り出される様子が満足に説明されることは決してない。 なぜなら、「何らかの必然にしたがっているはずの炭素、水素、窒素、酸素等の原子が、過去、現在、未来にどのような状態でどう運動するかは、決定的かつ永遠に捉えられないからである。 諸原子の協働によって意識が発生する様子など、どうしても見通せない」。 この論理展開には、こうした思考傾向の特徴がよく現われている。 (色や温かさなどを含む)豊かな知覚世界から位置と運動だけが選び取られている。 そして頭で考え出された原子の世界に、この二つの性質だけを与えている。 こうして自分たちで捏ねくりだしたものと知覚世界から借用した原則によっては、具体的な営みを解明できないと言って不思議がっている。

■07-05:二元論では世界を解明できない

二元論者はまったく無内容な概念それ自体と取り組み、世界を解明できていない。これは彼らが用いる上述の諸原則の定義からすれば当然である。

■07-06:一元論での「認識不能」は偶然的

いずれにしろ二元論者は、認識能力に克服不可能な限界を置かざるをえないとしている。 一元論的世界観の信奉者は、自分たちに与えられた世界の現象を説明するために必要なものは、すべて思考の領域にあるはずだと知っている。 そして、そこに到達できない場合があっても、それはたまたまの時間的、空間的な制約か、あるいは自分が持つ何らかの生体的な欠落が原因である。 しかしそうした欠落にしても、人間存在における原理的な欠落ではなく、特定の個人における偶然的な欠落である。

■07-07:事物では一体である法則と現象を自我において再統合する

私たちが確定した認識概念では、認識の限界など話題にもならない。 認識とは、宇宙に厳然と存在する一般的な事柄ではなく、人間が自らとのかかわりで行なう作業なのである。 事物は何の説明も求めない。 それらは法則にしたがって存在し相互に関連し合っている。そしてその法則は思考によって解明しうるのである。 事物はこれらの法則と不可分な一体となって存在する。 私たちの自我が事物と向き合い、そこからまず私たちが言う知覚の側だけを捉える。 しかしこの自我は、現実のもう一つの部分を見い出す能力を内に持っている。 現実とは世界にあっては二つの面が不可分に結びついているが、自我はこの二面を自らの内で一つに結び合わせ、それによって認識的満足を得る。自我は自我の次元で現実に達するのである。

■07-08:問いは自我が立て、自我によって解明される

認識が成立する前提条件は、自我がそれを求めること、さらに自我を介してそれを得られる可能性があることである。 自我は自分自身において認識への問いを生む。 その詳細を見ると、自我はそれらの問いを、完全に明晰で透明な思考という要素から持って来ている。 自分で立てた問いが自分では答えられない場合は、問いの内容が細部まで明確でない可能性がある。 世界が私たちに問いを立てるのではなく、私たち自身が立てるのである。

■07-09:自我からの問い以外は解明不可能

私たちがまったく知らない領域から何らかの問いが生じ、その問いがどこかに書き付けられていても、それには答えられないという可能性は考えられる。

■07-10:自分の内からの問いは原理的に解答可能

私たちが言う認識では、知覚空間と概念空間が向かい合うことで私たちに生じる問いを取り上げている。そして、知覚空間は場所、時間、主観的機構に制限されるのに対し、概念空間は世界の全体性につながっている。 私の課題は、このよくわかっている二つの領域に橋を架けることである。 そこでは認識の限界などは存在しない。 生活のある場において、何らかの時に何らかの問いが、それに関与する事物を知覚できないために答えられない場合もありうる。 しかし、その事物は今日見つからなくても明日には見つかるだろう。 こうした理由で生じる制限は一時的なもので、知覚と思考が進歩すれば克服可能である。

■07-11:二元論の思考過程

二元論の誤りは、知覚領域でのみ意味を持つ主観と客観という対極を、それとは別のまったく架空の存在に投影してしまったことにある。 思考はあらゆる個別化が単に主観的な限定であることを認識し、それを克服する。 そして知覚の地平にあっては、諸事物が個別化しているのは知覚者が思考を止めているときだけである。 したがって二元論は、知覚の背後にあるとされる存在性に、その有効性が絶対的ではなく相対的でしかない(主観と客観という)規定を拡張してしまっている。 こうして二元論者は、認識の過程における知覚と概念という二つの要素を四つに分ける。
  1. 客体それ自体
  2. 主体が客体から得る知覚
  3. 主体
  4. 知覚を客体それ自体に結びつける概念
客体と主体の関係は(物質的に)リアルである。主体は実際に(動的に)客体から影響を受ける。 このリアルなプロセスは私たちの意識には入り込まないとされている。 しかしこのプロセスは、客体からの作用によって主体内で反作用を起こすとされる。 この反作用の結果が知覚だというのである。 この知覚が初めて意識に入り込む。 客体は(主体からは独立した)客観的現実であり、知覚は主観的現実であるという。 この主観的現実が主体を客体に関連づけるとされる。 また、この関連は理念的とされる。 二元論者は、このように認識プロセスを二つの部分に分けている。 一方の側、《物それ自体》からの知覚客体の生成は意識外とされ、 もう一方の側、知覚と概念の結合ならびに客体への概念的関連づけは意識内で起きているとされる。 こうした前提条件からすれば、二元論者が、自らの概念の中に得られるのは彼の意識の眼前に存在するものの主観的代替物に過ぎないと思い込むのも当然である。 こうした二元論者にとっては、知覚によって主体内に生じる客体的でリアルな過程、あるいはそれ以上に客体的関係である《物それ自体》は直接認識することは不可能である。 彼らの考えでは、人間は客観的にリアルなものの概念的代替物を作り出せるだけである。 諸事物同士を結び付け、さらに(《物それ自体》としての)私たちの個的精神と事物とを結びつける一体化の帯は、意識では捉えられない側にあり、私たちの意識ではその概念的代替物しか得られないと言う。

■07-12:二元論は理念的関連を現実とは見ない

二元論の考えでは、諸対象間の概念的関連だけでなくリアルな関連を確立できないと、世界全体が抽象的概念シェーマに解消してしまうとされた。 別な言い方をしよう。二元論者にとっては、思考によって発見しうる理念的諸原則はあまりに空疎に見えたので、世界の支えとなりうるリアルな諸原則を探した。

■07-13:何をリアルと見るか:素朴実在論の見解

このリアル性の原則を詳しく見てみよう。 素朴実在論者は外的に経験される対象物を現実と捉えている。 こうした事物を目で見たり手で掴んだりできるという状況が、彼にとってはリアル性の証拠なのである。 「知覚できないものは何も存在しない」とは、素朴実在論的にはほぼ第一公理である。そして「知覚しうるものはすべて存在する」という対偶命題も同様に認める。 こうした素朴な人が不死性や幽霊を信じている点は、この主張の端的な証明になっている。 彼らは魂を繊細な物質的素材と考え、この物質は特別な条件下では普通の人にすら見えるとしているのである(素朴な幽霊存在信仰)。

■07-14:素朴実在論では考えを現実とは見ない

素朴実在論的には、彼らにとってリアルなこの世界以外のすべて、つまり理念世界は現実ではなく単に《理念的》である。 対象物に考えを付加的に対応させるにしろ、その考えとは単にその事物についての考えに過ぎない。 知覚に対し、考えは何らリアルなものを付け加えない。

■07-15:他対象への作用も知覚可能と考える

しかし素朴実在論では、知覚可能であれば事物が実際に存在することの証拠とするが、経過についても知覚可能性がそのリアルさの証拠になる。 その見解では、ある事物の他の事物への作用とは、一方から知覚可能な力が発せられ、他方に作用を及ぼすことにある。 かつての物理学者は、物体から微細な物質が流れ出し、それが感覚器官を通って魂にまで及ぶと考えていた。 この微細な物質は非常に純粋であり、それに対する私たちの感覚器官があまりに大雑把なので、それは実際には知覚されえない。 しかし原則的には、感覚界の対象物を現実とするのと同じ根拠で、この繊細な物質を現実としている。つまりその微細な物質の存在形式を、感覚知覚可能な現実の存在形式と同じであると見なしている。

■07-16:理念や神も知覚されることで現実とされる

素朴な意識の人は感覚的に体験可能な事柄を現実とするが、理念的に体験可能でそれ自身で完結している存在本性に対しては同等のリアル性は認めない。 《単なる理念》とされる対象は、感覚知覚によってリアル性を裏打ちされなければ、幻想のままである。 簡単に言ってしまうと、素朴な人は思考の理念的な確信だけでは満足せず、感覚的リアル性を要求する。 素朴な人間のこうした要求が基盤となって、原始的な形式である啓示による信仰が生じた。 思考によって与えられる神とは、素朴な意識にとっては常に考え出された” 神に過ぎない。 素朴な意識は、何らかの感覚知覚できる手段がないものは現実とは認めない。 神は身体を持って現われなくてはならず、水はワインに変容しなくてはいけない。つまり神性の確認にとっては、感覚的確認の方が、思考による確信より重要なのである。

■07-17:認識も知覚からのアナロジーで考える

素朴な人は、認識自体をも感覚的プロセスとのアナロジーで捉えている。 事物が魂に印象を与える、あるいは事物が感覚によって捉えうる像を送り出すなどと考えている。

■07-18:知覚と知覚からのアナロジーが基本原理

素朴な人は、感覚知覚しうるものを現実とし、(神、魂、認識など)知覚しえないものは感覚知覚しうるものからのアナロジーで捉える。

■07-19:素朴実在論の学問は現実の記述であり、類は存在しない

素朴な意識の元において学問を構築するなら、それは知覚内容の正確な記述である。 そこにおいて、概念は単にそのための手段でしかない。 概念とは、対応する理念的な像を諸知覚に付与するために存在する。 それは事物そのものにとっては何の意味も持たない。 素朴実在論者にとっては、見えている、あるいは見うる個々のチューリップが現実である。チューリップの理念とは、彼にとっては抽象であり、すべてのチューリップに共通する諸特徴から魂が組み上げた非現実的な思考像でしかない。

