2015年6月9日火曜日

『農業講座』第8講、コーベルヴィッツ、1924年6月16日

■08-01

この時間の後には皆さんのご要望に沿って質疑応答の時間が設けられていますが、この最後の短い時間の中で、可能な限り多くのことを補い、また実践的な事柄にも触れたいと思います。 今日はまさにそうした具体的な実践を取り上げますが、これを定式的に一般化するのは非常に難しく、ほとんどが個体化されたものであり、個別なやり方をしなくてはなりません。 まさにこの理由から、この領域では特に霊学的洞察を身に付け、それを理解した上で個体化への方策へとつなげることができる必要があります。

■08-02

今日のところ、最も重要な一分野、つまり家畜飼育の分野においてわずかな洞察しか存在しないことを考えてみてください。 この方面に向けてこんなにも多くの処方がなされていますが、本質的には何も良くなっていません。 飼料はどう与えるべきでしょうか。 家畜飼育の本質の問題を含む洞察を高めることに農業的研究を向けるならば、この問題は確実に改善すると確信しています。 今日はそれに向けて幾つかを述べたいと思います。

■08-03

すでに示唆してきましたが、動物や人間にとっての栄養摂取の意味はまったく間違って理解されています。 つまり、外部から栄養物が摂取され、おおかたの想像のとおり、そこでさまざまな変化が起こり、生体内に蓄積されるという大雑把なシナリオではないのです。 大雑把には、外に栄養物があり、それを動物が摂取し、必要なものは貯蔵し、必要のないものは排泄すると考えられています。 そして、そこから必然的にさまざまなことを見つけます。 たとえば、動物の負担にならないように、栄養価の高いものを与え、食べ物から栄養をできるだけ多く摂れるようにと考えます。 この領域では事柄を物質主義的に区別するのが好まれますから、本来の栄養物となる物質と生体内での燃焼作用を促す物質とを区別します。 そして、それを基礎にあらゆる理論を構築し、それを実践に応用します。 ただそこでは常に検証が必要で、いくつかは適合するが多くは不適合であるとか、しばらく後には不適合とされ、何らかの変更が必要とされます。 そして、これ以外のやり方を望めるでしょうか。

■08-04

人は、生体内の燃焼過程を問題にします。 生体内には燃焼過程などまったく存在しませんし、生体内における酸素と何らかの物質の結合は燃焼過程とは別です。 燃焼とは、鉱物的、非生命的自然における過程です。 生体と水晶がまったく異なるのと同様に、生体内での燃焼過程とされるものは、外界での死んだ燃焼プロセスではなく、いくらかの命を伴う、さらにはいくらかの感受を伴う過程です。

■08-05

上述のような表現をとり、それによって思考が特定の方向に導かれることで、さらにひどい災いを招くのです。 生体内の燃焼と言っている人は、その場しのぎを言っているだけです。 その場しのぎを言ったとしても、もし正しいことを見ていて、実行に当たっては本能か伝統にしたがってかなり正しいなら、問題はありません。 しかしその場しのぎの言い回しがしだいに高じて、こうした事柄についての専門家気どり心理症にまでなりますと、……私はこの言い方をよくします……、彼らはその場しのぎの言い回しから豊かな精神を盛り込んだ理論を構築します。 そしてこの理論に沿って行動しますが、事柄とはちっとも噛み合いません。 つまり植物や動物で生起することと、それについて語られていることはまったく違います。 自然とはまったく適合しないことを行なうのでは、現代の特徴的な現象です。 ですから、この分野で何が問題なのかを少し考えてみなくてはなりません。

■08-06

昨日、植物には物質体とエーテル体があり、その上の方には多少なりともアストラルが漂っているというところまで考察しましたが、それをさらに考察してみましょう。 植物自体はアストラルには達しませんが、漂うアストラルに取り巻かれています。 果実の形成ではそうなのですが、植物がアストラルとある特定のつながりを持ちますと、何らかの栄養になるものが作り出され、それが動物や人間のアストラルを支えます。 この過程の内側を見ますと、何らかの植物や何らかの別なものが、動物体内で何かを支えるか否かがわかります。 しかし対極にあるものも見なくてはなりません。 その対極には非常に重要なものがあるからです。 これについてすでに触れていますが、もう一度、ここでは飼料のやり方についての基盤を作ることが問題になっている点を明確にしておきます。

■08-07

動物の飼料を問題にしていますので、動物から出発しましょう。 動物では、人間に見られる明確な生体三層構造は見られません。 動物にも神経感覚機構と新陳代謝・四肢機構があることは述べました。 この二つは互いにはっきりと分かれていますが、その中間のリズム機構は多くの動物で不明瞭です。 感覚機構並びに代謝機構に由来するものがリズム機構に入り込んでいるので、動物は人間と同列には語れません。 人間の場合には、この三層構造が非常に明確です。 しかし動物では、主に頭部に局在する神経感覚機構と、後半身や四肢で組織化されるものの身体全体を浸透している代謝四肢機構を問題にするとよいのです。 そして中間部分は、動物では人間より代謝系も神経感覚機構もリズム的で、この両者が互いに入り込み合い、結果として動物ではリズムがさほど独立的に現われません。 両極が混ざり合った不明瞭な響きです(図参照)。 したがって動物では生体の二層構造を考えるべきで、この二つの部分が中央部で互いに混ざり合い、それで動物的機構が成り立っています。


