2019年5月12日日曜日

『魂の暦』第32週、朗読に不向きな翻訳

『魂の暦』第32週、朗読に不向きな翻訳

1912年11月10日~11月16日


Ich fühle fruchtend eigne Kraft
  私は感じる、実らせるものとして、自らの力を
Sich stärkend mich der Welt verleihn,
  強まりつつ、世界に与えるのを、
Mein Eigenwesen fühl ich kraftend
  私の固有存在を私は感じる、力づけつつ
Zur Klarheit sich zu wenden
  明瞭さへと自らを向けるのを
Im Lebensschicksalsweben.
  人生の運命の織りなしの中で。

1,2行目には装飾句が多く、意味が不明瞭になりがちなので、まず文章の骨組みを明確にしておきます。前半部の骨組みは、

  私は、自らの力を、世界に与えるのを、感じる

となります。それに加えて、「自らの力」を「強まりつつ」が修飾します。また、「実らせるもの」は「与える」を修飾していると考えています。はたりえこさんや鳥山雅代さんは、強めることと実らせることをともに「自らの力」を修飾すると解釈されていますので、この点は見解が異なります。

3,4行目の骨組みは次のようになります。

  私は、私の固有存在が明瞭さへと向くのを感じる

そこに「力づけつつ」が加わり、これは「私の固有存在」を修飾します。そしてそれらすべてが、「人生の運命の織なし」の中で行なわれます。

3行目の動詞は主語がichなので本来なら1行目と同じに fühle となるはずですが、最後の母音が省略されていると思われ、それによってこの行では母音で終わる単語はなくなります。

最後の行は、日本語で言う「熟語」に相当する幾つかの単語を連結した単語で終わっています。つまり、Leben=人生(生命、営み) + Schicksal=運命 + Weben=織なし です。前の週も特殊な合成単語である Menschen=人間 + Werk=成果(仕事、作品)で終わっていて、そこに関連を感じます。単純には、週が進むことでよりしっかりとしたものに構築されている印象を受けます。

この詩には文法的に謎があります。前後半にそれぞれ fühlen(感じる) という動詞が中心に、

  〇〇するのを感じる

という構文で構成されています。その〇〇にあたる第二の動詞が verliehnとwendenです。ところが、verliehnの方はzuのない定形(英語で言うtoなしの不定詞)、wedenはzuを伴った定形(英語で言う to+不定詞)となっていて、形が違います。謎です。

『魂の暦』第04週、朗読に不向きな翻訳

復活祭後;第04週

1912年4月28日~5月4日
Ich fühle Wesen meines Wesens:
     「私は私の本質の本質を感じる」
So spricht Empfindung,
     そう感受が語る、
Die in der sonnerhellten Welt
     その感受は太陽で明るくされた世界の中で
Mit Lichtesfluten sich vereint;
     光の洪水と一体になる;
Sie will dem Denken
     感受は思考に
Zur Klarheit Wärme schenken
     明晰さへと向けた温かさを贈ろうとし、
Und Mensch und Welt
     そして人間と世界を
In Einheit fest verbinden.
     ひとつにしっかりと結びつけようとする


ここでの主役は「感受」です。馴染みのない訳語ですいません。シュタイナーによるこの語の用法は広い意味と狭い意味の2つがあります。
  1. 『神智学』中の「感受魂」:外からの印象を受け止め、さらには感情などの魂的な活動も含める。ただし、「感受魂という名称を用いているものの、その働きは感受にとどまらず、感情までをも含む」という記述もある点には注意したい。この一文から考えて、シュタイナーが「感受魂」ではなく「感受」と言う場合に「感情」が含まれることはないとわかる。
  2. 『一般人間学』での「感受」:認識的ではなく、意志的(無意識的)活動で、「外からの印象」→「感受」→「知覚として意識」というつながりの中での「感受」。
高橋巖氏は「感情」、はたりえこ氏、鳥山雅代氏は「感性」という訳語を採用しています。これらは「知覚」が成り立った後の状況ですので、1.の解釈になります。しかし私は、印象を受け取るところまでと考え、2.と解釈しています。
『魂の暦』第4週では、そうした「感受」について、以下の3つが取り上げられます。
  1. 語る言葉
  2. 状態
  3. 望むこと
まず「感受」が語る言葉は、「私は私の本質の本質を感じる」です。「Wesen=本質、存在」という語を2回繰り返します。「核の本質」とか「存在の本質」ではなく、「本質の本質」というわかったようでいて、実は何も説明していない表現です。「感受」にしてみれば、まさに自分自身が最高に活躍していることを感じつつも、それを説明する言葉は持たないのです。