■07-20:理念的なものを知覚からのアナロジーで考える例

知覚されたものはすべて現実であるというのは素朴実在論の基本定理である。 しかし、知覚内容はすべてその場で消えていくという経験は、その基本定理を否定する。 私が見ているチューリップは、現在は現実である。しかし一年後には無へと解消しているだろう。 ここで主張されたのは、としてのチューリップである。 しかし、属とは素朴実在論にしてみれば《単なる理念であり、現実ではない。 したがってこの世界観では、現実を現われては消えるものと見ている一方で、彼らの見解では非現実であるものを現実に対置している。 素朴実在論では、知覚の他に何らかの理念的なものを現実と認めざるをえない。 感覚では知覚しえない存在を、自らの考え方に取り込まなくてはならない。 こうして、知覚しえない存在を感覚的対象物とのアナロジーで考えることで自説と折り合いをつけているのである。 感覚知覚される事物同士の間で作用する不可視な諸力は、そうした仮定的現実とされるだろう。 各個体を超えて作用し、個体からその個体と似た新たな個体を発生させ、属を保っていく遺伝というものも、そうした仮説的現実に当たる。 生体に浸透している生命原理、素朴な意識では常に感覚的現実とのアナロジーで作られた概念で語られる魂、素朴な人にとっての神的存在、これらも仮説的現実である。 こうした神的存在の働きかけ方は、知覚しうる人間自身の働きかけ方とまったく同等のものと考えられている。擬人化である。

■07-21:物理学は素朴実在論を基礎としている

現代物理学では、感覚知覚を身体の微小部分での変化や、無限に繊細とされるエーテルなどの変化に還元している。 たとえば温かさの知覚は、熱源物質が占める空間における微小部分の運動とされている。 ここでも、知覚不能なものを知覚可能なものからのアナロジーで考えている。 ここでの感覚的アナロジーによる《物体》概念は、完全密閉空間内における弾性小球のあらゆる方向への運動であり、他の小球や壁との衝突や反発等々と考えられている。

■07-22:素朴実在論の根本的な問題点

こうした仮定がないと、素朴実在論における世界では、一体的結びつきが存在せず、諸知覚の無関連な集合体に陥いる。 しかし、素朴実在論がこの仮定を貫徹できないのも明らかである。 「知覚されたものだけを現実とする」という基本定理に忠実であろうとするなら、知覚不可能なものを現実と仮定することはできない。 知覚可能な物体から発せられる知覚不能な諸力という仮説は、素朴実在論の立脚点からすれば本来、不当である。 素朴実在論では知覚以外に現実が存在しないので、自らの仮説的諸力を知覚内容で補填するのである。 素朴実在論が存在形式に対して言えるのは「感覚的な知覚」が成り立つか否かだけであるのに、それを語る手段すらない領域に対しても知覚的存在という存在形式を適用してしまっている。

■07-23:素朴実在論から形而上的実在論への移行

この矛盾に満ちた世界観は形而上的実在論につながる。 知覚可能な現実の他に、それとのアナロジーで知覚不能な現実を構築するのである。 それゆえ、形而上的実在論は必然的に二元論である。

▲形而上的実在論は何をリアルと見るか

■07-24:何をリアルと見るか:形而上的実在論の見解

形而上的実在論者は、知覚可能な諸事物間の関係に気づく地点(近似的には運動や対象の意識化など)を現実と見なす。 とは言うものの、そこで彼が気づく関係は、本来、思考にのみ現われるもので、知覚として現われることはない。 理念的な関係を、無理矢理、知覚可能なものに見せかけている。 この考え方にとって現実界とは、知覚客観と知覚不可能な諸力の組み合わせであり、知覚客観は永遠なる流転にあって現われては消えるものであり、永続的で知覚不能な諸力が知覚客観を作り出すとされる。

■07-25:形而上的実在論では理念を想定しながらそれを現実と認めない

形而上的実在論とは、素朴実在論と観念主義の矛盾に満ちた混合物である。 そこで仮定される諸力は、知覚的質を持ちながらも知覚不可能な存在である。 形而上的実在論では二つの世界領域を認めている。つまりその存在形式を、知覚によって確認する世界領域と、知覚では確認できず、思考によってのみ知りうる世界領域である。 しかし同時に、思考によって伝えられる存在の形式、つまり概念(理念)要素に、知覚と同等の正当性は認めていない。 知覚不能な知覚という矛盾に陥りたくないなら、思考を介して知りうる諸知覚間の関連が、私たちにとっては概念という存在形式を取らざるをえない点を認めなくてはならないはずである。 形而上的実在論から誤った部分を取り除くと、世界とは諸知覚の総和とそれらの概念的(理念的)関連として表現される。 このように形而上的実在論は、知覚に対しては知覚可能性という原則、諸知覚間の関連に対しては思考可能という原則を軸とする世界観へ導かれる。 この世界観では、知覚界と概念界以外の第三の領域は認めず、いわゆる現実原則と理念原則を同等に是認する。

■07-26:形而上的実在論の根本的な問題点

形而上的実在論は、感覚客観と感覚主観の間に理念的な関係の他に、知覚対象の側の《物それ自体》と知覚主観の側の《物それ自体》(いわゆる個人精神)との間に何らかのリアルな関係が存在するはずであると主張する。しかしこの考えの基礎となる仮定、つまり感覚プロセスとのアナロジーで考えられた知覚不能な存在プロセスという仮定が間違っている。 形而上的実在論者はさらに「私の知覚世界と私は意識的・理念的関係にある。しかし現実世界とは、動的(力的)関係にある」とすら言うが、これは前述の誤りにさらに上塗りしているにすぎない。 力的関係とは知覚世界(触覚の領域)の範囲内だけで有効であり、その範囲外では意味をなさない。

▲一元論による認識の吟味

■07-27:矛盾を取り除いた世界観を《一元論》とする

形而上的実在論から自己矛盾的要素をそぎ落とすと、自然に上述のような世界観に導かれるが、これを私たちは一元論と呼びたい。なぜなら、それぞれ一面的である現実主義と観念主義をより高次の段階で統合するからである。

■07-28:諸知覚の理念的関連が自然法則である

素朴実在論にとっての現実世界とは知覚客観の総和である。形而上的実在論では、この知覚の他に知覚不能な諸力を現実として加える。一元論ではこの諸力の代わりに、思考によって得られる理念的関連を置く。 そうした理念的関連とは自然法則である。 自然法則とは、一連の知覚間に成り立つ関連を概念的に表現したものに他ならない。

■07-29:他の知的存在の認識は問題にしない

一元論においては、現実の説明原理として知覚と概念以外のものを付け加える必要はない。 また、現実界のどこを見渡しても、そう考えるきっかけが見つからないこともわかっている。 さらに、直接に知覚しうる知覚世界を現実の半分と見なし、知覚世界と概念世界が結びつくとき、現実が全体となると考える。 形而上的実在論者は、一元論者に次のような反論をするかもしれない。 「あなた自身の(精神的肉体的)機構にとっては、あなたの認識はそれ自体で完結し、欠ける部分はないかも知れない。しかし、あなたとは違った機構を持つ知性に世界がどう映し出されているかはわからない」と。 これに対し一元論者は次のように答えるだろう。 「人間とは別な知性が存在し、その知性による知覚が私たちのものとは異なるとするなら、私に意味があるのは、その知性が知覚したものから私の知覚と概念が切り取った部分だけである」。 私は私の知覚、さらに言えばこうした人間特有の知覚を介して、主観として客観に向き合う。 これによって諸事物の関連は分断される。 主観は思考によってこの関連を再び結びつける。 こうして世界が全体へと再統合される。 この全体は、私たちの主観によって私たちの知覚と概念の間で分断されているように見えるだけなので、知覚と概念を結びつければ真の認識が得られる。 (たとえば感覚器官の種類が二倍であるような)異なる知覚世界を持つ存在にしてみれば、上述の関連は別な箇所で分断され、それを再構成するにしてもこの存在に特有な形を取るはずである。 素朴実在論も形而上的実在論も、魂内の内容を現実世界の理念的代替物と見なしているので、認識の限界という問題が生じる。 どちらの考えでも、主観の外にあるものだけが絶対的、自己完結的であり、主観の内容はこの外的絶対物の像にすぎないとしている。 そしてより完全な認識とは、像がこの絶対的客観により似ている場合である。 人間より少ない感覚しか持たない存在では、世界をより少なく、多く持つ存在ではより多く知覚するだろう。 そして、前者の認識は後者よりも不完全である。

■07-30:客観は主観のあり方で切り取られ方が変る

一元論では事情は違っている。 世界関連がどこで主観と客観に分断されて現われるかは、知覚者が持つ(精神的肉体的)機構による。 客観とは絶対的ではなく、この特定の主観との関係によって決まる相対的なものである。 それゆえこの分断は、まさに人間主観に特有なやり方、人間だけのやり方で克服されるのである。 自我は、知覚においては世界から切り離されるが、思考的考察において再び自らを世界関連に結びつける。すると、分離に伴って生じたあらゆる疑問がただちに解消する。

■07-31

構成の異なる存在では、認識のあり方もまた異なるはずである。 しかし私たち自身の存在から生じる問いに答えるためには、私たちの構成で十分である。

■07-32

形而上的実在論はこう問うに違いない。 「知覚として与えられたものは、何を介して与えられているのか。主観は何によって触発されるのか」と。

■07-33

一元論からの回答では、知覚は主観によって制限される。 しかしそれと同時に、この主観は思考においては媒体であり、それを介して主観自身が引き起こした制限を再び解消するのである。

▲形而上的実在論は帰納主義を前提にする

■07-34:形而上的実在論では他人との共通理解を根拠づけられない

別々な個人の世界像が似ていることを説明しようとすると、形而上的実在論はさらにもう一つの困難に直面する。 形而上的実在論はこう自問しなくてはならない。 「私の主観に規定された知覚と私の概念から作り上げられた世界像が、別人の主観的知覚と主観的概念から作り上げられた世界像と一致するのはどうしてなのか」。 「どうしたら私の主観的な世界像が他人のそれと関係づけられるのか」と。 形而上的実在論者は、人々がお互い同士で現実に折り合いをつけていることから、主観的世界像は類似していると考えている。 複数の世界像が類似することからさらに進めて、形而上的実在論者は、個々の人間的知覚主観の根底にある個的霊性、あるいは主観の根底にある《自我それ自体》が同じであると結論する。

■07-35

この結論は、形而上的実在論の根底にある諸原因の特徴を反映している。 事例が十分であれば、推定される原因から次に何が起こるかがわかる、というくらいに事の成り行きが明らかになると思っている。 これを帰納的結論と呼ぶ。 観察結果は毎回毎に特徴が違うので、観察を続けると予期せぬことが生じ、結論を変更することはいくらでもあるだろう。 原因に対する認識が不完全であっても、現実生活上では十分に事足りると形而上的実在論は主張する。

