2015年6月9日火曜日

『農業講座』第4講、コーベルヴィッツ、1924年6月12日

農業を豊かにする諸条件

霊的なものの中に入り込んでいく諸力と諸素材:施肥の問題


■01

農業においても、霊の本性や作用を自然界において巨視的に、つまり霊性を包括的に見ることで、霊学的方法を見出さなくてはなりません。ところが物質主義的学問では、どんどん狭い範囲、微小なものに向かってしまっています。 農業では元来、微細で顕微鏡的なものを扱っているわけではありません。そうした狭い範囲内で作用し、狭い範囲で作用が完結する微細なものはしばしば自然科学が扱っています。 しかし人間や動植物が生きる世界は、決して小さな範囲で判断できるものではありません。 一般の学問は、人間存在の全体を認識する際にも、小指や耳たぶを出発点にして、そこから積み上げて巨視的全体を捉えようとしますが、たとえば農業の重要事項を捉えるに当たっても、同じやるかたをします。 これに対して私たちは、……これは今日、可能でありまた不可欠ですが……、偉大な宇宙的関連に向かう現実的な学問を打ちたてなりません。

■02

今日、あるいは数年前まで一般に通用した学問がきっぱりと自己修正したことがなかったでしょうか。たとえば人間栄養学では、長期間にわたって学問的無知無能が支配していたためにそうしたことが起きました。 それらはすべて科学的で、科学的に証明され、考察対象になった事柄のみを根拠にした考えれば、その証明は完璧でした。 つまり70kgから75kgの平均体重の人では、約120gのタンパク質を必要とすることが学問的に証明されていました。 これは科学的証明でした。 しかし今日では、学問的見識を持つ人なら、誰もこれを信じません。 学問が自己修正したのです。 今日では、1日120gのタンパク質摂取は、不必要であるばかりか、有害であり、健康を保つのに適切なタンパク質摂取量は1日に50gであると知っています。 これが学問の自己修正です。 タンパク質の過剰摂取によって、腸内でタンパク質からの有害な中間物質生成が促されることは、今日では常識です。 タンパク質の消化吸収の時点だけを問題にするのでなく、人間の一生全体を視野に入れれば、過剰なタンパク質による有毒作用が主に晩年の動脈硬化につながることがわかります。 このように、人体についての科学研究でも、狭い視野で短期間だけを問題すると、しばしば誤りに陥いることがわかります。 しかし人間は普通、十年では死にません。短期的に見れば効果的に見えることが原因となって、しばしば非常に後になってその有害作用が現われるのです。

■03

精神科学ではそうした間違いはしにくいのです。 私は今、通常の学問が修正を迫られることがあると申し上げました。しかし、それを理由にしばしばなされる安っぽい科学批判には同調しません。 こうした自己修正が不可避で、また不可欠であることは容易にわかるからです。 しかしもう一方では、精神科学も実際生活に参与しようとしますと安っぽい批判を受けます。 精神科学では、偉大なる命の諸関連を見て、諸力や諸素材を単に物質的にではなく、霊的に捉えるからです。 こうした批判は農業においてもまったく同様になされ、特に肥料問題では厳しさが増します。

■04

肥料の問題では今日、諸説が乱立していますし、それ自体が、自然界の種々の流れにおける肥料の意味がわかっていないことの証です。 肥料は植物の栄養である、とよく聞きます。 数分前に栄養の話をしましたが、その意図は、まさにこの近代や現代で人間の食物栄養の見解が朝令暮改状態であることを示すためでした。 生物に対する栄養をまったく誤って捉えてしまったがために、自己修正を余儀なくされたのです。

■05

栄養において最も重要なのは、毎日の食べ物であると人は思っています。……ちょっと常識外れなことを言いますが、気になさらないでください……。 確かに、日々の食べ物は重要です。 しかし、日々の食べ物のほとんどは、身体素材として吸収されるのでもなく、蓄積されもしません。 そうではなく食べ物の意味とは、内に持つ諸力を身体に与え、身体を活性化することにあります。 体内に摂取された物の大部分は再び体外に出されます。 重要なのは、代謝的意味での量的秩序ではなく、食物から生命的諸力を正しく取り込めるかなのです。 こうした生命的諸力は、たとえば歩行、労働、あるいはただ手を動かすだけでも必要だからです。

