2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』第3部、最終的な問い、一元論からの諸帰結


■15-01:一元論的認識論の概要


統一的な世界究明、あるいはここで言う一元論では、世界究明に必要な諸原理を人間の経験から取り出している。 行動の源泉もまた観察世界の中に求める。つまり自己認識によって捉えうる人間の本性の中に、さらに正確に言えば道徳的ファンタジーの中に求めている。 そして、知覚や思考で捉えられる世界の外側に、抽象的な推論を介して究極の根拠を求めることは決してしない。 一元論にとって一体なるものとは、多種多様である知覚に体験可能である思考的観察を結びつけたものであり、同時に人間の認識欲求の対象でもあり、さらにはその認識欲求が物質界と精神界への入り口を探す際に仲介となるものである。 この一体なるものの背後にさらに別なものを探すとしたら、それは思考によって見出されるもので認識衝動が十分に満足させられる点がわかっていないことを露呈している。 人間的な個のどれをとっても、それが実際に世界から切り離されていることはない。
人間的な個とは世界の一部であり、現実という宇宙全体との間にはある関係が成り立っている。ただその現実は、知覚においてだけは分断されている。 私たちはこの知覚という部分をそれ自体で存在すると見なしている。その理由は、宇宙の根源的諸力からの動きを私たちの営みという動輪に伝える駆動ベルトが見えないからである。 この立場に留まると、全体における一部にすぎないものを自立した現実存在(つまりモナド)と見なしてしまうし、このモナドは他の世界からの伝えを何らかの方法で外側から受け取っていると見ることになる。 ここでの一元論の立場から見れば、それが自立しているように見えるのは、知覚されたものが思考によって概念網に組み込まれる直前までである。 知覚が概念網に組み込まれると、この部分存在は知覚という仮象にすぎないことが明白になる。
知覚の宇宙における完結した全体存在を見出しうるのは、直観的な思考体験によってのみである。 思考は知覚の仮象性を打ち破り、また人間的な個を宇宙の営みの中に組み入れる。 一体なる概念世界は、そこに客観的な知覚を包括しているし、私たちの主観的な人格という内実もそこに取り込んでいる。 思考は、現実の真の姿を自己完結的な一体なるものとして私たちに与えてくれる。それに対しては、多種多様な知覚とは単に私たちの機構によって限定された仮象に過ぎなかった(10-01)。
知覚という仮象と向かい合い、そこから現実を認識することはいつの時代も思考の目的であった。 学問は、諸知覚間に成り立つ法則的関連を発見することで、諸知覚を現実として認識しようとしてきた。 しかし思考で確認しうる関連が主観的意味しか持たないという見解を採っていたために、真の一体性の根拠を経験可能な世界以外の対象(推論される神、意志、絶対的精神など)に求めてしまった。
……この見解が背景となって、経験可能な範囲で認識しうる諸関連の知に加え、経験を超えたもう一つの知を求めてしまった。 そしてそこでの関連は、経験可能な諸本質の範囲を逸脱してしまった。(体験を介してではなく、推論の上に成り立つ形而上学になってしまった)。 制御された思考によって私たちは宇宙関連を把握しうる。そしてここでの立場では、そのことの根拠を、宇宙がある原初存在によって論理的諸法則に沿って構築されていて、私たちの行為の根拠もこの原初存在の意志の中に見ている点にあるとしてきた。 それでも思考が主観と客観を同時に包括していて、知覚と概念を関連させることで現実総体を伝えてくれることを人は認識していない。 知覚を貫き、さらには知覚を規定している法則性を、概念の抽象的な形式と見なしているかぎり、それは実際、完全に主観的なものでしかない。 しかし、思考の助けで知覚に付け加えられる概念の内容は主観的ではない。 この内容は、主観からではなく、現実から取り出されている。 この内容とは現実の一部であり、知覚では捉えることのできない現実の部分である。 それは経験ではあるが、知覚によって伝えられる経験ではない。 概念を現実と考えられない人は、それを抽象的な形式でしか考えておらず、自分の精神内に固着しているように考えている。 しかしこうした分離は、知覚の場合と同様に、私たちの機構によって存在しているだけである。 樹木を知覚するにしても、それだけを切り離せば実在性を持たない。 樹木とは自然という偉大な歯車の一部であり、自然との現実的関連あっての存在である。 抽象化された概念それ自体は決して現実ではなく、それは知覚それ自体だけでは現実ではないのと同じである。 知覚とは現実の客観側の部分であり、概念では(直観によって)現実の主観側の部分が与えられる(05-25以降参照)。 現実は、私たちの精神的機構によってこの二つの要因に分離される。 一方の要因は知覚によって、もう一方は直観によって捉えられる。 両者が関連すると、つまり知覚が法則的に宇宙に組み込まれると、十全な現実になるのである。 知覚だけを取り上げて観るなら、これは現実ではなくて関連性を欠くカオスである。 諸知覚における法則性だけを観るなら、それは単に抽象的な概念でしかない。 抽象的な概念は現実を捉えていない。しかし概念の側にも、知覚の側にも偏らずに両者を関連させる思考的観察が現実を捉えるのである。

