2015年1月1日木曜日

『自由の哲学』、第05章、世界の認識

▲批判的観念論をめぐる諸問題01~08

■05-01:素朴実在論は論破されるが、批判的観念論の前提も成り立たない

観察内容を探究して、「知覚は表象にすぎない」と証明するのは不可能であることが、これまでの考察で明らかになった。 この証明は以下を示すことで成り立つとされる。 私たちの個における心理学・生理学的な成り立ちは素朴実在論的であると仮定されている。 それと同様に、知覚プロセスも素朴実在論的に成り立つのであれば、私たちは、物それ自体ではなく、単に物についての表象とかかわっているだけである。 こうして素朴実在論を一貫してたどっていくと、前提条件とは正反対の結果に到達する。したがって素朴実在論的前提は、世界観の基礎とはなりえず、棄却せざるをえない。 また、上述の証明を根拠に「世界は私の表象である」と主張する批判的観念論も、前提条件には目をつむっておいて結果だけ認めようとしているので、成り立たない。 (エドゥアルト・フォン・ハルトマンは『認識論の基本問題』でこの証明の過程を細かく述べている)。

■05-02:批判的観念論の正しさはまだ否定できないが、その証明は無効

批判的観念論そのものが正しいか否かという問題と、その正当性を示すための証明に説得力があるか否かという問題は別である。 批判的観念論そのものの正否については、話の流れで後述する(注)。

(注:内容)05-28段落

しかし、その証明の説得力はゼロに等しい。 家を建てるにあたって、二階を建てている間に一階が崩れれば、二階も壊れる。 ここで、素朴実在論は一階に、批判的観念論は二階に相当する。

■05-03:表象の背後に実在を認めるタイプの批判的観念論

知覚世界全体は表象にすぎないという見解の人、さらに詳しく言えば私の魂への未知なる事物からの作用にすぎないと考える人にしてみれば、魂内にのみ存在する表象を認識の対象にすることはなく、私たちとは独立して存在し、私たちの意識の及びえない事物が認識の対象になる。 そこではこう問われる。「直接に観察が不可能なその事物について、どれくらい間接的に認識できるのか」と。 この見解を取ると、知覚なぞはその事物に感覚を向けるのをやめればただちに消えてしまうのであるから、意識される諸知覚間の内的な関連は問題にせず、観察者とは独立した存在であり、意識されえない知覚の原因とされるものが問題になる。 この観点からすれば、私たちの意識とは鏡のようなもので、そこに映る事物の像は、その鏡面を事物に向けるのをやめれば、ただちに消えてしまう。 事物の鏡像だけが見え、そのものは見えないなら、その鏡像の様子から、鍵穴を覗くようにその事物の諸性質を間接的に窺わなくてはならない。 現代の自然科学はこの立場を取っている。 この自然科学は、知覚には隠された唯一の実在とされる物質的過程についての知見を得るための最後の手段として、知覚を用いている。 批判的観念論の哲学者が何らかの存在を認めるとするなら、この存在について表象を用いて間接的に認識しようと努力する。 彼の関心は、表象という主観的世界を飛び越え、この表象を作り出すものへと向かっていく。

■05-04:表象の背後の実在すらも表象とするタイプの批判的観念論

批判的観念論者では、「私は私の表象世界の中に閉じ込められていて、そこから出ることはできない」とまで言うこともありうる。 表象の背後に事物を考えるにしろ、この考えもまた私の表象の域を出ないとしている。 こう考える観念論者は、物それ自体を完全に否定するか、あるいは百歩譲っても、それについて何も知ることができないのであるから、あたかもそれは存在しないも同然で、人間にとって何の意味もないとするだろう。

■05-05:第二の批判的観念論では認識の欲求は生じえない

こうした批判的観念論者にとっては、世界認識への渇望などはあたかも無意味であり、世界全体は夢のようなものである。 彼にしてみれば、人間は二種類に分けられる。 一方は自分自身が紡ぎ出す夢を現実と見なす囚われた人、もう一方はこの夢世界の虚無性を見通し、それとかかわることへの情熱をしだいに失っていく賢者である。 この立場からすると、自らの人格すらも単なる夢の像になってしまいかねない。 睡眠時の夢の中に自分自身の姿が夢として現われるように、目覚めた意識の中で、外界の表象に自分自身という表象が加わるのである。 すると意識内には、リアルな自我ではなく、表象自我しか存在しないことになる。 事物の存在を否定するか、あるいは事物については知りえないとする人は、必然的に自らの人格の存在、より正確には人格の認識を否定しなくてはならない。 こうして批判的観念論者は次のように主張する。 「あらゆる現実は素晴らしき夢となる。その夢に現われる生き物も実際には存在せず、その夢を見ている精神も実際には存在しない。夢自体で自己完結する夢である」(フィヒテ『人間の意味』)。