■06

その反対に、身体に物質的に満たし、蓄積するために必要なものは、その大部分が感覚器官、皮膚や呼吸を通して取り込まれます。……人間は7、8年で身体の物質を更新するので、やがては外に出される物質ですが……。 つまり身体は、身体は絶えず極度に微細な希釈度で取り込み、凝縮して体内の素材として蓄積しています。 身体はそれらを空気から取り込み、爪や髪など切らなくてはいけないくらいに密にして固めます。 栄養物が摂取され、肉体を通り、爪や垢などになるというのは間違った定式です。 そうではなく、呼吸や感覚器官、それどころか眼さえを通して、非常に繊細なかたちで取り込まれ、生体を通り抜け、排出されるというのが正しい定式です。 胃を介して摂取されるものもまた実際に重要ですが、それは摂取物が身体にとっての内的活性や意志的諸力を、ちょうど燃料のように鼓舞するからです。

■07

ご覧のように、精神科学的研究では簡単に明らかになる真実に、現代学問からの正反対の見解が主張されますと、望みが見つからなくなってしまうのです。 重要な問題において、今日の学問とは相互理解できないと感じるので、絶望的になるのです。 そうした相互理解が必要なのです。 今日の学問は、まさに実際生活の問題に対して、袋小路に迷い込むだろうからです。 現代科学の道筋では、ほとんど目の前にある特定の事柄ですら理解できません。 私は実験のことを言っているのではありません。 実験に関して科学が言う事実は、原則的に正しいのです。 実験は非常に有用です。しかし理論化されるとひどいことになります。 残念ながら、さまざまな領域における実践的な視点はそうした理論から生れています。 こうした事柄すべてを見ますと、自然科学との相互理解は難しいことがわかります。 しかしもう一方で、農業を含む最も重要な領域では相互理解が不可欠なのです。

■08

正しいやり方を進めようとするなら、農業におけるさまざまな領域で、諸物質素材、諸力の作用の仕方や、霊の作用の仕方について正しい見識を持つことが必要です。 使い方がわからなければ、子どもは櫛に噛みついたり、無意味な使い方をするでしょう。 それと同様に、事柄の本質を知り、該当の状況での事柄の成り行きを知るまでは、事柄を無意味に扱うでしょう。

■09

イメージを明確にするために、樹を考えてみましょう。 樹木は普通の一年性植物とは違います。 樹皮などに覆われています。 一年生植物と比べ、樹の本質は何でしょうか。 分解程度はさまざまでも非常に多くの植物分解産物、つまり腐植を含み、場合によっては動物の分解産物も含んだ盛り土と、樹とを比べてみましょう。


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こちらは腐植の豊かな盛り土に窪みを作ったもので、こちらは樹です。 程度の差こそあれ、樹の外側は固く、内側は成長し、これによって樹の形ができあがっていきます。 このようなものを二つ並べますと、奇異な感じでしょう。 しかしこの二つは、みなさんが思うよりずっと似ているのです。 今述べたように、この土的なものには分解へと向かう腐植性の物質が満たされて、エーテル的・生命的なものが含まれています。 それが重要です。 この土にはエーテル的・生命的なものを含むという特別な性質がありますし、これは本来、植物的覆いへの途上にあります。 ただそれが実際に、植物の覆い、つまり樹皮にまでなることはありません。 自然界ではそれがありえないのはご理解いただけると思います。 腐植質には特別で特徴的な性質があり、エーテル的・生命的なものから土壌に作用します。 そうした腐植質で満たした盛り土を作る代わりに、植物では盛り上がったものをより高次の発達段階のものが取り巻いているだけなのです。

■11

つまり、通常の地表よりもある程度高いところで、また大地の内部と遮断されていますと、そこにあるものはエーテル的・生命的なもので自らを満たそうとする特別な傾向を示します。 ですから鉱物的で無機質なごく普通の土を腐植や分解産物で肥沃にしたいなら、盛り土をして、そこに廃棄物などの物質をそこに入れるとより簡単にできます。 このようにしますと、土自体が内的に活発になり、植物に似たものになろうとする傾向を持つのです。 樹木の成長でも同じプロセスが行なわれています。 大地が盛りあがり、植物をとり囲み、樹木を取り巻くようにエーテル的・生命的なものが植物に与えられます。 それはなぜでしょうか。

