2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第12章、道徳的ファンタジー…ダーウィン主義と道徳

■12-01:

自由な精神は内からの衝動によって行為する。つまり、自分の理念界全体から思考によって選び出した直観から行為する。 不自由な精神では、行為の根拠となる特定の直観を理念界から選ぶにしろ、その理由が彼にとっての知覚世界の中に、言い換えるとこれまでの経験の中にある。 決断する際には、似たような状況で誰かが行ったこと、あるいはするとよいと思われること、あるいはその状況で神が命ずるであろうことなどを思い起こし、それにしたがって行為する。 自由な精神にとっては、こうした事前の条件だけが行為への原動力ではない。 彼は、正真正銘の前例のない決断を下す。 その状況で他人が何をしたかにも、他人がそれに対し何を命じたかにも煩わされない。 彼は純粋に理念的な行動根拠を持っていて、彼の概念総和からまさにある特定のものを取り上げ、行動に移す。 しかし、行為となったものは知覚可能な現実界に属する。 彼が行うことが、ある特定の知覚内容と一体化していく。 概念が実現されるのは、必ず個々の具体的な出来事においてである。 概念は、概念のままでは個々のケースに入り込むことはできない。 たとえば《ライオン》概念は、一匹のライオンの個体に関連する。 それと同じように、そもそも一つの概念は一つの知覚に関連するものであるし、その点は行動規範としての概念も同じである。 さらに、概念と知覚の中間項が表象である(06-04からを参照)。 不自由な精神には、この中間項がはじめから与えられている。 はじめから動機が表象として意識内に存在しているのである。 彼が何かを実行しようとするときには、見たとおりに行うか、毎回、命じられたかのように行う。 ここで権威は、例を示すことで最も効果的に作用する。つまり、不自由な精神の意識に対し、逐一、特定の行為を伝授する。 キリスト教徒は、主の教えに従ってというよりも、主の行為を手本に行為する。 また、諸規則は、行為の促進より抑制に効果を持つ。 行為を促進するのではなく禁止するとき、法律は一般的な概念形式で現れる。 不自由な精神に行うべき事柄を示すに当たって、法律は非常に具体的な体裁を取るはずである。 「家の前の通りを掃き清めよ」、 「所定額の税金を税務署で支払え」などである。 それに対し、禁止に向けて法律では概念的な体裁をとる。 「盗むなかれ」、「姦淫の罪を犯すなかれ」などである。 不自由な精神に対しこれらの法律に実効を持たせる際には、それでも具体的な表象を示す。 たとえば、それを犯したときの刑期、良心の苦悩、永遠の劫罰などを示すのである。

■12-02:

たとえば「隣人に善をなせ」とか「自らの幸福を最も促すように生きよ」といったように一般概念の形式で行為を後押しする場合には、それぞれのケースでまず行なわれるべき事柄の具体的な表象(概念に関連して知覚内容に向かっうもの)を見つけ出さなくてはならない。 何も手本にせず、何の賞罰にも動かされない自由な精神では、常に概念を表象へと置き換える必要がある。

■12-03:

理念全体から具体的な表象を作り出す際の仲介は、ファンタジーが行っている。 したがって、自らの理念を具体化するにあたって自由な精神が持つべきは、道徳的ファンタジーである。 道徳的ファンタジーとは、自由な精神にとっての行為の源泉である。 したがって道徳的に生産的なのは、道徳的ファンタジーを持つ人だけである。 単なる道徳の説教家、つまり道徳規則をこねくり出すだけでそれを具体的な表象に実像化できない人は、道徳的に非生産的である。 彼らは批評家に似ている。芸術作品がどう創造されるべきかを頭だけで議論することはできても、自分では何も創り出せない批評家である。

■12-04:

表象を具体化するために、道徳的ファンタジーは特定の知覚領域に入り込む必要がある。 人間の行為では、新規に知覚対象を作り出すことはなく、既存の知覚対象を作り変え、それに新しい形態を与える。 ある特定の、あるいは一連の知覚対象を道徳的表象に沿って作り変えることができるためには、この知覚像が内に持つ法則(新たに作り変えようとしたり、新たな方向を与えようとしている対象が持っている既存の法則)を把握していなくてはならない。 さらには、そこでの法則のつながりを新たなものに変容させる手段を見つけなくてはならない。 道徳性を実効あるものにしようとする際のこの部分では、関係する現象世界についての知識が基礎になる。 つまりこの部分では、科学的認識全体からある分野を探求することになる。 つまり、道徳的行為の前提条件には次の三つがある。 まず道徳的な理念獲得能力(注)、次に道徳的ファンタジー、さらには現象界の自然的関連を損なうことなく現象界を作り変える能力である。 この能力は道徳的実現技術である。 学問が学習可能であるのと同じ意味で、これも学習可能である。 一般的に言って人は、まだ存在しない未来の行為をファンタジーによって生産的に決定していくことより、すでに既存の世界に対する概念を見出すことに長けている。 それゆえ、道徳的ファンタジーを持たない人が他人から道徳的表象を受け取り、これを巧みに現実に適用する場合もありうる。 また逆も生じうる。 つまり、道徳的ファンタジーを持った人が技術的に未熟で、自分の表象を実現するために別の人に頼らざるをえない場合である。

(注:内容)著者注:本書ではここ以外でも《獲得能力》という単語を用いていて、そのことを表面的に見ると、昔の心理学で用いられた《魂の獲得能力》への退行に見えるかも知れない。 しかし05-25段落以降との関連で述べられたことを見れば、この用語の正確な意味がわかる。

■12-05:

道徳的行為のためには、行為する領域に対する知識が不可欠であるので、こうした知識も行為の基盤に当たる。 ここでは自然法則が問題になる。 私たちは自然科学にかかわるのであって、倫理学にではない。

▲倫理学の起源を検討する

■12-06:

道徳的ファンタジーと道徳的理念獲得能力が知の対象となりうるのは、それらが人間的な個によって生み出された後である。 しかしそのときにはこの二つはその営みをコントロールすることはなく、すでにコントロールしてしまっている。 他のあらゆるものと同様に、これらは作用的な原因と捉えることができる(目的とは主観のためにだけある)。 この点を道徳的表象の自然学として検討してみよう。

■12-07:

その傍らに、規範の学としての倫理学は存在しえない。

栄養学を倫理学の規範にする試みを吟味

■12-08:

生体の生存条件から一般法則を導き出し、その一般法則を基に特殊としての肉体に応用するのが栄養学である。 その栄養学的な意味で倫理学を捉えることで、道徳法則の持つ規範的性格を確定しようとした(パウルゼン『倫理学体系』)。 しかし、この比較は間違っている。道徳的営みと生体的営みは比較できないからである。 生体の実体的なものは私たちが何もしなくても存在する。 そしてその法則は、完成品として世界に存在しているので、私たちはそれを探求し、発見し、応用することができる。 しかし道徳的法則とは、私たちによってまず創出されるものである。 創出されなければ、適用することもできない。 ここでの誤りが生じた理由は、道徳法則が内容的に毎回、新しく創出されるのではなく、継承されることもあるからである。 先人から継承した道徳法則は、生体における自然法則と同じように、あらかじめ与えられているように見える。 道徳法則が後代に継承されることがあるにしろ、栄養学的規則と完全に同じ権利で伝わることはない。 なぜなら道徳法則は人間的な個にかかわるものであり、自然法則が類の中のサンプルにおいて成り立つのとは違うからである。 生体としての私はそうした類の中のサンプルであり、類の自然法則を私という特殊例に適用すれば、自然に適った生活をするだろう。 しかし道徳的存在としての私は人間的な個であり、完全に私固有の法則を担っている(注)。

(注:内容)筆者注:パウルゼン(上掲書15ページ)は、 「生来の素地や生活環境がさまざまなので、身体的にも精神的(道徳的)にも相応の養分を要求する」と述べているが、これは正しい認識に非常に近い。しかし、決定的な部分で的外れである。 人間的な個としての私は、栄養を必要としない。 栄養学とは、特殊としてのサンプルを類という普遍的な法則と調和的につなげる術である。 しかし人間的な個としての私は類の一サンプルではない。