■08-08

さて頭部機構における物質のすべては……これは人間にも当てはまりますが、今は動物に限ります……、地上的物質からなります。 頭の中にあるものは、地上的物質です。 胎児期にすでに地上的物質が頭部機構に運び込まれます。 胎児の生体機構は、頭部が地球由来の物質を受け取るように作られているはずです。 つまり頭部内には地上的物質が入っています。 これに対し、腸、四肢、筋肉、骨などを形成するすべての代謝四肢機構内の物質は《地》ではなく、《地》より上にある《風》《熱》に由来するものです。 宇宙的な物質です。 動物が食べた物質的素材が蹄までやって来てそれが蓄積することで蹄が形成されたかのように見ないことが重要です。 これは正しくなく、感覚と呼吸を通して宇宙的素材が摂取されています。

■08-09

食べたものとは、動物内で運動力を発生させるだけです。宇宙的なものを蹄といった代謝四肢機構の中に送り込み、そこを宇宙的な物質で満たすに当たって必要な運動力を生じさせるのです。 それに対してこの宇宙的諸力は逆向きです。 この頭部には主に感覚系が配置され、感覚が宇宙から知覚し、宇宙的諸力と関係します。 人が歩く時には絶えず地球の重さが働きかけますが、それと同様に四肢で行なうことはすべて地上的なものと結びついています。 それを考えますと、代謝四肢機構内は地球的地上的な諸力と関係していて、つまりは宇宙的素材と地上的諸力です。

■08-10

牛を役用にしようとする場合、宇宙的素材をできるだけ多く得られるようにし、宇宙的素材を四肢や筋肉、骨の隅々にまで行き渡らせるための力が生じうるように、胃を経由してくる栄養を考えなくてはなりません。 頭部での物質として必要になるものはまさに栄養物から取り込まれなければならず、胃を介して導き入れられた栄養物が頭部に導かれ、加工されなくてはなりません。 そのことも知っている必要があります。 頭はまさに胃と関係していますが、足指は違います。 肉体から摂取した栄養物を頭部が自分のものへと加工するには、相応の形で宇宙の諸力を引き込むことができるときです。 つまり動物を薄暗い家畜小屋に閉じ込めますと、動物に宇宙的諸力が注がれなくなります。 そうではなく、牧場に連れ出し、周囲の世界と感覚的知覚的な関係を結ばせてやる機会を与えるのです。 そこでは次のようなことに注意する必要があります。

■08-11

どんよりとした家畜小屋につながれ、人間の叡智が適切と認める餌が入った飼葉桶を前に置かれた動物を想像してみてください。 たとえば嗅覚といった自分の感覚にしたがって戸外で自由に自分で食べものを探し、嗅覚による指針で宇宙的諸力をたどり、栄養物を探し、それを自分で摂取し、この受け取ったものや栄養物から自らの活動すべてを発達させる動物と、何の気晴らしもない動物とは……外に出なくては気晴らしもできません……まったく違います。

■08-12

飼料桶を前に置かれた動物では、宇宙的諸力を内に持たないことはすぐには現われません。 しかしこれは次代に継承され、やがては宇宙的諸力をこうしたかたちでは生まれつき持たない子孫が生まれてきます。 この動物は頭部から弱くなります。つまり、これも身体に取り込まれるべきである宇宙的素材を取り込むことができないので、身体に栄養を与えることができなくなります。 こうした事柄からは、「この場合にはこの飼料を、あの場合にはあの飼料をやればよい」などと簡単に言うべきではないことがわかります。 それよりも、特定の餌のやり方が動物有機体全体の本性に対し意味があるというイメージを持つことが望ましいのです。

■08-13

さらに話を進めましょう。 頭部には何が詰まっているのでしょうか。 地上的素材です。 脳という動物の最も高貴な器官を切って取り出すと、その中にあるのは地上的素材です。 人間でも脳は地上的素材であり、諸力だけが宇宙的で、素材は地上的です。 脳は何の役立つのでしょうか。 脳は自我の基盤として役立っています。 しかし動物にはまだ自我はありません。 これはしっかり押さえておきましょう。 脳は自我の基盤になりますが、動物にはまだ自我はなく、動物の脳は自我形成の途上にあるのです。 人間の脳は、自我形成に向けてさらに進んでいます。 動物には脳がありますが、これはどのように生じたのでしょうか。