■12

植物という輪郭内に収まっているものと、植物を取り巻く土壌は非常に類縁であるというイメージを皆さんの内に目覚めさせるべく、私はこのように語りました。 植物の輪郭線で、あるいは植物の外に出ると生命活動が終わるという考えは正しくありません。 生命活動は根から出て地中に入り込んでいますし、植物内の生命と植物外の生命には明確な境界線はありません。 施肥などの世話を受けた大地の本性を理解するためには、このことを徹底的に理解していなければなりません。

■13

施肥とは大地に命を与えることなのです。これは肝に銘じていく必要があります。 これを知ることで、植物を死んだ土壌で育てようとしたり、結実までに必要な要素を植物が大地の生命から得られないといった事態を避けなくてはなりません。 植物は、生命を持つ土壌に育てられれば、結実までに不可欠なものを容易に手に入れます。 実際、植物は多少、寄生的に成長し、生きた大地に寄生体として育つのです。 また、そのはずなのです。 地球上のほとんどの土地では、土壌だけで有機的廃棄物を十分に大地に送り込んだり、必要な生命性を得られるほどにそれらを分解したりすることは期待できませんので、どうしても植物の成長を施肥で助けなくてはなりません。 いわゆる黒土と呼ばれてる土地は、それはわずかですみます。 そうした地域では、自然自体が大地の生命をしっかり補っています。

■14

ご覧の通り、ここでの問題は真に理解しなければなりません。 さて、きつい言い方ですが、もう一つ別のことも理解しなくてはなりません。 農業に関連する事柄に対し、すべて一種の個人的な関係を持たなくてはならないのです。 とりわけ肥料に関係する仕事では、個人的な関係が必要です。 これはあまり心地よくない課題ですが、この個人的な関係がなくては先へ進みません。 なぜでしょうか。 何らかの生命を持つものの本質に入り込めば、これはただちにわかります。 生命を持つものの本質に入り込みますと、そこには常に外側と内側があります。 そして、皮膚様のものが内と外を分けています。 今はその内側を見てみましょう。


■15

生物内の力の流れは、外に向かうものだけではありません。 生体の内的な命の流れには、皮膚に押し返され内側に向かう流れもあります。 また生体は、ありとあらゆる力の流れに外側から取り囲まれています。 さて、個人的なやり方で非常に厳密に表現される事柄があります。それは、生体が自らの内と外との関係で、自分自身を必然的に形成していく様子です。 生体内部で力の作用として生じていること、つまり皮膚の内側で生命を喚起し、生命を保持するもの、これらすべては……ここでもきつい表現になることをお許しください……、それ自体が匂いを放つ、さらに言えば悪臭を放たなくてはなりません。 通常なら匂いを放ち、匂いを広げるものがあります。それを外に向けて放射させすぎず、内部にため込むことで、本来、生命が成り立つのです。 生体は外界に対し次のような関係で生きているはずです。 匂い発生的な生体内の生命が、生体内で何かを作り出します。そして、それをできるだけ境界である皮膚を通して外に出さないようにしなくてはなりません。生体とは、内側で匂い、外側での匂いが少ないほど、健康であると言えるくらいなのです(図参照)。

■16

植物生体は匂いを放出するのではなく、取り込む宿命を負っています。 よい香りを放つ植物が生育している牧草地には促進的作用がありますが、その働きを見通しますと、お互い同士の生命的な支え合いに気づくでしょう。 ここでのよい香りとは、単なる生命の匂いではありません。その理由については後でより詳しく検討できると思いますが、このよい香りは外から植物に向かって働きかけるものです。 こうした事柄すべてに対し、人は生き生きと個人的に関係しなければなりませんし、そうすることで、自然の現実にしっかりと入り込むことができるのです。


■17

さて、施肥やそれに類するすべては、土壌にある程度の生命を配分することがその主たる役割です。 しかし生命の配分だけが問題なのでもありません。 昨日の話では、ある特定の力線に沿って窒素が広がり、窒素の助けで生命が運びこまれると述べました。 それが可能になるように大地に作用する必要があるのです。 つまり、地下の諸構造に生命をもたらすのに必要な窒素を、施肥によって大地に送らなくてはなりません。 植物の土壌となるべき大地の領域、植物の下部に存する諸構造に対し生命をもたらさなくてはならないのです。 これが施肥の役割です。 この役割は、正確で事柄に即したやり方で遂行されなくてはなりません。

