2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第07章、認識に限界はあるか

■07-01:知覚、思考、認識の関係に対するいくつかの見解

「現実を説明するための要素は、知覚と思考という二つの領域に由来する」というのが、私たちが固めた足場である。 すでに見たように私たちの生体機構によって制約されているために、現実総体が私たちの狭い主観に限定され、とりあえずは二つに分かれて現れる。 認識ではこの二極分離を克服する。思考によって見て取られた概念を知覚に結びつけ、全体へと統合することでこの分離を克服する。 知覚と概念が一体となって組み合わされたものを存在そのもの(Wesenheit)とするが、それに対し、認識によって世界がその真の姿を現わす前の様子を現象世界と呼ぼう。 それゆえ次のように言える。私たちには世界は二分されて与えられ(二元論的)、それを認識によって一つにまとめる(一元論)。 この基本原則から出発する哲学は、一元論哲学あるいは一元論とされる。 それに対し、二世界理論あるいは二元論がある。 後者は、私たちの機構のせいで二分されただけで本来一体である現実から出発するのではなく、根本的にまったく異なる二つの世界を出発点にしている。 そして、一方の世界の説明原則をもう一方の世界に当てはめようとする。

■07-02:二元論の誤りの根源

二元論は、私たちが言う真の認識を誤って捉え、それを基盤に成り立っている。 二元論では存在全体をそれぞれ独自の法則を持つとされる二つの領域に分け、それらを表面的に対置させてしまっている。

■07-03:《物それ自体》は内容を持ち得ない

こうした二元論はある区別から出発する。つまり、カントが学問に導入し、今日もなお一掃しきれていない、知覚対象と《物それ自体》との区別である。 これまでの検討でわかったように、事物が個別化して与えられるのは知覚の側だけであり、またその原因は私たちの精神的機構にあった。 そして、思考によってその個別化を克服する。つまり、個別である知覚を法則に則って世界全体の中に位置づけるのである。 世界全体からの個別である部分、つまり知覚に規定されている限り、私たちは分離したままの状態で、私たちの主観の法則にしたがうだけである。 ところが、知覚総体を第一部分とし、《物それ自体》を第二部分として対置すると、哲学が迷走してしまう。 これは単に概念の遊びに過ぎない。 人工的な対極が作られ、その第二部分は何の内容も持ちえない。 個別の事物に対応させた第二部分に内容が得られるとしたら、それは知覚からしか汲み取りえないからである。

■07-04:《物それ自体》の二重の問題点

知覚と概念、この二つ以外のいかなる仮定も正当ではない。 《物それ自体》はこの不当なカテゴリーに属する。 二元論者は一方に仮定的世界原則を置き、もう一方に経験を置いているが、彼らが両者を関係づけられないのはしごく当然である。 仮定的世界原則が内容を持ちうるとしたら、経験世界から内容を借用し、しかもその借用しているという事実に自ら目を閉ざす場合だけである。 こうした借用をしないと、これは形式だけは概念の体裁をとっているものの、無内容な概念、非概念でしかない。 二元論者は普通、次のように主張する。「この概念の内容は私たちの認識では捉えられない。私たちが知りうるのは、そこに何が存在しているかではなく、そうした内容が存在するという点だけである」と。 二重の意味で二元論の克服は不可能なのである。 人は、物それ自体という概念の中に、経験世界から抽象化された幾つかの要素を持ち込む。しかしそれでも、豊かで具体的な経験という営みを、知覚世界から借用された幾つかの諸性質に還元することはできない。 デュ・ボア=レーモンは、知覚不能な物質である原子の位置や運動によって知覚や感情が成り立つと考え、次のように結論した。 物質的なものや運動によって知覚や感情が作り出される様子が満足に説明されることは決してない。 なぜなら、「何らかの必然にしたがっているはずの炭素、水素、窒素、酸素等の原子が、過去、現在、未来にどのような状態でどう運動するかは、決定的かつ永遠に捉えられないからである。 諸原子の協働によって意識が発生する様子など、どうしても見通せない」。 この論理展開には、こうした思考傾向の特徴がよく現われている。 (色や温かさなどを含む)豊かな知覚世界から位置と運動だけが選び取られている。 そして頭で考え出された原子の世界に、この二つの性質だけを与えている。 こうして自分たちで捏ねくりだしたものと知覚世界から借用した原則によっては、具体的な営みを解明できないと言って不思議がっている。