次に「感受」の状態を見ましょう。4月から5月にかけての季節には、日差しは明るく、咲く花が日々入れ替わり、人間も印象を受け取ること自体に没頭しています。それが、

     その感受は太陽で明るくされた世界の中で
     光の洪水と一体になる;

と表現されます。

そして「感受」が望むことは2つです。
まず思考に対しては、「感受」が持ちえない「明晰さ」に対する敬意を含め、「明晰さへと向けた温かさを贈ろう」とします。
また、自らが光の洪水と一体になっていることをさらに広げて、「人間と世界をひとつにしっかりと結びつけようとする」のです。

2019年5月4日土曜日

『魂の暦』第03週、朗読に不向きな翻訳

復活祭後 第03週

Es sprichit zum Weltenall,
     それ(仮の主語=自我)が宇宙総体へと語る
Sich selbst vergessend
     自分自身を忘れつつ
Und seines Urstands eingedenk,
     そして自分自身の原初的立脚点を思いつつ
Des Menschen wachsend Ich:
     成長する人間の自我が:
In dir, befreiend mich
     「お前(宇宙総体)の中で、自らを
Aus meiner Eigenheiten Fessel,
     私の固有性という枷から開放しつつ
Ergründe ich mein echtes Wesen.
     私は私の真の存在を基礎づける」。

内容の骨組みは次のようになります。

  自我が宇宙総体に語る
  「宇宙総体の中に自らの真の存在を基礎づける」と。

第2週ではSinnesall=感覚総体という造語がありました。この第3週ではそれを受けるように、Weltenall=「宇宙総体」が出てきます。そこに人間の自我が語りかけるのがこの第3週のメインです。その中では次のことが問題になります。

  1. その語る人間自我はどのような状態か。
  2. 人間自我は何を語るのか。

語るときの人間自我の様子は、まず、自分自身を忘れつつあります。さらにそれは成長しつつあり、そして、自らの根源的立脚点を思っています。この立脚点がどこにあるのかは、人間自我が語る内容から察することができます。
第2週の内容からも「人間の伸びる茎」は霊界にあることがわかります。つまり人間の根源的出発点が宇宙的霊界にあるのです。また、「私は、宇宙総体の中で、私の真の存在を基礎づける」と語るのですから、自らの根源的立脚点は明らかに宇宙、霊的世界にあります。
そしてその際に、「私の固有性という枷」から自らを解放して、その地盤を地上的な自己ではなく、宇宙に置くのです。

最後の1行「Ergründe ich mein echtes Wesen.」の「ergründen」は「Grund=大地、土台、基盤」とかに関係する語で、辞書で調べると、「徹底的に究明する」とか「根本を極める」といった意味が載っています。そしてこの1行を高橋巖氏は「私は自分の真実をきわめたい」、はたりえこ氏は「おのれの本質を 探ろう と」、鳥山雅代氏は「 私の真の存在が、今ここで解き明かされてゆく」と訳されています。これらは、辞書の訳語を尊重した訳です。しかしこの訳では第2週の「霊界に芽生えがある」という内容と関係させ、「基礎づける」としました。