■18

純粋に鉱物的なものを肥料に用いますと、実際それは決して《地》には達せず、せいぜい地中の《水》に達するだけです。 この点には注意を喚起しておきます。 鉱物的肥料では、地中の《水》には作用できますが、《地》を活性化することはできません。 ですから鉱物的肥料で育った植物では、活性化された《地》からではなく、《水》からの刺激による成長の様子が見られます。

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肥料を実践的に研究しようとするなら、もっとも平凡な肥料、それどころか軽蔑さえされている堆肥(コンポスト)が最上の対象です。 その中には、見向きもされない何らかの廃物が投入され、土壌を活性化させます。つまり、農業や園芸由来のもの、腐ったイネ科の草、落ち葉、さらには動物の死骸などです。 こうしたものは、決してないがしろにしてはいけません。 エーテル的なものだけではなくアストラル的なものさえ含んでいるのです。 これは重要です。 堆肥の山には、エーテル的なもの、生きたエーテル的なもの、生きたもの、さらにはアストラル的なものが入っています。 もちろん堆肥は、糞尿肥料ほどには、生きたエーテル的なものやアストラル的なものを含んでいません。しかしある意味では、より安定した形で含んでいます。 それらはよりしっかり結びつき、それはアストラル的なもので顕著です。 こうした安定性を相応の仕方で考慮することも大切です。 もし成長が急すぎるエーテルがありますと、窒素に対するアストラル的作用がただちに影響を受けます。 つまり堆肥の山に成長が急すぎるエーテルがありますと、いわばアストラルが旺盛になりません。

■20

この点についてはすでにいろいろな観点から述べましたが、自然界には自然に対し有益なものがあります。 それは石灰質です。 石灰質を生石灰(CaO)といった形で堆肥の山に加えますと、特筆すべきことが起きます。 生石灰は、香りを放つアストラル的なものにはそれほど強く働きかけず、エーテル的なもの、さらには酸素も吸収し、それによってアストラル的なものが素晴らしく作用するようになります。 これによって、ある特定の目標が達せられます。 つまり堆肥によって次のような傾向を持つ何かを土壌に与えるのです。 アストラル的なものを非常に強く、エーテルを迂回せずに《地》に直接に入り込ませる傾向です。

■21

こう考えてみてください。 エーテルを迂回する必要のないアストラルは《地》に非常に強く入り込み、《地》がアストラル化されます。 さらにそのアストラル化されたものの道筋に沿って窒素系が浸透しますと、そこには人間生体の特定のプロセス、つまり人体内の植物的なプロセスと非常に似たものが生じます。ただその植物的プロセスは、果実形成が重点ではなく、葉や茎の形成に重点が置かれたものです。 すでに述べましたように、人間は相応の仕方で栄養物から活性化力を取り出さなくてはなりませんでした。 《地》に伝えるこのプロセスを私たちが内に持たなくてはならないのはそのためなのです。 今述べた方法を採りますと、大地に対しても同様な活性化力の取り出しに向けた刺激をしていることになります。 こうして大地を整えますと、体内に入ることで動物を内的に活性化し、動物身体を内側から活き活きとさせられる飼料を作り出せるのです。 別な言い方をしますしょう。 この堆肥は牧草地に施肥するのがよいのです。さらに別な手順も必要ですが、これを厳密に行いますと、乾燥飼料としても良質な牧草飼料を育てることができます。 しかし、これらを正しく行なうには、事柄全体を見通さなくてはなりません。 そこで行なうべき個々の事柄は、当然ながら勘と密接に関連しているからです。 こうした勘は、このプロセスの本質をすべて見通すことで育つのです。

■22

単に私がこれまで述べたやり方で堆肥の山を積みますと、堆肥のアストラルが非常に簡単にあらゆる方向に拡散しうるでしょう。 そしてここでも、事柄に対する個人的なつながりが問題になります。 つまり堆肥の山をできるだけ匂わないようにする必要があります。 その方法は簡単で、堆肥を薄く敷き、その上に乾燥ピート(泥炭化したミズゴケやカヤツリグサなど)を敷き、さらにその上に薄い層を敷くというようにすればよいのです。 これによって、そのままでは匂いとして発散してしまうものを、内部に保持することができます。 窒素とは、どのような化合物になっても飛散する傾向を持つからです。 それが保持されます。 ここでの私の話の要点は次のとおりです。 事柄全体に働きかけるためには、あらゆるところに生命的なもの、さらにはアストラル的なものをも注ぎ込まなくてはならないという確信を持って農業のすべてを行わなくてはなりません。