■07-05:二元論では世界を解明できない

二元論者はまったく無内容な概念それ自体と取り組み、世界を解明できていない。これは彼らが用いる上述の諸原則の定義からすれば当然である。

■07-06:一元論での「認識不能」は偶然的

いずれにしろ二元論者は、認識能力に克服不可能な限界を置かざるをえないとしている。 一元論的世界観の信奉者は、自分たちに与えられた世界の現象を説明するために必要なものは、すべて思考の領域にあるはずだと知っている。 そして、そこに到達できない場合があっても、それはたまたまの時間的、空間的な制約か、あるいは自分が持つ何らかの生体的な欠落が原因である。 しかしそうした欠落にしても、人間存在における原理的な欠落ではなく、特定の個人における偶然的な欠落である。

■07-07:事物では一体である法則と現象を自我において再統合する

私たちが確定した認識概念では、認識の限界など話題にもならない。 認識とは、宇宙に厳然と存在する一般的な事柄ではなく、人間が自らとのかかわりで行なう作業なのである。 事物は何の説明も求めない。 それらは法則にしたがって存在し相互に関連し合っている。そしてその法則は思考によって解明しうるのである。 事物はこれらの法則と不可分な一体となって存在する。 私たちの自我が事物と向き合い、そこからまず私たちが言う知覚の側だけを捉える。 しかしこの自我は、現実のもう一つの部分を見い出す能力を内に持っている。 現実とは世界にあっては二つの面が不可分に結びついているが、自我はこの二面を自らの内で一つに結び合わせ、それによって認識的満足を得る。自我は自我の次元で現実に達するのである。

■07-08:問いは自我が立て、自我によって解明される

認識が成立する前提条件は、自我がそれを求めること、さらに自我を介してそれを得られる可能性があることである。 自我は自分自身において認識への問いを生む。 その詳細を見ると、自我はそれらの問いを、完全に明晰で透明な思考という要素から持って来ている。 自分で立てた問いが自分では答えられない場合は、問いの内容が細部まで明確でない可能性がある。 世界が私たちに問いを立てるのではなく、私たち自身が立てるのである。

■07-09:自我からの問い以外は解明不可能

私たちがまったく知らない領域から何らかの問いが生じ、その問いがどこかに書き付けられていても、それには答えられないという可能性は考えられる。

■07-10:自分の内からの問いは原理的に解答可能

私たちが言う認識では、知覚空間と概念空間が向かい合うことで私たちに生じる問いを取り上げている。そして、知覚空間は場所、時間、主観的機構に制限されるのに対し、概念空間は世界の全体性につながっている。 私の課題は、このよくわかっている二つの領域に橋を架けることである。 そこでは認識の限界などは存在しない。 生活のある場において、何らかの時に何らかの問いが、それに関与する事物を知覚できないために答えられない場合もありうる。 しかし、その事物は今日見つからなくても明日には見つかるだろう。 こうした理由で生じる制限は一時的なもので、知覚と思考が進歩すれば克服可能である。

