2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第06章、人間の個体性

■06-01:表象は外界との連続と考えられる

哲学者は表象の説明に困難を抱えている。つまり、外界の事物と私たち自身は別物であるのに、表象が外界の事物に対応した形を取ることが説明できないのである。 しかしよりきちんと観ると、こうした困難は元々存在しないことがわかる。 私たちは確かに外界の事物ではないが、それらと同じ世界に属している。 私の主観が切り取る世界にも、宇宙全体のすべてを貫く流れがしっかりと入り込んでいる。 知覚において私は、とりあえずは皮膚という境界に取り囲まれている。 しかし、この皮膚の内側もコスモス全体に属しているのである。 したがって私の生体器官と外界の対象物との間にはつながりが成立している。それによって、外界の対象から何かを私の内に取り込む必要も、蝋に刻印を押すような精神に対する刻印づけの必要もない。 「十歩前方にある樹からの情報を私はどのように受け取っているか」という問いは、問い自体が筋違いなのである。 こうした問いは、「私の身体的境界が絶対的な分離壁であり、それを通って事物の情報が私に入り込んでくる」という誤った前提から生じている。 私の皮膚の内側で働く諸力は、外側で働く諸力と同じというのが事実である。 つまり私は、実際に物体なのである。ただし、知覚主体としての私は物体ではなく、普遍的な森羅万象の一つの存在としての私が物体なのである。 樹の知覚と私の自我は同じ全体に属している。 この普遍的な森羅万象によって引き起こされる知覚は、自己知覚でも樹の知覚でも同等である。 私が宇宙認識者ではなく宇宙創造者であったら、主観と客観(知覚と私)は一つのアクションで生じるはずである。 なぜなら、互いが相手を前提とするからである。 思考とは概念を介して樹と私の両者を結びつけるものであるが、宇宙認識者として私が両存在の同属性を見つけられるのは、その思考によってのみである。

■06-02:《知覚の主観性》の生理学的証明を論破する

《知覚の主観性》では、その生理学的証明といわれるものが最も論破しづらい\footnote{訳注:《知覚の主観性》とは、外界の過程(たとえば空気の振動)と知覚(音)は別の実体であるという立場である。外界の過程は「物それ自体」であり、主観的体験の「音」との関連は見いだせないと考える。}。 皮膚を圧迫すれば、圧迫を知覚する。 同じ刺激を眼に加えると光の知覚、耳に加えると音の知覚が生じうる。 同じ電気刺激も、眼では光知覚、耳では音知覚、皮膚神経では接触知覚、嗅覚器官ではリンの匂いを感じる。 この事実からどのような結論が得られるだろうか。 「私は電気刺激(あるいは圧迫刺激)を知覚し、それに伴う光、音、特定の匂いなどを知覚する」というだけである。 眼が存在しなかったら、外界の力学的な波動の知覚に対する光知覚が存在せず、聴覚器官が存在しなければ音知覚も存在しない、等々というだけである。 知覚器官が存在しないならこれら全過程も存在しないなどと結論づける正当性はない。 眼における電気的過程が光知覚を呼び起こすという状況から、私たちが光として知覚するものは生体外では単なる物理的な運動過程であると結論する人がいる。しかし、ある知覚から別な知覚に移行しているだけで、知覚という領域からは一歩も出ていないことを彼はまったく忘れている。 「眼は外界の物理的運動過程を光として知覚する」と言うのだったら、「法則的に変化する対象物は運動過程として知覚される」と言ってもまったく正しいことになる。 12に分けた走る馬のモーションを順に円盤に描き、それを回転させると動きのアニメーションを作ることができる。 ただし、一連の馬の絵がちょうど覗き穴の位置に来たときにだけ見え、途中段階では見えないようにする。 すると、12枚の馬の絵が見えるのではなく、走る馬の姿が見える。

■06-03:知覚と表象の関係を見つける方法を探る

上述の生理学的事実を基に考えていっても、知覚と表象の関係は明らかにできない。 別なやり方で正しい道を見つける必要がある。

■06-04:知覚、思考、概念、表象の関係

知覚が私の観察領域に立ち上ってきた瞬間、私によって思考が発動される。 私の思考体系の一分枝、一つの特定の直観、一つの概念がその知覚と結びつく。 視界から知覚が消えると何が残るだろうか。 そこに残るのは私の直観であり、それは知覚の瞬間に作り出され、その特定の知覚と結びついた。 後になってこの結びつきをどれくらい活き活きと思い起こせるかは、私の精神的身体的な機能に左右される。 表象とは、特定の知覚に関連した直観であり、かつてある知覚に結びつきその知覚との関連で作られて残った概念に他ならない。 ライオンという概念は、ライオンの知覚を基に形成されるのではない。 しかし、ライオンについての私の表象は知覚において作り出される。 ライオンを見たことのない人に対しても、ライオンの概念は紹介することができる。 しかし、ライオンについての活き活きとした表象は、その人がライオンを知覚しない限り与えることはできない。

■06-05:概念は表象となって各個人の中に生きる

つまり、表象とは個体化した概念である。 これで、現実界の諸物体を表象で代表させられる理由が説明できる。 ある事物は、概念と知覚が合流した瞬間に、その現実の全容を見せる。 知覚によって概念は個的な形をとり、またこの特定の知覚につながる。 知覚毎にそれぞれ違った特性を持ちつつ概念は個々人において形をとり、その形で私たちの内に生き続け、対応する物体の表象を作り出す。 同じ概念と結びつく第二の物体と出会うと、それを第一の物体と同種と認識する。 同じ物体と再会した場合には、概念体系の中で対応する概念を見つけるだけでなく、その同じ対象物との固有の関係を伴った個体化された概念が見つけ出され、同一の対象物であることが認識される。

