2014年9月20日土曜日

意識魂と悟性魂の違い

■意識魂と悟性魂の違い

シュタイナーは、ハイブリッド自動車やiPhoneを「悟性魂の産物」と言っています。つまり、物質界での生活を快適にするようなあらゆる工夫や思考結果は、悟性魂の産物です。
これらを実現させるためには、物質界の法則を手中に収めていなくてはなりません。つまり、思考によって、霊界の諸法則を認識していなくてはなりません。その意味では、霊的なものを人間の世界に降ろしてきているといえます。ところが、その霊的なものの役割は、人間の快不快のレベルに奉仕するものでしかありません。言い換えるなら、「快のために、思考の力を使っている」と言えます。

それに対し、意識魂ではベクトルが霊界から物質界向きです。霊界における真や善を受け取り、それを物質界に実現していこうとする方向を持ちます。霊界の秩序そのものに価値をおいている点が、悟性魂との違いです。霊界の秩序の実現には、個人的レベルでは苦が伴うことも多々あります。

また、悟性魂と並記される心情魂については、感覚界における心地良さを求め、感覚界からの刺激でそれが満足される部分というように、私は理解しています。

2014年9月12日金曜日

本能・・・肉体、衝動・・・エーテル体、欲望・・・アストラル体

■本能、衝動、欲望の関係



  • 本能・・・肉体
  • 衝動・・・エーテル体
  • 欲望・・・アストラル体

という関係の説明(特に、衝動と欲望は通常の意味との関係は考えないでください)

■本能が肉体に根ざす例

これ、何かわかりまっか?

…ワテの親分のでんねん。刃渡り5cmでっせ。
ワテのはちょっと小さうて、こんなもんやがな。

けども、こんなん持ってても、いっつも振り回してるわけやおまへん。
もちろん「引っ掻きたい」本能はおますネン。
(本能は肉体に根ざす。爪があればひっかくし、歯があれば噛みつくし、脚が発達していれば跳ねる)。

■衝動がエーテル体にかかわる例

せやけど、いつも引っ掻いているわけやないのは、ご存じでっしゃろ?
せやけど、今日はこの爪が妙にむずむずするネン。

まあ、爪が伸びるさかい(成長=エーテル的活動)、そうなると、むずむず(衝動)が止まりまへんネン。
(エーテル体は成長リズムをつかさどり、そこで強まったり弱まったりする)

■欲望がアストラル体の働きで発動する例

あっ!もうアカン。こんなん見たら、止まりまへんネン。
(知覚はアストラル体の働き。それによって欲望が発動する)

「やらなぁアカン」って感じ!


ワテの親分はこんな感じやネン。






















2014年9月3日水曜日

神経は反感的、血液は共感的

■神経は反感的、血液は共感的

シュタイナーの観察では、血液は共感的、神経は反感的と位置づけられる。血液は血管内に閉じ込められてはいるものの、そこから解放されると、周囲の世界に広がって行く、つまり共感的しぐさを示します。それに対し、神経は周囲からのものを中央に集める方向の活動、つまり反感的活動を行っています。こうした傾向は、神経や血液の形態形成にも見られます。

■ミエリン鞘は自己隔離的、赤血球は自己解消的


赤血球の操作電子顕微鏡写真(左側)Wikipediaより



2014年8月28日木曜日

文化期について(後アトランティス)

■第四文化期までは、人類は地上化・物質化

人類の進化では、昔は人間が霊界に近かったものが、各文化期を経る毎に物質界に近づいていったと言えます。



そして、第四文化期(ギリシャ・ローマ文化期)において、最も強く物質的・地上的世界と結びつきます。その際に、人間が霊界から完全に離れてしまう危機がやってきます。それを救う宇宙的な出来事がゴルゴタでした。それを期に、人類が進むべき方向が、「物質により深く入り込む」方向ではなく「霊界に再び帰依していく」方向に変ります。しかしそれは、人類の過去の状態に戻ることではありません。地上の物質をも含めて、《霊化》の方向に上っていくのです。こうした《物質の霊化》の例としては、シュタイナーが教えるバイオダイナミック農法における調合剤やアントロポゾフィー医学における薬剤などが挙げられるでしょう。

