2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第10章、自由哲学と一元論

■10-01:素朴実在論に由来する道徳律

素朴な人は、目で見たもの、手に触れるものだけを現実と見なす。 彼はまた、道徳的な意味での行為の規範も感覚知覚できるかたちで要求する。 彼は、この行動規範を見たり聞いたりすることで理解できるようにしてくれる存在を求める。 自分よりも賢い人、より権威を持つ人、あるいは何らかの理由で自分より上と認められる人が、行動規範を規律として命令してくれることを望むだろう。 こうして、家族、国家、利益社会、教会や神の権威といった前述のようなさまざまな道徳原則が生じる。 この考えを最も強く持つ人は一人の他人を信じる。 やや緩やかに信奉する人は、自分の道徳的姿勢を何らかの多数性のもの(国家、社会)の指示で決める。 いかなる場合も、彼の基盤は知覚可能な権力である。 最終的な場合としては、指導者と仰いだ人物が基本的には自分と同じ弱い人間であることがしだいにわかってくると、より高次の力や神的な存在からの言葉を求めるが、その神的な存在も知覚可能なものとされる。 この存在は彼に、道徳生活上の概念的内容を知覚可能なやり方で伝える。 燃え盛る茨の中に現れる神、人間の姿で人々の間を歩き回る存在、為すべきこと為さざるべきことを耳に聞こえるように語る存在である。

■10-02:素朴実在論に由来し、やや発展した道徳律

素朴実在論における最高の道徳段階では、道徳命令(道徳理念)があらゆる他者的存在から切り離され、自らの内に存在する仮説的に絶対的な力として想定される。 かつて人間が神の声として外から聞いたものを、今度は自分の内にある自立した力として知覚し、それを良心の声と同等であるとする。

■10-03:形而上的実在論に由来する道徳律

しかし上述の段階ではすでに素朴な意識は越えていて、道徳的法則が規範として自律化している。 この段階の道徳法則はもはやいかなるものにも担われておらず、それ自体で存在する形而上的な構成体になっている。 この道徳法則は、形而上的実在論で言う不可視・可視的諸力とのアナロジーである。 そして形而上的実在論は現実を求めるにしても、思考内で人間の構成要素がこの現実界と繋がる部分を介して探すのではなく、感覚体験から仮説的に類推している。 人間の内にはない道徳規範とは、常にこの形而上的実在論の随伴現象なのである。 形而上的実在論では、必然的に道徳の起原も人間の内にはない現実に求めるのである。 ここでさまざまな可能性がある。 ここで前提とされる存在が唯物論(訳注)が言うところの存在、つまりそれ自体で思考内容を持たず、完全に機械的法則が作用する存在であるなら、人間的な個も、その個にまつわるすべてを含め、完全に機械的な必然性によって生み出される。 すると自由の意識は単なる幻想でしかありえない。 自分が自分の行為の創造者であると認めていても、私の中では私を作り上げている物質とその運動経過が作用しているからである。 自分では自由であると信じている。しかし事実として、すべての私の行為は私の身体的精神的有機体の根底にある物質経過の所産でしかない。 この見解では、私たちがその強制的な動機に気づかないために、自由という感情を持つとしている。 「この自由という感情が、外からの強制的動機に気づいていないが故に成り立っている点を、ここでも思い起こさなくてはならない」。 「思考が必然であるのと同様に、私たちの行為も必然である」(ツィーエン『生理的心理学の指針』207ページ以降)(注)。