■07-36:形而上的実在論はかつては理念から、今は知覚から根拠づけられるとされる

帰納的結論とは、現代の形而上的実在論にとっての方法論的基盤である。 かつて、非概念的な何かを概念から導出できると信じていた時代があった。 形而上的実在論者にとってはいつかは形而上学的現実存在が必要になるが、その形而上学的現実存在を概念によって認識できると信じていた。 この種の哲学議論は、現在ではすでに論破されている。 にもかかわらず、十分量の知覚的事実があれば、こうした事実の根底に存する物それ自体の特徴を捉えられると思っている。 かつては概念から導き出そうとしたことを、今日、形而上的実在論は知覚から導き出せると言うのである。 概念は透明で明確なので、そこから形而上学的にも絶対確実なものを導き出せると信じていた。 しかし知覚にはそれと同等な透明さはない。 同種のものであっても、現われる度にどこか違っている。 事柄から導いた以前の結論は、基本的に以後の事柄によって必ず変更される。 こうしたやり方で形而上的実在論が手にするものは相対的正当性と呼べるだろう。これは、常に将来の事例による訂正を受ける可能性がある。 エドゥアルト・フォン・ハルトマンの形而上的実在論は、こうした方法論的基盤を反映した特徴を持つ。 彼の最初の主要作の表紙に掲げられたモットーは「帰納的自然科学的方法による思索的結果」であるし、この言葉にその特徴が端的に示されている。

■07-37:形而上的実在論の思考の道筋

形而上的実在論者が現在、《物それ自体》と言っているものは帰納的結論として得られている。 知覚と概念を介して認識しうる《主観的な》関連の他に、世界についての客観的・現実的関連が存在することを、形而上的実在論者は認識プロセスを熟考することで確信しているのである。 この客観的現実の性質については、諸知覚を基に帰納的結論によって決定できると信じている。

★1918年新版への補足

■07-38a:光線スペクトルの不可視部分をどう考えるか

これまでの論述では知覚体験と概念体験の囚われのない観察を取り上げたが、ある自然科学的な考え方が絶えずこうした観察を妨げてきた。 自然科学的立場からはこう言われる。「目では、赤から紫までの色彩が光スペクトルとして知覚される。 しかし、その紫の外側にもスペクトルがあり、それは色彩としては知覚されないにしろ化学的作用を及ぼし、同様に赤の外側にも知覚されないにしろ熱作用だけを及ぼす放射線がある」と。 これに類する現象を熟考すると次のような見解にたどり着く。 「人間の知覚世界の広がりは、人間が持つ感覚に規定されていて、感覚がさらに増えるか、あるいはまったく別様になるかしたら、感覚世界もまったく違うものになる」と。 この方向でさらにファンタジーが度を超えると、つまり最近の輝かしい自然科学的発見に誘惑されると、次のような考えにまで到りうるだろう。 「人間の観察領域で捉えられるのは、人間生体に備わった感覚器官に作用を及ぼすものだけである。 生体的制約を受けた知覚によって捉えられるものだけを主要な現実と見なすことには何の正当性もない。 何らかの新しい感覚が加われば、現実像も別なものになっていくはずである」と。

……相応の範囲内であればこれらの見解はすべてまったく正しい。 また、これまで述べた知覚と概念の関係は、囚われのない論考で正しいことを確認してきた。 ところが、この見解の影響で知覚と概念の正しい関係を見られなくなってしまうと、現実に根差した世界認識や人間認識への道が閉ざされてしまう。

■07-38b:知覚可能領域が広がっても思考による補完を必要とする

概念世界における活動的作業である思考本質の体験は、感覚知覚可能なものの体験とは決定的に違う。 人の感覚がどれだけ幅広くなっても、感覚知覚に思考的概念を浸透させなければ現実は決して得られない。 そして、通常の感覚のどれを介しても、人間には現実に入り込む可能性が与えられている。 「現実世界に人間はどのように存在しているか」という問いは、別種の感覚によって可能になる別種の知覚像というファンタジーには何の影響も受けない。 あらゆる知覚像が知覚存在の生体機構相応であることは見通していなくてはならない。しかしまた同時に、人間が現実に迫るのは、知覚像を思考的考察で裏打ちすることによってであることも見通していなくてはならない。 人間とは違った感覚を持つ存在から見た世界像を想像たくましく描写しても、人間と世界との関係を認識するようには促されない。 そうではなく、どの知覚によっても、その知覚を包括する現実の一方の部分しか得られず、知覚だけでは知覚本来の現実には達していないことを洞察することによって促されるのである。 この洞察でさらに別な面にも迫る。つまり、知覚自体には隠されている現実の部分に入り込んでいくのが思考であることがわかる。

■07-38c:物理学では知覚不能領域に感覚界の概念を敷衍している

物理学の経験領域では必然的に、肉眼で見える諸要素ではなく、電気力線、磁気力線といった目に見えない微細なものを扱うようになった。そのことが妨げとなって、ここで述べてきた思考によって作り上げられる概念と知覚との関係を囚われなく観察できなくなっている。 物理学が言う現実要素が、知覚可能でもなく、活動的思考によって作り出される概念でもないように見えるかもしれない。 しかし、そうした見解は自己誤認から生じている。 もちろん誤った仮説は問題にすべきではないが、とりあえずは、物理学で作り上げられてきたものすべてが知覚と概念から得られている点が重要である。 物理学者は健全な認識本能から、表向きは目に見えない内容も、知覚の領域に置き換え、この知覚領域に関連する諸概念をもって考えている。 電場や磁場などの場の強度を求めるにしても、本質的には知覚と概念の相互関係からなる認識過程以外は用いていない。

■07-38d:認識の本質は知覚可能領域の大きさに左右されない

……感覚が増えたり別なものになったりしたら、知覚像は別のものになり、経験はより豊か、あるいは別様になる。しかし、こうした別様な体験についても、真の認識が得られるのは知覚と概念の相互作用によってであるはずである。 認識をどれだけ深化させられるかは、思考内で活動する直観力(05-25段落参照)にかかっている。 直観では、思考内で織り成されるまさにその体験において、その深さに差はあれ現実の根底に沈み込むことができる。 知覚像が拡張することでこの深みへの沈み込みが触発されうるし、このやり方で間接的に促しもする。 現実への到達という意味でのこの深みへの沈み込みと、知覚像の拡張あるいは縮小は別である。この一点だけは決して混同しない方がよいだろう。 知覚像では常に現実の半分しか与えられていないし、さらにはその現実も認識する生体に応じて限定されている。 色や音とは異なり、感覚では直接的に決定できない要素があり、物理学においては、そうした要素が知覚領域に存在すると仮定せざるをえないという事実がある。そして、この事実が人間存在の認識にどう関係するかを、抽象化に陥らない人なら洞察するだろう。 つまり、具体的な人間の本質とは、生体機構を介して直接に眼前に知覚として与えられたものだけに規定されるのではなく、この直接知覚以外は除外することによっても規定されている。 意識的な覚醒状態の他に無意識な睡眠状態が必要なように、人間の自己体験に対しては、感覚知覚的環境の他に、……それよりもさらに大きな……感覚知覚の母体的フィールド内の感覚知覚不能要素からなる環境が不可欠である。 これらすべては、すでに本文の中で間接的に述べられている。 著者はここで内容を拡張し補ったが、それは多くの読者が十分に正確に読み取っていないことを経験したからである。

■07-38e:本書では概念を通常の意味より拡張する場合がある

……忘れてはならないのは、本書で論考してきた知覚を単なる外的な感覚知覚と誤解してはならない点である。 感覚知覚は知覚理念の特殊形にすぎない。 本書では、感覚的あるいは精神的な何かが人間に近づいたときに、それが概念的な活動によって把握される以前の状態を知覚としている。それはここまでの記述で明らかだろうし、これ以降の論述ではさらにはっきりするだろう。 魂的あるいは精神的な知覚のためには、通常の意味での感覚は必ずしも必要ではない。 通常はこうした用語の拡張は許されていないだろう。 ある領域において、認識を拡げるにあたって用語法をその妨げにしたくない場合には、用法の拡張がどうしても必要である。 知覚という語を感覚的知覚という意味だけで使うなら、こうした感覚的知覚を超えた認識にも使える概念は得られなくなってしまう。 場合によって人は概念を拡張しなければならず、それによってある狭い適用範囲でその概念に意図に沿った意味を持たせるのである。 ある概念にさらなる考えを付け加えなくてはならないこともある。それによって、最初の考えをより適切に補完したり、適切な位置に置くのである。 その関連では、本書の06-05段落で「つまり、表象は個体化された概念である」と述べた。 この用語法に対し、一般的ではないという反論を頂いた。 しかし、表象そのものの背後に回ろうとするなら、どうしてもこの用語法をとらざるをえない。 概念をより正しいものにしようという必然に迫られている人間に対し、いちいち「その用語法は一般的ではない」と反論していたら、認識の進歩などありえない。

『自由の哲学』、第08章、人間的営みの諸要因

■08-01: 

前章までの成果を確認しておこう。 世界は、多様なるもの、つまり個別存在の総和として人間の前に現われる。 人間自身もこの個別存在の一つ、存在の中の一存在である。 世界のこうした姿は与えられたものである。つまり、私たちが意識的な活動で作り上げたものではなく、すでにそこにあって知覚されるからである。 この知覚世界の中で、私たちは私たち自身を知覚する。 この自己知覚は他の無数の知覚と区別される。その理由は、この自己知覚の中心から何かが現われるからである。 そしてこの何かとは、自己知覚を含めたすべての知覚を一括して私たちの自己に結びつける役割を担っている。 ここに現れ出る何かとは、単なる知覚ではない。 また、他の知覚はすでに出来上がったものとしてそこに見られたが、この何かはそうではない。 これは活動によって作り出される。 これは、とりあえずは私たちの知覚としての自己と結びついている。 しかし内的な意味で見れば、それは知覚としての自己を越えている。 それは個々の知覚を理念的規定で裏打ちする。またその理念的な個々の規定は、相互に関連し合いながら、一つの全体をなしている。 知覚が理念的に規定されるのと同様に、自己知覚も理念的に規定される。 つまり、主観あるいは《自我》として客観(客体)に対置する。 この何かとは思考である。そして、理念的規定とは概念と理念である。 思考はまず初めに自己知覚において現われる。しかしそれは単なる主観的なものではない。 なぜなら、自己が自分を主観と見なすことができるためには、事前に存在する思考の助けがなければならないからである。 自分自身に対するこの思考的関連とは、人格という存在規定である(注)。 この人格という存在規定によって、私たちは純理念的な存在へとつながる。 人格という生存規定を介して、私たちは自分を思考存在と感じる。 私たちの自己に対する規定がこの人格という存在規定だけだったら、それは純粋に概念的(論理的)なものにとどまったはずである。 そうだとしたら私たちは知覚相互の理念的関連や知覚と私たち自身の理念的関連を作り出すものの、それしか作り出せない存在だったはずである。