前半の4行の主語はIch(自我)です。文法的にはそれを文頭に持ってくることも可能です。にもかかわらず、シュタイナーは完全に倒置してそれを文の終わりに持ってきました。そこには、地上にあって語りかける自我と、宇宙から地上に向かって成長する人間のイメージが託されているようにも、森章吾は思います。

2019年5月2日木曜日

『魂の暦』第02週、朗読に不向きな翻訳

『魂のこよみ』第02週

Ins Äußre des Sinnesalls
     感覚総体という外界の中に
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein,
     考えの力はその本来の存在を失う
Es finden Geisteswelten
     霊界にはそれが見出される
Den Menschensprossen wieder,
     人間の伸びる茎が再び、
Der seinen Keim in ihnen,
     その伸びる茎の芽生えは霊界の中に
Doch seine Seelenfrucht
     それに対しその茎の魂的果実は
In sich muß finden.
     人間の内に見出されるはずである。

Gedankenmachtを直訳すると「思考結果の威力」といった語になります。Gedankenは思考の完了形で、「考えられたこと」といったニュアンスです。そこにMacht=力が組み合わされています。「力」といっても、石を持ち上げるたぐいの力ではなく、存在するだけで威力を発揮する力です。
 さて、このGedankeという概念はルドルフ・シュタイナーの思想の中で非常に重要で、2種類を区別し、その関係を理解していなくてはなりません。種類とは次の2つです。
  1. 人間のものではない、霊的・宇宙的な考えで、形成の力を持つ
  2. 人間の考えで、これは影のような写しであり、形成の力は失われている
霊的・宇宙的な考えは、森羅万象を形成する力(Macht)を持ち、それによって世界を創造します。それに対し人間の考えは、霊的・宇宙的考えを反映してはいるものの、何かを形成する力はありません。それゆえルドルフ・シュタイナーは人間の考えをしばしば「影のような考え」と表現します。
さて、この第2週の詩に登場するGedankenmachtは霊的・宇宙的な考えで、そこには森羅万象の創造にあずかる諸法則が含まれるだけでなく、それらを形成する力を内包しています。ところが、そうした諸法則と諸力によって自然界を形成していきますと、霊的・宇宙的な考えは植物や昆虫といった実体の中に注ぎ込まれ、霊界の側はいわば空になります。『農業講座』などでも、「霊的には夏は空で、冬は満ちている」といった内容が語られています。

つまり、宇宙的設計思想に基づいて植物などが形成されますと、霊界のそれに対応する部分は空になります。そのことが最初の2行にまず語られます。
Ins Äußre des Sinnesalls
     感覚総体という外界の中に
Verliert Gedankenmacht ihr Eigensein,
     考えの力はその本来の存在を失う


4行目には Menschensprossen=人間の伸びる茎というルドルフ・シュタイナーの造語が出てきます。Menschen=人間で、Sprossen=伸びる茎 です。この「シュプロッセン」というのは日毎に伸びるような茎で、タケノコをイメージするとわかりやすいかもしれません。そうした「人間の伸びる茎」がいわば基本的に空になった霊界に見られるようになるのです。

そして最後にこの「人間の伸びる茎」の「芽生え」と「果実」についてのイメージが語られます。つまり、芽生えは霊界から始まるものの、その魂的果実は人間自身の中に見出されるはずだというのです。つまり、この人間の茎は霊界に始まり、人間の魂に果実をもたらすと言えるでしょう。

2019年5月1日水曜日

『魂の暦』第01週、朗読に不向きな翻訳


復活祭 第01週


Wenn aus den Weltenweiten
     世界の彼方から
Die Sonne spricht zum Menschensinn
     太陽が人間の感覚に語りかけ
Und Freude aus den Seelentiefen
     さらに魂の深みから喜びが
Dem Licht sich eint im Schauen,
     見ることにおいて光と一体になるとき、
Dann ziehen aus der Selbstheit Hülle
     個人性という覆いから
Gedanken in die Raumesfernen
     考えが空間の彼方にさすらい出て
Und binden dumpf
     そしてぼんやりと結びつける
Des Menschen Wesen an des Geistes Sein.
     人間の本質を霊の存在に。