■15-02:二元論と一元論の対比


(私たちのリアルな存在がその現実に根差し)私たちが現実に生きているという点は、最も正統的な主観的観念論者も否定しないだろう。 主観的観念論者が異議を唱えるとしたら、私たちがリアルに生き抜いている地点にまで私たちが認識によって理念的に到達するという見解に対してだろう。 その異議に対して一元論は、思考は主観的でも客観的でもなく、現実のその両面を包含する原理であることを示す。 思考しつつ観察する際に実行しているプロセスは、それ自体が現実の出来事の一つである。 単なる知覚では一方に偏ってしまう点を、私たちは思考において、経験自体の中にとどまりつつ克服している。 抽象的で概念的な仮説によっては(完全に概念的な省察によっては)現実の本質に考え着くことはできないが、知覚に対応する理念を見出すことで私たちは現実の中に生きる。 一元論では、経験不可能な(彼岸的な)ものを経験の他に求めたりはせず、概念と知覚の中に現実を見る。 一元論では、単なる抽象概念から形而上学を紡ぎ出すことはない。 概念においては現実の一方の部分だけを見ていて、その現実部分は知覚では捉えられないにしろ、知覚と関連したときにだけ意味を持つことがわかっているからである。 自分は現実世界に生きていて、その現実世界以外に体験不能な高次の現実を探す必要などないという確信を、一元論は与えてくれる。 一元論では、経験自体の内容を現実として認識しているので、経験以外のところに絶対的現実なるものを探したりはしない。 そして、この現実で十分に満足するが、それは思考にはこれを現実と保証する力があることがわかっているからである。 二元論が観察世界の背後に求めているものを、一元論ではこの世界自体の中で見つけている。 一元論は、私たちの認識が現実の真相を捉えていて、人間と現実との間に差し挟まれた主観像を捉えているのではないことを示す。 また一元論からすると、世界の概念的内容はすべての人間的な個にとって同一である(05-17以降参照)。 一元論の原理によれば、ある人間的な個は他の個を自分と同じと見なす。その理由は、その両者の中には同じ世界内容が生きているからである。 概念世界は統一的で、その中にあるライオン概念の数は、ライオンについて考えている人と同数あるのではなく、ただ一つである。 人物Aがライオンの知覚に付け加える概念は、人物Bの概念と同一であるが、異なる知覚主体によって捉えられているだけである(05-18,19参照)。 思考によってすべての知覚主体は、あらゆる多様性を包括する共通の理念的統一に導かれる。 多様なる複数の人間的な個という意味での知覚主体の中で、統一的である理念世界が息づいている。 自己知覚だけを介して自己を捉えるとき、人は自分を特殊として見る。 自分の内で光を放つ理念界、あらゆる特殊を包含する理念界に目を向けるとき、人は自らの内に絶対的なる現実が生き生きと輝くのを見る。 二元論では、神的根源存在をすべての人間に入り込み、すべての人間の中に生きるものと規定している。 一元論では、この共通な神的営みを現実そのものの中に見る。 他人が持つ理念的内容は私も同様に持っている。そして、知覚しているだけでは私は彼の理念的内容を別物とみなすが、思考し始めた瞬間に別物ではなくなる。 誰しも自分の思考では理念世界全体の一部にしか届かないので、その意味ではそれぞれの人間的な個の思考内容は現実問題としては区別される。 しかしこの思考内容はそれ自体で完結した全体の中にあり、あらゆる人間の思考内容を包括している。 それゆえ人間は、あらゆる人間に入り込んでいる共通の根源存在を、思考の中で掴むのである。 現実内で思考内容に満たされつつ生きることは、神において生きることを意味する。
推論によるだけで体験できない彼岸を想定する人びとは、此岸自体にはその存立根拠がないと誤解している。 そう考えている人びとは、知覚を説明するために必要とされるものが思考によって見つかることを理解していない。 それゆえ、いかなる思弁を弄しても、所与の現実からの借り物ではない内容は示すことができなかったのである。 抽象的演繹による仮定的な神とは、人間を彼岸に移植したにすぎない。 ショーペンハウアーの意志とは、人間の意志力を絶対化したものにすぎず、 理念と意志を合体させたハルトマンの無意識的根源存在とは、経験からの二つの抽象物の合成にすぎない。 体験された思考を基盤としないあらゆる彼岸的原理についてもまったく同様なことが言える。