(注:内容)訳注:人格(パーソナリティ)の意味。鏡を見たら自分の姿がまったく別人になっていたとしよう。すると「これは私じゃない」と叫ぶかもしれない。このことから、叫んでいる《私》と、変身前の姿であっても知覚像としての自己は別であることがわかる。さらにこの《私》は知覚されえない存在であり、思考的直観によって捉えられることがわかる。この《私》に当たるものを《人格》としている。}

■08-02: 

そうした思考的関係の確立を認識と呼び、さらに認識に到った自己状態を知と呼ぶ。 したがって上述の状態を前提とすると、私たちは単なる認識する存在、あるいは知る存在にすぎない。

■08-03: 

しかし、この前提は当てはまらない。 知覚を自身に関連づけるやり方は、概念を介する理念的なものだけではなく、感情によるものもある。 つまり私たちは概念的な営みを行っているだけではない。 素朴実在論者はそれどころか感情の営みの方が純理念的な営みよりも現実的と見なしている。 素朴実在論者のやり方で事柄を整理すれば、彼らにとってこれはまったく正当である。 感情と知覚は、感情が主観の側から、知覚は客観の側から来るにしろ、まったく同じものである。 「知覚されうるものはすべて現実的である」という素朴実在論の根本命題にしたがえば、感情は自己人格という現実に属する。 しかし私たちが展開する一元論では、感情に対しても、知覚に対してもそれらを現実として完全なものにするためには、ある補完が必要であった。 感情もそれが出現した最初の形式では概念や理念といった第二要因は含まず、私たちの一元論では現実として不完全である。 それゆえ人間の営みにおいては、知覚と同様に感情も認識の前に置かれる。 私たちが自己を感情において捉えるのは、まず存在の終末端においてである。 そして、発達と共に徐々にある地点に到達する。 おぼろげに捉えられた感情としての自己存在から、概念としての自己が現れ出る地点である。 私たちにとって後になって現れてくるものが、感情と根源的に分ち難く結びついている。 こうした状況から、素朴な人は次のような考えに陥る。 「自分の存在が現れるのは、感情においては直接であり、知においては間接的である」と。 それゆえ彼には、感情の育成が何にもまして重要と思える。 また彼が世界の関連を捉えたと思うのは、それを感情で受け取ったときだろう。 認識の手段を、知にではなく感情に求める。 感情とは完全に個的なもので、知覚と似たようにやって来る。 それゆえ感情哲学者は、本来、人格内でのみ意味を持ちうる個的原則を、世界原則にまで拡張する。 彼自身の自己を伴って、あらゆる世界に入り尽くそうとする。 私たち一元論者は事柄を概念で把握しようと努めるが、感情哲学者はそれを感情で得ようとし、この対象との一体化を直接的なものと見なしている。

■08-04: 

今述べた考え方、つまり感情哲学はしばしば神秘主義と呼ばれる。 感情だけを基礎とする神秘主義的観方には次のような誤りがある。 つまり、本来、知るべき事柄を体験しようとすること、また感情という個的なものを包括的なものにまで敷衍してしまうことである。

■08-05: 

感情とは完全に個的な行為であり、主観に降りかかる外界との関連であり、その限りにおいてこの外界との関連は単に主観的体験として現われる。

■08-06: 

人間の人格にはもう一つ別な現われ方もある。 自我が思考を介して普遍的な宇宙の営みと共に生きるのである。 自我は思考を介して純理念的(概念的)に知覚を自我に関連づけ、自らを知覚に関連づける。 そして自我は感情内で、客観との関連が主観に及ぶのを体験する。しかし意志では逆のことが成り立つ。 意志も私たちにとっては知覚であるが、意志内では自己との個的な関係が客観(対象)に及ぶのを体験する。 意志における純理念的要因でない部分は知覚の対象であり、それは外界の何らかの物体が知覚対象であるのと同じである。

■08-07: 

この意志においても素朴実在論は、思考を介して得られる実在性よりもはるかに現実である何かを手にしていると信じるだろう。 素朴実在論は、意志の中にある要素を見るし、その要素の中においては原因を直接に知る。 思考においては概念をもってはじめて出来事を捉えるのとは対照的である。 自我が意志を介して実現することとは、素朴実在論にとっては直接体験できるプロセスなのである。 この哲学の信奉者は、意志において宇宙事象の末端を現実に捉えられると思っている。 意志以外の事象は知覚を介して外側からたどりうるにすぎないのに対し、意志内の事象は直接に現実として完全に体験されると思っている。 この哲学では、意志が自己内で現れる際の存在形式が現実界の実体原則とされる。 彼自身の意志は、普遍である宇宙事象の特殊として現出する。したがって、普遍である宇宙事象とは普遍的な意志でもある。 感情神秘主義が感情を認識原則としたのと同様に、ここでは意志が宇宙原則になる。 この見解が意志哲学(テリズムThelisumus)である。 個的にしか体験されないものが、意志哲学では宇宙を構成する要因にされている。

■08-08: 

感情神秘主義を学問とは呼べないのと同様、意志哲学も学問と見なすことはできない。 概念的探究では宇宙を把握できないというのが両者に共通の見解だからである。 両者共に存在に対し、理念的原則だけではなくもう一つ別な現実原則を要求している。 これには正当なところもある。 しかし、ここでの言わゆる現実原則では把握手段を知覚だけとしているので、感情神秘主義も意志哲学もまったく同等で、「認識においては、思考と知覚の二つの源泉があり、後者の知覚は感情内や意志内で個的に体験される」という見解をとる。 体験という源泉からの一方の流れと思考という源泉からのもう一方の流れは、これらの世界観では直接にはつながらないので、知覚と思考は高い意味での合流はなく、並存するだけである。 知を介して到達できる理念原則の他に、思考では把握されないものの体験されるはずの現実原則が存在するというのである。 言い方を変えよう。感情神秘主義と意志哲学は素朴実在論である。なぜなら、直接に知覚されるものは現実であるという命題に忠誠を誓っているからである。 ただ、本来の素朴実在論と比べるなら、この両者は首尾一貫していない。 つまり、「知覚されたものが現実である」という命題を基礎にしておきながら、(感情もしくは意志という)限定された知覚形式だけを存在性の確認手段としている点である。 これらの見解は本来、外的知覚にも同等な認識的価値を認めなくてはいけないはずである。

■08-09: 

意志は主観内での直接体験であるが、直接体験が不可能であるはずのまさにその存在領域にまで意志を敷衍すると、意志哲学は形而上的実在論になる。 意志哲学が形而上的実在論になる場合には、主観的な体験が唯一の現実性判定規準であるような原則を、主観以外のところに仮説的に想定する。 形而上的実在論としての意志哲学は本章で述べた批判を免れない。 つまり、「意志が普遍的世界事象であると言えるのは、世界と(感覚界においてだけでなく)理念的に関連したときだけである」という形而上的実在論が抱える矛盾点を克服し、論破する必要がある。

★1918年新版への補足

■08-10: 

思考の本質を観察的に捉えることには次のような困難がある。 魂が思考に注意を向けようとすると、魂の眼前から思考の本性が簡単に消えてしまうからである。 そして魂の手元には死んだ抽象物、生きた思考の死体しか残らない。

■08-11: 

そうした抽象物だけを見てしまうと、どうしても「生き生きとした」感情神秘主義や意志形而上学に入り込みたくなるだろう。 「単なる思考結果」の中に現実の本質を見出そうとする人など異端者と思うだろう。 しかし、思考の営みそのものを真に受け止めた人は次のような見解に到る。 思考の営みの中でなされる、それ自身で充足し、なおかつ動きのある内実豊かな体験は、単なる感情や意志要素の観照などとは比ぶべくもなく、これらを思考の上に置くなどありえないと。 この豊かさ、この内実に満たされた体験がゆえに、通常の魂状態における思考の像は死んだ抽象的なものに見える。 思考ほどその価値を見誤られる魂的活動はない。 意志や感情は、本来の姿の名残りを体験するときですら魂を暖める。 名残の体験においては、思考は簡単に冷めてしまう。魂の営みの干物のようである。 しかしこれは、光に織り成された現実、宇宙事象に温かく沈み込んだ現実を大きく劣化させた影なのである。 この沈み込みが行われるのは、思考活動そのものの中に流れている力、つまり精神的種類の愛の力によってである。 「活動する思考内に愛を見出す人は、感情的な愛をそこに投影している」と反論してはいけない。 こう反論してしまうと、ここでの論述を支持していることになるからである。 真の意味での思考に没入する人は、そこに感情と意志があることを知るし、しかもそれらの深みにおける現実を見る。 思考から目を背け、《単なる》感情や意志にだけ向かう人は、こうした真の現実を見失う。 思考において直観的な体験をしようとする人は、感情的体験や意志的体験も正しく体験するだろう。 しかし感情神秘主義者や意志形而上学者が、直観的思考的な存在への沈潜を正しく体験することはありえない。 この両者の立場では、安易に自分が現実に居ると判断するだろう。 そして直観的な思考をする者を、抽象的思考の中に居て、無感情に現実離れしていて、影のような冷たい世界像を作り出していると判断するだろう。

『自由の哲学』、第09章 自由の理念

第9章 自由の理念


■09-01:元来一体である知覚と概念が認識では再結合する


認識において、概念は知覚によって特定化される。たとえば概念《樹》は何らかの樹の知覚像によって特定化される。 特定の知覚と出会うと、私は普遍的概念体系からある特定の概念を引き出すことができる。 概念と知覚の関連は、知覚に際し思考によって間接的かつ客観的に特定化される。 知覚が対応する概念と結合することは知覚行為の後になってわかるが、両者が結びつきうることは事柄そのものによって決まっている。