■08-14

有機的活動の全体を見てください。 地上的物質的なものとして脳内で現われてくるものはすべて、有機的プロセスから排出されたものです。 自我の基盤として支えるために、脳内で地上的物質が排出されるのです。 さて、摂取された栄養から代謝四肢系の消化系によって形成された一定量の地上的素材が、このプロセスの基盤としての能力を持ちますが、それは消化系から地上的栄養物が頭部や脳に導き入れられるためでした。 そして、脳にはこの道筋を通って脳で排出されたある特定量の地上的素材があります。 しかしこの栄養物の素材は脳内に排出されるだけではなく、その途上の腸内でも排出されます。 それ以上加工されえないものが腸の中で排出されますし、ここに一つの非常に矛盾に感じられる類縁関係が現われてきます。 しかしこの類縁関係は、人間や動物の有機体を理解しようとするなら、決して見逃してはいけません。 脳の塊とは何でしょうか。 脳の塊とは、単に腸での塊が終点にまで達しているのです。 脳での排出が早められ、腸で排出されているのです。 プロセスという観点で言えば、腸の内容物は脳の内容物と完全に類縁なのです。

■08-15

グロテスクな言い方をすれば、脳に詰まっているものは一歩先に進んだ厩肥の山なのですし、これは事実としてはまったく正しいのです。 厩肥とは、有機プロセスによって脳という高貴な塊に変えられるものであり、そこで自我発展の基盤となるものなのです。 人間はこの地上で自我を持ちますので、腹内の厩肥が可能な限り多く脳厩肥へと作りかえられています。 動物では脳厩肥に変ったものがより少なく、腹内の厩肥が多く残るので、それを実際の肥料として使えるのです。 そこには素地としての自我がより多く残っています。 動物はそれを自我にまでしませんから、より多く素地としての自我がそこに残るのです。 ですから動物と人間では、糞はまったく別なものです。 動物の糞には自我の素質が残っています。 根に外側から厩肥を施しますと、根に、植物に自我をもたらしていることがわかります。 ここで植物全体を描きますと(図)、下には根があり、上には葉や花がつき、この上の方では空気とのやりとりの中でアストラルが展開し、この下では厩肥とのやりとりで植物の自我素地が展開します。


■08-16

こうした農場は実際、有機体です。 この有機体は上方にアストラルを展開し、つまり果樹や森が存在することでアストラルが展開するのです。 そして地面の上にあるものを動物が正しく食べますと、動物はその厩肥の中に真の自我力を展開し、それはさらに植物を根から正しい仕方で重さの方向に成長させます。 これは素晴らしい相互関係です。 こうした相互作用を、私たちは積極的に理解しなくてはなりません。

■08-17

このようにすることによって、農場は一種の個体であることがおわかりでしょう。 動物が多少なりともこの相互作用に含まれ、また植物も多少なりともこの相互作用に含まれていなくてはならないことが洞察されるでしょう。 ですから、厩肥を農場に生きる動物から得るのではなく、動物を飼育を止め、南米のチリから肥料を取り寄せたりすれば、それだけで自然をある意味で損なうことになります。 自給自足的であるべき何かを、それ自体で閉じた循環でなくしてしまうからです。 当然ながら、それ自身で自己完結できるように事物を調整しなくてはなりません。 農場には、その農場にとっての適正な質と量の糞が得られるだけの、適正な種類と頭数の動物が居なくてはなりません。 さらに、飼おうとしている動物が求め、本能から食べようとする植物を植えることも、そこから必然的にわかります。

■08-18

農場が個になるのですから、この試みは当然、複雑です。 しかし、ここでまさに問題なのは、その試みが行なわれるべき方向を示すことです。 そこでは多くのことが試されるでしょう。 すると実践法則が自ずと生まれますが、あらゆる実践法則には指針があるのが望ましいのです。 つまり、農業をできるだけ自己完結的にし、それ自身で成り立つようにするという指針です。 ただし、完全にではありません。 なぜでしょうか。 霊学的立場から事実に即して観察することによって、私たちが狂信的になることはありません。 今日の経済秩序の中では、この試みは外的に完全には実現しません。 しかし可能な限りそれを達成しようとするのが望ましいのです。

■08-19

こうした原則がありますと、動物と植物の有機体としての関係を具体的に、つまり有機的な飼料のつながりも見出されます。 このことを、まず一般的、全体的に観てみましょう。

■08-20

根を観てみましょう。 通常、地中で成長し、厩肥のおかげで、自我になろうとする力に満たされた根です。 地中に根がどのようにあるかというそのあり方全体を通して、根はこの未来的な自我力を吸収します。 さらにこの未来的な自我の吸収は、根が適正量の塩類を地中に見出せることで助けられます。