■05-06:絶対的幻影主義と超越論的現実主義

直接の生きた営みを夢と認識するなら、夢の背後を虚無と考えるか、あるいは自分の表象が現実に関連していると考えるかであるが、そのいずれにしろ生きる営み自体は必然的に学問的関心の対象ではなくなる。 知りうるすべてが夢で充足しているという立場では、あらゆる学問は無意味である。それに対し、表象は物に結びついていくと自信満々に信じている人にとっては、この《物それ自体》の探究が学問になる。 前者の世界観は絶対的幻影主義とすることができ、後者は、それを首尾一貫している代表者自身の命名により、超越論的現実主義と呼べる(注)。

(注:内容) この世界観では超越論的という語を次のような意味で用いている。まず、物それ自体について直接には何も語れないとされる。しかし、既知なる主観から主観の彼岸に存する未知なるものを間接的に推論する(超越論)。 この見解では、物それ自体は私たちが直接に知りうる領域の彼岸に存在する。つまり超越的存在である。 しかし私たちの世界は、その超越的存在と超越論的に関連することができる。 ハルトマンが現実主義と表現するのは、主観的なもの、理念的なものを越え、超越存在、つまりリアルなものに向かうからである。

■05-07:認識の土台を知覚に求めようとすることが問題の根源

この二つの見解は素朴実在論と同じで、知覚を研究することで世界の足場を探そうとしている。 しかし、この知覚領域内でそうした足場が見つかることは決してない。

■05-08:表象を夢とするなら、覚醒状態は何か

この超越的実在論者にとっての中心的な問いは、以下のようであるべきだった。 「自我は、どのようにして自身を出発点に表象世界を実現するのか」と。 私たちに与えられた表象世界は、そこに感覚を向けるのを止めるとただちに消えてしまう。それでもそこに誠実な認識努力を向けることができるのは、それ自身で成り立つ自我の世界を探究するに当たって、表象世界がその仲介手段になってくれるからである。 事物の経験が表象であるなら、私たちの日常生活は夢に相当し、事実の認識は目覚めに当たるだろう。 夢の映像が興味深いのも、夢を見ている最中だけであり、そのときには夢の本性は見通していない。 目覚めた瞬間には、夢の諸映像間の内的関連などは問わず、その夢の背景にある、肉体的、生理的、心理的な経過に着目する。 同様に、世界を自らの表象と見なす哲学者が、その表象を構成する個々の事柄同士が持つ内的関連に興味を持つことはありえない。 もし彼が存続的な自我を認めるなら、表象同士がどう関連するかは問わず、意識内で表象が特定の推移を見せるときに、彼とは独立した存在である魂内で何が起きているかを問うだろう。 夢の中で飲んだ酒が原因で焼けるような喉の痛みを感じ、咳の発作とともに目覚めた場合(ヴァイガント、『夢の発生』1893年参照)、目覚めた瞬間にはもはや夢の中での出来事には興味を失う。 夢の中で咳の発作という象徴になった何らかの生理的、心理的プロセスに注目するだけだろう。 それと同様に哲学者は、眼前の世界が表象であると確信したら、ただちにその表象を離れ、その背後に隠れた現実的な魂に意識を向けるはずである。 ただ前述の幻影主義が、自我それ自体を表象の背後などにはないと完全に否定するか、あるいは最低限でもそれを認識不能としてしまうとより困難な状況に陥る。 夢状態に対しては覚醒状態が存在し、そこでは夢を洞察し実際に起きていることと結びつけることができるが、「夢対覚醒」という意味での「覚醒対何か」の何かに当たる状態がないと、容易に上述の見解に導かれうる。 こう考える人は、「夢対覚醒」と同じ関係で「知覚対何か」に当たる何かが実際に存在する点にまで考えが及んでいない。 その何かとは、思考である。

▲鍵は思考09~14

■05-09:《思考無視派》とそこからの脱却

素朴な人は、ここで述べてきた洞察不足を自覚することができない。 生活に没入し、経験されるままの事物を現実として受け止めている。 この立場から抜け出す最初の一歩は、「思考は知覚にどのようにかかわるのか」と問うことだけのはずである。 表象する前後で知覚が見たとおりの姿で成り立つか否かなどはどちらでも同じで、知覚について何かを語りうるには、思考の助けが必要なのである。 また私が「世界は私の表象である」と言うとき、これはある思考プロセスの結果を語っているし、世界に思考を適用できなかったらこうした結果も誤ってしまう。 知覚と知覚に対する発言との間には、必ず思考が挟み込まれている。