■09-02:人間では知覚と概念がはじめから結びついてはいない


認識であっても、世界に対する人間の関係が現れてくる際のそれでは成り行きが異なる。 これまでの論述では、この成り行きに囚われのない観察を向けることによって、こうした関連が解明されうることを示そうと試みた。 この観察を正しく理解すれば次のような見解に達する。思考をそれ自体で完結した本質存在として直接に観うる、という見解である。 思考を説明するにあたって思考それ自身だけではなく何か別なもの、たとえば肉体的な脳での出来事、あるいは観察され意識化される思考の背後にある無意識な精神の出来事を想定する必要があると考える人は、囚われなく思考を観察した成果がわかっていない。 思考の観察において人は、自分で自分を支える精神的本質の織物の中に直接に生きている。 したがって次のように言える。 精神的なものの存在本性を、人間に与えられる最初のかたちで捉えようとするなら、それはそれ自身に基盤を持つ思考の内に見出しうると。

■09-03:直観では精神界の内容を体験する


通常は別々に現われることが必然であるものが、思考の観察そのものにおいては一体となって現われる。つまり、概念と知覚である。 この点を洞察しない人は、知覚との関連で得られた概念がその知覚の残像にしか見えず、諸知覚だけを真の実在と見なすだろう。 さらに彼は、知覚世界を手本に形而上的世界を構築する。それは原子世界、意志世界、無意識的精神世界など、彼の考え方に沿って名づけられる。 そして、彼の知覚世界を手本に形而上的世界を仮説的に作り上げたにすぎないことすら忘れてしまう。 しかし思考の真の姿を見通す人なら、次のことを認識する。まず、知覚には現実のひとつの部分しか現われない点である。 そして現実はもうひとつの部分が加わって初めて全体になるし、このもうひとつの部分は知覚を思考的に位置づける際に体験される点である。 彼は意識内で思考として現われるものを、現実を写した影絵的残像と見なすのではなく、自己に基盤を持つ精神的な実在と見なすだろう。 そしてその実在性が直観を介して意識内に現出する、とも語れるだろう。 直観とは、純粋な精神的内容の体験であり、純粋に精神的に遂行される意識的な体験である。 直観を通してのみ思考の本質存在を捉えることができる。

■09-04:身体的魂的機構は思考に影響を与えない


囚われのない観察において、思考という直観的な本質存在についての真実を獲得しきると、人間の身体的あるいは魂的機構を正当に観うる道が開ける。 これらの機構が思考の本質には何の影響も与えないことを認識するのである。 これらの機構と思考の本質が無関係であることは、明らかな事実関係と当面は矛盾するように思える。 つまり、通常の経験においては、思考とはこうした機構を介して、その機構に即して現われるという事実である。 この現われ方は非常に強烈で、思考の本質存在がこれらの機構とはまったく無関係に活動している点を見通した人でなくては、このことの真の意味は分からない。 しかし、一旦これを認識してしまえば、人間の機構と思考との特異な関係を見誤ることはない。 これらの機構は思考の本来の姿に対してはまったく影響せず、思考活動の出現とともに退くのである。 人間の機構はそれ自身の活動を止めさらに上の段階へ橋を架け、場を空け、その空いた場に思考が現われる。 思考内でのその本来の働きは二重である。
  1. 本来の思考は人間機構の固有の活動を抑え
  2. その空いた場に思考自体が入り込む
のである。 第一点の身体機構の抑圧は思考活動による帰結である。 詳しく言えば、思考の出現を準備する身体機構の活動が抑えられている。 これがわかると、思考がどのようにしてその痕跡を身体機構に残しているかがわかる。 これを洞察したなら、思考に対するこの痕跡の意味を見誤ることはない。 誰かが柔らかい地面を歩くと、その足跡が残る。 その足跡が地面の力によって下から作られたなどと言う人はいないだろう。 足跡の形成には、地面の諸力はまったく関与していないとするだろう。 同様に、思考の本質存在を囚われなく観察したなら、生体におけるこうした痕跡を生体に帰することはないだろう。これらの痕跡は、身体を通しての思考が出現するための、思考による準備において生じている。 {1918年版の注:心理学や生理学等々でも上述の見解が正当と認められることを目指し、著者は本書の後にも随所で論述を展開した。ここでは、囚われのない思考そのものから得られる成果を述べるにとどめた。}

■09-05:自我意識は身体的魂的機構を基盤とする


しかしここで重要な問いが浮かび上がる。 人間機構が思考の本質に無関係であるとき、人間全存在の中にあってこの機構はどのような意味を持つのだろうか。 思考によってこの機構内で起きる事柄は、確かに思考の本質存在と無関係である。しかし、この思考からの自我意識の発生には関係が深い。 思考の固有存在の中には確かに現実としての《自我》が存在するが、自我意識は存在しない。 思考を囚われなく観察すれば、この点を見通す。 《自我》は思考内に見つかる。そして《自我意識》は、基盤となる普遍的意識の中に思考活動が上述の意味で痕跡を残すことによって生じる。 (つまり自我意識は身体機構を介して生じる。 しかし、ここでの主張を取り違えないでいただきたい。 一旦生じた自我意識が身体機構に依存し続けるとは主張していない。 一旦生じた自我意識は思考内に取り込まれ、その後は思考の精神的存在性に関与する。)

■09-06:次には意志行為の発生について考える


《自我意識》は人体機構上につくられる。 また意志行為はこの人体機構から流れ出る。 上述の方向を延長していけば、思考、自我意識、意志行為の三者の関係を洞察できるだろう。 ただそれにはまず、意志行為が人体機構からどのように生じてくるかを観察しなくてはならない。 {1918年版の注:第2段落からこまでは1918年新版で加筆した。}

■09-07:意志における動機と意志駆動力系


個々の意志行為で問題になるのは、動機と意志駆動力系である。 動機とは、概念的、表象的要因で、意志駆動力系とは、人体機構からの制約を直接に受ける意志要因である。 概念的要因あるいは動機とは、その時々での意志を決定する根拠であり、意志駆動力系とは持続的に存在する個人の意思決定根拠である。 意志での動機になりうるのは、純粋な概念、そして特定の知覚と結びついた概念つまり表象である。 それが普遍的なものであれ個人的なもの(表象)であれ、概念が意志において動機となるのは、それが人間の個に働きかけ、個に行動に向けた特定の方向を取らせることによってである。 まったく同じ一つの概念あるいは表象が、対象となる人によって異なる作用を現わす。 同じ概念(表象)が、人が違えば違った行為へのきっかけになる。 したがって意志は、概念や表象の影響を受けるだけではなく、個々の人間の在り方からも影響を受ける。 そうした個々人の在り方を、……エドゥアルト・フォン・ハルトマンに倣って……性格的素地と呼びたい。 性格的素地への概念や表象の働きかけいかんによって、人間の生活には特定のモラル的あるいは道徳的刻印が与えられる。

■09-08:性格的素地はどのように決まるか


その量の多寡はあれ、生きていく中で主観に残る内容、つまり表象内容や感情内容が性格的素地を形成する。 今私の内に現われた表象によって意志が働くか否かは、私が持つ他の表象内容や感情的特性に対し、その表象がどのように振る舞うかに左右される。 この私の表象内容は私が持つすべての概念の総和によって決まるし、その概念総和は私のこれまでの人生において知覚を介して受け取ったもの、つまり表象となったものによって決められている。 これはさらに、優劣はあれ私の直観能力に左右され、また私の観察の環境にも左右される。つまり、経験における主観的要素、客観的要素、決定された内面の状態、そして生活の場である。 私の性格的素地を規定する上での特別な要素は、私の感情である。 ある特定の表象あるいは概念に対し、私が喜びを感じるか、あるいは痛みを感じるかによって、その表象を行為の動機とするか否かに大きく影響する。 ……これらが意志行為を問題にする際に考慮される諸要素である。 動機へとなっていく表象あるいは概念が今まさに直接ここにあり、それが私の意志の目標、目的を定める。 そして、私の性格的素地が私に方向を与え、この目標に向けた活動を起こさせるのである。 これから30分散歩しようという表象が、私の行為の目標を定める。 しかしこの表象が意志の動機となるには、ふさわしい性格的素地がそこにある必要がある。 つまり、私のこれまでの人生の中で、散歩は理に適っているとか、健康によいといった表象が形成されていて、さらには散歩の表象が快の感情と結びつく必要である。

■09-09:意志駆動力系と目標を区別する


こうして次の二つを区別する。
  1. 特定の表象や概念を動機にまで引きあげうる潜在的な主観的素地、
  2. 私の性格的素地に働きかけ、ある意志を生じさせうる潜在的な表象や概念、
これらの二つである。 前者は道徳における意志駆動力系、後者は道徳における目標である。

■09-10:意志駆動力系の検討


まず道徳における意志駆動力系は、個的営みを構成する要素を見ればわかる。

■09-11:感覚知覚を起点とする意志駆動力系


個的営みの第一段階は知覚であり、さらに言えば感覚知覚である。 個的営みのこの領域では、知覚が直接に意志に移行し、中間に何の感情も概念も差し挟まれない。 この場合の人間の意志駆動力系は、まさに衝動である。 純粋に動物的な低次の欲求(空腹、性的欲求等)はこうした道筋で満たされる。 衝動の営みの特徴は、個々の知覚がただちに意志に転化されるという直接性である。 この種の意思決定は本来は低次の感覚的営みに特有なものであるが、より高次の感覚における知覚にまで拡張されうる。 外界で何らかの出来事を知覚すると、何の考えも、何の特別な感情も抱かずにすぐさま行動に移すのである。 これは、日常的な振舞では普通に行われている。 こうした意志駆動力系は、タクトあるいは道徳的嗜好と呼ばれる。 知覚から行動への直接の転化が多ければ多いほど、該当の人物はタクトだけにしたがって行動できることがわかる。つまり、タクトがその人の性格的素地になっている。 {訳注:指揮棒がタクトであり、またメトロノームが刻むのもタクトである。それに沿って行動すると考えると理解しやすいと思われる。}

■09-12:感情を起点とする意志駆動力系


人間の営みにおける第二の領域は感情である。 外界の知覚には特定の感情が伴う。 この感情が意志駆動力系になりうる。 飢えた人を見ると、その同情心が私の意志駆動力系を形成しうる。 その種の感情としては羞恥心、誇り、名誉心、遠慮、後悔、同情、復讐、感謝、敬虔、忠誠、愛情、義務感などといったものがある。 {著者注:(形而上的実在論の立場から)道徳原理の完全なまとめは、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『道徳意識の現象学』を参照。}

