2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、付録1、1918年版への補足

■16-01:哲学者向けの問題を検討

本書が出版されるとすぐに哲学の側から反論が寄せられた。それをきっかけに私は、この新版で以下のような小論を付け加えた。 本書のここまでの内容には興味を持つものの、以下の論述は蛇足であり、抽象概念の弄びで身近には感じられないという読者がいることは、私にも十分想像できる。 そうした読者は、この短文は読まずに済ませていただきたい。 ただ、世界を哲学的に考察するときには問題がいくつか生じるし、その問題の原因は、思考者が持つある種の先入観であり、思考自体の自然な歩みではない。 本書のこの部分以外は、人間の本質やそれと世界との関係を明らかにしようとするすべての人に関係する課題であるように私には思われる。 以下の記述では、特定の哲学者たちが、本書のような内容を取り上げる場合には検討すべきであるとしている問題を取り上げている。 哲学者たちは彼らの思考法がゆえに、一般には存在しない特定の困難を創り出してしまったのである。 ただ、こうした問題に触れないと、即座にある人物たちが本書に対し素人考え等々の批難を浴びせて来るだろう。 そして本書の内容のような文を書く著者は、本書自体では論じられていない諸見解とはきちんと取り組んでいないと見られてしまう。

■16-02:他人と世界を共有できる根拠

ここで私が取り上げるのは以下の問題である。 他人の魂的営みが自分(観察者)の魂の営みにどのように作用するかは、非常に捉え難いとする哲学者がいるのである。 彼らは次のように言う。 私の意識世界は自己内に閉塞しているし、他者の意識世界も同様である。 私は他者の意識世界を覗くことはできない。 彼と世界を共有していることを私はどうしたら知ることができるのだろうか。

さて、決して意識されえない無意識的世界を意識的世界から推測しうるとする世界観があり、その世界観ではこの困難を次の考え方で解決しようとする。 私が意識内に持つ世界とは、私の意識では到達できない現実界の私の中における代表物である。 現実界に、私の意識世界のきっかけとなる私にとっては不可知なものが存在する。 この現実界には私の現実的本性も存在し、私の意識の中にはその本性の一つの代表物が存在するにすぎない。 しかしこの現実界には、私の前にいる他者の現実的本性も存在している。 ここで、この他者の意識において何かが体験される。このときこの体験のもととなる本性は、彼の意識とは無関係ではあるが対応はしている現実界に存在している。 この彼の体験のもととなる本性は、私が意識されえない領域において、原理的に意識されえない私の存在本性に作用する。 この作用はさらに私の意識内に代表物を作り出すが、その大元は私の意識的体験とは完全に独立した意識内(他者の意識)に現存するものである。 ここでは私の意識が及ぶ世界に、経験しえない世界が仮説的に付加されている。 そうでないと次のように言わざるをえないと思うからである。 私の眼前にあるとされる外界はすべて私の意識世界でしかなく、そこからは……独我論的……不合理が、つまり、他の人々も私の意識内にしか生きていないという不合理が生じる。

■16-03:一元論からみた他人と世界を共有できる根拠

近代の多くの認識論的思潮においてはこうした問題が生じた。これを解明するには、本書の論述の背景にある精神的観察の視点から事柄を見渡せばよい。 他の人物と向かい合うとき、私の前には何があるだろうか。 私は直近にあるものを見る。 それは私に知覚として与えられたもので、感覚知覚しうる他者の身体現象であり、そこに相手が語ることの聴覚知覚などが加わる。 これらすべてをじっと見つめるだけでなく、私の思考が活動を開始する。 思考しつつ他の人物を前にすることで、知覚は私にとって言わば魂的に透明になる。 知覚の思考的な把握においてはこう言わざるをえない。「それは外的感覚器官で捉えた知覚とはまったく違う」と。 感覚的現象は、直接的なものの中にそれとは別な間接的なものを開示する。 《その人物を私の眼前に》置くというのは、単なる感覚的現象としてのその人物の消去でもある。 この消去によってその人物が現わし始めるものは、思考する存在である私に対する強制をもたらす。つまり、その人物が作用している間は私の思考を消し、その場に代わりとしてその人物の思考を置くように強いられるのである。 その人物のこの思考を、私は私の思考において自身の体験と同じように捉える。 私は他者の思考を現実に知覚したのである。 それは、感覚現象としては消えていく直接の知覚が私の思考によって捉えられるからである。 そしてこれは、完全に私の意識内での出来事であり、さらにこの出来事は私の思考の場に他者の思考が置き換わることで生じている。 感覚現象自体が消えることで、事実としてこの両者の意識領域にあった分離がより高い次元で克服される。 他者の意識内容を体験しているときの自分自身の意識は体験されていないし、それは熟睡状態で自分の意識が体験されないのと同じである。 これによって、他者の思考が私の意識内で自らを代弁するのである。 熟睡においては覚醒意識がオフになっているように、他者の意識内容を知覚しているときには私の意識内容はオフになっている。 これがそうではないかのように錯覚されるのは次の二つの理由からである。 第一に、他者の知覚の際に自分自身の意識内容は消えるにしろ、そこでは睡眠中のような無意識状態にはならず、他者の意識内容が入ってくるからである。 第二に、私自身が意識のオンとオフの交代を、普通に気づくことがないくらいに素早く行っているからである。