■05-10:《思考付加物説》とその論破

事物を観察するにあたって、多くの場合、思考が見過ごされてしまう理由についてはすでに述べた(03-11以降参照)。 思考においては、思考対象だけに注意が向き、同時に進行する思考活動には注意が向かないのがその理由であった。 それゆえ素朴な意識では、思考を事物と関係するとは捉えず、事物とは別次元と考え、思考的考察を単なる世界の付け足しと思っている。 思考者が現象世界に投影する像とは、事物に属するとは見なされず、人間の頭の中だけの存在とされる。思考による像がなくても、世界はすでに完成していると見なされている。 世界は、そこにおける諸素材と諸力で完結し確立されていて、そこに人間が像を投影しているとされる。 こう考える人は、次の問いを吟味していなかった。「思考なしで世界は完結しているという説が正しいとする根拠はどこにあるのか」。 植物が花をつけるのと同じ必然性で、世界は人間の思考を必要としているのではないのだろうか。 大地に種子を植える。 すると根と茎が伸びる。 葉を展開し花を咲かせる。 その植物を前にして見る。 その植物は魂の中である特定の諸概念と結びつく。 葉や花は植物に属するのに対し、こうした概念は植物に属さないなどとなぜ言えるのだろうか。同様に植物に属するのではないだろうか。 これに対しては、「葉や花は、それを知覚する主観が居なくても存在する。それに対し概念は、人間が植物と向かい合ったときに初めて現われる」と反論する。 確かにそのとおりである。 しかし、葉や花も植えられるべき大地や、それらが展開しうる光や空気が存在してはじめて現われ出てくる。 植物についての概念もまったく同様に、思考する意識が植物に近づくと初めて生まれ出てくる。

■05-11:「事物とは知覚の総和である」は無根拠

知覚経験のすべてを足し合わせればそれが事物の完全な全体であり、思考的考察の結果などその事物とは無関係で、その全体への添え物に過ぎないという考えは、非常に恣意的である。 今、目の前に薔薇のつぼみがあるとき、私がまず見るのは閉じた花である。 このつぼみを水に活けると、明日にはこの対象に対する別な像が得られるし、このつぼみから目を離さなければ、今日から明日にかけての無数の中間段階が見られる。 ある瞬間に見られる像は、対象における連続的な形成の偶然的な一段階にすぎない。 つぼみを水に活けなかったなら、そのつぼみが潜在的に持つ一連の発達状態は展開しえない。 また明日には、花を継続的に観察することができず、不完全な像しか得られないこともありうる。

■05-12:「偶然に見た状態をその事物そのもの」とは言えない

ある時点で偶然に見た姿をもとに「これがその事柄だ」と言ってしまうのは決して事柄に即してはいない。

■05-13:「概念も事柄に属する」と考えうる

まさにこのように、知覚的特徴の総和で事柄を説明できるというのも根拠は薄弱である。 ある霊性が知覚と不可分に概念を感じ取ることができるというのはありうる可能性だろう。 そうした霊性にしてみれば、概念がその事柄に属していないなどということは思いもつかない。 必然的に、概念を事柄と不可分に結びついた存在と見なすはずである。

■05-14:現象に思考的内容が結びついた例

ここで例を挙げてより明確にしたいと思う。 石を水平に投げると、その石が次々に位置を変える様子を見る。 そして、そうした位置同士を線で結ぶ。 数学にはさまざまな曲線フォルムがあるが、その中には放物線もある。 点がある特定の法則下で動くときに生じる曲線が、放物線であることを知る。 石を投げた際の運動の諸条件を調べると、その石の軌跡が放物線として知られた曲線と同じであることがわかる。 石の軌跡がまさに放物線であることは、所与の条件の結果であり、その条件に必然的に従う。 同じ条件下の他のあらゆる現象において、この放物線の軌跡が現われる。 思考という回り道を取る必要のない上述の霊性にしてみれば、異なる地点における一連の視覚情報が与えられるだけでなく、私たちが思考によってこの現象に付け加える放物線という軌跡が現象と不可分に与えられるだろう。

▲思考の諸特性15~20

■05-15:概念抜きで現象が現われる原因

対応する概念を伴わずに、まず現象だけが与えられる原因は、その対象物の側にあるのではなく、私たちの精神の機構にある。 私たちの全存在の機能の仕方では、個々の事物における関連する要素が二つの側から私たちの存在に流れ込んでいることがわかる。つまり、知覚の側と思考の側である。

■05-16:事物の事情と私の事情は無関係

事物を捉える際の私の組織の様子など、事物の本性には関係がない。 知覚と思考の間の溝は、観察者としての私が事物と向き合った最初の瞬間には存在する。 しかし、その事物にどの要素が属しどの要素が属さないかという点と、私がそうした要素に達する際の成り行きとはまったく無関係である。