(注:内容)訳注:唯物論の思考法は、形而上的実在論の一例である。たとえば、自然現象を原子モデルで考える。

(注:内容)ここで《唯物論》をどのような意味で述べているのか、そしてそう述べる正当性については、章末の補足を参照のこと。

■10-04:外的な精神存在を規範とする思想

もう一つの可能性は、現象の背後に隠れた人間以外の絶対者を精神的存在の中に見る場合である。 このように見る人は、行為への原動力もそうした精神的な力に求めるだろう。 彼の理性内に見出しうる道徳原理をこの精神的存在の発露と見なすだろうし、そしてこの精神的存在は人間に対しそれぞれ個別の意図を持つのである。 この線上にいる二元論者にしてみれば、この道徳法則は絶対者からの命令のように見え、そして人間は理性によってこの絶対存在を研究し、そしてその意図を実行するだけになる。 二元論者にとっての道徳的世界秩序とは、その背後に存在するより高次の秩序が可視界に残した余韻にすぎない。 つまり地上的道徳とは、人間以外に存する宇宙秩序の現われである。 こうした道徳秩序での主役は人間ではなく、人間以外の存在、存在それ自体なのである。 人間は、この存在が意志することを遂行すべきとされる。 エドゥアルト・フォン・ハルトマンは、自らの実存自体が苦悩である神性をこうした存在と考えた。そしてこの神的存在が宇宙を創造し、今度はその創造された宇宙が神的存在をその無限の苦悩から救済するとした。 それゆえこの哲学者は、この神的存在を救済するプロセスを人類の道徳的進化と見なした。 「自己意識を持つ理性的な個の側から道徳的宇宙秩序が構築されることによってのみ、宇宙プロセスの目的が達せられる」。 「真の実存とはこの神性の受肉であり、宇宙プロセスとは肉体を持った神の受難の物語であり、同時に肉体を持って十字架にかけられた者の救済への道筋である。 そして道徳とは、受難から救済へというこの道筋を短縮する助けとなるものである」(ハルトマン『道徳意識の現象学』871ページ)。 この場合、人間は自らが望むから行為するのではなく、神が救済を欲するがゆえに行為すべきなのである。 唯物論的な二元論者は、人間を機械としその行為は機械的な法則の帰結にすぎないとする。 (つまり絶対存在、存在それ自体を精神界に見ていて、そこにおいては人間の意識体験にとっての場はないとする)精神的二元論者は、それと同様に、人間を彼岸に居る絶対者の意志の奴隷と見る。 人間以外の何かとは、唯物論や一面的精神主義では真の現実と考えられているし、形而上的実在論は体験不能とされる。したがって、これらのどれにも自由はありえない。

■10-05:素朴実在論と形而上的実在論のどちらにおいても自由は成り立たない

素朴実在論も形而上的実在論も、まったく同じ理由で自由を否定せざるをえない。 両者にとって人間は、人間に降りかかる必然的な原則の執行人にすぎないからである。 知覚可能なものよりも、知覚からアナロジーで考え出された存在よりも、さらには《良心》とされる実体を持たない内的な声よりも自由を下に見ることで素朴実在論は自由を抹殺する。 人間外のものを認めることで成り立つ形而上論は、人間の自由を認めえない。 なぜなら人間を、《存在それ自体》によって機械的ないしは道徳的に規定されるものと捉えているからである。

■10-06:行為の根拠を自らの内に見出す場合のみ自由である

素朴実在論が知覚世界を認めている点は、一元論からも部分的に正しいと認める。 直観によって道徳理念を得られない人は、それを別な道で得なくてはならない。 しかし、道徳原理を外に求めるかぎり、人は事実上、自由ではない。 しかし一元論では、知覚内容だけでなく理念にも同等の価値を認める。 さらに理念は、人間的な個において現われうる。 この理念の側から突き動かされるかぎりにおいて、人は自らが自由であると感じる。 しかし形而上学は単なる論理展開にすぎず、一元論はこれを一切正当とは認めないし、さらにはいわゆる《本質それ自体》に由来する行為の原動力なるものも正当とは認めない。 知覚可能な外的な強制に従う限り、たとえそれを自分自身で聞き取るにしろ、それに由来する行為は一元論から言えば不自由である。 知覚や概念の背後に隠れた意識されない強制、それを一元論は認めない。 隣人の行為を「その行為は不自由だ」と主張する場合、その隣人が知覚可能な状況、事物、人物に駆り立てられて行為したことをその主張者は示さなくてはならない。 行為の原因を、感覚界と精神界以外に求めるとする主張を一元論は容認しない。