この詩の前半2行は春の情景、それに続く2行は人間の魂の反応、特に湧き上がる喜びが描かれています。
後半4行の主語はGedankenで、これは思考の過去分詞の名詞形で「思考結果」というニュアンスがあります。そしてシュタイナーは、2種類のGedanke を述べています。(これについては、繰り返し書くことになります。わかっている人は跳ばしてください)。
  1. 人間のものではない、霊的・宇宙的な考えで、形成の力を持つ
  2. 人間の考えで、これは影のような写しであり、形成の力は失われている

Gedanke=「考え」をこうしたイメージで捉えて、はじめてシュタイナーの言葉が意味をなします。つまり、この「考え」が狭い個人的な覆いを破って、空間の彼方にまで広がり、その根源である宇宙的「考え」に向かいます。
そして最後に人間の本質を霊の存在に結びつけます。しかし、霊的修行を行う前ですと、このように結び付いても人間の意識はぼんやりしたままです。逆に言えば、こうした結び付きにおいて目覚めた意識を保つことが霊的修行の目的とも言えます。

「dumpf」をシュタイナーは「目覚めた」や「眠った」といった表現と共に、しばしば意識状態をあらわす語としてつかっています。それゆえ私(森章吾)は「ぼんやり」という訳語を選択しました。
それを高橋巖氏は「暗く不確か」とより鮮明な訳語で表現しています。はたりえこ氏は「ゆるやかに」、鳥山雅代氏は「かすかに」という訳語を選んでいます。「ぼんやり」という語が日本語としてネガティヴな響きを持ちますので、それを嫌ったのかもしれませんが、内容の本質は外しています。

2016年2月7日日曜日

《感受》の意味

■元のドイツ語

感受=Empfndung の訳語です。

■《知覚》との違い

日本語ではなじみのない表現ですが、知覚にかかわることをより精密に描写するために、訳語として導入しています。
シュタイナーが「感覚知覚」について述べるときには、

  • Empfindung(エンプフィンドゥング)と
  • Wahrnehmen(ヴァール・ネーメン)の

二つを使います。

Empfindungは感受
Wahrnehmenは知覚、つまり、Wahr=真実、nehmen=取る、「真実として取る」という意味です。

ドイツでの《感受》の典型的な用例としては、春先にくしゃみが止まらなくなった人が、「私は花粉に感受的になっている」といったものがあります。
この場合、身体は花粉に反応しいていますが、花粉の存在を意識的に知覚してはいません。

ですので、

  • 《感受》=無意識な体的プロセス
  • 《知覚》=感受されたものが意識化されるプロセス

というニュアンスで捉えることができます。

ただし、シュタイナーも常に厳密に区別して使っているわけではありませんので、常に文脈から理解する必要があります。

また、感受と知覚の違いは『一般人間学』第07講では重要で、シュタイナーは「感受は思考的要素ではなく、意志的要素」と語っています。

■感受魂

『神智学』や『神秘学概論』では、人間は体、魂、霊の3つに分けられ、それぞれがさらに3つずつに分けられることが述べられている。その中で、人間の魂には3つの構成要素があり、その中で感覚的物質界に向かって開いているのが感受魂である。
また、霊界に向けての窓口となっているのが意識魂、見たこと感じたことに沿って考える部分を悟性魂と呼んでいる。

2016年2月2日火曜日

炭素についてのゲーテ自然科学的考察、『農業講座』第3講、第10段落以降

炭素は自然界におけるフォルム形成の担い手

炭素についてシュタイナーは「自然界におけるフォルム形成プロセスの担い手である」と言っている。この点は、炭を見れば簡単に納得できる。木材などを炭にすると、そこには完全な《フォルム》が残る。