■23

この同じ出発点から、別な結果も得られます。 雌牛には鞘角があり、別の動物には枝角があるのはなぜか考えたことはあるでしょうか。 これは非常に重要な問いです。 しかし、これについて学問的解釈は、通常、きわめて一面的で外面的です。 雌牛にはなぜ鞘角があるかを答えてみましょう。 有機的なもの、生命的なものには、外向きの力の流れだけではなく、内向きの力の流れをありうるという話をしました。 仮に丸っこい形の生物がいると想像し、外向きと内向きの力の流れがあると思ってください。 これに何の規則性もなければ、丸っこい生物ができあがるかもしれません。 この条件だけですと、非常に奇妙な外見の雌牛になります。 この雌牛は全体が丸っこく、胎生初期に見られるような小さな足の突起があるとしましょう。 そのままであれば、グロテスクです。 しかし雌牛の作りはそのようではなく、鞘角や蹄があります。 蹄や鞘角が生える部位では、何が起きているのでしょうか。 そこでは流れが非常に強力に内に向いています。 また外的なものは、特に完全に遮断されています。 皮膚や頭髪には透過性がありそれを介してのコミュニケーションがありますが、そうしたものがないだけでなく、外に向かっての流れが完全に閉ざされています。 それゆえ鞘角形成は、動物の全形姿に関連するのです。 鞘角形成や蹄形成は、動物の形態形成全体と関係します。

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しかし、枝角形成は様子がまったく違います。 枝角形成では流れが生体に戻るのではなく、ある種の流れがまさに外に一歩導かれる点が重要です。 つまり、力を外に逃がすために一種のバルブで流れをつくるのです。……ただしその流れは必ずしも液体や気体の流れではなく、枝角に局在する力の流れでもありえます……。 鹿の美しさは、ある種の流れを外に送り出し、周囲世界に生き、神経や感覚に有機的に作用するあらゆるものを取り込み、周囲の世界としっかりとコミュニケーションしていることに由来します。 敏感な鹿なのです。 ある意味において、枝角を持つ動物全般で、その眼から見て取れるような神経過敏的なものをわずかに帯びていることがわかります。

■25

雌牛の鞘角とは、アストラル的エーテル的に形成すべき作用、また消化器系までをも活動に巻き込む作用を内側に送り込むためにあるのです。 その結果、まさにこの鞘角や蹄から発する放射によって、消化器系で活発な仕事がなされるのです。 それゆえ周囲的なものが消化器系に戻って作用することに関係する口蹄疫を理解するには、こうした関連を見通す必要があります。 こうした関連を洞察た口蹄疫に対する私たちの治療薬があります。 ごらんのように、鞘角には特別な本性があり、生命的なものやアストラル的なものを内的営みに反射放射させるのに適しています。 鞘角は、生命放射、さらにアストラル放射をします。 実際、そうなのです。 もし生きた雌牛の身体内、腹部にまで入り込めたとしますと、そこではアストラル的生命的なものが鞘角から内側に向けて流れてくる様子を嗅ぎ取ることができるでしょう。 蹄もこれと同様です。

■26

こうしたことをヒントに、一般的な厩肥の作用をさらに高める私たちの側から推奨できることがあります。 一般的な厩肥とは一体何でしょうか。 外から家蓄の体内に入り、そこからある一定段階までが栄養として取り込まれます。 そしてこの栄養の働きは、本来、身体素材の増大ではなく、生体内で諸力の作用がダイナミックに生じさせるきっかけでした。 こうして、再び外に排泄されます。 しかしその排泄物は一旦は生体内にあり、アストラルやエーテルに満たされていました。 それはアストラルにおいては窒素保持力が満ち、またエーテルにおいては酸素保持力が満ちています。 糞として現われる塊は、そうしたものに満たされているのです。

