2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第11章、世界における目的と人間的営みにおける目的(人間の位置づけ)

■11-01:因果論、目的論における原因と結果の関係

人類の精神潮流の中で検討しておくべきものがある。 目的論である。それがふさわしくない領域に入り込んでいる問題を克服する。 合目的性とは、諸現象の特定の並び方を言う。 因果関係とは原因と結果の関係で、先行する出来事が後続のものを規定する。合目的性ではそれとは反対に、後続の出来事がそれ以前の出来事を規定している。 この合目的性がまず現われるのは、人間の行為においてである。 人が何かを事前に表象しそれを実際に行為すると、行為はこの表象に規定されている。 後続のものである行為が、表象を助けに、先行するものである行為する人間自身を規定している。 合目的的な関連においては、このように必ず表象という迂回が必要である。

■11-02:知覚レベルと概念レベルでの原因と結果

原因と結果に分解されるプロセスでは、知覚レベルと概念レベルを区別する必要がある。 知覚レベルでは原因は結果に先行する。 もし二つの知覚を、原因と結果という相応の概念で結びつけることができなければ、それらは意識内で併存するだけである。 知覚レベルでは結果は常に原因の後に続く。 それゆえ後続の結果が先行の原因にリアルな影響を与えるとするなら、その影響は概念レベルでの影響以外には考えられない。 なぜなら、知覚レベルで見るなら結果は原因より前には存在すらしていないからである。 「花とは根の目的である」、つまり花が根に影響しているという主張は、花における要素の中で思考で捉えられるものについてのみ成り立つ。 知覚要素としての花は、根の発生時点ではまだ存在していない。 しかし合目的的関連が成り立つためには、後発から先行への理念的・法則的な関連が不可欠なだけでなく、結果という概念(法則性)が何らかの知覚可能なプロセスで原因にリアルに影響を与えなくてはならない。 概念を起点として何らかの他者に知覚可能な影響を与えることができるのは、人間の行為においてのみである。 つまり、この場合には目的論が成り立つ。 すでに繰りかえし述べてきたように、素朴な意識は知覚可能なものだけを有効と見なす。そして、理念的に認識しうるだけのものについても知覚可能なものを投影しようとする。 素朴な意識は、知覚可能な出来事の中に知覚可能な関連を探すし、見つからない場合にはそれが成り立つと夢想する。 目的論は主体的行為において有効であり、そうした夢想的関連にとっては都合がよい。 自分が事を起こす際の成り行きがわかっているので、そこから素朴な人は自然も同様に事を起こすと推論する。 自然の関連は本来は純粋に理念的であるのに、素朴な人はそこに不可視な諸力を見るだけでなく、知覚不能でリアルな目的をも見る。 人は目的に適うように道具を作る。 素朴実在論者はそれと同じレシピで造物主に諸生物を創り出させる。 こうした間違った目的論が学問から消えるには非常に長い時間を要する。 哲学においては、今日でもなおこの不良品がかなり幅をきかせている。 そこでの問いは、宇宙外にある宇宙の目的であり、人間外にある人間の意味づけ(さらには人間の目的)等々である。

■11-03:人間において目的論は正当である

一元論ではあらゆる分野で目的論を認めないが、唯一の例外が人間の行為である。 一元論が自然を相手にするときには、自然法則を探求するのであって、自然目的は取り上げない。 自然目的とは恣意的な仮定にすぎず、その点では不可知覚な諸力と同じである(07-17~20以下参照)。 しかし、生きる目的を本人が決めるのでないとしたら、それは一元論の立場から見れば不当な仮定である。 合目的性は理念の実現によってしか生じえないのであるから、何かが目的に適うのは人間がそれに向けて行為したからである。 理念が現実的な意味で作用を持ちうるのは、人間の内だけなのである。 それゆえ人間が自らの営みに目的や意味づけを与えるときにのみ、人間の営みは目的や意味づけを持つ。 「人間は人生においてどのような使命を持つか」という問いに一元論は次のように答えることができる。 「人間が自らに課した使命だけである」と。 宇宙における私の使命はあらかじめ定められたものではなく、その都度、私が自分に対し選んだものである。 私は、固定されたルートで人生を行進するのではない。

■11-04:歴史における目的論は誤りである

理念は、人間を介してのみ合目的的に実現される。 それゆえ、理念が歴史によって実体化されるなどという話はありえない。 「歴史とは、人類の自由に向けた発展である」あるいは「道徳的世界秩序の実現である」等々の見解は、一元論からは容認できない。