■05-17:人間がある範囲に制約され分離していることの意味

人間とは、ある範囲に制約された存在である。 まず人間は、諸存在中の一存在にすぎない。 その存在は、時間と空間の中にある。 それゆえ、常に全宇宙における限られた部分にしか触れられない。 しかしこの限定された部分は、周囲と時間的にも空間的にもつながっている。 私たちの存在が事物と結びつき、個々の宇宙的出来事がそのまま私たちでの出来事であったならば、事物と私たちの区別はないはずである。 しかし、そうであったなら私たちには個別化した事柄などない。 すべての出来事が連続的に他のものに移行していくだろう。 コスモスは一体なるものであり、それ自身で自己完結した全体的なものであろう。 次々と流れていく出来事は一切停滞しないはずである。 私たちは特定範囲に制約されているために、私たち自身が個別化して見えるが、本来は個別化してはいない。 たとえば、赤という一つの質が別個に存在することはない。 その赤は、多方面で他の諸性質と結びついているし、そうした他の諸性質がなければ赤として成り立ちもしない。 私たちは、世界の特定の部分を切り取ってそれをそれ自体として観察せざるをえない。 私たちの目は、多種多様な色彩全体から個々の色彩を順々に捉えることしかできないし、私たちの悟性は関連性を持った概念体系から個別の概念を捉えることしかできない。 この分離というのは主観的な行為であり、私たちが宇宙プロセスと一体ではなく、あらゆる存在の中の一存在にすぎないという状況に縛られていることで生じている。

■05-18:思考による自己規定と自己知覚の相違

ここで問題なのは、他と私たち自身との存在の位置関係を規定することである。 この規定化は、単なる自己の意識化とは異なる。 後者は、他の事物を意識化するのと同様にその基礎は知覚である。 黄色、金属光沢、硬い等々の諸特性を《金》にまとめるのと同じように、自己知覚によって一連の諸特性が得られ、その全体を私の人格としてまとめる。 自己知覚によっては、自身が属する領域から離れることはない。 この自己知覚と思考における自己規定とは違うのである。 外界での個々の知覚を思考によって世界の関連に組み入れるのと同様に、自分自身においてなされた諸知覚を私は思考によって世界プロセスに組み入れる。 私の自己知覚は、私をある特定境界内に閉じ込める。それに対し私の思考は、この境界には制限されることはない。 その意味で私は二重の存在である。 私は、自己の人格として知覚している領域内に閉じ込められている。しかし、ある活動の担い手でもあり、その活動が境界内に限定された私の存在を一段高次の領域から規定してくれている。 感受や感情とは違い、思考は個人的ではない。 思考はユニヴァーサルである。 思考は個々人で個的な色彩を帯びるが、それは各自の個的な感受や感情と結びつくからである。 このように個々人において特有な色づけを受けるために、本来ユニヴァーサルである思考がそれぞれ違って見えるのである。 しかし、三角形についての概念は一つしかない。 この概念の内容にしてみれば、それを受け取る意識の担い手がAであるかBであるかは無関係である。 しかし、その概念はこの二人の意識の担い手にそれぞれ個別の仕方で受け止められる。

■05-19:概念は自分が作っているという誤り

この考えに敵対する克服し難い先入観がある。 囚われた考え方だと、私が頭で捉えた三角形概念と、隣人が頭で捉えた三角形概念とが同じであると洞察できない。 素朴な人は、概念形成者は自分だと考えている。 それゆえ人は、各自が自分の概念を持つと信じてしまう。 この先入観の打破は、哲学的思考にとっては基本要求である。 三角形という唯一なる概念は、何人もがそれを考えることによって複数になることはない。 多くの人が考えるにしろ、思考それ自体は一体だからである。

■05-20:思考によって人は宇宙の末端につながる

思考の中にはある要素がある。 その要素が、私たちという個別化した個体をコスモスと結びつけ、一つの全体にするのである。 感受、感情(知覚)において私たちは個別存在であり、思考においてすべてを包括する全・一存在となる。 これが私たちの二重性のより深い根拠である。つまり、正真正銘の絶対力が私たちの内に存在することがわかる。その力はユニヴァーサルであるが、ただ私たちがその力を知るのはそれが流れ出る世界中心においてではなく、末端の一点においてである。 もし世界中心においてそれを知っていたなら、私たちがそれを意識した瞬間にあらゆる宇宙的謎を理解するだろう。 しかし私たちの自己存在は、ある特定の境界を持ちつつ末端に位置している。 それゆえ、私たちの領域以外については、中心である遍在的宇宙存在から私たちに入り込んで来る思考を助けに知るのである。