■08-21

単純に、今まで考察してきたような根があると仮定しましょう。 根とは、人間生体に取り込まれたときに、消化を経て頭部に最もたどり着きやすい栄養物であることを説明しておかなくてはなりません。 次のような条件のとき、私たちは根の栄養物を用います。 つまり、頭部に働く宇宙的諸力がその彫塑的活動を展開するのにふさわしい物質素材を動物の頭部に与えるという条件です。 次のような文があると思ってください。 「できるだけ活発な感覚的なつながり、つまり宇宙的環境に対して関係を作り出すために、頭部に素材を導き入れる必要のある動物には栄養として根を与えなくてはならない」。 皆さんはすぐに仔牛とニンジンを思い浮かべなかったでしょうか。 仔牛がニンジンを食べると、このプロセス全体が完結するのです。 皆さんが、物事がどのような姿か、それがどのように活動するかをわかって何かを語る瞬間には、そこで起こるべき事柄に眼差しを向けているのです。 そこでのこの相互プロセスがどのようであるかを知っているだけでよいのです。

■08-22

先に進みましょう。 仔牛にニンジンを食べさせ、素材が実際に頭部に導き入れられたとしますと、逆向きのプロセスが始まりうるはずです。 つまり、頭部が意志的に働くことができ、さらにそれによって生体内に諸力を作り出せなくてはならないはずです。 その結果として、そうした諸力が生体内に入り込んで作用を受けることができるのです。 単にニンジンからの糞が頭部に蓄積されるだけであってはなりません。その蓄積物、つまり分解作用を受けているものから、諸力の放射が生体内に入り込んで行かなくてはなりません。 ここで第二の栄養物が必要になります。 この頭部という身体の一部で働いた後で、この一部を正しい仕方で生体の他の部分において働かせることのできる栄養物です。

■08-23

もう一度、見てみましょう。まずニンジンを与えました。 私はここで、頭部から生じうる諸力によって身体がきちんと浸透されることを望んでいます。 ここで私は、自然界で放射状の形をしたもの、あるいは放射状の形を集め、いわば濃縮した形成に集約したものが必要です。(「放射状」は「直線的に伸びる」という意味合いと考えられる)。 何が必要でしょうか。 ニンジンの次に必要な飼料とは、植物内で放射状に移行し、さらにその放射的な力が集約しているものです。 こうしてアマ(亜麻)やその仲間が目にとまります。 幼獸にニンジンとアマ、あるいは違った仕方で集約的な新鮮な干し草とニンジンを与えますと、それによって動物全体に実際に入り込んで支配的に作用するもの、動物が持って生まれた道筋にその動物を導くものが手に入ります。 一方で自我力を促し、もう一方で上から下に向かうものをアストラルで満たすのを助けるこうした飼料を幼獸に与えてみる必要があります。 茎の長い植物ではとりわけそうした作用があります(図参照)。 そして、本来の成長のままに茎を長く伸ばさせ、茎長にし、干し草にします。 この事柄はこのように見ますし、農業全体も同様に見るのが望ましいのです。 あらゆる物について、それが動物から大地への道を取るのか、植物から動物への道を取るのかによって、その物に何が起きるのか知っていることが望ましいのです。


■08-24

この点をさらに掘り下げましょう。 この中央部が強くなるべき動物を取り上げましょう。 中央部では神経感覚機構である頭部が呼吸に向かってより発達し、さらに代謝機構もリズム系に向かってより発達し、そこで相互に混ざり合っています。 この中央部が強化されるべき動物と何でしょうか。 それがまさに乳牛です。 乳牛では中央部が強くなる必要があります。 動物の中間部が強くなることで、乳生産の要求が満たされます。 では、どこに注目する必要があるのでしょうか。 頭部から後ろへの主に諸力の流れであるものと後部から前への主に素材の流れであるものの中で正しい共同作用が生じているかに目を向けなくてはなりません。 この正しい相互作用が行なわれ、後方から前方に流れる素材に、前方から後方に流れる諸力が可能な限りしっかりと作用しますと、良質で豊富な牛乳が生産されます。 良質の牛乳は、代謝において特別に形成されたものを含むからです。 そこには生殖系をまだ通過していないものの、消化プロセスによって可能な限り生殖消化系に似せられた準備的素材が含まれています。 牛乳とは変容された性腺分泌物です。性的分泌物に向かう途上的素材に頭部諸力が対抗的に作用することで変容されたものです。 このプロセスの内部を、私たちは完全に見通すことができます。

■08-25

さてこのように形成されるべきあらゆるプロセスに対し、自我力を吸収している根ほどには頭部に向かって作用しない飼料を探さなくてはなりません。 しかし、生殖的力との類縁性を保たなくてはならないので、アストラルを多く持ちすぎたもの、つまり花や果実に近いところにあるものを飼料にすることもできません。 牛乳の生産が問題なのですから、花と根の中間、緑の茎葉部分、葉や草として展開するものすべてに注目する必要があります(図参照)。 牛乳の量を増やしたいというもう一つの場合には、より多くの牛乳を生産できるはずの乳牛では、次のようにすれば必ず増やすことができます。