竹炭に保存される細部の構造


維管束の構造がそのまま炭に繁栄されている


炭にフォルムが残る理由

植物はセルロースやリグニンなどでその形を保つが、そうした素材は「炭水化物」と呼ばれる。その基本ユニットであるブドウ糖の化学式はC6H12O6で、炭素を水化した素材と言える。この炭水化物を燃焼ではなく加熱すると、全体としては蒸発せずに焦げ、炭化する。分子内の《水》が蒸発するのである。
セルロースの分子構造


デンプン(アミロース)の分子構造

ご飯を炊く様子を思い起こしてみる。
1.    米と水とを同時に加熱する。
2.    水がしだいに蒸発して少なくなり、同時に米のデンプンが変化する(お粥、あるいは固いお粥)。
3.    さらに加熱していくとご飯の周囲にある水がほぼなくなる。(炊けたご飯)。
4.    さらに加熱すると、ご飯の内部の水分も蒸発する。(干からびたご飯)。
5.    さらに加熱すると、デンプン内の酸素原子と水素原子が水となって蒸発していく。(焦げ)。
6.    十分に加熱すると、デンプン内から酸素原子と水素原子が完全に失われる。(炭化)。
しかし、ここでもフォルムは保たれる。まさに「フォルム形成の担い手」なのである。
こうしたことがおきるのは、炭素の昇華点が3642℃と非常に高いからである。
余談:炭素が液化するには高温高圧が必要で、地上では液化することはない。

人間のフォルム

人間の姿については常識的な考え方がある。つまり、骨格があり、そこに筋肉や脂肪が付き、それを皮膚が覆って人間の姿になっているというイメージである。
しかし、アントロポゾフィーでは異なった観方をするし、私はそちらの方が正しいと考えている。つまり、「人間の姿はまず熱で作られる」のである。つまり、固いものが柔らかいものの形を決めるのではなく、柔らかいものが形をつくり、それが次第に硬化していく。
例としては、子どもの骨格形成を挙げられる。幼児においては骨格はまだ十分には硬化しておらず、軟骨状態である。そこに炭酸カルシウムやリン酸カルシウムが沈着して硬骨が作られる。
このことを地水風火の次元で敷衍していくと、人間はまず熱によって形づくられることになる。大人ではさまざまな要因が加わりそれほど明確ではないが、小学生くらいの子どもではこうしたことの状況証拠が見つかる。がっちりと厚みのある手はほぼ温かく、細く骨っぽい手は冷たいことが多い。 

熱の担い手

熱を指先まで運ぶのは、血液である。つまり、血液の流れに沿って人間のフォルムが作られると言ってもよいだろう。そして、シュタイナーの認識ではこの血液が自我の担い手である。つまり、「自我が血液を介して熱によって人間フォルムを作り上げている」と言うことができる。
さて、痛風などでは身体が変形する症状が知られているが、これをシュタイナーは「自我の力が末端まで行き届かなくなることで変形が生じる」と言っている。
人間における熱の流れは非常に興味深い問題であるが、ここではこれ以上は触れない。

軟骨から骨(硬骨)へ


軟骨の主成分の一つであるコンドロイチンの分子構造を見ると、基本的に多糖類であり、デンプンと類似していていることがわかる。軟骨も原理的には加熱していけば炭素が残り、そのフォルムが保たれるはずであるが、現実には炭素分が少なく、フォルムが残ることはないと思う。いずれにしても、軟骨のフォルムは炭素によって作られると考えてよいだろう。そして、このフォルムにそってカルシウムが蓄積され、硬骨に変っていく。
これによって炭素は《支え》という役割から解放される。植物における第一の《支え》である細胞壁のセルロースはすでに死んでいることを考えると、人間や動物では、炭素が生命の領域で活動し続けることができている。この点をシュタイナーは「人間や動物では、一時的に支えの役割を担う」と表現している。