■07-11:二元論の思考過程

二元論の誤りは、知覚領域でのみ意味を持つ主観と客観という対極を、それとは別のまったく架空の存在に投影してしまったことにある。 思考はあらゆる個別化が単に主観的な限定であることを認識し、それを克服する。 そして知覚の地平にあっては、諸事物が個別化しているのは知覚者が思考を止めているときだけである。 したがって二元論は、知覚の背後にあるとされる存在性に、その有効性が絶対的ではなく相対的でしかない(主観と客観という)規定を拡張してしまっている。 こうして二元論者は、認識の過程における知覚と概念という二つの要素を四つに分ける。
  1. 客体それ自体
  2. 主体が客体から得る知覚
  3. 主体
  4. 知覚を客体それ自体に結びつける概念
客体と主体の関係は(物質的に)リアルである。主体は実際に(動的に)客体から影響を受ける。 このリアルなプロセスは私たちの意識には入り込まないとされている。 しかしこのプロセスは、客体からの作用によって主体内で反作用を起こすとされる。 この反作用の結果が知覚だというのである。 この知覚が初めて意識に入り込む。 客体は(主体からは独立した)客観的現実であり、知覚は主観的現実であるという。 この主観的現実が主体を客体に関連づけるとされる。 また、この関連は理念的とされる。 二元論者は、このように認識プロセスを二つの部分に分けている。 一方の側、《物それ自体》からの知覚客体の生成は意識外とされ、 もう一方の側、知覚と概念の結合ならびに客体への概念的関連づけは意識内で起きているとされる。 こうした前提条件からすれば、二元論者が、自らの概念の中に得られるのは彼の意識の眼前に存在するものの主観的代替物に過ぎないと思い込むのも当然である。 こうした二元論者にとっては、知覚によって主体内に生じる客体的でリアルな過程、あるいはそれ以上に客体的関係である《物それ自体》は直接認識することは不可能である。 彼らの考えでは、人間は客観的にリアルなものの概念的代替物を作り出せるだけである。 諸事物同士を結び付け、さらに(《物それ自体》としての)私たちの個的精神と事物とを結びつける一体化の帯は、意識では捉えられない側にあり、私たちの意識ではその概念的代替物しか得られないと言う。

■07-12:二元論は理念的関連を現実とは見ない

二元論の考えでは、諸対象間の概念的関連だけでなくリアルな関連を確立できないと、世界全体が抽象的概念シェーマに解消してしまうとされた。 別な言い方をしよう。二元論者にとっては、思考によって発見しうる理念的諸原則はあまりに空疎に見えたので、世界の支えとなりうるリアルな諸原則を探した。

■07-13:何をリアルと見るか:素朴実在論の見解

このリアル性の原則を詳しく見てみよう。 素朴実在論者は外的に経験される対象物を現実と捉えている。 こうした事物を目で見たり手で掴んだりできるという状況が、彼にとってはリアル性の証拠なのである。 「知覚できないものは何も存在しない」とは、素朴実在論的にはほぼ第一公理である。そして「知覚しうるものはすべて存在する」という対偶命題も同様に認める。 こうした素朴な人が不死性や幽霊を信じている点は、この主張の端的な証明になっている。 彼らは魂を繊細な物質的素材と考え、この物質は特別な条件下では普通の人にすら見えるとしているのである(素朴な幽霊存在信仰)。

■07-14:素朴実在論では考えを現実とは見ない

素朴実在論的には、彼らにとってリアルなこの世界以外のすべて、つまり理念世界は現実ではなく単に《理念的》である。 対象物に考えを付加的に対応させるにしろ、その考えとは単にその事物についての考えに過ぎない。 知覚に対し、考えは何らリアルなものを付け加えない。

■07-15:他対象への作用も知覚可能と考える

しかし素朴実在論では、知覚可能であれば事物が実際に存在することの証拠とするが、経過についても知覚可能性がそのリアルさの証拠になる。 その見解では、ある事物の他の事物への作用とは、一方から知覚可能な力が発せられ、他方に作用を及ぼすことにある。 かつての物理学者は、物体から微細な物質が流れ出し、それが感覚器官を通って魂にまで及ぶと考えていた。 この微細な物質は非常に純粋であり、それに対する私たちの感覚器官があまりに大雑把なので、それは実際には知覚されえない。 しかし原則的には、感覚界の対象物を現実とするのと同じ根拠で、この繊細な物質を現実としている。つまりその微細な物質の存在形式を、感覚知覚可能な現実の存在形式と同じであると見なしている。

■07-16:理念や神も知覚されることで現実とされる

素朴な意識の人は感覚的に体験可能な事柄を現実とするが、理念的に体験可能でそれ自身で完結している存在本性に対しては同等のリアル性は認めない。 《単なる理念》とされる対象は、感覚知覚によってリアル性を裏打ちされなければ、幻想のままである。 簡単に言ってしまうと、素朴な人は思考の理念的な確信だけでは満足せず、感覚的リアル性を要求する。 素朴な人間のこうした要求が基盤となって、原始的な形式である啓示による信仰が生じた。 思考によって与えられる神とは、素朴な意識にとっては常に考え出された” 神に過ぎない。 素朴な意識は、何らかの感覚知覚できる手段がないものは現実とは認めない。 神は身体を持って現われなくてはならず、水はワインに変容しなくてはいけない。つまり神性の確認にとっては、感覚的確認の方が、思考による確信より重要なのである。

