2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第09章 自由の理念

第9章 自由の理念


■09-01:元来一体である知覚と概念が認識では再結合する


認識において、概念は知覚によって特定化される。たとえば概念《樹》は何らかの樹の知覚像によって特定化される。 特定の知覚と出会うと、私は普遍的概念体系からある特定の概念を引き出すことができる。 概念と知覚の関連は、知覚に際し思考によって間接的かつ客観的に特定化される。 知覚が対応する概念と結合することは知覚行為の後になってわかるが、両者が結びつきうることは事柄そのものによって決まっている。

■09-02:人間では知覚と概念がはじめから結びついてはいない


認識であっても、世界に対する人間の関係が現れてくる際のそれでは成り行きが異なる。 これまでの論述では、この成り行きに囚われのない観察を向けることによって、こうした関連が解明されうることを示そうと試みた。 この観察を正しく理解すれば次のような見解に達する。思考をそれ自体で完結した本質存在として直接に観うる、という見解である。 思考を説明するにあたって思考それ自身だけではなく何か別なもの、たとえば肉体的な脳での出来事、あるいは観察され意識化される思考の背後にある無意識な精神の出来事を想定する必要があると考える人は、囚われなく思考を観察した成果がわかっていない。 思考の観察において人は、自分で自分を支える精神的本質の織物の中に直接に生きている。 したがって次のように言える。 精神的なものの存在本性を、人間に与えられる最初のかたちで捉えようとするなら、それはそれ自身に基盤を持つ思考の内に見出しうると。

■09-03:直観では精神界の内容を体験する


通常は別々に現われることが必然であるものが、思考の観察そのものにおいては一体となって現われる。つまり、概念と知覚である。 この点を洞察しない人は、知覚との関連で得られた概念がその知覚の残像にしか見えず、諸知覚だけを真の実在と見なすだろう。 さらに彼は、知覚世界を手本に形而上的世界を構築する。それは原子世界、意志世界、無意識的精神世界など、彼の考え方に沿って名づけられる。 そして、彼の知覚世界を手本に形而上的世界を仮説的に作り上げたにすぎないことすら忘れてしまう。 しかし思考の真の姿を見通す人なら、次のことを認識する。まず、知覚には現実のひとつの部分しか現われない点である。 そして現実はもうひとつの部分が加わって初めて全体になるし、このもうひとつの部分は知覚を思考的に位置づける際に体験される点である。 彼は意識内で思考として現われるものを、現実を写した影絵的残像と見なすのではなく、自己に基盤を持つ精神的な実在と見なすだろう。 そしてその実在性が直観を介して意識内に現出する、とも語れるだろう。 直観とは、純粋な精神的内容の体験であり、純粋に精神的に遂行される意識的な体験である。 直観を通してのみ思考の本質存在を捉えることができる。

■09-04:身体的魂的機構は思考に影響を与えない


囚われのない観察において、思考という直観的な本質存在についての真実を獲得しきると、人間の身体的あるいは魂的機構を正当に観うる道が開ける。 これらの機構が思考の本質には何の影響も与えないことを認識するのである。 これらの機構と思考の本質が無関係であることは、明らかな事実関係と当面は矛盾するように思える。 つまり、通常の経験においては、思考とはこうした機構を介して、その機構に即して現われるという事実である。 この現われ方は非常に強烈で、思考の本質存在がこれらの機構とはまったく無関係に活動している点を見通した人でなくては、このことの真の意味は分からない。 しかし、一旦これを認識してしまえば、人間の機構と思考との特異な関係を見誤ることはない。 これらの機構は思考の本来の姿に対してはまったく影響せず、思考活動の出現とともに退くのである。 人間の機構はそれ自身の活動を止めさらに上の段階へ橋を架け、場を空け、その空いた場に思考が現われる。 思考内でのその本来の働きは二重である。
  1. 本来の思考は人間機構の固有の活動を抑え
  2. その空いた場に思考自体が入り込む
のである。 第一点の身体機構の抑圧は思考活動による帰結である。 詳しく言えば、思考の出現を準備する身体機構の活動が抑えられている。 これがわかると、思考がどのようにしてその痕跡を身体機構に残しているかがわかる。 これを洞察したなら、思考に対するこの痕跡の意味を見誤ることはない。 誰かが柔らかい地面を歩くと、その足跡が残る。 その足跡が地面の力によって下から作られたなどと言う人はいないだろう。 足跡の形成には、地面の諸力はまったく関与していないとするだろう。 同様に、思考の本質存在を囚われなく観察したなら、生体におけるこうした痕跡を生体に帰することはないだろう。これらの痕跡は、身体を通しての思考が出現するための、思考による準備において生じている。 {1918年版の注:心理学や生理学等々でも上述の見解が正当と認められることを目指し、著者は本書の後にも随所で論述を展開した。ここでは、囚われのない思考そのものから得られる成果を述べるにとどめた。}

■09-05:自我意識は身体的魂的機構を基盤とする


しかしここで重要な問いが浮かび上がる。 人間機構が思考の本質に無関係であるとき、人間全存在の中にあってこの機構はどのような意味を持つのだろうか。 思考によってこの機構内で起きる事柄は、確かに思考の本質存在と無関係である。しかし、この思考からの自我意識の発生には関係が深い。 思考の固有存在の中には確かに現実としての《自我》が存在するが、自我意識は存在しない。 思考を囚われなく観察すれば、この点を見通す。 《自我》は思考内に見つかる。そして《自我意識》は、基盤となる普遍的意識の中に思考活動が上述の意味で痕跡を残すことによって生じる。 (つまり自我意識は身体機構を介して生じる。 しかし、ここでの主張を取り違えないでいただきたい。 一旦生じた自我意識が身体機構に依存し続けるとは主張していない。 一旦生じた自我意識は思考内に取り込まれ、その後は思考の精神的存在性に関与する。)