■10-07:一元論から見れば人間の行為の一部は自由である

一元論から見ると、人間の行為の一部は自由で、一部は不自由である。 人間は、知覚世界においては不自由であり、自らの内において自由な精神を実現する。

■10-08:あらゆる自由は個的な直観に由来する

単なる論理展開にすぎない形而上学の立場からすると道徳的規律は必然的に高次の力の現われと見なされるが、一元論の立場からは人間の考え(人間が思考によって捉えたこと)である。 道徳的世界秩序とは、機械的自然秩序の写しでもなければ、人間以外の宇宙秩序の写しでもなく、そのすべてが自由な人間の所産である。 世界において人間は、人間以外にある存在の意志をではなく、自分自身の意志を実現しなければならない。 他の存在の決定や意図ではなく、自分固有のそれを実現する。 行為者の背後に、その人物を自分の意志に従わせる目的、その人とは別な宇宙操作者の目的があるなどと一元論は考えない。 自らの直観による理念を実現するかぎりにおいて、人間は自らの人間的目的に沿っていると考える。 しかもそれは、それぞれの個が自分特有の目的に従うのである。 なぜなら理念世界が命を持つのは、人間共同体の中にではなく、一人ひとりの人間的な個の中だけだからである。 ある人間集団において共通の目標となるのは、個による意志行為の結果にすぎないし、多くの場合は少数の優れた先駆者と、その人物を権威とする追随者による。 私たちの一人ひとりが自由な精神へと召喚されているし、それはバラの芽がそれぞれバラとして花咲くように道を与えられているのと同じである。

■10-09:人間は自由へと向かう存在である

つまり一元論は、道徳的な行為の領域における真の自由哲学である。 一元論は現実哲学であるので、自由な精神に対する非現実的、形而上的な立場からの制約は拒否するが、素朴な人による物質的、(素朴実在的意味での)歴史的な制約は認める。 一元論からは、人間を生涯を通じて常に自らのすべての本性を展開する完成された産物とは見ないので、人間がそれ自身で自由か否かという論争は無意味に思える。 一元論は人間を進化する存在と見るし、その進化路線の延長線上で自由精神の段階に達しうるかを問題にする。

■10-10:自然的成長では人間は自由に到らない

自然は人間を育てるが、その手を放すときには自由な精神は完成しておらず、ある段階まで導くにすぎない。 この段階で人間はまだ不自由であり、そこから次第に自ら成長し、自分自身を見出す地点に達する。 これが一元論の知見である。

■10-11:自由へと向かう個体発生的進歩

物質的あるいは道徳的な強制の下で行為する存在は、真の意味では道徳的ではありえないことを一元論ははっきりと知っている。 (自然に由来する衝動や本能にしたがう)自動的な行為、さらには(道徳規範にしたがう)従順な行為を通過してくることは、真の道徳性に到る必要な前段階であると一元論では考えるし、自由な精神がこの二つの通過段階を克服するとも見ている。 素朴な道徳規範の内的束縛を解き、そして恣意的思索に陥った形而上学の外界的道徳規範を離れ、一元論では真の道徳的世界観を全面的に展開する。 一元論の立場では、世界から知覚を作り出せないのと同様に、世界から素朴論を作り出すことはできないと考える。さらに一元論は形而上学を拒絶する。 なぜなら、世界現象の解明に向かうあらゆる説明原則を世界の外にではなく、世界の内に求めるからである。 一元論では、他の認識原則をそれ自体として人間に対しても考えることを拒否する(10-03段落以降参照)。 それと同様に、他の道徳規範をそれ自体として人間に対して適用することも断固として拒否する。 人間的道徳性は、人間的認識と同様に、人間本性によって決定される。 人間以外の存在であれば認識の意味も人間とはまったく別様になるし、それが持つ道徳性もまた別様になるだろう。 一元論者にとっては、道徳性とは人間特有の性質であり、自由とは、道徳的であることの人間的形式である。