■07-17:認識も知覚からのアナロジーで考える

素朴な人は、認識自体をも感覚的プロセスとのアナロジーで捉えている。 事物が魂に印象を与える、あるいは事物が感覚によって捉えうる像を送り出すなどと考えている。

■07-18:知覚と知覚からのアナロジーが基本原理

素朴な人は、感覚知覚しうるものを現実とし、(神、魂、認識など)知覚しえないものは感覚知覚しうるものからのアナロジーで捉える。

■07-19:素朴実在論の学問は現実の記述であり、類は存在しない

素朴な意識の元において学問を構築するなら、それは知覚内容の正確な記述である。 そこにおいて、概念は単にそのための手段でしかない。 概念とは、対応する理念的な像を諸知覚に付与するために存在する。 それは事物そのものにとっては何の意味も持たない。 素朴実在論者にとっては、見えている、あるいは見うる個々のチューリップが現実である。チューリップの理念とは、彼にとっては抽象であり、すべてのチューリップに共通する諸特徴から魂が組み上げた非現実的な思考像でしかない。

■07-20:理念的なものを知覚からのアナロジーで考える例

知覚されたものはすべて現実であるというのは素朴実在論の基本定理である。 しかし、知覚内容はすべてその場で消えていくという経験は、その基本定理を否定する。 私が見ているチューリップは、現在は現実である。しかし一年後には無へと解消しているだろう。 ここで主張されたのは、としてのチューリップである。 しかし、属とは素朴実在論にしてみれば《単なる理念であり、現実ではない。 したがってこの世界観では、現実を現われては消えるものと見ている一方で、彼らの見解では非現実であるものを現実に対置している。 素朴実在論では、知覚の他に何らかの理念的なものを現実と認めざるをえない。 感覚では知覚しえない存在を、自らの考え方に取り込まなくてはならない。 こうして、知覚しえない存在を感覚的対象物とのアナロジーで考えることで自説と折り合いをつけているのである。 感覚知覚される事物同士の間で作用する不可視な諸力は、そうした仮定的現実とされるだろう。 各個体を超えて作用し、個体からその個体と似た新たな個体を発生させ、属を保っていく遺伝というものも、そうした仮説的現実に当たる。 生体に浸透している生命原理、素朴な意識では常に感覚的現実とのアナロジーで作られた概念で語られる魂、素朴な人にとっての神的存在、これらも仮説的現実である。 こうした神的存在の働きかけ方は、知覚しうる人間自身の働きかけ方とまったく同等のものと考えられている。擬人化である。

■07-21:物理学は素朴実在論を基礎としている

現代物理学では、感覚知覚を身体の微小部分での変化や、無限に繊細とされるエーテルなどの変化に還元している。 たとえば温かさの知覚は、熱源物質が占める空間における微小部分の運動とされている。 ここでも、知覚不能なものを知覚可能なものからのアナロジーで考えている。 ここでの感覚的アナロジーによる《物体》概念は、完全密閉空間内における弾性小球のあらゆる方向への運動であり、他の小球や壁との衝突や反発等々と考えられている。

■07-22:素朴実在論の根本的な問題点

こうした仮定がないと、素朴実在論における世界では、一体的結びつきが存在せず、諸知覚の無関連な集合体に陥いる。 しかし、素朴実在論がこの仮定を貫徹できないのも明らかである。 「知覚されたものだけを現実とする」という基本定理に忠実であろうとするなら、知覚不可能なものを現実と仮定することはできない。 知覚可能な物体から発せられる知覚不能な諸力という仮説は、素朴実在論の立脚点からすれば本来、不当である。 素朴実在論では知覚以外に現実が存在しないので、自らの仮説的諸力を知覚内容で補填するのである。 素朴実在論が存在形式に対して言えるのは「感覚的な知覚」が成り立つか否かだけであるのに、それを語る手段すらない領域に対しても知覚的存在という存在形式を適用してしまっている。

■07-23:素朴実在論から形而上的実在論への移行

この矛盾に満ちた世界観は形而上的実在論につながる。 知覚可能な現実の他に、それとのアナロジーで知覚不能な現実を構築するのである。 それゆえ、形而上的実在論は必然的に二元論である。

