2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、付録2.1894年初版へのまえがき

■17-01:初版まえがきを再掲する理由

本書の初版に書いた一種の《まえがき》の本質的な部分を、すべて以下に再録する。 これは本書の内容には直接かかわらないが、私が25年前に本書を書き下ろした際の考えの気分が反映されているので、これを《付録》とする。 私がこれを完全に省略したくなかった理由は、後年の霊学的著作があるために、私が初期の著作をいくらか軽視しているという意見が繰り返し出されるからである。

■17-02:人間の内から真理を汲みだすのが現代の要請

私たちの時代では、真理を人間本性の深みから汲み出そうとしているのかもしれない(注)。

(注:内容)初版の《まえがき》から冒頭の一文だけは、現在では完全に非本質的と思われたので削除した。 しかしそれ以降に述べられていることは、現代人が自然科学的思考法をとるにしろ、むしろそれをとるがゆえに語られる必要があるように思われる。

シラーが語る二つの道がある。
汝は外なる営みにおいて、

我は内なる心において真実を探し、

確かにどちらもそれを見出す。

目が健全であれば、

外において造物主に出会う。

心が健全ならば、

内において宇宙が映し出される」。

現代ではこの二つのうち、第二の道がより役立つ。 外からの真理には常に不確かさがつきまとう。 私たち誰か一人の内で真理として現われ出るもの、それだけに私たちは信を置く。

■17-03:真理は人間の力となる

人間的な個の諸力を発達させる中で、真理だけが確実さを与えてくれる。 懐疑に陥いる人では、そうした力が麻痺している。 彼にとって謎でしかない世界では、創造の目標を見出すことはできない。

■17-04:信仰を離れ認識が求められている

私たちは、もはや単に信じたいのではなく、知りたいのである。 信仰では、自分では洞察しきれない真理を承認することを求められる。 しかし洞察しきれないものとは、人間的な個に抗うものであり、それはこの人間的な個がすべてを自分の最奥から生き尽くそうとするからである。 いかなる外的規範にも従属しない、人格の内なる営みから湧き出るだけが私たちを満足させる。

■17-05:智は各自が内から見つけ出す

私たちが望む智とは、凍りついた教科書的法則集成として作り上げられ、あらゆる時代にわたって粛々と遵守されるべき規則集などではない。 一人ひとりが最も手近な経験から、直接の体験から出発し、そこから宇宙全体の認識へと上っていくことが正当だと思っている。 私たちはある一つの確かな智を目標とするが、各自がそれぞれ独自の智を目指す。

■17-06:現代では人間は強要されえない

私たちの学説は、無条件に強制的に認知させる古きやり方をすべきではないだろう。 かつてフィヒテが冠したようなタイトルを、自分の学問的著作に付けようとする者はいないだろう。 『最新哲学の本質に関する大衆に向けた白日明瞭な報告。読者を理解へと強要する試み』。 現代では誰かを理解へと強要してはいけない。 ある世界観に対して、人間的な個からの特別な要求に駆り立てられることのない人には、認めてもらうことも、賛同してもらうことも望まない。 成熟していない人や子どもに対しても、この場で何らかの認識を教え込もうとはしない。 彼らの能力の発達を促し、それによって理解への強要が不要となり、理解したいと思ってもらいたい。

■17-07:本書は意志ある人に向ける

私はこの時代の特徴について何の幻想も抱いていない。 没個性で型にはまったものがいかに闊歩し、いかに広まっているかを知っている。 しかしまた、多くの同時代人がここで示唆した方向で生きようと試みていることもよくわかっている。 本書は彼らに捧げたい。 本書が真理に至る《唯一の可能な》道を示しているとは言わないが、真理に携わった一人が切り開いた道を語っているとは言いたい。

■17-08:思考の実際の実践が求められる

本書ではまずより抽象的な領域に入っていく。そこで、いくつかの確実な点を得るために考えに明確な輪郭をつけるのである。 しかし読者は、無味乾燥な概念から具体的な営みへと導かれるだろう。 あらゆる方向で実在を生き尽くそうとするなら、人は概念のエーテル領域に上る必要があるというのが私の心からの見解である。 意味における楽しみしか知らない人は、生きることの美味を知らない。 東洋の賢者は弟子に自らの知識を伝える前に、数年間、断念と禁欲の生活を送らせる。 西欧では学問のためにもはや敬虔な修練も禁欲も要求されないが、その代りに短期間、生活からの直接的な印象から離れ、純粋に思考的な世界に没頭するよき意志を要求する。

■17-09:哲学は諸学問を統合する

営みの領域は数多くある。 そのいずれに対してもそれに特化した学問が発達している。 しかし営みそのものは一体である。そして、諸学問がそれぞれに個々の領域を深めていけばいくほど、世界全体の生き生きとした観方からは遠ざかる。 人間を営み全体に連れ戻すための要素を個々の学問の中に探すことのできる智がなくてはならないのである。 専門分野の研究者は、自らの認識によって世界と世界の作用についての意識を身に付けようとしている。 本書の目標は哲学的なものである。つまり学問それ自体を有機的で命を持ったものにするのである。 個々の学問分野は、ここで追求している学問の前段階である。 これと似た関係は芸術でも重要である。 作曲家は作曲理論に基づいて仕事をする。 作曲理論とは、作曲活動のために不可欠な前提知識の集積である。 作曲活動において、作曲理論の諸法則はリアルな現実という命に役立っている。 これとまったく同じ意味で哲学は一つの芸術である。 真の哲学者はすべて概念の芸術家であった。 哲学者にとって人間の理念は芸術素材であったし、学問的方法は芸術的技法であった。 これによって抽象的な思考は人間的な個としての具体的な命を得る。 諸理念が命の胆力になる。 このとき私たちは、単に事物についての智を手にするのではない。 智を自己支配的な現実の有機体にする。 現実的で活動的な私たちの意識が、単なる受け身的な諸真理の受容を越えた地点に自らを引き上げるのである。

■17-10:本書では自由の諸問題を取り上げる

人間の自由に向けた芸術である哲学がどのように展開するのか、人間の自由とは何か、また私たちは自由にかかわるのか、あるいはかかわりうるのか、これらが私の著書の主な問いである。 それ以外の学問的論議も本書で取り上げているが、それは、人間にとって最も身近な問いだと私が考えるものの最終的な解明に役立つからである。 この冊子のタイトルを、ある『自由の哲学』とする。

■17-11:この学問は人間のすべての可能性の向上を目指す

人間人格の存在意義を高めることを志向しないなら、いかなる学問も無意味な好奇心の満足にすぎない。 学問はその結論に人間の意義を述べることによって、初めて真の価値を得る。 個々それぞれの魂的能力を高貴にすることが人間的な個の最終目標ではない。 そうではなく、私たちに微睡むすべての能力を育てることである。 人間本性全体あらゆる方向に向けて展開させることに貢献してはじめて、智は価値を持つ。

■17-12:理念を自らのものとするのが本書の目標

それゆえ本書では、人間が理念に屈服しなくてはならず、自分の力をその理念に捧げるというかたちで学問と生きた営みの関係を捉えてはいない。 そうではなく、単なる学問を越えたものである人間的な目標に向けて使えるように、人間が理念世界を自分のものにするという意味で捉えている。

■17-13:理念と向き合える人間を目指す

人は、理念を体験しつつ理念と対置できなくてはいけない。そうでないと人は、理念に隷属してしまう。

0 件のコメント:

コメントを投稿