■12-09:進化論と倫理学の関係

ここで述べた見解は、近代自然科学の基本理論である進化論と矛盾するように見える。 しかし、そうした矛盾は表面上だけである。 進化とは、自然法則にしたがって前代のものから後代のものが実際に生じてきたと理解される。 生物界での進化とは、後の(より完全な)生体形態が以前の(より不完全な)形態の実際の子孫であり、そしてそのつながりは自然法則に従うと考えられている。 生物進化論の支持者は次のように考えているはずである。 地質学的な過去に観察者が存在し、相応の寿命でその場に居合わせることができれば、原羊膜動物から爬虫類が現われくる様子を見ることができると。 同様に進化理論家たちは、途方もない長時間、宇宙空間内の適切な場所に滞在できるなら、カント・ラプラス理論の星間物質から太陽系が生じる様子を観察できると考えているはずである。 ここでの原羊膜動物やカント・ラプラス的星間物質の考えが物質主義者の考えとは考え方が違っているはずであるが、それはここでは問題にならない。 爬虫類をまったく見たことがない状態では、原羊膜動物の概念から爬虫類の概念を導き出すことができない。この点に考えが及んだ進化論者はいなかったらしい。 あるいは同様に、知覚されたカント・ラプラス的星間物質から規定された星間物質概念だけを基にしたのでは、太陽系の概念を導き出すことはできない。 言葉を変えると次のようになる。 論理的に一貫して考えるなら、不完全なものと完全なものの概念が両者とも与えられていて、さらにはそれらの関係を洞察できるときに、進化論者は進化的に前段階のものから後段階のものが現実に生じると主張するはずである。 しかし、前段階のものから得た概念だけによって後段階のものを進化的に導出できるとは主張できないはずである。 このことから倫理学者にとっては、後代と前代の道徳概念同士の関連は洞察できるが、前代の道徳理念から新しい道徳理念を引き出すことは一切できないという帰結が得られる。 道徳的存在としての人間的な個が道徳内容を創出する。 自然科学者にとって爬虫類が既知であるのと同様に、この作り出された道徳理念は倫理学者にとって既知である。 爬虫類は原羊膜動物から生じたにしろ、生物学者は原羊膜動物の概念から爬虫類概念を導出することはできない。 後代の道徳理念は前代の道徳理念から発展するが、倫理学者は前文化期の道徳概念から後代の道徳概念を導出することはできない。 自然科学者の立場からは諸事実はすでに眼前にあり、それを後になって認識的に考察する。 道徳的行為の場合には、後にその事実を認識するために私たちはまず自分で該当の諸事実を作り出す。 この違いを掴んでいないと混乱に陥る。 自然のより低次な段階で行われていることを、道徳的世界秩序の進化プロセスでは私たち自身が行っている。 自然法則では、規範は直接に認識の対象であるが、倫理的規範ではまずそれを私たちが作り出さなくてはならない。 それが存在してはじめて、認識の対象となりうる。

■12-10:

新しいものは古い基準では計れないのだろうか。 道徳的ファンタジーで生み出されたものを因習的な道徳的教義を規準に捉えるよう、各自が強制されてはいないだろうか。 道徳的に生産的なものに対しては、そうした規準はナンセンスである。 これは、古生物を尺度に新生物を計り、原羊膜動物には適合しないので爬虫類は正しくない(病的な)生物であると言うのと同じである。

■12-11:倫理的個体主義は進化論に連続的に続く

進化論を正しく理解するなら、倫理的個体主義は進化論とは対立せず、それに直接に続くものである。 ヘッケルの系統樹とは、原始動物から生物としての人間が現われるまでの流れであり、一切の自然法則の中断もなく、一まとまりである進化の断絶もなく、特別な意味を持つ道徳的存在としての人間的な個の出現まで続いていたはずである。 しかし、前世代生物種の本質から次世代生物種の本質を導き出すことはできるはずもない。 人間的な個が担う道徳的理念が先駆けとなるものに垣間見られることも確かではあるが、その人間的な個自身が道徳的理念を持たなかったら、道徳的な意味で不毛であるのも確かである。

■12-12:

私がこれまでの観察で導き出してきた倫理的個体主義と同じものを、進化論からも導き出すことができる。 最終的な結論は両者とも同じであるが、そこに到達する道筋が違っている。

■12-13:

進化論から見れば、新しい動物種が他の種から生じる点は何の不思議もない。それと同様に、道徳的ファンタジーによってまったく新しい道徳理念が生み出されることも不思議ではない。 ただし、一元論的な世界観に立つ進化論では、道徳的営みにおいても自然界の営みにおいてと同様に、理念的に体験できない、単なる見せかけの彼岸(形而上的なもの)からの影響は退けなくてはならない。 一元論的進化論では、新しい生命形態の原因を探求する際にも、その進化論を前進させてきたのと同じ原則に従う。 そしてその際に、世界の外側に居る存在からの作用などは考えに入れないし、それが個々の新種の生物を毎回新しい創造思考に沿って超自然的影響を介して引き出しているとも見ない。 一元論では、生物を説明するにあたって超自然的な創造思想を必要としないのと同様に、道徳的世界秩序を体験不能な原因から説明することもありえない。 一元論では、道徳的な意味での意志の本質を、道徳的営みへの超自然からの絶えざる影響(神による外からの世界統治)、歴史上の特別な啓示(モーセの十戒)、あるいは地上における神の出現(キリスト)で言い尽くしているとは見ない。 これらすべてを介して人間の傍ら、そして人間の中で起きることが道徳的なものとなりうるのは、それが人間の体験において個的に独自なものになったときである。 一元論にとって道徳的プロセスとは他の諸事物と同じように世界産物であり、その道徳的プロセスの原因は、世界の中に、言い換えると、道徳の担い手である人間の中に求められるはずである。

■12-14:

こうして倫理的個体主義は、ダーウィンとヘッケルが自然科学において構築しようとした大伽藍の頂点に位置する。 これは、道徳的営みに移し換えられた精神化された進化論である。

■12-15:

自然的という概念をはじめから狭い意味で解釈し、恣意的に特定の領域に限定してしまうと、人間的な個の自由な行為が入り込む余地がなくなることもありうる。 進化論を首尾一貫して考える者なら、そうした狭い解釈に陥ることはありえない。 彼は、自然的進化が猿で終わるのではなく、人間に《超自然的》な起源があることも認められる。 また、人間の自然的な先祖を探すにあたっては、同時に自然の中に精神を探さなくてはならない。 さらに、人間が生物として完成する地点でとどまり、そこまでを自然的とみなすことはできない。そうではなく、道徳的に自由な営みを生物的な営みの延長と見なさなくてはならない。

■12-16:

理論的進化論者はその基本見解にしたがうなら、「現在の道徳行為は違う種類の世界事象から現れ出た」と主張しうるだけである。 自由という規定を持つ行為の特徴を捉えるにあたっては、それを行為の直接観察に委ねなくてはならない。 彼はまた「人間は人間になっていない祖先から進化してきた」と主張しているだけである。 人間がどのように創造されたかは、それ自体を観察することによって確認されなくてはならない。 そしてこの観察の結果が正しく解釈された進化史と矛盾することはありえない。 そうした観察結果が自然的世界秩序から外れているという主張は、自然科学の新しい方向と見解を共にすることはできない(注)。

(注:内容)著者注:思考内容(倫理的理念)を観察の対象とすることは正当である。 思考によって作り上げられるものが、思考活動中には観察領域には入らないにしろ、後になれば観察対象になりうるからである。 そして、この道筋によって私たちは行為の性格づけも行ってきたのである。

■12-17:

自己完結的な理解しかしていない自然科学に対し倫理的個体主義はひるむことはない。 観察をすると、人間行為の完成形は自由であるという結果になるからである。 人間の意志が純理念的な直観の実現である場合においては、この人間意志を自由と見なさなくてはならない。 なぜならこの直観は、外圧からの必然的な結果ではなく、それ自体に根拠を持つからである。 ある行為がそうした理念的直観の写しであるとわかると、人間はその行為を自由と感じる。 自由とは、こうした特徴を持つ行為である。