■09-06:次には意志行為の発生について考える


《自我意識》は人体機構上につくられる。 また意志行為はこの人体機構から流れ出る。 上述の方向を延長していけば、思考、自我意識、意志行為の三者の関係を洞察できるだろう。 ただそれにはまず、意志行為が人体機構からどのように生じてくるかを観察しなくてはならない。 {1918年版の注:第2段落からこまでは1918年新版で加筆した。}

■09-07:意志における動機と意志駆動力系


個々の意志行為で問題になるのは、動機と意志駆動力系である。 動機とは、概念的、表象的要因で、意志駆動力系とは、人体機構からの制約を直接に受ける意志要因である。 概念的要因あるいは動機とは、その時々での意志を決定する根拠であり、意志駆動力系とは持続的に存在する個人の意思決定根拠である。 意志での動機になりうるのは、純粋な概念、そして特定の知覚と結びついた概念つまり表象である。 それが普遍的なものであれ個人的なもの(表象)であれ、概念が意志において動機となるのは、それが人間の個に働きかけ、個に行動に向けた特定の方向を取らせることによってである。 まったく同じ一つの概念あるいは表象が、対象となる人によって異なる作用を現わす。 同じ概念(表象)が、人が違えば違った行為へのきっかけになる。 したがって意志は、概念や表象の影響を受けるだけではなく、個々の人間の在り方からも影響を受ける。 そうした個々人の在り方を、……エドゥアルト・フォン・ハルトマンに倣って……性格的素地と呼びたい。 性格的素地への概念や表象の働きかけいかんによって、人間の生活には特定のモラル的あるいは道徳的刻印が与えられる。

■09-08:性格的素地はどのように決まるか


その量の多寡はあれ、生きていく中で主観に残る内容、つまり表象内容や感情内容が性格的素地を形成する。 今私の内に現われた表象によって意志が働くか否かは、私が持つ他の表象内容や感情的特性に対し、その表象がどのように振る舞うかに左右される。 この私の表象内容は私が持つすべての概念の総和によって決まるし、その概念総和は私のこれまでの人生において知覚を介して受け取ったもの、つまり表象となったものによって決められている。 これはさらに、優劣はあれ私の直観能力に左右され、また私の観察の環境にも左右される。つまり、経験における主観的要素、客観的要素、決定された内面の状態、そして生活の場である。 私の性格的素地を規定する上での特別な要素は、私の感情である。 ある特定の表象あるいは概念に対し、私が喜びを感じるか、あるいは痛みを感じるかによって、その表象を行為の動機とするか否かに大きく影響する。 ……これらが意志行為を問題にする際に考慮される諸要素である。 動機へとなっていく表象あるいは概念が今まさに直接ここにあり、それが私の意志の目標、目的を定める。 そして、私の性格的素地が私に方向を与え、この目標に向けた活動を起こさせるのである。 これから30分散歩しようという表象が、私の行為の目標を定める。 しかしこの表象が意志の動機となるには、ふさわしい性格的素地がそこにある必要がある。 つまり、私のこれまでの人生の中で、散歩は理に適っているとか、健康によいといった表象が形成されていて、さらには散歩の表象が快の感情と結びつく必要である。

■09-09:意志駆動力系と目標を区別する


こうして次の二つを区別する。
  1. 特定の表象や概念を動機にまで引きあげうる潜在的な主観的素地、
  2. 私の性格的素地に働きかけ、ある意志を生じさせうる潜在的な表象や概念、
これらの二つである。 前者は道徳における意志駆動力系、後者は道徳における目標である。

■09-10:意志駆動力系の検討


まず道徳における意志駆動力系は、個的営みを構成する要素を見ればわかる。

■09-11:感覚知覚を起点とする意志駆動力系


個的営みの第一段階は知覚であり、さらに言えば感覚知覚である。 個的営みのこの領域では、知覚が直接に意志に移行し、中間に何の感情も概念も差し挟まれない。 この場合の人間の意志駆動力系は、まさに衝動である。 純粋に動物的な低次の欲求(空腹、性的欲求等)はこうした道筋で満たされる。 衝動の営みの特徴は、個々の知覚がただちに意志に転化されるという直接性である。 この種の意思決定は本来は低次の感覚的営みに特有なものであるが、より高次の感覚における知覚にまで拡張されうる。 外界で何らかの出来事を知覚すると、何の考えも、何の特別な感情も抱かずにすぐさま行動に移すのである。 これは、日常的な振舞では普通に行われている。 こうした意志駆動力系は、タクトあるいは道徳的嗜好と呼ばれる。 知覚から行動への直接の転化が多ければ多いほど、該当の人物はタクトだけにしたがって行動できることがわかる。つまり、タクトがその人の性格的素地になっている。 {訳注:指揮棒がタクトであり、またメトロノームが刻むのもタクトである。それに沿って行動すると考えると理解しやすいと思われる。}

