2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第13章、人生の価値(楽観主義と悲観論)

▲楽観論と悲観論の基本的な考え方


■13-01:楽観論の見解


人生の目的あるいは使命という問題(11-01以降)と対をなす問題がある。それは人生の価値である。 この点については互いに正反対の二つの見解があり、その中間に考えうるさまざまな立場がある。 一方の見解はこうである。 「世界とは存在しうる最上のものであり、この世界での営みや行為には計りきれないほどの価値がある。 すべてが調和的に、そして合目的的に協働していて、驚嘆に値する。 見かけ上は悪や不幸に見えるものでも、一段高次の観点からは善として認識されうる。 なぜならそれらは善をうまく引き立たせているからである。 悪を克服すると、善をより正しく評価できる。 不幸も真の意味では現実ではない。 幸福がより少ないと不幸と感じるだけである。 不幸とは善の不在であり、それ自身には意味がない」。

■13-02:悲観論の考え方


反対の主張は次のとおりである。 「人生は苦悩と悲惨さに満ち、あらゆるところで不快が快を、苦しみが喜びを凌駕している。 存在とは重荷であり、 あらゆる状況において、存在より非存在が望ましいだろう」。

■13-03:楽観論と悲観論のそれぞれの代表


前者の楽観論の代表はシャフツベリィとライプニッツであり、後者の悲観論の代表はショーペンハウアーとエドゥアルト・フォン・ハルトマンを挙げられる。

■13-04:ライプニッツの楽観論


ライプニッツは、世界を存在しうる最善のものと考える。 よりよい世界は不可能である。 なぜなら神は善良で、賢明であるからである。 善なる神は世界という最良のものを創り上げようと欲する。 賢明なる神は最良の世界を知っている。 他のあらゆる劣った世界とは違うのである。 悪神か愚神だけが、ありうる最高の世界よりも劣った世界を創造しうる。

■13-05:楽観論では人生に価値を認める


この観点からは、神の良き世界に最も寄与するはずの方向で、容易に行為を決めることができるはずである。 人間は神意を汲み、それに従わなくてはならないだろう。 世界や人類に対する神の意図がわかったときに、人は正しいことが行えるだろう。 他の善に自分の善も付け加えることに喜びを感じるだろう。 楽観論の立場では、このように人生は生きるに価する。 そこに寄与しようとする気持ちを起こさせるはずである。

■13-06:ショーペンハウアーの悲観論


これに対するショーペンハウアーの考えは違っている。 彼は宇宙根源を全知全能で最高善たる存在としてではなく、盲目的な衝動、あるいは意志と考えている。 決して満たされえぬ満足を求める永遠の追求、永遠の格闘、それがあらゆる意志の基本である。 ある目標が達成されると、新たな要求が生まれ、それが延々と続くからである。 得られる満足は常につかの間でしかない。 そのつかの間以外は、人生のすべてが満たされぬ衝動、不満足、苦悩なのである。 それでも盲目的な衝動が最終的に消えると、一切の内実が失われ、私たちの存在は無限の退屈さに陥る。 それゆえ、願望や要求を内に押し殺し、意志を抹殺する方が、まだましなのである。 ショーペンハウアーの悲観論は無為につながるだろうし、彼の倫理目標とは包括的怠惰ということになる。

■13-07:ハルトマンの悲観論


ハルトマンは悲観論を根本的に別なやり方で基礎づけ、それを彼の倫理学に当てはめようとした。 ハルトマンは、時代の流れにふさわしく、経験を土台に自らの世界観を基礎づけようとした。 人間の営みを観察することで、快と不快のいずれが世界において優勢かを決めようとした。 満足と言われるものが厳密に見ると幻想にすぎないことを示すべく、人間にとって善や幸福と思われるものを理性的に検討した。 つまり、以下に挙げる幸福の源泉と思われているものは、すべて幻想なのである。 健康、青春、自由、豊かさ、愛(性的満足)、同情、友情、家庭生活、名誉心、名誉、名声、権力、信仰心、学問や芸術への衝動、あの世への期待、文明進歩への寄与などである。 冷静に見ると、いかなる享楽も世の中に快よりも不快や災禍を生む。 いかなる場合も、二日酔いの不快の方が酩酊の快よりも大きい。 世界では不快がはるかに優勢である。 比較的幸福な部類に入る人であっても、もう一度この惨めな人生を繰り返したいかと問われれば、「はい」とは答えないだろう。 しかしハルトマンは、この世界の理念(叡知)の存在を否定せず、むしろ盲目の衝動(意志)と同等の権利を与えていた。 それゆえ彼は、彼の神(原初存在)に対して天地創造を要求することができたが、ただそのためには世界に存する痛みと賢明なる世界目的を合流させる必要があった。 世界の営みとは全体として神の営みに重なり合うので、世界存在の苦悩とは神の苦悩そのものであるとした。 そして、全智全能の存在は苦悩からの解放を自らの目標とするし、あらゆる存在は苦悩であるので、存在からの解放がその目標となる。 存在をそれよりはるかに優れた状態である非存在へと移行させることが、宇宙創造の目的である。 宇宙プロセスとは神の苦悩との絶えざる闘いであり、これはすべての存在の否定によって終結する。 つまり、人間の倫理的営みとは、生存の否定に参与することである。 神が世界を創造したのは、その世界によって自らの無限の苦しみから解放されるためであった。 世界とは「絶対者における痒いおできのようなものと見なす」ことができるし、これはおでき自体が持つ意識されない治癒力によって絶対者が内なる病から解放される。 「あるいはそれは、すべてを包括する一なる存在が自らに塗る痛みを伴う塗り薬で、それによってまず内なる痛みを外に向け、外に出てきた痛みを解消するのである」。 人間とは世界の一部である。 人間において神が苦悩している。 神は、自らの限りない苦悩を分散させるために宇宙を創造した。 私たち一人ひとりの苦悩とは、神の苦悩という永遠なる海の一滴(ひとしずく)である。 (ハルトマン『倫理意識の現象学』866ページ以降)。