■後アトランティスの各文化期


  • 第一文化期:古インド文化期(B.C.7000年頃~)
  • 第二文化期:原ペルシャ文化期(B.C.5000年頃~)
  • 第三文化期:エジプト・カルデア文化期(B.C.2800年頃~)
  • 第四文化期:ギリシャ・ローマ文化期(B.C.747年~)
  • 第五文化期:ゲルマン文化期(1413年~)
  • 第六文化期:ロシア文化期

■芸術作品に現われたいくつかの文化期の特徴


エジプト期の人類の意識

Gottfried Richter著 Ideen zur Kunstgeschichte(芸術史における理念)を参考に

■エジプトの芸術

まず、メンカウラー王の彫像を詳しく見てみよう。

深彫りのレリーフのようで、板状の背景から三者が並んで前方に歩み出ている。背景から最も前方に出ているのは、メンカウラー王の左足であるが、その左足も背景の板とつながっている。右側の人物は両手に、王は左手に短い棒状の物を握っていて、非常な緊張感が漂っている。また、王は右手で女神と手をつないでいる。

背景と最も繋がりを感じさせるのは、三人すべて頭部の上にある部分である。左の女神イシスでは角と太陽円盤、メンカウラーでは冠、右側の人物では頭部から伸びた飾りのようなものである。

この彫像には、板状の背景から前方に歩み出る際の非常な緊張感が見られる。

この背景を仮定的に霊的世界と考えてみよう。すると、メンカウラー王はイシスに付き添われ、この物質界に緊張を持って歩み出ていると見ることができる。

■ケフレ王の座像

ケフレ王の座像も興味深い。

座ってはいるものの、身体全体に緊張感がみなぎっている。右手には短い棒状の物を握り、左手は膝の上にぴったりと置かれている。背筋はしっかりと伸び、堂々とした体躯もリラックスはしていない。頭部は前方に向けられ、身体に比べて解放された印象を受ける。
ところが、このケフレ王の座像を横から見ると、まったく違った事情が見えてくる。

正面からは見えない形であるにせよ、タカが両翼でケフレ王の頭部を抑えているのである。タカはホルス神と考えられる。つまり、王という存在の背後には、霊的存在であるホルス神がいて、常に王にささやきかけている。
エジプト期の人類は、まだまだ霊界とのつながりが強く、懸命に地上界に出てこようとしている、と言えるだろう。

■エジプト文化期との関係

シュタイナーの観察によれば、エジプト文化期(第三後アトランティス文化期)は紀元前3000年くらいから、紀元前800年くらいまでである。ここで紹介した像は、その後期のものである。しかし、エジプト芸術には「過去の踏襲」という特徴があり、かなりの年月を経ても、芸術表現はあまり変化していない。その意味で、上の彫像はエジプト文化期の基本的雰囲気を示していると考えても、問題はないだろう。

ロマネスク文化に現れた意識

■未開民族としてのヨーロッパ

原則としては、ゴルゴタの時が人類の最下降点であるが、それは人類の中でも最も進んだ状態で、人類の他の大多数は、その後も物質への下降を続け、物質とのきちんとした出会いに向かう。ギリシャ、ローマ、パレスチナ人に比べ未開人であったヨーロッパ人もその例外ではなく、その歩みが芸術の中に表れている。

■ロマネスク

12世紀末に始まるゴシック期に先駆け、ヨーロッパではロマネスク文化が広がった。ここには、まだ地上化しきっていない人類がさらに地上に向かう方向が読み取れる。
フランスのシャルトル大聖堂はゴシック建築として有名であるが、その西のファサードは1194年の大火でも焼失を免れ、それを残した形で再建されている。

■シャルトルの彫像

西の入り口の両側には、聖人が柱状のモチーフの中に彫り込まれている。

ここでは、その一点にだけ注目する。

足下である。小さな山の上に立っているのか、つま先がかなり下を向いている。この形を体験と共に観ると、これがまだ地上にきちんと立っていないことがわかる。重さの中にきちんと定位していないのである。

■聖母子の比較

次のステンドグラスは、シャルトルで焼失を免れた聖母子の、世界で最も美しいステンドグラスの一つである。

これについても、ゴシック様式との比較で一点だけ触れておく。
それは、母と子の位置関係である。ロマネスクでは、子は母の領域を越えることなく、母の輪郭の内側に留まっている。