■08-26

こうした関連がありますから、まず乳牛に草本の茎や葉を与えたと仮定します。 牛乳の生産量を増やしたいわけです。 私は牛乳の生産量を上げられると考えています。 何をするでしょうか。 開花や結実の際に生じる結実プロセスが茎葉プロセスに持ち込まれた植物を飼料にするのです。 これをしているのは、たとえばマメ科植物、特にクローバー類です。 クローバーの素材の中にはさまざまなものがあり、ちょうど草本のように結実的なものも持っています。 雌牛をそのように飼育しても、その雌牛自体にはそれほど明確な成果は現われません。 しかし仔牛を産みますと、その仔牛はいい乳牛になります。 ……飼料によって改良する場合には、通常、一世代が終わって完結します……。 こうした事柄では、ある一つのことを特に注意して見なくてはなりません。


■08-27

この分野では、本能的叡智からの古い伝統が消滅してからも、ほとんどの場合、幾つかの事柄をしっかりと保持しつ続けていますし、それは一部の医者が、その理由はわからないにしろ、それがいつも役に立ったので、いくつかの治療薬を持ち続けたがるのと同じです。 人は、こうしたかたちで古い伝統からの幾つかを知ってはいますが、そうする理由はわかっていません。 さらには、いろいろ試し、その試した量を決め、これは食肉用、これは搾乳用等々と決めていきます。 試行錯誤で行なわれている場合と同じようなことが、この事柄でもしばしば実際に起きますし、この試行錯誤が偶然に任される場合にはなおさらです。 誰かが多くの人がいる所で喉の痛みを感じたとしましょう。 するとその人を心配して、何人もがその人に助けになる何かをくれます。 30分もすると、薬局ができあがります。 これらの薬を服用したとしますと、お互いに効果を打ち消し合い、胃は確実におかしくなり、喉の痛みは改善しないでしょう。 このようにして、なされるべき単純なことが種々のしがらみによって非常に錯綜したものに変りうるのです。

■08-28

ところが、飼料についても試行錯誤しますと、これと似たことが起こります。 何かを適用しますと、ある面では適当であっても、別な面では適当ではないからです。 そこで次の飼料を使いますと、それも何かには役立ちます。 こうして相当数の飼料を手に入れますし、それはそれぞれ仔牛や食肉牛にとって何らかの意味を持っています。 しかし複雑になりすぎて、全体を見通せなくなります。諸力の関連を見渡すことができなくなっているからです。 あるいは、それぞれが互いに効果を打ち消し合ってしまいます。 これは畜産では実際に起こりますし、特に中途半端に農業を研究した人ではよく起こります。 本を調べたり、学んだことを思い出して「仔牛にはこれこれの飼料を与え、食用牛にはこれこれ」と。 そうしたものを見て調べます。 しかし状況によっては、本で読み知ったことは、本のない頃から存在していたやり方と矛盾しますので、大したことは出てきません。 私が述べてきた思考法から始めるときにのみ、また、動物の飼料を多くの点で単純化し、全体を見渡せるときにのみ、合理的なやり方ができるでしょう。

■08-29

ニンジンやアマはこのように作用すると見通せます。 これは見通せます。 すべてを混乱させてしまうことはありません。 動物に与えるものの働きを見通せます。 完全に意識的に、完全に考え抜いてこのように行なうときに、人が農業とどう向き合っているかをご想像ください。 こうして、複雑化に向けてではなく、単純化に向けた飼料の与え方を獲得していくのです。 試行錯誤によってしだいに見つかった事柄の非常に多くは正しいのですが、しかし体系的でも厳密でもありません。 現在行なわれている厳密性は、真の意味では厳密ではありません。 事柄を無秩序に一緒くたにし、見通すことができないからです。 それに対し、私が示してきたようなものは、単純ですので、その単純な作用を次々と動物生体まで良好にたどることができます。

■08-30

ここで別の問題を取りあげます。 事柄を、開花的な作用、花における結実的作用という観点から見てみましょう。 この場合はさらに植物の他の部分における結実作用も見なくてはなりません。 植物はゲーテが好んだある特徴を持っています。 通常なら個別の器官に特化している素質が、ここでは植物全体に残っています。 ジャガイモではそうしませんが、他の植物では、次世代の植物を得るために、花に現われた果実の素地を地中に植えます。 ジャガイモでは、塊茎の芽を使います。 多くの植物ではそうはしませんが、ジャガイモではこの塊茎の部分に結実作用があります。 自然界では、必ずしもすべてが最終段階まで発展しませんが、この最終段階にまで達していない結実作用を、外的燃焼と何らかのかたちで似たプロセスによって高めることができます。

