2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第14章、人間的な個と類


■14-01:人間において個と類はどう関係しているか


人間が、完全で自己完結的な自由な人間的な個への素地を持つという見解は、人が自然的な意味での全体(人種、種族、民族、家系、男性、女性など)における一構成員であり、(教会、国家などの)ある全体の中で活動するという事実と矛盾しているように見える。 人は自分が属する共同体の一般的特質を持っていて、行為の内容も集団における彼の立ち位置によって決められる。

■14-02:類の中にあって人間は個でありうるか


そうした状況でもなお人間的な個でありうるのだろうか。 ある全体から生じ、一構成員としてある全体に組み込まれているにもかかわらず、人間自身を一つの全体それ自体として見ることはできるのだろうか。

■14-03:類が個を規定する状況もある


ある全体に属する一構成員が持つ特徴や働きはその全体によって規定される。 民族集団は一つの全体であり、それに属するすべての人はその民族の本性が決める特質を担っている。 個々人の様子や行動様式は民族的特徴によって決められている。 それによって個々人の容貌や行動にはいくぶん類的な様子が見られる。 「何でこの人はこうなんだ」、「何であの人はああなんだ」といった原因を問うと、個的存在を越えてしだいに類として見るようになっていく。 この属によって、その人に観察された様式で何かが現われた理由がわかる。

■14-04:個は類に完全に規定されるのではなく、個独自の部分を発達させる


しかし人間は、この類的なものから自らを解放する。 なぜなら人間における類的なものは、それを正しく体験するなら決して自由を制限するものでもなく、また人為的な制度がその自由を制限するべきでもない。 自らの内にその方向づけとなる根拠を見出す性質や能力を、人間は自らにおいて発達させる。 それに際して類的なものは、その人固有の本性が現われ出るにあたっての手段になるだけである。 自然から与えられた諸特性を土台として利用し、自分自身を自らの本質にふさわしい姿にしていく。 この本質の現われの根拠を類の法則の中に探しても無駄である。 これは、それ自体からしか説明できない人間的な個の問題なのである。 ある人が類的なものからこうした解放にまで到っているにもかかわらず、もし私たちが彼に関するすべてを類の特質から説明しようとするなら、人間的な個への感覚を持っていないことになる。

■14-05:《女性》という類で見ることが女性問題の根源


類の概念を土台に人間を評価するかぎり、ある人間の全体を理解することは不可能である。 そうした類による評価が最もしぶとく行われているのが性別の問題である。 男性は女性の中に、そして女性は男性の中に常に異性の一般的特徴ばかりを見ていて、個としての特徴を見ることがあまりに少ない。 現実においては、男性の方が女性より被る被害が少ない。 女性一人ひとりの個的な特性によってではなく、女性としての生まれつきの課題や必要とするものといった一般的な通念によって女性が収まるべきとされる場が決められているので、女性の社会的地位は多くの場合あまりに不当なのである。 男性の人生における活動はその人の個としての能力や傾向に沿ったものであり、女性の活動はほぼ完全に女性であるという状況に決められている。 女性は女性一般という類の奴隷であるべきとされる。 女性は《生まれつきの素質から》これこれの職業に適しているという判断を男性に議論されているかぎり、いわゆる女性問題はその初歩段階から抜け出すことはできない。 女性がその本性にしたがって何を望むのかは、女性の判断に委ねるのである。 現在女性に与えられている職種だけが女性に適しているというのが真実であれば、女性は女性自身で何一つ別な職種を獲得することができない。 自らの本性に沿ったものが何であるかは、女性が自分自身で決定できなくてはならない。 女性を類としてではなく個として受け入れることで社会情勢が揺さぶられることを恐れる人に対しては、人類の半分に人間の尊厳が与えられていない社会状態こそ、まさに改善の必要があると反論せざるをえない(注)。

(注:内容)1894年に本書の初版が出版された際には、即座に上述の事柄に反論が寄せられた。 類の中にありながらも女性は当時すでに人間的な個としての自分を発揮し、思い通りにしているし、学校教育によって、戦争によって、そして職業によって没個性化されている男性よりもはるかに自由であるという。 こうした反論は、おそらく今日の方がより強く持ち上がってくるだろうことは私も承知している。 それでも私は、この一節をそのままここに置かざるをえないし、こうした反論が、本書で展開してきた自由の概念とどれほど相容れないものかを理解し、上述の文章を学校教育や職業による没個性化といった判断ではなく、正当に判断してくださる読者もいることを望みたい。

