2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第08章、人間的営みの諸要因

■08-01: 

前章までの成果を確認しておこう。 世界は、多様なるもの、つまり個別存在の総和として人間の前に現われる。 人間自身もこの個別存在の一つ、存在の中の一存在である。 世界のこうした姿は与えられたものである。つまり、私たちが意識的な活動で作り上げたものではなく、すでにそこにあって知覚されるからである。 この知覚世界の中で、私たちは私たち自身を知覚する。 この自己知覚は他の無数の知覚と区別される。その理由は、この自己知覚の中心から何かが現われるからである。 そしてこの何かとは、自己知覚を含めたすべての知覚を一括して私たちの自己に結びつける役割を担っている。 ここに現れ出る何かとは、単なる知覚ではない。 また、他の知覚はすでに出来上がったものとしてそこに見られたが、この何かはそうではない。 これは活動によって作り出される。 これは、とりあえずは私たちの知覚としての自己と結びついている。 しかし内的な意味で見れば、それは知覚としての自己を越えている。 それは個々の知覚を理念的規定で裏打ちする。またその理念的な個々の規定は、相互に関連し合いながら、一つの全体をなしている。 知覚が理念的に規定されるのと同様に、自己知覚も理念的に規定される。 つまり、主観あるいは《自我》として客観(客体)に対置する。 この何かとは思考である。そして、理念的規定とは概念と理念である。 思考はまず初めに自己知覚において現われる。しかしそれは単なる主観的なものではない。 なぜなら、自己が自分を主観と見なすことができるためには、事前に存在する思考の助けがなければならないからである。 自分自身に対するこの思考的関連とは、人格という存在規定である(注)。 この人格という存在規定によって、私たちは純理念的な存在へとつながる。 人格という生存規定を介して、私たちは自分を思考存在と感じる。 私たちの自己に対する規定がこの人格という存在規定だけだったら、それは純粋に概念的(論理的)なものにとどまったはずである。 そうだとしたら私たちは知覚相互の理念的関連や知覚と私たち自身の理念的関連を作り出すものの、それしか作り出せない存在だったはずである。

(注:内容)訳注:人格(パーソナリティ)の意味。鏡を見たら自分の姿がまったく別人になっていたとしよう。すると「これは私じゃない」と叫ぶかもしれない。このことから、叫んでいる《私》と、変身前の姿であっても知覚像としての自己は別であることがわかる。さらにこの《私》は知覚されえない存在であり、思考的直観によって捉えられることがわかる。この《私》に当たるものを《人格》としている。}

■08-02: 

そうした思考的関係の確立を認識と呼び、さらに認識に到った自己状態を知と呼ぶ。 したがって上述の状態を前提とすると、私たちは単なる認識する存在、あるいは知る存在にすぎない。

■08-03: 

しかし、この前提は当てはまらない。 知覚を自身に関連づけるやり方は、概念を介する理念的なものだけではなく、感情によるものもある。 つまり私たちは概念的な営みを行っているだけではない。 素朴実在論者はそれどころか感情の営みの方が純理念的な営みよりも現実的と見なしている。 素朴実在論者のやり方で事柄を整理すれば、彼らにとってこれはまったく正当である。 感情と知覚は、感情が主観の側から、知覚は客観の側から来るにしろ、まったく同じものである。 「知覚されうるものはすべて現実的である」という素朴実在論の根本命題にしたがえば、感情は自己人格という現実に属する。 しかし私たちが展開する一元論では、感情に対しても、知覚に対してもそれらを現実として完全なものにするためには、ある補完が必要であった。 感情もそれが出現した最初の形式では概念や理念といった第二要因は含まず、私たちの一元論では現実として不完全である。 それゆえ人間の営みにおいては、知覚と同様に感情も認識の前に置かれる。 私たちが自己を感情において捉えるのは、まず存在の終末端においてである。 そして、発達と共に徐々にある地点に到達する。 おぼろげに捉えられた感情としての自己存在から、概念としての自己が現れ出る地点である。 私たちにとって後になって現れてくるものが、感情と根源的に分ち難く結びついている。 こうした状況から、素朴な人は次のような考えに陥る。 「自分の存在が現れるのは、感情においては直接であり、知においては間接的である」と。 それゆえ彼には、感情の育成が何にもまして重要と思える。 また彼が世界の関連を捉えたと思うのは、それを感情で受け取ったときだろう。 認識の手段を、知にではなく感情に求める。 感情とは完全に個的なもので、知覚と似たようにやって来る。 それゆえ感情哲学者は、本来、人格内でのみ意味を持ちうる個的原則を、世界原則にまで拡張する。 彼自身の自己を伴って、あらゆる世界に入り尽くそうとする。 私たち一元論者は事柄を概念で把握しようと努めるが、感情哲学者はそれを感情で得ようとし、この対象との一体化を直接的なものと見なしている。

■08-04: 

今述べた考え方、つまり感情哲学はしばしば神秘主義と呼ばれる。 感情だけを基礎とする神秘主義的観方には次のような誤りがある。 つまり、本来、知るべき事柄を体験しようとすること、また感情という個的なものを包括的なものにまで敷衍してしまうことである。

■08-05: 

感情とは完全に個的な行為であり、主観に降りかかる外界との関連であり、その限りにおいてこの外界との関連は単に主観的体験として現われる。

■08-06: 

人間の人格にはもう一つ別な現われ方もある。 自我が思考を介して普遍的な宇宙の営みと共に生きるのである。 自我は思考を介して純理念的(概念的)に知覚を自我に関連づけ、自らを知覚に関連づける。 そして自我は感情内で、客観との関連が主観に及ぶのを体験する。しかし意志では逆のことが成り立つ。 意志も私たちにとっては知覚であるが、意志内では自己との個的な関係が客観(対象)に及ぶのを体験する。 意志における純理念的要因でない部分は知覚の対象であり、それは外界の何らかの物体が知覚対象であるのと同じである。