▲認識とは知覚と概念の統合21~22

■05-21:認識衝動は思考が生み出す

私たちの内にある思考によって、特殊としての私たちが普遍としての宇宙存在へと包括されることによって、認識への衝動が生じる。 思考を持たない存在にはこの衝動はない。 何らかの事物が目の前に現われても、問いは生まれない。 他の事物は、そのものとして外的に留まる。 思考する存在においては、外界の事物に概念が現われそれにぶつかる。 私たちが概念を受け取るのは、外側の物からではなく内側からである。 認識によって内外の二要素が一体化され、調和へともたらされる。

■05-22:認識とは知覚と概念の統合行為

つまり知覚とは完成し完結したものではなく、現実総体の一方の側でしかない。 もう一方の側は概念である。 認識行為とは、知覚と概念の統合である。 ある事物は知覚と概念によって全体となる。

▲意志が人間と世界をつなげるという説23

■05-23:ショーペンハウアーは意志が人間を世界につなげるとした

ここまでの叙述で次のことが証明された。 つまり、世界に存在する個別なものの内に何らかの共通項を探しても無駄で、それは思考によって得られる理念的内容以外にはない。 私たちは、諸知覚に思考的考察を加えることで、それ自体で内的に関連し合うこの理念的内容を得る。そして、それ以外の世界内容において統一を探す試みは、すべて必然的に棄却される。 人間的・人格的な神、力あるいは素材、理念抜きの意志(ショーペンハウアー)のどれをも、私たちはユニヴァーサルな統一的世界として認めることができない。 これらの諸要素はすべて、観察という領域に限定されている。 人間的な制約を受けた人格を自分自身において知覚し、力や素材を外界の事物において知覚する。 意志たるものも、人格という枠内に収まった活動でしかない。 ショーペンハウアーは《抽象的な》思考を統一的宇宙の担い手にしたくなかった。 その代わりに彼にとって直接にリアルに与えられているものを担い手と考えた。 この哲学者は、世界を外界と見なす限り、決してそこには到れないと信じていた。
このような世界の意義を探究すること、この世界から出発し、表象以外になお存在しているかもしれないもの(世界のもう一つ別の側面)へ通路を見出していくことは、もし仮に探究者その人が純粋な認識主観〔身体がなくて翼のはえた天使の頭〕にすぎないとしたならば、けっしておこなわれ得ないだろう。 しかし探究者その人も表象の世界に根をもっている。 つまりこの世界に個体として存在している。 いいかえれば、表象としての全世界を制約する担い手である認識は、どこまでも身体によって媒介されているのである。 身体の受ける刺戟が、前に示したとおり、悟性にとっては、個の世界を直観する出発点となっている。 ……

 この身体は、純粋に認識する主観そのものにとっては、他のあらゆる表象と同じく一表象であり、さまざまな客観のなかの一客観である。 身体のおこなう運動も行動もそのかぎりにおいては、あらゆる他の直観的な客観の諸変化と同様にしか、認識する主観には知られていない。 身体のおこなう運動や行動の意義が、まったく別の仕方で、主観のために解き明かされていないとしたら、身体の運動や行動は主観にとってはまったく無関係ならびに不可解なものとなるであろう。

(中略)

 認識主観が個体として現われるのは、身体と一体をなしているからだが、身体は、この認識主観に対して二つのまったく異なった仕方で与えられている。 第一は、悟性的な直観における表象として、客観のなかの一客観として、客観の諸法則に従うものとして与えられている。 第二には、同時にまったく別の仕方で、すなわち意志という言葉がその特色を端的にあらわしている、誰でも直接に知っているものとして与えられている。 ……

 意志のほんとうの働きと言えば、それはいずれであれ、ただちに、必然的に、身体の運動のことである。 意志の働きが身体の運動として現象することを同時に知覚することがなければ、人は意志の働きをほんとうに意欲することもできないだろう。 意志の働きと身体の活動とは因果のきずなが結んでいる、客観的に認識された二つの異なる状態なのではない。 それらは原因と結果という関係にはなく、一つにして同じものなのであって、ただ二つのまったく異なった仕方で与えられているだけのことなのである。 つまり、第一には悟性に対し直観のなかで、第二には完全に直接的に、与えられているにすぎない。 ……(中央公論社、世界の名著『ショーペンハウアー』西尾幹二訳、247ページ)

こうした論考によって、ショーペンハウアーは、人間身体の中に意志という《客観性》が見出されると信じた。 身体のアクションが物それ自体を具体的に感じ取る直接のリアリティであるというのが彼の見解である。 この論考に対しては次のように反論せざるをえない。身体のアクションが意識に上るに当たっては自己知覚を介さざるをえないし、その知覚が他の知覚より優先的であることもない。 意志の本性を認識しようとするなら、それは思考的考察によってのみ可能であり、言い換えると、意志の本性が私たちの概念理念体系に組み込まれたときなのである。