■13-08:エゴイズムの否定から倫理的になりうる


人は認識によって以下のことを徹底的に知るべきなのである。 個人的満足の追求(エゴイズム)は愚かであり、神の救済という世界プロセスへの滅私の献身を唯一の使命としなければならない点である。 ショーペンハウアーとは反対に、ハルトマンの悲観論において私たちが導かれるのは、崇高な使命への帰依である。

■13-09:諸見解は事実か


しかし、こうした見解は経験的に基礎づけられるのだろうか。

■13-10:欲求の追求、それができないと不快、そのものは不快に当たらない


満足の追求とは、実生活的内容に向けた生活活動を行うことである。 ある存在の空腹とは、「その存在の生体的機能が、さらなる活動のために新たな実生活的内容を栄養物というかたちで求めること」である。 名誉の追求とは、「彼の活動に対し外から認証が来たときにはじめて、個人的な行為や未行為に価値があると認める点」にある。 認識を求めるのは、「自分で見たり聞いたりできる世界に理解しえない何かが存在するとき」である。 そうした追求が満たされると快が、満たされないと不快が生じる。 ここで重要なのは、追求が成功したか不成功であるかによって快や不快が決まる点である。 追求そのものは、決して不快ではありえない。 追求が成功するとすぐにまた新たな追求に向かう。 その点がわかると、快が不快に変わるなどとは決して言えない。 いかなる状況でも、欲望が満たされるとそれを繰り返そうとしたり、新たな快を求め始めたりするのである。 欲求を満たしえない状況になると、はじめて不快が生じる。 快楽の体験によって、私の中により大きいあるいはより洗練された快楽への欲求を生じる場合がある。それであっても、最初の快から不快が生じるとは言えず、もしあるとしても、より大きいかより洗練された快楽を手に入れる手段がない場合だけである。 たとえば悦楽の後に女性には妊娠や出産の苦しみや育児の苦労が伴うように、自然法則的成り行きで快の後に不快が続く場合には、快楽の享受を苦悩の生産者と見なせる。 追求そのものが不快の原因であるなら、非追求が快を生むはずであろう。 しかし実際は、その反対である。 私たちの実生活的内容においては、追求しないでいると退屈になるし、これは不快と結びつく。 自然な成り行きとして長い時間、追求しないと達成できないこともあるが、そのときには達成への希望が満足感を与えてくれる。 したがって、不快は追求そのものとはまったく無関係で、追求が達成されないときに生じることを認めなくてはならない。 以上のことから、欲求あるいは追求(意志)そのものが苦悩の源泉だと考えるショーペンハウアーの見解は、どう見ても間違っていると結論される。

■13-11:欲求の追求自体は快


それどころか実際にはその正反対が正しい。 追求(欲求)そのものが喜びなのである。 遠くにあっても強く望まれている目標への期待感が喜びを与えてくれることは、誰もが知っている。 やがて実る果実に向けて働くときには、この喜びが寄り添っている。 この快は、目標が達成されたか否かに左右されずに存在する。 目標が達成されると、追求に伴う快にさらに実現の快が付け加わる。 「目標が達成されなかった不快に、希望が幻滅に変ることでの不快が加わり、達成できなかったときの最終的な不快が、達成を目指しているときの快より大きくなる」という見解もあるだろう。 しかしこれは正反対でもありうる。つまり、目標を達成できなかった不快を、目標を目指していたときの喜びを思い出すことで和らげるのである。 希望が失われた瞬間に「やるべきことはやった」と叫ぶ人がもしいたら、それがこの主張の正しさを証明している。 「欲求が成就しなかった場合には、達成の喜びが得られなかっただけでなく、それを希求した際の喜びも損なわれた」と主張する人は、ベストを尽くしたという至福の感情を見逃している。

■13-12:欲求の充足非充足が快不快ではない


欲求が満たされれば快が、満たされなければ不快が生じる。 しかしこのことから、快とは欲求の充足であり、不快とは非充足であると結論してはいけない。 快や不快が、欲求の結果としてではなく生じることもある 病気とは、それ以前に何の欲求もない不快である。 「病気とは健康に対する欲求が満たされないことである」と主張する人は、病気を避けるという意識化されない当然の願望を、ポジティヴな欲求と見なす間違いを犯している。 その存在すらも知らない親戚から突然に多額の遺産を受け取ったなら、この快を伴う事実は事前の欲求なしに成り立っている。

■13-13:快不快の出納簿に記入すべき項目


快と不快のどちらが上回っているかを出納簿で比較するに当たっては、何かを望んでいるときの快、欲求が満たされたときの快、努力なしに与えられる快の三つを区別しなければならない。 出納簿の反対側には、退屈による不快、欲求が満たされないことによる不快、最後に欲求とは無関係にやって来る不快がある。 自発的ではなく強制された仕事を原因とする不快もこの最後のものに属する。

■13-14:出納簿に記載する際の手立て


ここで、この快不快の貸し借りの関係を出納簿に記載するための適正な手だては何かという問いが生じる。 エドゥアルト・フォン・ハルトマンの見解では、それは考量的な理性である。 彼は『無意識の哲学』(第7版の第2巻の290ページ)で、「苦や快は、感じられる場合にのみ成り立つ」と述べている。 この点から推論すれば、快の尺度としては感情という主観的なものしか存在しない。 不快感情と快感情を総計すると、喜びと苦しみのどちらが上回るのかを私は感じ取らねばならない。 ところが自説からの帰結を無視して、ハルトマンは次のように主張する。 「あらゆる生命が生の価値を自らの主観的な価値基準で計ることができる。 ……そうだとしても、全員が人生全体での情感から正しい算術的な和を求められるなどとは言っていない。別な言い方をするなら、自身の人生での主観的体験に対して下す判断のすべてが正しいなどとは言っていない。 このように彼は、感情に対する理性的な評価をも価値規準にしている(注)。
(注:内容)快不快のどちらの総計が多いかを計算しようとする場合、決して体験されえない何かについて計算しようとしている点には着目していない。 感情は計算できないし、人生の実際の評価にとって重要なのは実際の体験で、空想的な計算の結果ではない。