▲形而上的実在論は何をリアルと見るか

■07-24:何をリアルと見るか:形而上的実在論の見解

形而上的実在論者は、知覚可能な諸事物間の関係に気づく地点(近似的には運動や対象の意識化など)を現実と見なす。 とは言うものの、そこで彼が気づく関係は、本来、思考にのみ現われるもので、知覚として現われることはない。 理念的な関係を、無理矢理、知覚可能なものに見せかけている。 この考え方にとって現実界とは、知覚客観と知覚不可能な諸力の組み合わせであり、知覚客観は永遠なる流転にあって現われては消えるものであり、永続的で知覚不能な諸力が知覚客観を作り出すとされる。

■07-25:形而上的実在論では理念を想定しながらそれを現実と認めない

形而上的実在論とは、素朴実在論と観念主義の矛盾に満ちた混合物である。 そこで仮定される諸力は、知覚的質を持ちながらも知覚不可能な存在である。 形而上的実在論では二つの世界領域を認めている。つまりその存在形式を、知覚によって確認する世界領域と、知覚では確認できず、思考によってのみ知りうる世界領域である。 しかし同時に、思考によって伝えられる存在の形式、つまり概念(理念)要素に、知覚と同等の正当性は認めていない。 知覚不能な知覚という矛盾に陥りたくないなら、思考を介して知りうる諸知覚間の関連が、私たちにとっては概念という存在形式を取らざるをえない点を認めなくてはならないはずである。 形而上的実在論から誤った部分を取り除くと、世界とは諸知覚の総和とそれらの概念的(理念的)関連として表現される。 このように形而上的実在論は、知覚に対しては知覚可能性という原則、諸知覚間の関連に対しては思考可能という原則を軸とする世界観へ導かれる。 この世界観では、知覚界と概念界以外の第三の領域は認めず、いわゆる現実原則と理念原則を同等に是認する。

■07-26:形而上的実在論の根本的な問題点

形而上的実在論は、感覚客観と感覚主観の間に理念的な関係の他に、知覚対象の側の《物それ自体》と知覚主観の側の《物それ自体》(いわゆる個人精神)との間に何らかのリアルな関係が存在するはずであると主張する。しかしこの考えの基礎となる仮定、つまり感覚プロセスとのアナロジーで考えられた知覚不能な存在プロセスという仮定が間違っている。 形而上的実在論者はさらに「私の知覚世界と私は意識的・理念的関係にある。しかし現実世界とは、動的(力的)関係にある」とすら言うが、これは前述の誤りにさらに上塗りしているにすぎない。 力的関係とは知覚世界(触覚の領域)の範囲内だけで有効であり、その範囲外では意味をなさない。

▲一元論による認識の吟味

■07-27:矛盾を取り除いた世界観を《一元論》とする

形而上的実在論から自己矛盾的要素をそぎ落とすと、自然に上述のような世界観に導かれるが、これを私たちは一元論と呼びたい。なぜなら、それぞれ一面的である現実主義と観念主義をより高次の段階で統合するからである。

■07-28:諸知覚の理念的関連が自然法則である

素朴実在論にとっての現実世界とは知覚客観の総和である。形而上的実在論では、この知覚の他に知覚不能な諸力を現実として加える。一元論ではこの諸力の代わりに、思考によって得られる理念的関連を置く。 そうした理念的関連とは自然法則である。 自然法則とは、一連の知覚間に成り立つ関連を概念的に表現したものに他ならない。