■09-12:感情を起点とする意志駆動力系


人間の営みにおける第二の領域は感情である。 外界の知覚には特定の感情が伴う。 この感情が意志駆動力系になりうる。 飢えた人を見ると、その同情心が私の意志駆動力系を形成しうる。 その種の感情としては羞恥心、誇り、名誉心、遠慮、後悔、同情、復讐、感謝、敬虔、忠誠、愛情、義務感などといったものがある。 {著者注:(形而上的実在論の立場から)道徳原理の完全なまとめは、エドゥアルト・フォン・ハルトマンの『道徳意識の現象学』を参照。}

■09-13:表象を起点とする意志駆動力系


営みの第三段階がようやく思考と表象である。 少し考えるだけでも、表象や概念が行動の動機になりうる。 表象が動機になるのは次のような場合である。 人生を送る中で何らかの知覚が多少なりとも現われ方を変えながら繰り返し現われ、その知覚を特定の意志目標に結びつける場合である。 まったく無経験ではない人の場合、特定の知覚に伴って絶えず行為の表象が意識に上るが、その表象とは、似たような状況でかつて行った、あるいは行われるのを見たものである。 こうした表象が後の意志決定において決定的な手本として目の前にちらつき、この表象が性格的素地の一部分になる。 ここで述べた意志駆動力系を実践的経験と呼べる。 実践的経験は、次第にタクト優勢な行為に移行していく。 つまり私たちの意識内で、特定の典型的な行為イメージが何らかの生活状況についての表象と固く結びつき、事が起きると、経験に裏打ちされた熟考などすべて飛び越し、知覚からの直接的意志行為に移行してしまう場合である。

■09-14:概念的思考を起点とする意志駆動力系


個の営みにおける最高の段階は、特定の知覚とは結びつかない概念的思考である。 私たちは、ある概念の内容を純粋な直観を介して理念界から決定する。 そうした概念は、最初の段階では特定の知覚との関係は一切ない。 ある知覚を指し示す概念の影響を受けながら、つまり表象の影響を受けながら私たちが意志に入り込む場合、この知覚が、概念的思考という廻り道を取って私たちに作用している。 それに対し、純粋直観の影響下で私たちが行為する場合には、純粋思考が行動の意志駆動力系になっている。 この純粋思考の能力は哲学では普通、理性と呼ばれるので、この段階でのモラル的意志駆動力系を実践理性と呼ぶのも正当だろう。 この意志駆動力系を最も明確に述べているのは、クライエンビュール(「カントの倫理的自由」月刊哲学誌、第18巻3号)である。 これについて書かれた彼の論文は、現代哲学、特に倫理学の最も有意義なものであると私は思っている。 ここで述べている意志駆動力系をクライエンビュールは実践的アプリオリ、つまり直観によって私に直接に流れ込む動因から行動することと呼んでいる。 {訳注:「アプリオリ」は哲学用語では「先験性」と訳されるが、この文脈では「感覚知覚的な経験を伴わない」という意味である。}

■09-15:概念的思考は厳密には個的な性格的素地ではない


当然のことながら、こうした動因は厳密な意味での性格的素地には含まれない。 ここで意志駆動力系として作用しているのは、もはや単なる個的なものではなく、理念的なものであり、さらには私の直観を介した普遍的な内容だからである。 この内容が正当性を行動の基盤や出発点と見なすと、私はただちに意志を実行する。 その際、その概念が私の内に以前からあったのか、あるいは行動の直前に私の意識に現れたかという時間的なことは問わない。 その概念が私の内に素地として以前から存在したか否かは問題にならないのである。

■09-16:動機についての検討


実際の意志行為の発動を見てみよう。ある瞬間に行為への動因が性格的素地に働きかけると意志行為が発動される。またその動因は概念あるいは表象のかたちをとる。 そうした動因を意志の動機としよう。

■09-17:感情は動機たりえない


道徳における動機は表象と概念である。 倫理学者の中には、感情も道徳の動機と見なそうとする者もいる。 たとえば、「道徳的行為の目標は、行為者である個人において快の感情を最大にまで促すことである」、と主張する。 しかし、感情である快自体は動機になりえず、動機になりうるのは快感情の表象だけである。 感情そのものではなく、やがて生じるであろう感情の表象が私の性格的素地に働きかける。 なぜなら感情自体は行為の瞬間はまだ存在せず、行為によって生み出されるはずだからである。

■09-18:エゴイズムが動機の場合


自分あるいは他人の満足感の表象は、意志の動機と見て問題はない。 行為によって自らの喜びを最大限にしようとする原則、つまり個としての幸福を得ようとする原理は、エゴイズムである。 個としての幸福を得ようとするに当たっては二通りのやり方がある。 一つは、周囲を顧みることなく自分自身の満足感だけを求め、他者の幸せを犠牲にしてでもその満足感を獲得しようとするやり方である(純粋なエゴイズム)。 もう一つは、他者の満足を促すものの、その満足を得た他人から自分に対し好ましい影響を間接的に得るためであったり、自分の利益が損なわれるのを避けるために他者の損害を防ごうとする場合である(打算的道徳)。 エゴイズム的道徳原則が個々の場合にどのような特化した内容を持つかは、自分や他人の幸福をどう表象しているかに左右される。 人生において財産と見なすもの(豊かな生活、幸福への希望、さまざまな不遇からの救済など)が何であるかによって、その人の利己的努力の内容が決められる。