■06-06:知覚と概念を表象が結ぶ

つまり、表象は知覚と概念の間にある。 表象とは、ある知覚を指し示す特定化された概念である。

■06-07:経験とは個体化された表象の総和

私が表象できる事柄の総体を、私の経験と呼んで差し支えないだろう。 個体化された概念をより多く持つ人物は、豊かな経験を持つと言える。 直観能力を一切持たない人間は、経験を積み重ねることができない。 諸対象物とのつながりを結ぶ概念を得られないので、そうした諸対象物がすぐに視界から消えてしまうのである。 逆に、発達した思考能力は持ちながら、感覚器官が大雑把で知覚が十分に機能していない人も経験をあまり集められない。 何らかの方法で概念を得ることはできても、彼の直観には特定の物体に対する生き生きとしたつながりがない。 考えを持たない旅行者、抽象的な概念体系に生きる教養人、そのどちらにも豊かな経験を勝ち取る能力はない。

■06-08:私たちには外的現実とその主観的な代表が与えられている

現実は知覚と概念として与えられ、この現実の主観的な代表が表象として与えられている。

■06-09:知覚、概念、表象だけがすべてではない

認識だけが私たちの人格の表現であるとしたら、客体の総和は知覚、概念、表象で尽されるはずである。

■06-10:知覚は私たちの個とも結びつき、感情となって現われる

知覚は、思考の助けで概念と結びついて終わりなのではなく、特殊としての私たちの主観、つまり個としての自我とも結びつく。 こうした個人的な結びつきは感情として表現され、それは快不快という形で現れる。

■06-11:思考では宇宙につながり、感情では自己とつながる

思考感情は、前に考察した私たちの二重的本性に対応している。 コスモスの普遍的出来事を共に行う要素が思考であり、自己存在という狭い中に私たちを引き戻す要素が感情である。

■06-12:感情によって個としての違いが生じる

思考は私たちを世界と結びつける。感情は私たちを自分自身の中に戻し、私たちを個人にする。 もし私たちが単に思考と知覚の存在であったら、生活全体が何の起伏もなく無頓着になるだろう。 自分を単に自己として認識するだけであったら、私たちは完全に他と置き換え可能であろう。 自己認識と共に自己感情を、事物の知覚と共に快や痛みを感じることによって、私たちは個体存在として生きるし、そうした存在はそれ以外の世界との間に成立する概念関係だけで語り尽くすことはできず、それ自体で個としての価値を持つ。

■06-13:認識に比べ、感情は現実要素とは言えない

ここで、感情の営みを思考的観察よりも豊かな現実要素と見なしたいという誘惑があるかもしれない。 しかしそれにはこう反論する。「感情の営みとは、まさに私個人にとってのみ豊かな意味を持つ」と。 私の感情が宇宙全体に対して意味を持ちうるのは次のような場合だけである。 自己知覚の際の感情がある概念と結びつき、それを迂回路としてコスモスの中に位置づけられるときだけである。

■06-14:宇宙と個を両極に振れる人間

普遍的な森羅万象との共生、そして個としての存在、これらを両極として私たちの営みは絶えず振れ動いている。 思考においては、最終的には個は概念の単なる一サンプルとしての意味しか持たなくなる。 その思考という普遍的性質の高みに上れば上るほど、個的存在であり、完全に特定の個としての人格という特質は失われていく。 また外界での経験に自らの感情を共鳴させ、自己的営みの深みに降りれば降りるほど、私たちはユニヴァーサルな存在から離れていく。 そして、真の実体を持つ個とは、自らの感情を伴いつつ理念領域に最も高く上った者である。 普遍的理念を他人と共有しつつ、他人とは明らかに違う色彩を帯びた普遍的理念を自らの頭にしっかりと持つ人びとがいる。 逆にその人の独自性がまったく感じられない概念、血の通った人間から生れたとは思えないような概念を語る人もいる。

■06-15:立脚点毎に特定化が異なる

表象によって概念的な営みに個的な様相が与えられる。 実際、誰にでも世界を観察する際の自分自身の立脚点がある。 彼の知覚に彼の概念が結びつく。 彼は彼独自の仕方で一般概念を考えるだろう。 こうした特定化は、世界における私たちの立脚点毎に、そして生活環境と結びついた知覚空間毎にそれぞれ個性的である。

■06-16:それぞれの生体毎に特定化が異なる

特定化には、もう一つ別に各自の生体の特質によって決まる特定化もある。 実際、私たちの生体それぞれは、完全に特殊化した唯一の存在である。 知覚に対して私たちはそれぞれ特殊化した感情、つまり強度の異なる感情を抱く。 これが私たちの個としての人格である。 人生の場における諸々の特定化をすべて取り除いたときにそこに残るのが人格としての特定化である。

■06-17:感情を伴いつつ認識が広がっていく

考えを一切伴わない感情の営みはしだいに世界との関連を失わざるをえないだろう。 事物の認識とは、全体性を付与された人間の手から手へ、感情の営みの育成と発達を伴いながら伝わるだろう。

■06-18:概念が営みを行う際の媒体が感情である

概念が具体的な営みを獲得していくに当たって、まず感情がその媒体となる。

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