……意識に意識不可能なものを継ぎ合わせた人工的な概念構成では、ここで取り上げているいかなる問題も解決できない。 そうではなく、思考と知覚の結合を真に体験することによって解決できるのである。 これは哲学文献に見られる非常に多くの問いについて当てはまる。 思想家たちは精神に沿った囚われのない観察に向かう道を探すべきであった。 ところがその代わりに、現実と私たちとの間に人為的な概念構成体を差し挟んでしまったのである。

■16-04:ハルトマンの批判に対する反論

エドゥアルト・フォン・ハルトマンの論文「認識論と形而上学の究極の諸問題」(雑誌『哲学と哲学的批判』第108巻、55ページ以降)において、私の『自由の哲学』は《認識論的一元論》の上に成り立つ哲学的思想の一派に分類されている。 ハルトマンはこの立場をありえないものとして退けている。 その根拠は以下の通りである。 この論文で言われている考え方にしたがえば、三つの認識論的な立場しかない。 第一は素朴な立場にとどまるもので、これは知覚された現象を人間意識外にある現実の事物とみなしている。 ここには批判的認識が欠けている。 意識内容が自分の意識内でしか成り立たないことを洞察していない。 これでは自分の意識内の対象にかかわるだけで、《テーブルそれ自体》に達していないことが見通せていない。 この立場にとどまっている者、何らかの思索を巡ってこの立場に戻ってしまった者は素朴実在論者である。 意識内には自分自身の意識対象しか存在しないことを見過ごしているので、この立場は成り立ちえない。

第二の立場では、こうした状況を洞察し、それを完全に受け入れる。 すると人はまず、超越論的観念論者になる。 しかし、いつかは《物それ自体》の何かしらが意識内に現われるということは否定されるだろう。 それを一貫していくと、絶対的幻想説に陥いることは避けられないだろう。 自分が向き合っている世界が単なる意識内対象、しかも自分自身の意識内の対象の総和に変わってしまうからである。 すると周りに居る人々も……馬鹿げたことであるが……自分の意識内にしか存在しないと考えざるをえないのである。

可能な立場は第三のものだけ、つまり超越論的実在論である。 この立場では、《物それ自体》は実存するが、意識がそれと直接体験でかかわることは不可能であると仮定している。 《物それ自体》は意識の届かないところで意識されないやり方で作用し、意識内に対象を出現させるのである。 この《物それ自体》に達することができるのは、唯一体験されたもの、しかし単に表象されるにすぎない意識内容を出発点とする演繹によってだけである。

エドゥアルト・フォン・ハルトマンは前出の論文で次のように主張している。私の『自由の哲学』の立場も《認識論的一元論》の一つである。またこの《認識論的一元論》も現実には三つの立場のいずれかを採らなくてはならない。それをしないのは、自らの前提から実際には一貫して考えていないからであると。 論文ではさらに次のように述べている。

「いわゆる認識論的一元論者がいかなる認識論上の立場を採るかを知るには、いくつかの問いに答えさせればよい。 これに認識論的一元論がどう答えても、上述の可能な三つの立場のどれかであることが明らかになるので、彼らは自ら進んでこうした点に触れることはないし、質問に対しても答えをはぐらかす。 その問いとは以下のものである。

1.事物とは、その成り立ちにおいて連続的であるか、不連続的であるか。

連続的であると答えた場合、これは何らかのかたちの素朴実在論である。 不連続的であるという答なら超越論的観念論である。 しかし、(絶対的意識の内容、無意識的表象、知覚可能性のいずれかにおいての)一面では連続的で、(境界づけられた意識内での内容としての)一面では不連続的であると答えたなら、これは確実に超越論的実在論である。