■13-15:正しい判断のために排除すべき二つのこと


エドゥアルト・フォン・ハルトマンの考え方に多かれ少なかれ同調する人は、人生の正しい評価のためには、快不快の出納簿の記載において、私たちの判断を誤らせうる要因を排除しなければならないと考えるかもしれない。 これは二通りで行われかもしれない。 第一は、感情に対する冷静な価値判断にとって、欲求(衝動や意志)が妨害要因となりうることを明るみに出すことによってである。 たとえば何らかの気分の悪さが性的快楽に起因しているにもかかわらず、性欲が強烈であるといった状況のために、本来はそれほど高くはない快の価値を事前にむさぼるように誘惑されるのである。 まず楽しみたいのである。 それゆえ、その楽しみの後に苦悩が伴うことから目を逸らしてしまうのである。 第二は、感情を批判的に見て、感情が結びつく諸対象が、理性的認識の前では幻想にすぎないことを明るみに出すことによってである。つまり幻想は、発達し続ける知性によって見破られた瞬間に打ち砕かれることを証明するのである。

■13-16:功名心の強い人を例に正しい方法を見る


この見解から人は、この事情を以下のように考えるかもしれない。 ある功名心の強い人物が、人生のある時点でそれまでの人生の快、不快のどちらが優勢かを明らかにしようとする場合、判断に際して二つの誤りの根源に気をつける必要がある。 功名心が強いという性格ゆえに、業績が認められた点はより大きく見え、冷遇され貶められた点はより小さく見える。 彼はまさに功名心が強いので、冷遇された当時にはそれを貶められたと感じる。 ところが、思い出の中では貶められた点はやや穏やかな光に照らされるのに対し、認められた喜びは何度でも思い出したく、より深く印象づけられる。 このような状況は、功名心の強い人にとっては非常に好ましい。 自己観察の瞬間には、錯覚によって彼の不快は弱められている。 こうして、彼は自己評価を誤る。 フィルターで弱められることなく苦悩をその本来の強さで体験し尽くさなくてはならなかったはずだし、これによって人生の出納簿の記載を実際に間違ってしまう。 正しく判断するために、観察の際には功名心から脱していなくてはならなかった。 色眼鏡のない精神の眼でこれまでの人生を観察しなければならなかった。 そうでないと、商売上の見栄から収入欄を粉飾する商人と同じであろう。

■13-17:功名心を捨てたあとでの評価


しかし、彼はさらに前進するかもしれない。 彼は言うかもしれない。「功名心の強い人でも、求めている世間からの承認などは無意味であるとわかることがあるだろう」と。 「発達という人生にかかわる問題以外、あるいは学問的にすでに解明された問題以外のあらゆる事柄においては」、「多数派が間違っていて少数派が正しい」ことが確信されうるので、理性的な人間にとっては他人から認められることなどは何の意味もないと。 自力あるいは他人からの導きで、彼はこうした見解に達するだろう。 「功名心を自らの導きの星とする人は、こうした判断に自らの生涯の幸福を委ねてしまっている」(『無意識の哲学』第2巻332ページ)。 功名心が強かった人物がこのようにすべてを語ったなら、功名心によって現実と思い込んだものをすべて幻想と見なすはずだし、さらには功名心に起因する幻想から生じた感情も幻想とみなすはずである。 これを根拠にこう言えるかもしれない。 幻想から生じた快感情は人生価値の出納簿から削除しなくてはならない。 そこで残ったものが人生における幻想を差し引いた快の総計であるし、これは不快の総計に対しあまりに僅かである。ゆえに人生とは楽しみではなく、非存在の方が存在よりも望ましいと。

■13-18:理性によってかつての喜びを計算から排除するのは誤り


しかし、功名心的衝動が混入することによって出納簿へ快を誤って記載していることはすぐにわかるが、それでも快の対象が持つ幻影的性格を認識することで語られた内容は削除されなくてはならないのだろうか。 快の感情の原因となる幻想には事実によるものと思い違いによるものがあるにしろ、快が幻想によって喚起されたという理由で出納簿から消去するなら、間違いを招くことになる。 功名心の強い人は大勢からの認知では実際に喜びを感じたし、後になって彼自身かあるいは他人からの指摘でその認知が幻想に過ぎなかったことを認識しても、その実際の喜びには何の影響もない。 喜びに満ち足りた感覚は、それによってはいささかも減じない。 そうした《幻想》に基づく感情すべてを人生の出納簿から排除してしまうと、感情に対する判断を正しているのではなく、現実に存在した感情を人生から消し去る結果になる。

■13-19:出納簿には量が重要で質は問題ではない


どうしてこれらの感情を除外しなければならないのだろうか。 これらの感情を抱く者には、快が与えられる。 これらの感情を克服した者には、克服体験からの快が生じるし、それはある意味では精神化され価値の高められた快である。(この快とは、「私はすごいだろう」という自尊的な感覚から来るものではなく、克服体験そのものの中に存在する客観的な快の源泉から来ている)。 後に幻想であったとわかるような対象によって喚起された感情だからといって、その感情を快の出納簿から削除するなら、人生の価値を快の量ではなく、快の質、そして快の原因が持つ価値によって決めていることになる。 人生の価値を私にもたらされた快不快の量で決めようとするなら、その量以外に快不快の価値規準を含めることは許されない。 「快と不快の量を比較し、どちらが大きいかを知りたい」と言うなら、あらゆる快不快を、その原因が幻想によるか否かはまったく問わずに、その実際の大きさで計算しなくてはならない。 幻想を原因とする快は、理性に照らされた快よりも人生にとってより少ない価値しかないとするなら、人生の価値が快以外の別要因によって左右されている。

■13-20:快の原因は問うべきではない


虚栄的な対象に喚起されたものであるという理由で快により少ない価値しか与えないというのは、玩具が子どもだましの道具であるという理由で玩具工場からの収益を四分の一とみなすのと同じである。