■07-29:他の知的存在の認識は問題にしない

一元論においては、現実の説明原理として知覚と概念以外のものを付け加える必要はない。 また、現実界のどこを見渡しても、そう考えるきっかけが見つからないこともわかっている。 さらに、直接に知覚しうる知覚世界を現実の半分と見なし、知覚世界と概念世界が結びつくとき、現実が全体となると考える。 形而上的実在論者は、一元論者に次のような反論をするかもしれない。 「あなた自身の(精神的肉体的)機構にとっては、あなたの認識はそれ自体で完結し、欠ける部分はないかも知れない。しかし、あなたとは違った機構を持つ知性に世界がどう映し出されているかはわからない」と。 これに対し一元論者は次のように答えるだろう。 「人間とは別な知性が存在し、その知性による知覚が私たちのものとは異なるとするなら、私に意味があるのは、その知性が知覚したものから私の知覚と概念が切り取った部分だけである」。 私は私の知覚、さらに言えばこうした人間特有の知覚を介して、主観として客観に向き合う。 これによって諸事物の関連は分断される。 主観は思考によってこの関連を再び結びつける。 こうして世界が全体へと再統合される。 この全体は、私たちの主観によって私たちの知覚と概念の間で分断されているように見えるだけなので、知覚と概念を結びつければ真の認識が得られる。 (たとえば感覚器官の種類が二倍であるような)異なる知覚世界を持つ存在にしてみれば、上述の関連は別な箇所で分断され、それを再構成するにしてもこの存在に特有な形を取るはずである。 素朴実在論も形而上的実在論も、魂内の内容を現実世界の理念的代替物と見なしているので、認識の限界という問題が生じる。 どちらの考えでも、主観の外にあるものだけが絶対的、自己完結的であり、主観の内容はこの外的絶対物の像にすぎないとしている。 そしてより完全な認識とは、像がこの絶対的客観により似ている場合である。 人間より少ない感覚しか持たない存在では、世界をより少なく、多く持つ存在ではより多く知覚するだろう。 そして、前者の認識は後者よりも不完全である。

■07-30:客観は主観のあり方で切り取られ方が変る

一元論では事情は違っている。 世界関連がどこで主観と客観に分断されて現われるかは、知覚者が持つ(精神的肉体的)機構による。 客観とは絶対的ではなく、この特定の主観との関係によって決まる相対的なものである。 それゆえこの分断は、まさに人間主観に特有なやり方、人間だけのやり方で克服されるのである。 自我は、知覚においては世界から切り離されるが、思考的考察において再び自らを世界関連に結びつける。すると、分離に伴って生じたあらゆる疑問がただちに解消する。

■07-31

構成の異なる存在では、認識のあり方もまた異なるはずである。 しかし私たち自身の存在から生じる問いに答えるためには、私たちの構成で十分である。

■07-32

形而上的実在論はこう問うに違いない。 「知覚として与えられたものは、何を介して与えられているのか。主観は何によって触発されるのか」と。

■07-33

一元論からの回答では、知覚は主観によって制限される。 しかしそれと同時に、この主観は思考においては媒体であり、それを介して主観自身が引き起こした制限を再び解消するのである。

▲形而上的実在論は帰納主義を前提にする

■07-34:形而上的実在論では他人との共通理解を根拠づけられない

別々な個人の世界像が似ていることを説明しようとすると、形而上的実在論はさらにもう一つの困難に直面する。 形而上的実在論はこう自問しなくてはならない。 「私の主観に規定された知覚と私の概念から作り上げられた世界像が、別人の主観的知覚と主観的概念から作り上げられた世界像と一致するのはどうしてなのか」。 「どうしたら私の主観的な世界像が他人のそれと関係づけられるのか」と。 形而上的実在論者は、人々がお互い同士で現実に折り合いをつけていることから、主観的世界像は類似していると考えている。 複数の世界像が類似することからさらに進めて、形而上的実在論者は、個々の人間的知覚主観の根底にある個的霊性、あるいは主観の根底にある《自我それ自体》が同じであると結論する。

■07-35

この結論は、形而上的実在論の根底にある諸原因の特徴を反映している。 事例が十分であれば、推定される原因から次に何が起こるかがわかる、というくらいに事の成り行きが明らかになると思っている。 これを帰納的結論と呼ぶ。 観察結果は毎回毎に特徴が違うので、観察を続けると予期せぬことが生じ、結論を変更することはいくらでもあるだろう。 原因に対する認識が不完全であっても、現実生活上では十分に事足りると形而上的実在論は主張する。