■08-31

太陽光の下に広げて水分を幾分蒸発させ、植物に元々あったプロセスを少し先に進め、結実へと向わせますと、植物から乾燥片へと受け継がれるものの実効性が高められます。 この根底には素晴らしい本能があります。 世界を理解しようとしながら観察しますと、人はなぜ火食を思いついたのか、という疑問が生じます。 これ自体が疑問です。 日常において自分と一体化しているものについて、人は普通、疑問を持ちません。 なぜ人は食物を火食を思いついたのでしょうか。 食物を加熱するようになったのは、次の二つがしだいにわかってきたからです。 まず、結実化に向かう作用とは、燃焼プロセス、加温プロセス、乾燥プロセス、蒸気プロセスといった加温調理におけるプロセスと同じ役割を果たすことです。 次に、特には開花や種子形成のプロセス、また間接的なものにまで広げれば植物の上部部分でのプロセスは、動物の代謝四肢系で展開されるべき諸力を促す働きがあることです。 花や種子を飼料にすれば、それらの部分は、その素材によってではなく、主にその力展開として、動物の代謝系や消化系に作用します。 代謝四肢系は地上的諸力を必要とするからです。 そして代謝四肢系が必要とするだけ、そうした諸力を手に入れられなくてはなりません。

■08-32

アルプスで牧草を食べている動物を取り上げましょう。 これらの動物は平地の動物と違い、困難な状況のもとで歩き回らなくてはなりません。 地面が平らでないというだけでも状況は困難です。 平地を歩くか斜面を歩くかでは違いがあります。 こうした動物は、四肢部分において意志発動による諸力によって発達するものを受け取っているはずです。 そうでなければ、これらは決して良い労働用、搾乳用、食用動物になりません。 ですから香り豊かなアルプスの牧草に由来する栄養を十分に摂取できるように配慮しなくてはなりません。 アルプスでは、太陽の加熱プロセスによって、花のあたりから結実作用、開花作用へと自然そのものによってさらに手を加えられています。 しかし人工的な加工によって四肢に力を送り込むこともできます。 つまり、煮たり茹でたりするのです。 葉はあまり茂らせずに、すぐに開花し、実を付けることへ移行していく、はじめから開花や結実の傾向が強い植物の実となる部分や花となる部分を用いると、それが最上です。 あまり葉を繁らせず、勢いよく花に向い、実を付けるものはすべて、加熱するとよいのです。

■08-33

そして人間では、そうした事柄を時折、自分に照らして見るのがとてもよいのです。 そうしませんと、人間に端を発する事柄、つまり怠け者に堕ちていくという斜面のことはわからないでしょう。 こうした怠け者への斜面に居る場合があります。すると、独り言を漏らすかもしれません。「こんなに一日中、働き回る生活では、私は真の神秘家になどなれない。 静かに過ごせるとき、私自身からも私の周囲からも私を煩わすきっかけがないとき、周囲に向かって「あちこちで働き回る力は私にはないので、真の神秘家になれるだろう」と言える状況であるとき、そうしたときにだけ私は真の神秘家になることができる。 それなので、栄養も真の神秘家になれるようなものにしてみよう」。 さて、こうして人は生食主義者になり、食べ物をいっさい加熱しなくなります。 こうした事情はすべて背後に隠れていて、通常は表には現われません。 生食主義になりますと、神秘家に向けての急斜面にいるようなもので、さらにその人がはじめから肉体的に虚弱ですと、それがさらに進み、非常に大きく前進することになります。つまり、ますます怠け者に、言い換えるとますます神秘家になっていくのです。 人間で生じることは動物にもまったく当てはまりますから、これで動物を活発にしてやる方法がわかるでしょう。

■08-34

人間では別のケースもありえます。 元々強い肉体を持った人が、後になって気が変り、神秘家になろうとしたとしましょう。 彼は強い肉体的な力を内に持っているかもしれません。 そうすると、彼が内に持つプロセスや、食べた生の食品をさらに変容させる諸力を発展させます。 この場合、害は少ないのです。 そして、通常なら下方に留まりリュウマチや痛風を生み出す力を上方に引き上げ、さらにそこに手を加えますと、この生食主義者はさらに頑健になります。

■08-35

天秤に二つの秤皿があるように、あらゆる事柄にも二つの側面があります。 ですから両者を別個化するやり方を理解する必要があります。 一般原則を当てはめることはできません。 菜食的な生活には、体内にそのまま放置すると痛風、リュウマチ、糖尿病などの原因になる諸力を生体から引き出し、それによって人間を強健にするという利点があります。 もし菜食だけですと、こうした諸力は食べた植物を人間のために成熟させるために働かざるをえなくなります。 しかし同時に動物を食べますと、こうした諸力は生体内で使われないまま蓄積され、さまざまな身体部位に代謝産物を蓄積したり、あるいは糖尿病などで見られるように、人間が持つべきものをその諸力が生体から奪い取り、自分のために消費したりすることによって、その諸力自身のために使われます。 こうした事柄は事柄を洞察することでしか理解できません。