■13-21:純粋に快の量を問題にする


快不快の量を比較するだけが問題であれば、快の感情が何らかの幻想によるものであっても、その原因を考慮に入れる必要はない。

■13-22:ハルトマンの人生出納簿は間違い


ハルトマンが推奨する、人生で生じた快不快の量を理性的に見積もるというやり方はこれで検討しつくした。つまり、何を出納簿のどちらの側に記載すべきかがわかった。 それでは、その計算はどう行われるべきだろうか。 帳簿の監査にも、理性は適切なのだろうか。

▲人生帳簿の監査


■13-23:帳簿は監査しなくてはならない


計算上の収益が実際の取引の収益、あるいはその見込み収益と合わなければ、商人の場合は計算を間違っていることになる。 哲学者の場合も、快不快を計算した結果としての余剰が実際の感覚として追認できなければ、判断を誤っていることになる。

■13-24:帳簿が赤字になる地点は


ここで私は、悲観論者の理性的な世界考察に基づく計算を監査するつもりはない。 しかし、人生での快不快の取引を続けるか否かを決断しようとする人なら、不快が上回る地点がどこかを確認するよう要求するだろう。

■13-25:監査に必要なのは理性ではなく実地検証


快不快のどちらに余剰が出るのかは、理性だけでは決められず、人生における知覚レベルで吟味しなくてはならない。この点がこれまでの考察でわかった。 人が現実を手にすることができるのは、それを概念の中だけに求めるときではなく、概念と知覚との相互作用を思考を介して得るときである。(そして感情も知覚である)(05-15以降参照)。 経理上の損失が実際の財産で確認されたなら、商人は店を閉めるだろう。 実際の財産に損失が確認されなければ、計算をやり直させるだろう。 人生の途上にある人間もこれとまったく同じことをするだろう。 ある人の不快が快よりも大きいことを哲学者が証明しようとしても、本人が実際にそう感じていなかったら、「君の思索は間違っているので、もう一度はじめから事柄を考えなおしてくれ」と言うだろう。 商売のある時点で実際に赤字があり、信用手形で債権者を納得させられなくなり、きちんとした出納簿整理によってチャンスがあることを店主が説明しきれなかったら、その店は破産する。 同様に、ある時点での不快量が超過し、将来の快への期待(信用手形)で苦痛を相殺できなくなったら、人生において破産するはずだろう。

■13-26:実際の自殺者は多くない事実からの推論


さて、自殺者の数は勇気を持って生き続ける人に比べればかなり少ない。 不快のために人生を閉じるのはごく限られた人たちだけである。 ここからどのような結論が得られるだろうか。 不快が快よりも量的に多いというのが間違っている、あるいは、私たちが生き続けるにあたって快不快の量は重要ではないというのが結論である。

■13-27:快の追求の諦念により人生目標に達するという説


エドゥアルト・フォン・ハルトマンの悲観論は非常に独特で、人生においては痛みが勝っているので人生は無価値であると言いながら、人生を生き切る必然性を主張している。 上述のように(13-07以降参照)、世界目的は人間が絶えず献身的に働くことによってのみ達成されうるというのがその必然性の理由である。 ところが人間がエゴイスティックな欲望に向かっているかぎり、そうした無私な仕事はできない。 エゴイズムから望む楽しみは手に入りえないことを経験と理性によって納得したときに、はじめて人間は本来の人生課題に向かい合う。 これが、無私性の根源を悲観論的な意味で確信するやり方である。 悲観論を基礎とする教育では、エゴイズムでは展望がひらけないことを示すことによって、エゴイズムを一掃しようとしている。

■13-28:快の追求が人の本性でその無意味の洞察が進歩の鍵という説


この考え方から言えば、快の追及は人間にとっての本性である。 その達成が不可能である点を洞察することができれば、その追求を見限り、より高次の人類的課題に向かうのである。

■13-29:悲観論的倫理観はエゴイズムを真には克服していない


これは、悲観論を認めることで非利己的な人生目標への献身が期待できるという倫理的世界観である。しかし、この倫理的世界観ではエゴイズムを真の意味では克服していない。 自己を満足させるために快を追及しても満足が決して得られない点を洞察し、意志を強めたときにはじめて、倫理的理想が十分に強いのだと言う。 自己を満足させるために快というブドウを渇望する人は、それには手が届かないがために、それが酸っぱいことがわかる。 人はその地点から離れ、無私への人生転機を迎える。 悲観論による倫理理想とは、エゴイズムを克服するほど十分に強くはない。 しかし、利己性では展望が開けないという認識によって更地にされた場所では、この理想が支配権を持つのである。

■13-30:悲観論的倫理観からの自殺否定論


快の追求を生まれつきの本性として持ちつつ、快への到達が不可能であるなら、存在を抹消し、非存在化による救済が人間の唯一の理性的目標になる。 さらに、世界苦の本来の担い手が神であるという見解をとるなら、人間は神の救済を自らの課題としなくてはならないだろう。 個人の自殺は、この目標達成にとってはプラスではなくマイナスである。 神は理性をもって人間を創造したはずであり、人間は自らの行為で神を救済するはずなのである。 そうでなかったら天地創造の意味がない。 そして、そうした世界観では人間以外のところに目的を設定する。 普遍的な救済事業において、各自が自分の持ち場で働かなければならない。 誰かが自殺によってその持ち場から離れると、彼の割り当てだった仕事に誰か別な人間を振り向けなくてはならない。 その振り向けられた人物は、自殺者の代わりに存在の苦悩に耐えなくてはならない。 そしてあらゆる存在に本来の苦悩の担い手である神が潜んでいるので、自殺者は神の苦しみを少しも軽減しないどころか、彼の身代わりに別の誰かを創造するという新たな困難を背負わせている。

■13-31:悲観論的倫理観は快を人生の価値基準としている


上述の事柄はすべて快が人生の価値規準であることを前提にしている。 人生は衝動(欲求)の総和によって表現される。 人生が快と不快のどちらが優勢かという点に人生の価値が左右されるとしたら、衝動を持つと不快が増長されるので、衝動は無価値ということになる。 ここで一度、衝動を快によって計ることができないかという視点で両者を見てみよう。 人生が《精神貴族》の領域から始まると誤解されないために、《純動物的な》欲求である空腹から始めよう。