■15-03:一元論は経験領域で完結する


真実からすると、人間精神は私たちが生きる現実を越え出ることはなく、またこの世界の説明に必要なものすべてがこの世界にあるのでその必要もない。 経験から借用しつつ仮説的に彼岸へと移し換えた諸原理から世界を導き出すことで哲学者たちが最終的に満足すると言うなら、同じ内容が経験可能な思考も属する此岸に移し換えられても同様な満足が得られるはずである。 世界を越え出る試みはすべて見せかけであり、世界外へ移し換えられた諸原理の方が世界内の諸原理より世界をよりよく説明するということもない。 思考自体で理解しうる思考はそうした世界からの脱出を促すこともない。 なぜなら、思考内容は世界の外にではなく世界の中に知覚内容を探せばよいし、それと一体になって現実を形成するからである。 ファンタジーの対象にしても、その内容が正当と認められるのは、ファンタジーから何らかの知覚内容に結びつく表象が作り出されたときである。 こうした知覚内容によってファンタジーが現実界に組み込まれる。 私たちにとっての所与の世界以外に存する内容を持つとされる概念は、現実と対応しない抽象産物にすぎない。 私たちは現実における概念しか考え出せない。そしてこれを自分で見出すためには、知覚という現実を必要とする。 内容を無理矢理に考え出された世界の原存在なるもの、それは自己理解的な思考にとってはありえない仮定にすぎない。 一元論は理念的なものを否定しないし、それどころか理念的対応物を持たない知覚内容は完全なる現実とは見なさない。 また、思考内をくまなく探しても、思考という客観的で精神的な現実を否定し、思考の体験領域を越え出る必然性など見つけることはない。 一元論では、知覚したものを記述するだけで、その知覚を理念で補完しない学問を、半分でしかないと見る。 しかしまた、知覚による補完を見つけられず、観察可能な世界を網羅している概念のネットワークのどこにもつながらないあらゆる抽象的概念も半分としか見なさない。 それゆえ一元論には、経験の彼岸の対象を指し示す理念も存在しないし、単なる仮説である形而上学の内容となるべき理念も存在しない。 そうした理念との関連で人類が生み出してきたものは、一元論から見ればすべて経験からの抽象化にすぎないが、その発案者はそれが経験の借用であることを見落としているのである。

■15-04:一元論から見た人間の行為


一元論の原則によれば、行為の目的も人間外の彼岸から取り出されることはない。 目的とは、それが考えられたものであるなら、直観に由来しているはずである。 人間は(彼岸の)客観的原存在の目的を自らの人間的な個の目的にすることはなく、自らの道徳的ファンタジーが与えた自分独自の目的にしたがう。 人間は、行為として実現されるべき理念を統一的である理念世界から取り込み、それを自らの意志の根拠にする。 つまり行為の中に生きているのは、彼岸から此岸に移植された掟ではなく、此岸の世界に属する人間の直観なのである。 私たち自身の外側から私たちの行為に目標や方向を設定する世界の操縦者など、一元論には存在しない。 人間には、彼岸のそうした存在基盤など見つからないし、目標を教わるためにそこで決定されたことを探求することもないし、その目的に沿って行為することもない。 人間は自分自身に立ち戻る。 人間自身が自分の行為の内容を決めなくてはならない。 人間が、自らの生きる世界以外に自らの意志に対する規定的根拠を求めるなら、無駄な探求をしていることになる。 母なる自然が準備してくれた自然な衝動の満足を越え出ようとするなら、さらに他者の道徳的ファンタジーに自分の意志を規定してもらうという安直なことをしないのなら、人間は意志の規定根拠を自らの道徳的ファンタジーに求めなくてはならない。 つまり、あらゆる行為を思い止まるか、自らの理念世界から取ってきた規定的根拠にしたがって行為するか、あるいは同じ理念世界から他者が取り出してきた規定的根拠にしたがうかのいずれかである。 自らの感覚的衝動を越え、他人からの命令の実行を越えようとするなら、自らの規定から行為する以外にはないだろう。 他者ではなく自らが規定した駆動力によって行為しなくてはならない。 この駆動力は理念的には確かに統一的な理念世界において規定されている。 しかし実際の問題としては、この駆動力は理念世界から人間を介して導き出され、実現される。 人間によって理念が現実に転化されるための根拠を一元論が見出せるのは、人間自身の内においてのみなのである。 理念が行為になるにあたっては、それが実行される前に人間がそれを欲しなくてはならない。 そうした意志の根拠は、人間自身の内にのみある。 このように人間は、自らの行為の究極的な規定者なのである。 人間は自由である。