■09-13:表象を起点とする意志駆動力系


営みの第三段階がようやく思考と表象である。 少し考えるだけでも、表象や概念が行動の動機になりうる。 表象が動機になるのは次のような場合である。 人生を送る中で何らかの知覚が多少なりとも現われ方を変えながら繰り返し現われ、その知覚を特定の意志目標に結びつける場合である。 まったく無経験ではない人の場合、特定の知覚に伴って絶えず行為の表象が意識に上るが、その表象とは、似たような状況でかつて行った、あるいは行われるのを見たものである。 こうした表象が後の意志決定において決定的な手本として目の前にちらつき、この表象が性格的素地の一部分になる。 ここで述べた意志駆動力系を実践的経験と呼べる。 実践的経験は、次第にタクト優勢な行為に移行していく。 つまり私たちの意識内で、特定の典型的な行為イメージが何らかの生活状況についての表象と固く結びつき、事が起きると、経験に裏打ちされた熟考などすべて飛び越し、知覚からの直接的意志行為に移行してしまう場合である。

■09-14:概念的思考を起点とする意志駆動力系


個の営みにおける最高の段階は、特定の知覚とは結びつかない概念的思考である。 私たちは、ある概念の内容を純粋な直観を介して理念界から決定する。 そうした概念は、最初の段階では特定の知覚との関係は一切ない。 ある知覚を指し示す概念の影響を受けながら、つまり表象の影響を受けながら私たちが意志に入り込む場合、この知覚が、概念的思考という廻り道を取って私たちに作用している。 それに対し、純粋直観の影響下で私たちが行為する場合には、純粋思考が行動の意志駆動力系になっている。 この純粋思考の能力は哲学では普通、理性と呼ばれるので、この段階でのモラル的意志駆動力系を実践理性と呼ぶのも正当だろう。 この意志駆動力系を最も明確に述べているのは、クライエンビュール(「カントの倫理的自由」月刊哲学誌、第18巻3号)である。 これについて書かれた彼の論文は、現代哲学、特に倫理学の最も有意義なものであると私は思っている。 ここで述べている意志駆動力系をクライエンビュールは実践的アプリオリ、つまり直観によって私に直接に流れ込む動因から行動することと呼んでいる。 {訳注:「アプリオリ」は哲学用語では「先験性」と訳されるが、この文脈では「感覚知覚的な経験を伴わない」という意味である。}

■09-15:概念的思考は厳密には個的な性格的素地ではない


当然のことながら、こうした動因は厳密な意味での性格的素地には含まれない。 ここで意志駆動力系として作用しているのは、もはや単なる個的なものではなく、理念的なものであり、さらには私の直観を介した普遍的な内容だからである。 この内容が正当性を行動の基盤や出発点と見なすと、私はただちに意志を実行する。 その際、その概念が私の内に以前からあったのか、あるいは行動の直前に私の意識に現れたかという時間的なことは問わない。 その概念が私の内に素地として以前から存在したか否かは問題にならないのである。

■09-16:動機についての検討


実際の意志行為の発動を見てみよう。ある瞬間に行為への動因が性格的素地に働きかけると意志行為が発動される。またその動因は概念あるいは表象のかたちをとる。 そうした動因を意志の動機としよう。

■09-17:感情は動機たりえない


道徳における動機は表象と概念である。 倫理学者の中には、感情も道徳の動機と見なそうとする者もいる。 たとえば、「道徳的行為の目標は、行為者である個人において快の感情を最大にまで促すことである」、と主張する。 しかし、感情である快自体は動機になりえず、動機になりうるのは快感情の表象だけである。 感情そのものではなく、やがて生じるであろう感情の表象が私の性格的素地に働きかける。 なぜなら感情自体は行為の瞬間はまだ存在せず、行為によって生み出されるはずだからである。

■09-18:エゴイズムが動機の場合


自分あるいは他人の満足感の表象は、意志の動機と見て問題はない。 行為によって自らの喜びを最大限にしようとする原則、つまり個としての幸福を得ようとする原理は、エゴイズムである。 個としての幸福を得ようとするに当たっては二通りのやり方がある。 一つは、周囲を顧みることなく自分自身の満足感だけを求め、他者の幸せを犠牲にしてでもその満足感を獲得しようとするやり方である(純粋なエゴイズム)。 もう一つは、他者の満足を促すものの、その満足を得た他人から自分に対し好ましい影響を間接的に得るためであったり、自分の利益が損なわれるのを避けるために他者の損害を防ごうとする場合である(打算的道徳)。 エゴイズム的道徳原則が個々の場合にどのような特化した内容を持つかは、自分や他人の幸福をどう表象しているかに左右される。 人生において財産と見なすもの(豊かな生活、幸福への希望、さまざまな不遇からの救済など)が何であるかによって、その人の利己的努力の内容が決められる。

■09-19:外的規律が動機の場合


動機の次の段階は、ある行為の内容が純粋に概念的である場合である。 自分にとっての快の表象が行為の内容である場合は、その内容は個々の行為にだけ関係したが、ここでの内容は、道徳的原則の体系から行為される場合の基礎づけに関係している。 この道徳原則は抽象概念のかたちをとり、道徳的営みをコントロールすることができるが、その際に個々人がいちいち当該の概念の由来を気にかけることはない。 この道徳的概念は、道徳的必然として、規律として私たちの行為を上空から見張り、私たちはこの道徳概念に対し服従しているように感じる。 この道徳的必然の根拠づけを私たちは、私たちに道徳的服従を迫る者に譲り渡している。つまり、(家長、国家、社会道徳、教会権威、神の啓示といった)認知された道徳的権威である。 この道徳原則の特殊形として、その掟が外的権威から告げられるのではなく、私たち自身の内から来るものがある(道徳的自律)。 従うべき声を私たちは自分自身の内から聞き取る。 この声は良心と呼ばれる。

■09-20:道徳行為の根拠を洞察する場合


外的あるいは内的な権威による規律を簡単に行為の動機にしてしまうのではなく、何らかの行為規準が動機として作用する際に、その根拠を洞察しようとするなら、これは道徳的な意味での進歩である。 権威によるモラルから、次の段階の道徳的認識を基にした行為への進歩である。 この道徳的段階では、道徳的営みに何が求められるかを探究し、その認識から諸行為を決めるだろう。 その求められるものとは、次の三つである。
  1. 人類全体の最大限の満足、それだけを求めること。
  2. 人類の道徳的進歩あるいは文化的発展を常により完全なものにしようとすること。
  3. 個々人が完全に直観的に把握した道徳目標が実現されること。

■09-21:人類全体の最大限の満足について


人類全体の最大限の満足を何とするかは、人それぞれで違って受け止められる。 上述した規準では、この満足が特定の表象に結びつくことはない。この原則を認める人がそれぞれ自分の見解による人類全体の満足を目指して行為するという意味での努力目標である。

■09-22:人類の文化的、道徳的発展について


快の感情をもたらすものを文化的財産とする人では、文化的進歩とは上述の道徳原則のひとつの特殊形になる。 そうした人はただ人類の満足に寄与するに当たって、多くの物の衰退や破壊を甘受せざるをえないだろう。 しかし誰かが、文化的進歩から快の感情を排除し、ある道徳的必然を見つけ出すこともありうる。 するとこれは、先述のものに加え道徳原則のもう一つの特殊形になる。

■09-23:純粋直観が動機になる場合


全体の満足にしろ文化的進歩にしろ、その原則は表象に基づいている。つまり、道徳的理念の内容に特定の経験(知覚)を当てるという関係に基づいている。 しかし考えうる最高次の道徳原則とは、そうした関連をはじめから内包してはいない。そうではなく、純粋直観を源泉とし、後に知覚(生活)との関連を探していくのである。 何を意志するかという規定は、前述の場合とは違った起源を持つ。 人類全体の満足という道徳原則に従う人は、それぞれの行為の前に、この人類全体の満足に対し彼の理想がどのように寄与するかを問うだろう。 文化的進歩を信奉する人も同様である。 しかし個々の場合で、ある特定の個別な道徳目標から出発するのではない、より高次のものがある。 あらゆる道徳規準をそれぞれ価値評価し、直面した状況でより重要なモラル規準がどれかを問うのである。 誰かが、ある状況では文化の進歩を、別な状況では全体の満足を、第三の状況では自分の満足を正当なものと認め、それを行為の動機にすることがありうる。 しかし、他のあらゆる決定規準が一段下に置かれるなら、概念的直観が最上位に置かれる。 こうして他の動機は主導的地位を譲り、行為における理念内容だけが動機としての働きを持つ。

■09-24:意志駆動力系と動機が一体化する次元


性格的素地では純粋思考、あるいは実践理性として作用するものを最高次とみなした。 また動機では今、概念的直観を最高次とした。 より厳密に考えると、道徳のこの段階においては、意志駆動力系と動機が完全に重なる。 つまり、事前に決まっている性格的素地も、規範として受け入れられた外的な道徳原則も私たちの行為には影響しない。 行為は、人間が何らかの規則に沿って遂行するものでも、外的なきっかけによって自動機械的に行うものでもなく、人間が理念的に受け止めたものによって行われる。

■09-25:道徳的直観能力が前提条件


そう行為しうる前提条件は、道徳的直観の能力である。 個々の状況でその場面に特化した道徳原則を体験できない人は、真の意味で個としての意志を実現することはない。

■09-26:個を貶めるカントの道徳観


この道徳原則とまさに正反対なのが、「行為に対するあなたの根本命題がすべての人間に妥当であるように行為せよ」というカントの立場である。 この命題は、行為の個的動因すべてを抹殺する。 すべての人がやるであろうという点ではなく、個人的状況で私が何をすべきかが、私にとっての行為の規準となりうる。

■09-27:行為は個的であると同時に理念的でありうるか


ここでの論旨を表面的に判断すると、「行為が、個々特殊の状況において個的であると同時に、直観から純粋に理念的に決定されることなどありうるのか」という反論が生じうる。 この反論では、道徳的動機と行為の知覚可能な内容とを混同している。 行為の知覚可能な内容は動機になりうるし、たとえば文化的進歩や利己的な行為では実際にそうなっている。 しかし純粋な道徳的直観に基づく行為では、行為の知覚可能な内容が動機になることはない。 私の自我はもちろんこの知覚内容に眼を向けるにしろ、それに決定させることはない。 この知覚内容はある認識概念を作るためには用いられる。しかしそれに関連する道徳概念を自我が対象物から得ることはない。 私が直面するある特定の状況における認識概念と道徳概念が重なり合うのは、私がある特定の道徳原則に立脚するときだけである。 私が一般的な文化的進歩という道徳的立場だけを取ろうとするなら、私は決まった行進ルートで世界を歩むことになるだろう。 私が知覚し、かかわりうるあらゆる出来事からただちに道徳的な義務が生じる。 つまり、該当の出来事を文化的進歩に役立つよう微力でも寄与する義務である。 事物や出来事には、それらの自然法則的関連を開示してくれる概念の他に道徳的ラベルが付いていて、そこにはモラル的存在である私がどう振る舞うべきかの指示が書かれている。 この道徳的なラベルはその範囲では正しい。そして一段高次の立場では、具体的な事例において私に現われ出る理念と一致する。