▲衝動と快との関係の検討


■13-32:空腹を例に衝動と快の関係を探る


私たちの生体に新たな素材が供給されず、生体本来の機能を果せなくなるときに空腹が発生する。 飢えた人はまず空腹を満たそうとする。 空腹感がなくなるまで十分に栄養供給されれば、食欲は満たされる。 満腹に結びついた喜びとは、空腹によって生じた痛みが排除されたときに成り立つ。 単なる栄養摂取欲には別な欲求が加わる。 人は、栄養摂取によって阻害された器官機能を回復させ、空腹の苦しみを取り除こうとするだけではない。こうした満足に好ましい味覚体験が伴うように配慮する。 それどころか、30分後にご馳走が待っていたら、空腹であっても、それ以前につまらない食べ物で満腹になる機会があっても、それを食べて美味しいものを台無しにしようとはしない。 食事の際に十分に味わい尽くすためには空腹が必要なのである。 こうして空腹とは快のきっかけでもある。 もし世界中の空腹感が満たされるとしたら、すでに存在する食欲のおかげで喜びが余すところなく生じる。 さらには、美食家が並み以上に発達した味覚神経によって得る楽しみもそこに加わる。

■13-33:喜びが最大になる場合


該当の喜びに向かう要求がすべて満たされ、さらにはこれらの喜びに代償としての不快が伴わないなら、喜びの量は考えうる最大になる。

▲生きる喜びの評価値を考える


■13-34:得られた喜び/要求される喜び=喜びの評価値


維持しうる個体数よりも多い生命を産み出す、つまり満足させうるものよりも多い空腹を作り出すというのが近代自然科学の見解である。 産み出された余剰な生命は、生存競争において苦しみながら死ぬ。 あらゆる時点で生命にとっての必要量はその要求を満たすための供給可能量よりも多く、それによって生きる喜びは阻害されるという点は私たちも認める。 しかし、実際にそこに存在する個々の生きる喜びは、こうした事情ではいささかも減らない。 欲求が満たされない生物自体が残っていても、あるいはそれに加え、満たされていない欲求が残っていても、生物の欲求が満足されれば相応の喜びが伴う。 それによって減じるものとは、生きる喜びの評価値である。 ある生物が持つ欲求のうち一部分だけが満たされるなら、喜びはそれに応じたものになる。 この喜びの評価値は、該当の領域において総欲求量に対する喜びが少なければ、それだけ小さくなる。 分子を実際に現存の喜びとし、分母を総欲求量とすれば、この評価値を分数で表現することができる。 すべての欲求が満たされ、分母分子が等しければその評価値は1になる。 総欲求量より喜びが多ければ1より大きくなり、喜びが少なければ1より小さくなる。 たとえ僅かであっても分子がゼロでないなら、この分数がゼロになることはない。 ある人物において、特定の欲求(たとえば空腹)から生じた喜びを全生涯にわたって総計し、それを人生全体の総欲求量で割り、死の直前に精算するとしたなら、体験された快は非常に小さい評価値になるかもしれない。しかし、それがゼロになることはない。 喜びが一定量であれば、欲求量が増えればその生物における喜びの評価値は下がる。 このことは、自然界全体の生物の総和についても当てはまる。 欲求を満足させることができた個体数に対して全体の個体数が多くなれば、それだけ喜びの評価値の平均は小さくなる。 私たちの欲求に割り当てられた生の喜びを換金するに当たって、その補償額全額を受け取れないとしたら、その値打ちは下がる。 三日間は充分に食事があり、続く三日間は何も食べられなかったとしても、最初の三日間の食べる喜びはそれによって減ることはない。 しかしこの喜びを6日間に分配した場合には、空腹の充足に対する評価値は半分になる。 このように、快の大きさとは欲求の強度との比率に関連する。 ご飯二杯分の空腹があるのに一杯分しか食べられなかったら、そこで得られる喜びの評価値は、満腹になった場合の半分しかない。 喜びの評価値はこのようにして与えられる。 生における欲求との比で計られる。 欲求を尺度として快を測定するのである。 満腹の喜びが評価値を持つのは、空腹があるからである。そしてその評価値は、現存する空腹感の大きさに応じた値を持つ。

■13-35:現時点の評価値を考える


人生における満たされない欲求は満たされた欲求に影を落とし、喜びの時間の評価値を下げる。 それでも、快に対する現時点の評価値を考えることができる。 欲求の持続と強さに比べて快が少ないと、それに応じてこの評価値も小さくなる。

■13-36:快の尺度は欲求である


この評価値が最大になるのは、快の量が、その持続と強度において欲求量と完全に一致する場合である。 欲求に対して快の量が少ないと快の評価値は小さくなり、多いと望まれていない余剰が生じる。そしてこの余剰は、私たちの欲求がそれを楽みとして受け止めうる範囲内では快と感じ取られる。 快が強まる一方で欲求が同じ歩調で強まらなくなると、その快は不快に転じる。 通常なら私たちに満足を与えてくれる対象が、望みもしないのに私たちに雪崩れ込んできて、それに苦しめられるのである。 このことは、快が評価値を持ちうるのは、それを私たちの欲求で計れるときだけであるということの証明になっている。 快の感情を与えるものも過剰だと苦痛に変る。 このことは、快をほとんど求めない人間で特によく観察できる。 食欲がない人は、容易に食事に吐き気を催す。 このことからも、欲求が快の尺度であることがわかる。

■13-37:悲観論者は苦悩が上まわると主張する


さて、「食欲が満足されないと、食べる喜びが失われる不快だけでなく、痛みや苦しみや悲惨さが増大する」と悲観論者は言うかもしれない。 ここで悲観論者は、飢餓に見舞われた人びとの言い表しようのない苦しみを引き合いに出すかもしれない。つまり不快の総和を引き合いに出すし、そしてこの総和は、そうした人において栄養失調を原因に間接的に増大する。 さらには、自説を人間界以外にも拡張すべく、ある季節に食物不足に陥って飢える動物の苦しみを取り上げるかもしれない。 「こうした苦悩は、食欲によって設定された喜びの量よりはるかに大きい」と悲観論者は主張する。