■09-19:外的規律が動機の場合


動機の次の段階は、ある行為の内容が純粋に概念的である場合である。 自分にとっての快の表象が行為の内容である場合は、その内容は個々の行為にだけ関係したが、ここでの内容は、道徳的原則の体系から行為される場合の基礎づけに関係している。 この道徳原則は抽象概念のかたちをとり、道徳的営みをコントロールすることができるが、その際に個々人がいちいち当該の概念の由来を気にかけることはない。 この道徳的概念は、道徳的必然として、規律として私たちの行為を上空から見張り、私たちはこの道徳概念に対し服従しているように感じる。 この道徳的必然の根拠づけを私たちは、私たちに道徳的服従を迫る者に譲り渡している。つまり、(家長、国家、社会道徳、教会権威、神の啓示といった)認知された道徳的権威である。 この道徳原則の特殊形として、その掟が外的権威から告げられるのではなく、私たち自身の内から来るものがある(道徳的自律)。 従うべき声を私たちは自分自身の内から聞き取る。 この声は良心と呼ばれる。

■09-20:道徳行為の根拠を洞察する場合


外的あるいは内的な権威による規律を簡単に行為の動機にしてしまうのではなく、何らかの行為規準が動機として作用する際に、その根拠を洞察しようとするなら、これは道徳的な意味での進歩である。 権威によるモラルから、次の段階の道徳的認識を基にした行為への進歩である。 この道徳的段階では、道徳的営みに何が求められるかを探究し、その認識から諸行為を決めるだろう。 その求められるものとは、次の三つである。
  1. 人類全体の最大限の満足、それだけを求めること。
  2. 人類の道徳的進歩あるいは文化的発展を常により完全なものにしようとすること。
  3. 個々人が完全に直観的に把握した道徳目標が実現されること。

■09-21:人類全体の最大限の満足について


人類全体の最大限の満足を何とするかは、人それぞれで違って受け止められる。 上述した規準では、この満足が特定の表象に結びつくことはない。この原則を認める人がそれぞれ自分の見解による人類全体の満足を目指して行為するという意味での努力目標である。

■09-22:人類の文化的、道徳的発展について


快の感情をもたらすものを文化的財産とする人では、文化的進歩とは上述の道徳原則のひとつの特殊形になる。 そうした人はただ人類の満足に寄与するに当たって、多くの物の衰退や破壊を甘受せざるをえないだろう。 しかし誰かが、文化的進歩から快の感情を排除し、ある道徳的必然を見つけ出すこともありうる。 するとこれは、先述のものに加え道徳原則のもう一つの特殊形になる。

■09-23:純粋直観が動機になる場合


全体の満足にしろ文化的進歩にしろ、その原則は表象に基づいている。つまり、道徳的理念の内容に特定の経験(知覚)を当てるという関係に基づいている。 しかし考えうる最高次の道徳原則とは、そうした関連をはじめから内包してはいない。そうではなく、純粋直観を源泉とし、後に知覚(生活)との関連を探していくのである。 何を意志するかという規定は、前述の場合とは違った起源を持つ。 人類全体の満足という道徳原則に従う人は、それぞれの行為の前に、この人類全体の満足に対し彼の理想がどのように寄与するかを問うだろう。 文化的進歩を信奉する人も同様である。 しかし個々の場合で、ある特定の個別な道徳目標から出発するのではない、より高次のものがある。 あらゆる道徳規準をそれぞれ価値評価し、直面した状況でより重要なモラル規準がどれかを問うのである。 誰かが、ある状況では文化の進歩を、別な状況では全体の満足を、第三の状況では自分の満足を正当なものと認め、それを行為の動機にすることがありうる。 しかし、他のあらゆる決定規準が一段下に置かれるなら、概念的直観が最上位に置かれる。 こうして他の動機は主導的地位を譲り、行為における理念内容だけが動機としての働きを持つ。

■09-24:意志駆動力系と動機が一体化する次元


性格的素地では純粋思考、あるいは実践理性として作用するものを最高次とみなした。 また動機では今、概念的直観を最高次とした。 より厳密に考えると、道徳のこの段階においては、意志駆動力系と動機が完全に重なる。 つまり、事前に決まっている性格的素地も、規範として受け入れられた外的な道徳原則も私たちの行為には影響しない。 行為は、人間が何らかの規則に沿って遂行するものでも、外的なきっかけによって自動機械的に行うものでもなく、人間が理念的に受け止めたものによって行われる。

■09-25:道徳的直観能力が前提条件


そう行為しうる前提条件は、道徳的直観の能力である。 個々の状況でその場面に特化した道徳原則を体験できない人は、真の意味で個としての意志を実現することはない。

■09-26:個を貶めるカントの道徳観


この道徳原則とまさに正反対なのが、「行為に対するあなたの根本命題がすべての人間に妥当であるように行為せよ」というカントの立場である。 この命題は、行為の個的動因すべてを抹殺する。 すべての人がやるであろうという点ではなく、個人的状況で私が何をすべきかが、私にとっての行為の規準となりうる。