■08-36

次に、どのようにして動物を太らせるかを取り上げますが、それには次のように言えばよいでしょう。 「そこで行なえばよいのは、袋の中にできるだけ多くの宇宙的素材を詰め込むことである」と。 実際太った豚は天上的動物です。 太った豚の内側は、神経感覚系を除けば、地上的ではなく、宇宙的な物質で満たされているからです。 摂取された食物は、豚によって取り込まれるべき、あらゆる方向から来る有り余るほどの宇宙的素材を身体内に分配するために必要なのです。 豚は、宇宙から引き込まれるべきものを体内に分配しうるために、食物を摂る必要があるのです。 他の食用動物も同様に、宇宙的素材を体内に分配するために食物から諸力が必要なのです。 食用動物は、煮たり蒸したりして結実作用をさらに進めた状態にし、元々、結実的であったものがさらにそれが強まったもの、たとえばピートでは、元来あったもの、以前の野生状態よりも、さらに栽培で手をかけることで大きくなったピートを与えることで、太るのです。

■08-37

同じやり方で続けて、たとえば食用動物には何を与えるべきかを問うことができます。 それは宇宙的素材の分配にあたって極力役立つもの、つまりまず結実作用に対抗するもので、さらには正しく手を加えられたものです。 そうした条件を満たすものとしては、油かすやその類です。 そうした食用動物では、頭部に何も手をかけないでおいてはならず、地上的素材が動物全体を通り抜け、頭部にまで上って入り込まなくてはならないことも付け加えておかなくてはなりません。 この場合、今述べた飼料にあるものをわずかに混ぜる必要があります。 頭部は多くは必要としませんから、わずかでよいのです。 それを少しだけ加えなくてはなりません。 食用動物では、わずかな量ではあっても飼料中に根的なものを混ぜるとよいのです。

■08-38

ある種類の素材、純粋な素材で何かの特別な課題を持たない素材があります。 一般論としては、根的なものは人間の頭部に対し、花的なものは代謝四肢系に対し、茎葉的なものはリズム系に対してその素材性から役割を持ちます。 動物生体のあらゆる部分に関連を持つがゆえに、それを人間が外から補填すべきものがあります。 それは塩類です。 食べ物の中に塩はわずかしか含まれませんから、そのことから、人間でも動物でも、塩の添加では、量ではなく正しい質が重要で、少量ではあっても適正な質であればその目的を達成できることがわかります。

■08-39:トマトについて

さてもう一つ特に重要なことをお話ししますが、これについては、その食品を好む人間を観察するところまで拡張できるような正確な実験をきちんと行なっていただくようお願いしたいのです。 ご存知のように、比較的近年になって、食品としてのトマトが現われました。 トマトは多くの人にとても好まれています。 しかしこれは、非常に重要な研究対象でもあります。 トマトでは生産から消費まで、非常に多くを学べます。 こうした事柄について少しばかり考える人ももちろん今日、確かに居ますが、彼らはトマトを食べることが人間に重大な意味を持つことに気付いていますし、しかもそれはまったく正当なのです。 そして、動物もトマトを食べ慣れますから、これは動物にも拡張できます。 生体内において生体から外れ落ち、生体内で独自の組織になっていくもに対し、大きな意味を持つのです。 そこからは二つの結論が生じます。 アメリカの研究者によって次のことが確証されています。 状況によっては、トマトによる食餌療法が肝臓の病的傾向に良好に作用します。 なぜなら、肝臓とは生体内で最も自立的に働く器官ですので、動物ではより多く発生する肝臓病に対し、トマトによって全般的に対抗できるかもしれないからです。

■08-40

ここでまず、植物と動物との関連を洞察しましょう。 ここで寄り道として言いたいのですが、癌とはそもそも人間や動物の体内で特定の部位が自立的になりますから、癌を患者には、即座にトマト食を禁止した方がよいでしょう。 話を戻し、トマトが、生体内で自立的であるもの、独立し特化しようとするものに特に働きかけるのは、一体どこから来ていて、何と関連しているのかを問いましょう。

■08-41

それは、トマトが自分自身の生育に必要としているものと関連しています。 トマトが生育するに当たっては、動物や他の何かが排泄したままの元の姿を保った肥料を最も好みます。 肥料が自然の中で時間をかけて成熟することなく、生の肥料で、生ごみを山積みしただけの無秩序な堆肥の山を作り、それができたばかりの状態のものをできるだけ多くし、何の作用も与えず肥料化したものをトマトに施肥しますと、素晴らしいトマトができあがるのが見られるでしょう。 しかもトマト自身の葉や茎などから作った堆肥を与えますと、つまりトマトを自己廃棄物で育てますと、輝くように育ちます。 トマトは自分自身から出ようとせず、自らの強い生命から出ようとしません。 トマトは自分の内に留まろうとするのです。 トマトは植物界で最も仲間付き合いが悪いのです。 異質なものは受け取りたがりません。 特に、肥料として一連のプロセスを経過したものには近づかず、それを欲しません。 人間や動物の生体内の自立的組織にトマトが作用するのは、こうしたことと関連しているのです。