■07-36:形而上的実在論はかつては理念から、今は知覚から根拠づけられるとされる

帰納的結論とは、現代の形而上的実在論にとっての方法論的基盤である。 かつて、非概念的な何かを概念から導出できると信じていた時代があった。 形而上的実在論者にとってはいつかは形而上学的現実存在が必要になるが、その形而上学的現実存在を概念によって認識できると信じていた。 この種の哲学議論は、現在ではすでに論破されている。 にもかかわらず、十分量の知覚的事実があれば、こうした事実の根底に存する物それ自体の特徴を捉えられると思っている。 かつては概念から導き出そうとしたことを、今日、形而上的実在論は知覚から導き出せると言うのである。 概念は透明で明確なので、そこから形而上学的にも絶対確実なものを導き出せると信じていた。 しかし知覚にはそれと同等な透明さはない。 同種のものであっても、現われる度にどこか違っている。 事柄から導いた以前の結論は、基本的に以後の事柄によって必ず変更される。 こうしたやり方で形而上的実在論が手にするものは相対的正当性と呼べるだろう。これは、常に将来の事例による訂正を受ける可能性がある。 エドゥアルト・フォン・ハルトマンの形而上的実在論は、こうした方法論的基盤を反映した特徴を持つ。 彼の最初の主要作の表紙に掲げられたモットーは「帰納的自然科学的方法による思索的結果」であるし、この言葉にその特徴が端的に示されている。

■07-37:形而上的実在論の思考の道筋

形而上的実在論者が現在、《物それ自体》と言っているものは帰納的結論として得られている。 知覚と概念を介して認識しうる《主観的な》関連の他に、世界についての客観的・現実的関連が存在することを、形而上的実在論者は認識プロセスを熟考することで確信しているのである。 この客観的現実の性質については、諸知覚を基に帰納的結論によって決定できると信じている。

★1918年新版への補足

■07-38a:光線スペクトルの不可視部分をどう考えるか

これまでの論述では知覚体験と概念体験の囚われのない観察を取り上げたが、ある自然科学的な考え方が絶えずこうした観察を妨げてきた。 自然科学的立場からはこう言われる。「目では、赤から紫までの色彩が光スペクトルとして知覚される。 しかし、その紫の外側にもスペクトルがあり、それは色彩としては知覚されないにしろ化学的作用を及ぼし、同様に赤の外側にも知覚されないにしろ熱作用だけを及ぼす放射線がある」と。 これに類する現象を熟考すると次のような見解にたどり着く。 「人間の知覚世界の広がりは、人間が持つ感覚に規定されていて、感覚がさらに増えるか、あるいはまったく別様になるかしたら、感覚世界もまったく違うものになる」と。 この方向でさらにファンタジーが度を超えると、つまり最近の輝かしい自然科学的発見に誘惑されると、次のような考えにまで到りうるだろう。 「人間の観察領域で捉えられるのは、人間生体に備わった感覚器官に作用を及ぼすものだけである。 生体的制約を受けた知覚によって捉えられるものだけを主要な現実と見なすことには何の正当性もない。 何らかの新しい感覚が加われば、現実像も別なものになっていくはずである」と。

……相応の範囲内であればこれらの見解はすべてまったく正しい。 また、これまで述べた知覚と概念の関係は、囚われのない論考で正しいことを確認してきた。 ところが、この見解の影響で知覚と概念の正しい関係を見られなくなってしまうと、現実に根差した世界認識や人間認識への道が閉ざされてしまう。

■07-38b:知覚可能領域が広がっても思考による補完を必要とする

概念世界における活動的作業である思考本質の体験は、感覚知覚可能なものの体験とは決定的に違う。 人の感覚がどれだけ幅広くなっても、感覚知覚に思考的概念を浸透させなければ現実は決して得られない。 そして、通常の感覚のどれを介しても、人間には現実に入り込む可能性が与えられている。 「現実世界に人間はどのように存在しているか」という問いは、別種の感覚によって可能になる別種の知覚像というファンタジーには何の影響も受けない。 あらゆる知覚像が知覚存在の生体機構相応であることは見通していなくてはならない。しかしまた同時に、人間が現実に迫るのは、知覚像を思考的考察で裏打ちすることによってであることも見通していなくてはならない。 人間とは違った感覚を持つ存在から見た世界像を想像たくましく描写しても、人間と世界との関係を認識するようには促されない。 そうではなく、どの知覚によっても、その知覚を包括する現実の一方の部分しか得られず、知覚だけでは知覚本来の現実には達していないことを洞察することによって促されるのである。 この洞察でさらに別な面にも迫る。つまり、知覚自体には隠されている現実の部分に入り込んでいくのが思考であることがわかる。