■09-27:行為は個的であると同時に理念的でありうるか


ここでの論旨を表面的に判断すると、「行為が、個々特殊の状況において個的であると同時に、直観から純粋に理念的に決定されることなどありうるのか」という反論が生じうる。 この反論では、道徳的動機と行為の知覚可能な内容とを混同している。 行為の知覚可能な内容は動機になりうるし、たとえば文化的進歩や利己的な行為では実際にそうなっている。 しかし純粋な道徳的直観に基づく行為では、行為の知覚可能な内容が動機になることはない。 私の自我はもちろんこの知覚内容に眼を向けるにしろ、それに決定させることはない。 この知覚内容はある認識概念を作るためには用いられる。しかしそれに関連する道徳概念を自我が対象物から得ることはない。 私が直面するある特定の状況における認識概念と道徳概念が重なり合うのは、私がある特定の道徳原則に立脚するときだけである。 私が一般的な文化的進歩という道徳的立場だけを取ろうとするなら、私は決まった行進ルートで世界を歩むことになるだろう。 私が知覚し、かかわりうるあらゆる出来事からただちに道徳的な義務が生じる。 つまり、該当の出来事を文化的進歩に役立つよう微力でも寄与する義務である。 事物や出来事には、それらの自然法則的関連を開示してくれる概念の他に道徳的ラベルが付いていて、そこにはモラル的存在である私がどう振る舞うべきかの指示が書かれている。 この道徳的なラベルはその範囲では正しい。そして一段高次の立場では、具体的な事例において私に現われ出る理念と一致する。

■09-28:道徳の最高段階としての倫理的個体主義


人間の直観能力はそれぞれ違っている。 理念が溢れ出る人もいれば、苦労して手に入れる人もいる。 生きる状況、行為の舞台となる状況も違っている。 ある人の行為は、特定の状況に直面した際の彼の直観能力に左右される。 私たちの内において実効を持つ理念の総和、私たちの直観のリアルな内容、それを決めているのは、完全に普遍的である理念界に存在し個々人において個化されたものである。 この直観による内容が行為へ移されるなら、それが個人の道徳的内実になる。 この内実を完全に生かしきることは道徳的意志駆動力系の最高段階であり、他のあらゆる道徳原則が最終的にはこの内実に収束することを洞察した人にとっては、同時に動機の最高段階でもある。 この観点を倫理的個体主義と呼べるだろう。

■09-29:普遍的道徳概念は個の行為から生じる


具体的状況で直観的に決定される行為においては、相応の直観を完全に個的に見つけ出すことでその方向が定まる。 道徳のこの段階において普遍的な道徳概念(規範、法則)が関係するのは、個的な原動力が一般化されることでそれが生じる場合だけである。 普遍的な規範は、前提となる具体的な事実が存在しないと成立しない。 そして、その事実が作り出されるには、まず人間が行為しなくてはならない。

■09-30:最高段階は行為への愛からの行為


法則(個人、民族、時代における行為の中にある概念的なもの)を探求すると一つの倫理学を得る。しかしそれは道徳規範からなる学問としてではなく、道徳についての経験則として得られる。 ここで得られた諸法則と人間の行為との関係は、普遍としての自然法則と特殊としての個々の自然現象との関係に相当する。 しかしこうした諸法則は私たちの行為の根底にある原動力とは決して同一ではない。 人間の道徳意志から行為が現れ出る際に何がその仲介しているのかを捉えたいので、まずこの道徳的意志と行為との関係を見なくてはならない。 まずはじめに行為を見る必要がある。その行為おいてはこうした関係が決定的な意味を持つ。 私でも誰でも、後にそうした行為を省察すれば、そこで関係した道徳原則を解明しうる。 行為の最中には、道徳原則が直観として私の内で脈打つかぎり、その道徳原則が私を動かしている。 道徳原則は対象に対すると結びついているし、その対象を私は私の行為によって実現しようとしている。 「この行為を遂行すべきか」、私は他人にも法則にもそう問いかけることはない。 ……そうではなく、行為の理念を把握したなら、私は即座にそれを実行する。 そうすることによってのみ、それは私の行為なのである。 特定の道徳規範を正当と認めるがゆえに行為する人の行為は、道徳法典に記された原則の産物である。 彼は執行人にすぎない。 彼は高次の自動機械である。 行為へのきっかけが意識内に放り込まれると即座に道徳原則という歯車が起動し、法則的な成り行きが進行する。 キリスト的、人道的、没我的、あるいは文化的進歩に貢献するために。 私の内にある対象への愛に従うときにのみ、私は行為者自身なのである。 道徳のこの段階において私は、自分の上に立つ主人、外的権威、いわゆる内側の声といったものを認めるがゆえに行為するのではない。 私は自身の内に行為の根拠、つまり行為への愛を見出し、行為における外的原則を認めない。 私は行為の善悪を悟性的に検討したりもしない。それを愛するから遂行する。 愛の中に入り込んできた私の直観が、直観的に体験されうる宇宙的関連の中に正しく位置づけられるとき、その行為は《善》になり、そうでない場合は《悪》になる。 「他の人だったら私が置かれたこの場合にどう行為するか」とも自問しない。 ……そうではなく、特別な個である私が、どのように私自身を意志へと導いたかを見るがゆえに行為する。 一般的な慣習、一般的な道徳、人間一般の原則、ある道徳的規範、そうしたものが私を直接に導くのではない。そうではなく、行為への私の愛が導くのである。 衝動において私を導く自然的な強制、道徳的掟による強制、そうした強制を感じることなく、私は私自身の内にあるものの実現だけを目指す。

■09-31:善悪の区別がなくなるという反論


一般的な道徳規範を擁護する人は、これまで述べてきたことに対し次のように言うだろう。 「誰もが自分の好き勝手をやり通そうとしたら、善き行いと犯罪の区別もなくなる。 私の内にある悪事も、万人にとっての最善を尽くそうという意図も同じ重みを持つだろう。 道徳的人間としての私にとっては、行為が理念に沿って捉えられたかという状況よりも、それが善かかの吟味の方が重要である。 それが善である場合にのみ、私はそれを行なう」。