▲知覚の検討、思考による補完を中心に24~29

■05-24:思考を伴わない知覚の様子

素朴な人の意識には、次のような見解が深く根づいている。 つまり、思考とは抽象的で何の具体的内容も持たないと言うのである。 それはせいぜいのところ世界内容の《理念的》な対応像を与えるだけで、その内容自体ではないと言う。 こう判断する人は、概念抜きの知覚がどのようなものであるかを明確にしたことがない。 知覚としての世界を一度見てみよう。 それは空間内に並立し、時間内で順次現われる無関連な個別なものの集合体である。 知覚の舞台に現われては消える事物のどの一つをとっても、他とは何のかかわりもない。 そこでは世界は等価値の対象物からなる多様性として現われる。 世界運行に関して、一つが他よりも重要な役割を果たすことはない。 ある事実が他よりも重要な意味を持つことを明らかにしようとするなら、必ず思考に伺いを立てなくてはならない。 思考の働きがなければ、ある動物にとっての意味のない退化した器官も、その動物にとって最も重要な身体部分もまったく同列にしか見えない。 個々の事実について、それ自身の意味ならびに世界の他の部分に対する意味が明らかになるのは、本質と本質の間に思考の糸が結ばれたときである。 思考のこの活動は内容に満たされている。 具体的な内容があって初めて、なぜカタツムリがライオンより低次の生命段階にあるのかがわかる。 単に対象を見るだけや知覚するだけでは、生体の完成度を私に教えてくれる内容は与えられない。

■05-25:観察によって知覚が、直観によって思考が得られる

この内容を知覚にもたらすのは思考で、それは人間が持つ概念理念界からもたらされる。 外から与えられる知覚内容に対して、この思考的内容は内側から与えられる。 そうした内容が現われる際の形式を、私たちは直観としたい。 思考にとってのこの直観とは、知覚にとっての観察に対応する。 直観と観察は私たちの認識の源である。 直観とは知覚において欠けた現実部分を補うものであり、外界の事柄を観察しても、私たちの内側から対応する直観が得られるまでは、それは異物である。 事物に対応する直観を見つけ出す能力がないなら、十全なる現実は現われてこない。 色覚異常の人には色の質は見えず明暗の差しかわからないのと同様に、直観を欠く人には互いに関連のない知覚断片だけが観察される。

■05-26:観察では分離しているものを直観で結合する

ある事物を説明する、あるいは理解できるようにするというのは、私たちの機構に観られる上述の諸状況のためにいったんは引き裂かれざるをえなかった事柄を元の諸関連の中に組み込むことである。 宇宙全体から独立分離した事物など存在しない。 すべての分離とは、私たちの機構において主観的に成り立つにすぎない。 私たちには宇宙全体が上と下、前と後、原因と結果、対象物と表象、素材と力、客観と主観などに分離して現われる。 私たちの直観とは一体なるものであり相互に関連しているが、その直観によって個別なるもの、つまり観察によって眼前に現われるものが結合される。このように知覚の際にはバラバラになって与えられたものを私たちは思考によってまとめ上げる。

■05-27:私たち自身が分離したものが統合される

対象物が謎に包まれているのは、それが分離された存在であるからである。 しかしこの分離は私たちがもたらしたものであり、概念世界の範囲内で再び克服されうるのである。

■05-28:思考の絶対性を出発点に知覚とは何かを考える

思考と知覚以外には私たちに直接与えられているものはない。 ここで問いが生じる。 「ここでの論考に沿って考えるとき、知覚の意味とは何だろうか」。 知覚の本性が主観的であるとする批判的観念論による証明が実際には証明として成り立っていないことはすでに認識した。しかし、そこで証明しようとした事柄自体が誤りであることはまだ検討していない。 批判的観念論は、思考の持つ絶対的本性から証明を始めてはおらず、素朴実在論に立脚していた。そしてその素朴実在論自体が、一貫して考えるなら成り立たないことがわかっている。 もし思考の絶対性を認めたなら、この知覚をめぐる状況はどのようになるだろうか。