■11-05:目的論以外にも秩序の根拠は存在する

目的論の支持者は、目的論を捨ててしまったら、世界における一切の秩序や統一性も放棄することになると思い込んでいる。 例えばロベルト・ハマーリンク(『意志の原子論』第2巻201ページ)はこう述べている。 「自然界に衝動が存在するのであるから、そこに目的がないなどとするのは愚かである。 ……人体のある部位が人体において特定の位置や役割を持つのは、空疎な理念によってそれが決められているからではなく、それらを含む身体という大きな全体との関連によって決められているからである。それと同様に、植物、動物、人間といったいかなる自然存在が特定のものへと決定されているのは、空疎な理念によってではなく、自然全体という合目的的に活動する、より大きな形式原理によってである」。 さらに同書の191ページでは次のように述べている。 「目的論は以下のことを主張するだけである。 こうした被造物の営みには数多くの不快さや苦悩が伴うのは確かだが、その被造物の中には、そして自然の進化の中には高度の目的性や計画性が見紛うことなく存在する。 この目的性や計画性とは、自然法則の範囲内で実現されていて、享楽をむさぼる世界に堕ちることなどありえず、 この目的性と計画性の中にあっては、生と死、生成と消滅が、多少なりとも嬉しくはない、しかし不可避なる中間段階を挟んで向かい合っている。

合目的性とは自然のあらゆる領域で実証された素晴らしきものである。 ところが目的論の敵対者は、中途半端か完全かを問わず、あるいは思い込みか現実的かを問わず、世界の非目的性の証拠を懸命に寄せ集め、それで合目的性に対抗しようとしている。 これは私にとっては笑止に堪えない」。……

■11-06:ハマーリンクは自然における理念を合目的性と取り違えた

ここで言われている合目的性とはどのようなものだろうか。 諸知覚がある全体へと統合されていることである。 法則(理念)とは思考によって捉えられるものであったが、それがあらゆる知覚の根底にあるので、 あらゆる知覚の根底には思考によって捉えうる法則(理念)があるので、知覚総体において見られる知覚諸部分の計画的調和とは、まさに理念総体の一部として知覚総体に含まれる理念的調和なのである。 「動物や人間を規定するのは空疎な理念ではない」というのは適切な表現ではないし、この判断を誤った見解も、表現を正しいものに変えれば、愚かなものではなくなる。 確かに動物を規定するのは空疎な理念ではない。しかし、その動物が生来持ち、その動物の法則的な本性の根底にある理念が規定している。 まさに理念が事柄の外側にあるのではなく、その内にあってその本質として作用するので、合目的性などと言うことはできない。 自然存在が外から規定されるという考えを否定する人たちがいる。 (この規定が空疎な理念によるものなのか、造物主の精神内に存在する被造物外の理念であるのかはここでの議論では重要ではない)。 その人たちは、この自然存在が合目的的・計画的に外から規定されるのではなく、因果的・法則的に内から規定されることを認めるに違いない。 自然状態では何の関連も持たないパーツ群に私が関連を与えて組み立てるなら、その機械は合目的的になる。 その機械が合目的的である理由は、その機械の働き方をその機械の理念としてその機械の根底に設定したからである。 それによって機械は、相応の理念を持つ知覚対象物になった。 自然存在もそうした存在である。 その物体を合目的とする理由が法則的に作り上げられている点にあるなら、自然存在もまったく同じ状況であると考えたいはずである。 ただし、この法則性を人間の行為における主観的な合目的性と混同してはいけないのである。 合目的的であるためには、そこで原因として作用するものが概念でなくてはならず、さらに言えば結果という概念でなくてはならない。 しかし自然においては、概念が原因となることは証明されえない。 概念はいつでも原因と結果という理念的な関連として存在するだけである。 自然において原因とは、知覚レベルでしか存在しない。

■11-07:

二元論では、世界目的とか自然目的という考えを認めるかもしれない。 つまり、原因と結果の法則的な結びつきが知覚として現われる地点において、二元論者は次のように仮定するかもしれない。 絶対的宇宙存在がある関連性の中に自らの目的を実現していて、私たちは単にその関係性の似姿を見ているだけだと。 一元論から見れば、体験不能かつ単なる仮定として考え出された絶対的宇宙存在は否定されるので、同時に世界目的や自然目的を仮定するための根拠も消えている。

★1918年新版の補足

■11-08:

ここで述べたことを偏見を持たずに考え通せば、次のような誤解は避けられるだろう。 ここで本書の著者は人間以外の事柄での目的論を拒否しているが、この目的論の否定によって、人間の行為以外のすべてを……さらには人間行為をも……単なる自然的成り行きと捉えられるとする思想に組みしているという誤解である。 本書では思考の経過を完全に精神的なものとして捉えているし、そのことを考えれば上述の見解には陥らないはずである。 本書では、精神世界においても人間行為以外にある目的論を拒否している。その理由は、精神世界で顕現するものは人間において実現される目的よりも高次だからである。 そしてここでは、人間における合目的性を手本として考え出された人類における合目的的な規定というのは間違いであるとした。 その真意は、まず個々人が目的を設定し、そこから人類の全体的作用の成果がまとめあげられるということである。 したがってそうした成果は、その一部である個々人の目的より一段高次である。

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