■09-32:悪の源泉は理念ではありえない


ありがちな、そしてここで述べられたことの誤解から生じたこの反論に対して私は次のように答える。 「人間意志の本質を認識しようとするなら、この意志をある一定段階にまで育て導いてくれる道と、意志がその目標に近づくことでその意志が身につける固有の性質とを区別しなくてはならない」。 目標への途上では、規範は正しい役割を果たす。 その目標とは、純粋に直観的に把握された道徳目標の実現である。 人がどこまでその目標を達成したかは、直観的理念内容の世界に向かって自らを高める能力をどれだけ持ったかにかかっている。 個々の意志においては、多くの場合、そうした目標に向けた意志駆動力系や動機以外の何かが混ざり込んでいる。 しかしそれでも直観は、人間の意志における主たる、ときには従たる規定要因でありうる。 人は為すべきことを行為する。人はべきが行為となる舞台を提供する。 自らから生じさせたそうしたものは、自らの行為である。 そこでの原動力はまったく個的でしかありえない。 真実として、直観から発する意志行為だけが個的なのである。 悪行や犯罪行為が、純粋な直観の実現と同じ意味で個の発動であると言えるのは、闇雲な衝動が人間的個に属するとする場合だけである。 しかし、犯罪へと駆り立てる闇雲な衝動は直観に由来するものでもなく、人間的個に属するものでもない。 そうではなく、人間誰もが持つ最も普遍的な部分に属するし、さらに人は、自らの個による働きでそこから身をもたげようと自らに働きかけている。 私の内なる個とは、衝動や感情を伴った私の生体ではなく、この生体内で輝き出た唯一の理念世界なのである。 衝動、本能、欲望に立脚するとき、私は類としての人間でしかない。 衝動、欲望、感情の中にあって、それとは異質な理念を発動できることにこそ、私の個は立脚している。 本能や衝動において私は1ダースの中のひとつにすぎない。 私の内で特殊となった理念、1ダースの中にあって私を私とするもの、それによって私は個なのである。 私が持つ動物的特性によって私は私とは異質な生物から区別されうる。 思考によって、つまり理念として私の生体内で活動するものを活動しつつ捉えることによって、私は私自身を他者から区別する。 したがって、犯罪者の行為が理念から生じているなどとは決して言えない。 人間が持つ非理念的な要素から導き出される点が、まさに犯罪行為の特徴なのである。

■09-33:理念から行為する個が自由を感じる


行為の根拠が私の個的存在の理念的な部分に由来するとき、それは自由な行為と感じられる。 自然法則的な強制からの行為、倫理的規範からの要求による行為といったそれ以外の行為は不自由と感じられる。

■09-34:自由な行為と倫理的な自由理念


いかなる瞬間も自分自身に従える状況にあるときにのみ、人は自由である。 ある道徳的行為が私の行為であるのは、上述の意味で自由と言えるときだけである。 ここではまず、どのような条件なら意志された行為が自由な行為と感じ取られるかを取り上げた。 そこで次に、純粋に倫理学的に捉えられた自由の理念が人間構成体の中でどのように実現されるかを示す。

■09-35:自由からの行為は道徳的である


自由からの行為が道徳律を排除することはなく、むしろそれを受け入れる。 さらに、そうした行為は、道徳律から直接に生れる行為よりも高次である。 人類全体の満足を義務と感じることだけによって行う行為と、愛からの行為とを、全体の満足という意味で比べても、後者の方が劣っているとする根拠はない。 単なる義務の概念には自由の場はない。それは義務概念では個を認めようとはせず、それをある一般的な規範に貶めるからである。 行為の自由は、倫理的個体主義の立場からのみ考えうる。

■09-36:自由な人間による共同体


しかし、一人ひとりが自分の個を実現しようとする場合、どうしたら共同生活が可能だろうか。 こうした反論は、道徳主義の誤った理解に基づいている。 この反論では、全員に共通する固定的な道徳秩序に賛同しているときにのみ、人間の共同体が成り立つと思っている。 こうした道徳主義は、理念界が一体であることがわかっていない。 私の内で働く理念界が、隣人の内に働く理念界と同じであることを捉えていないのである。 ところで、この理念界の一体性は、世界を体験することによるひとつの成果に過ぎない。 その一体性だけは、そうでなくてはならないのである。 その一体性が観察によって認識されるのでなかったら、そこに成り立つのは個的な体験ではなく、普遍的な規範だからである。 個が成り立つのは、それぞれの個的存在が、個としての観察を介して他者を知るときだけである。 私と隣人との相違は、生きる精神界がまったく違うからではなく、理念界は共通でも、そこから受け取る直観が相互に違うことによる。 彼は彼の直観を生かしきろうとし、私は私自身のそれを生かしきろうとする。 二人が共に真の理念から創造し、(物質的にせよ精神的にせよ)外的な原動力に従うのでないなら、その共通の努力の中で、そして同じ意図の中で出会いうるだろう。 道徳的で自由な人間同士では、道徳的な誤解や言い争いはありえない。 自然的衝動や義務の戒律を鵜呑みにしてそれに従う道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ戒律に従おうとしない隣人を排除する。 行為への愛において生きること、そして他者の意志を理解しつつ他者がそこに生きるのを認めること、これが自由な人間の基本命題である。 自由な人間における《すべき》は、直観においてその人の《やりたい》と調和する《すべき》だけである。 自由人が認める《あるべき態度》とは、直観を通して意志と結びいた《あるべき態度》しかありえない。 個々特殊な場合においてその《すべき》がどのように《やりたい》になるかは、その人の理念獲得能力が教えてくれる。