■13-38:不快の超過は実際には計れない


利得損失を比較してどちらが大きいかを比較できるのと同様に、不快を比較してどちらに余剰が出るかを決められるという点は間違いない。 しかし悲観論者が、「不快が超過するがゆえに人生とは無価値である」と結論づけられると考えるなら、そうした出納簿は現実生活では決して記載しえないという一点だけでも、誤りと言える。

■13-39:現実には苦はもとの欲求と比較される


個々の場合において、私たちの欲求は特定の対象に向けられている。 すでに述べたように、欲求充足による快の評価値は欲求の大きさに対する快の量に比例して大きくなる(注)。
(注:内容)快が大きくなり過ぎると快が不快へと転じる点については、ここでは考えない。
また、快を得る代償として被る不快の量も私たちの欲求の大きさに左右される。 私たちは快の量とではなく、欲求の大きさと不快の量を比べている。 食べることに大きな喜びを持つ人はその楽しきよき時間への期待から、栄養摂取欲の満足に伴う喜びがない人よりも空腹の時間を容易に乗り越えられるだろう。 子どもを欲しがっている女性は、子どもを得ることで与えられる喜びを、妊娠、出産、子育てなどから生じる苦しみと比較したりはせず、子どもが欲しいという欲求と比較する。

■13-40:快の大きさではなく特定の欲求に関係する快が重要


私たちは特定の大きさを持つとされる抽象的な快を得ようとすることはなく、具体的な欲求を特定のやり方で満たそうとする。 特定の対象あるいは特定の感情によって満たされるはずの快に向かって努力している場合、別の対象や別の知覚が得られても、快の量が同じだという理由で満足することはない。 空腹を満たそうとする人に対し、散歩で得られる同量の喜びで代替はできない。 快なら何でもよく単に一定量の快を求めているのだとすれば、その快を得る代償としての不快の量が快より大きい場合には、その欲求は抑えられるはずである。 しかし欲求の充足をある特定のやり方で求めているので、その快を上回る不快を対価として支払っても、成就したときには快が得られる。 生物の衝動はある特定の方向をとるし、具体的な目標に向かっているので、その途上で出会う不快を快と同質と考えて、量的に足し引きすることはありえない。 欲求が十分に強く、不快を克服した後に一定量の快が残るなら、……この不快が絶対的に見て大きいにしても……、欲求充足の喜びを十全に味わい尽くすことができる。 したがって欲求は不快を、達成された快と直接に関係づけることはなく、間接的に関係づけるのである。つまり、欲求それ自体の大きさに対して不快が(相対的に)関係づけられている。 得られる快不快のいずれが大きいかが問題なのではなく、目標に向けられた欲求とそれに対する障害という不快のどちらが大きいかという点が重要なのである。 欲求より障害が大きければ不快が不可避となり、やる気を失いそれ以上続かなくなる。 欲求がある特定のやり方での充足を求めるがゆえに、それに伴う快はある意味を持つようになる。 つまり、不可避な不快の量を計算に加えるにあたっては、それが欲求の量を減らした分だけ、そこで得られた満足に算入できるのである。 見晴らしが心底好きであれば、山頂からの展望がもたらす快の量を計算することなどないし、登山や下山の苦労に伴う不快と直接に比較することもない。 しかし、見晴らしを得たいという私の欲求が困難を乗り越えた後でも十分に生き生きとしたものであるかは考えに入れる。 快と不快の関係は欲求の大きさを介して間接的にのみ知ることができる。 快不快のどちらが優勢かは問題にならず、快への意志が不快を克服するだけの強さがあるかが問題なのである。

■13-41:欲求が追求するに値するかが重要


この主張が正しいことは、いわゆる棚からぼた餅的に与えられる快よりも、大きな不快を代償に得られた快の方が高い評価値を得ることが証明している。 苦しみや痛みによって欲求が弱められ、それでもなおかつ目標に達した場合には、小さくなった欲求の残存量に対する快の比率はさらに大きくなる。 この比とは、すでに述べたように快の評価値である(13-34以降参照)。 (人間を含む)生物は、衝動に伴う苦しみや痛みに耐えられるかぎりにおいて、衝動を外に示しうるという事実が、もう一つの別な証明になっている。 そして生存競争はこの事実の結果にすぎない。 現存する生物は拡大を目指すが、対抗的に襲いかかってくる困難という暴力によってその欲求が押し殺されると、生物の一部は闘いをやめるのである。 生物は餓死するまで、食物を求め続ける。 そして人間も、(その根拠が正当か不当かは別にして)追求に価する人生目標を達成できないと思うと、自殺に走るのである。 しかし追求に価する何かを達成しうると信じているかぎり、彼はあらゆる苦悩や痛みと闘う。 あの哲学は、「快が不快より大きいときにだけ意志が意味を持つ」という見解を人間に吹き込もうとしたはずである。さらに「人間とはその本性からして、欲求充足に必然的に伴う不快に耐えられるときには、その不快がどれほど大きくとも、欲求の対象を手に入れようとする」という見解である。 しかしこうした哲学は誤りである。なぜなら、意志を(不快に対する快の超過という)人間には本来存在しない事柄に従属させてしまうからである。 意志の本来の尺度は欲求であり、欲求が欲求であり続けるかぎり存続し続ける。 欲求の充足の際に生じうる快不快の問題を、悟性的な哲学ではなく、実生活で計算する場合は、次のように喩えることができる。 リンゴを買おうとしたら、……店員が売り切ってしまいたいがために……よいリンゴとその倍の数の傷んだリンゴを買い取らされる状況になったとしよう。ここで私が、傷んだリンゴを捨ててしまっても少数のよいリンゴの価値が価格に見合うものだと判断したら、考えるまでもなく傷んだリンゴも受け取るだろう。 この例で、欲求に伴う快と不快の量的関係が明らかになる。 よいリンゴの価値を決めるにあたって、そこから傷んだリンゴの分を差し引くのではなく、傷んだリンゴが含まれていても価値があるかを見るのである。