■09-28:道徳の最高段階としての倫理的個体主義


人間の直観能力はそれぞれ違っている。 理念が溢れ出る人もいれば、苦労して手に入れる人もいる。 生きる状況、行為の舞台となる状況も違っている。 ある人の行為は、特定の状況に直面した際の彼の直観能力に左右される。 私たちの内において実効を持つ理念の総和、私たちの直観のリアルな内容、それを決めているのは、完全に普遍的である理念界に存在し個々人において個化されたものである。 この直観による内容が行為へ移されるなら、それが個人の道徳的内実になる。 この内実を完全に生かしきることは道徳的意志駆動力系の最高段階であり、他のあらゆる道徳原則が最終的にはこの内実に収束することを洞察した人にとっては、同時に動機の最高段階でもある。 この観点を倫理的個体主義と呼べるだろう。

■09-29:普遍的道徳概念は個の行為から生じる


具体的状況で直観的に決定される行為においては、相応の直観を完全に個的に見つけ出すことでその方向が定まる。 道徳のこの段階において普遍的な道徳概念(規範、法則)が関係するのは、個的な原動力が一般化されることでそれが生じる場合だけである。 普遍的な規範は、前提となる具体的な事実が存在しないと成立しない。 そして、その事実が作り出されるには、まず人間が行為しなくてはならない。

■09-30:最高段階は行為への愛からの行為


法則(個人、民族、時代における行為の中にある概念的なもの)を探求すると一つの倫理学を得る。しかしそれは道徳規範からなる学問としてではなく、道徳についての経験則として得られる。 ここで得られた諸法則と人間の行為との関係は、普遍としての自然法則と特殊としての個々の自然現象との関係に相当する。 しかしこうした諸法則は私たちの行為の根底にある原動力とは決して同一ではない。 人間の道徳意志から行為が現れ出る際に何がその仲介しているのかを捉えたいので、まずこの道徳的意志と行為との関係を見なくてはならない。 まずはじめに行為を見る必要がある。その行為おいてはこうした関係が決定的な意味を持つ。 私でも誰でも、後にそうした行為を省察すれば、そこで関係した道徳原則を解明しうる。 行為の最中には、道徳原則が直観として私の内で脈打つかぎり、その道徳原則が私を動かしている。 道徳原則は対象に対すると結びついているし、その対象を私は私の行為によって実現しようとしている。 「この行為を遂行すべきか」、私は他人にも法則にもそう問いかけることはない。 ……そうではなく、行為の理念を把握したなら、私は即座にそれを実行する。 そうすることによってのみ、それは私の行為なのである。 特定の道徳規範を正当と認めるがゆえに行為する人の行為は、道徳法典に記された原則の産物である。 彼は執行人にすぎない。 彼は高次の自動機械である。 行為へのきっかけが意識内に放り込まれると即座に道徳原則という歯車が起動し、法則的な成り行きが進行する。 キリスト的、人道的、没我的、あるいは文化的進歩に貢献するために。 私の内にある対象への愛に従うときにのみ、私は行為者自身なのである。 道徳のこの段階において私は、自分の上に立つ主人、外的権威、いわゆる内側の声といったものを認めるがゆえに行為するのではない。 私は自身の内に行為の根拠、つまり行為への愛を見出し、行為における外的原則を認めない。 私は行為の善悪を悟性的に検討したりもしない。それを愛するから遂行する。 愛の中に入り込んできた私の直観が、直観的に体験されうる宇宙的関連の中に正しく位置づけられるとき、その行為は《善》になり、そうでない場合は《悪》になる。 「他の人だったら私が置かれたこの場合にどう行為するか」とも自問しない。 ……そうではなく、特別な個である私が、どのように私自身を意志へと導いたかを見るがゆえに行為する。 一般的な慣習、一般的な道徳、人間一般の原則、ある道徳的規範、そうしたものが私を直接に導くのではない。そうではなく、行為への私の愛が導くのである。 衝動において私を導く自然的な強制、道徳的掟による強制、そうした強制を感じることなく、私は私自身の内にあるものの実現だけを目指す。

■09-31:善悪の区別がなくなるという反論


一般的な道徳規範を擁護する人は、これまで述べてきたことに対し次のように言うだろう。 「誰もが自分の好き勝手をやり通そうとしたら、善き行いと犯罪の区別もなくなる。 私の内にある悪事も、万人にとっての最善を尽くそうという意図も同じ重みを持つだろう。 道徳的人間としての私にとっては、行為が理念に沿って捉えられたかという状況よりも、それが善かかの吟味の方が重要である。 それが善である場合にのみ、私はそれを行なう」。

■09-32:悪の源泉は理念ではありえない


ありがちな、そしてここで述べられたことの誤解から生じたこの反論に対して私は次のように答える。 「人間意志の本質を認識しようとするなら、この意志をある一定段階にまで育て導いてくれる道と、意志がその目標に近づくことでその意志が身につける固有の性質とを区別しなくてはならない」。 目標への途上では、規範は正しい役割を果たす。 その目標とは、純粋に直観的に把握された道徳目標の実現である。 人がどこまでその目標を達成したかは、直観的理念内容の世界に向かって自らを高める能力をどれだけ持ったかにかかっている。 個々の意志においては、多くの場合、そうした目標に向けた意志駆動力系や動機以外の何かが混ざり込んでいる。 しかしそれでも直観は、人間の意志における主たる、ときには従たる規定要因でありうる。 人は為すべきことを行為する。人はべきが行為となる舞台を提供する。 自らから生じさせたそうしたものは、自らの行為である。 そこでの原動力はまったく個的でしかありえない。 真実として、直観から発する意志行為だけが個的なのである。 悪行や犯罪行為が、純粋な直観の実現と同じ意味で個の発動であると言えるのは、闇雲な衝動が人間的個に属するとする場合だけである。 しかし、犯罪へと駆り立てる闇雲な衝動は直観に由来するものでもなく、人間的個に属するものでもない。 そうではなく、人間誰もが持つ最も普遍的な部分に属するし、さらに人は、自らの個による働きでそこから身をもたげようと自らに働きかけている。 私の内なる個とは、衝動や感情を伴った私の生体ではなく、この生体内で輝き出た唯一の理念世界なのである。 衝動、本能、欲望に立脚するとき、私は類としての人間でしかない。 衝動、欲望、感情の中にあって、それとは異質な理念を発動できることにこそ、私の個は立脚している。 本能や衝動において私は1ダースの中のひとつにすぎない。 私の内で特殊となった理念、1ダースの中にあって私を私とするもの、それによって私は個なのである。 私が持つ動物的特性によって私は私とは異質な生物から区別されうる。 思考によって、つまり理念として私の生体内で活動するものを活動しつつ捉えることによって、私は私自身を他者から区別する。 したがって、犯罪者の行為が理念から生じているなどとは決して言えない。 人間が持つ非理念的な要素から導き出される点が、まさに犯罪行為の特徴なのである。

■09-33:理念から行為する個が自由を感じる


行為の根拠が私の個的存在の理念的な部分に由来するとき、それは自由な行為と感じられる。 自然法則的な強制からの行為、倫理的規範からの要求による行為といったそれ以外の行為は不自由と感じられる。

■09-34:自由な行為と倫理的な自由理念


いかなる瞬間も自分自身に従える状況にあるときにのみ、人は自由である。 ある道徳的行為が私の行為であるのは、上述の意味で自由と言えるときだけである。 ここではまず、どのような条件なら意志された行為が自由な行為と感じ取られるかを取り上げた。 そこで次に、純粋に倫理学的に捉えられた自由の理念が人間構成体の中でどのように実現されるかを示す。

■09-35:自由からの行為は道徳的である


自由からの行為が道徳律を排除することはなく、むしろそれを受け入れる。 さらに、そうした行為は、道徳律から直接に生れる行為よりも高次である。 人類全体の満足を義務と感じることだけによって行う行為と、愛からの行為とを、全体の満足という意味で比べても、後者の方が劣っているとする根拠はない。 単なる義務の概念には自由の場はない。それは義務概念では個を認めようとはせず、それをある一般的な規範に貶めるからである。 行為の自由は、倫理的個体主義の立場からのみ考えうる。

■09-36:自由な人間による共同体


しかし、一人ひとりが自分の個を実現しようとする場合、どうしたら共同生活が可能だろうか。 こうした反論は、道徳主義の誤った理解に基づいている。 この反論では、全員に共通する固定的な道徳秩序に賛同しているときにのみ、人間の共同体が成り立つと思っている。 こうした道徳主義は、理念界が一体であることがわかっていない。 私の内で働く理念界が、隣人の内に働く理念界と同じであることを捉えていないのである。 ところで、この理念界の一体性は、世界を体験することによるひとつの成果に過ぎない。 その一体性だけは、そうでなくてはならないのである。 その一体性が観察によって認識されるのでなかったら、そこに成り立つのは個的な体験ではなく、普遍的な規範だからである。 個が成り立つのは、それぞれの個的存在が、個としての観察を介して他者を知るときだけである。 私と隣人との相違は、生きる精神界がまったく違うからではなく、理念界は共通でも、そこから受け取る直観が相互に違うことによる。 彼は彼の直観を生かしきろうとし、私は私自身のそれを生かしきろうとする。 二人が共に真の理念から創造し、(物質的にせよ精神的にせよ)外的な原動力に従うのでないなら、その共通の努力の中で、そして同じ意図の中で出会いうるだろう。 道徳的で自由な人間同士では、道徳的な誤解や言い争いはありえない。 自然的衝動や義務の戒律を鵜呑みにしてそれに従う道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ戒律に従おうとしない隣人を排除する。 行為への愛において生きること、そして他者の意志を理解しつつ他者がそこに生きるのを認めること、これが自由な人間の基本命題である。 自由な人間における《すべき》は、直観においてその人の《やりたい》と調和する《すべき》だけである。 自由人が認める《あるべき態度》とは、直観を通して意志と結びいた《あるべき態度》しかありえない。 個々特殊な場合においてその《すべき》がどのように《やりたい》になるかは、その人の理念獲得能力が教えてくれる。