■14-06:類は類として、個は一人ひとりが学問対象


人間を類的な性格によって判断してしまうと、人間が自由な自己規定から行為する領域には達することができない。 この領域の手前にあるものは、当然ながら学問的考察の対象でありうる。 人種、種族、民族、性別などの特徴はそれぞれ個別な学問領域である。 類からのサンプルとしての生き方しかしない人々だけは、そうした学問的考察が提供する包括的なイメージで捉えることができるだろう。 しかしこれらすべての学問は、人間的な個としての個別な内容にまで入り込むことはできない。 (思考や行為の)自由の領域に入り始めると、人間的な個としての規定は類の法則から離れていく。 概念的内容とは思考が知覚と結びつかなくてはならないし、それによって現実全体を捉えるが(05-15以降参照)、誰もそれを将来にわたって固定し、人類に残すことはできない。 人間的な個は自らの直観によって自分にとっての概念を獲得しなければならない。 それぞれがどのように思考すべきかは、何らかの類概念から導き出すことはできない。 そこでの主体はあくまでも人間的な個である。 同様に、人間的な個がどの具体的目標を自らの意志として持つかは、一般的な人間性質からは規定できない。 それぞれの人間的な個を理解しようとするなら、その人間的な個の独自の本性にまで迫らねばならず、典型的な特性で止まってしまってはいけない。 この意味で、それぞれの個人が一つの問いなのである。 そして、抽象的な思想や類概念を扱うあらゆる学問は、あの認識の準備段階に過ぎない。 つまりそれは、人間的な個として自分のやり方で世界を観ることで得られる認識であり、さらには意志内容の源泉となる認識である。 ある人の本質を理解したいときに、「ここではもはやその人は典型的な思考法や類としての意志からは離れた」と感じたならば、私たちの精神から得られる概念はもはや手がかりにはならない。 思考によって概念を知覚と結びつけることで認識は成り立つ。 他のあらゆる対象においては、観察者は直観によって概念を獲得する必要がある。 しかし自由な人間的な個を理解するに当たっては、その人間的な個の概念はその人間的な個自体が規定しているので、その人間的な個の概念を(私たち自身の概念内容を混入することなく)純粋な形で私たちの精神に取り込む点が重要である。 他者を判断するに当たって即座に自分からの概念を混入する人は、決して人間的な個を理解することはできない。 自由な人間的な個が類的特性から解放されているのと対応して、認識も類的なものを理解するやり方から解放される必要がある。

■14-07:類であることからの解放が自由への道


今述べたやり方で類的なものから自分を解放している度合いによって、人間共同体の中にあって人がどの程度自由な精神であるかがわかる。 完全に類である人間も、完全に人間的な個である人間もいない。 しかし誰しも、動物的営みという類的特性から、そして自分を支配する人的権威の掟から、その多寡はあれ、自身を引き離していく。

■14-08:類の倫理は個が道徳的ファンタジーで獲得してきた


自由を獲得できていないこうした部分において、人間は自然的機構や精神的機構の構成員である。 この部分において人は、他者を見習ったり、命令に従うなりして生きている。 真の意味で倫理的価値を持つのは、直観から発する行為の部分だけである。 社会的本能から受け継ぐことで人が身につけた倫理的本能は、彼の直観の中に受け入れられたときに真に倫理的なものになる。 人間的な個による倫理的直観から出発し、それが人間共同体に受け入れられることで、人類のあらゆる倫理的な行為が生れてきた。 「人類の倫理的営みとは、自由な人間的な個の倫理的ファンタジーの成果の累積である」とも言える。 これが一元論の結論である。

1 件のコメント:

  1. 「自由の哲学を読む」のブログを書いているオキツです。
    お越し頂きありがとうございます!!
    「自由の哲学」が自分に起こす化学反応を楽しんでいる私にとって、身が引き締まる思いです。
    ますます本気で楽しもうと思います。

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