■13-42:よいリンゴがあれば傷んだリンゴは度外視できる


傷んだリンゴは無視して、よいリンゴを味わえるのと同様に、ある欲求の追求に苦痛が伴うにしても、それは度外視してその欲求の満足に浸ることができる。

■13-43:意志は不快があっても残る快を求める


世界では不快が快を上まわっているという悲観論の主張が仮に正しかったとしても、生物とはその残った快を希求するので、意志自体に影響はない。 例の哲学では人生の価値を快が不快を上まわること(幸福主義)としているが、苦が喜びを上まわるとする通常の証明は、もしそれが上手く証明できても、その哲学に展望がないことを示すだけで、意志そのものを非理性的であると示すことにはならない。 なぜなら意志は、快が上まわることを求めるのではなく、不快を無視して残る快を求めるからである。 残った快は、それでも追求に値する目標のように見える。

■13-44:快不快の量を考えることはできる


人は、世界における快不快のどちらが多いかは計算できないと主張することで、悲観論を否定しようとしてきた。 何かを比較計算できるためには、その計算対象を量的に比較しうる必要がある。 さて、いかなる快不快にも特定の大きさ(強さと持続)がある。 種類の異なる快感情をその大きさにおいて、最低限、推定的ではあっても比較することはできる。 上質なタバコと上手い冗談のどちらがより楽しめるか、私たちにはわかる。 種類の異なる快不快を大きさにおいて比較できる点に反論の余地はない。 したがって、世界における快不快の多寡を調べようとする研究者の前提はまったく正当である。 悲観論の見解が間違だと主張することはできても、快不快の量を学問的に比較する可能性、さらには快不快の出納簿には疑問の余地はない。 しかし、この計算の結果が人間の意志に何かしらの影響を与えるという主張は誤りである。 何をするかが決まっていない場合には、実際に行為の価値規準を快不快の大小によって決める。 仕事の後の娯楽を遊びにするか雑談にするかというように、リラックスのための手段が何でもよいときには、「何が一番楽しめるだろう」と自分に問う。 このとき天秤が不快に傾くのであれば、そんな活動はしない。 子どもに玩具を買い与える際には、子どもが一番喜びそうなものを選ぼうと考える。 それ以外の場合で、快不快の出納簿だけにしたがって行為を決めることはない。

▲人間意志の本質は快不快とは無関係


■13-45:悲観主義の根本的な誤り


つまり、不快が快より多いという証明が文化的な仕事への無私なる献身の基盤となるというのが悲観論的倫理学者の見解だとするなら、人間意志がその本性からこの認識の影響を受けえないことを考えに入れていない。 あらゆる困難を克服した後に可能となる満足を目指して人は努力する。 この満足感への希望が行為の根幹なのである。 個々人の労働も、あらゆる文化活動もこの希望から生じている。 人を本来の倫理的課題に向かわせるために、幸福の追求は不可能だと示す必要があると悲観的倫理学は信じている。 しかしこの倫理的な課題とは、自然的、精神的な意味での具体的な衝動以外の何ものでもないし、そこに不快が付随しようとその衝動の充足へと努力する。 悲観論は「幸福の追求」を根絶しようとしているが、それは元々存在していない。 人間が課題と出会い、その課題の意味を悟るとき、その課題を自分に与えられた能力で遂行しようと欲する。 人は快の追求をあきらめたときにはじめて人生の課題として認識したものに献身できる、というのが悲観論的な倫理観の主張である。 欲求を充足することで得られる満足の実現、そして自らの倫理的理想の成就、これら以外の人生の課題はいかなる倫理学においてもありえない。 自ら欲求したことの成就によって手にする快を、人から奪うことができる倫理学は存在しない。 悲観論者が「快は決して得られないのだから、快は求めるな、自らの課題と認識したことを目指せ」と言うのだとしたら、それに対しては、「そうした人も居るし、人間は幸福を目指すなどという主張は道を誤った哲学の発明だ」と反論することができる。 人は、彼の本性が求めることの充足を追求するし、その追求においては抽象的な《幸福》ではなく具体的な対象を見据えている。そして、その達成が快なのである。 悲観論的倫理観が求めているものは快の追求ではなく、人生の課題と認識したことの実現であるが、これは本来、人間がその本性に沿って欲することと一致している。 人間は哲学によって根本から覆される必要はなく、つまり倫理的であるために自らの本性を捨て去る必要はないのである。 正当と認識された目標の追求の中に倫理性は存在するし、その探究に付随する不快が衝動を無力にしないかぎりは、それに従うというのは人間本性に根付いたものである。 そしてこれがあらゆる実際の意志の本質である。 倫理学は、快の希求を根絶やしにし、人生の楽しみへの強烈な憧れが消えた場に、抽象的で蒼ざめた理念を支配者として登場させることで成り立つのではない。 そうではなく、理念的直観に支えられた、たとえ茨の道を歩むにしても目標に到達しようとする強い意志の上に成り立つのである。

■13-46:倫理的理想の実現に人は苦を厭わない


倫理的理想は人間の道徳的ファンタジーから生じる。 その理想が実現されるか否かは、それに伴う苦悩や痛みを克服できるまでに理想を希求するかにかかっている。 その理想は人間の直観であり、彼の精神が漲らせる意志駆動力系である。そして、彼がそれを欲するのは、その実現が彼にとっての最大の快だからである。 それに向かって努力すべき事柄に向けさせるために、倫理がまず快の追求を禁ずるなどということは彼には必要ない。 彼の意志に力を与え、そして、不可避な不快も含め、彼の生体に存在する抵抗を乗り越えさせるような直観が彼に吹き込まれるほどに道徳的ファンタジーが十分に活発に働くなら、彼は倫理的理想を追求するだろう。