■07-38c:物理学では知覚不能領域に感覚界の概念を敷衍している

物理学の経験領域では必然的に、肉眼で見える諸要素ではなく、電気力線、磁気力線といった目に見えない微細なものを扱うようになった。そのことが妨げとなって、ここで述べてきた思考によって作り上げられる概念と知覚との関係を囚われなく観察できなくなっている。 物理学が言う現実要素が、知覚可能でもなく、活動的思考によって作り出される概念でもないように見えるかもしれない。 しかし、そうした見解は自己誤認から生じている。 もちろん誤った仮説は問題にすべきではないが、とりあえずは、物理学で作り上げられてきたものすべてが知覚と概念から得られている点が重要である。 物理学者は健全な認識本能から、表向きは目に見えない内容も、知覚の領域に置き換え、この知覚領域に関連する諸概念をもって考えている。 電場や磁場などの場の強度を求めるにしても、本質的には知覚と概念の相互関係からなる認識過程以外は用いていない。

■07-38d:認識の本質は知覚可能領域の大きさに左右されない

……感覚が増えたり別なものになったりしたら、知覚像は別のものになり、経験はより豊か、あるいは別様になる。しかし、こうした別様な体験についても、真の認識が得られるのは知覚と概念の相互作用によってであるはずである。 認識をどれだけ深化させられるかは、思考内で活動する直観力(05-25段落参照)にかかっている。 直観では、思考内で織り成されるまさにその体験において、その深さに差はあれ現実の根底に沈み込むことができる。 知覚像が拡張することでこの深みへの沈み込みが触発されうるし、このやり方で間接的に促しもする。 現実への到達という意味でのこの深みへの沈み込みと、知覚像の拡張あるいは縮小は別である。この一点だけは決して混同しない方がよいだろう。 知覚像では常に現実の半分しか与えられていないし、さらにはその現実も認識する生体に応じて限定されている。 色や音とは異なり、感覚では直接的に決定できない要素があり、物理学においては、そうした要素が知覚領域に存在すると仮定せざるをえないという事実がある。そして、この事実が人間存在の認識にどう関係するかを、抽象化に陥らない人なら洞察するだろう。 つまり、具体的な人間の本質とは、生体機構を介して直接に眼前に知覚として与えられたものだけに規定されるのではなく、この直接知覚以外は除外することによっても規定されている。 意識的な覚醒状態の他に無意識な睡眠状態が必要なように、人間の自己体験に対しては、感覚知覚的環境の他に、……それよりもさらに大きな……感覚知覚の母体的フィールド内の感覚知覚不能要素からなる環境が不可欠である。 これらすべては、すでに本文の中で間接的に述べられている。 著者はここで内容を拡張し補ったが、それは多くの読者が十分に正確に読み取っていないことを経験したからである。

■07-38e:本書では概念を通常の意味より拡張する場合がある

……忘れてはならないのは、本書で論考してきた知覚を単なる外的な感覚知覚と誤解してはならない点である。 感覚知覚は知覚理念の特殊形にすぎない。 本書では、感覚的あるいは精神的な何かが人間に近づいたときに、それが概念的な活動によって把握される以前の状態を知覚としている。それはここまでの記述で明らかだろうし、これ以降の論述ではさらにはっきりするだろう。 魂的あるいは精神的な知覚のためには、通常の意味での感覚は必ずしも必要ではない。 通常はこうした用語の拡張は許されていないだろう。 ある領域において、認識を拡げるにあたって用語法をその妨げにしたくない場合には、用法の拡張がどうしても必要である。 知覚という語を感覚的知覚という意味だけで使うなら、こうした感覚的知覚を超えた認識にも使える概念は得られなくなってしまう。 場合によって人は概念を拡張しなければならず、それによってある狭い適用範囲でその概念に意図に沿った意味を持たせるのである。 ある概念にさらなる考えを付け加えなくてはならないこともある。それによって、最初の考えをより適切に補完したり、適切な位置に置くのである。 その関連では、本書の06-05段落で「つまり、表象は個体化された概念である」と述べた。 この用語法に対し、一般的ではないという反論を頂いた。 しかし、表象そのものの背後に回ろうとするなら、どうしてもこの用語法をとらざるをえない。 概念をより正しいものにしようという必然に迫られている人間に対し、いちいち「その用語法は一般的ではない」と反論していたら、認識の進歩などありえない。

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