■09-37:最高次の共存のあり方


人間本性内に許容性の基盤となるものが存在しないなら、それを外的な法律で植えつけることもできないだろう。 それぞれの人間の個が、一つの精神からの所産であるからこそ、人間は共存しつつ自己を発揮できる。 自由人は、他の自由人が自分と同じ一つの精神世界に属しており、彼の意図においてその人と出会うであろうことを信頼しつつ生きている。 自由人は隣人に同意を求めはしないが、それを期待はしている。人間の本性の内にその同意があるからである。 これは、何らかの外的状況でそれが必ず成り立つことを意味するものではない。 そうではなく、意味づけ魂のあり方を意味している。 自らが認めた隣人と共に居て、人間が自己自身の体験において人間の尊厳を最高度に発揮できる意味づけや魂のあり方をである。

■09-38:自由な人間はどこに存在しうるか


次のような見解の人も多いだろう。 「あなたが言う自由人などは幻想にすぎず、実際にはどこにも存在しない。 私たちは現実の人間を問題にしているし、そうした人間では、道徳的規則を聴き取り、道徳的役割を義務として受け取り、自らの性格や愛に無制限に従うのではない場合にのみ、道徳性を望みうる」。 ……私はこれに何の疑問も差し挟まない。 それをするのは無知蒙昧な人だけだろう。 しかし、これが究極の見解であるとするなら、これ以上の道徳的偽善はないだろう。 そうして簡単にこう言う。 「自由でないうちは、人間は性根から行為を強制される必要がある」。 不自由の原因が物理的な手段なのか、あるいは道徳律によるか、また不自由である理由が、際限ない性的衝動に従属しているからか、あるいは因襲的道徳に縛られているからか、そうしたことはここでの視点からすればまったくどちらでもよい。 しかしそうした人が外的な圧力によって駆り立てられた行為を自分のものと言うのが正しい、などという主張はありえない。 慣習のしがらみ、法的強制、宗教的修行などの中に自身が居ることを自覚している人びと、つまり自由な精神の持ち主はそうした強制的秩序の中にあって、自らをそこから引き上げる。 自分に従うなら人間は自由であり、自分を従わせるなら不自由である。 自分の行為すべてにおいて本当に自由である、などと誰が言えるだろうか。 しかし、あるより深い構成要素が誰の内にも宿っていて、そこにおいて自由な人間が語り出るのである。

■09-39:人間概念は自由な精神に達して得られる


私たちの生活は自由な行為と不自由な行為から成る。 しかし、人間本性が最も純粋に現われる自由な精神にまで達しなければ、人間概念を究極まで考え切ることはできない。 自由においてのみ、私たちは本来の意味での人間なのである。

■09-40:自由な精神という概念は人間的成長によって生じる


多くの人は、これは理想だと言うだろう。 確かにその通りである。しかしその理想は理想そのものとして私たちの構成要素内にあり、また現実の要素として表面にまで現われて活動している。 これは考え出されたものでも、夢想されたものでもなく、生きた理想であり、非常に不完全な表現形式であったとしてもその存在は明確に示されている。 人間が単に自然存在であったなら、理想の探究、つまり現時点では不活性でありながらその実現が求められる理念を探求することなど意味をなさない。 外界の事物においては、理念は知覚によって規定される。理念と知覚の関連を認識すれば、私たちは役割を果たしたことになる。 人間の場合はそうではない。 人間の存在総体は人間自身を抜きには規定されない。 道徳的人間(自由な精神)としての人間の真の概念は、《人間》という知覚像とはじめから客観的に一体になってはいない。 もしはじめから一体であれば、外界の事物と同様、後に認識によって人間概念を確定することができる。 人間は、自己活動によって人間概念と人間の知覚像を結びつけなければならない。 ここにおいて概念と知覚を重なり合うのは、人間自身が両者を重ね合わせたときだけである。 しかしこれを為しうるのは、自由な精神という概念、つまり人間の本来の概念を見出したときだけである。 客観世界では、私たちの機構のあり方のために知覚と概念との間に境界線が引かれている。 そして認識がこの境界を克服する。 主観的本性の中でもこの境界は同様に存在している。 人は、成長に伴ってその境界を克服するが、それは人間という概念を現象にまで作り上げることで成し遂げられる。 こうして私たちは、知的活動においても道徳的活動においても、知覚(直接体験)と思考という二重性に引き込まれる。 知的活動においては認識によって、道徳的活動においては自由な精神の具現化によってこの二重性を克服する。 いかなる存在にも生まれ持った概念(存在や作用の法則)がある。 外界の事物におけるこの概念は、知覚と不可分に結びついている。 私たちの精神組織内でのみ、これは知覚から切り離されている。 人間において、概念と知覚は、はじめは事実として分離しているし、それは後に人間によって事実として結びつけられるためなのである。 以下の反論がありうる。 「人間という私たちの知覚は、その人生のいかなる瞬間にもある特定の概念が対応しているし、それは他の事物とまったく同じである。 私は鋳型人間という概念を作りうるし、そこに知覚像を与えることもできる。 さらにそこに自由な精神という概念を与えてしまうと、同一の対象に二つの概念を当てることになってしまう」。