■05-29:知覚だけでは知覚はつながらず、思考を必要とする

たとえば、赤といった特定の知覚が私の意識に上ったと仮定しよう。 これまでの考察から、この知覚には特定の形、特定の温度や触覚といった他の諸知覚が関連していることがわかる。 この関連を私は感覚界の対象物とする。 「私に上述の諸知覚が現われた空間部分において、今述べた事柄以外に何があるのか」を問うことができる。 するとその空間部分において力学的、化学的などの諸過程が見つかるだろう。 さらには、その対象物から私の感覚器官への途中経過を研究することもできる。 その本性からしてもともとの知覚とは一切関係を持たない、可塑素材の運動過程が見つかるかもしれない。 感覚器官から脳への伝達を研究しても、同様な結果が得られる。 こうしたそれぞれの領域で私は新しい知覚を得る。しかし、時間空間内で相互にバラバラな諸知覚すべてをつなぐ媒体がある。その媒体が思考なのである。 音を媒介する空気の振動とは、私にとっては空気の振動としてではなく音として知覚される。 諸知覚をこのように分解し、またそれらの相互関係を明らかにすることができるのは思考だけである。 直接の知覚と諸知覚における理念的な関連(これは思考によって認識される)、この二つ以外には何もない。 知覚客体と知覚主体の間にある知覚を超えた関連とは、理念的なものしかない。言い換えると概念でしか表現されないものである。 知覚客体が知覚主体を触発する様子を知覚することができるのなら、あるいはその逆に、知覚過程が構成される様子を主観を介して観察できるのなら、現代生理学やそれに立脚する批判的観念論の考えを正しいと認めるだろう。 批判的観念論の見解では、理念的である(主観に対する客観の)関係を、知覚によって確認すべきプロセスと取り違えている。 それゆえ、「目による色彩知覚がなければ色彩はない」という文は、目が色彩を作り出すという(感覚界的な)意味を持つことはありえず、思考によってのみ認識されうる理念的関連、つまり色彩知覚と目による知覚の間に成り立つ理念的な関連を意味している。 経験科学では、目の諸性質と色彩の相互関係を明らかにし、色彩知覚を伝達する視覚組織のしくみ等々を解明するだろう。 空間的関連、あるいは別な関連において、ある知覚に別な知覚が続く様子をたどることはできる。 そしてこれを概念的に表現することができる。しかし、ある知覚が不可知覚なものから生じてくる様子をたどることはできない。 諸知覚の間に思考的関連を見出すこと以外の努力は当然ながらありえない。

▲概念の厳密化:知覚表象とは30~31

■05-30:知覚が継続化され知覚表象となる

さて、知覚とは何だろうか。 これを一般論として問うと漠然としている。 知覚とは常にある特定の具体的な内容を持つ。 そして、この内容は直接的に、しかも何も余すことなく与えられる。 何も余すことなく与えられるものが、知覚以外にも存在する。それは思考である。 ある知覚が《何》かと問う場合、その問いは対応する概念的直観に向かっていくだけであろう。 この視点で見るなら、批判的観念論の言う知覚が主観的か否かといった問いは出てこない。 主観的と見なすことが許されるのは、主観に属すると知覚されるものだけである。 主観と客観とのつながりを作るのは、素朴な意味での現実的プロセス、つまり知覚可能な出来事ではなく、思考である。 つまり客観とは、知覚されるにしろ知覚主体の外に知覚されるものである。 目の前にあった机が私の観察領域から消えても、知覚主体は知覚可能であり続ける。 机を観察することで、私の中で、これもまた継続的なある変化が生じた。 つまり、後になって再び机の像を作り出す能力が私の内に残る。 像を再構成するこの能力は私と結び付き続ける。 心理学ではこの像を記憶表象としている。 そしてこの像だけを、正当な意味で表象と呼べる。 これには私自身における知覚可能な状態変化が対応している。つまり、視野内に机が存在することによって生じた状態変化である。 さらに言えば、この状態変化は、知覚主体の背後に存在するとされる《私それ自身》の変化ではなく、知覚可能な主体の側での変化である。 知覚地平上にある外界事物の知覚が客観的であるのに対し、表象は主観的な知覚である。 この主観的知覚と客観的知覚を混同したことで、観念論は「世界は私の表象である」と誤解してしまった。

■05-31:次は表象をより詳しく見る

次の章ではまず、表象の概念をより明確に規定しよう。 ここまでも表象について取り上げてきたが、それは表象の概念ではなく、表象が知覚領域のどこで見出されるかの道筋を示しただけであった。 より正確な概念で表象を捉えることで、表象と対象物との関係をより満足のいくかたちで明らかにできるだろう。 これによって私たちは境界を越えていくことになるだろう。 つまり、人間の側の主観と世界の側の客観との関係を認識という純粋な概念領域から、人間的な個の具体的な営みへと降ろされるだろう。 世界において掴むべきものを知れば、それに向かうのも容易になるだろう。 世界に属し、そこに私たちの活動を向ける客体を知ったときにはじめて、私たちはそこに全力を傾注できるのである。