2. 一つのテーブルの周りに三人が座っている場合、テーブルの代表物はいくつ存在するだろうか。

答えが「一つ」なら素朴実在論者、「三つ」なら超越論的観念論者、「四つ」なら超越論的実在論者である。 ただしこの場合には、《物それ自体》としてのテーブルと三つの意識内に現われる知覚対象としてのテーブルの種類は異なるにしろ《テーブルの代表物》としてまとめられると仮定している。 これだとあまりに奔放すぎるという人は、「四つ」ではなく、「一つと三つ」と答えるはずである。

3.二人が部屋にいる場合、これらの人物の代表物はいくつ存在するだろうか。

答えが「二つ」なら素朴実在論者、「四つ」(両者の意識内それぞれにある私と他者)なら超越論的観念論者、「六つ」(物それ自体としての二人と、二つの意識内に存在する計四つの表象)なら超越論的実在論者である。 認識論的一元論の誰かがこの三つの立場以外を取るとするなら、この三問に対し上とは違った回答をしなくてはならないはずである。しかし私は、『自由の哲学』がどのような回答を示すかはわからない」。 『自由の哲学』からの回答は以下のようになるはずである。

1.事物から知覚内容だけを捉え、それを現実とするのは素朴実在論者である。さらに彼らは、こうした知覚内容が見ているときにだけしか成り立たないこと、つまり眼前にあるものを不連続的と見なさなくてはいけないことに気づいていない。 しかし、知覚可能なものに思考が浸透することで現実が成り立つとわかれば、不連続的に現われる知覚内容が思考内で作り上げられたものに浸され、連続的なものとして開示するという見解に達する。 つまり、連続的なものとされるべきは、体験された思考によって捉えられる知覚内容である。 これに対し、単に知覚されるだけのものが……実際にはそうではないが……もし現実であるとされるなら、それは不連続的であると考えられるだろう。

2.一つのテーブルの周りに三人が座っている場合、テーブルの代表物はいくつ存在するだろうか。

この場合、テーブルは一つしか存在しない。 ただし、この三人が知覚像にとどまり続けようとするなら、「これらの知覚像は決して現実ではない」と言うはずである。 しかし、思考で捉えたテーブルに移行すると、テーブルという一つの現実が開示する。 三つの意識内容がこの現実において一つに統合する。

3.二人が部屋にいる場合、これらの人物の代表物はいくつ存在するだろうか。

これは決して「六つ」ではなく、「二つ」しかない。……超越論的実在論の立場であっても……「六つ」ではない。 はじめに二人は、非現実的なものであるが自分と相手の知覚像を持っている。 この知覚は四つあり、その存在のもとで二人は思考活動を展開し現実を把握する。 この思考活動の中でそれぞれが自分の意識領域を超えていく。自他の二人の意識領域が二人の内において活動し始める。 活動を始める瞬間には、両者とも自分の意識に閉じこもってはいない。この点は睡眠中と同じである。 次の瞬間には他者への没頭から意識が再び抜け出し、その結果それぞれの意識が思考体験の中で自分と他者を捉える。 超越論的実在論者がこれらのことを素朴実在論への逆戻りと見なすことは私にはわかっている。 しかし本書ですでに述べたように、体験的思考においては素朴実在論は正当なのである。 超越論的実在論者は認識の過程における真の状況にまったく取り組もうとしない。 こねくり出した思想によって真の状況から自身を閉ざし、そこに埋没している。 『自由の哲学』で言う一元論は《認識論的一元論》とされるべきではなく、もし名づけるとするなら思考的一元論とされるべきだろう。 これらすべてをエドゥアルト・フォン・ハルトマンは誤解した。 彼は『自由の哲学』特有の見解には入り込まず、私が試みたのは、ヘーゲルの普遍主義的汎論理主義とヒュームの個人主義的現象主義との結合であると主張している(『哲学雑誌』第108巻、77ページの注)。 しかし実際には『自由の哲学』自体は、統合を試みたとされるこの二つの立場とは何の関係もない。 (私がたとえばヨハネス・レームケの『認識論的一元論』を検討しなかった理由はここにある。 エドゥアルト・フォン・ハルトマン等の人々が認識論的一元論と名づけるものと『自由の哲学』の視点はまったく違うのである)。

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