■09-41:変化する人間と自由な精神の作用


この考えは偏っている。 知覚対象としての私は絶えざる変化の中にある。 子どものとき、若者のとき、そして大人としての私は違った姿をしている。 いかなる瞬間も、私という知覚像は以前のものとは違う。 この変化の理由として考えうるものは次の2つである。 その変化において常に同じもの(鋳型人間)が自己表明しているのか、それともその変化は自由な精神の表現なのかである。 私の行為という知覚対象はこうした変化の配下にある。

■09-42:自然存在から社会存在、人間自身への発展


植物の芽には完成された植物にまでなる可能性があるが、それと同様に知覚対象としての人間にも形を変える可能性がある。 植物は、自らの内に存する客観的法則性に従って変化する。 人間は、自力で自分の中に変容素材を取り込み、自らの力で変形しなければ、不完全な状態に留まる。 自然は、人間を単なる自然存在にする。 社会は、人間を規則にしたがって行動する存在にする。 そして自分という素材から自分で自分を作り上げるときにのみ、人間は自由な存在になる。 人間がある成長段階に達すると、自然は人間をその束縛から解放する。 社会は、この成長をさらに特定の段階にまで導く。 最後の仕上げは、人間自身だけがこれを行うことができる。

■09-43:自由な精神は規範を乗り越える


自由な道徳性という観点では、自由な精神だけが人間存在の在り方であるとは主張しない。 自由な精神を人間の究極の進化段階とみなす。 これは、ある成長段階においては規範に従った行為が正当であるという点を否定していない。 しかしこれを絶対的な道徳性の立場として認めているわけではない。 自由な精神は、掟を動機として感じ取り、さらには自分の内からの衝動(直観)に沿って行為することで、規範を乗り越えるのである。

■09-44:カントは義務を賛美し、ここでは自由な精神を賛美する


「義務!崇高で偉大な名よ! 媚びへつらうことでお気に入りになろうとするものを内に入れず、むしろそれらに服従を求める者」、 そして「法を打ち立て、たとえその法に密かに好き嫌いが入り込もうとしても、その好き嫌いを沈黙させる者」、とカントは言う。 これに対し自由な精神を意識に持つ人間はこう反論する。 「自由!人にふさわしき名よ! 私の人間なるものを最も尊重し、道徳なるもののお気に入りをすべて内包し、私を何者の従者ともしない者、そして単に法を打ち立てるのではなく、私の道徳的愛自体が法として認識されるのを待つ。なぜなら愛は、あらゆる強制的な法の前では不自由を感じるからである」。

■09-45:法則的道徳と自由な道徳の対比


これが単なる法則的道徳と自由な道徳の対比である。

■09-46:あらゆる法は自由な精神の所産


外的に固定されたものを道徳の具現と見ようとする凡庸な人は、自由な精神の持ち主を危険視するだろう。 しかし彼がそうするのは、特定の時代状況に視野が狭められているからである。 それを越えて見ることができたならば、自由な精神の持ち主も凡庸な人と同様に、国法を踏み外すことも、法と自分との間に矛盾をきたすこともまったくないことに気づくはずである。 なぜなら、あらゆる国法も、他のあらゆる客観的な道徳律と同様に、自由な精神による直観から生じたからである。 ある家の祖先がかつて直観的に把握し、定めたものでなかったら、いかなる家訓も家長がそれを拠り所にすることはない。 道徳の習慣的な法則もまた、まず特定の人びとが定めた。 さらに国法もまずは政治家の頭の中で生じた。 これらの人びとの精神が人の上に立つ法を定めたのであって、その起源を忘れると人は不自由になる。 そしてその法を人間から離れた戒律、人間とは無関係な客観的な道徳的義務概念、あるいは神秘的な強制と誤って受け取り、それを内なる声にしてしまう。 しかしその起源を見逃さずそれを人間の内に探す人は、理念界からの一分枝を考慮に入れていることになるだろう。そして彼もその同じ理念界を自分で道徳的直観の源泉にしているのである。 よりよい法を得たと思うなら、それが成り立つ場にそれを持って行こうとする。 されにそれが正当であるとわかったら、彼はその法を自分自身のものであるかのように、それに従って行為する。

■09-47:道徳的秩序は自由な精神の目的ではない


人間外に成り立つ道徳的世界秩序を実現するために人間は存在すると定式化してはいけない。 こう主張すると、「牡牛は突くことができるために角を持つ」とする自然科学と同じ立ち位置で人間の学を語っていることになる。 幸いにも自然科学者はこうした目的論を捨てた。 しかし倫理学はそこからなかなか脱け出せない。 角が突くために存在するのではなく、角によって突くのであるように、人間は道徳のために存在するのではなく、人間によって道徳が存在する。 自由な人間は道徳的に行為するが、その理由は道徳理念を持つからであり、道徳を発生させるためではない。 人間本性に属するものである道徳的理念を担った個としての人間、それが道徳的世界秩序の前提である。

■09-48:個と社会の相互作用


個としての人間こそあらゆる道徳の源泉であり、地上生活の中心点である。 国家や社会が成り立つのは、個の営みの必然的結果としてである。 国家や社会は個の営みに作用を返す。これは次の事情を考えれば理解できる。 突くことは角によって可能であり、長く使われなければ退化する雄牛の角が突くことで発達するという事情である。 同様に人間の個も、もしそれが人間共同体からはみ出し分離存在になれば、衰えざるをえない。 それゆえ、好ましい仕方で個としての人間に作用を返すために、社会秩序が形成されるのである。 {補足としての訳注:道徳は人間によって可能であり、人間は道徳によって発達する場合もある。}

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