■12-18:一元論から見た意志と行為の関係

01-12以降では次の二つの見解
  • 自由であるとは、欲することを行えることである
  • 望んだり望まなかったり好き勝手にできる点が、自由意志についてのドグマである
を紹介した。これらは上述の観点とはどのような関係にあるだろうか。 ハマーリンクは前者を正当とし、後者は馬鹿げたトートロジーであるとした。そして、まさにその違いが、自由意志に対する彼の見解の立脚点になった。 「私が欲することを私は行いうる、とはいえる。しかし、私が欲することを私は意志できる、というのは不毛なトートロジーである」と彼は言う。 私が欲する事柄を、つまり自分の行動理念として私が自らに設定した事柄を、行為するか、言い換えると現実へと置き換えるかは、外的事情や私の技術的な熟達度(12-04)に左右される。 自由とは、行為の根底にある表象(行動因)を道徳的ファンタジーによって自分自身から決めうることである。 私の道徳表象が(機械的な過程や世界外の神からの啓示といった)私以外の何かによって決定されてしまう場合には、自由はありえない。 したがって私が自由であるのは、私自身が表象内容を生み出すときであり、他の存在が私に植え付けた動因を実行できるときではない。 自らが正しいとすることを欲しうる存在が自由なのである。 自分が欲するのではないことを行為する人は、自分の内にはない動機によってそれに駆り立てられているはずである。 そうした人の行為は不自由である。 正しいと思うこと、正しくないと思うこと、そのどちらでも好き勝手に欲することができるという意味は、「自分の勝手で自由にも不自由にもなれる」となる。 これはもちろん不合理であり、その点は、自由とは意志せざるをえないことを行為できる能力であるとするのと五十歩百歩である。 しかしハマーリンクは以下のように述べることで、後者の説を唱えている。 「意志が常に動因によって決定されているというのは完全に真実である。 しかし、彼自身が持つ強さや決心の力に応じて実行しうるものより偉大な自由など、望むことも考えることもできない。 それを根拠に人が不自由であるなどと言うのは不合理である。」

……よろしい、このような考えるのなら、より偉大な自由は望むことができると述べておこう。これは第一の真理である。 つまり、意志の根拠を自分自身で決めるときがより偉大な自由なのである。

■12-19:不自由についての考察

状況によって人は、自らの意志の実行を思いとどまらされてしまうことがある。 行うべき事を指示されることとは、彼ではなく別人が正しいとすることを欲することである。 そうしたことに陥るのは、自分が自由ではないと感じながらである。

■12-20:不自由への外的強制力

外的な力は、私が行いたいことを妨げうる。 するとその外的な力は私を、無為あるいは不自由へと追いやる。 その外的な力が私の精神を隷属させ、私の動因を頭から追い出し、その代わりに外的動因を置こうとするとき、はじめてその外的な力は私を不自由にする意図を持っていることになる。 教会は、行為に対してだけでなく、不純な思考内容に対し、つまり私の行為の動因に対し変更を迫る。 教会が与えたのではない動因のすべてを不純と見なすとき、教会は私を不自由にする。 祭司または教師が良心の規律の提供者となるとき、つまり、信者が彼らから(ざんげの席で)行為の動因を受け取らなければならないときに、教会、あるいは他の共同体は不自由を作り出している。

★1918年新版への補足

■12-21:

人間意志についてのこの論述では、自らの行為における体験について述べられている。 つまり、それを介して「私の意志は自由だ」と意識するような体験である。 「意志の中で理念的直観が実現される」という体験によって、自由意志の正当性の根拠が得られる点には特別な意味がある。 これは可能性としての観察結果に過ぎない。 純理念的な直観に支えられた可能性としての意志、そこに到達することを目標とする進化的流れがある。 その流れにおいて人間意志が自らを観察するという意味においては、これは実際の観察結果なのである。 そして、この可能性は実現しうる。 なぜなら理念的な直観の中には、自己の上に成り立つ構成要素しか作用していないからである。 そうした直観が人間意識の内に存在するとき、それは生体の作用から生じたのではなく(09-01以降参照)、むしろ理念に場を空けるために生体活動が抑えられたことで生じたのである。 直観の写しである意志を観察すると、その意志からも生体的に不可欠な活動は後退している。 意志は自由である(解放されている)。 直観的要素によって人間生体に不可欠な作用がまず抑えられ、その空いた場に理念に満たされた意志の精神的な活動が置き換えられることで自由な意志は成り立つ。 そのことを見て取れない人は、意志の自由は観察できないだろう。 自由な意志におけるこの二段階を観察できないと、あらゆる意志が不自由であると思ってしまう。 これを観察できれば、生体的活動の抑制を最後まで徹底できないかぎり、人間は不自由であることを洞察する。 そして、この不自由も自由に向かって突き進むものであり、自由とは決して抽象的な理想などではなく、人間本性が持つ正しく身を起こす力であるという見解にまで達する。 純理念的(精神的)直観を実現しようと意識した際の魂的雰囲気と同じものを、意志においてどれくらい実現できるかによって、人間がどれくらい自由であるかが決まるのである。

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