★1918年新版への補足その1

■10-12:認識の持つ一般であることと個的であることの両面性

本章と前章の内容に矛盾があると思ってしまうと、それらの記述を正当に判断できなくなる可能性が生じる。 一方では、一般に成り立ち、万人に等しく有効と感じ取られる思考の体験が述べられている。 もう一方では、理念がそれぞれの人間的な個に特有な仕方で意識の中で活動していると述べた。 ちなみにこの道徳的営みの中で実現される理念と、思考によって獲得される理念は同種である。 この実際に存在する対立を精神的な意味で生き生きと観ると、そこに人間本性の一端が開示するが、それを認識せず、この対立を《矛盾》と感じる人は、認識の理念も自由の理念も正しい光のもとで観ることはできない。 概念を感覚世界からの(抽象化された)抽出産物と考え、直観を正当に評価しない見解からすれば、ここで現実として認めてきた考えは《単なる矛盾》でしかない。 それ自身に根拠を持つ真の実在として理念が直観的に体験されうる様子を完全に見通すなら、次のことは明確である。 その一つは、認識において人間は、彼を取り囲む理念世界において、すべての人間に共通するものの中に入り込んで活動している点である。 しかしさらにもう一つ、自らの意志行為のためにこの理念世界から直観を借用するときには、認識の際に精神的・理念的経過の中で彼が人間普遍的に展開する活動とまったく同じ活動によって、この理念世界の一部分を個体化している点である。 論理矛盾に見えるのは、普遍的である認識理念と個的である道徳理念の対置である。 そして、その現実を精神的に観ることで、これは生きた概念になる。 人間の中で直観的に捉えられうるものとは、一方に普遍的に妥当する認識を置き、もう一方にこの普遍の個的な体験を置き、その両極間を振り子のように行き来する。 まさにこの点が人間的特性の特質なのである。 この振り子の一方の現実が見えないと、思考は単なる主観的な行為でしかなくなる。 もう一方を理解できないと、思考内の活動における個的な営みが失われてしまう。 前者の思索家にとっては認識が、後者にとっては道徳的営みが見通せなくなる。 両者とも思考の体験可能性をまったく把握していないか、あるいは思考を抽象化の活動であると誤認してしまっているので、自説を説明するためにあらゆる的外れな観念を持ち出す。

★1918年新版への補足その2

■10-13a:隠れた物質主義

10-03以降では物質主義について述べられている。 物質主義の自覚はまったくないものの、本書の観点からすると物質主義とせざるをえない思想家、たとえばテオドール・ツィーエンのような人物がいる。 「世界は単に物質的存在だけではない」と語っているので、彼は物質主義者ではないということにはならない。 そうではなく、物質的存在にしか適用できない概念を展開しているかどうかが問題なのである。 「私たちの行為は、思考と同様に必然に支配されている」という見解では、行為に対してだけでなく存在に対しても物質的な成り行きにのみ適用できる概念を用いている。そして、この概念で一貫して考えるなら、どうしても物質主義的に考えることになる。 そこまで考えきっていないのは、よくある最後まで考え尽くさないという中途半端さから来ている。

■10-13b:物質主義が精神界も包括したという誤解

……19世紀の物質主義は学問的に否定されているという話をよく聞く。 しかし、それはまったく真実ではない。 物質を理解するための理念しか持っていない点に現代が気づいていないだけである。 物質主義は、19世紀後半にはその姿を露わにしていたが、現在ではこのように偽装している。 世界を精神的に捉える観方に対し、19世紀後半の自ら公言した物質主義はそれを容認しなかったが、隠蔽された現代の物質主義も同じ立場を取る。 自然科学が《物質主義からはとうの昔に離れている》ので、精神的なものに向かう世界観など破棄してもかまわないと思い込む多くの人びとを、この隠れた物質主義は誤認へと陥らせている。

0 件のコメント:

コメントを投稿