★1918年新版での補足1



■15-05:第一部が第二部を基礎づける


本書の第二部で根拠づけようとしたのは、人間の行為という現実界において、自由を見出すことができる点であった。 そのために必要であったのは、すべての行為からある部分を抽出することであり、さらにその部分を囚われなく自己観察するなら、そこに自由があると言えることであった。 行為におけるそうした部分とは、理念的直観の実現である。 囚われのない考察からすれば、他の行為は自由とは呼ばないだろう。 しかし囚われのない自己観察をするなら、倫理的直観、さらにはその実現への道筋を進もうとする素地を人間が持っていることを認めざるをえないだろう。 しかし、人間が持つ倫理的本質をこのように囚われずに観察するだけでは、自由についての最終的な決断はできない。 なぜなら、直観的思考それ自体が何らかの他の存在に由来し、思考の本性が自己を基盤に持たないなら、倫理的なものから流れ出る自由意識は見せかけにすぎないからである。 しかし本書の第二部は、第一部によって自然なかたちで支えられている。 第一部では、直観的思考を、人間の内的な精神活動が体験された結果としている。 思考のこの本性を体験的に理解すると、自由の認識と直観的思考とが同じであることがわかる。 そして、この思考が自由であるとわかると、それに隣接する意志も見え、それを自由とすることができるのである。 内的経験からの根拠で、直観的思考体験がそれ自体に根拠を持つ本性であることを認めている人であれば、行為者を自由と見なすだろう。 そうでないなら、自由の承認につながる異論の余地のない道筋は見つけられないだろう。 ここで実際になされる経験ではこの直観的思考が意識内で見出されるが、この直観的思考が現実であるのは意識内だけではない。 そしてこの経験では、自由の指標が意識における直観から流れ出る行動である点がわかるのである。

★1918年新版での補足2



■15-06:直観的思考に達する前提条件


本書の論述は、精神的にのみ体験されうる直観的思考に基づいているし、この直観的思考によってあらゆる知覚が現実の中に認識的に位置づけられる。 本書では、直観的思考における体験から見渡せるもの以外は述べられていないはずである。 しかしまた、この体験された思考がどのような思考構築作業を必要としているかも明確にしておいた方がよいだろう。 認識過程において、その直観的思考がそれ自身で成り立つ体験である点を否定されない必要がある。 また思考には、知覚と共同して現実を体験するという能力がある点を否定されてはいけない。 この現実の代わりに、体験することのできない推測されるだけの世界があり、それに対しては人間の思考活動は単に主観的なものにすぎないとしてもいけない。

■15-07:直観的思考の持つ知覚的性格


これによって、思考とはそれを介して人間が精神的に現実に入り込むものであることが示された(この体験された思考を基礎とする世界観を単なる合理主義と混同してはいけない)。 もう一方でここでの記述の精神全体から現われ出ているのは、知覚要素はそれが思考に捉えられてはじめて人間認識において現実規定となる点である。 思考以外には現実であることの証はありえない。 したがって感覚的な意味での知覚だけが現実性を保証すると考えてはいけない。 知覚として現われるものを、人は人生途上で受け身的に期待せざるをえない。 ここで次のような問いもありうるかもしれない。 直観的に体験される思考から生ずる観点からすれば、人間は感覚的知覚以外に精神的にも知覚できると期待できるのか。 それは期待してよい。 なぜなら、直観的に体験される思考とは、一方では人間精神内で遂行される活動的な過程であるが、もう一方では感覚器官を用いずになされる精神的知覚でもあるからである。 この思考は、知覚者自身が活動する知覚であり、活動と同時に知覚される自己活動なのである。 直観的に体験される思考において、人間は知覚者として精神界に立っている。 この精神世界の中で知覚として立ち現われてくるものを、人は自らの思考という精神世界と同様に、精神的知覚世界として認識する。 思考に対するこの精神的知覚世界の関係は、感覚知覚に対する感覚的知覚世界の関係と同じである。 人間が精神的知覚世界を体験しても、それは異質ではありえない。 なぜなら人間は、直観的思考においてすでに精神的性質を持った体験をしているからである。 そうした精神的知覚世界については、本書の後に出版された私のいくつかの著作で論じている。 この『自由の哲学』はそうした後の著作の哲学的基礎づけにあたる。 なぜなら本書では、正しく理解された思考体験は、それ自体が精神体験であることを示そうとしてきたからである。 それゆえ、真に誠実にこの『自由の哲学』の著者の観点を受け取れる人なら、精神的知覚世界(霊界)への参入を前にしても躊躇することはないだろう。 以後の著作内容は、本書の内容から……推論によって……論理的に導き出すことはできない。 しかし本書で述べられた直観的思考を生き生きと把握することで、自然な成り行きとして、さらに精神的知覚世界(霊界)への一歩を踏み出すことになるだろう。




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