■27

詳細は後に話しますが、この塊を何らかの形で大地に移しますと、大地にエーテル的アストラル的なものを与えることになります。 こうしたエーテル的アストラル的なものは、正当な意味で動物の腹内にありましたし、そこで植物的に諸力を作り出しました。 私たちが消化活動で作り出している諸力は、植物的なものだからです。 糞が残っていることに、本来、私たちは非常に感謝しなくてはなりません。 そこではエーテルやアストラルが生体内部から外に解放されているからです。 エーテルやアストラルは糞の中に残っています。 糞中のエーテルやアストラルを保つために、私たちはそれを相応の方法で手に入れなくてはなりません。 そうすれば、それは土壌や《地》を活き活きさせ、またアストラル化できます。 単に《水》に作用するのではなく、《地》に作用するのです。 これには、大地の非生命的なものを克服する力があります。

■28

さて、この大地に与えられるものは生体内の代謝系プロセスを通過しているはずですから、当然、食物として口に入る前の形は失なわれています。 それらは分解的、解消的な途上にあります。 しかし最上の時点は、それ自身が持つエーテルやアストラルによって解消し始める時です。 このとき、寄生生物や微生物が発生し始めます。 寄生生物にとって良好な栄養基盤になるなのです。 それゆえ、こうした寄生生物は、肥料の質と関連すると思われています。 しかしこうした微生物の有無は、その肥料の現状を示しているだけです。 微生物の持つ意味は、肥料の状態を示す点にあります。 逆に、これらのバクテリア等を肥料に投入すれば、肥料の質を劇的に高められると考えるなら、それは錯覚です。 表向きはそう見えても、現実はそうではないのです。 こうした考えが現実にはいかにありえないかは、また後で話しましょう。 ここでは先に進みます。

■29

雌午の鞘角に入手しうる牛糞を詰め、あまりに粘土質あるいは砂地の土地でなければ、75cmから150cmの深さに埋めます。 必要な砂地でない適当な場所を選ぶことはできるでしょう。 このように雌牛の鞘角に牛糞を詰めて大地に埋めますと、この鞘角の中にあった諸力、雌牛の体内で作用していた諸力、つまり生命的、アストラル的なものの反射を鞘角の中に保持することができます。 そして、鞘角の外側が土で覆われていることで、エーテル化やアストラル化へと向かう放射は、すべて鞘角内部の空洞に向かいます。 こうした力を伴った牛糞で満たされた鞘角は、大地が内的に最も活き活きとしている冬の間、周囲の大地にあるエーテル的で活性化する力をすべて引き寄せます。 大地が内的に最も活き活きとしているのは冬でした。 この活き活きとしたものすべてがこの牛糞の中に保存され、それによってこの鞘角の内容物は、非常に高度に濃縮された活性的肥料力を得ることができます。

■30

その後、鞘角を掘り出し、入れたときには牛糞だったものを取り出します。 ドルナッハでの最近の実験では、牛糞を取り出した際に、それがまったく臭わないことをメンバーたちが確認しました。 驚きでした。 取り出した中身はまったく臭いませんでしたが、水を作用させたらわずかに香り始めました。 これは、香るものすべてが凝縮され、何らかの作用を受けていることがわかります。 この中にはアストラル的エーテル的な非常に大きな力が含まれています。 鞘角を地中に埋め、冬を越させ、次に鞘角から中身を取り出し、普通の水かぬるま湯で薄めれば、そうした力を実際に使えるようになります。 私はまず施肥すべき土地を見渡します。これで量的なことについての印象が得られます。 三番目の窓から最初の横道があるところまで(約1200m$^2$)に対し、鞘角一本分を60リットルバケツ半分の水で薄めればよいでしょう。 ただし、鞘角の中身を水と徹底的に結びつける必要があります。 つまり、まずバケツの壁面に沿った周辺部を高速で攪拌し、中央部がほぼ底に付くくらいに凹ませます。 次に、素早く回転方向を逆向きにし、全体がぶつかり合うように泡立たせます。 これを一時間ほど続けますと、水と鞘角の中身が徹底的に混ざり合います。