■13-47:理想の実現こそが最大の満足を与える


崇高で偉大な理想を希求する者は、その内実が彼の本性となっているのであるから、それを実行する。そして、その実現は喜びであり、それに比べれば日常的な衝動の満足から得られるみすぼらしい快など些末なことでしかない。 自らの理想を現実させていくことを理想主義者は精神的に深く味わうのである。

■13-48:善とは行いたいと欲することを行うこと


欲求充足における快を根絶やしにしようとするなら、人を奴隷にしなくてはならない。つまり、したいと欲するからではなく、しなくてはならないから行為する奴隷である。 なぜなら欲することが達成されれば快が伴うのだから。 真の人間本性が発達していたなら、と呼ばれるものは、人が為すべき事柄ではなく、行いたいと欲する事柄である。 このことを認識しない人は、まず人間から欲する事柄を追い払い、彼の意志の内容となるものを外から押しつけなければならない。

■13-49:欲求の実現は人間の本性に由来するがゆえに価値がある


人が欲求の実現に価値を付与するのは、それが人間の本性から生じるからである。 実現された事柄は、それが欲せられたがゆえに価値を持つ。 人間意志の目標それ自体としてから価値を奪うなら、価値を持つ目標を人間が欲しないものから得なくてはならない。

■13-50:悲観論は精神由来の欲求を忘れ低次な欲求だけを考慮した


悲観論を基礎とする倫理観は道徳的ファンタジーを軽視することから生じる。 人間的な個としての人間精神が自らに追求の目標を与えることができないなら、意志とは快への憧れで言い尽くされることになる。 ファンタジーを欠く人は倫理理念を獲得することはない。 理念が与えられる必要がある。 人は低次の欲求を満足させようとする。これは肉体的本性の仕業である。 しかし、人的な発達ということから言えば、そこには精神に由来する欲求も含まれる。 人間には精神に由来する欲求などないという見解であれば、それを外から受け取らざるをえないと主張するかもしれない。 その場合には、人は自分の望まないことを行う義務があると言うのも当然である。 「自らが望まない使命を達成するために、自らの意志は押し殺せ」と人に要求するあらゆる倫理観は、発達した人は想定しておらず、精神的な欲求を獲得する能力を欠いた人間しか想定していない。 調和的に発達した人間にとっては、いわゆる善なる理念は自己本性の外にではなく内にある。 倫理的行為は、偏った固有の意志を根絶することによってではなく、人間本性を十全に発展させることで可能になる。 人が固有の意志を押し殺すことによってのみ倫理的理想を達成しうると考えるなら、いわゆる動物的な欲望が欲せられるのと同様に、この理想が人間自身によって欲せられていることがわかっていない。

■13-51:ここでの道徳観が誤解される可能性


ここで特徴づけてきた考え方が容易に誤解されうる点は否定できない。 道徳的ファンタジーを欠いた未熟な人間は自分自身の一面である本能を人間性のすべてと見なし、何の妨げもなく《現状のままの自分を発揮》することができるように、自分が築き上げたのではない倫理理念はすべて拒絶する。 十全に発達した人間に当てはまることが、その途上にある人間には当てはまらないのは当然である。 倫理的本性が低次の情念という殻を破るところまで教育されなくてはならない人に対し、成熟した人間に当てはまることを要求してはいけない。 しかしここは、未成熟な人間に何を教えるかを論ずる場ではなく、成熟した人間の本性に何があるかを論ずる場である。 ここは自由の可能性を証明する場だからである。自由とは、感覚的あるいは魂的な必要性からの行為に現われるのではなく、精神的直観を基盤とした行為において現われるのである。

■13-52:成熟した人間は直観から欲っしその実現に最高の喜びを得る


この成熟した人間は自分自身で自らに価値を付与する。 造物主あるいは自然から恩寵として渡された快を追及するのでもなく、快の追及をやめた後で認識されるという抽象的な義務を果たすのでもない。 彼の道徳的直観とは、欲したままに行為するということを指針とする。そして自分が欲したことの達成は、彼にとって真の人生の喜びである。 彼は、追求したことに対する達成度で人生の評価値を決める。 欲することの代わりに為すべきことを置く、つまり欲求の代わりに義務を置く倫理観では、当然のことながら義務の要求に対する達成度で人間の評価値を決める。 この倫理観では、人間本性の外にある尺度を当てはめる。 ……ここで論じてきた観点では、人間を人間自身に回帰させる。 この観点では、各自が自らの欲するものそのものを指針とした場合だけを人生の真の価値と認める。 人間的な個によって認められない人生の価値も、人間的な個に由来しない人生の目的もこの見解には存在しない。 この見解では、あらゆる側面から見通された実在としての人間的な個の中に、その人自身の主人とその人自身の鑑定人が存在することがわかっている。

★1918年新版への補足


■13-53:直観が意志の源泉であることを体験しているか否か


「人間意志そのものは非理性的である」という表面的な意見に毒されている人は、本章の内容を誤解する可能性がある。 人間の意志が非理性的であることは証明される必要があるし、仮に証明されれば、意志から解放されることこそが倫理の探求目標であることも納得できる。 私には該当の人たちからそうした表面的な反論が寄せられた。その中で私は、自ら考えようとしない動物や大多数の人間が野放しにしていること、つまり人生の出納簿をつけることを代行するのが哲学者の仕事だと言われた。 こうした反論では、自由を実現させるには、人間本性において直観的思考が意志を支える必要があるという主要な点が見落とされている。 同時に、意志が直観以外の何かによって決定されうることもある。 しかし、人間本性を源流とする直観の自由における実現によってのみ、倫理的なもの、そして倫理的なものの価値が生じる。 倫理的個体主義では倫理性をその十全たる尊厳において現わそうとする。 外的なやり方で何らかの規準と意志とをすり合わせることが真に倫理的なのではなく、倫理的意志を彼の存在全体の一部として発達させたときに人間から立ち上がってくるものこそが真に倫理的であるという見解を取るからである。 それゆえ非倫理的な行為は人間存在の歪曲であり、発育不全として現われる。

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