しかし、ゴシックでは(ここでは彫像なので比較としては最適ではない)子どもが母の輪郭線の外に出ている点である。
つまり、母的存在に完全に守られているのを快しとするか、母的存在からはみ出しているのを快しとするかの、人間意識の差であるとも言える。
つまり、完全に地上存在に成りきれず、霊的世界(母親)に包まれている状態にあるロマネスク人と、霊的世界から踏み出し、重さとせめぎ合うのがゴシック人と言うことができる。

■二つの「栄光のキリスト」

バルセロナの北、ピレネーのカタロニア地方には、カタロニア・ロマネスクと呼ばれる様式が残っている。
その一つが下の「栄光のキリスト」である。

全体に素朴な絵であるが、ここではその目に注目する。

いわゆる三白眼で、黒目は上を向いている。ここでは多くの作品は紹介できないが、カタロニア・ロマネスクではこの三白眼は珍しくはない。



それに対し、先進地イタリアのサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」では趣がかなり違う。

まず、その目である。

黒目がしっかり座り、地上的存在になっていることを感じる。
さらに特筆すべきは、キリストが座っているクッションである。

クッションが跳ね上がっているのである。つまり、このキリストには《重さ》がある。言い換えると、完全な地上存在になっているのである。
繰り返しになるが、このような絵が描かれたのは、それを見る人びとの意識が、それを求めたからである。つまり、絵や芸術作品の変化は、その時代を生きる人間の意識の変化を示している。そして、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会では、重さのあるキリストを身近に感じたのである。

■言い訳

カタロニアとサンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の「栄光のキリスト」の時代を比べると、実は、サンタンジェロ・イン・ヴィンコリ教会の方が古い。しかし、私はこれを「地域の発展度」の違いと勝手に解釈している。

ルネサンス・・・自らの内に中心を感じる

■ブレネレッキによる透視遠近法の発明

ヨーロッパにおいて、自我の目覚めはルネッサンスにおいてやって来ます。その中でも特筆すべき出来事は「透視遠近法」の発明です。透視遠近法によって、人類は外的物質空間を描き始めます。それ以前の絵画では、「対象に対する内的な近さ」によって描き分けられていました。つまり、重要な人物は遠方に居ようと、大きく描かれるのです。その意味では「内的意識空間」が絵画に反映されていました。ところが、透視遠近法により、物質空間が絵画に取り込まれたのです。



透視遠近法においては、

  • 自分から遠ざかる平行線が、画面上の消失点交わり、
  • その消失点は、画面に向かった私の視線の延長線上にある、

という現象が起こります。言い換えますと、透視遠近法では、空間内の無限遠点を意識するのと同時に、私の立ち位置も意識せざるを得ないのです。
このように、ルネッサンス期には、人間が物質的外界と出会うことで人間も自分自身の地上存在を意識し始めるようになります。その代表的な作品が、ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』とデューラーの諸作品、特に『自画像』です。

▲ファン・アイクの『アルノルフィーニ夫妻像』

細部まで「見えるままに」描ききろうとする努力は明らかです。

凸面鏡の中には、描いている自分も描き込まれています。
諸説はありますが、絵のほぼ中央に自らの名前を署名しています。個としての自分をしっかりと意識していたことが伺われます。

▲デューラーの『自画像』

デューラーも名人芸的描写力で物質界を描きました。そしてまた、自画像という画題が、自己意識の強い現れであることも確かです。

■それ以前の兆候

13世紀のジョットでは、絵画の中に情景の意味が深く盛り込まれています。それが当時の意識と合致していたのです。


スティグマを受けるフランチェスコ

14世紀に活躍したシモーネ・マルティーニの『受胎告知』では、背景は完全に金屏風になっています。その意味では、ガブリエルによる受胎告知を物質界からは離れて描いたように見えます。



しかし、全体をよく観ますと、この画家が床の大理石を丁寧に描いていることがわかります。



画家としての情熱を注いでいる、と言ってもよいかもしれません。このように、「物質に対する目覚め」は着実にやって来ていて、それがルネッサンスで花開いたのです。

■ブレネレッキによるフィレンツェのドゥオモ



フィレンツェの大聖堂を完成させたのも、最初に紹介したブレネレッキです。その空間体験は、それ以前のゴシック様式とはまったく違います。

ゴシックの天井

ゴシックでは、《内部》は強く感じますが、《中心》はありません。ところが、ドームではその構造からも明らかですが、《中心》を強く感じるのです。そして、ルネサンスの人びとは、それをよしとしたのです。

デゥオモの内部