■09-37:最高次の共存のあり方


人間本性内に許容性の基盤となるものが存在しないなら、それを外的な法律で植えつけることもできないだろう。 それぞれの人間の個が、一つの精神からの所産であるからこそ、人間は共存しつつ自己を発揮できる。 自由人は、他の自由人が自分と同じ一つの精神世界に属しており、彼の意図においてその人と出会うであろうことを信頼しつつ生きている。 自由人は隣人に同意を求めはしないが、それを期待はしている。人間の本性の内にその同意があるからである。 これは、何らかの外的状況でそれが必ず成り立つことを意味するものではない。 そうではなく、意味づけ魂のあり方を意味している。 自らが認めた隣人と共に居て、人間が自己自身の体験において人間の尊厳を最高度に発揮できる意味づけや魂のあり方をである。

■09-38:自由な人間はどこに存在しうるか


次のような見解の人も多いだろう。 「あなたが言う自由人などは幻想にすぎず、実際にはどこにも存在しない。 私たちは現実の人間を問題にしているし、そうした人間では、道徳的規則を聴き取り、道徳的役割を義務として受け取り、自らの性格や愛に無制限に従うのではない場合にのみ、道徳性を望みうる」。 ……私はこれに何の疑問も差し挟まない。 それをするのは無知蒙昧な人だけだろう。 しかし、これが究極の見解であるとするなら、これ以上の道徳的偽善はないだろう。 そうして簡単にこう言う。 「自由でないうちは、人間は性根から行為を強制される必要がある」。 不自由の原因が物理的な手段なのか、あるいは道徳律によるか、また不自由である理由が、際限ない性的衝動に従属しているからか、あるいは因襲的道徳に縛られているからか、そうしたことはここでの視点からすればまったくどちらでもよい。 しかしそうした人が外的な圧力によって駆り立てられた行為を自分のものと言うのが正しい、などという主張はありえない。 慣習のしがらみ、法的強制、宗教的修行などの中に自身が居ることを自覚している人びと、つまり自由な精神の持ち主はそうした強制的秩序の中にあって、自らをそこから引き上げる。 自分に従うなら人間は自由であり、自分を従わせるなら不自由である。 自分の行為すべてにおいて本当に自由である、などと誰が言えるだろうか。 しかし、あるより深い構成要素が誰の内にも宿っていて、そこにおいて自由な人間が語り出るのである。

■09-39:人間概念は自由な精神に達して得られる


私たちの生活は自由な行為と不自由な行為から成る。 しかし、人間本性が最も純粋に現われる自由な精神にまで達しなければ、人間概念を究極まで考え切ることはできない。 自由においてのみ、私たちは本来の意味での人間なのである。

■09-40:自由な精神という概念は人間的成長によって生じる


多くの人は、これは理想だと言うだろう。 確かにその通りである。しかしその理想は理想そのものとして私たちの構成要素内にあり、また現実の要素として表面にまで現われて活動している。 これは考え出されたものでも、夢想されたものでもなく、生きた理想であり、非常に不完全な表現形式であったとしてもその存在は明確に示されている。 人間が単に自然存在であったなら、理想の探究、つまり現時点では不活性でありながらその実現が求められる理念を探求することなど意味をなさない。 外界の事物においては、理念は知覚によって規定される。理念と知覚の関連を認識すれば、私たちは役割を果たしたことになる。 人間の場合はそうではない。 人間の存在総体は人間自身を抜きには規定されない。 道徳的人間(自由な精神)としての人間の真の概念は、《人間》という知覚像とはじめから客観的に一体になってはいない。 もしはじめから一体であれば、外界の事物と同様、後に認識によって人間概念を確定することができる。 人間は、自己活動によって人間概念と人間の知覚像を結びつけなければならない。 ここにおいて概念と知覚を重なり合うのは、人間自身が両者を重ね合わせたときだけである。 しかしこれを為しうるのは、自由な精神という概念、つまり人間の本来の概念を見出したときだけである。 客観世界では、私たちの機構のあり方のために知覚と概念との間に境界線が引かれている。 そして認識がこの境界を克服する。 主観的本性の中でもこの境界は同様に存在している。 人は、成長に伴ってその境界を克服するが、それは人間という概念を現象にまで作り上げることで成し遂げられる。 こうして私たちは、知的活動においても道徳的活動においても、知覚(直接体験)と思考という二重性に引き込まれる。 知的活動においては認識によって、道徳的活動においては自由な精神の具現化によってこの二重性を克服する。 いかなる存在にも生まれ持った概念(存在や作用の法則)がある。 外界の事物におけるこの概念は、知覚と不可分に結びついている。 私たちの精神組織内でのみ、これは知覚から切り離されている。 人間において、概念と知覚は、はじめは事実として分離しているし、それは後に人間によって事実として結びつけられるためなのである。 以下の反論がありうる。 「人間という私たちの知覚は、その人生のいかなる瞬間にもある特定の概念が対応しているし、それは他の事物とまったく同じである。 私は鋳型人間という概念を作りうるし、そこに知覚像を与えることもできる。 さらにそこに自由な精神という概念を与えてしまうと、同一の対象に二つの概念を当てることになってしまう」。

■09-41:変化する人間と自由な精神の作用


この考えは偏っている。 知覚対象としての私は絶えざる変化の中にある。 子どものとき、若者のとき、そして大人としての私は違った姿をしている。 いかなる瞬間も、私という知覚像は以前のものとは違う。 この変化の理由として考えうるものは次の2つである。 その変化において常に同じもの(鋳型人間)が自己表明しているのか、それともその変化は自由な精神の表現なのかである。 私の行為という知覚対象はこうした変化の配下にある。

■09-42:自然存在から社会存在、人間自身への発展


植物の芽には完成された植物にまでなる可能性があるが、それと同様に知覚対象としての人間にも形を変える可能性がある。 植物は、自らの内に存する客観的法則性に従って変化する。 人間は、自力で自分の中に変容素材を取り込み、自らの力で変形しなければ、不完全な状態に留まる。 自然は、人間を単なる自然存在にする。 社会は、人間を規則にしたがって行動する存在にする。 そして自分という素材から自分で自分を作り上げるときにのみ、人間は自由な存在になる。 人間がある成長段階に達すると、自然は人間をその束縛から解放する。 社会は、この成長をさらに特定の段階にまで導く。 最後の仕上げは、人間自身だけがこれを行うことができる。

■09-43:自由な精神は規範を乗り越える


自由な道徳性という観点では、自由な精神だけが人間存在の在り方であるとは主張しない。 自由な精神を人間の究極の進化段階とみなす。 これは、ある成長段階においては規範に従った行為が正当であるという点を否定していない。 しかしこれを絶対的な道徳性の立場として認めているわけではない。 自由な精神は、掟を動機として感じ取り、さらには自分の内からの衝動(直観)に沿って行為することで、規範を乗り越えるのである。

■09-44:カントは義務を賛美し、ここでは自由な精神を賛美する


「義務!崇高で偉大な名よ! 媚びへつらうことでお気に入りになろうとするものを内に入れず、むしろそれらに服従を求める者」、 そして「法を打ち立て、たとえその法に密かに好き嫌いが入り込もうとしても、その好き嫌いを沈黙させる者」、とカントは言う。 これに対し自由な精神を意識に持つ人間はこう反論する。 「自由!人にふさわしき名よ! 私の人間なるものを最も尊重し、道徳なるもののお気に入りをすべて内包し、私を何者の従者ともしない者、そして単に法を打ち立てるのではなく、私の道徳的愛自体が法として認識されるのを待つ。なぜなら愛は、あらゆる強制的な法の前では不自由を感じるからである」。

■09-45:法則的道徳と自由な道徳の対比


これが単なる法則的道徳と自由な道徳の対比である。

■09-46:あらゆる法は自由な精神の所産


外的に固定されたものを道徳の具現と見ようとする凡庸な人は、自由な精神の持ち主を危険視するだろう。 しかし彼がそうするのは、特定の時代状況に視野が狭められているからである。 それを越えて見ることができたならば、自由な精神の持ち主も凡庸な人と同様に、国法を踏み外すことも、法と自分との間に矛盾をきたすこともまったくないことに気づくはずである。 なぜなら、あらゆる国法も、他のあらゆる客観的な道徳律と同様に、自由な精神による直観から生じたからである。 ある家の祖先がかつて直観的に把握し、定めたものでなかったら、いかなる家訓も家長がそれを拠り所にすることはない。 道徳の習慣的な法則もまた、まず特定の人びとが定めた。 さらに国法もまずは政治家の頭の中で生じた。 これらの人びとの精神が人の上に立つ法を定めたのであって、その起源を忘れると人は不自由になる。 そしてその法を人間から離れた戒律、人間とは無関係な客観的な道徳的義務概念、あるいは神秘的な強制と誤って受け取り、それを内なる声にしてしまう。 しかしその起源を見逃さずそれを人間の内に探す人は、理念界からの一分枝を考慮に入れていることになるだろう。そして彼もその同じ理念界を自分で道徳的直観の源泉にしているのである。 よりよい法を得たと思うなら、それが成り立つ場にそれを持って行こうとする。 されにそれが正当であるとわかったら、彼はその法を自分自身のものであるかのように、それに従って行為する。

■09-47:道徳的秩序は自由な精神の目的ではない


人間外に成り立つ道徳的世界秩序を実現するために人間は存在すると定式化してはいけない。 こう主張すると、「牡牛は突くことができるために角を持つ」とする自然科学と同じ立ち位置で人間の学を語っていることになる。 幸いにも自然科学者はこうした目的論を捨てた。 しかし倫理学はそこからなかなか脱け出せない。 角が突くために存在するのではなく、角によって突くのであるように、人間は道徳のために存在するのではなく、人間によって道徳が存在する。 自由な人間は道徳的に行為するが、その理由は道徳理念を持つからであり、道徳を発生させるためではない。 人間本性に属するものである道徳的理念を担った個としての人間、それが道徳的世界秩序の前提である。

■09-48:個と社会の相互作用


個としての人間こそあらゆる道徳の源泉であり、地上生活の中心点である。 国家や社会が成り立つのは、個の営みの必然的結果としてである。 国家や社会は個の営みに作用を返す。これは次の事情を考えれば理解できる。 突くことは角によって可能であり、長く使われなければ退化する雄牛の角が突くことで発達するという事情である。 同様に人間の個も、もしそれが人間共同体からはみ出し分離存在になれば、衰えざるをえない。 それゆえ、好ましい仕方で個としての人間に作用を返すために、社会秩序が形成されるのである。 {補足としての訳注:道徳は人間によって可能であり、人間は道徳によって発達する場合もある。}