★1918年新版への補足

■05-32:形成される考えが順次発達する

ここで取り上げてきた観方は、人が自分と世界との関係を熟慮し始めたときに、自然な成り行きで進む観方の一つと言えるだろう。 そこでは考えを自分で組み上げつつ、自分もその思想形成に組み込まれ、またそこから解放されることがわかる。 こうした思想形成は、単なる理論的反論に留まらない、それ以上のものを含んでいる。 この思想形成によって導かれる混乱を洞察し、そこからの出口を見つけ出すために、思想形成を生き通さなくてはならない。 人間と世界との関係を議論する際には、こうした思想形成は避けることができない。 しかし、この関係についての正しくないと思われる見解を否定するために必要なのではない。そうではなく、この関係についての熟慮において陥りうる混乱がいかなるものかを知る必要があるからである。 最初に熟慮したものとの関連で、どのように自分自身を否定し、乗り越えていくかという点の洞察が必要なのである。 上述の事柄は、そうした意図で述べられている。

■05-33a:世界を表象と見る必然とそれによる現実からの乖離

人間と世界との関係についての観方を築き上げていこうとすると、世界の物や出来事についての表象を作ることで、最低でもこの関係の一部を作り出していることに気づくだろう。 それによって外の世界に向けられた視線が自分の内面の表象的営みに向けられる。 すると自分に言い始める。「もし私の内に該当する表象がないと、私は物や成り行きとかかわることができない」と。 この事実関係に気づき、さらに一歩踏み出すと、「私が体験するのは私の表象だけで、外の世界を知りうるのは、その世界の表象が私の内に存在するからだ」という見解に到る。 この見解になると、世界と人間との関係を考え始めた際の最初の素朴な現実の立場からは離れる。 この立場から人は、現実の事物とかかわっていると考えていた。 ところが、自己省察によってこの立場から追い立てられる。 自己省察によって人は、素朴な意識では目の前にあると考えていた現実が見えなくなる。 自己省察からは表象しか見えない。そして、この表象が自己の構成要素と現実世界との間に割り込む。この現実世界は素朴な立場からは現実と主張できると思われていた。 しかし人は割り込んだ表象を突き抜けることができず、そうした現実はもはや見ることができない。 この現実に対し自分の目が閉ざされていると仮定せざるをえなくなる。 こうして認識的に到達不可能な《物それ自体》という考えが生まれた。

■05-33b:「世界は私の表象」は必然的帰結であるが、展望もない

……人間が表象を介して世界と関係を取り結んでいると考えているかぎり、この思想形成から抜け出すことはできない。 認識への衝動を人工的に押し殺さないかぎり、現実が素朴に存在するという立場には留まり続けることはできない。 人間と世界の関係を認識したいという強い欲求が存在すること自体が、この素朴な立場から離れなくてはならないことを示している。 素朴な立場で真実が認識されるなら、そこから離れようとする衝動を感じることはない。

■05-33c:《物それ自体》《私それ自体》は素朴実在論的に想定された

……しかし素朴な立場を離れても……気づかぬうちに……押しつけられた素朴な考え方を持ち続けていると、真実とは呼べないものに陥る。 「私は私の表象だけを体験し、それで現実とかかわっていると信じる一方で、私に意識されるのは現実についての諸表象だけである。それゆえ私の意識領域外にまず《物それ自体》という現実があると仮定する。それについて直接には何もわからないにしろ、それは何らかの方法で私に近づき、作用を及ぼし、私の内に表象を喚起する」、というのがその誤った考えである。 こう考えることで、眼前に存在する世界の他に、思考内にもう一つ別な世界をつけ加えている。しかし、この新しい世界については、もう一度初めから考え直す必要があるはずである。 なぜならこの未知なる《物それ自体》と人間自身の存在との関係では、素朴実在論における考え方がそのまま流用されているからである。

■05-33d:素朴実在論的に成り立つ《思考》が混乱から脱する鍵

……次のことに気づくと、こうした観点から批判的に熟考することで生じる混乱にも陥らずにすむ。 つまり、外界の出来事と観察者の間に表象を差し挟んでしまうという悲劇から助け出してくれる何かが、自らの内面と体験可能な外界の範囲内に存在している点に気づくかが鍵を握っている。 そして、その何かとは思考である。 思考では、素朴実在論的立場を取り続けることができる。 人はそれをしないし、その理由は、別な状況においてはこの素朴実在論の立場から離れざるを得ないことに気づいたからである。 しかし、その根拠となる洞察が思考には当てはまらない点を見過ごしてしまった。 ところが、この点に気づくと別な洞察の可能性がひらける。 つまり、自分と世界との間に表象を差し挟まざるをえないがために見えなくなっていたものが、思考の中で、そして思考を通して認識されるはずなのである。

■05-33e:ハルトマンによる批判は実は彼の慧眼

……著者が高く評価している人物から、思考についての私の論考では、思考的な素朴実在主義に留まっていて、あたかも現実世界と表象世界を混同しているようだというご批判を受けた。 それでも著者は、思考を囚われなく観察するなら、思考が《素朴実在主義》的に成り立つこと、さらには思考以外では成り立たない素朴実在論が思考本性の真の認識によって克服されることをこの論考で証明したと思っている。

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