■08-42

ここで述べた方向で、ある意味、トマトと似ているのはジャガイモです。 ジャガイモも非常に自立的に作用します。 すべての消化プロセスをそのままの形で通り抜け、さらに脳にまで入り込み、脳をそれ以外の諸器官の作用から自立させるくらい、ジャガイモは自立的です。 ヨーロッパにおけるジャガイモ栽培の導入以来、人間や動物が物質主義的になったのは、まさにジャガイモの食べ過ぎによります。 脳的、頭部的なものを活性化するところまでなら、ジャガイモ食は許されます。 しかし、ジャガイモを多く食べ過ぎてはいけません。 こうした事柄を認識することによって、農業は社会生活と事柄に即して密接に関連するのです。 農業が社会生活全体と関連することは、限りなく重要なのです。
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これらの事柄について、単に個々の指針しか与えられませんでしたが、しかしそれは、まさにこの分野での長期に渡るさまざまな実験のための基盤となるものです。 これらを実験的に改良していくなら、素晴らしい成果が得られるでしょう。 こうした成果は、この講座で提示されたものを実践する上での指針になるはずです。 私は、この講座に参加した農業者の皆さんが決然と出した結論には完全に同意します。講座参加者が得た事柄は、まず農業者のサークルに留め、それを実験へと高め、そうした実験が公表にまで達しているとする時点を、このサークルの農業者共同体が決定する点です。

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すでに育っていた賞賛すべき寛容さをもって、農業者ではなくとも関心を持つかなりの人数の人々がこの講座に参加することができました。 それらの人々は、有名なオペラを思い起こすでしょう。口に閂を下ろし、つまりこうした事柄をいたるところで言いふらすというアントロポゾフィーでよくある過ちを犯さないでいただきたいのです。 事に即し、情熱からある事柄を語らざるをえない人物たちによってではなく、情熱から語られたことを単に語り継ぐ人々によって、これまで多くのことがしばしば害されてきたからです。

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こうした事柄を語るのが、農業者なのか、農業と無縁な人なのかでは、非常に大きな違いがあります。 この差はすぐにわかります。 農業実践をしていない人によって、これらのことが考えもなく、興味深いアントロポゾフィー的学説として広められたら、どうなるでしょうか。 他の連続講演で起きたのと同じことになるでしょう。 つまり農業者も含めた誰もが、当事者以外の話を聞くはめになります。 農業者が同業者からその話を聞いても、気でも違ったかと思うだけかもしれません。 それでも同業者は、それを一回、二回と語るかもしれません。 しかしこの場合、聞き手の農業者は見慣れなくとも、否定できない何かを見ることになります。 しかし、農業に携わらず、単に興味を持つだけの人から話を聞きますと、当然ながら、その話は無視されるでしょう。 するとその事柄は信用を失い、広まることはありません。 農業者のサークルに属さず、興味から参加を許された友人の皆さんは、奥ゆかしさを保ち、事柄を胸中に納め、アントロポゾフィーでよく行なわれるような所かまわぬ吹聴は避けてください。 これは、農業者のサークルで議決され、そして今日、尊敬するカイザーリンク伯爵によって告示され、さらに私が言葉のまったき意味において賛同した事柄です。

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後に続く質疑応答の時間を別にしますと、この連続講座はここで終えさせていただこうと思います。 ここで述べえたこと、そしてそこから生じるはずのもの、さらに展開するはずのものに対し、皆さんが参加されんとし、参集されんとしたことに、私は心から満足しています。 もう一方で、この場で展開されたことが有用な仕事になるはずであり、それ自身が重い意味を持つと申し上げても、皆さんが完全に同意してくださると私から言っても許されるでしょう。 しかし、二つのことをお考えください。 この講座がこのように開催されるにあたっては、カイザーリンク伯爵、カイザーリンク伯爵夫人、カイザーリンク家の同胞の方々のご尽力がどれほど必要であったかを。 そのご尽力には、エネルギー、目的意識、アントロポゾフィー的現実感覚、アントロポゾフィーの純粋に事柄に奉仕する精神、自己犠牲などありとあらゆるものが含まれます。 それによって、皆さん全員にとっておそらく大変であった仕事、しかし同時に人類全体の実り豊かな偉大な目標に向かった仕事が成就し、滞在期間中、この真に祝祭的な枠組みの中で、ここで行なわれてきた事柄が成就したのです。 あと五分もすると、皆さんは再度、そうした好意の実例を受けるでしょう。 ここで挙げられたことの他に、心からの非常なる愛情を持ったこの家の人々も、この素晴らしい祝祭に含まれます。 私たちは農業講座と共に真の農業的祝祭をこの地で祝いました。 そして、正式にカイザーリンク伯爵夫人、カイザーリンク伯爵、そしてカイザーリンク家すべてに、またこの十日間の世話や友好的で愛情に満ちたここでの滞在において私たちになさってくださったことすべてについて、心深くからの感謝を申し上げます。

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