■08-07: 

この意志においても素朴実在論は、思考を介して得られる実在性よりもはるかに現実である何かを手にしていると信じるだろう。 素朴実在論は、意志の中にある要素を見るし、その要素の中においては原因を直接に知る。 思考においては概念をもってはじめて出来事を捉えるのとは対照的である。 自我が意志を介して実現することとは、素朴実在論にとっては直接体験できるプロセスなのである。 この哲学の信奉者は、意志において宇宙事象の末端を現実に捉えられると思っている。 意志以外の事象は知覚を介して外側からたどりうるにすぎないのに対し、意志内の事象は直接に現実として完全に体験されると思っている。 この哲学では、意志が自己内で現れる際の存在形式が現実界の実体原則とされる。 彼自身の意志は、普遍である宇宙事象の特殊として現出する。したがって、普遍である宇宙事象とは普遍的な意志でもある。 感情神秘主義が感情を認識原則としたのと同様に、ここでは意志が宇宙原則になる。 この見解が意志哲学(テリズムThelisumus)である。 個的にしか体験されないものが、意志哲学では宇宙を構成する要因にされている。

■08-08: 

感情神秘主義を学問とは呼べないのと同様、意志哲学も学問と見なすことはできない。 概念的探究では宇宙を把握できないというのが両者に共通の見解だからである。 両者共に存在に対し、理念的原則だけではなくもう一つ別な現実原則を要求している。 これには正当なところもある。 しかし、ここでの言わゆる現実原則では把握手段を知覚だけとしているので、感情神秘主義も意志哲学もまったく同等で、「認識においては、思考と知覚の二つの源泉があり、後者の知覚は感情内や意志内で個的に体験される」という見解をとる。 体験という源泉からの一方の流れと思考という源泉からのもう一方の流れは、これらの世界観では直接にはつながらないので、知覚と思考は高い意味での合流はなく、並存するだけである。 知を介して到達できる理念原則の他に、思考では把握されないものの体験されるはずの現実原則が存在するというのである。 言い方を変えよう。感情神秘主義と意志哲学は素朴実在論である。なぜなら、直接に知覚されるものは現実であるという命題に忠誠を誓っているからである。 ただ、本来の素朴実在論と比べるなら、この両者は首尾一貫していない。 つまり、「知覚されたものが現実である」という命題を基礎にしておきながら、(感情もしくは意志という)限定された知覚形式だけを存在性の確認手段としている点である。 これらの見解は本来、外的知覚にも同等な認識的価値を認めなくてはいけないはずである。

■08-09: 

意志は主観内での直接体験であるが、直接体験が不可能であるはずのまさにその存在領域にまで意志を敷衍すると、意志哲学は形而上的実在論になる。 意志哲学が形而上的実在論になる場合には、主観的な体験が唯一の現実性判定規準であるような原則を、主観以外のところに仮説的に想定する。 形而上的実在論としての意志哲学は本章で述べた批判を免れない。 つまり、「意志が普遍的世界事象であると言えるのは、世界と(感覚界においてだけでなく)理念的に関連したときだけである」という形而上的実在論が抱える矛盾点を克服し、論破する必要がある。

★1918年新版への補足

■08-10: 

思考の本質を観察的に捉えることには次のような困難がある。 魂が思考に注意を向けようとすると、魂の眼前から思考の本性が簡単に消えてしまうからである。 そして魂の手元には死んだ抽象物、生きた思考の死体しか残らない。

■08-11: 

そうした抽象物だけを見てしまうと、どうしても「生き生きとした」感情神秘主義や意志形而上学に入り込みたくなるだろう。 「単なる思考結果」の中に現実の本質を見出そうとする人など異端者と思うだろう。 しかし、思考の営みそのものを真に受け止めた人は次のような見解に到る。 思考の営みの中でなされる、それ自身で充足し、なおかつ動きのある内実豊かな体験は、単なる感情や意志要素の観照などとは比ぶべくもなく、これらを思考の上に置くなどありえないと。 この豊かさ、この内実に満たされた体験がゆえに、通常の魂状態における思考の像は死んだ抽象的なものに見える。 思考ほどその価値を見誤られる魂的活動はない。 意志や感情は、本来の姿の名残りを体験するときですら魂を暖める。 名残の体験においては、思考は簡単に冷めてしまう。魂の営みの干物のようである。 しかしこれは、光に織り成された現実、宇宙事象に温かく沈み込んだ現実を大きく劣化させた影なのである。 この沈み込みが行われるのは、思考活動そのものの中に流れている力、つまり精神的種類の愛の力によってである。 「活動する思考内に愛を見出す人は、感情的な愛をそこに投影している」と反論してはいけない。 こう反論してしまうと、ここでの論述を支持していることになるからである。 真の意味での思考に没入する人は、そこに感情と意志があることを知るし、しかもそれらの深みにおける現実を見る。 思考から目を背け、《単なる》感情や意志にだけ向かう人は、こうした真の現実を見失う。 思考において直観的な体験をしようとする人は、感情的体験や意志的体験も正しく体験するだろう。 しかし感情神秘主義者や意志形而上学者が、直観的思考的な存在への沈潜を正しく体験することはありえない。 この両者の立場では、安易に自分が現実に居ると判断するだろう。 そして直観的な思考をする者を、抽象的思考の中に居て、無感情に現実離れしていて、影のような冷たい世界像を作り出していると判断するだろう。

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