■31

労力がいかに少ないかを考えてみてください。 この仕事の負担は決して大きくはありません。 農場で手の空いている人にとっては、少なくとも初めのうちだけでも、この牛糞由来物の攪拌は、特別な楽しみになるかもしれないと思います。 娘さんや息子さんたちにこれをやってもらえば、非常にうまく事が運びます。 無臭のものから微かな芳香が漂ってくると、心地よいでしょうから。 こうした事柄との個的な関係は、興味本位で自然を嗅ぎまわる人にはあまり関係がないでしょうが、自然全般を好んで感じ取る人には非常に心地よいものです。

■32

さて次にこれを耕作中の大地への散布し、調合剤溶液を《地》の領域と一体化させることが大切です。 狭い土地では普通の散布機でかまいません。 当然ながら、広い土地では特別な散布機を組み立てなくてはなりません。 通常の肥料の中にいわばこの《霊的な肥料》を加えますと、そこからいかに豊かな実りが得られるかがおわかりになるでしょう。 さらにまた、こうした事柄が非常に有意義な発展の可能性を持つことも気づかれるでしょう。 私が今述べた手法には、もう一つが直接に結びつくからです。それは次のように行ないます。

■33

ここでも雌牛の鞘角を使います。 ただし、牛糞の代わりに、石英、ケイ石、正長石、長石などのいずれかを小麦粉くらいまで微粉末にし、さらに粥状あるいは薄いパン生地状にして、鞘角に詰めます。 そうしましたら、この鞘角に冬ではなく夏を越させ、晩秋に取り出し、それを翌春まで保存しておきます。 これによって、地中における夏の営みにさらされたものを取り出すことになります。 そしてこれを、先の調合剤と同様に扱いますが、ただここでは非常に少量しか必要としません。 バケツ一杯の水にエンドウマメくらいの大きさの塊を入れてかき混ぜますが、場合によっては針の頭くらいでもかまいません。 ただし、これも一時間は攪拌しなくてはなりません。 これを植物自体に散布しますが、……これは特に野菜などで有効です……、乱暴に注ぎかけてはいけません。 そうではなく、霧状に吹きかけます。 そうしますと、牛糞調合剤の地中からの働きかけを、別な側面から補助しているのがわかるでしょう。

■34

そして、こうした散布が不均一ではなく、圃場に上手く広がりますと、牛糞調合剤が下から押し上げ、石英粉末調合剤が上から強すぎず弱すぎず引き上げている様子が見られるでしょう。 これは農場全体に微かに振りかけなくてはなりませんが、そのような機械を作ることはさほど難しいことではないでしょうから、それを用いないという手はありません。 これは、特に種子を採る作物ではすばらしい効果を発揮します。

■35

ご覧のように、こうした事柄は、大きな関連の観察から得られ、単一の事柄からは得られません。 指から人間全体を理論的に構築しようとするような狭い考え方でも、何らかのことは成し遂げますし、またそれは決して無視できない成果です。 今日の研究は、農場経営にとって何が生産的でありうるかを問い、さらにはそれをも超えて、最も経済的利益のあがる生産物はどのように作れるかを問うまでなっています。 そう言ってもさほど的外れではありません。 常にそのように考えているわけではありませんが、無意識にはそれが根底にあります。ですので、何らかの方法で大きな成功を収めますと、たとえば巨大なジャガイモとか何か大きく膨れあがった作物を得ますと、農家は驚くのです。 この考え方から一歩も出ずに研究をしていますが、これらは最重要事項ではないのです。

■36

最も重要なのは、事柄が人間にまで達したときに、人間存在に対し一番発展的に作用するかなのです。 農場か果樹園で素晴らしい見栄えの果物を収穫できるでしょう。 しかしそれは人間にとっては単に胃を満たす物でしかなく、人間の内的存在を有機的に促すものではないかもしれません。 人間が自らの生体にとって最上の栄養を得るという地点には、今日の学問は達しえません。 なぜなら、そこへの道を見出していないからです。

■37

しかし、精神科学が語るものの根底には、自然の摂理全体があります。 これは全体から考えられています。 それゆえ個別のことを語る場合でも、それは常に全体を指し示しています。 人間にとって、動物にとって最上であるような農業を営むなら、それ以外の結論はありえません。 人間を基本にし、人間から出発して考察するなら、結論は同じです。 人間本性が最高度にかかわれるものに対する視座も、これによって生じてくるのです。 これらの点が、ここでの考察法と今日の通常の考察法の違いなのです。








































































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